全49件 (49件中 1-49件目)
1
「仏陀」釈尊の臨終(原始涅槃経)本当に釈尊が語った語録集 釈尊の死因が何であったのかは不透明ですが、釈尊を敬礼する鍛冶屋の青年が供養として勧めた「きのこ料理」にあたって死を早めたとする説が、最も真実性があります。しかし、其の事で釈尊は一言も彼を責めてはいません。 また、臨終は密集した沙羅樹林のなかの空き地であり、比丘を含め数人の弟子が付き添っていただけのひっそりとしたものでした。釈尊の遺体は火葬に付され、その遺骨は八つに分骨され、各々信者たちが持ち帰りました。と、本当に釈尊が語った語録集(原子涅槃経)では語られています。それに対して現在の我が国の仏教は大乗仏教であり、釈尊の口をを借りて自己の考えを語らせた創作経典なので、偽経と呼ばれることがあります。
2011年11月29日
コメント(0)
水族館の人気者シャチさんや海豚くんは、いつも持ち前のジャンプ力とその頭の良さで私達を慰め、楽しませてくれています。でも鯱さんを怒らせるとカルフォルニアの飼育員(彼は、自分の鬱憤晴らしの為、餌をやらない等の行為を繰り返していた。)のように、ガブッと2箇所に分断されるので御用心。正面から見たあの顔の丸さは、顎のチカラを示すそうです。ライオンさんや寅さんも皆、顔が丸いです。あの硬い華桔竹を喰うパンダさんも顔は真ん丸。それより何んと言ってもジョーズに出て来るホオジロザメ、私は2度お目にかかりましたが、金さん銀さんの様な微笑みに見える口を半ば開けての顔の丸いこと々、驚きよりもぶっ飛んでしまいました。但し此処に一言、素潜り12mでの出来事です。
2011年11月29日
コメント(1)
「神」に対する一偏見 一般に人間は、自然が何等かの方向性をもっていると考える傾向があります。増して信仰を抱く人々には、「神」自身が我々を一定の目的に導いて下さると確信する傾向が観られます。彼等は「神は全てのモノを人間のために造り、自己を尊敬させるために神に似せて人を創った」と。彼らは人間に神々が、尊敬と感謝を義務づけていると信じる傾向があり、神が他の人以上に自分を愛してくれる様に望んでいます。 しかも、自然が地震・暴風・病が起こせば、人間が神に加えた侮辱故に怒ったと理由づける傾向があります。もし、神が目的的に働くとすれば、神には欠損があり、それを欲求している事に成ります。之こそ、完全絶対存在「神」に対する侮辱となりましょう。
2011年11月29日
コメント(0)
「仏陀」呼称の定義と輪廻転生 総べての創造結果は、原因に在りて予期されたものではなく、まったくの不定結果だと、釈尊は語る。なにものが生まれ・出現・発生するかは、たとえ神が居たにしても予想が出来ない。発生・盛衰・消滅の家庭は、円環的に繰り返される。此の輪廻転生から離れる事を達成することが、教えの究極の目的であり、覚りとなると説かれます。 此の「輪廻」と云う繰り返される流転の呪縛からの解脱を願い人は修行する。そして修行が成就したとき「輪廻」を離れる(涅槃)。此の達成者の方々が「仏陀」と呼称される事と成ります。
2011年11月28日
コメント(0)
「神」の定義(6)我々精神の最大最終の統一者 神は宇宙の意識であり精神の表現です。宇宙に内在する我々の精神意識も、神の一部であることは、疑えない事実です。現代物理学も宇宙の法則性を考察する時、何等かの統一力を考えねば根底たる現象を解決することはできません。神は宇宙の人格的表現だということです。時間・空間は宇宙意識に因って生じるのであって、故に、時間・空間は神によって創造されたものとして考察されます。神は時間を超越するがゆえに凡てが現在です。神は永久の現在(今)に在るとも言えます。個々の人間精神はその神の意識表現の表象と捉えることも可能でしょう。 凡そ、森羅万象統べてが神の表現で、自己の外にモノ無きがゆえに神の自己意識の存在は(個々の人間の自我の如くには)全く在りません。
2011年11月28日
コメント(0)
「女性の美の定義(1)」 女性美の定義は、人それぞれであり、定義すること自体難しく想われます。無理に定義すれば「女性がなりたいと思うような女性」男性でないことに注目。
2011年11月27日
コメント(0)
「Bigbang(膨張するチカラ)」を産み出した源(1) 「Bigbang」を産み出したその源には、絶対の増大しようとする意思と霊力が見え隠れします。それ故に宇宙は、極大であり、極小であり、無限大であり、無限小であるとも言えそうです。此処で、「宇宙を産み出したBigbangなぞに究極の意思や精神など存在する筈がない。」「Bigbangは、単に、物理学的な現象に過ぎない。」とおっしゃる方にお伺いします。旧教ではシナイ山に神格があり霊山としています。イスラム教に在っては太陽を、同じく我が国に在っても太陽神天照を信仰の対照とされる方々が数多く居られます。其れ等全てを産み出した絶対無限のチカラであり意思である宇宙の創造神が、何故、単純な物理現象と捉えられるのでしょう。
2011年11月27日
コメント(0)
「仏性」の存在とその本質 仏(娑婆に生まれた古代物三人、釈尊の同時代の先輩三人に釈尊を加えた七仏)は、その存在と仏性は同一です。言い換えれば、仏性は永遠で、総べての存在にあり、その存在を否定する事は自分自身(我が身)をも否定する事に繋がります。生誕と同時に仏性を有し、その仏性の永遠なる恩恵に浴したいとするのは、人間の自然感情かも知れません。しかし、ここで竜樹菩薩の空論が頭を擡げます。仏の存在を認めるならば、空は無くなります。但し、仏そのものを空とすれば問題は解決します。
2011年11月26日
コメント(0)
「神」の定義(5)因果律による神の存在性 一般に、結果にはそれを生ぜしめた原因があり、その原因もその原因を生起せしめた原因があります。要は、原因は次の結果の生起までは結果であり、結果は次のものを生起したら原因となると云う、俗に言う因果説ですが、此処に例外があります。他の如何なるものからも生起した者ではない唯一絶対の究極の自己原因、竜樹の縁起説によって因果律を否定された創造主「神」の存在が浮かび上がって来ます。
2011年11月25日
コメント(0)
「因果」を唯物観から観想 古代、インド思想のなかにも初期唯物観があります。この世界には、原因・結果などの因果応報などは、一切無い。モノは在るべくして在り、滅ぶべくして滅ぶ。まして善幸・悪行の報いなど全く此の世には存在しない。世界を、此の世・彼の世と区別しても、その様な区別は存在しない。肉体を持った人間は、その組成分は其々の本体(骨肉は土に・水は水本体へ等々)の要素に帰り、善者も悪者も身体が滅ぶと断滅し、滅亡し、死後には存在しない。要するに、自己の人間性を示す証跡は何も残らないと結論付けます。虚無感に陥ること確実の思想です。しかも、此れが現実性を持つ可能性がある事も事実です。
2011年11月25日
コメント(0)
「神」の定義(4)神の捉え方二論 一方は、神は宇宙の外に在る絶対の超越者で、外より全ての世界・自然を支配し、人間に対しても外から働きかける。他方は、神は、自然に内在的であり、人間は神の精神の一部であり、心の中で神の精神と接触することが出来得るとするものです。 超越的神が宇宙の外に在って世界を支配するとする考えは、我々の理性が容易には受け付けてはくれません。神が自然の摂理に存在性を有し、人が自己の根底に於いて神を観、また無限の暖かさに触れるとするのが、仏教やその他の宗教観に近いでしょう。神と人間はその性を共通し、限りある生命を持つ人間が、神に在ってその本体に帰すとするのが理に適っています。
2011年11月24日
コメント(0)
[悉達多の釈尊への道(1)]矛盾への怒り 釈迦国皇太子悉達多は、或る時偶々処刑場で、奴隷の若い母親とその子が炎の中へ突き落されるのを目撃、理由を尋ねると、「菓子を子供がくすねたの故、処刑。」当時のカースト制度にあっては、罰刑の軽重もカースト身分に因って異なりました。カーストとは、バラモン教の掟で厳しく規定されて居りました。その時、皇太子悉達多はバラモンの神々への怒りが、憤怒となり紗門(階級に属さない者・部外者)と成るべく、多重層の王宮の城門を出る度に、冠を捨て、次の門では玉輪を捨て、幾多の門を越えた時には褌のみ、それも門前の乞食に引っ手繰られ、身に着くものも無く王宮から出られました。夕暮れを待ち、畑の糞尿溜りに打ち捨てられた布切れを、木針をもって袈裟を作られました。
2011年11月23日
コメント(0)
[無我の境地]見性 我々の真の自己は一体何ものなのか。それは宇宙或いは、それを超越した絶対意識であり本体です。自他の意識を離れ本体と融合すれば、真の自己を知り始めて主客合一の境に到るのです。此れをキリスト教では再生(復活)と言い、仏教では見性と言っています。禅師のお書きになる「一円形」は、此の境地を現されたものなのでしょう。
2011年11月23日
コメント(0)
[無念無想の境地] 人は、禅修行によって、無念無想の境地に入り「無我」「無私」に入ることが出来るとされて居ます。無我・無私とはナニモノを云うのでしょう。それは、一切の自らの経験を離れ、自然を直覚「直接経験」することと捉えます。全ては縁に依って成り立っている、或いは、無限の絶対意思に従っていることを実観(観想)することだと云えましょう。但し、凡人には禅をくんでる間だけの束の間の覚りにしか過ぎません。
2011年11月23日
コメント(0)
「神」の定義[3]神の無限性 我々が「無限」を考察する時、最初に頭に浮かぶのは「宇宙」でしょう。しかし、現代物理学における「宇宙」は、物理学的観点から「宇宙は物質・エネルギーを含む半径約460億光年の球状の物質で、時間とともに膨張または収縮する時空連続体の纏まりである。」と結論付けています。即ち、宇宙は一定の範囲をもった「有限体」だと云う事です。それでは当然に有限な宇宙の果てのむこう(外側)に疑問を抱くことは、人の当然の反応です。若し、外側には何も無く「無」だとするならば、空間も何も無いところに、宇宙が膨張または収縮する事など不可能なのが成り行きでしょう。 此処に、何がしかの「無限のチカラ」「絶対の有」を考える必要に迫られる余地が発生します。此処に「実体」には当然に存在有が在る事実の否定の不可能性が出て来ます。この無限のパワーの源泉こそ「神」です。
2011年11月22日
コメント(0)
[釈尊の悟り(覚り)] とある法事の席で、お経を謳い終わられた僧侶に、今は、故人は何処に居りましょうか。と尋ねた処、自分が「経」を詠んでさしあげたので、悟りを得て極楽浄土におわします。何んと有り難いお言葉でしょう。故人は常に、仏教は抹香臭くて大嫌いだ言っていた御仁を、お経で悟りへ導くとは驚きの極み。そこで、「私の様なものでも、生前に悟りを得ることができましょうか。」とお聞きしましたら、侮蔑の一睨み。 覚りを得ていない修行僧に、お経を挙げて貰った位で「成仏」出来るくらいなら、釈尊は修行する必要はなかったでしょう。「覚り」の意味を御存知なのでしょうか。釈尊は、35歳のとき菩提樹のしたで覚りを得たとされて居ますが、「何」を覚ったのしょうか。創造主による世界創造説が定説の時代に、世界に在るものは、何一つも創造主に因って生成・消滅するものはなく、全てが「縁りて起こっている」という真理を覚られたのです。大聖に感謝。
2011年11月21日
コメント(0)
「神」の愛アガペー(絶対であり完全なる愛) 神が、此の宇宙の源泉であり、その意思体で在ることは、此の宇宙に内在して居る人間としては、否定は出来ない現実です。では、貴方は神の一部、例えれば、髪の毛のフケの様な存在なのでしょうか。否々、たとえフケ(雲脂)で有ろうと無かろうと、貴方も神を構成している内在的存在です。貴方が運命に迷った時、神を愛する心さえあれば自己(神)への愛として受け入れて下さいます。
2011年11月21日
コメント(0)
[日本の神(神道)の考察] 神道とは、恐らく縄文・弥生の太古から信仰されてきた、我が国固有の文化に起源を持つとされる宗教です。世界の宗教が、多くは何教と称しますが、我が大和民族(当時の世界では稀な混血人種国家)は、伝統的な民俗信仰・自然信仰を神教ではなく「神道」と捉えています。 神道には明確な教義や教典も無く、『古事記』、『日本書紀』、『古語拾遺集』等の古典を規範としています。森羅万象に精霊が宿ると考え、天津神・国津神や祖霊をまつり、祭祀を重視する世界の宗教とは、際立った特徴を持って居ます。 那智の滝・木曾のの御嶽山等々、日本人の自然信仰は「八百万の神」処ではなく無数の神々が居られます。実は、此れが日本人の宗教観であって、わざわざ、存在哲学・形而上哲学のアウグスティヌスやスピノザを待つまでもなく「自然物は総べて神が創り給うた」ものであって精霊(神の意思)が宿っている。西田幾太郎の所謂、超汎的直覚を日本人が古来から持ち得たのは「神道」のおかげでしょう。
2011年11月20日
コメント(0)
[仏教僧侶への警告]その一 私は何時も、僧侶の経文を謳う声には、敬虔になり、また、有り難がっております。但し、意味も無く経文を謳う(喉から絞り出す声)僧侶が居られる事には、辟易されます。現時の寺院の多くが「寄進」や「お布施」文化物保存の為と言って、駐車場や入場に料金を課しています。本来、僧侶とは、業を離れた御方を指して言います。お釈迦様の教えの中には「経営学」は御座いません。道元禅師の僧侶としての心得を、今一度思い起こして下さる事を、真に祈ります。
2011年11月20日
コメント(1)
「神」の定義[2]神の永遠性 万物の究極の存在であり原因・結果である神は、必然的に唯一の存在として「永遠」です。何故なら、その存在が真理として疑いを挿めない以上、「神は永遠の真理としての存在性」を有します。始めも終わりもない自己原因であり、時間や運動から絶対超越した無限の存在が神の本体だと云うことです。 我々凡人は、神の本性を人間の本性と混同し、徒に、人間的感情を神に賦与し、神が怒るとか裁くとかの思考を投影しがちですが、絶対意思・認識の完全体にその様な感情は、必要でないし、また存在しません。
2011年11月20日
コメント(0)
[釈尊の名の由来」 俗名「ゴーダマ・シッダッタ」が何故、釈尊と称される様に成ったのかは、その正式名「釈迦牟尼仏世尊」(釈迦族出身の・聖者で・真理を悟った人であり・世間に在って最も尊敬に値する人物{世尊は、韓国ドラマのイ・サンでお馴染みの呼称})の意味を考慮すれば、肯けます。釈尊を一般には、釈迦と呼びますが、此れは、種族の名称であり不適切です。また、仏陀と呼ばれる御仁も居られますが、釈尊が仏となったのは、過去仏三人と釈尊の同時代の仏三人を数えて七番目です。この点から考えても仏陀=釈尊とすることは不適切です。
2011年11月19日
コメント(0)
「神」と「佛」の根本の定義上の相違[閑話休題(3)] [1]神は、究極的な原因で、絶対意思を持った万物の原因であり結果です。形有るものは「宇宙であろうとも、エントロピーに従って、滅亡に向かって進んでいます。」滅びます。しかし、神には形体などは存在しない究極の意識です。勿論、派生的様態である宇宙・自然・人間精神により神の存在を直覚(理性ある直観)する事はあり得ましょうが、形態を想像すること自体、宇宙・自然に内在している人間が観想する事の不可能な実体であると云えましょう。 [2][佛]とは、人(syaka国の王子悉達多)として娑婆世界に誕生され、過酷な修行を経て、自然の理を悟られて衆生を救済する釈迦牟尼仏と呼称される仏に成られた御方です。但し、釈迦自身は自然の理念を悟られましたが、絶対的常態を実体とする神を、認められてはおりません。その思想が後年、「空観」を根底にする竜樹菩薩を基とする大乗の教義に取り入られていく事と成ります
2011年11月18日
コメント(0)
BBC Newsは2011年11月16日に、インドのBollywoodの女性スーパースターであるアイシュワラヤ・ライ・バッチャン(Aishwarya Rai Bachchan)が女の子を産んだと、夫の俳優アブヒシェック・バッチャン(Abhishek Bachchan)がTwitterで発表しました。。インド中がドンチャン騒ぎの大祭り。義父ボリウッド伝説の俳優アミタブ・バッチャンも騒ぎ回って、私は最もかわいい女児のダダ(祖父)です。Twitterで発言しています。 赤ちゃんは、インドの都市ムンバイのSeven Hills Hospitalで2011年11月15日火曜日の早朝に生まれました。この女の子は、彼女にとって最初の子どもです。 彼女は、最初に21歳で1994年にインドのミス・ワールドに選ばれ、2003年には、カンヌの審査員として、最初のインド女優になりました。また、しばしば「ボリウッドの女王」と呼ばれ、Bollywood王朝を隆盛に導きました。「拍手」
2011年11月18日
コメント(0)
[世界に於ける神の在り方]の考察 「KAMI」は、旧教に在ってはモーゼの石板に十戒を刻印された神の炎の指、新教のキリストに於いては「光あれ」、イスラムに在っては太陽をシンボルとする神への敬虔な祈り、インドに於いての仏像の光輪やヒンディー神の金色の輝き等々、全てが[光り]に直結しています。 我が日本国の象徴の神様「天照大神」も天の岩戸隠れで有名な様に、光の神様です。地球上の宗教は何等かのカタチをもって「ヒカリ」に結ばれて居ます。此の一点をもって「こころ」の共通が産まれたなら、地球が救われます。
2011年11月18日
コメント(0)
私が、パソコンを何台か使用していて、何時も考えさせられるのが、人間スピード感覚の曖昧さです。皆様方の中にも、自分のパソコンが何か月か使用しているうちに、様々なシーンでパフォーマンスの低下を嘆いて居られるかも知れません。勿論、スピードダウンの原因がシステム自体に係わっている場合もありましょうが、恐らく、その大半の原因は、貴方がその速度に慣れてしまった事です。 例えば、蒸気機関車時代に特急つばめ号が出現した時は、乗客はその速度に呆れ・恐怖したものです。家電であるテレビが普及し始めた初期は、スイッチを入れてから画像が出るまで随分待たされたものです。今では、瞬間に画像が出ないとイライラする程です。 平安時代の宮廷貴族の女性は、牛車に乗って外出されておりました。京都の葵祭を観ますとモウ(洒落)止まっているとしか想われかねません。此れ等の例を挙げるまでもなく、人のスピード感は曖昧です。私は、ひょっとしたら中国新幹線事故も其れまでの列車からの飛躍したスピードアップによるものではないかと疑っております。
2011年11月17日
コメント(0)
[「佛」につての定義[閑話休題(2)] 仏陀となった釈迦が、日本の肖像や仏像では、国風(くにぶり)文化で、穏やかでふくよかな御仁に描かれていますが、事実は修行者である釈迦は痩身ミイラ体型とも云われ、臨終は下痢を伴った腹痛に襲われ、体重は半減して逝去されたとも云われます。此の事は、仏で在る聖者も死を免れえないことを意味します。但し、それは、凡夫の死などではなく「最高の解脱、即ち、涅槃(完全解脱)」に入られ、其の後も、我々を見守って下さって居られます。
2011年11月17日
コメント(0)
「佛」につての定義[閑話休題] 釈迦は、我が国に在っては、活動的で福よかな御方として表現されますが、菜食主義者であり、節食を守る者としての釈迦がその様な姿で在ることはあり得ません。ゴータマ・シッタルダは、山で最後と云われる断食修行に精進してた時、偶々、通り掛かった山羊飼いの娘が、恐らくは、痩せ細った骸骨状態の悉達多を気の毒に思い、山羊乳を与えたものと思われます。菜食主義で在る筈の悉達多が、何故、素直に飲み干したか迄は解りかねますが、此れが「悟り」へと彼を導き、山を去り里へ下る事と成りました。
2011年11月15日
コメント(0)
「神」の定義[1][1]「神」とは、全ての物質・精神・運動(時間も運動として仮定)の素因であり、実体である。それ故、神の力は無限である。また、神は我々人間の精神をも包括する万有の原因です。そして、神は万物を自己の本性のみによって(意図等は、完全体である神には、そもそも在り得ない。)、必然として生せしめ、世界には偶然なもの等は全く無く、全ては神の内在的原因から生じて居ります。即ち、万物には偶然なものなど皆無であり、万物は神の決めた在り方以外、選択する余地は残されて居りません。若し、貴方が自己の精神が自由だと想われるならば、それは貴方をそう駆り立てる内在的原因への無知を示しています。
2011年11月15日
コメント(0)
俺は、HINDI-WORLD に産まれたかったね。何故って?、そら、ミロのヴィーナス級の美女を探せば、幾らでも居られる御国柄ですから。特にロマ(ジプシー)によく似合うNOSE PIASはHINNDIが御本家、嘘だと思うなら、Aishwarya Raiを観てから答えて下さいね。
2011年11月14日
コメント(0)
「佛」(仏陀)の定義・公理・定理とその証明の前文 佛とは、基は「人間」として誕生した者が、修行を以って悟りを開き、宇宙・自然の理を身に着けた「非人的存在」と成ったものを指します。此れが「絶対的自己原因たる実体(神)」との大きな違いです。仏教を開いた釈迦を唯一の仏陀とするのが基本です。 しかし、時代を経て仏陀の思想を、更に推し進めたと云える大乗思想では、釈迦以外にも数多くの仏陀が大宇宙に存在していると説かれて居ます。其れ等の何れの思想にも、輪廻を超越する唯一神「自己原因たる実体(神)」の存在を認めないことは共通しています。 佛を信じる事と、神を信じる事は、信仰と云う面では同様に観えますが、根底とする思想が全く異なって居ります。
2011年11月14日
コメント(0)
「神」の定義・公理・定理とその証明の前文 「神」とは、自ら存在する唯一の究極の原因です。その他に自ら存在するものは在り得ません。超越者たる神は自然や宇宙・次元・時間の制約等は、一切影響を受け付けません。其れを創り給うたのは「神」御自身だからです。そして、絶対意思(完全なる意思)を以って(自身意識される事なく)この世界を自己として受け入られて居ります。 人間が本来、善で在るのかどうかは、、神への存在の真なる認識と愛に尽きます。富・名誉・快楽等への欲望は、その「認識と愛」への欠乏を示しています。神への存在の真なる認識は善(喜び)そのものであると云えます。すべての原因の究極原因たる神を直覚すれば、真理が捉えられ、善そのものによって、執着からの解放と喜び「幸福」が得られます。
2011年11月13日
コメント(0)
弥勒は、ゴータマ・シッダルタ[最上の聖なる牛]・[目的の実行]が悟りを開き、仏陀に成られた後に、人間界に現れるとされる菩薩(修行者)で、悉達多の入滅後56億7千万年後の未来に姿を現されて、多くの人々を救済するとされている人物です。それまでは兜率天で修行しているとも云われ、中国・朝鮮半島・日本にあっては、弥勒菩薩の兜率天に往生を願う信仰(上生信仰)が流行しました。そして、その出現は56億7千万年後とされています。この気の遠くなる年数はインド独特の誇大年数であり、釈迦入滅後3000年と数える御仁も居られます。 弥勒菩薩は沙門として娑婆世界に出現して、のち竜華樹の元で悟りを得て、説法を行い多くの人々を救われると言われます。此の時点から真の「弥勒如来・弥勒仏」と成ります。 しかし、弥勒(名前は、佐藤さん、鈴木さんかも知れません。)は自己が菩薩であり仏と成る事実を知りません。それを自覚したときには執着となり、最早「弥勒菩薩・弥勒如来・弥勒仏」では無くなります。
2011年11月12日
コメント(0)
神は絶対の存在・意識・認識存在です。それは、自然、宇宙までもが彼の存在無しには考えられないということです。神の愛は人間の愛とは程遠く「アガペー」と呼ばれます。では、彼は意思を以って、我々が云う処の存在を創造したのでしょうか?。 それは、在り得ないことです。何故なら神は完全であり、意思を以って何かを創造する事など全く必要としないからです。恐らくは、神自身その事を認識などしていないのに違いありません。また、彼は絶対の愛を以って自己を愛しますが、人間を意識して愛するなどと云うことは、在り得ません。但し、我々が神を愛するのは、神の延長様態として最高の幸せとなることは断言出来ます。 一方、仏は、人として生まれ、絶対世界の理を悟られ人類救済の本願を決意されたお方です。故に、仏は仏心として皆様に偏在して居られます。只、それに気付く方が少ないのを気懸かりとします。
2011年11月11日
コメント(0)
アレグザンダーは、征服地各地に、アレクサンドリアと呼ばれる多くの都市を建設、征服国の宗教をそのまま認め、ギリシャ世界とオリエント、果てはインド北部までに於いて、人種や文化の一体化を推し進めました(インドにトビっきりの美男・ヴィーナスまがいの美女が居られるのは多分ギリシャ系の血統でしょう)。 エジブトの地アレクサンドリアに戻っていた彼は、再度の東征を試みます。しかし、故国に家族を残した兵士達は戦いに疲れ果てており、或る時、アレグザン ダーは毒酒を盛られ暗殺されたのではないかとも云われて居ります。 彼の死後,その領土は分裂してしまいますが、ローマ帝国の勃興まで,経済と文化の繁栄をもたらしました。そして、彼の最後の血統王朝であるプトレマイオス朝の女王「クレオパトラ」の死によって命脈が尽きました。
2011年11月11日
コメント(0)
前334年、40倍の軍勢のペルシャ帝国軍を一日にして壊滅したアレグザンダーは、更なる、東征の勢いを駆ってガンダーラを征服した頃、既に、その伝聞がインド北部の各王国に知れ渡っていました(恐らくは、此れもペルシャ帝国のときと同様の軍事的な情報戦術であり、諜報兵をインドに赴かせたのだと想わせます。)。信仰を味方にする事の重要性はペルシャとの戦いに於いて経験済みです。インド北部の各王国は、急ぎ、同盟軍30万の兵士でもってアレグザンダーにあたることとしますが、混成軍であり、また、肖像画まで見た宗教者等が、「毘沙門天」が、インドを懲罰に来るなどと喚く者数多く、初めからの負け戦でした。 その後、ガンダーラの宗教彫刻の毘沙門天はアレグザンダーをモデルとすることと成ります。
2011年11月10日
コメント(0)
アレクザンダー大王(紀元前356~前323)は、世界史に於ける輝く金字塔、古代マケドニアの大英雄ですが、その在位は、僅か(紀元前336~前323)13年間です。東方遠征より、空前の大帝国(サラセン帝国)を建設、此処に、ヘレニズム文化が花開きました。 前4世紀、ギリシャ全土を征服したマケドニア王フィリッポス2世の子で、アリストテレスが家庭教師を務めました。弱冠19歳で王位を継ぎ、前334年、40倍の軍勢のペルシャ帝国軍を一日にして壊滅したと伝えられた居ます。此れには、アレクザンダーが知って居たのかどうかは、解かりませんが、ペルシャ人の信仰が彼に味方致しました。ペルシャ軍は各征服国の強制徴収の混成軍であり、何時か、白き輝く御方が我々を解放して暮れるとの信仰がありました。 そこに、白銅の輝く鎧と翼あるヘルメスの兜を纏ったアレクザンダーが、灼熱・日照のギラギラする砂漠の頂に現れたものですから、輝くこと、神そのものに思えました。総軍既に、戦う気はなく総崩れとなったのも当然です。彼の軍事的才能は、勿論の事、非凡には違いないのですが、情報・心理戦略に於いても、史上比類なき天才的なものがあります。
2011年11月09日
コメント(0)
閻魔とはヒンドゥーでの「ヤマ」本来はインド・イラン共通時代にまで遡る古い神格で、アヴェスターの聖王イマと同起源であるといわれます。人間の祖ともされ、ヤマとその妹ヤミーが兄妹婚により最初の人類が生まれ、その子が人間で最初の死者となったが為に、死者の国の王となったと云われます。インドでは、古くは生前によい行いをした人は天界にあるヤマの国に行くとされていました。 「ヤマ」は、死者の楽園の王、死んで天界にある祖先を支配する神と考えられていました。後世には、黄色い衣を着て頭に冠を被り、死者の霊魂を縛り、死者を裁き、地獄に落とす恐るべき神と考えられる様になり、下界を支配して死者を裁き、地獄に落とす恐るべき神と考えられる様になりました。ヒンズー教の神々も、此の荒々しい滅びをもたらす神を扱いかね、疎い、嫌い、また恐れていたとも云われます。 また本来、「ヤマ」は死者を見守る存在だったのですが、紀元前1000年頃のヴェーダの注釈書「ブラーフマナ」では書かれる頃には不吉で破壊的な神、人間を罰する者となりました。 ところが、日本仏教においては地蔵菩薩(地蔵菩薩は地獄と浄土を往来出来る)が閻魔の本地とされ、永劫の苦しみを救う仏として閻魔信仰が広く布教されるようになりました。閻魔は、二面観音とも云えます。後面は、慈悲ナンバーワン、たとえ、永劫の地獄に陥ったものさえ救うと請願されたお方です。そして、人類救済の切り札とも云える「弥勒」の生誕を待って居られます。閻魔様を拝む際は、後ろにも廻ったほうが良いかも知れません。 但し、前面の閻魔大王は、傍らに青鬼(馬頭神)・赤鬼(牛頭神)を従え、嘘をついた者の、舌を引き抜くのを待って居られます。
2011年11月09日
コメント(0)
一闡提(いっせんだい、一闡堤)は断善根、信不具足と訳され、仏法を信ぜず誹謗する者を指し。成仏が不可能な者とされています。釈迦は純陀に対して以下のように一闡提を説明している。「若し、僧侶や信徒が教えを誹謗中傷しながら悔いることなく、心に懺悔を持たず、四重禁を犯し五逆罪を作ってもこれを全く恐れず、嘘ばかり吐いて周囲を惑わし、悪に染まった心を立て替えず、仏法を信じないばかりかこれを公然と言うものを一闡提という」 仏教とキりスト教に於いては、「一闡提」これは要するに提婆達多のことであり、聖書にあっては、イスカリオテのユダに当たります。しかし、ユダはキリストを裏切った後に自殺、後の救いなどは一切ありません、法華経等にあっては、一闡提は成仏しない者とされるが、一闡提でも仏性は有るので成仏できる救済の可能性も無くはないと、救済の可能性を残すものもあります。 此れが、キりスト教に於ける「法償論」と仏教の「衆生本来仏なり」の根本的法論の違いかもしれません。また、自らの誓願により、成仏しない「地蔵菩薩」等は、「一斉衆生を救うため、自ら成仏を取り止めてあえて闡提の道を取った仏」として、一般の闡提と区別して大慈大悲闡提と称しています。 また、提婆達多が釈迦に仏法の改革を助言した為に、排斥誹謗され袂を別った様に、「イスカリオテのユダ(Judas Iscariot)」もイエスの言動に、ユダヤ民族の存亡の危険性を観て、聖書とは逆に、イエスを見限ったのかも知れません。とかく、宗教にあっては、同時代の異端者には、殊更、厳しく扱い罵っております。
2011年11月08日
コメント(0)
リュウケンに、お前がこれより第64代北斗神拳の伝承者となる。と、聞かされてケンシロウはラオウやトキより、力・技共に劣る自分が何故伝承者なのか。まして、兄弟達から軟弱・優し過ぎると言われるこの性格も、暗殺拳の使い手には相応しくない様に自分には思えました。 だが、、リュウケンこう言い放った。北斗神拳は死神の拳、死神は私情ではなく、世の為に人を殺す。死神でありながら、人間であり続ける事が出来得るのはケンシロウ、お前しかいない。それが、リュウケンの聞いた天の声であった。「お前は、もう死んでいる」イイ々。 貴方は北斗四兄弟 「ケンシロウ ・ラオウ ・ トキ -・ジャギ」のなかで誰をお好みですか?。因みに、ケンシロウは、身長185cm・体重100kg・胸囲138cm・腕回り48cmだそうです。
2011年11月07日
コメント(0)
イエスは自殺したのか、はたまた、他殺なのか?イエスは何故十字架に架かった、或いは架けられたのか、勿論の事、人間が神との契約に違反したことに素因があると云えましょう。また、イエスを単なる、宗 教者として捉えるのには問題があります。イエスには反ローマ勢力の象徴であった事実があることも重要な問題です。此処に、イエスがローマの法に照らして処 刑された理由がありそうです。 イエスは最後の晩餐に至るまで、「自己の死」を、何度も弟子達に向かって予言しています。自己の[死の運命]を予 期・覚悟をきめていたのか、はたまた、十字架に架けられるとまでは考えていなかったのか。若し、予期し、それでも死に赴いたのなら、ソクラテスや日本の神 風特攻隊員(彼等は、家族の為、国の為、己を殺す覚悟で飛翔し海の藻屑となり果てました。即ち、或る種かたちを変えた自殺です。)と話は変わりません。 ところが、イエスが十字架に架けられたその時の、叫びは何だったのでしょう。「父よ私は、何故に磔に架けられねば、いけないのですか。」、此の言葉を、三 度叫んだと云われる状況は、他殺を暗示しています。ユダヤ律法会・ローマ帝国・「父なる??」、の何れかによる他殺を暗示して居ます。
2011年11月06日
コメント(0)
自然界には「現象は有るが実有(固定的な実体)は無い」とするのが、仏教の基本的な概念です。諸々の事象が単に依存に於いて成立して居るのであって「空ろ」なものとするのが、大乗仏教の主張です。 とくに、中観派は、更に、それを推し進め「何ものにも実体など存在しない。見せ掛けだけの現象に過ぎないのであって、本質などは何も無い。」と言い切っています。 「無」も「有」が在るからこそ存在し得るのであって、「有」がないのに、如何して「無」が成立出来得ようか。無と有を離れた「零」の世界にこそ、「空」即ち悟りの奥知があり、涅槃に入り得ると主張します。[「零」の世界]は無の世界なのではなく、「空」の世界だと云う事です。
2011年11月05日
コメント(0)
![]()
【選べるサイズ・梵字色】水晶梵字数珠ネックレス 虎目石/メノウ/紅水晶/インド翡翠価格:15,750円(税込、送料込) パワーストーンの中でも強いパワーを秘めていると言われる水晶、108の煩悩から解き放つ功徳を持つと言われる数珠、そして水晶に彫刻された梵字。この3つの守護神がクールで洗練されたデザインとともにあなたの胸元を彩ります。主珠は水晶8mmか6mmが選べ、あえて控えめな大きさに親珠に刻印された梵字は、シルバーとブラックの2色から選べるようになります。更には、2天珠に虎目石/メノウ/紅水晶/インド翡翠を選ぶことでより自分仕様のオリジナルお守りネックレスに仕上げることが可能です。
2011年11月05日
コメント(0)
仏教に於いては、「空」を悟れば、教理を理解できた事と成るでしょう。。それだけに言葉で空を説くことは言語道断であり、意識すること自体が空に執着することになると説かれています。 「色即是空(しきそくぜくう)、空即是色(くうそくぜしき)」という「般若心経」の言葉は、空の概念を表現したものとして捉えられ、また、好く読まれています。 インドにあっては、無であるとされる「零」が発見されたことによって、商業経済発展と宗教が興隆したことは歪めません。此の「零」の背後にあるものが「空観」です。「般若経」系の経典は、一切の物質的存在を否定しております。
2011年11月05日
コメント(0)
![]()
お洒落なデザインのアナログ惑星儀PLANETICA(プラネティカ)価格:7,000円(税込、送料別) フランスのデザイナー、ベルナール・ヴューアルヌッソン氏が製作した惑星儀。カバーの1回転が1年に相当、まわして年月を指定すれば、水星から天王星までの7つの惑星のその時の位置がわかります。外周には黄道付近の星座が描かれているので、惑星がどの星座にあるのかもわかるようになっています。
2011年11月04日
コメント(0)
宇宙は「物質世界」であって、有限である。しかし、宇宙存在が始めに在りきでは、それなら、何故宇宙がアントロピーに向かっているのか、我々の理性がそれを受け付けません。宇宙を越えたところに「絶対の世界」・「神の領域」があり、ここに宇宙存在の根源があり、その根源である存在[絶対である無限(infinity)] を取り入れてこそ、宇宙は、はじめて納得の行く存在と成り得ます。 即ち、数学上の「限りなく大きな無限と限りなく小さな無限」等は存在しません。まして、「零=無」などは、宇宙には存在し得ないと云えますでしょう。
2011年11月04日
コメント(0)
生きている存在が、一度死に、死者の存在する黄泉世界に下った後、再生するという説話は世界中に広く分布しています。このような存在としては、オシリス、アドニス、イエス・キリストなどがあり、女神ではイナンナ 、ペルセポネも死の国に行って戻ってきたされています。また、。我が国では、日本神話のイザナギの黄泉訪問が有名です。 とくに、キリスト教に於いては、「死と再生(復活)」は、教義の根本であり、否定する事は許されざることです。また、イエス自身についても、架空、若しくは、実在の人物で在ったとしても、復活に関わる部分は後世に加えられたとする説も有力です。 一方、インドに眼を向ければ、カースト制度のしがらみにより輪廻転生からの解脱が、民衆絶えざる願いでした。何しろ、泥棒・乞食にさえ階級制度があった程ですから、布施さえ出来ない民衆は、復活は恐怖でした。 此処に、ゴータマシッタルダ(釈尊)が歓迎された素因がありましょう。彼の根本的思想は、心安らかに過ごせば、転生を恐れることはないと云う事です。 西洋と東洋の宗教概念は、この様に、遠く隔だって居ります。
2011年11月03日
コメント(0)
![]()
かぞえうた SENSE プレゼント ギフトに最適 365日 STADIUM TOUR 2011 SENSE -in the field-ap b...価格:246,540円(税込、送料別)★Mr.Children 桜井和寿さん愛用のGUCCI18金オールホワイトゴールドセパレートクロスネックレスですNHKの紅白歌合戦着用モデルで『HANABI』NHK北京オリンピックテーマソング『GIFT』『旅立ちの唄』14歳の母『しるし』のPVや『CDでーた』『WHAT’S IN』などの雑誌コンサートツアー『シフクノオト』『MR.CHILDREN DOME TOUR』『HOME』そして『Mr.Children Tour 2009 ~終末のコンフィデンスソングス~』でも毎回のように着用されていますので見たことのある方も多いかと思います男女兼用ユニセックスにてご使用になられます★
2011年11月02日
コメント(0)
原罪は、キリスト教学では、人類の普遍的な罪深さは、アダムが犯した最初の罪に帰するとしています。 原罪を主張する神学者は、コンセプトが強く、使徒パウロは、使徒ヨハネによって、さらにはイエス自身によって暗示されていると主張する。また、罪は生殖行為によって世代から世代に伝達されるとされます。 モーセの律法の書には、"父親は子どもたちのために死刑にあってはならない、子供は父親のために死刑にされなければならない。すべての人間は彼自身の罪のために死刑にされなければならない"と記されています。イエスの運命に当て嵌めると、何となく解る様な気がします。 さて、話は変わりますが、当時のユダヤでは、父なし子の事を、「処女受胎の子」と呼んでおりました。史学者のなかには、マリアは身を売って暮らしていたと云う御仁さえ居られます。イエスが生涯マリアには、冷たかった事は、聖書を読めば解ります。
2011年11月02日
コメント(0)
大乗仏教中観派の開祖龍樹(ナーガールジュナ)を特徴づける空観は、『中論』の偈頌、『方便心論』、『宝行王正論』、『因縁心論』、『大智度論』に著述されています。その鋭い論法と自由奔放な論理展開、さらには、わたしたちを魅了してやまない、「小乗」の有為を悉く批判する龍樹の独自の論法とその考えが、ときに、虚無主義者と捉えられることとなります。 そして、「空」そのものを定義については、定義出来ないから「空」と言い切って居ます。即ち、因縁の離れた処にそれがあると云わんとしているかのように私には思えます。
2011年11月01日
コメント(0)
全49件 (49件中 1-49件目)
1