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かつての興福寺には『中金堂』『東金堂』『西金堂』という3つの金堂がありました。境内の中心は、南から北に『南大門』『中金堂』『講堂』と配置され、境内の東側は、南から北に『五重塔』『東金堂』『食道』と配置、境内の西側は、南から北に『南円堂』『西金堂』『北円堂』と配置されていました。また、境内南西隅には『三重塔』、境内南東部には『大湯屋』が建てられていました。これらの多くの堂宇は、創建以来、度重なる火災に見舞われ、焼失と再建を繰り返しました。また、慶応4年(1868年)の神仏分離令により興福寺は大打撃を受け、一時は廃寺同然にまでなりました。上記の建築物のうち、『南大門』『西金堂』『講堂』については、享保2年(1717年)の火災で焼失しましたが、再建されませんでした。また、『中金堂』についても同じ火災で焼失しましたが、102年後の文政2年(1819年)に『仮堂』として再建されました。その『仮堂』も老朽化のため、平成12年(2000年)に解体されました。そして現在、薬師寺の旧金堂を移築し、『仮金堂』として御本尊を安置しております。その興福寺の中心的堂宇である金堂ですが、平成30年(2018年)落慶予定で、ただいま再建に取り組んでおります。
Feb 25, 2013
天智天皇8年(669年)、山背國山科(現:京都府京都市山科区)に藤原鎌足の夫人、鏡大王が夫の病気平癒を願い、釈迦三尊を本尊として山科寺を創建しました。そして、天武天皇元年(672年)、山科寺は藤原京に移り、名を厩坂寺(うまやさかでら)と改めました。その後、和銅3年(710年)、平城遷都に際し、藤原鎌足の子、藤原不比等は、厩坂寺を平城京左京に移転し、『興福寺』と名付けました。
Feb 25, 2013
天武朝の朱鳥元年(686年)、興福寺の道明上人が、天武天皇の為に初瀬山の西の丘に三重塔を建立。その後、神亀4年(727年)、聖武天皇の勅願をうけ、徳道上人が東の丘に十一面観世音菩薩を祀り開山しました。長谷寺は元々東大寺(華厳宗)の末寺であり、平安時代中期には、興福寺(法相宗)の末寺として改宗しました。そして、現在は真言宗豊山派の総本山となっております。また、徳道上人は、西国三十三観音霊場の開祖であるため、この長谷寺は西国三十三観音霊場の根本霊場とよばれています。
Feb 20, 2013
奈良時代の法相宗の僧、義淵僧正は、父母が長年、観世音菩薩に祈願して授かった子でありました。この話を聞いた天智天皇は義淵を引き取り、天武天皇の皇子で27歳で早世した草壁皇子と共に岡宮でお育てになりました。後に天智天皇は仏教の指導者となっていた義淵に岡宮を与え、天智天皇2年(663年)、義淵がこの宮を寺としたが創始といわれています。また『龍蓋寺』の名称の由来については、この寺の近くに農地を荒らす悪龍がおり、義淵僧正はその悪龍を法力によって小池に封じ込め、大石で蓋(ふた)をしたという伝説があります。この伝説は、厄除信仰に発展し、龍蓋寺は日本最初の厄除霊場とされています。
Feb 18, 2013
大宝3年(703年)この山で修行をしていた元興寺の僧、弁基上人が、愛用していた水晶の壺の中に千手観世音菩薩を感得しました。そして、その姿を刻み、像を庵に安置したのが、この寺の創始とされております。その後、養老元年(717年)に元正天皇がここに八角堂を建て、その壺と像を安置し、南法華寺と名付けました。一時は山内に三十六堂、六十余坊の大伽藍を配していましたが、南北朝や戦国の動乱に巻き込まれ、当時庇護を受けていた越智氏の滅亡とともに壷阪寺も衰退していき、境内には三重塔と僅かな諸坊を残すだけとなりました。本尊は眼病に霊験のある仏として昔から信仰され、元正天皇、一条天皇、桓武天皇をはじめ眼病平癒を祈願する人は多かったとされています。
Feb 15, 2013
この寺は、7世紀代に、百済から渡来した葛井氏の氏寺として建立されたと考えられています。その後、神亀2年(725年)に聖武天皇の勅願により春日法師が千手観世音菩薩を安置、藤原朝臣前卿を勅使に、行基が入仏開眼法要を行ったとされ、これが葛井寺の創始とされています。葛井寺に所蔵されている室町時代の「葛井寺参詣曼荼羅」によれば、当時は薬師寺式伽藍配置をとっていたと推定されていたようです。葛井寺は奈良時代から平安時代にかけて大いに栄えていたというが、永正7年(1510年)の大地震で寺の諸堂が倒壊し、その後修復され、現在の規模になったといわれています。
Feb 6, 2013
この寺は、欽明天皇の時代(550年)頃に、天皇の病気平癒の勅願により、行満上人によって開かれ、弥勒菩薩を安置したのが草創とされています。奈良時代に行基の弟子、法海が中興して、宝亀2年(771年)に千手千眼観世音菩薩を安置しました。日本有数の古い寺であり、役の小角、行基菩薩等の山岳修行の道場であり、空海が得度した寺として有名です。かつて、寺は非常に栄えていたが、織田信長の兵火に遭い、ほとんど破壊されたようであり、豊臣秀頼によって再興されたといわれています。かつて、真言宗の寺として栄えていたが、江戸時代初期には天台宗に改宗したようです。
Jan 29, 2013
宝亀3年(770年)のある日、猟師の大伴孔子古が山中で霊光を発する場所を見たという。霊光を見た孔子古は、この地が霊地に違いないと考え、ここに小堂を建立したと伝えられる。この小堂に童男大士が訪れ、七日間、堂に籠もって仏像を刻み、これを本尊にするようにと孔子古に与えたといわれており、翌日、童男大士が去ると、その仏像は金色に輝く観世音菩薩になったという。孔子古は童男大士こそ観世音の化身と考え、以後、殺生をやめ供養礼拝したといわれている。この縁起は「粉河寺縁起」という紙本著色絵巻に描かれており、昭和28年、国宝に指定されています。原本は「京都国立博物館」に寄託されており、粉河寺にはその複製品が保存されています。
Jan 28, 2013
宝亀元年(770年)、唐の僧、為光上人が、日本各地を行脚したいた時、名草山山頂から一筋の光が発せられ、光の元をたどって名草山に登った為光上人は、そこで金色の千手観世音菩薩を感得しました。為光上人は、「この地こそ観音慈悲の霊場である」とし、自ら十一面観世音菩薩を一刀三礼で刻み、胎内仏としてその金色の千手観世音菩薩を奉納し、草堂を造って安置したのが紀三井寺の始まりと伝えられています。その後、歴代天皇の行幸があったようで、後白河法皇は当寺を勅願所と定めたといわれている。江戸時代に入ると、紀州徳川家歴代藩主が頻繁に来山され、「紀州祈祷大道場」として尊這崇されました。かつては、真言宗山階派の寺院でしたが、昭和26年、独立し山内・県下をあわせて12の末寺を擁する救世観音宗の総本山となっています。また、通称名の「紀三井寺」の呼び名の方が知られています。3つの井戸があるお寺ということ、三井寺と区別するために紀州の三井寺ということで、紀をつけたともいわれています。
Jan 26, 2013
仁徳天皇の頃(4世紀)、インドから熊野灘に漂着した裸形上人が那智の大滝において修行を積み大滝にうたれること千日、その暁に滝壺で丈八寸の観音菩薩を感得し、ここに草庵を結びお祀りしたのが開山となります。その後200年ほどたち、推古天皇の頃、大和の生佛上人が来山し、玉椿の霊木で一丈(3m)の如意輪観世音を刻み、裸形上人が感得した八寸の観音菩薩を胸佛に納め勅願所として正式に本堂が建立されました。平安朝中期から鎌倉時代には「蟻の熊野詣」といわれ、熊野三山の信仰がさかんになり、第65代 花山法皇が三年間大滝の上に「円成寺」という庵を結び修行し、那智山を一番として、近畿各地の三十三観音様を巡拝されましたので、西国第一番札所となりました。古くは「如意輪堂」と呼ばれ、最盛期には7寺36坊を有し、那智の滝を中心とした神仏習合の一大修験道場でした。明治時代初期の神仏分離令により、廃仏毀釈を行い、いくつもの仏寺や坊舎が取り壊され、明治4年、那智権現は「熊野那智大社」と称し、仏教・修験道を廃止した神社となりました。如意輪堂は取り壊されませんでしたが、仏像仏具は「補陀洛山寺」に移され、空堂となりました。しかしその後、山内の人々の願により、明治7年、神社側から独立「青岸渡寺」と名づけられ、天台宗の一寺として再興されました。
Jan 25, 2013
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