2026
2025
2024
2023
2022
2021
2020
2019
2018
2017
2016
2015
2014
2013
全15件 (15件中 1-15件目)
1
過去に体験した自分のしてきた記憶、自意識過剰失敗経験、愚かしく、恥ずかしい行為。それが記憶によぎると速攻にアホ、ボケ、消えろと反射的に消そうとする自意識ががある。身体さんが思い出させてくれていることなのにこれアカンことだよなと思う。辛かったこととかはそうでもないのに、恥ずかしいことは反射的に拒否反応を示す。ん、もしかして自意識が嫌な記憶をふっと思い出そうとしているのを身体が拒否しているのか?まあ、どっちでもイイや、流れに任せて思い出しとかないとな。
2005年10月28日
コメント(0)
今まで自分がやってしまうこと、やりたいこと、心魅かれるもの、憧れる人にひとつの共通項を見つけた。自分はどうなりたかったのかが、今までの人生で身体が感じたことを思い出して発見した。それは自分というものを表現して日々を生きてゆきたいということ。このなんだか、ここではこうあらなきゃならないとか、ここはこうすべきというものの「鎖」にたいして自分を解放して生きていきたいといこと。この答えは前からなんとなく気づいてはいたんだけど、ああ自分が今まで身体が震えて感じたものものすべてがそこに繋がるのかという確信小さい頃から、漫画タッチに瞳や、剣や、肉体の上半身、龍や、怪物みたいなもの、を書くこと、ストーリーじゃなく、戦闘方法や、強さの設定などを想像することをしてしまうこと。コレも結局自分を表現し生きることが出来る強さへの憧れなんじゃないかと、自分を表現できないというのは自分に自信が無いということで、そうなってしまった最初の原因もなんとなくわかる。母親の愛情、必要とされている感覚、幼少期から感じることができずに母の諦めの言葉に痛みを憶えながら育ったせいだろう。子供にとって家庭は世界そのものでそこで受け入れてもらえないことを実感した子供は外の世界に自信を持ってじぶんを表現することができない。それは子供から観たら弱い奴、変わった奴ということになりいじめの対象にもなる。だから僕は誰かの「愛情」を求めると同時に自分を表現する強さが欲しかったのだな、そこにすべてが繋がる気がするな。愛情というよりも誰かに認めてもらいという欲求が強いかもしれない。だからといって、認めてもらうために自分を偽ることできず、でも自分自身に自信が無いから自分を表現することもできない。表現したとしても人を傷つけるようなことしか出来なかった。素直に「仲良くしようね」というのは自信がないためにできず、いつかは嫌われ離れていくと思ってしまうために出来ずに相手を支配しようとしていたとおもう。そんな自分の弱さを成長するにつれ心底嫌っていた。原因は解った、後はどうするか?身体の声に従って生きてゆこう。世界中すべての人が僕を必要としているわけじゃない、100人に一人ぐらいでいい、存在を認めてくれる人は100万人に一人ぐらいでいい愛してくれる人は自分を解放し表現することが第一、受け入れてくれるかどうかは別問題。問題なのは過去の経験、親の恐怖パターンから来る「恐怖心」を無くすようにするわけでもなく、感じながらそれでも進むという覚悟・・いや覚悟も必要ない、ただ進めばいい
2005年10月26日
コメント(0)
「ケイゾク」というドラマを見て「日本での行方不明者の数知っているか?」「xx万人だ」「殺人事件の数はxx百件だ」というセリフを思い出した。「完全犯罪の方法は誰にも気づかれずに殺して、誰にも気づかれずに地中に埋めることだ」というのも思い出した。ああ、だったら恨み晴らすには殺さずになにかに閉じ込めて埋めちまえばいいや、という考えに至ったとき恐怖を感じた。埋められた者の痛みや恨みを感じた。ええと話がずれたので最上記の話に戻すと、つまり表に出るのはいつも氷山の一部にすぎないということ、これはあらゆる現象がそうなんじゃないかということ小さい頃は悪人なんて一部のことで、必ずに警察に捕まると思っていた。そうじゃないことにだんだんと気づく。世間に表だって公表される犯罪こそ一部なんじゃないかと、捕まえて裁かれる悪人なんてもっと少ないんじゃないかということ、それが力を持つものであればあるほど、大きな悪であればあるほど裁かれることは無いという恐らくは「事実」に気づく僕らは見える範囲、聞こえる範囲でしか世界を認識できない。メディアの流す情報でしか世界を認識できない。世界がもし百人の村だったらという番組でのその日の安心して暮らして、貯金まで持っているという人の割合なんて3割にも満たなかったと思う。身近でいけばいじめられている人の数と発覚している数の差ありえないくらいでかいと思う、レイプ事件も一緒、海外で誘拐され日本に連れてこられて売春させられる子供の数、数百人、数千人か?日本が抱える負債の総額はいまだわかっていない。あらゆる表だって現れる事象はほんの一部にしか過ぎない。地獄は世界に無数存在する。僕等その混沌とした世界の濁っていない上水の部分であれやこれやと自分のことに思い悩ましている。僕は政治の腐敗を暴こうとして腹を刺されて死んだ政治家をTVで見たことがある。世の中の腐敗を洗いざらいぶちまけていたなにわ金融道の作者が死んだことも昨日知った。「正義の味方は悪には勝てないのかも知れない」僕等ができることとは何だろう?人の心を正すこと?それはキリストでもブッタでも為しえなかった事。僕等が出来るのは自分を変えること。咲夜さんが言っていた「自分が変われば人も変わる」いう真理キリストやブッタのように多くの人の心を変えられる人は変えればいいでも僕等に出来ることは自分の心を正すことくらい一人のカリスマじゃ世界は決して変えられない。一人一人が自分の心と向き合い正すこと。追記僕等が認識できる世界の不幸が一部のように、僕等が認識できる喜びも一部かも知れないもっと広く観れば世界には自分の喜びと感じることがたくさんあるのかもしれない。僕等の当たり前はどれだけ多くの人が羨む幸せなのだろう。そのことを肝に銘じようと思う。さらに追記風呂に入ると色々なことにたくさん気づく。なんでだろう?
2005年10月20日
コメント(4)
「茶の味」という映画を途中からだけど昨日観た。この映画の監督パーティー7、や桃尻女と鮫肌男を撮った人でこの二つはなんかすごいドタバタした映画だなという印象しか当時持たなかった。(今見れば違うかも知れない)茶の味を観て思ったのが普通って何だろう?という問いと、普通というのは「社会的にとりあえず良しとされている価値観」で幻想にすぎないという答え。みんなが自分の心に忠実であれば普通なんてありえないんじゃないかという気づきこの映画は家族という形体を基本として登場人物が当たり前ののようにみんな変だ、普通じゃないけどそれを否定する存在がない、それをごく当たり前に受け入れている。普通の印象を持つ人もそれを受け入れているからなにか変に感じる。変なものに対立する存在がない。なんかイイな。映画の中でダンサー?の人が出てくるんだけど、その人の動きをおもわず生クリームのような動きで美しいと思ってしまった。僕もPQ開発進めばああいう風に動けるだろうか。すごく気持ち良さそうだ。今度はちゃんと全部観てみようと思う。
2005年10月20日
コメント(0)
この前から「中国武術で驚異のカラダ革命」という本にはまっている。作者は斉藤孝氏で、武術家甲野善紀氏他中国武術の達人にインタビューしている。読んでビックリしたこれは奥が深い、半端じゃない、高岡英夫クラスのRPQの持ち主が中国には普通にいるんだなと感激した(高岡氏のビデオは観たことないので分からないが多分匹敵すると思う)中国武術は身体感覚、特に体幹部を感じることがすべてで現在の科学的筋力トレーニングとはまるで違う鍛錬法だが圧倒的にレベルが違う、次元が違う問題中毒解消という定義を除けばPQ開発そのものと言っていいいと思う。その中には丹田を自由自在に動かすだとか、腕を丹田化するとか、相手の力を地面にいったん流して相手にまた返すだとか、いろいろある。その中でも感動したものが「神」という境地、虎と猿のような生物的違いを相手の本能にわからせ相手の気概を挫くというもの、存在そのもので相手を制すということ。この本についてはできればみなさんに読んでもらいいろいろな見解を示していただきたいと思っています。中国武術の弊害もあるのであればそれも含めて高岡氏が今からは武術が注目されると「究極の身体」の冒頭で述べたようにヨガ、ティラピス、と身体についてのブームが起こっている、その究極が中国武術であると僕は思う。そこに問題中毒という概念をくわえたのがPQ開発でいずれ世の中に受け入れられる日がくると思っている。
2005年10月19日
コメント(4)
心を傷つけられると背中にナイフが刺さったような痛みが走る。少年時代に感じていた感覚、今はその感覚はない。俺の心は背中にあるのか?と本気で思った。なぜ今は無いのか?理由はわからない。人を単純に信じることができなくなったからか?自分の自尊心がボロボロになっているからか?本当に自分が上記の二つのような状態なのかも解らない。ただ痛みはもうない。倉本さんの「ありのままでいいんだよ」という回のプログを読んで思ったのが、だから「僕は足踏みしているんだ」ということ。自分を偽って社会の常識の中にいることもできず、かと言ってありのままの自分をさらけ出していくことも出来ずにいるありのままを受け入れてもらえたという経験がないからそのありのままがどういうものなのか自分でも把握できていないからということもある。ありのままというのは存在そのものを受け入れるということのような気がする。「あの人は何々だから」とかという条件つきじゃなくあの人という存在自体を受け入れるということだと今思った。仕事の帰り際にときどき起こる叫びたくなる激情は「自分はこんなもんじゃないんだ、こんなちっぽけな自分なんて、ほんの、ほんの一部なんだ、もっと解放させてくれ、この鎖を取ってくれ」という気持ちなんだと三度思い直してみたりする。本当の自分、存在そのものを認めてほしいくせに、拒絶への恐怖から出せないでいる、出さないでいると上記のようなジレンマに陥る。ここ2、3年で本当に涙もろくなった。義家氏の自伝「不良少年の夢」に自分を重ねて涙し、浦沢氏の「モンスター」の「どうしたミローシュ?・・お前が何を見てきたか・・お前が何を見てしまったか・・何を知ってしまったのか・・・。」「ミローシュ聞いてくれ。お前には母さんがいない。だがな・・・。だがな、お前が生まれたことには意味がある!お前は誰かに望まれて生まれてきたんだから、絶対・・・。絶対誰かに望まれて!絶対に」と涙をこぼしながら話すグリマーの姿に涙が止まらない。ドキュメンタリーのTV番組に涙することもある。10代の時には考えられなかった、少年時代の時はもっと考えられない。涙を流すなんて・・・自分が何を求めていたか、自分が何をずっと欲しかったのかよく解る。今も欲しがっていることも、「ミネアポリス王立宇宙軍」というアニメだったっけ、「必要とされてないものは存在しない、というよりも存在できない」という言葉に救いを感じた時のことを思い出す。自分は存在している、誰かに必要とされている、その甘い幻想の中に安心した眠った夜のことを・・・
2005年10月18日
コメント(0)
昨日「下妻物語」という映画を観たんだけど、いや~おもろかったな。クドカンの作品やああいう系のぶっ飛んだキャラクターが出てくるのは基本的に好きなんだけどクドカンのドラマ作品のさらに上をいっている(映画だからかもしれないけど)主要キャラクターが自分の欲求にとことん忠実というのがキャラをぶっ飛ばした感じになっている。「悩みなんて一切無し」土屋アンナはいいね彼女は多分演技とかしたことないモデルだと思うけど、ブルーリボン賞間違いなし、「長澤まさみがなんぼのもんじゃい」と思ってしまった。(去年の作品なんでブルーリボンはダメだったと思うけど)ききキリン(書き方ちゃうな)のハエを取る仕草がPQどうのこうのじゃなく「カッコいい」一番「カッコいい」のがイチゴの最後の決め台詞「じゃあ今回はあたしらの勝ちっつうことで」いいね、最後相手を潰すわけでもなく、あたしらはあたしら、あんたらはあんたらの道を行けばいい、ただし邪魔したら殺すという意図を感じた。いいね、爽快だね日本映画は岩井俊二(漢字またちゃうな、合ってかな?合ってるな。)がいいと思ってたけど、他にもあったねあとサイドストーリー、「一角獣の初恋物語」も観るならついでに観てやって、あれは「アホ全開」という感じということで久々?というより初めての「コネタ」でした。
2005年10月17日
コメント(2)
しばらく休みつもりでしたが「変わる」ということについて書きたいとおもったので書きます。本当の「変化」は意思など必要ないと思います。意思によって環境を変えることにより変わるということは出来ると思いますが、それは意思に力ではなく環境適応という現象です。いろんな経験をし、いるんなものを観て、聴いて、心に響いたものによって変化する。本質的に変わることに意思など必要ない、自分を変えようとする必要など無い、様々な経験、感動をたくさんすることによって変わるものもあるし、変わらないものもある。そして変わらないものが麻薬的運命なのではないかとだから重要なのは経験、感動、様々なものに触れること変えようとする必要もないし、変わらないでいようと思う必要も無い。自分の状態に素直に従うこと。愛の人というのは咲夜さんが言うように「周りの人間を幸せにして、自分も幸せを感じる」という人で周りの人間を幸せにすることが自分の幸せだから周りに合わせて変えてゆける。ダークサイダーは人のためにではない何か固有のビジョン(夢)を持つだからと言ってビジョンを持つからダークというわけでもなく、そのビジョンが世間から弾かれたときにダークになるのかな?その世間というのも自分の問題中毒のことかしれない自分の中の善の部分に正当性を感じるか、負の部分に正当性を感じるかでダークか、愛か決まる気がする。あと自分の周囲に目がいってしまうか、もっと広い範囲に目がいってしまうか、の違いがあるもかもしれない。ダークにはいろんな要素があるように思う。僕は周りの人間が幸せなら幸せを感じるけど、自分を素直に変えられそうにない政治家は全員が胡散臭く観えるし、偽善者だと思う。本当いうと汚職した議員を全員マシンガンでぶっ殺してやりたいと思う政治は自分の給料まできめることができるから神聖なものだとおもう。なのにどうだろうこの腐りようは結局権力握ったものは偽善的に包めば何してもいいという社会なんだろうメディアも何一つ本当のところは伝えていない気がする。話はそれたし、まとまらなかったけど、まあいいかそれではまた潜ります。コネタが浮かんだときにでもまた書きます。
2005年10月15日
コメント(2)
自分なりにダークか愛かを考えていたんですがジョナ陽さんのプログを観て「何か」気づきました。愛の人みたいに世の中のそうなっていることに従って生きるのはなんか引っかかりあるし、というかそんな生き方できたらこんな人生歩んでこなかったよな思うし、かといってダークサイダーのように教科書に名を残したいほどの生き方したいかというとそうでもないし、悪感情を処理せず抱えて生きるのもきついなと思うし(そんな感じの経験したことあるな)というか最近そんな感情も薄らいできているような(ユルが関係あるのかな?、江原氏の本を読んだのが関係あるのか)でジョナ陽さんのプログを読んで、ダークに行くにしろ、愛に行くにしろ色々あるかもなと思ってみて、愛の生き方はつくばさんのプログに共感できればという倉本さんの意見でプログ観て「ああ無理」ということがわかったんですが、だからダークへというとそれもきついかなと(笑)そう思った一番の原因はダークさを煮詰めて圧縮してのあたりを出来ればいいんですが、それほどのダークさはなかなか沸かないように最近感じます。(まあ収まっているだけかもしれないしで少し経過見守りたいです)咲夜さんのプログのコメントにも書いたんですが自分に対しての憤りだけで恨みもないんじゃないかとと思います。ダークサイダーはダークサイダーだと思いますが別の形のダークサイダーになるかもしれません。「わがままダークサイダー」(笑)という感じかもな薄らいだ原因はいろいろあると思うけど江原氏の本が一番大きいじゃないかとおもいます。PQ的にいえば偶像崇拝ということになるんでしょうね。フィルターを通して物を見始めたともいえるかも、でもすぐ終わるかもな「トカトントン」というやつでね。あと倉本さんに伺いたいのは「ダークサイダーは「脱力」自体2~3年はダメということになるんでしょうか?」ということですねいろんなところにコメントを残すかもしれますんが日記はしばらく書かないかもしれないです。しばらくPQをガリガリやりたいと思います。書く内容がつまんなくなりそうだなと思ったのとNielsさんの身体の進展をみてそう思いました。
2005年10月13日
コメント(1)
この前のプログで倉本さんの自分なりの口癖について考えた結果自分より凄い人を観たら、「なかなか凄いけど、ああ残念ながらオイの方がもっと凄なるな」本当に残念そうにするのがポイント相談をうけたら「自分のしたいようにしたらエエけど、どっちするにしても覚悟決めてやらんイカンよ、したいのになにもしないことは失敗するより最悪なことだと思うよ」他人と比べそうになったら「奴は奴、俺は俺を極めるだけ」あとは自分なりの言葉がみつからない、関西弁が多いのは小さい頃から人と話すよりテレビを観ることが多く、関西弁が好きだったし、使いやすいからほんとに素のときは関西弁だし、独り言もほとんどそう。関西人が聞いたら嫌悪感持つと思うけど(笑)
2005年10月09日
コメント(0)
今の仕事場ではたから見たら好青年という年上の方がいてその人に指示されうたびになぜかムカつくんですが(基本的に人に必要以上に指示されるのが嫌という(必要であれば全然かまわないしむしろありがたい)性格もあると思うが)なぜムカつくかといえばやっぱりただ単純に嫌いなんです。それはなぜかと思うと彼の健全さに虫酸が走るんです。女性は健全で素直で世界は素晴らしいと思っていれば魅力的に見えるんですが、なぜか男性でそういうのを観ると怒りにも似た嫌悪感があるんです。そんな綺麗事で世界は回ってねえんだよ、もっとドロドロしているんだ、目覚ませ、ボケ!!と思ってしまう。このことを観て僕がダークサイダーである確たる証拠だなと感じました。追記この前テレビでレモンさんこと山本シュウさんが「もっとみんなお節介していこ」的な発言をしていて、今までお節介なんてされるのはウザイと思ってたしウザイと思われると思ってきたけど、「お節介で救われる奴がいるし、ウザイと思われたら、失礼しましたでエエやん」という発言を受けて、ああそうかもな僕が幼少期に一番欲しかったのは「お節介」かもしれないと思いました。山本シュウ的な人は好きなんですが、上記の好青年系の人はダメです。なにが違うんだろう?
2005年10月09日
コメント(7)
一般的に悪と呼ばれるものはそこに悪意があるかどうかによって判断されていると思う。行為自体が悪なわけではない。殺人も正当防衛なら一般的には許されている。問題はそこに悪感情があったかどうか?宗教とか、道徳とかは、「悪感情そのものがいけないから無くすようにしましょう」と教える場合がある。「人を憎んでははいけません」「たくさんの欲を持ってはいけません」それに矛盾を感じていたし、悪感情を全く持たない世のため人のために生きる聖人などには死んでもなりたくなかった。思うに悪感情というのは表現までは許されるが、人にぶつけることはゆるされない、自分の中でエネルギーとして昇華させねばならない感情だと思う(PQ開発でいわれたことだけど自分の答えとして改めて)逆にに良いとされている善感情(思いやり、愛、優しさ等)は変に自分の中で変化させたりせず素直にそのまま表現するのが一番美しい気がする。子供がよく天使とか、悪魔に例えられるのは単純に両方の感情素直にを表現しているからだと思う。大人は悪感情を抑えることは得意だけど、善感情を素直に表現するのは苦手のように思う。行動そのものは善いことしているんだけどなんかいやな感じ受ける人は社会的にそうしないといけない、そうすることがいいとされているからやっている行動だからだと思う。なにか押し付けがましい、どこか不自然だ、「どう俺」みたいな自己顕示欲を感じるのは偏見だろうか?優しくない人は優しくなくていいと思う。無理な優しさはなにか不気味に感じる。変になにか裏があるんじゃないかと勘ぐってしまう。自分に余裕があれば自然と優しくはなれると思うし、かわいい女性にだけは優しいというのは自然のことだし、女性からの非難が多くなると思うが引け目に感じる必要はないと思う。自分のなかで体現できない優しさは無理して体現しない。
2005年10月07日
コメント(4)
時々急に人生が無意味に思えるときがある。休みの日とかでやることが無い時陥る。なぜだかなんとなく分かった。それは「自分の人生を生きる」ことをしてきてないからそれは人生で成功するよりも、なによりも、他のあらゆることよりも重要なことだと気づく。失敗したらとか、うまくいかないよとか、続けても何にも役に立たないとか、お金が勿体無い、成功してもそれがなんになるとか、それができたところでなんになるのとか、やっても意味が無いとか、あらゆることを言い訳にして、未知なるものへの挑戦を拒んできたんだなと思った。興味を持っても「それで何か変わるわけじゃない」時間と金が勿体無いと言ってやらないでいた。この虚しさはそのせいだろう。前からこのことは感じてはいたんだけど、これほど実感持って感じたのは初めてかもしれない。自分が成長すること、変わることを望んでいながら、変化することを恐れていたんだろう。PQバイブルの言葉でいうなら本当は「天才になることを望んでいない」ということだろう、それは本能的に望んでいない、変化自体を恐れているんだということを感じた。失敗するよりも、傷つくことよりも、苦しむことよりも、最悪のことは・・「自分の人生を生きずにリスクを恐れて何もしないこと」だと気づいた。少し人よりも遅かったな親の恐怖のパターンによるところが大きいかもしれない。これが問題中毒なのかと肌で実感した。PQバイブルをもう一度見直し、もっと密度を持ったPQ開発をしようと思う。これをやってるからという「安心」持たないでおこうと思う。重要なのは今の気持ちを忘れて日常に流されないこと確実に密度を持って実行すること。そして手法に安心しないこと、PQ開発に重要なのは「生き方」
2005年10月05日
コメント(0)
特別な約束ごと(ビジネスでの契約に当たるもの)以外に人に見返りを求めるのは罪だと思う。見返りがなかったら怒りを感じると思うし、憎むと思う。人にも、自分にも害である。親子関係よくある、あなたのためにこれだけのことやったのにと子供に憤慨し、失望する親たち。ふざけるな!!それは子供が自分の意思で本当に望んだことなのか?親の勝手を押し付けているだけじゃないのか?自分の意思で選んだとしてもそれを選ばざるおえないプレッシャーや、状況に追い込んでいないか?よく問え!!僕が過去に裏切られたというのも、僕の寂しさを埋めたくて相手に優しくしただけで、相手のために思ってしたことじゃない。見返りをもらえなくて傷つくのはいいとして、恨みのはお門違いだということに気づいた。十二国記というアニメで「私は信じたいから信じるんだ、裏切られることと信じることは別のことなんだ」という台詞の意味がようやくわかった気がする。「私は信じたい」それは私の勝手な思い、私の都合相手がどうするかはまた別の問題、裏切られるのはショックだけど裏切る裏切らないは相手の自由、私の信じたい思いとは別のこと。要約するとこんなことだろう。僕は信じたら裏切られる、人は信じないほうがいいと思ってきた。そうじゃなく、信じたら裏切られる可能性があるというだけ。信じることと裏切られることは別のこと。もっと言うなら「私、彼のこと信じることにした」という台詞は嘘だということ。信じる信じないはどちらも選べるという二者択一の方法で決定するもんじゃなく、自分の中にある想いやら、勘やらがもう決定している答えをだすということ。裏切りのショックをなるだけなくすなら、「見返りを求めないこと」人にお金を貸す時に返ってこないことを覚悟しやるつもりで貸すのと同じ逆にいうなら返ってこないことを期待しないことができない金額は決して貸さない、精神衛生上良くないし、裏切られたら、怒り、憎しみに支配されるこれは信じる信じないでも同じ周りの状況がどうであれ常識がどうであれ自分が信じないと思うんなら決して信じない。そうしないと裏切られる時の痛みは大きい、。「騙されたと思って」と言う台詞があるが意味もなく騙されたくはない「騙されたと思ってやって本当に騙されることだってある」あの台詞はなんか安心感を与え、説得の材料によくされるが踊らされてはならない。相手が困っていて助けを求めている場合も助けた後の感謝は期待しないほうが無難ではある。(たいていの場合感謝されるとおもうが)助けを求めるという行為は嫌な言い方をすれば脅迫である。助けをもとめられて、平然と助けない人が、助けないことで心が痛まない人がどれくらいいるだろうか?助ける余裕がある場合助けるだろう。「人と人助け合っていこう」は素晴らしいし、実現すればこれほどいいことはない。ただし「助け合いが成立すれば」成立しなければ、感謝されなければこれほど悪感情を生む行為はないと思う「弱さを利用する強さ」があるということ。だから見返りを求めないことは自己防衛でもある。だからと言って自分に嘘をつく必要はない。求めてしまう時は裏切られる覚悟を持つか覚悟も持てないならやめたほうが無難ではある。ボランティアも感謝されるからという理由ならやめて欲しい。そういうのを求める目は押し付けがましい助けるという行為で自分が満たされるからというのは自己満だと言われようと害はない、感謝はあくまで付属品、助けるという行為自体に満たされるのなら問題はない。この理論で行くなら前書いたプログの親への感謝も訂正しなくてはならない親は自分の都合で子供を生むけど、胎児は生存本能として生きたいと願っているはずなんだ、死にたいと思って宿る命はない、確証はないけどなぜかそれだけは言い切れる。自分のおなかの中に子供が心臓の音を鳴らし、おなかの中を足で蹴って生きたい、生きたい、と願ってるはずだし、母親にだってそれはわかると思う。妊娠中は母の身体でもあり、子供の身体でもあるから、その想いに、願いに、生きたいという欲求に感化され、産むつもりは無かったけど産んでしまった母親だっているだろう。そういう母親に対して、「親の都合で生まれてきた」は残酷すぎると感じた感受性の鈍い母親にはそういう子供の生きたいという想いは感じないと思うけど、お腹が大きくなるにつれて普通は感じるはずなんだ。確証はないけどなぜか強く感じる。「死にたいと想って宿る生命はない」「子供は親の都合で生まれるけどそれは子供だって強く望んだことなんだ」親は子供の生まれてきてくれたことに感謝し、子供は親が生んでくれたことに感謝しなければならないと思うたとえ今は苦しくて死にたくても、母親のお腹のなかでは生きたいと思ってたはずだから、
2005年10月04日
コメント(2)
昨日気づいた5つのことを個別に書こうと思います。その1僕は仕事中余裕のあるときは骨格イメージしたり、筋肉イメージしたり(骨格に比べてイメージするのは難しい)イメージの中で骨や内臓を分解してみたりやってたんですが、昨日ふっと思ったのが「コレちがうんじゃないかな?」と思いました。イメージだけになってきているんじゃないかと、身体の内部感覚を磨くことが重要でイメージはその補佐的役割に過ぎないんじゃないかと。「今この筋肉が動いている」と体感することが重要でイメージはわかりやすく体感を具現化するために身体の地図のようなものなんじゃないかと。イメージばかりに頭をとらわれ過ぎていて身体の体感を感じていなかった気がします。反省です。その2考え事や不安や緊張、忙しかったりすると頭ばかりが回って身体の声に耳を向けられないことが多々あり、頭じゃなく身体だけに任せるとミスをすることがあり、頭で判断し行動は身体に任せるという頭と身体のバランスが重要なんだと思いました。その3最近「身体との会話」に使っていいる高岡方式の運動が自分流になってきたということ、手プラプラ運動は手首だけ動かしていた(実際は腕全体を使い力を抜いてやるらしい)腰フゥワァ~運動は腰を前後に揺すり腸骨を開いたり閉じたりするだけに(本当はもっと身体全体を使うらしい)実際高岡方式の方が自分流になってきた方法より効果がありそうなので今後注意しようと思う。その4PQ禅は無努力、無無理感で行うために海に沈むような感覚になることが重要で(最初コレもイメージでやっていた)イメージじゃなくて感覚、さらに言うなら自分というブラックボックスの中に沈み感覚でやればイイんじゃないかと思った。その5高岡方式で身言葉というのがあって腰で担ぐなど目配りなど、ああこういうことをする場合腸腰筋に意識を集中させたり、表現されている身体の部位を意識して使えばいいんだなと思っていたけど、それは倉本さんのいう身体の問題を身体運動によって解決しようとしていることであるんじゃないかと思いました。つまりもともとそういう身体意識が組まれている人(天才)にはいいけど、身体意識の組まれていない(凡人)には一時的に楽になるだけなんじゃないかと(それに意識し続けるというのは神経使うし)凡人にはより高い次元からのアプローチ(身体意識を組み込むこと)が重要なんじゃないかと。それには「偉人なんて楽勝宣言」で自分に設けて自己イメージによる制限を外し、「解剖図フォトリーリング」で身体地図を自分の潜在意識の中に創り「身体との会話」で身体地図に意識を通し、その他もろもろの方法で問題中毒を解決することが凡人が歩むべき道だと、その道の先には意識などしなくても眼の耳も腰も身体全ての部位がそれぞれ正しい使い方(自然な使い方、拘束の取れた使い方)ができ身体意識も自然と形成されるんじゃないかと倉本さんがいうPQがあがればRPQも自然に上がるとはこういうことなんじゃないかと。今まで使ってきた「意識して身体を動かすことにより天才になる」高岡方式を完全に捨て、「ダメな身体パターンを創り出す意識自体を変え、自然性を取り戻し天才になる」というPQ開発一本に打ち込むきっかけとなるいい気づきになりました。「くさい臭いは元から絶つ」って感じですかね。いろいろ書いてはみましたけど全部自分の判断なので違うと感じたらコメントください。「写真版身体解剖図」と「究極の身体」届きました。解剖図メチャグロイです。お役立ちさんありがとうございます。
2005年10月04日
コメント(0)
全15件 (15件中 1-15件目)
1