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「知るを生きる」第9項 人間の構成「身体」と「自我」、「霊」と「魂(魂+魄)」●Ⅲ霊魂の構成 「魂」、「霊」、「魂魄」 人間の本質、なかでも「身体」、「精神」に加えて「た・ま・し・い」と呼称されるものが、情報革命とされるAIそしてAIG時代の到来とともに一躍脚光を帯びてきました、魂(Soul)魂は、感情や意識、個人の本質を含む存在の中心とされます。多くの宗教や哲学では、魂は不滅であり、肉体の死後も存在し続けると考えられています。例えば、プラトンの哲学では、魂は永遠であり、肉体の死後に再び生まれ変わるとされています。霊(Spirit)霊は、より高次の存在や神聖な側面を指します。霊はしばしば、宇宙や神とのつながりを象徴し、個人の精神的な成長や啓示を導くものとされます。シュタイナー教育では、人間は体、魂、霊の三つの要素から成り立っているとされ、霊は人間の最も高次の部分であり、精神的な成長を促すものとされています。これらの概念は、異なる文化や哲学においてさまざまに解釈されますが、共通しているのは、人間の内的な成長や自己理解において重要な役割を果たすという点です。魂魄(Konpaku)魂魄(こんぱく)思想とは、人間の精神と肉体を司る神霊やたましい、霊魂に関する思想です。魂魄思想に関する主な観点としては、次のようなものがあります。仏教では、魂は人間の精神の働きを司る陽気の神霊、魄は肉体を司る陰気の神霊と考えられていました。人が生きている間は身体にとどまっていますが、死ぬと魂は天に昇り、魄は地に帰ると考えられていました古代中国では、人間を形成する陰陽二気の陽気の霊を魂、陰気の霊を魄としました。一般的には精神をつかさどる魂によって人間の神霊を表します。道教では、魄は肉体を支配する感情のことを言い、喜び、怒り、哀しみ、懼れ、愛、惡しみ、欲望の7つをまとめて七魄と呼んでいました。儒教優位の社会では、生者が決定している規範秩序が強力な力を持つために、死者の格付けが生者の秩序に支配されてきました。参考画:Konpaku 第9項Ⅲ 「魂」「霊」「魂魄」-了哲学・思想ランキング
2024年10月31日
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ルドルフ・シュタイナー「精神科学と医学」第10講 1920年 3月30日 ドルナハ第10講-4 私たちは、人間における二元性を、人間のなかに現われている地上を越えたもの、宇宙的なものと、本来性(*地球)が地上的なものとの二元性として見ることができます。人間の生体組織のなかに、まずもって明確な素質として現われてくるのは、地上を越えたものと地上的なものでしょう。そして人間が精神機構(Geistorganisation)というものを備え、さらにそれと対極的な親和関係にある消化機構も持っていることによって、末端部のもの、地上を越えたものがいかに人間にいわば反映しているか、昨日私はすでに示唆いたしましたが、これは実際繰り返し指摘してまいりましたことです。つまり、消化に向かう分泌と関係するものと、精神の働きの基盤である、脳における分泌と関係するもの、これらはすべて、根本的に、末端部の、天的な(himmlisch)人間を私たちに示しているのです。いかに奇妙に、逆説的に思われようと、そうなのです。これに対して、人間において、液体的プロセスであれ、気体の形状でのプロセスであれ、尿形成および汗形成と関係するもの、これらすべてが私たちに示しているのは、自己を個別化する人間としての地上的人間です。私たちは、人間の本性の、この互いに離れようとする両極のなかに非常に重要なものを見なければなりません。さて、近代においては残念ながら、この二元性、私がまさに人間の本性のなかに指摘したばかりの二元性を、治療のためにいくらか役に立つように指摘するようなきっかけは、少なくとも私の知る限りでは一度もありませんでした。と申しますのも、皆さんもおわかりのように、私たちがここで考察しておりますような事柄はすべて、治療的なものと病理学的なものをひとつに纏めようというものだからです。病理学と治療法は、二つの互いに分離した分野であってはなりません。このことはまた、私がここで提示することをすべて、いわば治療法へと方向づけるよう導きます。そうすれば、病理学的に理解することが、さらに治療的に考えることを可能にするようになるのです。ですから私はまさにお聞きの通りの言い方でこういうことをお話ししているわけです。こういう治療法的なものへの方向付けということをほとんど考慮しないなら、非難するのはきわめて容易でしょう。よろしいでしょうか、このように、そうですね、例えば梅毒の外的な発生を知ろうとする人にとって問題なのは、実際確かにそうなのですが、本当に梅毒が現われるには、その都度どのくらい感染がなければならないのか、少なくともだいたいどのくらい感染していなければならないのかということなのです。これを単に確かめるだけであれば、まさにこういう確認が進んでいくうちに、病理学をいわば自立(emanzipieren)させて解放する、自由にするしまうことになるでしょう。なぜならば、いささかおおざっぱな比喩を用いるのをお許しください。こういう感染というのは、そもそも、実際梅毒の場合においてさえ、だれかが頭にこぶをこしらえたと聞けば、石か何かがぶつかったにちがいない、つまり何か打撃を受けたにちがいないということ以上に重要であるとは言えないのですから。打撃をこうむることがないなら、あるいは、れんがが頭に飛んできたりしないなら、こぶができるようなことはない、ということが正しいのは申すまでもありません。しかしこれをことさらに特徴づけてしまうと、治療プロセスを実り多いものにするような特徴付けに行き着くことはできません。なぜなら、結局のところ、頭に石か何かが飛んでくるということがどのように起こるのか、それというのは社会的には非常に意味のあることかもしれませんが、治療に行き着くための生体組織の探究ということにとっては、このことがきわめて普遍的な意味を持っているとは言えないのではないでしょうか。人間の生体組織は、引き続き治療学においても役割を果たしてくれるような事柄を見つけだすように探究されねばならないのです。さて、梅毒の治療においても、私がお話しした事柄は大きな役割を果たします。治療プロセスはまさにこのことによって解明されるのです。ここでお話したことは、病理学的な重要性よりも、まさにこの両者病理学と治療学との間に橋を架けるためにお話ししたのです。私がこのことをお話しするのは、それによって、これらの議論はここである種の精神から、これは日毎に際だってくるでしょうが、育成されているということを特徴づけたいと思うからです。しかも今日においては病理学をますますいっそう自立させ、治療学の方へ導かないという傾向が出てきていますので、思考の方も、正しいしかたで追求されれば治療プロセスの探究にとってきわめて意味深い実り多い事柄から排除されているのです。するとこのような問いが出てきます、いわば宇宙的に末端的である人間と、地上的、地球的に中心的である人間との間にこういう二重性が成立していることは、人間の生体組織一般にとっていかなる意味があるのかという問いです。人間のこの両方の部分は、力の組織が異なった現われかたをしているのです。末端的なものはすべて、形成するものとして現われてきます。そして末端的なもののいわば究極の行為は、人間のまさしく末端部に発現して、それに他ならぬ人間の形態を与えることなのです。ほとんどが次のように言うことができるでしょう。人間の末端部において、人間そのもののなかの形成するものが、いかに珪素のなかの形成するものと共に作用しているかを。髪の毛の珪酸に対するふるまいという点でひとつ研究してみるとよいと。皆さんは、人間が自らに介入させる度合い、あるいは、この介入に抵抗する度合いを、珪酸が人間の頭部形成に対していかなる力を保持しているかいないかというまさにこの点において研究することができるのです。ただ、人間を常に他の体格とともに一括して見なければならないのはもちろんですが。今日通りを横断して、はげ頭の人を総覧できれば、その人たちがどれほど珪酸形成プロセスを受け容れているか、それに抵抗しているか、その傾向がわかります。ここで与えられるのは直接的な直観(Anschauung)なのですが、これは本当の霊視ができなくても獲得できるとはいえ、自然そのものの働きにまで深く入り込んでいかなければ獲得できないものなのです。ここに現われてくるのは主に形成力なのですが、これは細胞形成力ではなく、人間の形態そのものがその究極の現われである総体的な形成力(Totalgestaltungskraefte)なのです。毛がたくさん生えているかどうかなどの皮膚の構成全体も、勿論この形態とみなします。これに対して、もっと中心に置かれているもの、炭素及び炭酸とより関係しているもののなかにあるのは、形態を解体するものであり、そこでは破壊、解体が作用しています。私たちは実際、私たちの内部で絶えず形態を破壊、解体しようとし、そして再び絶えず宇宙から形態を作り出そうとするということによって生きています。私たちは人間として、絶えず形態に関して自分で自らを変形させようとし、そしてこの変形が繰り返し宇宙から調停される、ということによって生きているのです。人間のなかに存在しているのはこの二重性、形成(Gestalten)と変形(Deformieren)というこの二重性なのです。これらは人間の生体機構において共に作用しています。ここで想像してみてください、一方では、末端部の宇宙的な形成力(図参照、上からの矢印)があって、人間のなかへと作用しています。この力は心臓で地上的な力と出会います。ここで心臓によって均衡が作り出されることは皆さんにお話しいたしました。今度はこう仮定してみてください、人間のなかで作用しているこの末端部の力、本来心臓まで到達しようとする傾向を持っているこの力が、心臓そのものの機構において心臓のせき止め作用を受ける前に(図参照、右からの矢印)、先に膨張してしまい、滞留してしまうと。この力が、心臓での大きなせき止めに至る前に、いわば、せき止めの予行(Vorstauung)のように、膨張し、滞留する、と仮定しますと、人間のなかに低い度合いではあってもやはり、宇宙的、地球外的な形成力が人間に現われていることを示すものがあると云え得るのです。さて、対抗するこちらの力、消化と消化プロセスの変遷を通じてやはり心臓にまで作用する力、この力もまた、心臓に到達する前に、先に膨張してしまう。すなわち、地球的なものがここで膨張してしまう(図参照、右側)と仮定してみましょう。そうすると、ここで膨張し、凝縮しているのは、人間において霊的、物質的に形成するもの、頭部及び腸でのすべての分泌に関係しているけれども、心臓の活動には直接対抗しておらず、前もって一種の副次的活動をしているもの、そういったすべてのものということになるでしょう。するとここで得られるのは、一種の副次的消化といったものであって、これは、地球とその中心から発するものが、人間のなかの変形させるものとして、人間のなかの形態を解体するものとして、先に膨張することによって成立するのです。ここで私たちは人間のなかのこの二重性を器官的に固定させたわけです、つまり、一方の場合には女性の生殖器官、女性の性的なものが、後者では男性の性的なものが与えられたのです(図参照)。図の文字(左から):Weibl.(女性的なもの)、Maennl.Geschl.(男性的・性的なもの) 女性の性的なものを研究することができるのは、私たちがそれを、その宇宙的・末端的な、形成する力への依存性という点で観察する場合です。そして、男性の性的なものを、その個々の形状に至るまで観察することができるのは、私たちがそれを、その地球的な解体力への従属という点で観察する場合です。 人間の生体機構を真に科学的にこの点に至るまで深く探究する道がここにあるのです。この道においてはまた、そうですね、自らのうちに形成力を担っている植物的なものは、どのようにして形成力の麻痺している子宮であっても再び形成するように作用するのかということもわかるのです。人間の生体組織のなかの形成力をこのように研究すれば、皆さんは、植物界、鉱物界の形成力をも真に見出すようになるでしょう。このことは個別に観察していくつもりですが、もちろんまず最初に、ここで大きな関連全体に触れておかなくてはなりません。よろしいでしょうか、ひとたびこのような事柄が見通されれば、私たちもようやく真の胎生学というものを手にすることができるでしょう。今日いまだそれは得られておりません、なぜならば、胎生学上の発達の当初において宇宙的なものが強力に作用を及ぼしていること、宇宙は男性の精子と同様、女性の生体組織を受胎させるものであること、こういうことはそもそもまったく顧慮されていないからです。人間の胎生学上の発達の初期段階というのは、ぜひとも人間と宇宙との関係から観察されねばなりません。男性の精子によって植え付けられるものは、時間の経過とともに現われてきます。それによって、このとき宇宙が女性の生体組織のなかに移し入れようとしている形成力が変形される、つまり、宇宙が全体の形態に作りあげようとするものが、男性の精子によって個々の器官へと特殊化されるように変形されるのです。女性の生体機構の持ち分は、人間の生体全体の組織化にあり、男性の生体機構、男性の精子の力の持ち分は、個々の器官への特殊化、差異化、つまり個々の器官を分離させること、統一的な全体形態を変形させることにあります。このように言えるかもしれません、すなわち、女性的な力によって、人間の生体機構は、球体を形成することを目指し、男性の精子によって、人間の生体機構は、この球体を心臓、腎臓、胃などに特殊化していくことを目指す、と。女性的なものと男性的なものなかで、地球と宇宙というこの両極性が私たちに直接現われてくるのです。これはまたしても、人間の太古の叡智を前にして私たちが大きな敬意を抱き始める一点であり、ウラヌスがガイアを身ごもらせる、あるいはクロノスがレアを身ごもらせる、云々と語られるとき、私たちはまったく別の感情をもって耳を傾け始めるのです。この古代の意味深いイントゥイションに大きな敬意を示すにしても、それが単に神秘的な朦朧とした感情である必要はまったくありません。このような事柄を洞察し始めた人々が、私がしばしば耳にしたような、神話は現代の自然科学より以上に生理学を含んでいる、という箴言に同意するのは、最初は意外なことです。最初はひとにショックを与えるのです。それは理解できますが、そのなかには途方もなく多くの真実が含まれているのです。そもそも前進すればするほど、ますます次のように告白するようになる、ということです。つまり、このような関連についてもはや何も見ていない今日の方法は、人間の生体機構のなかに真に入っていくのにいかに適していないか、ますますいっそう告白せざるを得なくなるのです。この機会を逃さず再度申し上げておきたいことは、ここで私がお話ししていることには、例えば古代のものを研究することによって得られたものはひとつとしてないということです。ここでお話ししていることは、まったくもって事実そのものから実際に取って来られたものなのです。ただ、太古の叡智と一致していることを指摘することもあります。かと言って、私がここで皆さんに講義していることが、太古の叡智から取って来たものであるというのではないのです。ですから、ここで皆さんに特徴をお話ししてきました経過を追求して行けば、まず直観というものが現われてきて、それからそれが太古の叡智のいくつかに私たちを導いてくれるのです。例えば私自身は決して、そうですね、パラケルススの研究によって何かあるものに到達することを使命として表わすことはないでしょう。そうではなくて、私自身が発見したことが、どのように見えるか、パラケルススをひもといて調べてみたいという欲求にかられることがあるということです。ですから、私が提示しようするものを、このような意味で理解してくださるようお願いいたします。とはいえ、私たちが人間の生体機構の奥深くまで見つめると、精神科学的な見地から、太古の叡智に対して大きな畏敬の念を抱くようになるということも、ひとつの事実として認めなくてはなりません。けれども、これは、むろんこことは別の知の領域で扱われねばならない問題です。このことについては、さらに明日お話ししましょう、その前に、二つの二重性からの、女性的なものと男性的なものの出現について、ここで皆さんにお話ししたことを消化していただいていたわけです。これは明日見ていきますように、さらに深い関連を示唆するものなのです。参考画:gender■原注☆1 Walter Johannes Steinは、オーストリアの哲学者、Waldorf学校の教師、Grailの研究者であり、人智学の先駆者の1人でした■訳注*1 アニス セリ科の香草。一般的には種子をスパイスとして用いることが多く、甘い芳香に特徴がある。焼菓子に入れたり、リキュール類の原料にも用いられる。多くの図鑑では、アニスの学名は、Pimpinella anisum となっている。ヨーロッパでは民間で催乳薬として用いられる。*2 チコリ キク科、和名キクニガナ。明るい空色の花をつける。若葉は野菜として食される。根をコーヒーの代用品とすることでも有名。一般の薬草学においても、葉、花、種子、干した根、いずれも、利尿、健胃緩下等の薬効があるとされている。中国では全草が肝炎や黄疸の薬として用いられる。*3 スギナ トクサ科の多年生植物。これの胞子茎がツクシ。スギナの全草は利尿薬とされる。いわゆるトクサ(木賊、砥草)は Equisetum hyemale。 地上茎は円筒形で分枝しない。茎は珪酸を多く含み、固いので、18世紀まで、鍋類、特に白銅製品などを磨くのに用いられた。第五講(小冊子15ページ)参照。*4 野イチゴ ワイルドストロベリー。ヤマイチゴ、エゾヘビイチゴ、シロバナヘビイチゴ とも。葉、根、実いずれも用いられ、冷却、収斂、強壮性のハーブとされる。*5 ラヴェンダー シソ科の多年草。ハーブとしては最も有名なもののひとつ。花から取れる精油は香料、薬用に広く用いられる。*6 メリッサ レモンバーム。香水ハッカの異名も持つ。シソ科の多年草。全草にレモンのような芳香がある。ディオスコリデスの「薬物誌」(紀元前一世紀)にも記され、古代から薬草として用いられた。ハーブティーとしても用いられ、リキュールの原料でもある。パラケルススはこれを「不老不死の霊薬」と呼んだと言われる。第八講(小冊子13ぺージ)参照。ー参考ー「ハーブ大百科」誠文堂新光社「花の王国 第二巻 薬用植物」平凡社「ハーブ 新来の香草たち」朝日新聞社 第10講-4 了 「精神科学と医学」第10講 完了哲学・思想ランキング
2024年10月30日
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ルドルフ・シュタイナー「精神科学と医学」第10講 1920年 3月30日 ドルナハ第10講-3 治療プロセスにおいてはまた、準備された、調理された食物と生(なま)の食物に対する問いがきわめて重要だと思われます。ここでもまた、何らかのことに賛成しようとかいうことではなくて、この分野においてはますますもって私をアジテーター(扇動者/agitator)などとごらんにならないようにお願いいたしますが、そもそもここにあるのが何なのかを客観的に調べなければならないのです。人間がいつもの調理された食物をとり、その力を同化する場合は、生々しい食物を食べる生体であれば何らかの仕方で自分でやらなければならないことを、外的に行なうことになります。人間は、生々しい食物を食べるときには自分でやらねばならないことを、調理その他によって取り去ってもらうのです。さて重要なことは、私たち人間は、むろん末端部においていわば自然全体と関わっているけれども、中心部、とりわけ消化もその一部である、中心部においては、自然から私たちを分離し、個別化させるように構築されているということです。私たちがこの人間と自然との関係をありありと思い浮かべようとするならば、例えばこのように言えるかもしれません。人間はその末端部を通じて(図参照、緑)全宇宙に組み込まれており、そして消化においては血液形成に向かって自らを個別化していく(赤)、したがってここ(後者)は、もはや外的なプロセスに完全には対応しないプロセスを遂行し、少なくとも外的なプロセスのなかに完全に固定されている場所よりは外的なプロセスに対抗して独自性を打ち出している地帯なのだと。さらに次のようなことをお話しすればもっとわかりやすくなるかもしれません。図の文字(上から):(gruen)Kieselsaures(緑)珪酸、(gelb)Alkakien(黄)アルカリ、(rot)Kohlensaure Salze炭酸塩(赤)、ここ数日間お話ししてまいりましたことは、人間は実際全宇宙に組み込まれていること、人間においては、とりわけこの緑色で描いた部分においては、鉛、錫、鉄の形成力が作用しているということです。赤で描いた部分では、銅、水銀、銀の形成力が作用しています(図参照)。この調停作用をしているのが金であり、とりわけ心臓にその場所を定めている力です。けれども人間についてこのように語るなら、ちょうど、一本の指について、それを生体組織全体の一部とみなして語るのと同じなのです。人間についてこのように語ることは、人間を本来全宇宙の一部とみなすこと、本来全宇宙に組み込まれているものとみなすことです。しかしここのこの地帯には矛盾があって、人間は消化とそれに関連するすべてのものにおいて自らを分離する一方、思考し、見るときの相互プロセスのなかにも、やはり自らを普遍的な宇宙プロセスから個別化させていくものが存在しています。したがって人間は、消化プロセスと関係するすべてのもののために、いわばわがままに何かを必要としているということなのです。そしてこのわがままなものが、自然から直接与えられているものをまたもや取り入れるという調理の本能に顕現したのです。なぜなら、自然から与えられるものをそんなに直接取り入れるとしたら、人間というものは、少なくとも平均的には、それを直接加工するにはあまりにも弱すぎるでしょうから。逆説的な表現をしてよろしければ、もし私たちが食物を調理しなければ、食べることは絶え間ない治療プロセスにちがいないでしょう。つまり、もし私たちが食物を調理しなければ、環境とのより強力な親和性によって、食べることは絶え間ない治療プロセスであるにちがいないだろうということです。したがって、なまの食物をとることは、調理された食物をとるよりはるかに治療プロセスなのです。調理された食物をとることはむしろ単なる栄養摂取プロセスですから。なまの食物をとることは、調理された食物をとるよりはるかに強い意味において治療プロセスである。それというのは、私が思いますに、非常に重要な原則です。なまの食物をとる食餌療法は、調理された食事よりはるかに本来の治療に近いのです。さらに言及しておきたいことは、調理されたものはすべて、その作用がいわば切り詰められていて、その作用は赤く図示された部分(図参照)にとどまっているのに対し、なまのまま生体組織に取り入れられたもの、つまり果物などは、この地帯を越えて末端部まで入り込み、むしろ末端部に現われて、例えば血液がその養う力を末端部まで送り届ける誘因となったりするのです。皆さんが珪石 (けいせき/Silicea)を用いて治療しようと試みる場合、患者にしばらくの間、なまの食物を与えることを試みれば、こういう試みこそなされるべきなのですが、皆さんもこのことを確かめられるでしょう。そうすれば、皆さんは珪酸の作用を本質的に高めるのだということがわかるでしょう。なぜなら、その際、皆さんは、珪酸が末端的に行なおうとすること、つまり形成的に働きかける、変形(Deformationen)を完全に直す。もちろんこれは無骨な変形のことを申し上げているのではなく、解剖学的には直接現われてこないもの、生理学的にのみ現われてくるもののことなのですが、そういうことですが、珪酸がこれを直接行なおうとするとき、皆さんはこのとき、治療プロセスの期間中も相応しい栄養分を珪酸に供給することによって、珪酸を支えるわけです。これらはまさに、方法論上指摘しておきたいことなのです。なぜなら、これらを追求することはきわめて意味深いことですし、私が思いますに、これらの事柄はあまりにも研究されていないからです。研究されるにしても、おおむね経験的にのみであって、そのなかにラツィオ(合理性/rationality)は探究されず、したがって、この分野において確認できることについて満足のいく見通しをたてる可能性は余り見出せない状況です。こういう事柄すべてにおいて個人というものに注意をはらうことが重要になってくることは言うまでもありません。ですから私は今までの講演でこう申し上げてきたのです。この分野で何かを語るやいなや、今度はある種の関連においてはそあてはまらないことになると。けれどもこれらのことは方針として知っておかなくてはなりません、例えば個々のケースにおいて、次のように言わなければならない場合でもです。この患者の場合は生々の食物を与えてはいけない、そんなことをすれば彼の体質全体からあれやこれやのことを誘発してしまうから。つまり、このときはそうしてよい、このときはそうしてはいけないなどと言わなければならない場合でもそうなのです。そういう場合でもやはり、今ここで特徴をお話ししたことは正しいのです。こういう事柄によってはじめて、人間の体質全体を本当に見通すことができるのです。と申しますのも、よろしいでしょうか、私たちが明確に区別しなければなりません、つまり、末端部のもの、つまりそこでは人間が現実に全宇宙に組み入れられていて、私たちが人間からあれほど離れている鉱物的なものを生体組織に組み込むときにのみ扱うことのできる末端部のものと、私がここで赤く図示した部分、この両者を明確に区別しなければならないのです。私たちがこれ(後者)を扱えるのは、たしかに植物的なものを通じてですが、まずもって現在の塩的な特徴によって作用しているもの、すなわち炭酸塩(kohlensaure Salz)であるすべてのものを生体組織に取り入れるときにも扱うことができます。一方、アルカリ性のものはすべて、両者の均衡を取ることに関係しています。つまり(順に)、炭酸塩、アルカリ、珪酸塩あるいは珪酸そのものとなります(図参照、黄色)。つまりこれは、人間と周囲の自然との親和性を示唆するものなのです。よろしいですか、私たちは人間というものを、二つに分かれたものとして見るわけです、その中間のものが、この二つに分かたれたものの間を行ったり来たり振り子運動しているのです。そしてこのように言わなければなりません、末端部の人間と、より中心部の、個別化された人間とをこのように見ることは、私たちを全自然の内奥の本性まで真に導いてくれるのだと。つまり末端部の人間は、地上を越えたあらゆるものと親和性を持ち、このことを如実に示しているのは、自身鉱物的なものとして実際に諸惑星や星座に依拠している、人間のなかの鉱物的なものの働きなのです。さらに中心においては個体として、あらゆる地上的なものに親和性を持っているのです。しかしこの、消化組織に表現されているあらゆる地上的なものとの親和性によって、人間は同時にまた、思考することのできる、そもそも人間として進化することのできる、人間本性そのものでもあるのです。参考図:生体物質カラー 第10講-3 了哲学・思想ランキング
2024年10月29日
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ルドルフ・シュタイナー「精神科学と医学」第10講 1920年 3月30日 ドルナハ第10講-2 自然を正しい観点で探究する直観(イントゥイション/intuition)の観点から、もうひとつ別のことに注意を向けていただきます。例えばラヴェンダー(Lavandula*5)のような植物が持っている、かなり包括的な作用を研究してごらんなさい。そうすると、一方において、ラヴェンダーのなかにあるものは、魂のネガティヴな衰弱(negative Seelenschwaeche)とでも申しますか、失神、神経衰弱、麻痺といったものすべてに対して、強い治癒力を有していること、つまり、ラヴェンダーは人間の生体組織の末端部に作用して、それがアストラル体を追い出すように、アストラル体が物質体に及ぼす力を失うように働きかけるということがわかるでしょう。さてこのような植物、つまり、こう呼んでよければ、ネガティヴな神経衰弱に対抗する作用が見られるこのような物質全般においては、常に、また別のこれとは逆のネガティヴな神経状態についても問うことができるのです、例えば月経不順があるかどうか、といったことです。すると、このような物質は一方にも、また他方にも作用することがわかるでしょう。このように両方にとりわけ強く作用する植物は、例えばこれもまたメリッサ(*6)であり、これは眩暈、失神の場合にも強く作用しますし、またかなりな程度月経を促進するように作用することもできるのです。以上の例に言及いたしましたのは、外的な植物プロセスを、人間自身のなかで起こっているプロセスとの類似という点においていかに追求できるか、皆さんにお見せするためでした。ただ、はっきり理解しておかなくてはならないのは、植物が実際に親和性を持っているのは、人間存在の一部分に対してだけであるということです。例えば現在存在しているものをファナティック(狂信的/fanatic)に植物療法だけに切替えたいと思っているようなひとたちは、このことをよく考えて下さるようお願いしたいのです。人間というものは実際、自然界全部を自らのうちに含んでいて、自分自身がまだそれである人間界以外に、形成される経過において、つまり発達の諸段階において、他のすべての自然界と親和性を有していたのであり、しかもある種のしかたで、他のすべての自然界を自らのうちから外に出したのです。そして場合によっては、自分が外に出したものを、この自然界から再び自分のなかに取り戻すこともあるのです。そう、それはこのように自分のなかに取り戻すこと(In-sich-Zuruecknehmen)なのです。それがこのように自分のなかに取り戻すことである、ということは大変重要なことです。比較的最後になってから外に出されたものは、逆に治療プロセスにおいては、最も早く私たちのなかに取り戻さなくてはなりません。動物界を考慮に入れないなら、この問題にももっと光を当てていくつもりなのですが、さしあたっては除外しておきますが、私たちは、植物界より後に、本来の鉱物界を私たちのなかから外に出したわけです。そして明確に理解しておかなくてはならないことは、単に人間と植物界の関係のみを探究することはそれゆえ一面的だということです。とはいえやはり、植物界は依然として有益なものです。なぜなら、結局のところ、植物といえども、何かを癒すときには、単に植物であることによって癒すのではなく、内部において鉱物界にも属していることによって癒しているからです。ですから植物は依然として有益なのです。さらにはっきり理解しておくべきことは、植物はまた、鉱物界に存在しているものの一部を新たに加工しているので、この植物によってすでに加工されたものは、まだ加工されていないものと同程度の薬ではないということです。つまり、すでに植物によって克服され、植物プロセスのなかに取り入れられている珪酸は、鉱物において私たちに現われてくる珪酸ほど強力な薬ではないということです。この鉱物中の珪酸の場合、それを同化吸収し、一体化するためには、単に植物界のなかの珪酸を扱うときよりもずっと生体組織に負担がかかるのですこれは常に強調さねばならないことですが、人間はより強い力に対すると、より強い力を発達させなければならないものなのだということです。人間は、自らの内部で鉱物的なものを同化吸収し、克服せねばならないとき、単に植物的なものを同化するときよりも、もっとポジティヴに強い力に相対しているのです。よろしいでしょうか、違いというのはまさにここにあります。どうか皆さん、私は強調しておきたいのですが、私はいわば括弧付きでこのことをお話ししているのであって、この場で何らかの食物のとりかたについてプロパガンダ(propaganda)とするつもりなどありませんし、何かを支持するつもりも毛頭ありません。ただありのままの事実をお話ししたいだけなのです。菜食と動物食との違いはまさにこの点にあるのです。単に植物性の食物だけを取るとき、私たち自身は人間ですから、全プロセスを引き受けなければなりませんが、動物は植物的なものを少しばかり先へと継続することによって、私たちからこのプロセスを取り除いてくれるのです。私たちはいわばこのように言うことができます、つまり、植物がすでにある地点まで成し遂げたプロセスは、動物によって継続されるのです。したがって、考慮される動物形成プロセスはここで止まり(図参照)、植物におけるそれはここで止まります(赤、白)。さて肉を食べる人は、このプロセスをここでは成し遂げないのです。このプロセスを成し遂げるのは動物です。このプロセスを動物に取り除いてもらうわけです。つまり肉を食べる人は、植物的なもののみを摂取する場合には発生させられなければならない力を、自らの内部に、まったく発生させなくてすむのです。植物だけを食べる場合は、その人が自らこの部分を継続しなければならないからです。すなわち、生体組織は、菜食者の場合、肉食者の場合とはまったく異なる力を、自らの内奥(ないおう)から引き出してこなければならないのです。植物的なものを克服するために動物的なものにまで用いられるこういう力があるのです。こういう力はいわば逆転によって再び生体組織に戻ってきて、そのなかで活動します。その力が活動するとき、根本的に人間をひどく疲労させたり、妨げるように作用するということになります。ともかくも、強調しておかなければならないこと、はっきりと強調しておかなければならないことは、菜食療法による疲労に関しては、それでもやはり本質的には負担が軽くなるいうこと、人間は、力を内部から取り出すことに慣れているので、それによって活動可能になるということです。この力を人間は肉を食べるときには取り出さず、まさに生体組織の妨害する力として用いてしまうのです。しかし先に申しましたように私はアジテーション(たきつけ/agitation)をしているわけではありません。似たものが似たものを治すを指針とするホメオパシーの医師たちでさえ繰り返し私にこう言い返したものです、それでもやはり、肉食をやめさせると。人々に結核である癆(Schwindsuche)を植え付けてしまう云々と。なる程、どれも起こり得ることではありますが、私がここで純然たる事実として申し上げたことは、まったく揺らぎません。申すまでもなく現にあることです。しかし当然のことながら、私としても、現代においては単に植物性の食品のみでは耐えられず、どうしても肉類を食さなければならない生体も存在していることを否定するつもりはまったくありません。これは個別的なケースの問題です。記:図の文字(上から):rot(赤)、gruen(緑)、weiss(白) さて、治療プロセスにおいて鉱物界とその諸力との関係も作り出される必要があると強調するのを認めるならば、このときこそ、私たちはこの治療プロセスのために何か別のものに導かれるのです。この問題は実際取り組まれてはいたのですが、やはりその解決はこのようにしてのみ見出されると私は思います。それはつまり、これを精神科学的に観察すればある種の関係を見出すことができるということです。*白、緑、赤の三色を用いたのは西洋国家の旗に見られるようにそれぞれが意味を持ちます。参考図:Tricolore-italiano 第10講-2 了哲学・思想ランキング
2024年10月28日
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「知るを生きる」第9項 人間の構成「身体」と「自我」、「霊」と「魂(魂+魄)●Ⅱ心の構成 イド、自我、超自我 人間のこころの構造については、無意識の領域があることを発見したフロイトが、その後の人のこころの機能や構造を理解する研究に大きな影響を与えました。まず、精神分析の始祖であるフロイトは、人のこころを「意識」「前意識」「無意識」の3領域に分けて考える「局所論」を提唱しました。その後、局所論の理論を発展させて「構造論」を提唱して(1923)、こころの機能や構造を科学的に捉えようとしました。このフロイトが提唱した理論は、さまざまな学者によって理論を発展させながら、現代においてもなお、人のこころを理解する上で欠かせない理論となっています。さらに「自我」という語句は語彙としてはイド(id)=エス(es)、超自我(super-ego)、自我(ego)と分別して捉え探求されています。フロイトの構造論では、人間のこころを「イド(id)」「自我(ego)」「超自我(super-ego)」の3領域に分かれていると考えます。各領域にはそれぞれの役割と機能があり、この3領域の働きがどのような状態になっているかによって、その人のこころの状態を把握する手がかりを得ることができます。イド(id)=エス(es)とは無意識の領域のことを指し、自覚されていない過去の経験や、「~がしたい」「~がほしい」といったさまざまな欲求などが無秩序に存在しています。人が持つ欲求の中には、依存欲求や承認欲求に加えて、相手をコントロールしたい、自由でありたい、攻撃したいなど、さまざまな欲求が存在しています。イドは、「快感原則」に従って機能しているため、すぐさま欲求を満たすことを優先し、不快なものを避けようとします。また、本能的なエネルギー(リビドー)を蓄える貯蔵庫にもなっており、本能的なエネルギーを放出して快感を得ています。次いで、語句的には自我と逆順にも想えましょうが、超自我(super-ego)があります。超自我とは、幼少期に受けた両親のしつけが、こころの中に取り入れられてできた領域のことを指し、イドや自我の見張り役でもあります。そのため、両親、あるいは、それに近しい養育者の躾(しつけ)がどうであったかの影響を受けやすく、両親からの躾が厳しいと、イドや自我の見張りが厳しい超自我が形成されます。ですが、実際の両親がどうであったかに関わらず、親を悪い見本とすることで、厳しい超自我が形成されてしまうこともあります。このように形成された超自我によって、「~してはいけない」といった道徳的な考えから善悪を判断したり、理想的な自分になれるように「~すべきである」と考えて行動に移したりすることができます。通常一般に意識されるとされる自我(ego)とは意識の領域のことを指し、日々自覚している「私」の部分のことです。「私は~という人です」と表現できる自己意識の部分や、アイデンティティと称される部分ともいえます。自我は「現実原則」に従って機能しており、「イド」や「超自我」の調整役となって、内的なこころのバランスを保っています。それに加えて、状況を把握しながら判断を下し、社会に適応していくための機能も担っています。自我とイド、超自我の関係性としては、「イド」「自我」「超自我」は三層構造となっており、中央に位置する「自我」は、下部に位置する「イド」からの欲求を抑え込んだり、上部に位置する「超自我」からの命令に応えたりするなどして調整役を担っています。例えば、授業中や仕事中に、強い眠気に襲われた場面を想定してみましょう。エスからは「今すぐ寝たい」という欲求が押し寄せ、超自我からは「授業中(仕事中)は寝てはいけない」という考えが出てきます。其の葛藤に「自我」は、時と場合を踏まえながら、そのまま少し我慢したり、ちょっとした休憩を入れたりして対処しようとするでしょう。あるいは、そもそも寝不足にならないように睡眠を整えようと考えることもあるかもしれません。このように、自我は、トラブルが生じないように、欲求に対処してくれたり、妥協点を見つけたりしてくれるので、私たちは社会生活を過ごしていくことが出来ています。参考図:イド-超自我-自我第9項 Ⅱ人間本質の構成 イド、自我、超自我-了哲学・思想ランキング
2024年10月27日
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「知るを生きる」第9項 人間の構成「身体」と「自我」、「霊」と「魂(魂+魄)」●Ⅰ 「身体」肉体の構成 古今東西史上に記された世界の思想は、人間は「身体」、「魂」、「霊」という三つの層が折り重なった存在として捉えること一般です。加えて、或る年齢に至れば人間の精神構造は「自我・魂・霊」として自我が発達し、社会生活上は何よりも優先されてきます。通俗一般の「霊魂」は「霊と魂(*魂はさらに魂+魄扱われることもある)」から構成され、霊そのものは魂とは異相のものとして取り上げられること数多見受けられます。このような人間の構造理解は、古代から現代に至るまで多くの哲学者や宗教家によって探求されてきました。例えば、古代ギリシャの哲学者プラトンは、人間の魂を「理性、気概、欲望」の三部分に分け、それぞれが異なる役割を果たすと考えました。また、東洋の思想においても、道教や仏教などで「霊」と「魂」の概念が深く探求されており、これらが人間の存在や生死にどのように関わるかが論じられています。現代においては、この三層構造の理解は心理学や精神医学の分野で重要なテーマとなっています。例えば、フロイトの精神分析理論では、「自我(エゴ)」が現実と折り合いをつける役割を果たし、「超自我(スーパーエゴ)」が道徳的な規範を提供し、「イド(エス/es)」は生まれながらに備わっている本能的欲求のことを表すとされています。これらの理論は、人間の行動や心理状態を理解するための重要な枠組みを提供しています。さらに、現代のスピリチュアルな探求においても、「霊」と「魂」の役割は再評価されています。多くの人々が瞑想やヨガ、その他の精神的な実践を通じて、自分自身の内なる「霊」とのつながりを深めようとしています。これにより、自己理解や自己成長が促進され、より豊かな人生を送るための手助けとなっています。このように、「身体」、「魂」、「霊」という三つの層が折り重なった存在としての人間の理解は、時代や文化を超えて普遍的なテーマであり、今後も多くの人々によって探求され続けることでしょう。記:人間はその60%が水といわれています。この水を除くと、人間の身体は、炭素原子が50%。 酸素原子が20%、水素原子が10%、窒素原子が8.5%、カルシウム原子が4%、リン原子が2.5%、カリウム原子が1%などから構成されています。人体を構成する元素の割合は、国際原子力機関(IAEA)が1972年に発表した標準人間(男性、体重70kg)の体内の元素の量に基づいています。?「組織」は、人体解剖の系統分類における「細胞」 の次の階層に位置し、一般に、「上皮組織、支持組織、 筋組織、神経組織」で構成される。 これら4つの組織が様々な割合で組み合わさることで多様な器官・臓器が形 成され、さらに同じ機能を持つ器官同士が集まるとシステム化された「器官系」ができる。参考図:人間身体構成 第9項 一項 「身体」-了哲学・思想ランキング
2024年10月26日
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ルドルフ・シュタイナー「精神科学と医学」第10講 1920年 3月30日 ドルナハ第10講-1 精神科学と医学おいて本質的なことは、私たちがここで医学研究を実り豊かなものにすることのできる方法を見つけだすことを試みているということなのではないでしょうか。さもないと、あまりに分割しすぎて個別的なもののなかで自らを見失ってしまいかねません。個別的なものが持っている意味は、いつも結局相対的なものにすぎないのです。けれども、この人間と人間の外部にある自然との関係の方法論的研究こそが、人間ひとりひとりを、いわば自然そのもののなかで観察を行なうことができるように準備させるのに適しているのかもしれません。したがって今日は前置きとして、ある種の分野にとってば一種の道となる可能性のあることを二乃至三程述べさせて下さい。その道の途上で見い出せることもあるでしょう。当然のことではありますが、そもそも精神科学的探究というものは、規定を提示することによって、まさに昨日のシュタイン博士(☆1)の講演の意味で検証され得ることを発見することができるのです。参考画:Walter Johannes Stein 他方、一度この分野に入って行くと、この分野はいくつかのことに方向付けを与えてくれます。そこで私は今日皆さんに、まさに注目に値すると思われる例をいくつか指摘したいと思います。たとえば皆さんは、ここはさしあたってはしばらくは植物の領域にとどまっておくことにしますが、セリ科の香草アニス(Anisum Vulgare)(*1)が通常人間の生体組織にどのような作用をするか、ご存じでだと思います。アニスの最も特色ある作用というのは、分泌(排泄)を促進する(absonderungsfoerdernd)、すなわち、利尿や乳汁分泌促進、さらに汗の形成であるということが私達にはわかるでしょう。それから私たちは、これが何と関係しているのか自問します。この植物に関して私たちにわかってくることは、アニスの働きは、そのなかに含まれている微細に分割された鉄分(Eisenbestandteile)あるいは鉄塩分(Eisensalzbestandteile)と関係しているということであり、したがって私たちにもはっきりと知覚できるのですが、アニスの作用の基楚となっているのは、ふつうは血液中で鉄によって行なわれていることが、いわば血液から取り去られて、血液より下の領域にしばらくの間押しやられているということなのです。実際ある種の植物の場合、中間部に、すなわち外と内の中間、身体の表面と心臓との中間に、非常に強くその作用が及ぶので、私たちはこういう植物がいかにさまざまな領域まで作用を及ぼしているかを良く研究することができます。さらには、私たちが薬学において合理的に見つけだすことのできるもののための繰り返し使われる短い主題や動機(示導動機/leitmotif)を、そこから得ることもできるのです。例えばこの点において正真正銘の自然の教師とでも申しあげたい植物、チコリ(Cichorium intybus)(*2)を観察してみましょう。チコリを手がかりに、そうしようとしさえすれば、いわば人間の生体組織に関してあらゆる可能なことが研究できるのです。チコリの場合、私たちにわかることは、チコリは一方で、消化不良(Verdauungsschwaeche)に対抗する薬、つまり直接人間の外界そのものに向かって置かれている器官を通じて現われているものに対抗する薬であり、他方でチコリはまた血液そのものにも作用すること、つまり、自らに必要なプロセスを血液が実行しないということのないように、血液が、血液の液体性そのものに停滞プロセスが現われるままにしておくことがないように、血液に作用するということです。つまるところ、チコリにおいてとても重要なことは、何と言ってもチコリの治癒作用は、非常に末端部のプロセスにまで及んでいるということ、状況によっては、頭部器官まで、とりわけ喉と胸の器官、肺器官にまで作用を発現させているということです。チコリは人間のあらゆる可能な部分にこのように強く作用しているので、だからこそ、チコリを研究することはこんなにも興味深いのです。これらの作用がいわば扇形に拡がっているのが見られます。私たちはこう自問します、消化不良への対抗作用というのは何によるものだろうかと。これは、チコリのなかに存在している、強い作用をする味によって表わされている苦味エキス(Extrakutivstoff)によるものだということがわかります。この苦味エキス、つまりまだ強力に、植物的、物質的(substanzlich)性質を有しているこのエキスは、人間のなかの、まだそんなに人間によって加工されていないもの、いわば外界にあったときの外観にいまだに似ているものに強い親和性を有しているのです。私たちがはっきりと理解しておかなくてはならないのは、私たちは外界の物質素材を初めはほとんど加工せずに、胃の領域まで取り込み、その後それがさらに加工され、腸を通じて根本的に改造されて血液中に現われ、そして末端部、つまり骨組織、神経組織、筋肉組織において、それがもっとも改造された状態で現われるということです。そしてこの「エキス」というものは、まだ加工されていない外的な物質と非常に強い親和性を有しているのです。記:エキスとは、動物や植物などの成分を水、エタノールあるいは水とエタノールの混合液に浸出させた液体を濃縮したもの。医薬品や、加工食品の材料などに使われる。日本が江戸時代の鎖国中でも交流があったオランダで「抽出物」を意味する「エキストラクト」の略から由来します。 ところでチコリはアルカリ塩(alkalische Salze)、カリウムも含んでいます。私たちはとりわけこのなかに、血液に作用するものを探究しなければなりません。そうすると、チコリのなかでどのように諸力が分離しているかということも同時にわかるでしょう。エキスのなかにある力は、その親和性により消化器官へと伸びていきます。アルカリ塩のなかにある力は、その親和性により、血液に親和性のある器官あるいは血液そのものへと伸びていきます。さらにまた本質的に、チコリのなかには珪酸も多量に存在しています。珪酸は血液を越えて末端の器官にまで作用し、神経組織、筋肉組織を経て骨組織のなかまで達します。したがって、チコリとはそもそも私たちに、実際こういうことを示しているものなのです、擬人化すれば私チコリはここにいて、三つに分けられている、だから私は人間の生体組織の三つの構成要素すべてに対して作用を与えると。これらは、自然自体が私たちの目の前で行なってくれる実験であり、私たち自身が行なう実験よりも実際常にはるかに意義深いものなのです。なぜなら、自然というものは、実験によって自然に対して問いかけをする際の私たち自身よりも、その意図においてはるかに豊かだからです。これに関連してスギナ(Equisetum arvense*3)もまた非常に興味深いものです。スギナにもやはり、消化不良に強く対抗する作用と、そしてやはり末端部まで達する強い作用が見られます。私たちはこう問いさえすればよいのです、スギナにおけるこの末端部まで達する強い作用は何によるのだろうかと。するとまたしても、珪酸成分によるのだという答えが得られます。ですから比較研究によって、私がここで皆さんが本当に医学的植物学を研究なさるなら、非常に多様化することができるのです。いたるところですぐに見い出せることは、まだ植物的なものに似ているもの、エキスとして現われているもの、これらはすべて、まだ消化管に対して親和性を有しており、すでに鉱物界、珪酸への傾向を持っているものは、いわば人間の中心から末端部を絶対的に目指しており、しかもそこで治癒的な作用もするということです。けれども、私は申し上げたいのですが、その働きにおいてはまったく単純なものだけれども、教示してくれることの極めて多い実にすばらしい植物があります。それは野イチゴ(Fragaria vesca / Walderdbeere *4)です。この野イチゴの作用がめったに観察されないのは、ひとえに、いわばこの作用を自分たちの生体組織で覆い隠してしまう人たちに食べられるからなのです。実際このように作用がほとんど覆い隠されてしまう場合には、いわばまだ感じやすい敏感な人たち、つまり通常野イチゴを食べていない人たちに対して試みてみることもできるでしょう。そうすればたちまちこの野イチゴのすばらしい意味が明らかになることでしょう。つまりこの野イチゴというものは、一方において、とりわけ血液形成を正常化させることができるのです。野イチゴは、実際血液形成をいくらか促進するあらゆることをするので、通常これを好んで食することによって野イチゴに対して免疫のある人でない場合は、その人に対して、下痢の場合にもこの野イチゴを用いることができます。なぜなら、下痢が起こる際に下腹部に間違って現われてくる諸力が、野イチゴの作用によってその正しい場所に撤退させられる、つまりもっと血液組織そのもののなかに撤退させられるからです。さて野イチゴのなかには一方において、本質的に血液を形成する力があり、他方でやはり珪酸があって、それによって生体組織のなかにあるものが末端部を目指しています。そもそも、この野イチゴというのはどんなに素晴らしいものなのかをよく考えてみてください。野イチゴは、珪酸によってある種の力の展開を生体組織の末端部まで進めていく傾向を有しています。生体組織の末端部にある力の展開が起こるときは、ある種の危険があります、つまり、珪酸をあまりに多く末端部に導いてしまうと、力がいわばおかしくなり、この末端部に同時に十分多くの栄養分が転送できない、珪酸によっていわば仕上げられたものに何らかのしかたで栄養分を供給するための、十分豊富な血液が同時に得られないという危険です。さてこの野イチゴは、そこに転送されなければならない血液を自分で準備するという、すばらしいサンプルなのです。つまり野イチゴは、珪酸によって生体組織の末端部に引き起こされるプロセスを助けるためにしなければならないことを、驚くべきしかたで表現しているのです。自然はいくつかのサンプルによって、このサンプルの数はさらにずっと増えていく可能性もあるでしょうが私たちに実に驚くべき洞察を与えてくれています。ただし私たちに、自然を正しい観点で探究する直観(イントゥイション/intuition)さえ備わっていればですが。 第10講-1 了哲学・思想ランキング
2024年10月25日
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ルドルフ・シュタイナー「精神科学と医学」第九講 1920年 3月29日 ドルナハ第九講-5 珪化の正反対のものは、私たちが人間外部の自然において炭酸形成(Kohlensaeurebildung)と呼ぼうとしているすべてのもののなかに含まれています。炭酸形成というプロセスはいわば、珪酸形成(Kieselsaeurebildung)の対極に位置しているものなのです。したがって、治療にあたって炭酸形成プロセスを追求していくことは、今度は生体組織において私がたった今特徴をお話ししたものの反対にあるものすべてのために、最も広範囲に消化と関わっているけれども、その出発点、その起源は消化システムそのもののなかにあるようなすべてのもののために、不可欠なのです。ですから、何らかの炭酸結合というものは、とりわけ、それを自然そのものが形成しているようなやりかたで用いるなら、つまり他ならぬ植物によってそれを獲得するなら、このような病気の形式の場合きわめてうまく使いこなせるのです。さてここである種の関連に注意しておくことが非常に重要です。皆さんがまず物質を、匂いをかぐときと味わうときに物質が提示しているものに従って追求するなら、匂うことはもっぱら私たちを他の可視的世界に出て行かせ、味わうことは生体組織のなかに隠されているものに引き入れるのですが、消化をそれに従って考慮するなら、次のように言えるでしょう。消化プロセスの開始時に起こっていることに関しては、諸物質はこれほど溶け合い、混ざり合っている。けれども、器官のプロセスが進むにつれて、人間は、混合しているものの再分離に関わるようになり、物質的なものよりむしろプロセス的なものの再分割がなされると。そしてこの、栄養摂取において一緒になったものの分割、再分離こそが、生体組織の非常に大きな課題の一つなのです。生体組織が先ずとりかかるのは、一緒になったものの、主要な分離であり、つまりそれは、一方では腸を通じて排出されるべきものすべての排泄に向かい、さらに尿を通じて排出されるべきものすべての排泄に向かうのです。これですでに私たちはある器官組織に接近しているのですが、この器官組織に対しては、治療の際に医師のイントゥイション(Intuition/直観)が非常に問題になってくるでしょう。私たちが接近するのは、人間の生体組織において非常にすばらしい作用をしている腎臓組織で、これはそのプロセスにおいても、まったく奇妙な分岐を成しています。しかしこれについてはまた後ほどということにしましょう。さて問題は、以前の講演でも示しましたように、腸を通じての排泄であるすべてのものは、頭部における経過と関連していて、これら二つは互いに関連しあっているということです。同様に、尿における経過はすべて、心臓の回りで、つまり心臓組織において起こっている経過と関連しています。根本的に、腸を通じての排泄であるものすべてにおいては、人間が珪化プロセスを模造すること、尿形成において起こっているすべてのことにおいては、炭酸プロセスを模造することが関わっているのです。これらの関係はさらに、健康な人間において起こっていることと、病気の人間において起こっているはずのことを結びつけるものです。これによって私たちはむしろプロセス上の関係を指摘したのですが、これらは一面的に観察されてはならないでしょう。こういう事柄すべてに精通してはじめて、昨日きわめて納得のいくやりかたで、シャイデッガー博士によって類似性の法則として言及されたことを正しく評価することができるようになるということがわかってくるでしょう。この類似性の法則はきわめて重要なことを含んでいます。けれども、不可欠なのは、たった今私たちが確認したような関係を考察することによって得られたすべての要素に基づいて、この類似性の法則を打ち立てることです。なぜなら、私がたった今皆さんと議論いたしましたあらゆることの背後にあるのは、実際またも人間と鉱物的なものとの関係だからです。私たちが一方で、いわば珪質のものについて、人間を形成するものとして語り、人間を再び解体する炭酸的なものについて語るなら、生のプロセスとは、この絶え間なく形成し解体する傾向のなかにあるのです。私たちが一方で、人間を形成するもの、珪質的なものを見るなら、忘れてはならないことがあります。それは、先日の講演ですでにその理由は部分的に暗示しておいたのですが、人間生体組織におけるこの珪質のものに似た部位には、鉱物的なものすべてとの親和性があること、つまり鉛的なもの、錫的なもの、鉄的なものにに汲み尽くされる鉱物的なものとの親和性があるということです。つまりこのように言うことができるのです。心臓より上にある部位に目を向けるなら、私たちは、人間においてそこで一方では珪酸的なものから作用し、他方では鉛的なもの、錫的なもの、鉄的なものから作用するものに目を向けなければならない、と。鉄的なものは、肺の形成プロセスにより強く関わり、錫的なものは、頭部全般の形成原理と、そして鉛的なものは、骨に局所化されている形成原理と非常に強く関わっています。なぜなら、骨の構造と骨の成長は、実際本質的に、上部人間から発するもので、下部人間からではないからです。さて重要なのは、これらの事柄がどのように相互作用しているのか、つまり例えば珪酸塩をどのように使うのか、この場合、常にその金属がこれら三つの代表的金属と類似しているかどうかを調べなくてはなりませんが、こういうことをいわば慎重に吟味するすべを学ぶことです。さらに他方においてはっきり理解しておかなくてはならないことは、下部人間は、銅、水銀、銀と親和性があり、すべての炭酸プロセスにおいて、これらの金属に親和性のある金属、あるいはこれらの金属そのものを、どの程度用いるのか、それらを炭酸形成プロセスと何らかの方法で結びつけるのかということを考慮しなくてはならないということです。そうすることによって、地上において地球外的なものに起因している金属的なものと、普通は岩石状であるもの、つまり炭酸形成原理の影響下に形成されたものと、珪酸形成原理の影響下に形成されたものとが、統合されるのです。こうして私たちは、何らかの場合に人間の生体組織が治癒されるように、私たちが生体組織に供給せねばならない外界のものを、徐々に具体化していく可能性に近づいていくのです。その際常に注意していなければならないことは、あまり下位の感覚には作用しないもの、つまり匂いや味にはあまり作用しないもの、すなわち、その本質が外部に向かってそれほど一目瞭然ではないと申しますか、そういうものは、非常に希釈した状態でも作用することができ、それに対して、その本質がまさに匂いや味のなかに一目瞭然であるものの場合は、それほど希釈しないで用いることができるということです。匂いや味の強い物質は、治療するものがどこにあるかはっきりわかっている場合には、基本的にそれ自体としてきわめて良い薬なのです。特に、その治癒作用が通常の食餌療法によって相殺されない場合には、そうなのです。とはいえ、こういう事柄にさらに立ち入っていくこと、少なくとも、次のようなことを考慮しておくことが必要です。つまり、人間の感覚はどれも、このように細分化されていて、この場合に言われなくてはならないことは、反応を見いだすための最良の試薬、最良の薬というのはやはり根本的に言って人間そのものであるということです。匂いも味も無いような物質の場合これが困難になるのは言うまでもありません。けれども皆さんに注意していただきたいことは、とりわけ医師にとって重要な、一種の自己教育というものが存在しているということなのです。この自己教育というのは、養成することのできる精妙な感受能力、そうですね、外的な自然界の珪質形成プロセスのようなものにおいて何かを感じ取るというところまで導いてくれるような感受能力を養成することにあります。ひとつ考えてみてください、なるほど石英は非常に規則的な形態を見せていますが、この、一方でこれほど規則的な形態を見せている岩石・鉱物が、それに親和性のある形成「珪酸形成」においては、今度はあらゆる可能な結晶形態をとる傾向にあり、珪酸塩の場合、結晶化する際の多様性は途方もないものであるということ、これには実際何か意味がある筈です。こういうことを感じ取ることができる人は、さらに、きわめてさまざまな形態形成の可能性があるなかで、いかにして分散させる要素が優勢になっているのか、感じ取ることもできるのです。外的自然において、珪酸塩の場合ほど多くの形成物を生じさせる可能性があるという場合は、もちろん、分散させる要素が模範とされなければなりません。これは、珪酸塩を粉末状にして用いなければならないことを示しているのです。このためには感受能力というものが身についていなければならないのです。これから見ていきますように、この感受能力がさらに薬を評価することにも通じていくからです。他方においてまた不可欠なのは、人間が自分自身を、良い反応板として、とりわけ、例えば匂いというものも、色彩感覚と同様、本来七つに区分できるというところまで感受能力を修得することです。私たちが、甘い匂い、刺すような匂い等に対して識別力を身につけたら、実際に臭覚も、味覚と同様に七つのニュアンスに細分化されることがわかるでしょう。さらに興味深いことは、臭覚における階梯、こう言ってよろしければ匂いのスペクトルを修得すると、同時に、可燃性の物質に現われているすべてのものにおいても勝手が分かるための教育手段を獲得することになるのです。いわば可燃性の物質の本質に迫っていくわけですが、そのやりかたについては明日見ていくことにします。味覚に対してある種の感受力を身につけるなら、例えば、甘い味を、塩辛い味、つまり塩からきちんと区別できて、両者の間になお五つのニュアンスを区別できるなら、まさしく自然において塩形成しているものとの、一種の内的な親和性を身につけることになります。そしてこの内的な親和性を身につけたなら、いわば自然から得る印象をもとに、そこから次のように感じ取ることができるようになるのです、これは人間の生体組織のこの面に役に立つ、これは人間の生体組織の別の面に役に立つというように。さまざまな物質の作用については慎重で厳密な科学的調査が基礎にならなくてはなりませんが、それでもやはり大きな意味を持っているのは、こういう科学的な調査の成果にも、主観的な感受能力を添えることを決して無視してはならないこと、すなわち自然に対するある種の内的な親和感情を自らのものとするということです。以上の議論は明日さらに引き継いで、さらにもっと個別的なことに入っていきたいと思います。 第九講-5 了参考画:味覚と臭覚 第九講 完了哲学・思想ランキング
2024年10月24日
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「知るを生きる」第8項 「霊」と「魂(魂魄)」そして「霊魂」を知る 霊魂とは、肉体とは別に存在する精神的な「実体」のことです。これは、肉体から離れて存在することが出来得ることを示し、死後も存続すると考えられていることから出てくる回答です。社会通念的には霊魂は非物質的な存在であり、物理的な身体とは異なる独立した実体を持つとされています。勿論のこと、近代思想・哲学の「人間機械論」や唯物論の史的発展に基づく唯物主観の人間論は全面的に此れを否定しています。人間機械論とは、人間を機械に見立てる立場である。通俗的には、18世紀のフランスの哲学者、ジュリアン・オフレ・ド・ラ・メトリーによる同名の著書によって知られ、その評価や理解の転換点と捉えられる。然し乍ら、 人間を機械に見立てる文脈は古くからあった。古代ギリシアの哲学者エピクロスは、万物を原子の動きと考えた。 近代哲学の祖ルネ・デカルトは、動物を機械に見立てる動物機械論者であり、人間の身体も機能的には変わらないと見立てた。人間機械論(Human Machine Theory)は、デカルトによって提唱された哲学の一分野であり、簡単に言うと、人間の体や行動が機械的な原理で説明できる「人間を一種の機械とみなす」という考え方で、例えば、心臓はポンプのようなもので、筋肉はレバーや歯車のようなものと捉えます。後世でも脳は情報を処理するコンピュータに似ているとして機械論の牙城は崩れてはいません。然し乍ら、デカルトは心と体を分けて考える「心身二元論*唯物主義主観者が残念がる一因」」をも提唱していて、心は機械で説明できない特別な存在とみなし、精神に宿る実体を伴った力に疑いをを挟み込みませんでした。つまり、肉体は物理法則に従う機械だけど、心は別の存在という二重構造の考え方。でも、デカルトのアイデアは、後の科学や哲学に多大な影響を与えた。ただデカルトは人間だけには霊魂の存在を認めた。これに対し次の18世紀のラ・メトリーは,「人間機械論(1748)」おいて人間の霊魂をも否定し,生命機械論を徹底させた。かれもまたゼンマイ時計を比較の対象とした。心と身体を接触させる場所としてデカルトは脳髄の中央にある松果腺を擬したが,生理学的にみて不当であるとします。しかし,この心身の結合のしくみをめぐって,デカルトによって提起された哲学問題は、「心身問題」と呼ばれて、人間機械論の中心にかかわる問題としては現在に至っています。人が生きて呼吸している間、霊魂はその体内に存在し、生命や精神の原動力となっています。霊魂は個人の肉体や精神をつかさどる人格的な存在であり、物質的な感覚を超えた永遠の存在と考えられています。要するに、霊魂は肉体とは別に存在し、生命や精神の根源となる非物質的な存在です。これが観念的思考の霊魂の基本的な考え方です。然し乍ら、「霊魂」という表現は、「霊」という言葉と「魂」という言葉が組み合わされています。通俗的には「霊(れい、たま)」は、すぐれて神妙なもの、神、こころ、いのちなど、多様な意味を持つとされ、そこに何かいると五感を超越した感覚「第六感」で感じられるが、物質的な実体としては捉えられない現象や存在、聖霊などのことを指すこともあるとされます。デカルトはまた生命現象をも機械的に理解し,たとえば動物は一つの自動機械とみなされるのである(動物機械論)。デカルトによれば,人間の身体もまた,心臓を一種の熱機関とするきわめて精巧な自動機械にすぎない(人間機械論)。しかし人間は動物と違って精神をもち,しかも本来は実在的に区別されるべき精神と物体がここでは固く結びついて一体をなしている参考画:Human Machine Theory 第8項 「霊」と「魂(魂+魄)」そして「霊魂」を知る-了哲学・思想ランキング
2024年10月23日
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「知るを生きる」第7項 思考・思想の「知る」を知る 「知る」という言葉は、英語にはknowだけじゃなく他にいくつかの英単語がなぞらえられます。和語では翻訳上の創作語句を含めれば数多にのぼるでしょう。その「知る」という概念は、哲学、科学、宗教、神秘学の各分野で異なる意味やニュアンスを持ちそれぞれの分野での「知る」に違いが現れてきます。各分野別に簡単に説明します。●哲学における「知る」哲学では、「知る」はしばしば認識論の中心的なテーマです。ここでは、知識とは何か、どのようにして知識を得るのか、知識の正当化とは何かが問われます。例えば、プラトンは「知識」を真なる信念に正当化を加えたものと定義しました1。●科学における「知る」科学では、「知る」は実証的な証拠に基づくものです。科学的知識は観察、実験、検証を通じて得られ、再現性が重視されます。科学的な「知る」は、仮説を立て、それを実験で検証し、結果をもとに理論を構築するプロセスを含みます1。●宗教(学)における「知る」宗教では、「知る」は信仰や啓示に基づくことが旧約の記載に従えば事程左様に多いです。宗教的な知識は、神聖な書物や教義、個人的な霊的体験を通じて得られます。例えば、キリスト教では聖書を通じて神の意志を知るとされ、仏教では悟りを通じて真理を知るとされます2。●神秘学における「知る」神秘学では、「知る」は直感や内的な体験に基づくことが多いです。神秘学的な知識は、瞑想や神秘体験を通じて得られ、しばしば言語化が難しいとされます。これは、個人的で主観的な体験に依存するためです2。記:他にも多々の場面で「知る」は異なる意味合いを持って登場しています。これらの違いを理解することで、各分野がどのように「知と識」を捉え、価値を置いているかが見えてきます。どの分野の「知る」に特に興味がありますか。著者は人間の「哲学・科学・宗教・神秘学」における「知る」の持つ語彙の相違を超えた「真の知」を想定するので、便宜上各分野の「知る」をそれぞれの分野が使用するのを捉え、其の共通項を見つけて21世紀に相応しい「知る」の解釈上の語彙にたえる「真の実相を顕わにした知るを見つける」所存です。現代における真の知とは、どういたものでしょう。現在の最先端文明を走る現代社会が人間の内世界・外世界全てを捉え得る「真の知」とは、単なる情報の集積ではなく、情報を批判的に評価し、理解し、適用する能力を指します。「真の_知る」は、これは、次の要素から成り立っています。●情報の識別: 信頼性のある情報源とそうでないものを見分ける力。●批判的思考: 得た情報を客観的に分析し、その価値や信憑性を評価する能力。●応用力: 学んだ知識を現実の問題に適用し、解決策を見いだす能力。●柔軟性: 新しい情報や視点を受け入れ、適応する意欲と能力。これらを持つことで、現代社会において真の知を持つとされています。つまり、情報が溢れる中で、しっかりとした判断力と応用力を持つことが現代の知識人の特徴です。記:思考を場の再構造化の過程としてとらえるゲシュタルト心理学の立場である。ここでは思考が、洞察(見通し)または観点変更という知覚の法則で支配される過程とみなされる。その結果,ものごとを一挙に洞察する直観が,論理以上に重視されることとなる。参考画:真の+知る=洞察 第7項 「知る」-了哲学・思想ランキング
2024年10月22日
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「知るを生きる」第6項 「知る」を知る 人類史上最初の思考革命とも目されるギリシャ文明のフィロソフィー(philosophy)の立役者、「三哲」、なかでも其の一ソクラテスの「無知の知」は現代科学文明の哲学は採用せず、「無知の知こそを知る」とする段階へ人間思考を高めます。かっての抽象的な哲学的問題を現代科学は具象化してみせる段階にまで物理学が発展、およそ過去には思いつかれずなかった科学技術・学術道具を用いて具象世界へ強いて引き出さんとしています。抽象的な哲学的問題の具象化こそが現代A.I.情報文明の人的生命の真の煽るる受け皿です。今までの抽象的な哲学的問題とは具体的な事例や現象にとらわれず、普遍的で根本的な疑問を探求する哲学の一分野でしたが、人類文明の道具を操ることによる思考革命、生産手段の多様化・発展による四次にわたる産業革命、そして情報の革新的発展は人類の科学に向き合う態度、「知る」の意味合いを徹底的に変化させました。先ずは、抽象的な哲学的問題とは?。これは、具体的な事例や現象にとらわれず、普遍的で根本的な疑問を探求する哲学の一分野です。例えば、「幸せとは何だろう?」「人生の意味って何?」といった問いがこれにあたります。一見、答えがなさそうに思えるかもしれませんが、これらの問いについて考えることで、私たちの視野が広がり、物事をより深く理解できるようになるとされた事柄を人工知能(Artificial Intelligence/AIに)よって認識可能なヴィジョンによって視覚化されることも可能となります。 かっての抽象的な哲学的問題:1. どこでも通用する普遍性これらの問題は、時代や場所を超えて考えられる普遍的な性質を持っています。例えば、「美しさとは何か?」という問いは、古代から現代まで、世界中の人々が考え続けてきた課題です。2. 目に見えない概念を探る抽象的な哲学的問題は、目に見えない概念を探求します。「自由とは何か?」という問いは、私たちの行動や選択の根底にある見えない概念を理解しようとする試みです。3. 直感だけでは理解しづらい、著者が一番に期すところの「チョッカク・チョッカンetc.これらの問題は、日常的に経験していることでも、言葉で説明するのが難しいことがあります。「時間って何?」という問いは、毎日時計を見ているのに、その本質を説明するのは意外と大変ですが、今は視覚革命・聴覚革命・感触革命etcの時代に突入しています。いずれは本質が解明されるでしょう。●身近な抽象的な哲学的問題の例具体的にどんな問題があるのか、いくつか例を挙げてみましょう。1. 「私って誰?」アイデンティティの問題これは、自分自身の本質や、人間の存在意義を問う問題です。フランスの哲学者デカルトの「我思う、ゆえに我あり」という言葉は、この問いへの一つの答えかもしれません。2. 「本当のことってどうやってわかる?」知識の問題私たちが「知っている」と思っていることは、本当に確かなものなのでしょうか。この問いは、情報があふれる現代社会でますます重要になっています。3. 「正しいことって何?」 ? 倫理の問題何が正しくて何が間違っているのか、その基準はどこにあるのでしょうか。この問いは、私たちの日々の判断や行動に大きく影響します。4. 「自分の意思で行動しているの?」自由意志の問題私たちの行動や選択は、本当に自由な意思によるものなのでしょうか。それとも、何かに決められているのでしょうか。この問いは、責任や罪の概念にも関わってきます。5. 「心と体はどうつながっているの?」心身問題私たちの心(精神)と体(物質)は、どのように関係しているのでしょうか。この問いは、心の健康と体の健康の関係を考える上でも重要です。●抽象的な哲学的問題を考えることの意義抽象的な哲学的問題について考えることには、いくつかの大切な意味がありますが、AGI革命が叫ばれる現在文明は更に抽象的な哲学的問題を我々に視覚化して見せてくれます。1. 物事を多角的に見る力がつくこれらの問題に取り組むことで、一つの事柄を様々な角度から見る力が育ちます。例えば、「幸せとは何か?」という問いを通じて、幸せの多様性や個人差に気づくかもしれません。2. 深い理解が得られる抽象的な問題を考えることで、物事の本質を深く理解できるようになります。「存在とは何か?」という問いを考えることで、自分や周りの世界をより深く理解できるようになるんです。3. 価値観が明確になる倫理的な問題に取り組むことで、自分の価値観がはっきりしてきます。「何が大切か?」という問いを通じて、自分の人生の優先順位が見えてくるかもしれません。日常生活に活かす哲学的思考●抽象的な哲学的問題は、実は私たちの日々の生活にも大きく関わっています。1. 自分を知る「私は何者か?」「何を大切にしたいか?」といった問いについて考えることで、自分自身をより深く理解できるようになります。これは、人生の方向性を決める際にとても役立ちます。2. 人間関係を豊かにする「幸せとは?」「自由って何?」といった問題について考えることで、他の人の考え方や価値観を理解しやすくなります。これは、良好な人間関係を築く上で大切なスキルです。3. より良い選択ができるようになる「正しさとは?」「因果関係って何?」といった問題を考えることで、日々の選択をより慎重に、そして自信を持って行えるようになります。●纏め:哲学的思考の振り替え抽象的な哲学的問題は、私たちの考え方を広げ、深める重要な道具です。これらの問題について考えることで、世界をより豊かに、そして深く理解できるようになります。普段はあまり意識しないかもしれませんが、こういった問題に取り組むことで、自分自身や周りの世界を新しい目で見られるようになるんです。そして、その過程で得られる気づきは、私たちの人生をより充実したものにしてくれます。難しく感じるかもしれませんが、日常のちょっとした疑問から始めてみるのはどうでしょうか。「幸せって何だろう?」「正しいって何?」など、身近な疑問から哲学的思考を始めてみましょう。きっと、新しい発見や気づきがあるはずです。哲学的な考え方を少しずつ取り入れることで、日々の生活がより深みのあるものになっていくでしょう。以上の抽象的な哲学的問題がAI及び汎用人工知能 (Artificial general intelligence/A.G.I)時代には多少仮象的にしてもデジャブ(既視感)と捉えられるでしょう。参考画:Artificial Intelligencs-01 第6項 「知る」を知る-了哲学・思想ランキング
2024年10月21日
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ルドルフ・シュタイナー「精神科学と医学」第九講 1920年 3月29日 ドルナハ第九講-4 人間器官と外的なものとの関係の具体例をあげてみましょう。珪酸プロセス(Kieselsaeureprozesse)の例です。珪酸プロセスは、まず第一に、他ならぬ珪酸塩(Silikate)が形成されるところ、石英やそれと同類の岩石が形成されるいたるところに、非常に目立って現われます。そこで起こっているプロセスに対応するものが、人間の生体組織のなかにあるのです。しかし、このプロセスは、さらにある種の経過の基礎を成していて、この経過については残念ながら今日ほとんど考慮されておりませんが、これは、畑地での経過、畑地、つまり珪質土壌一般と、植物から地中に入り込んでいる器官、根状の器官との間で起こっているすべてのことにおける経過です。ですから、私たちが灰を取り出すことによって植物的なものから得るものはすべて、外部におけるこの珪質プロセスとより密接な親和関係にあるのです。この外部における珪質プロセスは、人間の内部にそのもう一方の対を持っています。しかも、このもう一対は、このように表現してよければ、心臓の活動より上部で肺の活動に向かって位置している器官にあります。しかしこれは、内的器官の形成活動、すなわち肺を形成してから頭部に向かって位置している活動でもあります。つまり、こう言ってよろしければ、心臓の活動より上部で起こっているすべてのことのなかに、外界における珪化プロセス全体の対極に位置するものがあるというわけです。この内的に器官的なプロセスの本質は、すでに今までの講演でも示唆いたしましたが、外界の珪化プロセスが大いに、この表現をまた使ってよろしければ、ホメオパシー化されているという点にあるのです。したがって、何らかの病気の像が、その発病箇所が心臓活動より上部にあることを示していることがわかったら、例えば肺の分泌が非常に強いということによってその大まかな場所は明らかにされますが、これは髄膜炎や仮性髄膜炎の場合においても少なからず現われてきます。当然、そこにあるものは、生体組織にあらゆる別の障害をもたらす可能性があるのです。なぜなら、肺におけるこういう障害は、生体組織においてはすべてが相互に関連しているために、心臓血管の障害にも作用を及ぼすからです。一方においては、脳の炎症状態に現われる傾向にある障害が、炎症状態として起こらずに、消化器官あるいは消化器官に関係するものにおける炎症状態として現われてくる可能性もあるのです。このとき肝要なのは、そもそも出発点はどこにあるのかを知ることです。これについては、さらにお話しすることができるでしょう。けれどもこれらすべての場合に重要なのは、外的な珪質作用を非常に希釈するような何かを、生体組織に供給することです。皆さんがこの関係を正しく眼前に置くことができれば、これはきわめて特徴のある、きわめて重要な関係なのです。またこの関係は同時に、身体の上部に観察できるような何かが直接存在している場合は、自然においてこれほど重要な珪質プロセスを、粉砕、分割、粉末状にすることによって変形することが不可欠であるということを皆さんに示しています。相互作用によって発生した障害が身体の下部にあるとき、例えば心臓そのものに障害があるときは、状況によっては、すでに珪酸を非常に多く含む植物によって導かれたプロセスを用いて、このような植物を変形するか、直接用いるかして、治療プロセスを引き起こすこともできます。珪質のものを含むすべての植物において、その植物が、人間の生体組織に対して、心臓より下で起こっているすべての経過に対して、どの程度作用を及ぼすのか、そしてもちろん他の組織に対してどの程度逆の作用をするのかも、綿密に調査するべきでしょう。 第九講-4 了記:褐虫藻が太陽の光を固定しサンゴにエネルギーを与え、褐虫藻は安全なすみかを手に入れているという共生関係にあります。 サンゴに高水温などのストレスが与えられると、褐虫藻がサンゴの体内から外に出てしまいます。 褐虫藻がサンゴの体内からほとんどいなくなり、透明なサンゴの白い骨格が透けて見える過程が「白化」です。 白化したサンゴはエネルギーを十分に得ることができなくなります。 この状態でも2-3週間ほどは、褐虫藻がサンゴの体内に戻れば生きることができます。参考画:Coastal Biogeochemistry哲学・思想ランキング
2024年10月20日
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ルドルフ・シュタイナー「精神科学と医学」第九講 1920年 3月29日 ドルナハ第九講-3 また肺生活といえば、密接に関連しているのは、その場所がその土地の組成によって端的に提供するものすべて、例えばこの地域のように非常に石灰質に富む土壌であるか、あるいは、石英質に富む土壌である珪質土壌、つまり始原岩層であるかといったことです。これに応じて常に、しかもかなりんの程度まで、人間の肺生活は異なっているのです。肺は本質的に、その土地の固体的な土壌の性質に左右されるからです。実際ある地域で開業しようとする医師の最初の課題のひとつは、その地域の地質学を徹底的に研究することでしょう。その地域の地質を研究することは、そもそもが、当の地域の肺を研究することに他ならないのです。ですから、肺が環境にまったく適応することができないのは、かなり不都合なことだということを明確に知っておかなくてはならないでしょう。さて、私がこういう関連で申し上げましたことを、誤解なさらないでほしいのです。肺と環境とのこの依存関係を確認するにあたって、私が言っているのは、肺の内的な構造のことであって、呼吸のことを言っているのではありません。当然のことながら、呼吸もまた、内的な構造に起因する良いあるいは良くない機能というものに左右されます。しかし今私が言っているのは肺の内的な構造のことです。肺がかさぶたになる傾向があるか、あるいは粘液化その他の傾向にあるか、これは本質的に、環境がいかなるものであるかということに依拠しています。けれども、それに加えて、肺というものは、肉体的な作業に非常に左右されるので、人間が過労になるまで肉体労働をしなければならない場合は、間違いなく肺が損なわれるのです。以上の諸関連が、肺、肝臓、膀胱、心臓のように、内的な器官から、外部に向かって、気象学的なものに向かって開かれている諸器官の依存関係へと、最も広い意味で私たちを導いていくのです。従って、これらの器官に発病があったら、物質的な方法で治療のために何かを獲得する試みが常になされねばならないでしょう。と申しますのも、これらの器官に発病があったとき、物質的な方法で獲得されるものは、何らかのしかたで持続すると申しますか、そういうものだからです。ですから、誰かが、肺が弱い傾向にあって、特定の土地にまったく合わないということが確認された場合、別のもっと合った土地に住所を定めるよう指示したなら、実際彼にとって最良のことをしたことになります。同様に、肺より上に位置している器官のためには、住む場所や生活様式をまったく変えることによってしばしばすばらしい成果があげられるのです。心臓より下に位置しているものに対しては、住む場所や生活様式の変化によってはそれほど成果をあげることはできませんが、肺および肺より上に位置しているものすべてに対しては、このように住む場所や生活様式を変えることがすばらしい成果をあげることができるのです。ただ、生体組織においてはすべてが相互作用しており、何らかのものが存在していたら、秘密の相互作用が存在していないかどうか、ちょっと考えてみなければならないということを、ここでもはっきり理解しておかなくてはならないのは言うまでもありません。例えば、心臓の血管に退縮が見られたら、こういう疑問を提示しなければならないのです、肺の退縮傾向も存在しているにではないか、この肺の退縮傾向からこの病気を把握しなければならないのではないかと。これによって少なくとも、人間と気象学上のものとの関係を示すすべてのものが暗示されているのです。外界において、天文学的なものは、気象学的なものの背後に、いわば私たちにとっては気象学的なものに覆われたかたちではじめて存在し、人間の内部にも天文学的なものが存在しています。人間の内部と外部において、皆さんが気象学的なものにおいて確かめることのできるすべてのものの背後に存在しているもの、と申しますのも、人間の内部における気象学的なものは、肺のようなもの、肝臓のようなもの、膀胱のようなもの、心臓のようなものに汲み尽くされ、外界においては気象的なものは、固体としての土壌、空気状のもの、水のようなもの、熱的なものに汲み尽くされるからですが、これは、植物的なものと鉱物的なものにおける形成プロセスであり、そしてこの植物的なものと鉱物的なものにおける形成プロセス、このように地球外的なもの、天文学的なものに近いこの形成プロセスに、常にいわば対極的に置かれているのが、人間においてこの気象学的なプロセスの背後に存在しているもの、つまり、先に挙げた四つの器官組織よりももっと内に向かって置かれているものです。植物や石のなかに外的に存在しているものと、人間の肺、肝臓等の背後にあるものとの関係はそれほど密接ではないので、この領域に由来する治療プロセスの研究は、実際のところ当然困難なものです。けれども、人間は、何らかのしかたで常に、外的に起こっていることの反対のことをどこかで成し遂げるという傾向、器官的な傾向を内部に有しているということをはっきり理解することによって、合理的な道が見出せるのです。 第九講-3 了参考図:人間器官と天体哲学・思想ランキング
2024年10月19日
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ルドルフ・シュタイナー「精神科学と医学」第九講 1920年 3月29日 ドルナハ第九講-3 また肺生活といえば、密接に関連しているのは、その場所がその土地の組成によって端的に提供するものすべて、例えばこの地域のように非常に石灰質に富む土壌であるか、あるいは、石英質に富む土壌である珪質土壌、つまり始原岩層であるかといったことです。これに応じて常に、しかもかなりんの程度まで、人間の肺生活は異なっているのです。肺は本質的に、その土地の固体的な土壌の性質に左右されるからです。実際ある地域で開業しようとする医師の最初の課題のひとつは、その地域の地質学を徹底的に研究することでしょう。その地域の地質を研究することは、そもそもが、当の地域の肺を研究することに他ならないのです。ですから、肺が環境にまったく適応することができないのは、かなり不都合なことだということを明確に知っておかなくてはならないでしょう。さて、私がこういう関連で申し上げましたことを、誤解なさらないでほしいのです。肺と環境とのこの依存関係を確認するにあたって、私が言っているのは、肺の内的な構造のことであって、呼吸のことを言っているのではありません。当然のことながら、呼吸もまた、内的な構造に起因する良いあるいは良くない機能というものに左右されます。しかし今私が言っているのは肺の内的な構造のことです。肺がかさぶたになる傾向があるか、あるいは粘液化その他の傾向にあるか、これは本質的に、環境がいかなるものであるかということに依拠しています。けれども、それに加えて、肺というものは、肉体的な作業に非常に左右されるので、人間が過労になるまで肉体労働をしなければならない場合は、間違いなく肺が損なわれるのです。以上の諸関連が、肺、肝臓、膀胱、心臓のように、内的な器官から、外部に向かって、気象学的なものに向かって開かれている諸器官の依存関係へと、最も広い意味で私たちを導いていくのです。従って、これらの器官に発病があったら、物質的な方法で治療のために何かを獲得する試みが常になされねばならないでしょう。と申しますのも、これらの器官に発病があったとき、物質的な方法で獲得されるものは、何らかのしかたで持続すると申しますか、そういうものだからです。ですから、誰かが、肺が弱い傾向にあって、特定の土地にまったく合わないということが確認された場合、別のもっと合った土地に住所を定めるよう指示したなら、実際彼にとって最良のことをしたことになります。同様に、肺より上に位置している器官のためには、住む場所や生活様式をまったく変えることによってしばしばすばらしい成果があげられるのです。心臓より下に位置しているものに対しては、住む場所や生活様式の変化によってはそれほど成果をあげることはできませんが、肺および肺より上に位置しているものすべてに対しては、このように住む場所や生活様式を変えることがすばらしい成果をあげることができるのです。ただ、生体組織においてはすべてが相互作用しており、何らかのものが存在していたら、秘密の相互作用が存在していないかどうか、ちょっと考えてみなければならないということを、ここでもはっきり理解しておかなくてはならないのは言うまでもありません。例えば、心臓の血管に退縮が見られたら、こういう疑問を提示しなければならないのです、肺の退縮傾向も存在しているにではないか、この肺の退縮傾向からこの病気を把握しなければならないのではないかと。これによって少なくとも、人間と気象学上のものとの関係を示すすべてのものが暗示されているのです。外界において、天文学的なものは、気象学的なものの背後に、いわば私たちにとっては気象学的なものに覆われたかたちではじめて存在し、人間の内部にも天文学的なものが存在しています。人間の内部と外部において、皆さんが気象学的なものにおいて確かめることのできるすべてのものの背後に存在しているもの、と申しますのも、人間の内部における気象学的なものは、肺のようなもの、肝臓のようなもの、膀胱のようなもの、心臓のようなものに汲み尽くされ、外界においては気象的なものは、固体としての土壌、空気状のもの、水のようなもの、熱的なものに汲み尽くされるからですが、これは、植物的なものと鉱物的なものにおける形成プロセスであり、そしてこの植物的なものと鉱物的なものにおける形成プロセス、このように地球外的なもの、天文学的なものに近いこの形成プロセスに、常にいわば対極的に置かれているのが、人間においてこの気象学的なプロセスの背後に存在しているもの、つまり、先に挙げた四つの器官組織よりももっと内に向かって置かれているものです。植物や石のなかに外的に存在しているものと、人間の肺、肝臓等の背後にあるものとの関係はそれほど密接ではないので、この領域に由来する治療プロセスの研究は、実際のところ当然困難なものです。けれども、人間は、何らかのしかたで常に、外的に起こっていることの反対のことをどこかで成し遂げるという傾向、器官的な傾向を内部に有しているということをはっきり理解することによって、合理的な道が見出せるのです。 第九講-3 了参考図:人間器官と天体オカルト・ホラー小説 ブログランキングへ
2024年10月18日
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ルドルフ・シュタイナー「精神科学と医学」第九講 1920年 3月29日 ドルナハ第九講-2 前項に続いて、膀胱の働きが不十分なことによって人間の生体組織に現われてくるすべてのものに移ります。私がこの点について申しますことは、もしかすると皆さんにはいくらか素人じみていると思われるかもしれません。けれども、私がどういう言い方をいたしましょうとも、これは、今日科学的と称されているもの以上に科学的なのです。膀胱というものは、そもそもが、その本質においてはひとつの吸引手段なのです。膀胱はいわば、人間の生体組織における空洞化(Aushoehlung)するものとして作用し、引き寄せるものなのです。膀胱は根本的に、人間の生体組織がその場所において空洞化されるということに依拠しているのです。膀胱の他の生体組織に対する作用は、ちょうど、水中のガス球の作用のようなものです。ここにガス球があるとしますと、これは希薄化された物質から成るもので、全面を水、つまりより濃密な物質に取り囲まれています。そして、この希薄化された球から起こる作用は、人間の生体組織に膀胱全体が及ぼしている作用に似ているのです。その結果、人間が、膀胱が齎すべきものすべてに関して煩わされることになるのは次のような場合です。正しく内的な運動をする機会があまりなかったり、つまり私が申し上げたいのは、噛まずに飲み込んだりして、食べること自体に正しく注意を払わなかったり、消化している間、休息と運動の節度を守らなかったりして消化の経過全体を妨げたりなどする場合です。内的な運動性を内的に妨げるものはすべて、膀胱生活とでも呼ぶことのできるものをも妨げるのです。さて、人間というものは、皆さんがその人の心臓に不規則さを予想したら、たぶん何らかの活気のある運動を処方することはできるけれども、皆さんが彼の内的な運動を調整しようとしても、彼の習慣がそうなってしまっているので、彼は受け容れたがらない、そういうものではないでしょうか。とはいえ、次のような場合はすぐさまうまくいくでしょう。つまりはそうですね、、飲み込んだり、その他消化を妨げることによって、身体に必要な休息を与える傾向を持っていないような人物を、気象学的に治療すると申しますか、つまりもっと酸素の多い空気のなかに連れていくという試みを皆さんがなさる場合です。こういう空気のなかでは、その人はもっと呼吸せざるを得ない、つまり呼吸プロセスに対して無意識にもっと慎重にならざるを得ないのです。そうすると、この呼吸プロセスの調整が他の器官プロセスの調整へと移行するわけです。ですから、このように不規則な膀胱機能に悩んでいるひとを、皆さんが、人工的にか、望むらくは自然に、異なった空気、もっと酸素の多い空気のなかに連れていけば、この生活様式の変化によって端的に、ある種の均衡がもたらされることがおわかりになるでしょう。とりわけ重要なのは、最も広い意味での外的な気象学に関連している第三の器官に注意を払うことです。それは肝臓です。人間の生体組織のなかで一見遮断されているように見えるとしても、肝臓は高度に外界に組み込まれています。しかも、この外界に組み込まれているということが確かめられるのは、肝臓の状態はいわば常に、ある場所の水の状態に左右されるということが皆さんにおわかりになることによってなのです。そもそも、ある場所に住んでいるひとの肝臓の状態を正しく見ることができるためには、その場所の水の状態が常に研究されねばならないでしょう。味わうことは肝臓の発達を促進させますが(☆1)、これが過度に起こると、肝臓を退縮させるのと同じことになるでしょう。つまり、人間における多すぎる飲食、過度の飲食は肝臓を退縮させるのと同じなのです。内的な飲食と申しますか、口蓋と舌に限定されるべきものが継続されたもの、楽しく共感的に食事を取るにせよ、あるいは反感を持って不愉快に食事を取るにせよ、食事をすることが、より内面へと継続されたもの、これが肝臓の退縮をもたらすものなのです。したがって、ぜひとも必要なことは、このことに目を向け、これを確かめるのは実際しばしば非常に困難なのですが、肝臓生活に何らかの支障がある人々に、味覚を研究し、味覚それ自体のなかに何かを見出す習慣をつける試みをしてみることです。肝臓生活といずれかの場所そのものにおける水の状態との内的な関係を徹底的に研究することは、きわめて困難でしょう。なぜなら、その依存関係はきわめて精妙なもので、たとえば、そうですね、そこの水が非常に石灰を含む場所では、水が石灰をあまり含まない場所とは異なった肝臓疾患が発生するといったことも考慮しなければならないからです。何と言っても、できるだけ水から石灰を遠ざけておくことによって、肝臓生活が促進されるということに注意し、常に注目すると良いでしょう。もちろん、それを実現するための手段と方法を見つけださなければなりませんが。 第九講-2 了参考画:人間身体の珪化哲学・思想ランキング
2024年10月17日
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ルドルフ・シュタイナー「精神科学と医学」第九講 1920年 3月29日 ドルナハ第九講-1 私たちが昨日議論いたしましたことは、人間の生体組織の、人間外部の自然へのいわば一種の接近ということでした。そして、匂いを嗅ぐ、味わうという二つの感覚が働く場合に存在している相互作用が、まさにその作用において、人間の生体組織が、人間外部の自然で起こっていることに、より密接な関係を持つようになるということがわかるのです。このように人間と人間外部の自然との関係を探る研究をしていく理由は、精神科学にとって、治療処置と人間生体の組織化プロセスが密接に関連しているということが重要だからです。治療に際して本来常に重要なことは、人間が、化学的にであれ、生理学的、物質的にであれ、身体に供給するもののなかには、また、いわば生体組織が健康な状態であれば成し遂げることができ、病気の状態では役に立てないもののなかには、いかなる要因があるのかを見通すことです。外的に起こっているプロセスと、人間の生体組織のなかで起こっているプロセスとを一緒に考えることができなくてはならないのです。さてこの両プロセスが最も接近するのは、匂いを嗅ぐという知覚と味わうという知覚が問題になるときです。他の感覚に関連するすべてのものにおいては、この両プロセスは互いに遠く隔たっています。たとえば、見ることと消化においても、両プロセスはかなり隔たっているのです。この場合、消化という点で、より狭い意味で私が現在理解しているのは、いわば口のなかで食物を噛むことと腸腺によるその加工との間で起こっていることです。つまり本来的には私はこの領域だけを消化とみなしたいのです。一方、他のものは、排出(空にすること/Entleerung)の領域とみなさなければなりません。それが、栄養素を取り入れるための、生体組織のなかでの排出であるにせよ、私が排泄(Ausscheidung)と呼びたいものに向かう、外部への排出であるにせよです。つまり、腺の向こう側にあるものなら、これを私は排泄と呼びたいのです。一方、見るということに目を向けるなら、私たちの前にある外界の物体は、臭覚プロセスと味覚プロセスにおいてはもっと表面にあるものを、いわば自らのうちに閉じこめています。臭覚プロセスにおいては、私たち人間に知覚できるように、人間外部の自然からより多く取り出されたものがあるのです。これは、その他の場合には、人間外部の自然の物質の内部に閉じこめられていて、このように閉じこめられている場合にそれが私たちの目に見えるのです。その形式等において可視的なものを見ることによって、私たちの外部にある形成原理、臭覚プロセスにおいては素材的にのみ開示されている形成原理を、私たちは実際眼前に見ているわけです。私が申し上げたいのは、匂いを嗅ぐときに開示される本質は、植物界、鉱物界まで追求されなければならず、そうすれば匂いを嗅ぐときに前面に出てくる原理が、外部の形成原理にも開示されていることがわかるだろうということです。そして、この反対のプロセスは、他ならぬ消化プロセスです。消化プロセスはいわば、味わうときに開示されるものを自らのものにするのです。消化プロセスは、味わうときに開示されるものを、逆に生体組織のなかに隠しているのです。私たちが人間外部の自然を、それがより無意識的なもののなかにあるように今まで記述せざるを得なかったということを指摘するのは、きわめて重要なことです。と申しますのも、私たちが宇宙全体から構成することのできたこの連関は、人間のなかに存在しているからなのです。人間は、土星的なもの、木星的なもの等に組み込まれています。けれどもこの帰属関係は人間の生体組織のきわめて深いところに隠されていて、あまり今日の思考方法の不興を買わないとすればこう言って良いほどです。天文学的なものは、人間において最も無意識的なものとなる。これは人間において、多くの場合生体組織の背後にあるプロセスとなると。さて私たちは、この人間の生体組織をある種のしかたでいわば再び内部で開く諸器官を持っています。そしてこの、人間の生体組織をあるしかたで再び開く諸器官、これらは生体組織を、この地球の近くで展開しているものにより関連づけます。生体組織を、今度はもっとも広い意味で考えられた気象学上のもの(das Meteorologische)により関連づけるのです。ですから、治療プロセスにおいて単に薬物にのみ目を向けるのではなく、治療経過そのものを追求していくなら、人間と、まさに最も広い意味での気象学上のプロセスとの間に成立している関係にも目を向けていかなくてはならないのです。私たちはここですでに、人間の生体組織において、天文学的なものに、より深く組み込まれているものと、気象学的なものに、より深く組み込まれているものとを区分することができます。とはいえ、ここでもっと精確な観察方法が出てこなければなりません。こういう区分が行なわれなければならないというのは、最初のうちは皆さんにはいくらかショッキングなことかもしれませんが、この区分こそが治療のための最良の基礎であることは、次第に皆さんにもおわかりいただけるでしょう。気象学的なものに開いているもっと内部に向かって置かれているものを、天文学的なものに傾いているのと同様にその諸器官に目を向けるなら、私たちが人間の生体組織においてこういう器官とみなすものは、とりわけ肝臓であり、小嚢状になるもの、つまりまさに膀胱に代表されるような、とりわけ病理学上の関連でも膀胱はきわめて重要ですが、それらのすべてのものです。最初は奇異に思えようとも、病理学上の観察にとっては、膀胱は最も重要なもののひとつなのです。さらに私たちは肺に目を向けなければなりません。肺は呼吸を中継することによって、何と言っても外部に向かって開いています。さらに、ある意味で私たちが、生体組織全体を外部に、気象学にむかって開いている諸器官のひとつに数えなければならないのは私が今までの観察で申しましたことを正しく受け取っていただければ、すぐさまこのこともご理解いただけるでしょうが心臓です。しかもこれらの器官は、事実全く特定の気象学上の衝動に組み込まれているのです。ここで意味されていることを研究できるのは、人間と周囲の世界との関係全体、とりわけ、人間の活動と周囲の世界との関係のなかに分け入っていくときのみです。ここで特に皆さんにちょっと指摘しておきたいことは、皆さんが、心臓の障害として現われてくるものすべての原因を、人間の妨げられた活動に帰する試みを、徹底的になさることです。皆さんが一度調査してごらんになると良いのは、そうですね、農夫として畑を耕し、この畑を耕すという活動からそれほど遠ざからない人の場合と、例えば職業上、頻繁に自動車に乗らなければならなかったり、頻繁に鉄道旅行しなければならない人の場合とでは、心臓の働きがいかに異なって形成されるかといったことについてです。こういうことについて一度徹底的な調査を行なうことは、極めて興味深いことでしょう。なぜなら、心臓疾患への傾向は、要するに、その人が、外的な手段によって動かされている間、自分ではじっとしている、つまり、汽車の車室や車のなかに座ったまま移動させられるということに依拠しているということが皆さんにもおわかりになるでしょうから。このように、人間が受動的に運動に身を委ねることは、心臓において滞留しているあらゆるプロセスを変形させてしまうものなのです。このように、人間の世界で起こっていることはすべて、人間が自らを暖めるやり方と関連しています。ここで皆さんは、心臓の働きと、人間が関係している世界における熱の衝動との親和性に気づかれると思います。このことから皆さんは、人間が自分自身の活動によって、十分に熱を発生させると、この、自分の活動による十分な熱の発生のある一定の度合いが、同時に人間の心臓の健康の度合いであることがおわかりになるでしょう。したがって、心臓疾患について常に注目しておかなければならないことは、まさに自分自身で運動を体験し、引き起こすことなのです。私は確信しているのですが、いつか十五年くらいたったら、こういう事柄について、現在よりもっと冷静に考えられるようになり、人々はこう言うでしょう、それにしても不思議だ、オイリュトミーで心臓の働きが良くなるなんてと。オイリュトミーはまさに、本質的に、魂に貫かれた自身の運動を調整し、しかも規則的に調整されているからです。したがって、こう言っても悪くはないでしょう、心臓の機能の不規則性といった問題においては、他ならぬオイリュトミー的なものから得られる、健康にしてくれる運動について、こういった観点からこそ言及せねばならないと。 第九講-1 了記:オイリュトミーとは、ギリシャ語で「調和のとれた美しいリズム」を意味する運動芸術で、ドイツ語でEurhythmie(オイリュトミー)、英語で「Eurythmy(ユーリズミー)」と呼ばれます。ルドルフ・シュタイナーによって1912年に創られました。言葉や音楽を身体を通して表現する空間運動芸術で、身体を楽器として、音楽家や語り手と同じように作品に込められた思いやメッセージを表現します。?オイリュトミーには、次のような特徴があります。?シュタイナー教育でオイリュトミーは、必須科目として教えられており、子どもたちの成長にとって欠かすことのできないエネルギーとなります。また、オイリュトミー療法として、アントロポゾフィー医学の一翼を担う運動芸術療法としても実践されており、急性、慢性の様々な疾患に働きかけ、生命力や自己治癒力を高めていきます。?参考画:オイリュトミー哲学・思想ランキング
2024年10月16日
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ルドルフ・シュタイナー「精神科学と医学」第八講 1920年 3月28日 ドルナハ第八講-5 私たちがさらに内的なプロセスを探究していくと、どこに行くのでしょうか。視覚から発して私たちが表象のなかに有しているものは、視覚において外面化されているもので、これは思考においていわばまた内部へと反射するものです。見るというプロセスをいわば反対向きにしようと、再び生体組織の方に導こうと努めているわけです。その反対の極に置かれたプロセスは、したがって、そこにあるプロセスを、内部に向かってではなく、外部に向かって導こうと努めているということになるでしょう。つまりこれは、消化プロセスは、排泄プロセスのなかに継続され(図参照)、排泄プロセスはそれによって表象のもう一方の対となる、ということです。こうして皆さんは、私が数日前に比較解剖学によって皆さんに示したことを、別の、より内密な見地から見たわけです。数日前に私が示したことには、いわゆる人間の精神的な能力と、調整された排泄プロセスあるいは調整されない排泄プロセスとの間に、いかに内的な親和性が生じているかを、まさに人間の構成と、とくに腸菌群落の発生が、何らかのしかたで示唆しているということもありました。皆さんはここでは別の面からこのことをとらえるのです。つまりここで皆さんに示されるのは、私たちの内に向かっては、思考プロセスのなかに、見るプロセスが継続されていて、外に向かっては、排泄プロセスのなかに、消化プロセスが継続されているということです。さて、私たちが少し前に観察したこと、つまり、芳香発生は押しとどめられた燃焼プロセスであり、植物の硬化は押しとどめられた塩化であるということにもどるなら、私たちはまたも、今度は内部で起こっていることに光を投げかけたことになります。ただし、反転も起こりうる、ということを明確にしておかなければなりません。ここ上部位置では、見ることが、内面化に向けて反転し、ここ下部位置では、外面化に向かって反転しています。したがって私たちは、ここ上部では、その経過の塩化との親和性を認めることになり、ここ下部では、その経過の火化(Feuerwerden)、あるいは燃焼、火との親和性(図参照)を認めることになるのです。つまり、植物における芳香発生と押しとどめられた燃焼プロセスに作用する(☆1)のに適しているものを、下腹部に導けば、皆さんは下腹部の働きを助けることができるでしょう。植物において塩プロセスを押し留(とど)めるめる、あるいは塩プロセスを植物のなかで内面化する使命を持つものを、上部人間に導けば、皆さんは上部人間の経過を助けることができるでしょう。このことはさらに個別的に実施していかなければなりません。こうして、外部全体がいわば再び内部全体のなかに現われ得るのだということがおわかりだと思います。ですから、人間の内部へと入り込んでいくほどに、それだけいっそう私たちは人間の内部に外的なものを探究しなければならないのです。私たちは、消化器官、とりわけ腎臓において起こっていることのなかに、芳香発生プロセス、燃焼プロセスに非常に親和性のある、そういう何かを探究しなければなりません。ただしこれはもう一方の極においてです。さらに私たちは、肺から始まって喉頭と頭部を経て上に向かう人間の組織のなかに、植物において塩化となるもの、人間内部の自然全般において塩化の傾向を持つものすべてと内的に親和性のある何かを探究しなければなりません。つまりこう言えるかもしれません。単にこう言えるかもしれないのではなく、こう言うことができる、植物が自らのうちに塩を集積するさまざまなやり方がわかったならば、人間の生体組織のなかの対応するものを探しさえすればよいということです。きょうはこれを概観的に探究しましたが、個別的には明日以降の講演で追求していきましょう。参考画:Digestive System これでおわかりのように、いわば植物療法全体がとりあえずは原理として特徴づけられたわけです。植物療法は何に依拠しているのかがおわかりになったと思います。私が申し上げたいのは、皆さんは、内部と外部との相互作用においておこっている実際のプロセス全体を見通しているのだということです。けれどもまったく特殊なものにもすでに目を向けているのです。たとえば、すでに香りというよりはむしろ味覚的なものへの傾向を持っている、と申しますか、その当の植物を噛むことによってはじめて、正しい香りにたどり着き、実際香りと味との統合を知覚するような、メリッサ(Melisse、メリッサ、レモンバーム、西洋ヤマハッカ)やカキドオシ(Gundelrebe)のような、そういう香りを想って考えてみてください。すると私たちには、すでにその内部にはいくぶんかの塩化が存在していること、すでにその内部では、塩化と芳香発生の共同作用が見られることがわかるのです。このことが私たちに示してくれるのは、メリッサその他のような植物に親和性を持っているにちがいない器官は、より外部に向かう、胸に向かう位置にあり、一方、非常に芳香を放つ、そうですね、ボダイジュやバラのようなものに親和性を持っているにちがいない器官は、下腹部に、より一層入り込んでいるか、より下腹部に向かう位置にあるものに親和性があるにちがいないということです。さて、上部人間において、嗅覚や味覚の領域に位置しているものすべての間に、器官的に観察して、ある別のプロセス、これはいくらかもっと深い意味で、人間にとって重要な生のプロセスなのですが、そういう別のプロセスが組み込まれている、ということに気づかれるでしょう。ここに組み込まれているのは呼吸プロセスです(図参照)。私たちはこの呼吸プロセスに対しても対極的に組織されているプロセスを探すことができます。この呼吸プロセスの対極のプロセスは、消化プロセスが排泄プロセスに通じ、器官上の表象プロセスに対して対極のものである限り、消化プロセスからいわば区別されるプロセスでなければなりません。ちょうど呼吸が、器官的に見て、嗅覚・味覚プロセスの近くに限定されているように、器官的に消化プロセスのもっと近くにあるもの、そういうものが、区別されなければならないのです。これは、リンパー血液プロセス、血液形成プロセスにおいて起こっているすべてのもの、あるいは、消化から内部へ向かって押し込まれたもの、つまりリンパ腺その他のような器官、血液形成に関与するすべての器官にあるもの、こういったすべてのものです。こうしてここに二つの対極的なプロセスが見られます。ひとつは消化から分離されたプロセス、もうひとつはもっと外に向かって置かれた感覚の経過から分離されたプロセスです。すなわち、いわば感覚の経過の背後にある(☆2)呼吸と、消化がさらに排泄に通じる限り消化の前に置かれている血液形成ーリンパ形成プロセスです。奇妙なことに、私たちはこうしてプロセスから人間全体のなかに入っていくのに対し、今日では通常、目の前にある器官からしか人間の観察はなされていません。私たちはここで、プロセスから、人間と人間の外部の世界との関係全体から、人間を認識し、洞察しようと試みています。そして実際に、私たちにとって真に直接、人間におけるエーテル活動全体を写す像である諸関係を見出すのです。なぜなら、結局私たちがきょうのこの時間で研究してきましたことは、人間におけるエーテル作用に他ならないからです。そしてこの二つのプロセス、呼吸プロセスと血液形成プロセスは、再び出会います。この出会いというのは人間の心臓で起こるのです。おわかりですね、人間の外部をも含んでいるという意味において外界全体が、二重性として、つまり人間の心臓でせき止められ、人間の心臓において一種の均衡状態を目指す二重性として、私たちに現われてくるのです。このようにして私たちは、ある独特のイメージ、人間の心臓のイメージに到達することができます。この心臓の内面においては、体の全面にわたって私たちに外的に作用してくるものの統合(Synthetisieren)がなされ、外界においては、分散(Analysieren)がなされている、つまり心臓のなかでいわば膨らまされたものがいたるところで拡散させられているのです(図参照)。ここで皆さんは、重要な考えに到達します。これはたとえば次のように言い表わせるかもしれません。皆さんは宇宙を見渡してこの円周を目にし、こう自問するのです、この円周のなかには何があるのだろう、この円周から働きかけてくるものは何なのだろう。この円周に親和性のある、同じような何かを、私のなかのどこに見出せるのかと。私が私自身の心臓をのぞいてみるとしたら、そこにはいわば、反転した天が、対極に置かれたものがあるのだ。こちらに周辺部分が、いわば無限のかなたへと拡張された点があり、一方で人間の心臓に集中された円があるのです。宇宙全体がこのなかに存在しています。大雑把な比喩を使うなら、簡単にこう言えるかもしれません。人間が山の上に立って遥か彼方を見渡し、宇宙の広大な円周を見ると考えて下さい。それからごく小さなこびとを人間の心臓に置いて、このこびとがそのなかに何を見ているか、思い浮かべてみてください。このこびとは、その内部の回転に宇宙の完全な像が縮小され、統合されているのを見るのです。これは単なる具象的な表象、一種のイマジネーションにすぎないかもしれませんが、同時に、正しく受け容れれば、正規の、調整的なイメージ、調整原理として作用することができるものであり、まさに私たちが個別的に認識するものを、正しく総括する手引きとなってくれるものなのです。これで私は、個別の観察のためのだいたいの基礎を作りました。これはまた、提出されたさまざまなご質問に個々に答えるための土台にもなるでしょう。哲学・思想ランキング■原注 ☆1 「に作用する」という語句は筆記録にはないが、後続文に応じて編者により補足された。 ☆2 「感覚の経過の背後にある」のあとに、ある筆記録では「表象は魂的なものの栄養であり、その中間に呼吸プロセスが組み込まれます。」という文が見られる。 第八講-5 了 「精神科学と医学」第八講 完了
2024年10月15日
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ルドルフ・シュタイナー「精神科学と医学」第八講 1920年 3月28日 ドルナハ第八講-4 生体組織のなかで、味覚(味わうこと)の継続として在るものに対しても、私たちは同様の分割を行ないました。つまり、一方で、腸による排泄、糞便の排泄への傾向を持つ消化があり、他方では、腎臓による排泄、排尿による排泄があるということによって分けたのです。ここで確実に、人間の上部と下部における対応が得られます。まったく確実に、二つの対極的に相対して存在しているものが得られるのです。味わうことと匂いを嗅ぐことを分け、通常の消化と、より内密な腎臓の働きに基づくすべてのもの、より内密な腎臓の働きに組み込まれるすべてのものとして、通常の消化から区別されるものとを分けることによって、これが得られるのです。こうしていわば、生体組織の皮膚によって隔てられた内部で起こっていることを、外的なものが内面化されたものとして観察する可能性が出てきます。なぜなら、私たちは上に向かって継続させるものすべてとともに、よりいっそう外的なものへと入り込んでいくからです。ここで人間は外的なものに向かって開くのです。さて、こういうことをさらに追求して、いわば私たちのうちに魂的に生きているもののなかに、生体組織と結びついて、これは唯物論的な意味でではなく、皆さんもいくつかの講演からご存じでしょうが、別の意味で結びついているのですが、こういう意味で生体組織と結びついて魂的に生きているもののなかに、私たちは、変容させられた視覚(ein metamorphosiertes Sehen)を有している。これはまた内部のある方面に向かって、思考のなかに、表象のなかに(図参照)置かれているというところまで追求すると、私たちは、表象の根底にある器官、つまり人間の頭の内部の器官を、ある一定の方向に向かって変容させられた見る器官として考えなければなりません。どうか、調べてみてください、思考のなかに生きている皆さんの表象の大部分は、視覚表象の単純な継続なのです。生まれつき盲目のひと、生まれつき耳の聞こえないひとの魂的生活を比較してごらんになりさえすれば良いのです。私たちは思考のなかに、内部に向かって継続された視覚を有しているのです。こうして私たちは、頭部や脳の解剖学的構造と思考の経過そのものとの間に生じている独特な相互関係に、さらに一条の光なりとも投げかけられると云えるようになります。たとえば実際奇妙なことに、私たちの思考の経過にきちんと迫っていって、これも医学の学位請求論文の結構な一章となるでしょうが、脳の組織と、統合的思考がどのように関連しているか調べてみようとするなら、不思議なことに、臭覚神経が変形させられたように見える構造に行き当たります。したがってこう言えるでしょう。私たちの散漫な、分析的思考は、内的に見て、そのもう一方の対であるものにおいて、見るということに似ている、けれども、ものごとを統合すること、「観念の連合」、これは本来、内的、器官的に見て、匂いを嗅ぐことに非常に似ていると。つまりこのことは、非常に注目すべきしかたで、脳の解剖学的な構造にも現われているのです。こうして私たちは、いずれにせよ表象、思考の一面にたどり着くわけです。 第八講-4 了記:Association of ideas「観念の連合」は、人の心の中である一つの考えが他の考えや感情を呼び起こす現象を指しています。例えば、海を思い浮かべると、砂浜や波の音、夏休みの思い出などが次々と関連して連想されることがあります。このように、アイデアや記憶が連鎖的に結びついていくのがassociation of ideasです。イギリスの哲学者デイヴィッド・ハートリー(David Hartley/ 1705年-1757年)はイギリスの哲学者が観念連合心理学の創始者です。想起や思考一般の流れは、直接的に外的感覚に依存している場合を除き、脳内で熱と動脈の鼓動によって絶え間ない振動が生じることから説明される。こうした振動の性質は各人間の過去の経験やその場での状況によって左右され、そうした状況は何らかの支配的な傾向性を生み出すとされる。頻繁に連合する複数の感覚は、それに対応する観念に結びつけられ、連合した感覚に対応する観念がさらに連合し、その結びつきが強い場合には新しい単純観念(simple idea)が形成されることもある。そうした連合された観念に対しては、注意深く分析すれば要素に分けることは可能であるとされます。参考画:David Hartley哲学・思想ランキング
2024年10月14日
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ルドルフ・シュタイナー「精神科学と医学」第八講 1920年 3月28日 ドルナハ第八講-3 私たちはいかなる意味でも、私たちの生体組織が外界にもたらすものと、外界が私たちの生体組織にもたらすものを区別しなければなりません。つまり、血液が目に流れ込むことによって、すなわち生体組織が目に働きかけることによって、内部から経過として起こってくるものに、私たちは注目しなければならないのです。これは、私たちと同様な器官に加えて目のなかに房室や剣状突起、つまり血液器官を持っている動物の場合に、一層強力に起こっています。この血液器官を通じて自我(エゴ)が眼球のなかにより多く送りこまれるのです。一方、私たちの場合この自我(エゴ)は後退して、眼球を内的に自由にしています。けれどもここでは、血液という回り道を通って、組織全体が、目を通じて感覚現象全体に作用を及ぼしているのです。そして、この見るという経過の内部で、味覚の経過が変容させられていて、それで私たちは、見ることを、変容させられた味わうことをそれぞれに視覚、味覚と呼ぶことができるわけです。そうなると私たちは、変容させられた味覚として、いわば味覚(味わうこと)と嗅覚(匂いを嗅ぐこと)の上部に、視覚(見ること)を位置づけたことでしょう(図参照)。つまり、味覚の経過全体であるものにも、見るという経過であるものにも、内部とともに作用する何か外的なものが対応しています。つまりこの経過はいわば上に向かって、変容させられねばならないのです。見るという経過は、味覚の経過が変容させられたものなのです。けれども、さらに今度は体の下方へ向かっても、味覚の変容が起こらなければなりません。私たちは見るという経過においてより外界の方へと上昇していく一方、眼(*目)は骨の窪みに嵌め込まれているだけで、私たちはそこから外へ向かい、今度は反対の方向へと、生体組織の下方に向かって、味覚の経過の変容を考えていかなければならないのです。加えて目(*眼)は非常に外的な器官なので、見るという経過はより外部に向かって組織されています。こうして私たちはいわば、視覚のもう一方の極に、生体組織において見るという経過に対応しているものに辿り着くわけです。これは以下の考察で私たちに夥しい光を投げかけることでしょう。と申しますのも、私たちが味覚の経過の変容を下へ向かって追求していくときに得られるものは何なのでしょうか。つまりその場合は消化というものが前提になってきます。そして皆さんが真に内的に消化というものを理解できるようになるのは、皆さんが一方において、視覚を、変容させられた味覚(味わうこと)の継続と考え、他方で消化を、変容させられた味覚の継続と考えるときのみです。しかもこれは、消化を、外面化された視覚に対して、完全に対極にあるものとして理解することができるということです。外面化された視覚は皆さんを、外界においてこの消化に対応しているもの、器官的に内面化されて消化となるもの、これを認識することに導いてくれるからです。他方において皆さんは、消化の経過が味覚の経過に親和性を持っていると考えなければならないと気づかれるでしょう。消化プロセス全体を次のように考えない限り、人間の生体組織における内密な効力、消化プロセスに局所的に見られるこの効力を理解することはできません。つまり、良い消化とは、いわば消化管全体で味わうすべを心得ている能力に基づいていて、悪い消化とは、いわば消化器官全体で味わう能力の欠如に基づいていると考えなければならないのです。さて私たちが考察してまいりました経過は、味わうことと匂いを嗅ぐことに分かれます。こうしていわばひとつの経過が分かれて、一方では、味わうことにおいて、エーテル的なものと物質的なものとの相互作用の方が活発なプロセスと、他方では、私たちが匂いを嗅ぐ場合にそうであるような、エーテル的なものとアストラル的なものの関係の方が強い経過が扱われるのです。 第八講-3 了参考画:味覚・視覚・嗅覚の関係哲学・思想ランキング
2024年10月13日
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ルドルフ・シュタイナー「精神科学と医学」第八講 1920年 3月28日 ドルナハ第八講-2 今度は、植物において、味覚を刺激するものを見てみましょう。これは植物のもっと深い部分にあるもので、植物において、その植物形成力を幻影のように自らのうちから周囲へと追い出すような事態にはさせず、植物がその形成力を自らのうちで統合するように、それを内的な形成力のために使用するように導くものです。味わうということにおいて皆さんもこの内的な形成に加わっていますので、ここで皆さんは、植物的なものの硬化の下方にあるプロセス、塩化の、この別の段階での変容であるプロセスに行き着きます。勿論のこと、ここでは植物相についてのお話しているのですから(図参照)、これは植物の塩化のことです。考えてみてください、皆さんは植物のなかに独特な変容をもたらしたわけです。植物のなかに上に向かっては芳香発生プロセスがもたらされました。これはいわば押しとどめられた燃焼プロセスであって、すでにここから燃焼プロセスが始まることも可能です。なぜなら、花となっていくプロセスはまさしく、そこに組み込まれている燃焼プロセスだからです。下に向かっては、硬化、塩化が見出されます。そして、皆さんが植物において味わうものは、まだ押しとどめられた塩化なのです。けれども、塩が組み込まれて、塩が植物そのもののなかに見出される、すなわち「植物塩」が得られるとき、これらの植物塩は、植物において自身が植物化していく道を越えて踏みこんでいった何かなのです。この場合、植物は、自分自身の本質のなかに自分自身の幻影を押し込めたわけです。記:シュタイナーの云う「植物塩」なるもの土壌に含まれる塩基(カルシウム、マグネシウム、カリウム)は、土壌診断では「交換性塩基」と呼ばれ、作物の生育に大きな影響を与えます。これらの塩基は粘土や有機物に吸着されていますが、ほかの陽イオンと簡単に交換されて剥がれるため、植物が利用しやすい状態となっています。?一方、アルカロイドは、植物などに含まれる塩基性を示す化合物の総称です。窒素原子を含むために、アミノ酸を直接の原料にとする場合が多いですが、そうでないもの(アンモニア由来など)も少なからずあります。少量でヒトや動物に強い作用を示すものが多く、古くから医薬、農薬などとして使用されてきました。?アルカロイドは強い生物活性をもつものが多く、植物毒の多くはアルカロイドです。また、薬用植物の主成分もアルカロイドであることが多く、医薬品の主成分とし使用されているため、此れを指し示すものと想われます。 ここで治療薬のための理性(Ratio)が認識されます。ここで、ある意味で植物相に光が当たり始めると申し上げたいのです。そこで起こっていることに目が向けられるからです。繰り返し強調しておかなければなりませんが、この具体的に見るというとことそが肝要なのです。さて、さらに進んで行くために、皆さんは以下のようなことを思い出してくださればよいのです。つまり私は、そのような場合はやはり、高度に臨機応変主義的なと申しますか、そういった理由から、議論すべきことを今日行なわれ行なわれているであろうことと結びつけたいということです。それによって皆さんも、精神科学が与えることのできるものと、外的な科学であるものに橋を架けることができるようになっていただきたいのです。当然のことながら、以下の文において議論していくことを、今現在もっと精神科学的に特徴づけることもできるでしょう。けれども私は、現にもう存在している今日の科学に通用する考え方に関連づけていきたいと思います。今日(こんにち)生理学者は、彼の眼前にあるものについて語りますが、この眼前にあるものは、精神科学者にとっては、眼前にある必要はありません。これと同じ意味で、精神科学者は解剖をする必要がないからです。けれども私たちは、通用している考え方に関連づけていきます。実際私たちは、他人を解剖するなどという暴挙を受け容れる必要はないのですが、それらがすでにもう存在してしまっていて、その成果を提供しているという事実はやはり顧慮しておかなければなりません。自然科学が精神科学によっていくらか豊かにされる場合のみ、こういう暴挙は止むことでしょう。それではひとつ試してみましょう。そうすれば、目のなかで起こっているプロセスと、匂いそしてとくに味において起こっているプロセスとの間に、他の器官実質での味覚神経の拡がりと目のなかでの目の神経の拡がりという点で、いかに密接な親和性とその密接な関係が成立しているかということが精神科学からまったく明らかになるでしょう。ここでは非常に密接な親和性が成立していて、見るという経過の内的なものの特徴を示そうとすれば、実際ほとんど、味わうことの経過との類似(アナロジー/Analogy)を探さざるを得ないほどです。むろん、器官実質に味覚神経が拡がっている場合、目の精緻な形成であるもの、器官的な実質に拡がっている視神経の前に置かれている、目の精緻な形成であるものは結びついていないので、見ることというのはまったく別の何かです。しかし、物質的な目の精緻な構造の背後で、いわば見るという経過として始まるもの、これは、非常に内的に、味覚の経過と親和性があるのです。私が申し上げたいのは、私たちは見ることにおいて、変容させられた味覚(ein metamorphosiertes Schmecken)というものを実現している、味わうということを変容させているということです。この変容は、私たちがまさに、味わうときに起こっている器官の経過の前に、目の精緻な構造によって生み出されるすべてのものを置いたことによってなされているのです。参考画:smell the flowers哲学・思想ランキング
2024年10月12日
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ルドルフ・シュタイナー「精神科学と医学」第八講 1920年 3月28日 ドルナハ第八講-1 私たちが「エーテル体」や「アストラル体」等々と言う場合、私たちの理念の語句を短縮し、簡潔にするとでも申し上げますか、そのためにはこういう用語法を適用せざるを得ないのですが、「エーテル体」、「アストラル体」などによっていわば物質界の出来事に刻印されているものに、この用語法をそっくり還元することができ得ます。ただ今日においては、物質的な出来事のなかに現われているものを、真に正しく存在の霊的な基盤に関係づける方向にある状況とはいえません。けれども、医学的な思考と直観(Anschauen)の霊化のためには、是非ともそれがなされねばならないのです。たとえば、私たちがエーテル体と呼んでいるものと、物質体と呼んでいるものとの相互作用はそもそもがどのように起こっているのかといったことにぜひとも立ち入って行かなければなりません。ご存じのように、この相互作用は人間において起こっており、昨日は、この相互作用のある一面、つまり、アストラル体の作用に対してこの相互作用が一種の混乱状態になる場合についてお話ししました。この相互作用は、人間の外部にある自然においても起こっているのです。さて、よく考えてみてください、この考えを妥当に最後まで押し進めていくと、皆さんは、人間と人間外部の自然との関係を実際根本的に見通すことになるのです。皆さんが人間の外部の自然を眺めるとします。皆さんの回りには、さしあたり、きょうのところはこの点に拘りますが、汎ゆる種類の全植物相が広がり、皆さんは、さまざまな感覚を通じてこの植物相を知覚します。こうして眺めると、皆さんはさまざまな感覚によって植物相を知覚することができ、この植物相と、まずは地球の大気のなかにあるものすべてとの、次いでこの地球の大気の外部の、惑星的なもの、アストラル的なもののなかにあるものとの関係を、少なくとも予感することができます。私たちが地球の植物相を観察するとき、ここが(図参照)地表面であるとすると、この植物相は私たちに、大気的なもの、アストラル的なものを示している。このアストラル的なものというのはこの場合、これが星々を、地球外のものを目指して行くという意味ですが、このアストラル的なものを示していると云えます。そして神秘学的なもの(Okkultes)に入り込まなくても、差し当たりこう予感することができるのです、この外界においては、植物相に現われているもの、開花や結実に現われているものと、遥かなる全宇宙から作用してくるものとの活発な相互作用が見られるのだと。さらに、これらすべてから目を転じ、思考を今度は私たちの内部に導く、このように見ていく際には、皆さんにはいくらかイントゥイション(直観力)を助けにすることを試みて下さらなくてはなりませんが、すでに申しましたように、医学においてはイントゥイションなしでは絶対にすまされないのです。つまりこの思考を外界から転じ、私たち自身の内部に目を向けると、私たちは、この外部にあるものとのある種の親和性を見い出せるのです。このとき植物相においては、エーテル的なものと、物質的なものは密接に結びついている、そこで私たちは、植物相における、エーテル的なものと物質的なものの結びつきと、人間自身における、エーテル的なものと物質的なものの結びつき、この両者の結びつき方にある種の親和性があることも予感せざるを得ないと私たちは言わなければなりません。問題は、このエーテル的なものと物質的なものの親和性について、私たちは何によって外的かつ具体的に語るのかということに対して答弁することです。私たちは先ずさしあたっては抽象的にこのように言うことができます。つまり、エーテル的なものは、上方にむかって開いているという限りでは、物質的なものよりもアストラル的なものに近いと。けれども私たちは、エーテル的なものは、物質的なものに対して何らかの関係があるとも言わなければならないでしょう。すなわち私たちは、こうした二重の親和性、エーテル的なものが一方では物質的なものに、他方ではアストラル的なものに対して有する二重の親和性に目を向けねばならず、さらに私たちをいわばこの二重の親和性へと導いていくものを探究していかねばならないでしょう。皆さんがどのようにしてこの二重の親和性へと導かれうるかということを、まずここでできるだけ具体的に述べておきたいと思います。そうですね、ひとつ花盛りの菩提樹の並木道を歩いてごらんになって、この並木道で花盛りの菩提樹(Linde/西洋ボダイジュ、シナノキ科)の芳香のなかを皆さんがどんな具合に通り抜けていくかを明確にしてみてください。このとき、皆さんの臭覚器官のなかにいわば神経状に拡がっていくものすべてと、この菩提樹の花の芳香との間にひとつのプロセスが生じていることを明確にしてください。さらにこの菩提樹の花の芳香を知覚するプロセスに注意を向けると、これは、いわば内部の発露(Aufschiessen)、菩提樹の花の芳香、菩提樹の花の匂いに対する臭覚力の発露であるとおわかりになるでしょう。そして皆さんはこう言わなければなりません。ここでは内部を外部にもたらすようなプロセスが生じている、この内部と外部は、内的な親和性によって、何らかのしかたで共に何かを行なっているのだと。さらにこう言わなければなりません。菩提樹の花の芳香によって外界に発散されているもの、植物相、つまり地球外の環境に向かって開いている植物相と、地球外の環境全体との相互作用に基づいているにちがいないもの、こういったものが、いわば臭覚という知覚そのもののなかに内面化されているのだと。知覚ということをするがゆえに、皆さんはここで内的に、エーテル体からアストラル体へと作用する何かを与えたわけです。これは疑う余地のないことです。さもないと皆さんは知覚することができないでしょうし、これは単なる生命プロセスにすぎないことになってしまうからです。臭覚器官そのものが、そこにアストラル体が関与していることを証明しています。けれども、皆さんに外界との親和性を見せているものが同時に皆さんに示していることは、菩提樹の花が発散させているあの甘い香りの発生は、皆さんの臭覚器官のなかで起こっていることにある意味で親和性を有しているけれども、その対極にあるということです。実際のところ、菩提樹の花の、拡がっていくこの甘い香りのなかには、植物的・エーテル的なものと、その周囲にあるものとの、あまねく宇宙空間を充たしているアストラル的なものとの相互作用が見られるのです。したがって、私たちは、匂いを嗅ぐということのなかににひとつのプロセスを有しており、私たちはこのプロセスを通じて、植物相において地球外のアストラル的なものに親和性のあるものに関与しているのです。今度は、何らかの味、そうですね、今お話ししましたことに親和性のあるものを例とするなら、甘草の味、あるいは甘い葡萄の房の味を例にとってみますと、同様のことがわかります。この場合は、私たちの臭覚器官において起こっている経過とは反対に、私たちの味覚器官において起こっている経過なのです。ご存知のように、味覚器官は臭覚器官にたいへん親和性を持っています。ですから皆さんがすぐさま思い浮かべなくてはならないのは、自然の出来事全体に関しても、味わうということにおいて起こっていることと、匂いを嗅ぐということにおいて起こっていることが、互いに親和性を持っているということです。けれども、味わうということは、匂いを嗅ぐことよりもずっと器官的・内的なプロセスであるということは明確にしておかなければなりません。匂いを嗅ぐことはむしろ表面において行なわれます。匂いを嗅ぐことは、人間外部のものの、いわば自らを拡張するプロセス、空間に拡張されているプロセスに関与しているのです。味わうという場合はそうではありません。味わうということを通しては、皆さんはむしろ、物質のなかに内的に存在しているはずの特性、つまり実質的なものそのものと結びついているはずのある種の特性に到達します。皆さんは、匂いを嗅ぐことを通してよりも、味わうことを通して、そのものが、つまりこの場合は植物が、内部において何であるかがわかるようになるのです。皆さんは少々イントゥイションを助けにしさえすればよいのです。そうすれば、このように言えるでしょう、植物の硬化に関係するもの、植物において硬化していく器官的なプロセスと関係するものはすべて、植物のなかにあるすべてのものを味わうということを通して、姿を現わし、自らを開示するのだと。けれども今度はこの植物的なものは、硬化していくことに抵抗します。このことは、植物が芳香を発するように誘うもののなかに現われてきます。ですから皆さんはそもそも疑うことはできないでしょう、味覚というのは、エーテル的なものと物質的なものとの関係に関わる経過なのです。さて今度は、匂いを嗅ぐことと味わうことを一緒に考えてみてください。植物相に対して、匂いを嗅ぎ、味わいつつ生きることによって、皆さんは実際、エーテル的なものがアストラル的なものと物質的なものという両方向に対して持っている関係のなかで生きているわけです。匂いを嗅ぐことと味わうことに注意を払えば、エーテル的なもの、すなわちエーテル的なものが刻印されたもののなかに正しく入っていくことができます。人間が匂いを嗅ぎ、味わうところにおいては、根本において、エーテル的なものがアストラル的なものおよび物質的なものと関わりつつ、物質界に顕現しているのです。私たちがこのように、匂いを嗅ぐことと味わうことにおいて起こっていることを調べるなら、いわばそうすることで私たち自身が人間の表面にいるということです。けれどもよろしいですか、実際のところ今日重要なことは、私たちはついに、精神科学の側からの真の科学の結実に向けて、抽象神秘主義的なものを抜けだし、具体的な霊の理解へと実際に突き進んでいるということです。人々があいもかわらず、人間における神的なものを理解せねばならないと語っているばかりでは、本当にいったい何の役に立つというのでしょう。このときこの人たちが、この「神的な」という言葉で理解しているのは、せいぜいのところ、何かまったく抽象的な神的なものにすぎないのです。こういう考察法が実りをもたらすのは、私たちが具体的な現象に入っていくことができ、こういう具体的な意味で、外的な経過が内的になっていくことを観察するとき、つまりたとえば、匂いを嗅ぐことと味わうことのなかに、人間と親和しつつ外的に生きているもの、エーテル的なものを実際に観察することによって、いかにこのエーテル的なものが内面化されていくか、このもしかするともっとも粗雑な上方の感覚プロセスのなかに、いかに直接、外的な経過が内面化していくのが見られるかということを観察するときでしょう。現代においてきわめて大切なことは、単なる抽象的なもの、神秘主義的なものを抜け出していくことなのです。これから皆さんにも明らかになっていくでしょうが、自然においては、すべてが何か別のものへと絶えず移行しているということ、自然においてはすべてが次のように、ひとつのできごとが別の出来事へと移行する傾向、別の出来事へと自らを変容さる傾向にあるということです。それでは私たちがたった今お話したことを考えてみてください。匂いを嗅ぐことは表面の方に置かれていて(図参照)、人間の内部の方に引き入れられているのは、この場合はすべて、植物相すなわち植物に関連していますが、味わうことである味覚に関連します。そして、これら匂いを嗅ぐことと味わうことは、エーテル的なものがアストラル的なものに向かって拡がっていったり、あるいは物質的なものへと硬化したりするという意味で、エーテル的なもののなかを経過していると申しますか、つまり外部に向かって、すなわち植物相の場合、揮発的させること、芳香を発することにおいて起こっているすべてのことに向かって進んだり、あるいはまた、味わうことにおいて芳香から遠ざかり、外部において硬化に至るものすべてを内面化したりしているのです。匂いを嗅ぐことと味わうことに注意をとどめると。いわば、外的なものと内的なものが共に流れているのです。参考画:Smell-Fowers けれども、自然においては常に、ひとつのプロセスが別のプロセスへと移行しています。ひとたび私たちが、植物相におけるこの芳香を発するもの、植物がそれによっていわば硬化していくのを免れるすべてのもの、この場合植物はいわば今だにその霊性を大気中に発しているのですが、こういうものに感覚を向けてみますと、大気中の芳香物質にはいまだにいくらかの植物状態が残存していることがわかります。いわば、外界で香っているもののなかには、なおも植物の幻影[Schemen]が存在しているのです。植物がその香りの幻影を送り出すとき、植物がそれを硬化した植物状態に至らせないようにするとき、植物がその花から何かを、なるほど花になろうとはしているけれども、この花になるということから遠ざかり、揮発的な状態にとどまろうとする何かを送り出すとき、こういうとき、いったい外界ではそもそも何が起こっているのでしょうか。これはつまり、押しとどめられた燃焼プロセスに他ならないのです。この芳香発生の変容を連続的に考えていくと、皆さんはこういう考えに行き着くでしょう。この芳香発生というものは、本来押しとどめられた燃焼プロセスなのだと。一方においては燃焼が、他方において植物の芳香発生が見出せます、そうするとそのなかに、両者に共通する統一体の、二つの変容形態(メタモルフォーゼ)が認識されるでしょう。言うなれば、まさに芳香発生のなかには別の段階での燃焼が存在していたということです。 第八講-1 了哲学・思想ランキング
2024年10月11日
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ルドルフ・シュタイナー「精神科学と医学」第七講 1920年 3月27日 ドルナハ 本文-3 さて、地球外のものと地球的なものに人間が依存しているということに関連して、私が昨日お話ししたことと、その時間的な生成プロセスに関してきょう補足しましたことを総括していただければ、次のように言うことができるでしょう。そしてこのことは、私が今お話したような調査をそもそもどのように行なうのかさらに追求する途上で、少しは皆さんの助けになるでしょう。つまり、人間に対しては絶えず諸々の力が行使されているのだと言うことができるのです。これらの力は、私たちが人間の物質的およびエーテル的組織を観察すると、まず第一に、地球外的、あるいは、それらに対して反対の作用をする地球的な力であり、つまりは、土星、木星、火星から発する力と、実際すでに地球的な影響に転化させられている、金星、水星、月から発する力(上図参照)です。宜しいでしょうか。つまり地球と月との関係においては、またも、実際に起こっていることについて簡単に思い違いされてしまうということです。人間は容易に、「月はこの上の方にある。月はここから影響を及ぼしている。」と考えます。けれどもこれで完全に考えられているわけではないのです。本来が、月は単に地球の回りを回転する地球の衛星であるだけでなく、月のなかにあって地球に作用している力、この同じ力が地球そのもののなかにも含まれているのです。地球は、地球のなかから外へと作用する、地球自身・自体が月的なものを持っているのです(下図参照)。物質的なものにおいては、潮の干満やその他の多くのこと、例えば月経周期に示されているようなできごとはすべて、実際は地球の作用ではなくて月の作用なのですが、これらは、最近の理論が主張するように、月の影響によって起こっているというのではなく、地球そのもののなかにある月的なものによって起こっているのです。したがって、これらのことは外的に対応してはいますけれども、少なくとも大抵は、直接時間的に関連しているわけではありません。ですから、私たちは、太陽の下位にある惑星について語るときには、地球におけるそれらの反対像も探究しなければなりませんし、さらにもっと物質的な反作用、地上的なものから発する物質的なものへの反作用のことも考えなければならないのです。地球外の諸惑星には、もっと魂的・霊的に成立しているものを負わせなくてはなりません。月の場合には、これは次のような具合となります。つまり、月は地球にむかって、ある種の形成力を投げかけているのです。これは、ファンタジーを生み出すことにおいてなされる人間自身の活動を月が高めるということによって顕われます。月は魂的なファンタジーを生み出すことに多大な影響を及ぼしているのです。このような事柄も一度研究されなくてはなりません。唯物主義の時代にあってはもちろん、これらのことが考慮されることは非常に稀なのです。けれどもこういうことはあきらかに存在しているのです。月は、人間のファンタジー創出のより霊的・魂的な点に関連して、非常に強い影響力を持っています。その反対像、つまり器官的なものへの月の作用は、反対に地球のなかの月的なものから発して、そこから人間の生体組織に作用しています。考慮されるべきことはこれなのです。このことは例えば、月の外部にある、太陽下位の惑星にも当てはまります。このように、人間にはさまざまなしかたで、地球に局限された力、私の考えでは地球的な力、また地球の外部に局限された力が働きかけていることがわかります。さて、これらの力を私たちが研究することができるのは、これらの力の共同作用の結果を、全体としての人間のなかに見るときのみです。全体としての人間のなかに見るのであって、決して人間のどこか一部に見るのではありません。この共同作用の結果がもっとも見られないのは細胞です。この、細胞においてはもっとも見られないということにご注意ください。いったい細胞とは何なのでしょうか。細胞とは、人間であるものに対して、本来独自の成長、独自の生命によってわがままを通用させているものです。そして皆さんが一面において人間というものを、その形式全体において地球的な作用と地球外的な作用が複合したものと見て、それから細胞を観察すれば、細胞とは、この最初の作用の企図にひそかに入り込み、まさにこれらの外的な作用を破壊するものなのです。私たちは、実際生体組織のなかで、絶えずこの細胞の生命に対して戦っているのです。ですから、まさに細胞病理学や細胞生理学によって成立した見解は、ナンセンスも甚だしいことです。これらは、いたるところで細胞を根本に据え、至るところで人間の生体組織を細胞の構築物と見ています。これに対して、人間はひとつの全体、つまり宇宙と関わり、本来細胞のわがままに対して常に戦わねばならない全体なのです。細胞とは、根本的に、私たちの生体組織を構築する代わりに、絶えず妨げるものです。もちろん、このような細胞病理学や細胞生理学的な基本的見解が、通常の考え方全部に入り込むなら、人間や人間と関係するものに関して本末転倒した考察に行き着くのも不思議ではありません。このように、いわば人間の形成プロセスと細胞プロセスにおいては、二つの対立する力の複合体が現われてきます。諸器官はこの中間に位置し、どちらが優勢であるかによって、肝臓であったり、心臓であったりなどするのです。諸器官は終始、私が皆さんにお話ししたこの二つの力の複合体の間で均衡をとっているのです。諸器官は、細胞的なものへの傾向をより多く有することもあり、その後この細胞的なものは宇宙的なものによって克服されます。あるいはまたーー個々の器官についてはまた特徴をお話ししていくでしょうーー、宇宙的なもののほうが優勢で、細胞的なものが後退しているような器官もあります。とりわけ興味深いのは、器官組織において、本来の生殖ー排泄の通路と心臓との間に位置するすべてを、このような観点から考察することです。こういう組織においては、たいてい、本来細胞生命を目指しているものとの類似が存在します。人間の全身を通過しつつ、器官の構成要素をすべて観察すると、たいていの場合、人間の今特色づけられた部分と、その部分の細胞生命との間には類似が見出されるのです。けれどもこの結果、私たちは次のようなことを認識するようになります。私たちは、それではいったい細胞の場合はどのような状態なのか、と問うようになるのです。細胞はいわば、事態をいささか極端にするために、我儘な生命を展開します。細胞はわがままな生命を展開するのです。細胞がいわば逐一展開するこのわがままな生命に対抗して、絶えず別のもの、つまり外的なものが反対の作用を及ぼしています。そして、ここで反対の作用を及ぼしているこの外的なもの、これが、細胞から、細胞の形成力から、生命を奪い、細胞に滴(しずく)の形状を与えるのです。細胞からいわば生命を吸い取って、細胞に滴の形状を与えるわけです。この地球上で涙滴型をしているものはすべて、それが人間外部のものであろうと、人間内部のものであろうと、そのなかに、二つの力の合力が、つまり、生命を目指すものと、そこから生命を吸い取るものとの合力が存在しているということ、このことを実際知っておかなくてはなりません。さて、興味深いことに、古代の医学はそもそも水銀的なものをどのように想定していたのかを追求していくと、水銀的なものとは、生命を奪われて滴の形状を与えられているものであるということに行き着きます。つまり、水銀的なもののなかには、そのわがままによって生きた滴になろうとする、つまり細胞になろうとするけれども、水星の惑星的作用によってそうすることを妨げられ、それによって単なる細胞の死骸、つまり水銀の小滴となってしまうもの、そういうものを見なくてはならないのです。ここに見られるのは、塩(えん)的なものと燐(りん)的なものとの中間状態であり、それと同時に、地球上で私たちに現われてきているもののなかで、諸惑星の作用がどのように生かされているかを見通すために通らなければならない、実際非常に入り組んだ道の幾ばくかです。水星という惑星が存在しなければ、水銀の滴はどれも生きているものであるはずなのです。そして私たちのうちでおおむね細胞的になろうとするもののすべて、すなわち少し前にお話ししたばかりの、人間のなかの通路、これはしたがっておおむね、まさに水星という惑星の作用に晒(さら)されることをあてにしています。つまり、これらは、本来の排泄器官と心臓との間に位置している、下腹部の器官です。これらの器官は、とりわけ、こう申してよろしければ、それが持っているある種の傾向、細胞的なものを保持する傾向が妨げられないこと、けれども、それが生命によって覆い尽くされるほどには至らないように、つまり、麻痺させる水星状態に、生命を麻痺させ死滅させる水星状態に、さらされたままにしておくことをあてにしているのです。さもないとこういう器官の活動は、それらがこの中間状態に維持されない場合、すぐに増長してしまうのです。こういうことをさらに引き続き追求していくと、これらの器官と水星状態を表わす金属である水銀との間に成立している関係にまで到達します。このように試みられる方法はまったくもって合理的なものであることがおわかりだと思います。現在と未来の人類のためには超感覚的観察によって発見され得ることも、外的な、感覚的に知覚できる事実によってもっともっと証明されねばなりませんから、鉱物の作用であれ、金属の作用であれ、鉱物的、動物的作用、植物にふくまれている鉱物と金属の作用であれ、個々の作用は、本来人間の生体組織に対してどのようであるのかということが、臨床的にも文献上でも追求されれば、良い結果となるでしょう。こういう研究を、この点に関して、まったく特殊な性質の事柄から着手することができます。今日は皆さんに、ある種の受胎前の傾向に対して、骨化、硬化症が反対の働きかけをしているということをお話ししました。この骨化および硬化症は完全な反対像を有しています。骨化・硬化症を増大させるためには、皆さんは人間に鉛毒を盛りさえすればよいのです。もちろん、この試みは、動脈硬化を研究するために本当に鉛中毒を引き起こすことまでに至ってはなりませんが、重要なことは、自然が自ら実験してくれる際に現われてくる諸現象をこういう意味において追求し、それによって、鉛のなかで作用しているのと同じ力から人間自身のなかでも起こっていることと、鉛との間に内的親和性が成立しているということに行き着くことです。鉛のなかで作用しているプロセスと、人間における骨化と硬化症のプロセスは、徹底的に研究によって追求されねばならないのです。同様に、錫のなかに存在するプロセスと、私が先ほど水頭症とその反対物との相互作用として特徴づけたものすべてとの間の相互関係も研究できるでしょう。そしてその際、頭と腹部との正確な比例関係とでも申し上げたいものに作用するようになっていくこの幼児期の年齢全体のなかに、錫のなかにあるのと同じ力が作用しているのが見出せるでしょう。さて私たちは、このプロセスが後の年齢になって肺のほうへ押し進められるということを見てまいりました。その際に、私たちは実際そこまで行く必要もなく、数世紀来、医学的文献に記されているいくつかのことを、正しく読んで総合しさえすればよいのですが、肺炎と胸膜炎の付随症状のなかにあるすべてと関係しているこのプロセスと、鉄のなかにある力に対するこのプロセスと関係するものとの、内的な親和性を見ることになります。この関係を、さらに今度は、いわば正常な状態であるときの血液のなかに鉄が存在することによって起こる通常のプロセスのなかまで追求していけるでしょう。皆さんは、鉄と血が相互作用する際に起こるのと同じプロセスを、肺組織とそれに関連するすべてのものまでもっと追求していくことができるでしょう。そうすれば、水頭症とその反対物との、肺まで押し進められた相互作用と申しますか、そうした相互作用における鉄の働きについて、見解を得ることができるでしょう。宜しいでしょうか、こういう事柄はこのように互いに入り組んでいます。このように入り交じった作用と、さらには人間外部のものとの関係を通じてのみ、薬の治癒作用に到達する可能性を得ることができるのです。ですから、人間存在をこのように見ることを本当に尊重するならば、観察者に一種の直観力(Intuition)が生じるのは疑いのないことでしょう。イントゥイションは本来どんな診断の際にも特に重要でしょうけれども。その際真に重要なのは、多くのものを総合的に観ることだからです。いかなる診断の際にも、その人がどのように生きているのか、今までどのように生きてきたのか、今後どのように生きていく見込みがあるのかということに目を向けておかなくてはなりません。今後生きていくと私は申しましたが、これはどういう意味でしょうか。現在の人間のなかには、すでにある意味で、彼が残りの人生においてとくに器官的に費やすものが、萌芽のかたちで素質として存在しているわけです。記:直感と直観:直感とは“inspiration”。降って沸くがごとくひらめくもので、誰にでも起こり得るが、極めて偶発的なものを指し示します。 一方、直観とは“intuition”。閃(ひらめ)きのように見えても、実は冷静な状 況分析や論理的思考の上に成り立つものです。 さらに私が今申しましたすべて、鉛、錫、鉄の人間の生体組織に対する作用のしかたについて、なお金属という側面から作用として発しうるものとの関係を探究するなら、これらにいわば対極的に相対しているのが、銅、水銀、銀の作用であるということに行き着くでしょう。私が今申しましたことは、何らかの薬を特に奨励することには結びつきません。けれども、私がこれをお話ししなければならないのは、これらの金属のなかの力、この力は私たちが見てまいりましたように他の物質のなかにも含有されているのですが、これが有している構成と、人間の生体組織自体の形成力との間に、まったく特定の性質の相互作用が成立していることを皆さんに指摘するためです。したがって、たとえば銅のなかにつなぎ止められている力は、特定のしかたで、鉄のなかにつなぎ止められている力に対抗して反対の作用を及ぼしています。この反対の作用から、ある種の力、そうたとえば鉄の力が強すぎるとき、鉄の作用が強すぎるときに、他の力から用いねばならないものを、取り出すことができるでしょう。たとえば、人間の生体組織のまったく特定の病状の場合、その内部で鉄の力が明らかに強すぎるにちがいないということがわかるでしょう。そういう場合は、銅あるいは銅に似たものを、植物界から得られるものであっても、これから見ていきますように、この症状に対して適用することが重要です。さてきょうは、幾つかの方面にわたってこのように見てきて、皆さんがたに多くを要求しすぎたかもしれません。とはいえ、まさにきょうお話ししたことを皆さんが見ていってくださるなら、そのことから、こういう事柄がさらにどういうふうに研究されていかねばならないか、そしてこの研究から、医学的な研究制度と医学上の制度全体を改革するために効果あるものをいかにして引き出せるか、理解していかれるだろうと期待しております。 第七講 本文-3 了 第七講 本文 完了記:人体を構成する元素*酸素: 人体構成元素の約65%を占めています。*炭素: 人体構成元素の約18%を占めています。*水素: 人体構成元素の約10%を占めており、原子数比では全体の63%を占めています。*窒素: 人体構成元素の約3%を占めています。*カルシウム: 骨の形成に必要です。?*リン: 人体構成元素の約1%を占めています。*鉄: ヘモグロビンを作るのに必要で、不足すると貧血になります。*マンガン: 骨の発育に重要なミネラルで、糖脂質代謝や運動機能、皮膚代謝などの酵素反応に関与しています。*ヨウ素: 甲状腺ホルモンの主成分で、基礎代謝の促進やたんぱく質合成の促進、脂質代謝にも関与しています。*クロム: 炭水化物や脂質の代謝を助けるミネラルで、糖尿病、高脂血症、動脈硬化などの生活習慣病予防に効果があると期待されています。*人体を構成する元素には、これらのほかにも、硫黄、カリウム、ナトリウム、塩素、マグネシウム、亜鉛、セレン、モリブデン、ニッケル、コバルト、バナジウムなどがあります。参考画:human-pump哲学・思想ランキング
2024年10月10日
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ルドルフ・シュタイナー「精神科学と医学」第七講 1920年 3月27日 ドルナハ 本文-2 よろしいでしょうか、人間に作用しているものは、根本において、誕生前から、実際は受胎前からすでに始まっているのです。私はこういう事柄を研究する際に、一般によく用いられている医学書のなかで、「原因不明のとか、その原因を正しく指摘できないようなものとみなされる病気プロセスがこんなにも多いのは、いったいなぜなのか」と自問したことが屡々ありました。その原因は、次のようなことに全く注意が払われていないためです。つまり、昨日私たちが地球外的なものとして示した諸力の複合体は、人間が誕生に近づいていくときのみならず、受胎に近づいていくときにすでにもう存在していて、このように人間に作用するものは、その後、逆転した反対の作用を生み出すこと、すなわち、本来受胎前からすでに存在しているある種のプロセスは、受胎後、あるいはとりわけ誕生後に反対の作用を生み出すということです。そして、人間の生において観察できるのは、誕生後に現われてくるもののみ、受胎前に自然存在とのまったき関わりのなかですでに存在していたものに対する一種の反対の作用であるもののみということもあるのです。私が今申しましたことは、特に骨化(Ossifikation)および硬化症(Sklerose)関連していることすべてと大いに関わり合っています。硬化症、そして骨化も、本来、その反対のプロセスをすでに受胎前に有しているプロセスです。これらは、受胎前に人間のなかで散乱プロセス、拡散プロセスとして作用しているものに対して、全く正常に器官的な形成プロセスとして反対の作用を及ぼしているのです。このことに注目することはきわめて重要です。硬化症のプロセスを、このように、地球外的なもの、誕生あるいは受胎以来人間そのもののなかに現われてくる限りでの地球外的なものと関連づけることができなければ、さらに、受胎前に存在する、人間の外部の、地球外的なプロセスと関連づけることができなければ、硬化症のプロセスを制することはできないでしょう。さてしかし、現われてこなければならないこれらすべてのプロセスは、ある限界を、いわばその振動の中心を越える可能性もあります。硬化あるいは骨化のようなプロセスは、いわば中央の位置に向かう振動であり、度を超す、つまり強くなりすぎる可能性もあるのです。これらのプロセスはさらにまったくちがった形でも現われます。最初これらは素質という形で現われます。そしてこの素質のなかに、人間存在の非常に本質的なものを探究しなければなりません。骨化や硬化症において正常であるもの、あるいは人生の経過のうちにそれ自身の領域で異常になるものが、別の側面へと揺れると、つまりこのプロセスがいわば自身の領域ではなく、人間の他の器官組織のなかで展開すると、受胎前のものの病的な反対像であるものが、私たちがさまざまな種類の癌腫形成(Karzinombildung)のなかに有しているものが現われてくるのです。こうした事柄に注目することができるのは、人間の生成および存在のプロセス全体を真に洞察しようと試みるときのみです。それがなければ、癌腫形成のようなことは、常に人間の生における比較的未知の要因となってしまうでしょう。この要因を、人間のなかで何らかのしかたで作用しなければならないもの、それが変成させられて、別の領域に移行されたものと関連づけることができなければです。さらに別のことも、同様に観察できます。幼年期に、水頭症、脳水腫(Hydrozphalus)のなかに顕われてくるものも、また同様に観察することができるのです。本来的に私たちは皆、水頭症の素質を有していて、水頭症はなくてはならないものなのです。もし水頭症というものが存在しなかったら、私たちの脳と神経組織の正常な形成ができなくなるでしょう。と申しますのも、これは、人間のなかにある液体的な要素から引き出されねばならないからです。したがって、幼年期には常に、水頭症と、水頭症を克服しようとするもの、水頭症を抑えるために人間の生体組織のなかに現われるものとの間の闘いが見られます。実際単に水頭症のようなことについてのみ語るのではなく、その反対のもの、つまり脳内の水が減少しすぎることについても語らなくてはなりません。これはもしかするとほとんど考慮されていないかもしれませんが、実際考慮される必要のある、水頭症の対極にある病気なのです。幼児期の私たちは実際、水頭症と、後に起こるその反対物というこの両極端の間を、常に一方から他方へと揺れ動いているわけです。さてしかし、臨床上のことについては今後さらに詳しく入っていきますが、こういうことに関して、何かを見落とすということが起こる可能性もあります。つまり、水頭症がいわば完全に終わってよいおおよその時期、常に存在する正しい時期を見落としてしまい、水頭症への傾向が、教育によってであれ、食餌療法によってであれ、幼児期、とくに乳児期の治療行為全般によって、あまりに早く取り除かれてしまう、つまり水頭症をあまりに早く消滅させてしまう、と申しますか、そういう事態も起こり得るのです。こういうとき特に、人間の生の経過全体を見ないことの害悪が現われてきます。なぜなら、ここでまた指摘しておきたいのですが、こういう幼児期の水頭症の経過と、梅毒(Syphilis)との関係を、後になって現われる梅毒になりやすい素質において探究することが試みられるとすれば、ここで医学の博士論文が多数提供されることも可能でしょうから。この場合には微生物を追求することによっては、実際何も得るところはありません。私がただいまお話ししましたような事柄が考慮されるときのみ、何かを実際に得ることができるのです。梅毒の予防のためにきわめて多くのことがなされる可能性があるのは、後になってさまざまな梅毒の症状のなかに、私たちがさらに耳にするようにさまざまな症状があるのにあわせて現われてくる可能性のあるものに対して、ほんの子どものころに、いわば機敏に対処することを試みる場合でしょう。少なくとも、診断の際に常に念頭に置いておく必要があるのは、こういう事柄は、常に診断の際に、まさに人間の生成プロセスにおいて本来の原因を示すものへと立ち戻っていかなければならないということです。さてこの点に関してきわめて重要なことは、次のようなことです。すなわち、生体組織のプロセス全体が移動していて、上部人間におけるプロセスも心臓に向かい、下部人間におけるプロセスも下から下腹部を経てやはり心臓に向かうと言えることです。本来の滞留器官としての心臓に向かって、人間の形成全体が、一方からももう一方からも押し寄せていくわけです。けれどもこの移動はさまざまな年齢に起こります。症状に肉薄すれば、つまり、とりわけ少年少女期に現われてくる症状、結局少年少女期における肺炎(Pneumonie)あるいは胸膜炎(Pleuritis)に通ずるものと何らかの関係があるすべてに現われてくる症状を見る目を習得し、ここでこういう出来事に関与してくるすべてのものを総合すれば、これは前進させられたプロセスであること、まだ比較的早い時期に水頭症においてなされたプロセスと同じプロセスであることがわかるでしょう。端的に言って、水頭症が人間の生体組織のなかを一段下へとずらされ、その際肺炎あるいは胸膜炎的症状になりやすい素質を形成するのです。これは幼児期においてこれらの症状と関連するものになりやすい素質でもあります。けれども、幼児期におけるこうした症状の場合であっても、これらの症状が後の年齢になってその反対のプロセスをたどる、つまりこれらの症状は実際後になってまた現われるけれども、今度はその対極のなかに現われるということになります。そして、次のように問いを立てる人は、たとえば急性の場合も含めた心内膜炎(Endokarditis)の場合に、起こることすべてに対して、その見解でやっていけるでしょう。すなわちその人が、「何らかの意味で肺炎あるいは胸膜炎と関連している病状が、以前の年齢にどのように現われたのか、私はひとつ知りたいものだ。」と言う場合です。これは結局、子どもの場合、肺炎や胸膜炎の症状が、早められたり、あまりに急速に追い出されたりするのではないということがわかるということに帰着します。当然のことですが、両親や教育者は、これらの症状をできるだけ急いで後退させようと切に望みます。しかし、人間のこういう状態の場合こそ、これらの症状を、それ自身の運命にゆだねると申しますか、さもなければ有害な作用をする可能性のあるある種の事柄を避けるために医師としてその場に居ること、病気を実際に経過させることが、きわめて重要なのです。ですから、こういう症状の場合ほど、他の症状の場合ももちろんそうですが、胸膜炎や肺炎と関係している、子どもの病気におけるこういう症状の場合ほど、次のようなことが必要な時はありません。つまり、一種の自然的な療法、今日どのように呼ばれているにせよ、自然療法を適用すること。すなわち、病気のプロセスにできるだけ正常な経過をたどらせようとすること。病気のプロセスを早めたり、あまりに早く短縮させたりしないことが必要なのです。これが重要なのはつまり、病気のプロセスがあまり早く短縮されると、比較的すぐに、心臓疾患およびそれに関連するすべてにかかりやすい素質、とりわけ、多発性関節炎その他にかかりやすい素質を招いてしまうからなのです。したがって、とりわけ注意を払わねばならないのは、こういう領域においては、病気のプロセスをいわば妨げないということです。いわば胸膜炎と肺炎が欲することを妨げなかったら、あらゆる疾患、後で「心臓の不規則性のなかに放出されるあらゆる疾患の素質」が取り除かれてしまう人もいるでしょう。あらゆるもののなかに、人間の生成プロセス全体の内部に存在しているこの連関が見られます。このとき実際次のようなことも思い起こすことができるでしょう。つまり、単にその人の病気がほんとうに深刻な状態であるときの、こういう極端な場合を見るだけでなく、その人の病気が比較的軽い場合、つまりその人の治療も比較的容易になって、治療したのかしなかったのか、はっきり区別できないことさえあり、患者に向かって、「あなたがばかなことをしないで、癒されることを欲しないなら、事態はもっと良くなるのですよ」と言わなくてはならないとき、そういう場合にも目を向ける必要があるということです。なぜなら、そもそも人はそう甚だしくは癒されるものではないということも非常に重要なことでしょうから。治療すること自体はまったく結構なことなのですが、次のようなことを考慮に入れておくのも治療のうちなのです。つまり、次のような人物も人生においてはそう珍しくないということ、つまり、彼ら自身の言によれば実際ありとあらゆる可能な病気を体験し、あらゆる治療法も薬も体験してきたので、自分たちが高齢に達したときには、もはや、いずれにせよこの人たちはいつも病気なのですから、元気づけてくれるような何かをまた見出すことは困難であるというような、そういう人もめずらしくないということです。こういう人たちには、次のような意識を少々呼び起こしておくほうが良いでしょう。つまり、そもそもたいていの人は実際には、その人がそう信じているほど病んではいないのだという意識をです。当然のことながら、このことは影の面も持っています。しかしこの場合のこういう関連では言われても良いことではないでしょうか。さて、皆さんはこれらの事柄をすべて光のなかで見なくてはなりません。つまり、人間はまず第一に物質的な生体組織を有していて、さらにエーテル組織が七歳から十四歳まで強く働いて物質的組織に加わり、さらに妊娠のような事態においてはエーテル組織はまた追い出される、こういうことによって、人間はまさに複雑な存在であるということです。さらにまた、考慮しておかねばならないことは、アストラル体が秩序だって加わるのは、十四歳以降になってからであり、自我が加わるのはそれよりさらに後になってからであること、けれども自我というものを、たとえばあたかも外部にあるかのように想定してはならないということです。目覚めている状態のときには、自我はもちろん決して生体組織の外部にあるのではなく、自我が加わって、共同作用が高まるのです。したがって、常に関係してくることは、生体組織に障害があるときはいつも、自我が他の組織の内部で正しく機能することに何らかの困難があるということです。そこで実際次のように言わねばなりません。すなわち、「今日医学はそれと知ることなしに、すでにずっと以前から、この、自我が人間の他の三つの組織とともに完全になることの困難さについて、自我と他の三つの体とのこの闘いについてきわめて教えるところの多い描写をするところまで来ている」と言えるのです。もちろん私たちは唯物論的な時代に生きておりますので、この闘いを内部に見るということはありません。しかし、熱曲線が正しく描かれるときはいつも、この熱曲線のなかに今特徴をお話ししましたこの闘いが正確に写しとられているのです。ですから、こういう連関を洞察するためには、さまざまな病気の状態における熱曲線を追求することほど明らかなことはないのです。なるほどこれは、治療にとっては、病理学にとってよりもずっと重要でないことかもしれません。けれどもこういう事柄についていくらか理解しておかなくてはなりませんし、少なくとも一般的に、これについていくらか理解しておかなくてはならないのです。と申しますのも、よろしいでしょうか、皆さんがたとえば、そうですね、肺炎そのものや、あるいは腸チフス(Typhus abdominalis)のようなものを洞察することができるのは、皆さんが熱曲線の経過について見解を得ているときのみだからです。ここで皆さんが肺炎における熱曲線の二つの主要なタイプを研究されるなら、つまり、たとえば危険な経過での熱曲線とそうでない場合の熱曲線を比較するなら、生体組織への介入を妨げられた自我は、反撃するとき、ある場合と別の場合ではまったく別のやりかたで行なっているはずだということがおわかりになるでしょう。よろしいですか、たとえば肺炎の場合、熱曲線は最初、ここでは図式化して描きますが、皆さんにこの闘いを示し、それから平熱よりも危機的に降下する際に反撃を示しています(図参照)。ここではまさに、その前になされた努力によって、後から反撃をする可能性が提示されているのです。別の、消散性の経過の場合は、反撃する作用を自身の力のなかにつけ加える可能性は少なくなり、したがって別の、より不規則な熱の降下も、より危険な経過だと言えます。けれどもとりわけ皆さんが他の三つの組織に対するこの自我の働き全体を見通せるのは、チフスの熱曲線を観察するときでしょう。この曲線のなかに、自我がそのとき実際どのように戦っているのかについての明白な像が得られます。このことは皆さんに、他ならぬ自然科学が医学に流入することが、いかに人間のこれらのさまざまな組織のことを考慮することを不可欠にするかということを示すことができるのです。医学における混乱は、まさに科学が唯物主義的になり、物質体における出来事を観察することのみに自らを限定してしまったことによって起こったのです。しかしこの物質体における出来事というものは、決して独立したものではなく、そして何よりも、これらの出来事の性質は全く等価なものではないのです。なぜなら、おわかりでしょうか、物質体においてはとりわけ、エーテル体が物質体の内部で働いていること、そして、アストラル体あるいは自我もその内部で働いているということによって、何かが左右される可能性があるからです。それはつねに物質的な出来事ではあるのですが、これらの物質的な出来事は、それを特徴づけ、その物質的な組織のなかで働いている高次の構成要素にしたがって、全く別の性質も持っているのです。 第七講 本文-2 了記:アストラル体と自我の関係についてですが、アストラル体は、自分との関係によって成り立っており、対象が自分にとって好ましいか好ましくないかを判断する働きがあります。アストラル体は、私たちの心の状態を形であらわしたもので、成長することができると言われています。アストラル体の成長は、アストラル体の中に生きた生命力のある概念を生かすことができるかによって決まります。アストラル体は、昔から日本では龍とも呼ばれており、東洋でも西洋でも私たちの心の状態を形であらわしたものです。参考画:Astral-body=Dragon哲学・思想ランキング
2024年10月09日
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ルドルフ・シュタイナー「精神科学と医学」第七講 1920年 3月27日 ドルナハ 本文-1 昨日皆さんの注意を向けて頂いたいくつかのことは、地球的および宇宙的な状況への人間の適応ということに関連して、私たちがまず第一に基礎としなければならないことなのですが、これはどちらかといえば空間的な性質のものでした。このどちらかといえば空間的な性質のものを、時間的なものと結びつけなくてはなりません。なぜなら、私たちがけっして忘れてはならないのは、人間というものをその存在の全体において観察しなければならないということ。すなわち、全体としての人間はいわば、子どもであり成人であり老人であって、人間存在のこの三つの生成要素がさらにそれぞれの個々の部分に入り込むというかたちで組織化されているということです。今日こういうやりかたで獲得していくことを、さらに超感覚的なものと連結させねばなりません。そうして初めて、個別の観察というものに近づくことができるでしょう。とりわけ皆さんの注意を喚起しておきたいことは、ちょうど教育学が、若年層に対して、年齢の差異、つまり誕生から歯の生え変わりまで、歯の生え変わりから性的成熟期まで、といった年齢差を考慮せざるを得ないように、医学に帰するすべてのものも、本来全体としての人間、すなわち誕生から死までの人間を考慮する必要があるということです。すでに申しましたように、人智学者としての私たちの慣用となっている表現をまずは用いたいと思います。その後、最終的には部外者のかたのためにそういう表現を翻訳できるかもしれないというようなところまで行き着くでしょう。この翻訳は、私たちがしばらくこの考察を続けてさらに先に進んだときにはもっと容易になるでしょう。とりわけ、たとえば私たちが幼児の年代を観察するときに、明確に知っておかなくてはならないことは、私たちが言うところの本来の自我及びアストラル体のなかに機能的に存在しているものが、人間のなかに加えられるのは、この幼児の年代になってからなのだということです。この機能的なものは幼児期になってから器官的なもののなかに加えられ、その後、柔らかく弾力性のある器官実質とともに実際に活動していくのです。したがってちょうどこの幼児期に、人間の高次のものが人間の低次のものに加わることに関係した障害が現われてくるのも驚くにはあたりません。これは特に七歳から十四、十五、十六歳にかけての年代、性的成熟を目指してエーテル体が物質体に対して立場を獲得する時期です。このとき、物質体とエーテル体の弾力性がかみ合わない可能性が、さまざまなかたちで存在しています。実際本質的な意味で、アストラル体の課題は、この物質体とエーテル体両者の弾力性に均衡をもたらすべく働きかけることなのです。物質体とエーテル体が共に働かないときは、しばしばアストラル体がその力を強化する必要が生じます。その際アストラル体が十分な力を持っていないと、外的な手段によって処置されねばならないような症状が現われてくるのです。ですから、幼児期には、たとえば舞踏病(Chorea)の場合のような、物質的な放出、と申しますか、まさにそういうものに示されるような症状が現われてくるのだということが、皆さんにもおわかりいただけると思います。このような症候群に帰せられる病気はすべて、すなわち、器官そのもののなかで起こっていることのほかにこういう症候群つまり心的障害を示す病気、心的障害を伴うこうした病気はすべて、アストラル体の通常通りでない活動、つまり物質体とエーテル体の弾力性の調停に関してアストラル体が行なうべき活動に関連しているのです。さらに、舞踏病と同様の症状が妊婦にも現われることをごらんになれば、このことは皆さんにきわめて自明のこととなるでしょう。なぜなら、妊娠によって、この物質体とエーテル体の弾力性の調和が妨げられるのは当然であり、皆さんは、幼児期においてアストラル体に要求すべきことと同じ事を、ここでもまたアストラル体に要求しなければならないからです。したがって私たちは、幼児期に現われて、妊娠の際に妊娠の付随症状となることもある病気の場合には、アストラル体の、この問題は明日以降提示していくつもりですが、効力全体を強めて、アストラル体の機能が、物質体とエーテル体の弾力性に均衡をもたらす方向に落ち着くようにする薬、そういう薬を求めなければならないのです。これに対して皆さんは、このために私は年齢を考慮に入れることが大切だと強調してきたわけですが、何らかのしかたで多発性関節炎(Polyarthritis)やそれに類する何らかの症状に向かう傾向のある病気は、その本質的な発病時期が、十四、十五、十六歳から二十歳の終わりになってからであることがおわかりになるでしょう。何しろこの時期にはアストラル体自身が、物質体とエーテル体に対して正しい関係に位置づけられなければならず、そのためのアストラル体の準備が不十分であれば、たとえば幼児期に、アストラル体を正しいしかたで準備するために必要なことがなされなかったら、アストラル体は正しい関係を発生させることができず、その結果、この年齢でもう症状が現われてくるか、もっと年齢が進んでからその結果として現われてくるか、いずれかでしょう。ですから重要なのは、いわば時間というものを病気の研究のなかに取り入れることです。そして、ここで少々一面的な表現をお許しいただければ、人間の生体組織をいかに治療したらよいかを、できるだけ容易に楽に読み取れるように、自然は、人間の生体組織を都合よくあつらえてくれたなどとという前提はないということです。人間の生体組織は、どのようにそれを治療できるかを、できるだけ楽に読み取れるようにあつらえられてはいないのです。どのように治療できるか、できるだけ楽に読み取れるはずだ、ということばかりが期待されすぎています。類似したものは類似したものによって治癒されるはずだ、という原則は、ある意味では正しいのです。けれども、治療の症候群であるものに対して類似したものとみなされ、探し出される最も主要な症候群は、別の年齢においては別の症候群としてあるのです。たとえば、二十歳以前に、私の考えでは外的な薬の影響で引き起こされ得る症候群が存在し、その後、二十歳前に病気のプロセスを引き起こしたこの薬が、二十歳以降では、何らかの方法で治療薬となるということがあります。ですから、しばしば主張される「類似したものは類似したものによって治療され得る」という所説においては、このことが考慮されなければならないのです。けれども、健康であれ、病気であれ、人間の状態全体に注目しようとするとき、何にも増して重要なのは、人間はいわば、二つの互いに対極を成す年代に生きているということです。人間は若い頃には、別の影響にさらされています。人間は若い頃には、昨日私たちがお話ししたことにしたがって表現すれば、太陽の上位の惑星の影響、つまり土星、木星、火星の影響を多く受け、後の年代になると、太陽の下位の惑星の影響、つまり金星、水星、月の影響が大きくなるのです。けれども月の影響は比較的、最も早く、最も明確に現われてきます。このことは、人間を考察するにあたって常に空間的なものを時間的なものに結びつけねばならないことを、私たちに再び示しています。そうすることによってはじめて、人間の生に現われてくる諸現象を正しい光のなかで見ることができるようになるのです。そして、人間認識への関係を正しい光のなかで見るためにはそもそもどのようにすべきかについても、個々の場合において、常に少しずつ触れていくことにしましょう。 第七講 本文-1 了記:アストラル体とは、神智学の体系では、精神活動における感情を主に司る、身体の精妙なる部分である。主に情緒体、または感情体、感覚体、星辰体などとも。参考画:Etheric-body_Astral-body哲学・思想ランキング
2024年10月08日
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ルドルフ・シュタイナー「精神科学と医学」第六講-8/現代医学において可能な道と真に有効な道テーマ8. 現代における治療の可能性に関しては、古代の医師たちの立場に立つこともできるが、地球外的な作用が忘れ去られ、古代の方法が忘れ去られた後でとられる方法として、ホメオパシー的なシステムや、光と空気を直接用いるような物理療法の道がある。しかし、真に有効な道は、精神科学によって、鉱物的なものと地球外的なもの、植物的なものと地球外的なもの、動物的なものと地球外的なものとの関係を見ていくことによってのみ開かれる。 さて常に注目しておくべき重要なことは、思考においても、地球上で、つまるところ私たち自身が行なうことにおいても、私たちが切り離していることが、自然においては何らかのやりかたで常に結合されているということです。私たちは思考において、重力に従うもの、つまり塩形成への傾向を持つものを、光の担い手となるもの、つまり光作用への傾向を持つものから、さらには、この両者の均衡に従うものからも、切り離します。けれども、自然においてはこのように至る所で切り離されているのではなく、自然においては、このような作用のしかたは、互いに結びつけられ、組み合わされていて、非常に精巧な組織構造を形成しています。この精巧な組織構造は、すでに黄金の、その光輝のなかに含まれています。黄金を通じて、霊的なものがいわば純粋に、外界をのぞき込むからです。ここで注意を向けていくことを、私はいわば括弧に入れて申し上げたいと思います。何と言っても皆さんは、古代の文献から得られる示唆を、近代の文献に役立てようと夢中になられるかもしれないからです。昨日引用した学位請求論文を皆さんが作成されるなら、古代の文献を正しく理解することさえできれば、これらから示唆を得ることもできるでしょう。その際きわめて重要なのは、本来的に古代の文献は、どの物質のなかにも、三つの原理がすべて、塩的なもの、水星的なもの、燐的、あるいは硫黄的なものが、いろいろと組合わされていると見ていること、そして古代においては、この三つの原理を何らかの物質から分離しようと苦心していたことを理解することです。つまりは次のような見解が持たれていたのです。鉛は、私たちが暗示したような方法で生じるけれども、黄金や銅と同様、鉛も、三つの原理、つまり塩的なもの、水銀的なもの、燐的なもののすべてを含んでいる、という見解です。そして、私たちが、塩的なもの、水銀的なもの、燐的なものによって人間を治療することができるためには、それを取り出すこと、つまりそれを、それが結びついているものから何らかの方法で切り離すことが肝要なのです。古代の化学においては、このプロセスに対して、きわめて周到な注意が払われていました。このプロセスは、黄金の場合が最も困難なものと見なされていました。ですから、「黄金を壊すより、黄金を作り出す方が易しい」というローマの箴言(*)は、実際これもまた古きものの賛美に通ずるものです。なぜなら、黄金のなかで、塩的なもの、水銀的なもの、燐的なものという三つの自然の原理が互いに結び付いていて、黄金からこれらの原理を取り出すのは、最も困難であると考えられていたからです。これまで述べてきたように、私たちは、思考においても、この地上で行うことにしても、塩的なものと燐的なもの、そして水銀的なものを切り離しますが、自然においては、そうしたものは相互に結び合わされ非常に精巧な組織構造を形成しています。古代の文献からは、あらゆる物質のなかに、塩的なものと燐的なもの、そして水銀的なものが組み合わされていること、そしてそうした三つの原理を分離しようとしていたことがわかりますが、今日では、それは非常に困難なことです。さて、古代人が三つの自然原理を苦心して取り出そうとこういうプロセスで行なっていたとおりやろうとしても、今日容易には(*今日現代の科学技術力はこれらも可能化する。)うまくいかないだろうということはまったく明らかです。けれども、この講演でもまさにそうするつもりなのですが、ときおり古代の文献に光が投げかけられるだけで、古きものをまったく度外視して、今日なお研究できることにに入っていくだけでも、次のようなことに行き着くことができるのです。つまり、私が昨日ときょう、自然の物質から皆さんに特徴をお話しした、これら三つの原理から、必要なものを取り出すためには、実際何らかの方法で、自然の物質によって燃焼プロセスを起こさなければならず、それによってはじめてたとえば火を担うもの、光を担うものが分離されること、さらに、ある目的のために自然の物質から水銀的なものを取り出すことも試みられなければならず、その結果、塩的なものに押し寄せるものだけが後に残されるということです。これはさらに、何らかの酸の性質を持つものによっても、引き出すことができ、こうして、植物からであれ、鉱物からであれ、真の塩性の薬を得ることができるのです。特殊な場合についてはこれから後さらに扱っていくことにします。このように私たちは、地球外的なものを獲得するために、光を担うものを自然のなかに求めなければならないか、あるいは、地上的な物質からこの地球外的なものを取り去り、地球的なものを保持することに努めなければならないか。その結果が本来の真に塩的なものを得ることができるでしょう。あるいは、この両者の間に均衡状態を作り出すものを獲得することを試みなければならないか、それらの何れかをやってみなければならないのです。古代人が三つの原理を取り出そうとしていたプロセスを今日そのとおりやろうとしてもそれは非常に困難なことです。しかし、そうした古代の方法ではなく、この講義で述べられてきたように今日研究可能な方法というのが試みられなければなりません。つまり、植物からであれ、鉱物からであれ、地球外的なものを獲得するために光を担うものを自然のなかに求めたり、地上的な物質から地球外的なものを取り去り塩的なものを得たり、その両者の間に均衡をつくりだすものを獲得しようとしたりしなければならないのです。けれどもここで、性質は異なるけれども、そのいずれもある程度目的に導いてくれる、二つの道をとって進むことができます。本来は両方の道をとって進むことができるのです。よく知られた物質から、燐や塩あるいは水銀の性質を持つものを摘出することを常に目指し、それを用いていた古代の医師たちの立場に立つことができます。そういう医師たちにとって、薬のさまざまな特殊な作用は、彼らが当のものを、鉛から得たのか、銅から得たのかによっていくらか異なるということによって生じていました。つまり彼らはその起源を考慮していたのです。つまり、彼らが鉛から塩を作り出す場合、彼らにとってこの塩は、銅から作り出された塩とは少し異なっていたわけです。したがって、塩について語った場合でも、彼らは本来次のようなことを語っていたのです。つまり、彼らは、さまざまな塩におけるこの塩のなかには何かが、つまり、塩であることによって地上的であるけれど、いわばさまざまな金属からつくりだされた塩であることによって、何か地球外的なものでもあり、人間におけるきわめてさまざまなものと関わっているもの、これはすぐ明日にでも、より詳しく特徴をお話しできるでしょうが、そういうものがあるということを語っていたのです。たとえば、治療学における塩的なものの調合のために、この方法をとることができます。さらに、古代人たちの別の方法が忘れ去られたあとでとられた方法、これは、実際人間というものは単なるレトルト(Retortとは、もともと蒸留釜という化学用語)ではなく、レトルト以上のものであるという、なおも明確な感情から選ばれた方法なのですが、そういう方法をとることもできます。そしてこれは、そこにあるものの受容を通じて、そしてそこにあるものを自乗することを通じて、すでに存在している物質の根底にある力を利用できるようにすることを試みる方法です。これは、本質的に、ハーネマン的な方向(*免疫学とホメオパシー、同毒・同種療法)に内在している方法であり、古代の方法がすでに忘れ去られ、何か地球外的な、あるいはそれ以外の関連について、もはや何もわからなくなったあとに、人間の医学的な努力全体から、いわば一種の新たな興隆を示しているものです。そもそもこれは、現代の医師社会の絶望のなかにあると申し上げたいことなのですが、現代の医学において、本来地上的なものの根底をなすもの、つまり地上を越えたものが仰ぎ見られることはもはやなく、人々は、地上的なもののなかにのみあるものを常にうまく処理しようとしているということです。これを越えていこうとしているのがホメオパシー的なシステムです。もちろん、物理的な治療法もこれを越えていこうとしているのですが、これは、光の担い手、つまり燐を正しく用いる方法、あるいは、空気の担い手、つまり水銀を正しく用いる方法をもはや有していないがゆえに、光と空気を直接用いるのです。もちろんこれが第三の可能性でもあります。現代における治療の可能性に関しては、古代の医師たちの立場に立つこともできますが、地球外的な作用についてもはや何もわからなくなり、古代の方法が忘れ去られた後でとられる方法として、「すでに存在している物質の根底にある力を利用できるようにすることを試みる方法としてホメオパシー的なシステムがありますが、さらに、光と空気を直接用いるような物理療法も第三の可能性として挙げられます。けれども真の有効な道は、精神科学によって、鉱物的なものと地球外的なもの、植物的なものと地球外的なもの、動物的なものと地球外的なものとの関係に迫るときにのみ、再び開かれるでしょう。動物的なものが問題になるとき、すでに昨日暗示いたしましたように、人間との近さは容易ならぬものです。ここで古代人たちはひとつの境界を設けましたが、これもまた新たな研究から探究していくつもりです。古代人たちはこう言ったのです。植物、これは惑星系の範囲にあり、鉱物、これも惑星系の範囲にある。けれども動物界に至ると、惑星系から出ていく。つまり、地球外のもの、惑星的なものの内部にとどまっているときよりも、はるかに、ものごとと戯れるなどということは許されなくなるのだと。動物形成、それからとりわけ人間形成を導く力は、鉱物や植物のなかの力よりも、遥かに尚も、宇宙に拡散した状態なのです。動物形成、人間形成を導く力は、獣帯という境界線を引きました。それによって、植物的なものあるいは鉱物的なもののなかにあるものを越えて、治療力を探し求めないように、あるいは少なくとも、そうすれば容易ならぬ領域に踏み込んでいくことになるということに気づくようにするためです。むろん今や、昨日すでに皆さんにその特徴を少しばかりお話しました方法によって、この領域にも踏み込まれてしまいました。この方法については、病理学と血清療法の特殊なもののなかに立ち入っていくときに、さらに詳しく議論しなければなりません。こういう方法というのは通常、この方法が個別的なものに通ずるために、まったく強固な幻想を引き起こし、それによって、こういう事柄の背後にある危険性が、完全に隠蔽されてしまうということになるわけです。しかし、真に有効な道は、精神科学によって、鉱物的なものと地球外的なもの、植物的なものと地球外的なもの、動物的なものと地球外的なものとの関係を見ていくことによってのみ開かれます。その際、植物や鉱物は惑星系の範囲にありますが、動物形成、人間形成を導く力は惑星系の外部である獣帯の領域に拡がっていきます。そうした領域での治療法に関しては「容易ならぬ領域に踏み込んでいくことになる」ということを深く認識することが必要だといえます。 第六講●解説/テーマ解説8-了(第6講・完了)参考画:錬金術(alchemy)哲学・思想ランキング
2024年10月07日
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ルドルフ・シュタイナー「精神科学と医学」第六講-7/金属と惑星作用テーマ解説7. 鉛は土星作用に、錫は木星作用に、鉄は火星作用に、銅は金星作用に、水銀は水星作用に、銀は月作用に関係づけられなければならない。鉛的、錫的、鉄的なものは、植物の花-種子形成と関係づけられ、銅的、水銀的、銀的なものは、植物の根形成と関係づけられる。水星的なものは、地上的なものと地上を越えたものを平衡させるが、これとは別に、太陽は霊的なものと物質的なものとを均衡させる。黄金は太陽作用に関係づけられる。 つまり、地上の物質を、地球の周囲から地球に働きかけている諸力に関係づけることができるのです。とりわけ、金属の研究がです。私はこれからの講演で皆さんにそのやりかたを暗示していくつもりですが、そういうやりかたで行なわれるなら、この研究は当に全く特定の関係を明らかにします。つまり、たとえば鉛は、おもに他のものに妨げられない土星作用に関係づけられねばなりませんし、錫は、他のものに妨げられない木星作用、鉄は他のものに妨げられない火星作用、銅は他のものに妨げられない金星作用、今日私たちが化学において水銀(Quecksilber)と呼んでいるものは、他のものに妨げられない水星作用に。ですから古代の人々は水星(der Merkur)と、水銀(das Merkur)を同じ名で呼んだのですが、それと関係づけられねばなりません。さらに私たちは、銀的なものすべて、私はここではっきり銀的なものと申し上げますが、それと妨げられない月作用との間の親和性を認識しなければなりません。今日の文献を読みますと、古代に銀と月の親和性が確立されていたのは、月が銀色に輝いて見えることと、人々がこういう外的な特性に従っていたためだとされていますが、実際にはこれはとんでもないことです。その頃なされていた個々の金属に関する研究の性質は、実際的に綿密なものであったことを知っているひとは、このような誤りに屈することはできません。とは言え、皆さんはこのことから、その他の物質についてもじゅうぶん機会が提供されていることがおわかりでしょう。なぜなら、皆さんに名前をあげました鉛、錫、鉄、銅、水銀、銀は、きわめて傑出した物質ばかりだからです。他のあらゆる惑星的作用が、暗示しました作用とまさに競合し合うことで、つまりたとえば、土星作用の系統に火星作用その他の系統が入り込んでいくことによって、他の物質に対して豊富な機会が与えられるのです。これによって副次的な金属も生じてくるわけです。しかしいずれにせよ、私たちは地球の金属世界のなかに地球外的な諸力の作用の結果を見なければなりません。これによって特定のやりかたで、私たちが金属の作用のなかに表わしたものが、私たちが植物のなかに見ているものと結びつけられるのです。なぜなら、鉛、錫、鉄の試薬のなかにあるものを考えていただければ、植物の花・種子形成、地球の外部の地表より上方で起こっている限りでの、花・種子形成と関係するすべてのなかにもあるものが、ほぼすべて一緒に得られるからです。銅的、水銀的、月的なものすべてと関係づけられなければならないのは、植物の根形成と関係しているすべてのものです。地上の物質は、地球に働きかけている星々の作用に関係しています。たとえば、金属においては、鉛は土星作用に、錫は木星作用に、鉄は火星作用に、銅は金星作用に、水銀は水星作用に、銀は月作用に関係づけられなければなりません。こうした鉛、錫、鉄、銅、水銀、銀は、きわめて傑出した物質であり、それ以外の金属は、そうした惑星作用が複合的に作用しているのだといえます。また、これを植物生成に関連させて見ていくならば、植物生成における葉、花形成においては、太陽の上位にある火星的なもの、木星的なもの、土星的なものの相互作用が働いていますから、それぞれ鉄的なもの、錫的なもの、鉛的なものに関係し、地球の下方へと向かう根形成においては、太陽の下位にある水星的なもの、金星的なもの、月的なものの相互作用が働いていますから、それぞれ、水銀的なもの、銅的なもの、銀的なものに関係しています。一方において水星的なものが一種の調停として存在するのに対し、当然のことながら皆さんは、他方において別の調停を探索せねばならないことになります。と申しますのも、水星的なものというのは、地球的なものと、いわば地球を超越しているものとの間の調停であるということはおわかりですね。けれども、この宇宙全体が、そもそも現実に霊に浸透されているのです。そしてもうひとつの両極性とでも申しますか、そういうものがここに成立しているわけです。ここに地上的なものを、さらに地上を越えたあるものを思い浮かべていただければ、地上的のものと、地上を越えたもののなかに、光と重力との対立が見出されるでしょう。けれども、これだけでは、単に地上的なものと地上を越えたものとの平衡状態を見上げる可能性があるだけです。けれども、また別の平衡状態、今や地上的なものと地上を越えたものをすべて一様に貫くものと、それら自体との平衡状態、つまり、霊的なものと、計測できないものであれ、計測できるものであれ、物質的なものとの平衡状態というものも存在するのです。物質的なもののどの一点においても、霊的なものと、この物質的なものとの均衡が保たれているのです。これは宇宙においてもそうなのです。私たちにとって、宇宙において均衡が保たれている一番近い所は、太陽自体です。太陽は、宇宙における霊的なものと、宇宙における物質的なものとの均衡を保っているのです。したがって太陽は、いわば同時に、惑星系において秩序を保っている宇宙体に応じているのですが、この秩序もまた、私たちの物質組織のなかに入り込んでくる諸力によって引き起こされるのです。先ほど特徴をお話ししましたように、個々の惑星と金属との関係を確定できるのと同様、太陽と黄金との関係も確定できます。しかし、この点についても、古代人たちは、そのアーリマン的な価値のゆえに黄金を尊重したわけではなく、黄金と太陽との関係のゆえに、霊と物質との均衡に関係しているがために黄金を尊重したのです。水銀的なプロセスは、塩的なプロセスと燐的なプロセスとを調停、平衡させるもので、水銀的なものは水星の作用と関係づけられますから水星的なものは、地上的な方向性をもち重力と関係する塩的プロセスと地上を超えたものへの方向性をもち光と関係する燐的プロセスとを調整、平衡させるといえます。この地上的なものと地上を超えたものとの平衡だけではなく、さらに、霊的なものと物質的なものを平衡させるものがあり、それは太陽であるということができます。そして、その太陽は黄金と関係しています。 第六講●解説/テーマ解説7-了参照画:Mystical Solar System哲学・思想ランキング
2024年10月06日
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ルドルフ・シュタイナー「精神科学と医学」第六講-6/地上の物質は、星々の共同作用の産物であるテーマ解説6. 地上で起こっていることは地球外に存在しているものの作用であり、地上の物質は、星々の共同作用の産物である。地上の物質、特に金属は、地球外の宇宙のある種の配置と関係づけられる。 さて、私たちが光的なものを探究しようとすれば、いわばこの太陽系において「太陽の上位にある」もの、つまり、火星的なもの、木星的なもの、土星的なもののなかにあるものすべてに、眼差しを向けなければなりません。そして地球上で起こっていることはすべて、ある意味で、地球外に存在しているものの作用ですから、私たちは地上的なもののなかに、まさにこのような、宇宙で起こっていることの作用を見い出さなければならないのです。このことは、今日の分子物理学、あるいは分子、原子、化学が行なっているような抽象的、空想的なやりかたで、地上的な物質のなかに、その物質の配置や凝集状態の根拠を探し求める方向には向かいません。この原子化学は、いわば見ることのできないものを、つまり物体の構成の内部をのぞき込み、原子や分子についてありとあらゆる好ましい予想を考え出し、さらには、今日は減ったかもしれませんが、数十年前には非常に誇らしげに語られていたこと、物体の構成の内部で生起しているものの、「天文学的認識」について語るわけです。少し以前にはこれについて語られていたのです。一昨日の公開講演で申し上げましたように(☆1)、今日ではこういうものの写真を撮影するのです。心霊主義的なグループにおいてすら写真を撮影しています。「霊の写真」をです。今日、自然研究者は、霊の写真を信用しない傾向がありますので、彼らは、こういう事柄を見通している他のひとたちが、原子の写真を信用しないことを承認しなければなりません。なぜなら、こういう原子の写真も、霊の写真も同じ影響の下にあるからです。☆1 1920年3月24日の「人智学と現代の諸科学」という講演のこと。「精神科学と現代の生の要請」(小冊子5、1950年、ドルナハ)所収。地球の上方へと向かう植物生成における葉・花形成においては、太陽の上位にある火星的なもの、木星的なもの、土星的なものの相互作用が働き、地球の下方へと向かう根形成においては、太陽の下位にある水星的なもの、金星的なもの、月的なものの相互作用が働いています。光と重力という両極的な対立において光的なものを探究するときには、そうした太陽の上位にある、火星的なもの、木星的なもの、土星的なもののなかにあるもののすべてに眼を向ける必要があります。地上で起こっていることを見るためには、地球外に存在しているものの作用を見ていかなければなりません。何かを見るためには、それに働きかけているものの作用を見ていかなければならなりませんから、いくら一生懸命に顕微鏡を覗き込んでも何もわからないのです(*ここでシュタイナーは、「原子の写真も、霊の写真も同じ影響の下にある」と述べているのですが、それらはともに偏狭な唯物論でしかありません。シュタイナーが行っているスピリチュアリズム批判にしても、それは霊的なものの探究のようにみえて、姿を変えた唯物論であるということが強調されています。)。植物のなかに見られるものは、原子や分子に結びついている力ではなく、地球の外部で作用していて地上の物質に影響を与えている力なのです。ですから、私たちが地上の物質を配置したなら、そのなかに存在しているのは、この配置に作用している原子や分子といった小さなデーモン(demon)たちではなく、何らかの方法で作用している宇宙的な力なのです。つまり、地球外部のもののなかに、ある配置が成立すると、たとえばこの太陽系から土星が、地球のある一点にとりわけ有利に作用するような配置が成立すると、土星が有利に作用することができるのは、土星の作用系統から他の作用系統ができるだけ遠く離れていて、つまりこれが地球で、土星が地球に作用しているとしますと、すなわち、太陽の作用、火星の作用その他が、土星の軌道内や、土星の軌道のすぐ近くに無く、できるだけ遠く離れていて、いわば土星だけが作用しているときなのですが、そういう配置が成立すると、この地球は他の原因によって特殊化されているために、地球のこの箇所に、こういう土星の力にとって、この場合はその他の地球外的な諸力には少ししか影響されていない土星の力にとって、有利な配置が存在すると、地上の物質のなかに、同じ関係においてたとえば火星が作用するのとは異なった構造が引き起こされるのです。私たちが地上の物質のなかに見ているものは、まさしく星々の共同作用の産物に他なりません。したがって、今私が切り離してみた場合、つまり、土星が地球のある特定の箇所にとりわけ有利に、そして長期間作用する場合、ここに鉛の出現をみることによって、この産物のなかでの土星の作用が私たちに明らかになるのです。物質の分子や原子に対する顕微鏡的なアプローチではなく。地上の物質は、星々の共同作用の産物であり、そうした地球外の宇宙のある種の配置と関係づけられるという観点が必要です。これが、ある種の地上の物質、とりわけ金属性の物質が、地球外の宇宙のある種の配置と関係づけられなければならない理由なのです。ここで可能なことは、今日の研究、今日の精神科学が提供することができるものを、以前太古の叡智から提供されていたもの、本来再発見することによってしか理解できないものとの対比に導くことに他なりません。と申しますのも、古代の文書というものは、今日の化学的、物理学的に思考する人々にとって、実際根本において読むことのできないものだからです。以下の例はこのことを教えてくれます。北欧のある非常に聡明な学者Theodor Svedbergが、ある錬金術の歴史に書き留めたことですが(☆2)、彼はここで、彼が言うには、今日の化学的概念からすればまったく無意味なプロセスを挙げています。このプロセスからは何も見つけられないからです。これはまったく正当なことです。それは鉛プロセスです。しかし、この善良な人物は、このプロセスによって種子形成プロセスが説明されていることを知らなかったのです。彼は、このプロセスによって、実験室内でのプロセスが説明されているのだと考えました。そうなるとこれは当然無意味です。けれども、術語を完全に、いわば別の世界に適用しなければならないこと、表現によっては、まったく別のことを考えなくてはならない場合があること、こういうことをこの人物は全く知らず、そのため彼にとってこのプロセスは無意味なのです。彼は正当であると同時にもちろん正当ではないのです。☆2 テオドール・スヴェドベリ(Theodor Svedberg/1884年-1971年)はスウェーデンの化学者。「物質/Die Materie」という著書のこと。1914年にドイツ語に翻訳出版された。記:太古の叡智の記された文書というのは、それをそのまま現代で読むことはできません。そこに記された叡智は、精神科学によって再発見されなければならないのです。たとえば、「鉛プロセス」を実験室のなかでのものとしてとらえても無意味で、それは「種子形成プロセス」について記されているのだということを理解しなければならないのです。 第六講●解説/テーマ解説6-了参照画:dark matter*Mit Atomwolken die r?tselhafte Dunkle Materie detektieren ? TU Darmstadt(原子雲による謎の暗黒物質の抽出)哲学・思想ランキング
2024年10月05日
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ルドルフ・シュタイナー「精神科学と医学」第六講-5/人間には宇宙のプロセス全体が反映しているテーマ5要項 塩的なもの、燐的なものの対立とその両者を均衡させる水銀的なものは、宇宙全体のなかにおける重力と光の対立及びそれを均衡させるもののなかにも現われている。人間の心臓には、宇宙のプロセス全体が反映している。 けれども、ここで重要なのは、いわば植物においては分離されて現われてくるもの、人間においてはその組織化の一面を決定するものを、私たちがき ちんと見据えることです。昨日皆さんには、いわば人間外部の自然特有の三つの形成衝動に目を向けていただきました。すなわち、塩的な形成衝動、水銀的形成衝動、そして、燐や硫黄といった特定の物質が、計測できないものの力を自らのうちに保存すること、計測できないものの担い手であることによって成立する形成衝動です。私が今日お話ししたことと関連して、人間外部の自然のこれら三つの異なる内的形成衝動の差異とは、いったいどのようなものなのでしょうか。そのプロセスにおいて塩的であるもの、もっと良い言い方をすれば、そのプロセスにおいて「塩形成」に通じるものはすべて、内的な経過を重力の領域に移行させるものです。古代の医学的著作を読むひとは、古代の文書において物質の塩化について語られている箇所では常に、次のようなことに思いを馳せるとうまくいくでしょう。つまり、ここではこのプロセスである塩化によって、当の物質が重力の支配下にある。一方、その反対のプロセス、光のプロセスによって、今度は計測できないものが、この重力から取り去られるということです。つまり、私たちが光をその他の計測できないものの代理・代表者とするなら、人間外部の自然においても常に一貫して、光と重力との闘い、地球外のものを目指すものと、地上的な物質を中心へと向かわせようとするものとの間の闘いのことを考えておかなければならないのです。私たちがここで有しているのはまず、 重力と光の対立です。そして重力と光との間を揺れ動きつつ、絶えず均衡を求めるもの、これは水銀的なもののなかに現われています。水銀的なもののなかに含まれているのは、光と重力の間でたえず均衡状態を求めているものにほかなりません。人間の外部にある自然には、塩的なプロセス、燐的なプロセス、水銀的なプロセスという三つのプロセスがあるということは、第五講から述べられてきたことですが、塩的なプロセスは、内的な経過を「重力」の領域に移行させるものであり、それに対して燐的なプロセスは、「光」のプロセスであって、「計測できないもの」を重力から取り去るプロセスであるということができます。そして、そこでは、「光」と「重力」とか常に均衡状態を求めて闘っていて、その均衡を求めるものが「水銀的なもの」のなかに現われています。さてここで重要なのが、この塩的なもの、燐的なもの、水銀的なものの対立を、実際宇宙全体のなかに、つまり、重力のなかに、光的なもののなかに、そしてこの両者の対立、すなわち両者の均衡を求めるもののなかにも置いてみることです。さてよろしいでしょうか、この完全な対立のなかに独特なしかたで置かれているのが、人間の心臓の活動全体です。現代の自然科学的見解において心臓に対して適用されている例のポンプシステム、これを支持できないことはすでに皆さんにお話ししましたが、これは除外するとしても、あたかも心臓が、いわばそれ自身の皮膚によって外部に対して閉鎖された活動に尽きているかのように想定されている、今日すべてがこのように想定されているというのは、実際恐るべきことと申し上げたいのです。実際今日、心臓はその本体を通じて脈打っているものと何らかの関係があると想定されているのとほとんど変わりません。けれども、そうではなく、器官存在として人間は、宇宙プロセス全体に編入されていて、人間の心臓というものは、単にその生体組織のなかにあるひとつの器官というのみではなく、全宇宙プロセスの一部でもあるのです。そして植物において起こっていること、太陽の上位にあるものと太陽の下位にあるものとの共同作用は、人間においても起こっていて、その現われが心臓の動きのなかに見出されるのです。心臓の動きは単に人間において起こっていることが刻印されたものであるのみならず、人間の外部にある関係が刻印されたものでもあるのです。皆さんが人間の心臓を考慮なさるなら、そのなかには根本において宇宙のプロセス全体が反映していると申し上げたいのです。人間とは本来、霊的・魂的な存在としてのみに個別化されているのです。人間は、宇宙のプロセス全体に編入されています。たとえばその心臓の鼓動が、人間において起こっていることの現われではなく、光と重力の間で全宇宙において起こっているあの闘いの現われであるということによって、宇宙全体のプロセスに編入されているのです。このように「塩的なもの」と「燐的なもの」の対立、そしてその両者を均衡させる「水銀的なもの」を実際に宇宙全体における「重力」と「光」の対立、そしてその均衡を求めるもののなかに置いてみることができるのですが、その際、人間の心臓の活動に注目する必要があります。人間の心臓は、単に人間の内部にある器官だというのではなくて、人間の外部にある関係が刻印された宇宙プロセスの一部であるということができるのです。私は屡々、一般のかたのために、人間がこのように宇宙のなかに置かれていることを、次のような計算をして、きわめて粗雑な具象性によって説明しようと試みました。人間が一分間におよそ18回呼吸すると考えてみて下さい。すると、この呼吸数は、一日で、つまり24時間で一定の数になることがおわ かりでしょう、すなわち、25920回です。ひとりの人間の生きる一日をとってみて、一年が365日あり、このひとが平均的な寿命、つまり71歳まで、もちろんもっと長生きする可能性もありますが、そのように生きると考えて下さい。すると、人間の寿命の日数は、一日24時間の呼吸数とまったく同じ、25915という数になるのです。さらに、黄道十二宮を巡る太陽の運行全体、つまりはプラトン年、太陽が、そうですね、春分点に牡羊座から昇るとして、再びそこに戻ってくるまでに要する時間を考えていただければ、25920年となります。ここで皆さんに、人間と全宇宙との関係を表わす、不思議な数の例証が与えられたわけです。なぜなら、これは、人間の寿命の日数と同じ数によって表わすことのできるものを、太陽の運行の年数、プラトン年で示しているからです。よろしいでしょうか、この数の例証は明白に示すことができるのですが、宇宙の存立の常ならぬ深みまでも暗示しているものなのです。皆さんが実際、私たちが人智学においても強調しなければならないことを、目に留めて下さりさえすればよろしいのです。つまり、人間が眠りにつくと、人間の自我とアストラル体は、物質体とエーテル体から離れ出て、目覚めるときにまた入り込む、ということです。皆さんがこの事実を、一種の、物質体を通じて霊的・魂的なものを吸ったり吐いたりすることとして想定して下されば、このような吸ったり吐いたりによって、人間の生存中に、これはあるものにとっては一日であるにちがいありませんが、生存中になされるこういう呼吸の数は、25915、あるいは25920となるのです。閏日というものがありますね、この5という差は閏日があるために生じているのです。さらにまた、宇宙のなかには、この同じ数にしたがって、太陽の運行、見かけ上の太陽の運行と関係しているものもあるにちがいありません。この宇宙の進行のなかにはひとつのリズムがあります。このリズムは大いなるもののなかに現われ、ひとりひとりの人間の寿命のなかにも、一日の呼吸プロセスのなかにも現われているのです。有史以前の世界が、遺伝的な観照力から、創造神ブラフマーの昼と夜について、宇宙の呼吸について語っていたことも、もはや皆さんには不思議とは思われないでしょう。なぜなら、この宇宙の呼吸が、人間の日々の生のプロセスのなかにそのミクロコスモス的な像を有していること、このことに有史以前の世界は気づいていたからです。ここでシュタイナーは、人間が宇宙プロセス全体に編入されているということを非常に具体的に、宇宙と人間のリズムの比較によって描き出しています。人間は、一分間に18回呼吸するとすれば24時間で、25920回呼吸することになります。人間が71歳まで生きるとすれば、365日×71年で、25915日生きることになります。驚くことに、人間の寿命の日数は、一日の呼吸数と同じになるのです。また、黄道十二宮を巡る太陽の運行である「1プラトン年 (1Platonic Year)」は、25920年です。ここに、人間と宇宙の関係があることがわかります。「宇宙の呼吸」は人間の生のプロセスのなかに、「ミクロコスモス的な像」を有しているのだとシュタイナーはここで述べています。そして、このことは古代において知られていたことだというので実際何らかの共感や反感によってではなく、非常に具体的なものに基づくこういう事柄によってこそ、そもそも太古の叡智を真に賛美することができるようになるのです。私は皆さんに保証できるのですが、数え切れないくらい多くの場合に、次のようなことを確認しなかったら、私はけっして太古の叡智の賛美者ではないでしょう。つまり、太古の叡智のなかに再び見出されるけれども、太古の叡智を有した人間が知っていたことと、私たちが今日再び獲得できるものの間でまったく消え去ってしまっていた事柄、今日、こういう事柄が発見さ れるようになったということです。真に認識を目指して努力するひとが、太古の叡智の賛美として育成するものは、太古の叡智を目指して全面的に突進することから生じるのではなく、一定のまったく具体的な関係を洞察することから出てくるのです。真の認識を求めるならば、こうした太古において叡智を有していた人間が知っていたことを、こうした人間と宇宙との具体的な関係を洞察することが必要です。つまり、太古の叡智そのものに戻ることではなくて、それを現代においてそれにふさわしい認識の仕方で獲得することが必要だというのです。シュタイナーが、科学を否定するのではなく、それを重要視し、その補完を意図していたということをここでも再認識しておくことにしたいと思います。 第六講●解説/テーマ解説5-了記:宇宙と人間のリズムには興味深い関連性があります。例えば、私たちの体内時計は約24時間の周期で動いており、これは地球の自転周期と一致しています。この体内時計は、脳の視床下部にある視交叉上核という部分が中心となって調整されています。一方、宇宙のリズムには、太陽の活動周期や惑星の運行周期など、さまざまなものがあります。太陽の活動には約11年の周期があり、この周期は地球上の気候や人間の健康にも影響を与えることが知られています。また、宇宙飛行士が宇宙空間で過ごす際にも、地球上のリズムを維持するための工夫が必要です。例えば、宇宙ステーションでは、地球の昼夜サイクルに合わせた照明を使用して、宇宙飛行士の体内時計を調整しています。このように、宇宙と人間のリズムは密接に関連しており、私たちの生活や健康に大きな影響を与えています。参照画:Platonic Year哲学・思想ランキング
2024年10月04日
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ルドルフ・シュタイナー「精神科学と医学」第六講-4/上部と下部ではまったく別様の治療が必要であるテーマ4要項 人間のなかには一面において、上に向かって根を張るもの、下へ向かって成長するものである逆転した植物的なものがあり、そのまわりを取り巻いている下から上への傾向をもった物質的なものがある。人間の健康も病気も、そうした力の共同作用のなかにある。人間の生体組織は上部と下部ではまったく別様に扱われなければならない。 皆さんが人間の観察をなさるなら、すでに先日来の議論により、ここで人間も両極的に方向づけて考えなければ、うまくいかないことがおわかりになると思います。と申しますのも、一方で私が皆さんに示しましたのは、植物において下から上へと成長しているものが、人間の場合は上から下へと成長していて、そのため人間の場合、性的なものと排泄プロセスにおいて、花的なものと種子的なものは下へ向かい、根付くものは上に向かうということです。ただ、これは人間の場合、機能的にそうなのであって、植物の場合はこれは物質的なプロセスなのです。人間も植物のように上部と下部というふうに両極的に方向づけてとらえる必要があるということは、この講義の最初から述べられていたことですが、人間においては、植物生成のプロセスとは180度逆転したプロセスが「機能的」に働いているのだといいます。植物における花、種子のような下から上へと成長するプロセスが、人間のにおいては上から下へと成長していて、植物における根のような下へと向かうプロセスが、人間においては下から上へと成長しているのだといえます。しかし、そうしたプロセスは植物においては「物質的」であるのに対して、人間の場合には「機能的」にそうなのだということが重要です。このことからすでにおわかりでしょうが、人間のなかには、植物のなかに存在するものとは反対のものがあるのです。けれども人間のなかに単に反対のものがあるというのではなくて、この反対のものを担うものがあるのです。従って皆さんは次のように言わなければなりません。すなわち、人間のなかには一面において、機能的に、いわば上に向かって根を張るもの、下へ向かって成長するもの、つまり植物的なものがあり、そしてその回りを取り巻いて、今度は下から上への傾向を有する、物質的なものがあるのだと。そのため、本来植物の場合は、上の領域から取り出してくることと、下の領域に沈降することが、巧妙に行なわれているのに対し、人間の場合は継続的に行なわれているのです。そして本来、人間の健康な生も病んだ生もこの相互変動のなかにあるのです。よろしいでしょうか、今示しましたように、一方で、地球から上に向かって作用する担い手が存在し、他方で、上から下へ作用するものがこの担い手のなかに押し込まれているわけです。人間のなかには植物のなかに存在するものと反対のものがあるのですが、それだけではなくて、その「反対のものを担うもの」があります。人間のなかには、「機能的」に植物的なものがある一方で、「物質的」にその回りを取り巻いて、下から上へ傾向をもった担い手があるというのです。ですから、植物の場合は、天の諸力が毎年、花・実的なものを根的なものに沈降させていくような循環があるのに対して、人間の場合は、その「反対のものを担うもの」があることによって、それが常に継続的に行なわれています。地球から上に向かって作用する「物質的」担い手があり、その担い手の中に上から下へ作用するものが押し込まれているのだというのです。人間は、そうした力の相互作用のなかにあるのだということを認識しなければなりません。健康な状態も病気の状態も、人間の生はこれらの力の共同作用のなかにあるということを容易に見て取れるのは、いわばなかば絶望しつつ、ひとつの重要な事実の前に立つときです。つまり、人間の生体組織は、上に位置する部分が考察されるときと、いわば心臓の下に位置する部分が考察されるときでは、まったく別様に扱われねばならないという事実です。この場合、人間は別の原理に従って観察されねばならないとすら言えます。このことはいくつかの事実、たとえば、そうですね、頭蓋ろう(Kraniotabes)の通常のくる病(Rachitis)に対する、多くのひとにとって謎めいた事実のなかに現われているのです。この両者は、人間を統一体として観察するひとにとっては、互いに近接している一方、人間の対極的に異なる領域から出ているために、まったく異なった原理によって観察されることもやむを得ないのです。このことは重要な意味を持って治療プロセスにまで及んでいます。ですから、くる病において何らかのやりかたで、燐療法によってある種の成果を示した医師たちは、おそらく頭蓋ろうの場合この療法によっては全く成果をあげられないでしょう。この場合は、炭酸石灰か何かによる治療によって反対の処置がとられなければならないのです。けれどもこれは、まったく一般的な事実を表わしているにすぎません。この事実はあまりここちよくないことを表明しなければなりませんが、これはまったくの真実なのです。つまりこれは、次のような事実なのです。人間の治療の場合、つまり医学の領域に入っていく場合、何かが言われると、その反対のこともまた、常にある場合においては正しいことがあるということです。そしてこれは宿命というものなのです、皆さん。誰かが何らかのことに対して、まったく正しい治療法を示し、生体組織における一見まったく同じ症状に対して適用されると、この治療法はまったく治療法にはならず、反対の治療法が取られねばならないということも、十分起こりうるのです。そのため、ひとつの治療法で処置することができるのは人間の一部のみで、人間の他の部分はまた別の治療法で処置せねばならないということを意識していなければ、医学においては常に、ある治療理論を別の治療理論によって撃退してしまう可能性もあるわけです。人間を上部と下部というふうに両極的に方向づけてとらえる必要があるのは、人間の生体組織は、心臓を中心として、その上部と下部では、別の治療法が必要になるからです。上部と下部では、人間は別の原理に従って観察されねばならないのです。治療においては、そのことは非常に重要なことで、ある正しい治療が行なわれたとすると、生体組織における一見まったく同じ症状に対して、反対の治療法が取られねばならないということも、十分起こり得ますから、それぞれの治療法が人間のどの部分について有効であるかに意識的でなければならないのです。 第六講●解説テーマ解説4-了参照画:植物と人間の形態哲学・思想ランキング
2024年10月03日
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「知るを生きる」第5項 知る覚知:地球における21世紀AI情報の現代社会は、遂に科学技術・宇宙理論研究が今までの自然科学だけでは捉え切れない、すなわち、人類の感覚器官や其のための科学機器では認識出来得ない、其れだけに頼っては不可視・不可聴・不可触・不可知(Invisible・Unknowable)、下手をすればそれらすべてを三世不可得(さんぜふかとく)と諦めねばならないのか、更には数値上では在るべくとしたダークマター・ダークエネルギー、将又、量子理論における思考・科学技術が選考した「ゆらぎ」の不可思議現象の壁にまさにブチ当たっています。人類過去史にあっての当時の先端科学、人間の知恵が知ること能わずとした類似的ではある超覚現象の再出現です。何ゆえに類似的ではあるがと云う条件を付けたかというと、史的実相世界のもとでは不可視・不可聴・不可触・不可知の陰には絶えずそれを打ち消す、信教及びオカルト、オカルトは一般的には心霊現象や怪談、ホラーなど人に恐怖を与える怪異現象や、超能力や未確認モンスター、UFOなどの「非科学的」と「アカデミズム」から否定されている超常現象を指しますが、それらを連想させる事によりそれらを対象とする物理科学的認証が否定されていたからです。然し乍ら、現世現代の超科学技術は人間には見えず聞こえず、触れられずのものごとをも捉える理論科学を中心にして、其の認識方法を手中にし得んとしています。現在今の此のときこそ、今までは隠されてきた「信教や神秘思想」の実相が見得る可能性が訪れたのです。それ故に、其の基礎理論として哲学的科学の立ち位置からの、宗教や神秘学的語句の意味合いを物理科学的意味合いを絡ませ掴んでおくことが、21世紀AI情報の現代社会に生きる我々としては否定だけするのではなく参考にするのもなにかのときの一助になります。これからの自然科学や宇宙理論科学が其の認識・認証の度合いを勧めていけるかどうかは、将来の人類の科学に向き合う態度、即ち、科学哲学の成立が、果てはオカルティズムを含めて要請されています。此の人類と「ユニバース/単一体として知られる宇宙の呼吸は人類に自らを知らしめるなにかの要素ゆえに成立するのか、ただの混沌として在らしめているのか、それが宇宙の星屑から生じた知的生命体の存在意義であり、世界が与えた知的生命体「人類」に期待・要請するものなのかもしれません。参考画:Invisible・Unknowable 第5項 知る-了哲学・思想ランキング
2024年10月02日
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ルドルフ・シュタイナー「精神科学と医学」第六講-3/植物は、両極的対立のプロセスに拘束されているテーマ3要項 植物相は地球そのものと地球外のものとの相互作用を、形態だけではなく内的な化学現象、器官組織全体に及ぶまで完全な形で有している。植物は、光と重力、灰化していくものと火のなかに開示されているもの、計測できるものとできないものとの両極的対立のプロセスのなかに拘束されている。この節では、さらに具体的に、植物の宇宙的連関について言及されていきます。 皆さんは実際には次のような事実に目を向けてごらんになりさえすればよいのです。根的なものに傾いている植物、つまり、花形成に傾いている植物ほどには、花・種子形成のプロセスを成し遂げていない植物を燃やすと、あるいは全般に植物の根を燃やすと、花を燃やすときよりも、あるいはヤドリギや樹の類の植物を燃やすときよりも、はるかに多量の灰成分が出るという事実です。この違いは端的に、太陽の下位にあるもの、つまり月的なもの、水星的なもの、金星的なものは、根の形成に向かって強い傾向性を示すような植物に対してより強く作用しているということに由来しています。灰のなかには、鉄、マンガン、珪石(Kiesel)といった、実際直接的な薬を析出し、植物から何かを利用するときにも薬として現われてくる成分が見出されます。これに対して、これとは反対の種類の植物を燃やすときには、灰の成分は少ししかないでしょう。この燃焼プロセスのなかに現われているもの、これは何はさておき、植物が単に地球上に見出されるものだけに属すのではなく、宇宙全体の一部であることを示す、正確な外的参照記録(ドキュメント)なのです。植物の燃焼プロセスは、植物が宇宙全体から作用を受けていることを顕しています。「根的なものに傾いている植物」を燃やすと、「花形成に傾いている植物」を燃やすときよりも、多量の灰がでます。それは、根の形成に向かって強い傾向性を示す植物が、月、水星、金星からの強い作用を受けているためです。その灰には、鉄、マンガン、珪石といった薬としても利用できる成分が見出されます。植物プロセスをもっと完全に観察してごらんなさい。一年生の植物の場合、植物プロセスはいわば、種子の形成とともにある特定の季節に中断されます。つまりこの種子形成を、私たちはおもに地球外のものに還元しなければならないのです。けれどもこの種子形成は中断され、それは地上的なものにゆだねられて、より古い年にはある意味でもっと高い段階に達していたものが、より新しい年には、いわばそれより低い段階で再び継続されていかねばなりません。ですから皆さんは植物の成長全体のなかに、独特な進行を観察することができるのです。ここが地球の表面だと考えて下さい。さらに、植物全体が地上から生えて、地球外のものに向かっています。けれども、地球外で形成されたものは、再び地球へともどされ、循環が新たに始まるのです。したがって、皆さんが植物の成長全体を観察されるなら、本来、天の諸力が毎年地球へと降下し、地球の諸力と結びついてこの循環が新たに完了するというわけです。つまり天の諸力は毎年、花・実的なものを根的なもののなかに沈降させ、それによって、植物の成長全体を支配している円環を達成するのです・植物相は、地球そのものと地球外のものとの相互作用を受けています。植物は、地上から地球外へ向かって成長していきますが、天の諸力はまた種子の形成によって地球へと下降し、花・実的なものを根的なもののなかへと沈降させていくように、植物プロセスは、地球外へ向かう力と地球へ向かう力とが円環をなして循環していくものとしてとらえることができます。お解かりでしょうか。ここで皆さんに指摘されていることは、私たちは実際のところ、地球の植物相とみなしているもののなかに、地球そのものと地球外のものとの相互作用を、完全なかたちで示しているものを有しているということなのです。これは、単に形態にまで及んでいるのみならず、内的な化学的現象る(Chemismus)と器官組織全体にも及んでいます。何故なら丁度、地球的なものが、形態の機構において、宇宙的なものに克服されるように、いわば植物における地球的な化学現象も、地球外のものによって克服されるからです。そしてこれがある程度まで克服されると、今度は地上的な化学現象を示すために、またもや地上的なもののなかに戻されるのです。さらに、地上的な化学現象は、灰的なもののなかに現われているすべてのものに外的に示されていること、つまり地上的な化学現象は、生命的なものから抜け落ちるものによって表わされるということが皆さんにほとんど明確になるでしょう。この地上的化学現象は重力に屈服し、一方、植物の上へ向かう成長は、重力その他の地球に結びついた諸力を、絶えず克服しているのです。こうして私たちは、重力と光の両極的対立について語ることができます。光とは、絶えず重力を克服しているものです。そしてこの、光と重力との闘い、灰へと押し寄せるものと、火へと押し寄せるものとの闘いのなかに、このプロセスのなかに、植物はある意味で拘束されているのです。ここで私たちに示されるのは、灰化していくものと、火のなかに開示されるものとの両極的対立、計測できるものと計測できないものとの対立です。さてここで一面において、宇宙的連関のなかにある植物界が得られた植物相において見られる地球そのものと地球外のものとの相互作用は、その形態だけではなく、内的な化学現象や器官組織全体にまで及んでいます。植物における地球的な化学現象も、植物の上に向かう成長力が、重力などの地球に結びついた諸力を克服しているのだといえるように、地球外のものによって克服されますが、それはまた地上的なもののなかに戻されていきます。その現象は、重力と光との対立、灰化していくものと火のなかに開示されるものとの対立、計測できるものと計測できないものとの対立を示しているのだといえます。参考画:Treeship Hyperion 第六講●解説テーマ解説3-了哲学・思想ランキング
2024年10月01日
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