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30代を対象とした人生戦略の本の原稿を脱稿した。キャリアデザイン、ライフデザイン関係での総合的、体系的、本格的な内容になった。この中に「ひとかどの人物に学ぶライフデザイン」という項がある。以下の6人を取り上げて彼らの人生を追ってみた。1・松浦武四郎(北海道の命名者)松浦武四郎(1818-1888年)は、伊勢松坂で生まれた幕末の蝦夷地探検家で、「北海道」の名付け親である。明治政府開拓使判官であったときに、北加伊道という名前を提案した。それは、「日本の北にある古くからのアイヌの人々が暮らす広い大地」という意味である。それをもとに現在の北海道という名前が生まれたのである。この人物はアイヌに深い共感と同情を寄せており、アイヌからもっとも信頼された人物だった。2・豊田佐吉(自動車産業への道筋をつけた人)1929年に世界一を誇ったイギリスのプラット会社が工場を見学し「世界一の織機」と称賛し、権利譲渡の交渉が行われ、10万ポンド(邦貨100万円)で特許権を譲渡した。佐吉はこの10万ポンドで「自動車を勉強するがよい」と喜一郎に与えた。病床にあった佐吉は喜一郎に「これからのわしらの新しい仕事は自動車だ。立派にやりとげてくれ。」「わしは織機で国のためにつくした。お前は自動車をつくれ。自動車をつくって国のためにつくせ。と励ました。佐吉は1930年に64歳でこの世を去り、自動車事業は長男の喜一郎の志となった。3・梅屋庄吉(孫文の中国革命応援者)梅屋は孫文の南京での国葬の時には、日本人としてただ一人孫文の柩に付き添っている。映画事業で手にした巨万の富は、中国革命の支援と、孫文の銅像の制作などで、きれいさっぱりなくなった。この銅像は毛沢東の紅衛兵の攻撃にあったとき、周恩来が「日本の大切な友人である梅屋庄吉から贈られたもの。決して壊してはならない」ととめて難を逃れた。中国革命は日本人の支援者無くしては為し得なかったという説もあるほど、孫文の支援者は多かった。清朝は倒れたが、孫文が遺書で言っているように「革命はいまだならず」で、中国は共産党の国になっていき、日本とは戦争状態になっていった。このため、日中双方とも、こういった日本人の存在について触れないことになってしまった。梅屋のほかにも、熊本出身の宮崎滔天などももっと知られていい人物だと思う。4・松前重義(東海大設立者)敗戦の一年前に42歳の時に、通信院工務局長という勅任官であった松前重義は、東條内閣を公然と批判していたため懲罰召集をかけられ、陸軍二等兵として南方に送られる。この時、もう一人の内閣打倒の工作を練っていた政敵・中野正剛を東條首相は自決に追い込んでいる。死地に送り込まれた松前は、何回もの危機を脱するのだが、その都度「私は実に運が強かった」「「大変な幸運だったと言える」と語っている。この人のその後の活動を眺めてみると、天が殺さなかったのだという感慨が湧いてくる。5・粉川忠(東京ゲーテ記念館設立者)東京に出た粉川は、「ゲーテのための考彰館を作ればいいんだ。そこへ行けば、ゲーテのことがなんでもわかるような、と志が定まった。人生の大目的が決まったのだ。ここで粉川は自分の心を鼓舞するために数条の誓いを立てる。1.すべて独力でやる、 2.ゲーテの資料を集めることだけを目的とする。 3.ゲーテを利用して金儲けをしない。4.事業が完成するまで故郷の土を踏まない。6・細川護ひろ(政治家と数寄者という人生)60歳で政界を引退して13年。あとほぼ同じ時間をこのまま延長でき、87歳を超えることができたら、細川さんは人生の前半は政治家、そして後半はそれ以上の年月を芸術を中心とした数寄者人生を過ごすことになる。こう考えていくと、この細川護煕という人物は、途方もない道を歩いているという気がしてくる。年輪を重ねるごとに次第に大きな人物として立ち現われてくる可能性がある。-----------------------------------学部長日誌「志塾の風」120831 | 編集 中央大学の塩見先生の紹介で、早稲田大学の戸崎先生と多摩センターで会う。 教員採用の書類チェック。 金先生、井川さん、、。台湾視察チームは30人ほど。 キャリアの柴田さんとゼミ4年生の就活状況の確認と打ち合わせ。俳句論議。
2012/08/31
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午前中は研究室。 8月末締め切りの本の第一稿の最終段階。本文と図解の整合性をチェック。 9月の仙台での講演資料の準備。--------------------------------------学部長日誌「志塾の風」120830 | 編集 午後、先の教授会で教務委員長(今泉先生)と学部長に一任された秋卒業者の判定会議。池田学務部長と公平係長から説明を受けて承認。 成績優秀者奨学生委員会において各学年の優秀者を選定。授業料全学免除各学年1名と一部免除各学年20名以内の二つの区分があり、今回から彼ら成績優秀者の写真とコメントをホームページで紹介することになった。 矢内事務長と入試関係のテコ入れの相談。------------------------------夜は中央大学経済学部の塩見先生と20年ぶりの再会を果たした。団塊世代の塩見先生は現在では交通政策関係の学者の重鎮になっている。JAL広報課長時代に航空政策に影響力のある識者の一人としてお付きあいがあった。柔らかな人柄は昔のままなので、長いブランクはまったく感じなかった。特に、ワシントン直行便が開設されたときに、20人規模の識者の大ツアーを企画したことがあり、この時、塩見助教授と仲良くなった。参加者は、大学の交通政策関係の学者たちを中心に、鍛冶先生、関川先生という航空評論家、今は亡き草柳文恵さんら。米国運輸省関係者の講義、ウイリアムズバーグへのミニツアー、ジョージタウンでのジャズクラブでの演奏、海軍兵学校の見学、、など盛りだくさんの企画だった。有名なジャズクラブでは三井物産ワシントン事務所長の若き寺島実郎さんも加わった。最近、航空政策研究会で寺島さんに講演してもらったということだが、塩見先生はこのとき紹介したことを覚えていなかった。最近の航空界の様子、共通の知り合いの消息、「沈まぬ太陽」の話題、互いが授業とゼミで行っていること、多摩学、私の学界転出後15年の動き、所属大学の実情、知研での今後のセミナー、教員採用関係情報など、南大沢の飲み屋であっという間に4-5時間が経っていた。塩見先生の近編著「現代公益事業--ネットワーク産業の新展開」(有斐閣)をいただく。水道、電力、電気通信、放送、郵政、高速道路、鉄道、航空など日常生活の基盤となる産業の本質的な役割を明らかにし、豊かな経済社会を構築すりための道筋を照らし出す。
2012/08/30
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竹久夢二(1884-1934年)は、不思議な魅力に満ちている。夢二は職人の仕事として蔑まれた図案、デザインの分野に力を発揮した商業デザイナーとして多くの仕事を残している。1923年に旗上げを計画した「どんたく図案社」は、図案、文案、美術装飾のすべて引き受けようとしていた。ポスター、レッテル、包装、チラシ、カード、新聞・雑誌広告、看板、飾窓、舞台装置などを行うつもりだった。しかしこの計画はこの年の9月1日の関東大震災で挫折する。この震災時には、連日焼跡をスケッチしている。「芸術は壁に飾るものではなく、人の生活にとり入れてはじめて生きるもの」と考えた夢二は、45歳の時に伊香保の先の榛名山美術研究所を構想する。これは「手による産業」としての工芸運動という壮大なものだった。絵画、木工、陶工、染織など日常生活に必要なものを制作し、美術を生活の中に活かそうとする試みだった。多くの賛同者を得たのだが、突然の外遊と病によって途絶えしまう。50歳で亡くなった夢二の仕事量も半端なものではない。実に幅広く活躍している。新聞・雑誌は2,447点。そのうち表紙を描いたものは394点、口絵を描いたものは319点。コマ絵、挿絵は5492点。文章は805篇。詩346編。歌433首。俳句347句。人形制作にまで手を伸ばした。「雛による展覧会」も開いたが、そのポスターの背景に記した言葉が興味深い。「色彩・線条・交響・立体・平面・時間・詩」、そして「古代・近代・未来を超ゆるもの」とある。夢二の目指したキーワードだろう。 芸術はもう沢山だ。ほんとに人間としての悲しみを知る画かきが出ても好いと思ふ。 絵は、僕の命だもの。竹久夢二伊香保記念館では本格的なオルゴール演奏を聴かせてくれう。スイス、アメリカ、ドイツ製の本格的な音色である。「埴生の宿」や「庭の千草」などの演奏を聴いたが、これらが夢二の作詞だった。竹久夢二の絵は、夢二が泊まった会津のホテルでも観たし、蕗谷紅児の展覧会で夢二がサポーとしていた。榛名山をバックに、赤い着物を着た女性が大きく描かれている「榛名山賦」が強い印象を受けた。竹久夢二は総合芸術家だった。-----------------------------------学部長日誌「志塾の風」120829 | 編集 大学で、仕事。 週刊ダイヤモンドからのアンケートに以下のように回答。「多摩大学では、「現代の志塾」として、“人材”の育成から一歩進んで“人物”(志人材)を育てることに注力し、生涯にわたって「ひとかどの人物」を目指すべく指導している。その最初の4年間が、本学での教育である。」
2012/08/29
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古河市兵衛の足尾銅山は昭和30年代末まで順調な採掘が続いたが、鉱物資源の枯渇、銅品位と作業効率の低下による赤字のため、閉山の方針を昭和47年に出した。そして昭和48年、発見から4半世紀にわたり82万トンの銅を生産して、労働者750人を整理し歴史に幕を閉じた。田中正造の活躍によって足尾銅山鉱毒事件は国家的事件となり、明治30年には政府も古河市兵衛に対し鉱毒予防工事命令を出し、短期間に防毒工事を完了させなければ銅山の操業停止処分を課すという厳しいものだった。実行不可能と言われた工事に市兵衛は巨額の資金を投じて期限内に完了させたが、当時の知識や技術では鉱毒の除去はできなかった。昭和32年、足尾荒廃地の復旧・緑化のため、林野庁、国交省、栃木県は、事業分担を決める。林野庁は63年間に110億円、国交省は71年間に651億円、栃木県は51年間に190億円、総額は952億円を上回っている。しかし荒廃国有地の反運を緑化した段階にすぎず、復旧には何年かかるかわからない。また荒廃民有地の計画の80%を復旧できた段階である。陰の部分が語られる足尾銅山だが、明るい話題としては世界文化遺産登録を目指す取り組みも進められている。-----------------------------足尾銅山の鉱毒事件を追求した田中正造の葬儀には数万人が会葬したと言われている。民衆葬というにふさわしい葬儀であった。田中正造は、常に自ら現地に赴き、自分の目で確かめ、徹底的に調査し、その上で改善を訴えるという姿勢が一貫していた。「知識を広げるには実際に見聞して経験・知識を広げる事。見聞を広げるには新聞にかなうものはありません。」(田中正造は、下野新聞の編集人だった) 世をいとひそしりをいみて何かせん身をすててこそたのしかりけり 毒流すわるさやめずば我止まらず渡らせ利ねに血を流すとも 大雨にうたれたたかれ重荷挽くうしのあゆみのあとかたもなし辛酸佳境に入る またそのうちに在りて楽しからずや真の文明は山を荒らさす川を荒らさず村を破らず人を殺さざるべし-------------------------------------田畑の鉱毒土の除去作業は困難を極め、又効果もなかなかでなかった。。このあたりは、原発事故の除染という作業の困難さを想像させる。「真の文明は山を荒らさす川を荒らさず村を破らず人を殺さざるべし」という田中正造の言葉は心に響く。明治から大正にかけて、銅は武器・貨幣・生活用具の材料として主要な輸出品であり、また日露戦争後はどうは電機工業、電力業に欠かせないものになった。基幹産業となり生産量を飛躍的に伸ばすが、それに伴い鉱毒の河川への流出や亜硫酸ガスによる煙害が拡大する。別子銅山、日立銅山、小坂満天星、そして足尾銅山は四大鉱毒事件と呼ばれる。昭和30年代から40年代にかけては、四大公害病が発生する。熊本県の水俣病(新日本窒素肥料)。新潟県の新潟水俣病(昭和電工)。富山県のイタイイタイ病(三井金属工業)。三重県の四日市ぜんそく(石油コンビナート)。田中正造の取り組みは、そういった公害反対運動の先駆けだった。
2012/08/28
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先日、祖父・大野清吉(1886年生)が校長を務めていた旧制・大田原中学(現・大田原高校)と旧制・真岡中学校(現・真岡高校)を訪問して感じたことがある。それは明治時代以降、教育の分野に国が大いに力を入れていたことである。祖父は東京高等師範を出ていくつもの中学校の校長を歴任し、59歳で中国・青島の日本人中学校の校長として修身の講義中に脳溢血に倒れ、59歳で亡くなっている。その青島の中学校は今では大学になっているが、そこを母と訪ねた時、事情を話すとその講堂を見せてくれて祖父が最後に授業を行った席に座った感慨にふけったことを思いだす。以下、大野清吉が真岡高校史に残している言葉。------------------------------- 学校は精神上の故郷である。(中略)多くの教師や、多数の同窓と切磋琢磨した学校は、又偉大な感化を吾等に与へ、惹いては生涯吾等の心を支配するに至るのである。 されば善良なる校風の下に教育された者と、然らざる者とは、其の一生を通じて幸不幸の懸隔は果たしていかばかりであろうか。(中略)故に健全なる校風の確立は、学校関係者の第一の義務であり、且つりそうであらねばならぬ。 (良き校風の確立のために)更に肝心なのは生徒各自の心掛けである。如何に歴史が燦然と輝いてゐても、如何に教師が諄々とといても(?)、生徒自らに自覚がなく、校風発揚の意志が無かったならば、それは呵惜(あたら)無意義なものとなってしまふのである。然も校風は学校といふ協同生活の所産であるから、生徒各自は一致協力して校風の振興に努力を積まねばならないのである。----------------------------------この東京高師は、1886年に日本最初の中等教員養成機関高等師範学校として設立され、1902年に東京高等師範学校に改称された。戦前においては広島高師と並んで中等教育界に大きな影響力があった。その指導者は長期に亘り校長をつとめた嘉納治五郎であり、その薫陶は学生スポーツ揺籃の場になった。聞くところによると、修業年限3年の間、月謝はかからず、このため貧しい家の子でも秀才であれば通えるという仕組みだった。旧制高校から大学という道以外にこういう道もあったのである。資源のない日本を興隆させるためには人材育成することが急務だという国家の養成があった。嘉納治五郎(1860-1938年)は、講道館柔道の創始者として知られているが、その生涯は教育者としての一生でもあった。日本最初のオリンピック委員の嘉納は東京オリンピック大会招致に成功し、帰国途上氷川丸船中で逝去している。 自分は若いとき大学(東大文科)を出て、総理大臣になろうかと考えた。しかし総理大臣になても千万長者になっても、たかのしれたものではないか。男一匹かけがえのない生涯をささげて悔いのなきものは、教育において他に考えられない、という結論に達して教育に向かった。 教育のこと、天下にこれより偉いなるはなし。一人の徳教、広人万人に加わり、一世の化育、遠く百世に及ぶ。教育のこと、天下これより楽しきはなし。英才を陶鋳して兼ねて天下を善くす。その身、亡ぶといえども余薫とこしえに存す。(原漢文)田中角栄首相は、1972年に54歳で政権をとった時、後藤田官房副長官に「小学校の教師の給料を10倍にする案をすぐに作れ」と指示第一号を出した。相沢英之大蔵省主計局長には、「学校教育で一番大切なのは大学でなく義務教育だよ。小中学校にいい先生を集める。それには月給を高くしなければならない。一般公務員よりも3割高くしろ」と厳命し、年1割づつの3か年計画で実施している。確かに県にも一般公務員の給与表と教育公務員の給与表があり、教育公務員の方が高かったのはその影響だろうか。「小学校の先生が白紙の子どもを教えるのだからな」と日頃も語っていた。教育界にいるものとして、心したい先達の言葉である。---------------------------------------学部長日誌「志塾の風」120827 | 編集 多摩大学体育会フットサル部が東京都大学リーグ第一試合で勝利。「2012年8月26日(日)10:30~多摩大学にてフットサル東京都大学リーグの第1節が開催され、第一試合で多摩大学がサルケル(法政大学)と対戦し、3-2で勝利をおさめました。後半の中盤まで0-2で負けていたところから、福角監督の采配や駆けつけた教職員の応援の後押しを受けて追い上げ、見事大逆転勝利をしました。」フットサル、大学日本一を目指せ!
2012/08/27
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日本の戦後の外交には、対米追従と自主独立の二つの路線の相克が続いている。米国の日本支配の実態について論じるというタブーに挑戦した意欲作だ。このことを勇気をもって語るべきは外務省のOBだという認識の下で、著者・孫崎亨(元外務省・国際情報局長)はこの本を書いた。最近の民主党政権の失敗、小沢一郎起訴事件、尖閣や北方領土問題など、この視点で説明されると腑に落ちることが多い。日本の気概の喪失、精神的頽廃は、実に根が深いことを思い知らされる。この本は8月10日の出版で、創元社の「戦後再発見」双書の第一弾だ。今から話題になるのは間違いない。対米追随派。 吉田茂。池田勇人。三木武夫。中曽根康弘。小泉純一郎。海部、小渕、森、安倍、麻生、菅、野田。自主派。 重光葵。石橋湛山。芦田均。岸信介。鳩山一郎。佐藤栄作。田中角栄。福田たけ夫。宮澤喜一。細川護煕。鳩山由紀夫。----------------------- TPPの狙いは日本社会を米国流に改革し、米国企業に日本市場を席巻させることです。 鳩山首相をつぶしたのは、直接手を下したのは米国人ではなく、日本の官僚、政治家、マスコミです。 小泉首相は、日本社会と日本の経済システムを米国流に変えることでした。 新安保条約は全世界を舞台にした日米の軍事協力を目指すことになった。 正論でも、群れから離れて論陣を張れば干される。大きく間違っても群れの中で論をのべていれば、常に主流を歩める。そして群れの中にいさえすれば、いくらまちがった発言をしtれも、あとで検証されることはない。これが日本の言論界です。 CIAは日本の経済力を米国の敵と位置づけ、対日工作を大々的に行うようになります。 ソ連の脅威があったからこそ、米軍の駐留が必要だったはずです。 冷戦後、どの国が米国にとって最大の脅威でしょうか。それは日本です。 日本経済の低迷は1985年のプラザ合意から始まります。、、円高によって日本経済の空洞化が始まります。 P3Cというソ連向けの対潜哨戒機を日本に100機以上買わせた。これは米国の本土防衛のための金です。 アメリカが田中角栄首相を葬ったのは、日中国交回復が米国を怒らせたからです。 ニクソン訪中のあと、尖閣諸島について国務省は日本の主張に対する支持を修正し、あいまいな態度をとるようになった。 沖縄返還と同時に行った繊維の密約を佐藤首相が破った報復の一つが、ニクソン訪中に事前通告しなかったことです。 安保闘争の金は財界からきた。それは岸政権打倒が目的だった。 行政協定は「地位協定」と名をかえて、現在までそのまま続いています。 1960年代まで、CIAを通じて自民党に政治資金が提供され続けた。 ロシアとは北方領土、韓国とは竹島、中国とは尖閣。解決困難な問題が残されているが、これは偶然ではない。米国は解決不能な紛争のタネを埋め込んでいるのです。北方領土の北側の国後、択捉は第二次大戦末期に対日参戦の大書として米国がソ連に与えた領土です。 地位協定によって軍人、家族の罪も裁くのは米国。実質的な治外法権を与えている。 ダレス「米国が望むだけの軍隊を、望む場所に、望む危難だけ駐留させる権利を確保する。それが米国の目標である」 外務省の官僚だけでなく、学者も自主的な発言ができないんは、米国に抵抗してもいいことはないからです。 石橋蔵相が米軍の駐留経費削減を要求した。そこにはゴルフ場や特別列車の運転、さらには花や金魚の注文書まで含まれていました。 労働運動も占領軍のもとで育成された。 占領軍の検閲は、日本人の金で日本人が日本人を検閲し、言論統制していた。 江藤淳「戦前の軍部よりも占領時代の方が自由がなかった」 ひとたび自主独立の精神を喪失すると、ふたたびとりもどすがいかにむずかしいか。 米軍駐留に関する最も重要な部分は政府同士の合意だけで結べる行政協定によって結ぶことを米国は求めた。 検察は米国と密接な関係を持っています。特捜部はGHQの管理下でスタートした「隠匿退蔵仏師事件捜査部」が前身。東京地検特捜部は、日本の正当な自主路線の指導者を意図的に排除する役割を果たしてきたのではないか。 米国の情報部門は日本の検察を使ってしかける。これを利用して新聞が特定政治家を叩き、首相を失脚させるというパターンが存在する。 日本国憲法は、米国が作成した草案を日本語に訳し、少し修正を加えたものです。 占領中の対米追随路線が独立後も継続され、美化されて、戦後60年以上も続くことになった。 ブレジンスキーは日本をアメリカのセキュリティ・プロテクトレイト(安全保障上の保護国)と書いています。 戦後日本外交の対米追随路線のシンボルが吉田茂。自主路線のシンボルが重光葵です。 蝶報担当というのは、つまり非合法手段の担当ということです。 「公用語は英語。違反は軍事裁判。通貨は米軍の軍票(紙幣)」という最初の布告案を重光はマッカーサーと面会して葬った。
2012/08/17
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古橋広之進(1928-2009年)は、第二次大戦敗北後の日本水泳界で世界記録を次々と打ち立て、「フジヤマのトビウオ」の異名を取り、国民に勇気を与えた人物だ。大同毛織入試し、後に母校・日大に招かれて教授になる。日本水泳連盟会長、そして日本オリンピック委員会会長を歴任し、2009年イタリア・ローマで開かれていた世界水泳選手権に出席していて客死する。まさに水泳の申し子であった。先日、浜松を訪問した折、古橋広之進記念浜松市総合水泳場の一階の「日本水泳の歴史資料室」には、古橋の胸像と経歴とトロフィー、そして当時の新聞の切り抜きが並んでいた。この水泳場は国際大会を開催できる施設でもあり、中学生の大会をやっていた。このプールは「ToBio」という愛称だった。もちろんトビウオとかけているのだが、鉄腕アトムがアトムになる前の名前もかけているそうだ。古橋は終戦時に「魚になるまで泳ごう」と決意し、目標を世界一に定める。座右の銘は「泳心一路」。1952年のヘルシンキオリンピックでは8位とるわなかった。何故だろうと疑問に思った。自伝「力泳三十年」にそのときのいきさつと心境が書いてあった。古橋廣之進―力泳三十年 (人間の記録 (20))古橋廣之進―力泳三十年 (人間の記録 (20)) 作者: 古橋広之進 出版社/メーカー: 日本図書センター 発売日: 1997/02/25 メディア: 単行本 クリック: 16回 この商品を含むブログ (10件) を見る1948年にはロンドンオリンピックが開かれたのだが、日本やドイツは戦争挑発者だというので招待されなかった。20歳の古橋はロンドンの水泳日程に合わせて日本選手権を開いた。1500メートルの18分37秒で世界新記録を打ち立てた。ロンドンオリンピックの優勝タイムは19分18秒5だったから、出場していれば間違いなく金メダルだったはずだ。また、400メートル自由形は4分33秒4の世界新記録。オリンピック優勝者のタイムは、4分41秒0。こちらも金メダルだ。4年後のヘルシンキでは既に往年の力のなかった古橋は、期待されたが8位に終わる。古橋は翌1949年のアメリカ・ロスアンゼルスの全米選手権に参加し、ここでも世界新記録を打ち立てて、大活躍をする。「この全米選手権大会のころまでが頂点を目指して山を登る時期であったろう。それからしばらく頂上にいて、やがて私は山を降りる」。人生における巡りあわせ、運命であった。オリンピックに恵まれたなかった古橋は、最後は日本のオリンピック委員会の総帥になった。今回のロンドンオリンピックでの水泳陣の活躍の背後には、古橋広之進があったのだ。 国際人というのは、つまり経験の積み重ねであり、どこへ行っても自己を順応させ実力を発揮することができる、たくましい精神力なのである。 あらゆるスポーツのなかで最も地味でつらい競技が水泳である。 私は水泳から「努力」「我慢」「克己」を学んだ。
2012/08/16
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この夏の間に、本を一冊書上げる予定だ。30代向けの人生戦略の立て方について体系的に論じ、整理した教科書的な内容になる。ワークもふんだんに取り入れた実践型でもある。ライフデザイン、キャリアデザインについて考えてきたことの総集編的なものにしていきたい。価値観、豊かさ、5W2H、職種と業種、天職の条件、キャリア年表、学習歴・仕事歴・経験歴、人生鳥瞰図、、、、。本文では、以下の参考になる近代の先達の紹介も予定している。・松浦武四郎(北海道の命名者)・豊田佐吉(自動車産業への道筋をつけた人)・梅屋庄吉(孫文の中国革命応援者)・松前重義(東海大設立者)・粉川忠(東京ゲーテ記念館設立者)・細川護ひろ(政治家と数寄者という人生)--------------------昨日見かけた本に渡部昇一先生(1930年生れ)のインタビューが載っていた。20代から始めた著作は、82歳の現在で650冊まで積みあがっている。代表作は「知的生活の方法」。この人の本は50年以上コンスタントに売れており総販売部数は累計で2400万部になる。定年前の65歳で上智大学を退職したのだが、それ以降の方が刊行数が多いとのことだ。手書きと口述筆記で量産している。「インディペンデント」という言葉にこだわっている。それは稼がなくても食えるという意味。180坪の土地、そのうち書庫は100坪。「愛着度があるような本を書いたら、確実に後世に残る」。別のインタビューを読んだことがあるが、子どもたちが音楽の道に進んだので、出版の稼ぎはほとんど高価な楽器などで使ったと語っていた。「気くばりのすすめ」の鈴木健二さんも大家族用の大きな家を買ったために、せっせと原稿を書いていたと書いていたことを思いだした。----------------------夕刻から知研会長の八木さん(1932年生れ)と南大沢で一杯飲む。八木さんは膨大なライフワークを完成させた。この原稿に漂う「リアリティ」について質問したところ、中国で生まれたこと、そして中国人の自伝や伝記をたくさん読んでいることに起因しているとの回答だった。私も人物の自伝、そして家族などが書いたものなどを愛読している。本人がどう考えていたか、近親者がどう見ていたか、それが人物観察には欠かせないと思う。---------------------終戦記念日。韓国大統領の竹島訪問と日本批判、尖閣列島への香港の活動家の上陸と逮捕。波が高くなってきた。
2012/08/15
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ロンドンオリンピックが幕を閉じた。メダル数は過去最多の38個でこれは参加した200以上の国のうち6位。今回は、日本はチーム選に強いこと、女子が強いことなどが際立った。この17日間の盛り上がりをみると、やはり2020年は東京でやりたいものだ。東日本大震災からの復興というテーマを掲げて、その復興の姿を世界に見せるという目標では一致団結できるし、復興は進むだろう。この大会のアスリートの言葉を拾った本や雑誌の特集がでるだろうが、最近見かけた本で拾った世界のトップアスリートたちの名言を記してみる。 ナンバーワンになるには、ナンバーツーであるかの如く鍛えなくてはいけない。(モーリス・グリーン) 汗で溺れた人はいない。(ルー・ホルツ) 勝負は観客から離れたところで決まる(モハメド・アリ) すべては過程だ。結果ではない。(カール・ルイス) 偉大な選手になるかどうかは、努力と生活を律する意志の強さにかかっている。(ビリー・ジーン・キング) がんばれば成功するし、がんばらなければ成功しない。(ブルース・ジェンナー) 一番大事なのはいつも勝てると信じること。そうすれば勝つチャンスが来る。(マルチナ・ヒンギス) 実現してくれと願う人もいれば、実現してくれたらいいのにと夢想する人もいる。そして自ら実現する人もいる。(マイケル・ジョーダン) 「勝ち負けは重要でない」と言った人は、おそらく皆負けている。(マルチナ・ナブラチロワ) 自分でコントロールできないことを排除して、できることに集中するんだ。(カール・ルイス) 金メダルは金でできているわけではない。汗と強い意志、そしてガッツという希少な合金でできているんだ。(ダン・ゲーブル) ファンは、とるに足らない人間にはブーイングをしない。(レジー・ジャクソン) 僕は、まだプレーができると知りながら去る道を選んだ。(マイケル・ジョーダン) 振り返るな。追いつかれる。(サチェル・ペイジ) 他人の人生に影響をもたらしてこそ人生には意味がある。(ジャッキーロビンソン) 大変なのは、毎日、好調でいることだ。(ウイリー・メイズ)ヴィンス・ロンバルディ(1913-1970年)は、アメリカンフットボールの名コーチ。この人の言葉は素晴らしい。 一度あきらめることを覚えたら、クセになる。(ヴィンス・ロンバルディ) グループの力は、リーダーの力である。(ヴィンス・ロンバルディ) 偉大な功績とは、一度も倒れないことではない。倒れた後の復活にこそ偉大さがある。 自信は伝染する。自信の欠如も伝染する。 組織の実績は、個人の努力の結集である。 人生の質は、向上するための努力に正比例している。どんな分野であっても同じだ。 フットボールは人生のようなもの。忍耐、自制、がんばり、犠牲、献身、権威への敬意が求められる。 完璧を実現するのは不可能。しかし、完璧を目指せば、卓越したものをつかむことができる。-------------学部長日誌「志塾の風」120814 | 編集 ラウンジで今泉先生と金先生と歓談。 ビジネスICT分野について議論。教育、就職、入試。大学院、ワークプレースメント、インターンシップ。 ゼミの塾化というアイデア。金アジア塾。中庭政策企画塾。樋口文章塾。今泉データ活用塾。バートル中国塾。久恒図解塾、、、。
2012/08/14
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18歳で岩波書店に奉公にあがった小林勇の回想録。岩波茂雄数え歳40歳の時で、創業8年目。漱石の「こころ」が処々出版でその後わずかに30-40点の本を出した時である。この本の中に、熱海の「惜櫟荘」を求めた時の事情が出ている。二方に崖があり、坪数の割に平らなところが少なく、またその平地の真中に一本の古い櫟(くぬぎ)の木があった。背は低いが幹は太く、一種の風格をたたえていた。岩波はこの木を残しておきたいと思った。岩波はかねてから温泉のある別荘を持ちたいという希望を持っており、また津田事件の結果投獄されるかもしれないから体を養っておこうとしたのだ。「櫟」を岩波が引くと、やくざな木で、使い道がないというふうに出ていて、「それはちょうど俺のようだ」と面白そうにいった。岩波はこの惜櫟荘が気に入って、しょちゅう人を招いていた。そしてここで最後を迎えるのである。浴室、洗面所、便所、日本間、洋間そのずえてから海を眺めることができた。それぞれ違う趣を持って眺めることができるのが岩波の得意とするところだった。この小林勇という人は岩波書店の店員であったのだが、後に岩波の次女・小百合と結婚しているから、もっともそばにいてこの「先生」の日常をよく観察した人であろう。岩波茂雄が66歳で死去するまでの小林の回想録だ。f:id:k-hisatune:20120814082833j:image以下、岩波茂雄の観察から。人となりがよくわかる。今日の「岩波」ブランドを創った岩波茂雄の日常も興味深く読んだ。 先生は太っていて顔の造作がみな大きかった。 先生は旅行が好きで、実に気軽に出て行った。 先生の生活はつつましいし、けちんぼだと思わせるようなこともあった。 先生は殺生が嫌いであった。 先生ははじめることが好きで熱中するが、しばらくたつと何かさめてくる癖があった、 岩波は若いときからトルストイを尊敬していた 岩波は、出版をはじめた時から本を作るのに、すべて最高を求めた。処女出版漱石の「こおろ」の時も、岩波が何でもよい物を使いたがるので、漱石や友人たちが心配したという。 岩波は日本人が中国人のためによい仕事をしているときけば、その人々を激励せずにはいられなかった。 岩波はいつも金の巻尺をポケットに入れていた。 「岩波さんに本を出してもらいたいと思うときには、この本は立派な内容だが売れないだろうといいさえすればよい。岩波さんはそれをきくときっとその本を出そうという。、、」(小泉信三) 仕事始めの日には社員に短いが心のこもった挨拶をした。 岩波は何か困難なことがあると勇気が出、元気になるといつも言っていた。岩波新書創刊の辞。「、、武力日本と相並んで文化日本を世界に躍進せしむべく努力せねばならぬことを痛感する。、、現代人の現代的教養を目的として岩波新書を刊行せんとする。、、、躍進日本の要求する新知識を提供し、岩波文庫の古典的知識と相俟って大国民としての教養に遺憾なきを期せんとするに外ならない。、、古今を貫く原理と東西に通ずる道念によってのみ東洋民族の先覚者としての大使命は果たされるであろう。、、」--------------------------------------ロンドンオリンピックが幕を閉じた。この大会のアスリートの言葉を拾った本や雑誌の特集がでるだろうが、最近見かけた本で拾った世界のトップアスリートたちの名言を記してみる。 ナンバーワンになるには、ナンバーツーであるかの如く鍛えなくてはいけない。(モーリス・グリーン) 汗で溺れた人はいない。(ルー・ホルツ) 勝負は観客から離れたところで決まる(モハメド・アリ) すべては過程だ。結果ではない。(カール・ルイス) 偉大な選手になるかどうかは、努力と生活を律する意志の強さにかかっている。(ビリー・ジーン・キング) がんばれば成功するし、がんばらなければ成功しない。(ブルース・ジェンナー) 一番大事なのはいつも勝てると信じること。そうすれば勝つチャンスが来る。(マルチナ・ヒンギス) 実現してくれと願う人もいれば、実現してくれたらいいのにと夢想する人もいる。そして自ら実現する人もいる。(マイケル・ジョーダン) 「勝ち負けは重要でない」と言った人は、おそらく皆負けている。(マルチナ・ナブラチロワ) 自分でコントロールできないことを排除して、できることに集中するんだ。(カール・ルイス) 金メダルは金でできているわけではない。汗と強い意志、そしてガッツという希少な合金でできているんだ。(ダン・ゲーブル) ファンは、とるに足らない人間にはブーイングをしない。(レジー・ジャクソン) グループの力は、リーダーの力である。(ヴィンス・ロンバルディ) 僕は、まだプレーができると知りながら去る道を選んだ。(マイケル・ジョーダン) 一度あきらめることを覚えたら、クセになる。(ヴィンス・ロンバルディ) 振り返るな。追いつかれる。(サチェル・ペイジ) 他人の人生に影響をもたらしてこそ人生には意味がある。(ジャッキーロビンソン)
2012/08/13
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NHKの木曜時代劇『陽炎の辻~居眠り磐音 江戸双紙~』は楽しんだが、その原作者・佐伯泰英という作家の時代小説は読んだことがない。佐伯は、30代から年に1-2冊ほど本をを書き始めたが一向に売れない時代を過ごす。1999年に初の書き下ろし時代小説「瑠璃の寺」で初めてヒット作に出会う。このときすでに57歳だった。これ以降、人気時代小説家として「月刊佐伯」と言われるほどの量産体制に入る。70歳時点で、180余冊の文庫と累計4000万部という数字を得ている。その佐伯が作家活動で得た原資を使って、熱海の自宅の隣にあった「惜櫟荘(せきれきそう)」を買った。この建物は岩波茂雄のが精魂を傾けた名建築の別荘だった。この別荘は、岩波文庫の売り上げによって建てられた。それを時代小説文庫描き下ろし作家が受け継いだことになる。「れき」は椚(くぬぎ)の木のことだ。著者初の書き下ろしエッセイ「惜櫟荘だより」(岩波書店)は、文化人・岩波茂雄と名建築家・吉田五十八の意地のぶつかり合いの結晶だ。「どこからでも海が見える設計」のその惜櫟荘の修復の物語である。建物の開口部を額縁に見立てた前庭と後景たる相模灘。惜櫟荘の主庭は相模灘。五十八マジック修復の技術論以外には、佐伯という作家の考えを知ることができた。佐伯は、仕事場の条件として「海の見える地」を望んだ。北九州市八幡西区折尾出身の佐伯は玄界灘を身近に感じて育った。豊後者の血が流れているためである。 読者の反応をただ一つの目安に余所見をしないことにした、ともかく作品(商品)を量産することが、出版界に生き残るただ一つの方法だと、動物的本能で悟っていた。 ともかく一章の起承転結を考えつつ一日一節を書く。日曜日も祭日もない。盆も暮れも書く。多作の秘訣とはただそれだけだ。 職人作家を自称 朝4時起き 悔しかったらキャッシャーのベルを鳴らす作家になれ(児玉清) 惜らく荘は岩波文庫で建てられ、70年後、書下ろし文庫で守られた建物でぎざいます。 「修復」するよりも「継承保存」するほうがどれほど大変かということを承知している。「自分が富を得たら何をするだろうか?」そういう問いを問いかけられながらこの本を読んだ。-----------------------------学部長日誌「志塾の風」120812 | 編集本日のオープンキャンパスの報告によればほぼ目標数が集まったようだ。
2012/08/12
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9月に仙台シルバーセンターに招かれて講演を予定している。テーマは、「遅咲きで活きる自分力―--発想転換で知る自分の能力」以下、依頼文から。「自分の持っている知識や経験を活かし社会と関わり続ける生き方を実現する方法を〈図で考える〉手法を用いて整理し、考えてみようという趣旨です。聴講者は一般市民ですが、50代~を中心に想定しております。「久恒先生の著書を読ませていただいております。一般に、定年などで組織人から社会の中の一個人と変化したとき、自分の能力やビジョンを地域の中で活かす術を知らないために戸惑う方が多いように思います。〈図で考える〉ことを身に付けることによって、思考の整理ができ、ぼんやり抱いている想いを形にでき、現状から一歩踏み出すきっかけづくりになるのではと考えました。」図解コミュニケーションと遅咲き偉人伝の内容をミックスした内容にしたい。-----------------------------------------------■CommentsAdd Star学部長日誌「志塾の風」120811 | 編集 品川キャンパスで大学院の平成24年秋終了予定者最終試験。宇佐美先生、春田先生、村山先生、望月先生と、4人の院生の発表を聞き採点をした。 「静脈産業における情報の非対称性」 「中国商業銀行における統合リスク管理」 「Shared use ComplexにおけるMulti Skilled Knowledge Worker活用から得られる物流現場の高次元化」 「カードバトルゲームジャンルに特定した非課金ユーザーの課金ユーザー化プロセスについての考察」多摩大は社会人大学院であり、産業現場が抱える様々な問題意識に触れることができるので、教員にとっても刺激に満ちている。特に、修士論文の評価のための読み込みと採点、発表を聞くことは大変に勉強になる。今回は、カードバトルゲームについて学部のゼミの学生たちに教えてもらいながら「探検ドリランド」などのゲームを試してみていたので、発表の内容もよくわかった。終了後、昼食の弁当を食べながら、村山先生、望月先生と学部運営などについて意見交換。他の部屋の修士論文の発表の中では、「テレビ番組制作プロデューサーのキャリア形成とキャリア・トランジションの考察」、「メンタル不調舎を部下に持つ管理職への支援策への提案」、「剣道熟達者研究を通じてのビイネスパースンのキャリアアイデンティティ(成長・働き方)確立についての提案」、「仕事を持つ子育て中の母親ニーズに特化した、新しい病児・病後児保育の事業計画」などが興味深い。修士論文17本の打ち、「特定課題」が7本あった。社会人大学院としては一般的な修士論文よりも現場の問題解決のための研究を完成させるために先生たちが支援するという方向がいいと思う。------------ 終了後、大学院教授会。 「実学」についての議論があり、多摩大の実学教育の歴史、新しい時代の実学は問題解決であること、二つの学部の人材育成目標には「問題解決」が入っており、大学院の「一業を起こし、一業をマネジメントできる人材」という目標は実は高度な問題解決を意味していること、問題解決には、改善、改革、創造の3つのステージがあることなどを私からは説明しておいた。 院生アンケートによると、入学前の期待より入学後の評価の方が高いそうだ。これは明らかに広報活動の不足である。大学院のホームページに情報をもっと載せなければならない。SEO対策などの小手先の方法ではなく、HPの内容を豊富にするという正道で勝負すべきだと思う。 私がやっている院生を巻き込んだ出版にも関心が高かった。8月末に受講生から最初の著者が出る予定になっているし、秋には図解を用いたビジネス理論のカードブックの配信が予定されている。こういうことも大学院としてもっとPRしてもいい。-----------------------終了後、新疆ウイグルと天津の出張を終えた金先生(国際交流委員長)とコーヒーを飲みながら歓談。新疆という急激な発展が見込まれる地域との連携の促進、10年に及ぶ天津財経大との交流の充実、、。田村常務を団長とする教職員の新疆ウイグル使節団の成果を今後に生かしていきたい。
2012/08/11
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賀茂真淵は本居宣長に万葉集の手ほどきをしたことで有名な国学の祖。賀茂真淵の真淵の「真」は美称で、「淵」は生まれ故郷の郡名「敷智」からきている。国学とは、日本の古典を研究し、日本人の物の見方や考え方を明らかにし、そこに日本人の生き方を見出そうとした学問である。古言(古の言葉)を探り、古意(古の意味や心)を知り、古道(古の道理)を明らかにするというのがこの学問の方法だ。真淵は、60代から亡くなる73歳までの期間に、「万葉考」という注釈書、「冠辞考」という語学書、「歌意考」という歌論書、「国意考」という思想書、「語意考」という語学書を書いている。柿本人麻呂の偉大さを評価したのは真淵が最初だった。真淵は学者として「万葉」研究、歌人として「万葉」調復興を使命としていた。この人の特色は、優れた教育者であったことだ。真淵の特徴の一つは、340名という弟子の多さとその多彩さだった。340人の門人がおり、そのうち三分の一は女性だったのも特徴である。大名の妹・夫人・母堂・侍女たちだった。それは真淵の最初の先生が女性だったこととも関係がある。エレキテルの平賀源内、群書類従を書いた盲目の塙保己一、雨月物語の上田秋成、「古事記伝」の本居宣長、平田篤胤、、、。賀茂真淵は、賀茂神社の神官の家に生まれたが、家計が苦しく、6歳、27歳、29歳と三度も養子に出されている。ようやく37歳にして本格的に京都に遊学し、師匠の荷田春満(かだのあずままろ)に学ぶ。わずか数年で師は亡くなってしまう。真淵は41歳で江戸に出て、居を転々としながら、筆耕、家庭教師をなどをし、辛酸をなめるが、次第に弟子もでき、生活が固まってくる。46歳「万葉集遠江歌考」、47歳「百人一首占説」が完成する。真淵は、名君・田安宗武に召し出され、ようやく世に出る。和学御用に取りたてられ経済的、社会的安定を得る。宗武の父は8代将軍・徳川吉宗で、子が寛政の改革の松平定信だ。真淵は宗武の知遇に応え、50歳から62歳まで万葉や伊勢物語、源氏物語などに関する著書をまとめた。この間、非常に多忙だった。「なす事の多かる時はいとまある人ばかりこそうらやましけれ」とも詠んでいるのが面白い。徳川に仕えた真淵だが、その真淵の思想は本居宣長が完成させ、それが後に徳川幕府を打倒する運動に発展し明治維新が起こるのだから、皮肉である。真淵は64歳で隠居し、いよいよ著述に専念する環境が整った。67歳、殊勲の命を受けて念願の「万葉集」と「源氏物語」の故地を訪ねる旅に出る。この旅で松坂において本居宣長に出会う。運命の出会いだ。真淵は各所で古本を蒐集していたから、宣長は古本商から情報を経て待ち構えていたのである。このとき宣長は34歳だった。宣長は真淵の指導を得て、後に34年かけて「古事記伝」を著す。太安万侶による「古事記」の成立は712年だから、2012年の今年は1300年目にあたる。真淵は螺旋階段を登るように向上発展していった。そして晩年の著作意欲には凄いものがある。66歳、「語意考」。68歳、「歌意考」。69歳、「国意考」。69歳、「書意考」日いづる国(日本)、日さかる国(中国)、日のいる国(インド)という考えで日本を論じている。 万葉集を常に見よ。且つ我歌もそれに似ばやと思ひて、年月によむほどに、基調も心も、そみぬべし もろこしの人にみせばやみよしののよしのの山の山桜花----------------------------------------学部長日誌「志塾の風」 | 編集 財務省・税関研修所の田中課長と森尻係長が来訪し、「関税技術協力研修」の講師を依頼される。税関は全国で8000人を超える組織だが、途上国の税関職員の能力・技術の向上のための教育研修をODAを通じて行っている。この研修の講師をつとめる職員を対象としたプログラムがあり、この中の「コミュニケーション力」という科目を担当して欲しいという依頼。JICA(国際協力機構)で行っている国際コミュニケーション研修の評判を聞いたとのこと。対象となる職員は、関税評価・事後調査、品目分類、リスク管理の3つの分野で、英検準一級の語学力を有する課長補佐・係長級。千葉県柏市の研修所にて。新しい現場なので楽しみだ。 就職関係のミーティング。杉田就職委員長、池田学務部長、早河主任と私。この夏以降の就職支援の具体策について検討。現状分析と今後の対策を中心に共通理解を確認し、問題解決のためのアイデアを出し合う。委員会で揉んだ後、下旬までに計画をつくることになった。 その後、一緒に議論した杉田就職委員長、紀要の投稿要綱を書いていた彩藤FD委員長とラウンジで歓談。
2012/08/10
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木下恵介記念館。映画の木下恵介(1912-1998年)監督は、今年生誕100年。映画作品は49作品。浜松で生まれ、浜松工業学校、オリエンタル写真学校を経て、21歳松竹蒲田撮影所助手。24歳松竹大船撮影所助監督。26歳召集され中国を転戦。31歳処女映画「花咲く港」で山中貞雄賞を受賞し注目される。以後、1964年まで毎年1-3作を作るが、東京オリンピックから始まったテレビ時代を迎えてテレビドラマに進出。木下恵介劇場、木下恵介アワー、木下恵介人間の歌シリーズを担当する。このシリーズは私の記憶にもある。f:id:k-hisatune:20120808091735j:imageアメリカのゴールデングローブ賞は、「二十四の瞳」と「太陽とバラ」で二回受賞している。「陸軍」。「一億国民の陸軍精神把握に些か寄与せんとす」。ラストシーンの母親像に対して批判があった。厭戦的という評価だった。木下は辞表を出し浜松に変える。「人間を人間らしく描くには、終戦を待つしかなかった」と述懐している。「大曾根家の朝(あした)」。「惑乱れした君達の行き所を大曾根家の家族は教へる!」。GHQの民主化政策に沿った第一作。「喜びも悲しみも幾歳月」。「北海の涯に、南海の孤島に、ひたすら灯す人生の真実--涙と感動の夫婦愛」北海道石狩灯台・納沙布岬灯台から長崎五島列島女島灯台まで全国15か所のロケを敢行し、全国各地を転々とする灯台守の生活を描いた海上保安庁、国鉄、コニカとのタイアップ。佐田啓二、高峰秀子、田村高広、中村賀津雄らが好演。主題歌の「おいら、みさきのとうだいもりよ、、」は今の私の耳に残っている。f:id:k-hisatune:20120808092018j:image「樽山節考」。「姥捨山の伝説を彩る永遠の人生詩!」「美しくも痛ましき親と子の愛の絆!万人の心を洗う熱い感動の涙!」主役の老婆を演じた田中絹代は役づくりのため健康な前歯を抜いて撮影に挑んだ。「善魔」。この作品の若い記者「三国連太郎」は木下の命名の配役だったのだが、本作がデビュー作品となった三国はこれを芸名とした。「二十四の瞳」。原作者の壺井栄の好きな言葉を「桃栗3年柿8年柚子の大馬鹿18年」と塩田幸雄小豆島町長が語っている。助監督、調音、照明、美術などの撮影チームは木下組と呼ばれていた。これが木下学校と呼ばれるようなった。木下は、自己に厳格である一方、他者には寛容であった。この学校からは、「名もなく貧しく美しく」「われ一粒の麦なれど」の松山善三監督、「秋津温泉」「戒厳令」の吉田喜重監督、「岸辺のアルバム」「ふぞろいな林檎たち」の山田太一監督らが出ている。また、新人俳優の育成もうまかった。岡田まり子は「演じる私たちをそのまま生かそうとするものだった」と語っている。こういった人材育成の功績も大きい。f:id:k-hisatune:20120808093325j:image二つ年上の東宝の黒沢明監督(1910年生れ)とはライバルだった。唐津に黒沢記念館をつくる話があったが、金の不祥事でつぶれてしまったというニュースを聞いたが、木下の場合は中村興資平(1880-1963年)設計の旧浜松銀行協会の瀟洒な洋館を記念館にあてがわれたのは幸運だった。この記念館は2009年にリニュアルオープンした。f:id:k-hisatune:20120808090336j:imageこの遠州地区からは、映画に関わる才能が数多く出ているという。---------------- 私はこれまでつつましく生きる庶民の情感を映像を通して描こうとしてきた。 人間はまったくいじらしい生き物だと思います。だからこそ、私はすべての人にどうにかして幸せになって欲しいと思います。そういう気持ちで映画を作り続けているんです。 歴史を越えて、今日まで流れる日本人の民族性、私達日本人に共通する、生命のふるさとを描き出したい。------------------------------------学部長日誌「志塾の風」120809 | 編集 11時。矢内事務長。田村常務らの新疆ウイグル出張報告を聴く。新疆は3年前100万、今は300万、数年後には500万の人口という発展ぶり。3つの大学を訪問。新疆市。成果があった模様。 アゴラで作業中の私のゼミのにごみ班。イベントのちらしとポスター制作中。 13時に、ゼミ生の西川君来訪。料理(フレンチ)を生涯のテーマとすることにしたので退学し、料理専門学校に入学するとのこと。志が高く、すっきりした様子なので、安心して激励する。f:id:k-hisatune:20120809130035j:image たまった書類を猛然と整理。 学外からの来訪者あり。 アゴラでゼミ生と。修士論文にカードゲームのテーマがあったので、「ドリランド」での戦い方を指南してもらう。f:id:k-hisatune:20120809172211j:image
2012/08/09
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昨日、浜松のオークラアクトシティに宿泊。浜松市は人口80万人の政令指定都市。ヤマハ、スズキ、河合楽器、ホンダがここから生まれた。工場の街。静岡大学工学部、浜松大学、静岡文化芸術大学などの大学がある。浜松城は出世城とも呼ばれる。家康の居城だった。3つの人物記念館を訪ねた。今回は速報として概要を記しておきたい。まず、木下恵介記念館を訪問。f:id:k-hisatune:20120808090625j:image有形文化財である旧浜松銀行協会の建物であった洋館。木下恵介(1912-1998年)は、浜松生まれの著名な映画監督であり、テレビの木下恵介アワーで馴染みがある。今年は生誕100年にあたる。監督としては1843年から1988年の44年にかけて、「花咲く港」から「父」まで49の作品を発表している。「喜びも悲しみも幾歳月」、「樽山節考」、陸軍」「大曾根家の朝」、「二十四の瞳」などが代表作。次に、賀茂真淵記念館を訪ねる。f:id:k-hisatune:20120808105344j:image本居宣長に万葉集の手ほどきをしたことで有名な国学の祖。国学とは、日本の古典を研究し、日本人の物の見方や考え方を明らかにし、そこに日本人の生き方を見出そうとした学問である。古言(古の言葉)を探り、古意(古の意味や心)を知り、古道(古の道理)を明らかにするというのがこの学問の方法だ。真淵は、60代から亡くなる73歳までの期間に、「万葉考」という注釈書、「冠辞考」という語学書、「歌意考」という歌論書、「国意考」という思想書、「語意考」という語学書を書いている。この人の特色は、教育者であったことだ。340人の門人がおり、そのうち三分の一は女性だったのも特徴だ。エレキテルの平賀源内、盲目の塙保己一、上田秋成、「古事記伝」の本居宣長、平田篤胤、、、。太安万侶による「古事記」の成立は712年だから、2012年の今年は1300年目にあたる。そして、古橋広之進記念浜松綜合水泳場へ向かう。ToBioという愛称の由来はもちろん古橋広之進にも関係するが、もう一つは鉄腕アトムの前の名前でもあるそうだ。f:id:k-hisatune:20120808112323j:image古橋広之進(1928-2009年)はフジヤマのトビウオと呼ばれ国際大会で世界新記録を連発した伝説の自由形スウィマー。敗戦で打ちひしがれた日本国民に勇気を与えた。終戦時に「魚になるまで泳ごう」と決意し、目標を世界一に定める。座右の銘は「泳心一路」。国際大会を開催できる施設でもあり、今日は中学生の大会をやっていた。一階の「日本水泳の歴史資料室」には、古橋の胸像と経歴とトロフィー、そして当時の新聞の切り抜きが並んでいる。1952年のヘルシンキオリンピックでは振るわなかった。これはなぜだろう。古橋広之進は、日大教授であった。この人のスポーツ界に果たした役割を大きく、文化功労者に続いて、2008年には文化勲章。オリンピック出場者としては初めての快挙だ。
2012/08/08
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愛知教育大学での講義。新幹線で豊橋、名鉄に乗り換えて知立へ。富山先生の車で愛教大へ。この大学への出講も四度目。対象は小中学校の教員になる人がほとんど。f:id:k-hisatune:20120808155415j:image学校教育の目的は何か?人文科学、社会科学、自然科学の関係は?教養のある人とはいかなる人か?なぜ勉強するのか?こういう根源的な問いに対する答えを説明するところから始めてみた。以下、そこに反応した感想をピックアップ。f:id:k-hisatune:20120807113405j:image「常識がひっくり返りました。「これだ」と思いました。気づかされることばかりでした。ダラダラと過ごしていた生活にこれでお別れできます。少壮老死など、こんな良いことを聞けて嬉しく思いました。目からウロコの連続でした。」「教養のある人の定義。立派な人間のイメージがはっきりしたし、それらすべてが納得のいくものだった。」「周りの人にはない自分だけの意見を独特の切り口で伝えて回っていることに本当に憧れました。」「教養のある人を目指してソーシャルネットワークから逃げずにこうしたツールを使いこなせるようになりたい。」「感動しました。」
2012/08/07
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小中陽太郎「翔べよ源内」(平原社)を毎日少しづつ時間をかけて読んだ。平賀源内(1728年生れ)という異能の持ち主の波乱の人生と彼を取り巻く個性豊かな人々、そして江戸の田沼時代の空気がよくわかる傑作だ。讃州高松藩の最下級の武士の家に生まれた源内は、本草学・薬草に深い関心を持つ藩主と親しくなるが、広い世界を見たいと暇をもらおうとする。藩主の答えは自由は与えるが、他に就職してはならないという「仕官御構い」の宣告を受ける。著者の小中陽太郎は若い頃にNHKから脱藩した経歴を持っており、市民運動、執筆、などの仕事で世の中を渡る人物だが、この源内の人生に関心を寄せている。歴史の中に自らのモデルを求めるといういことだろう。この本を読みながら、小中は源内そのものだと何度も思った。源内という人物を表す言葉。才気の人。諧謔の人。。千里の駒。戯作者。須原市兵衛。夢見人。起業家。天才。奇才。、、。ネットワーカー源内を取り巻く同時代の人々。杉田玄白。前野良沢。田沼意次。青木昆陽。小野田直武。司馬江漢。塙保己一。酒井抱一。太田蜀山人。工藤平助。滝沢馬琴。田沼意次。、、、この源内にして、最晩年の鬱屈があった。翔べなかった己を愧じた言葉である。「ああ、吾、あやまてり。あたら小才と奇智におぼれ、お江戸の風に浮かれだこ」--------------------------------学部長日誌「志塾の風」120806 | 編集 午後、研究室で秘書と打ち合わせ。大学院修士論文審査報告を作成。 教育サポート室の金子さんと打ち合わせ。 ラウンジで杉田就職委員長と意見交換。具体的な行動計画について。夏以降にやるべきことをピックアップ。教員サイドと事務サイドで取り組むべきことがだいぶ出て来た。金曜日に関係者のミーティングを開くことになった。一歩一歩。 ゼミ4年生の五十嵐君へメール。2年生西川君との面談スケジュール。
2012/08/06
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2012年に創立50周年を迎えたセコム。売上高6791億円。事実上の1兆円企業だ。この会社はセキュリティをコアに防災、医療、保険、地理情報、情報通信、不動産など社会が求めていり事業を推進しており、自らの業態を「社会システム産業」としている。この本は、そういうセコムの全貌を描きだそうとした苦心の作である。セコム その経営の真髄セコム その経営の真髄 作者: 長田貴仁 出版社/メーカー: ダイヤモンド社 発売日: 2012/07/13 メディア: 単行本 この商品を含むブログを見るセコムの創業者・飯田亮氏に、2002年に出版した「図で考える人は仕事ができる」(日経)と2003年に「日経ベンチャー」に持っていた連載で私もインタビューしたことがある。飯田さんは、図を使う経営者であり、私の図解理論をよくわかってくれた。鳥瞰的視点を持った経営者だ。セコム本社の最上階のオフィスでそこから見える東京のビル群を眺め、どこでビルが立ちあがっているかがすぐにわかると、その景色を見せてくれた。その当時「社会システム産業構想」という図を作成した。セコムは「安全サービスをコアとしつつ、その上に医療・健康サービス、教育サービス、情報通信サービスといった社会に有益なインフラとなる各種サービスをトータルに提供する新しい産業」と1989年に宣言している。それを飯田は、「社会システムの不備をただす産業」「人の一生をいろいろな場面で支援する企業」「高度情報社会に必要な社会システムを提供する産業」と表現していた。そして「利用者の発想でないと成りたたない仕事」であり、「顧客との接点の多さが新しい商品、新しいサービスを生み出す財産」とも語っていた。私の当時の見立ては、安全、そして安心、そして満足というステップを踏みながら成長を続けるだろうということだった。企業のセキュrティから人間のセキュリティへ、その先にはセコムの遺伝子は地域のセキュリティや国のや防衛まで視界に入ってくるのではないかとも予想していた。セコムという企業は飯田亮の個性が際立っていることもあって、関係する本は必ず飯田本になってしまうという宿命にあるが、長田さんの今回の本はそういう面もあるのだが、セコムという企業に焦点を絞っているのが特徴だ。関係者にたんねんにインタビューをしながら、このつかみどころのないとことが特色でもある企業の姿をあきらかにしようと試みている。著者は、経営学における数字だけを拠り所にする定量的分析、フレームという言葉を多用する形式的説明の風潮を嘆く。著書のいう文学性、人間性、こういった視点は、経営学者であり、ジャーナリストでもある貴重な視点だ。経営は人間が行う芸術であるから、空気を大事にしようという点は共感を覚える。以下、飯田亮氏の発言を拾ってみた。 運が良かったんだろうね。 私は行為する人しか認めない。 何でもやるのではなく何でもできる。あまり有形のものには手を出さないが、何だって包含してします。だから「セコム」というわけのわからない社名にした。 下駄屋、味噌屋になっちゃダメだ。 艶っぽい企業、色っぽい企業にならなくては。 艶っぽくない組織はくすんでいる。 経営理念は伝えられても、ビジネスデザインは伝えられない。これが頭の痛いところだ。 人に影響されると必ず悲観的になるから、一人で考えた方がいい。 イエスかノーか、と自問自答した場合、イエスと判断しても、サラニノーではないかと考え直してみる。その結果、ノーと出ても、さらに問う。こういったプロセスをしつこく繰り返す。 アメリカで生まれたい。まずアメリカンフットボールの選手になり、次いで歌手になり、最後は事業家で締めくくりたい。(もう一度人生がやり直せるとしたら) 自分で商売をやるなら現金商売か前金制。 自分で仕事を開発しなくてはならない。それが一番楽しいことだし、正解だからね。 叱っても尾を引かないカラッとした叱り方をしなうてはいけません。 威張る人は下の下。 理窟じゃなくて理念を語らなくてはいけない。、、ビジョンというのは簡単でなければならない。、、理念を浸透させるというのは、結局、そうした小さなことの繰り返しなんです。 顧客の声は聞かない。社員の声は聞かない。 経営とはチャレンジでありスピードだ。 社会にとってセコムはなくてはならない会社だね、と言われると本望だ。 物事に興味を持っていれば、健康は維持されるよ。----------------------------------------------------学部長日誌「志塾の風」120805 | 編集大学院の修士論文を4本読んで、評価とコメントを書く。毎年2回行う作業だが、日本経済の動きとビジネスマンの問題意識がよくわかる。今回は、物流現場、産業廃棄物、ソーシャルゲーム、銀行のリスク管理がテーマの論文だった。
2012/08/05
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今日の教授会で春学期が終了。学部長としての最初の4か月が終わった。----------------------------------------学部長日誌「志塾の風」120804 | 編集 学部運営委員会。秋の3年生向け学長の就職関係の講義、、、。 教授会。 FD研修会。増田先生による科研費の説明会。多くの教員が申請するきっかけに。 文部科学省への施設補助金申請の会議。諸橋先生、今泉先生、矢内事務長、池田部長。アゴラのアメニティ改善。 ラウンジで非常勤講師に面談。金先生、諸橋先生、趙先生、今泉先生。 SNSを講義する伊藤敬彦先生は多摩大の諸橋ゼミの出身者。現在はIT企業のリサーチャー。期待したい。 中国を意識した若者論を担当する原田曜平先生は、博報堂若者生活研究室のアナリスト。話が面白い。 非常勤講師は、新しい風を運んでくる。非常勤は「最前線事例」がテーマではないか。 今日と明日は、オープンキャンパス。 出原先生の入試説明、矢内事務長の父母説明などを聞く。豊田先生は二日間で3回の講義とか。 昼食は、今泉先生と金子先生と父母用のランチ。
2012/08/04
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2012年WHO平均寿命ランキング。193か国。http://memorva.jp/ranking/unfpa/who_2012_life_expectancy.php日本人は男女平均83歳(世界1位)。男性80歳(2位)、女性86歳(1位)。平均値は68歳。最下位は、マラウイで47歳。欧米先進国は79歳以上。その中ではアメリカは最低の79歳。メキシコ76歳、中国74歳、ブラジル73歳、北朝鮮70歳、タイ70歳、ロシア68歳、イラク66歳、ブータン63歳、カンボジア61歳、ルワンダ59歳、エチオピア54歳、コートジボアール50歳。50歳未満は、12か国ある。コンゴ、モザンビーク、ジンバブエ、アフガンスタン、チャド、ザンビア、そしてマルイ47歳。さて、人生80年時代を時計に換算した「人生時計」を考えてみる。午前6時は20歳、午前9時は30歳、正午は40歳、午後3時は50歳、午後6時は60歳、午後9時は70歳、午後12時が80歳。仕事は本格的には午前9時から始めて午後5時から6時で定年を迎える。40歳は人生の正午。何となく納得感がある気がする。人生90年時代ならどうなるか。午前6時は22.5歳。午前9時は33.75歳。正午は45歳。午後3時は56.25歳。午後6時は67.5歳。午後9時は78.75歳。午後12時が90歳。そうすると60才は午後4時となる。午後5時は63.75歳。午前6時に学校を出て社会に出る。まだ陽の高い午後4時には仕事を終える。このパターンは1時間ほど時間を早める夏時間を採用するイギリスの夏を想い出す。その時刻(4時)から、イギリスではゴルフをやったりテニスに興じたり、またパブでビールを飲む。私も20代の頃ふた夏を過ごして本当に豊かな時間を堪能した。午後9時頃まで外は明るいので、十分に楽しめるのだ。人生を考えるには、人生80年時代の日本時間から、人生90年時代のイギリスの夏時間にシフトするのがいいのではないか。このアイデアは、今書いている本でもっと深めてみたい。-----------------------------人間学を学ぶ月刊誌「致知」の9月号が届いた。http://www.chichi.co.jp/月尾嘉男、佐藤可士和、坂本光司、岡崎朋美、朝倉摂、鈴木秀子、佐治晴夫、渡部昇一、童門冬二などが出ていて読むのが楽しみだ。この雑誌に「木鶏クラブ通信」というコーナーがあり、全国各地の木鶏クラブよりのメッセージが載っている。木鶏クラブは全国各地で自主運営されている「致知」愛読者の会だ。「横浜中央木鶏クラブ」の報告に私の5月の例会での講演が出ている。「、、第二部では多摩大学学部長の久恒啓一氏に「遅咲き偉人伝」をテーマに講演していただきました。「人の偉大さは人に与える影響力の総量で決まる」との発言や遅咲きの人生を勧められるなど、素晴らしい講演内容に参加者一同感銘し、質疑応答にも花が咲きました。(記・鈴木芳郎)」
2012/08/03
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春学期の試験が終了した後で、集中講義やゼミの活動などがあるので、動きがある。今日は、学内の打ち合わせと、学外からの来客の集中日になった。ロンドンオリンピック。日本勢の調子がいい。金メダルは少ないがメダル数は」、中国とアメリカに次ぐ3位。---------------------------------------学部長日誌「志塾の風」120802 | 編集 9時半。知研の八木会長。「宣教師東漸!」の件。今後のセミナー日程の調整。 10時。Y出版社の松本さん来訪。日本・韓国・台湾をつなぐ出版社で、「カードブック」という電子本を発刊している。私の過去の著書で絶版になっているものを編集加工してスマートフォンで読めるようにするという企画だ。もともとの出版社の反応もいろいろだが、新しい出版の形態でもあるので、試してみることにする。読者層も違うらしいので楽しみだ。 10時45分。入試の黒瀬係長から特待生関係の説明を受ける。教授会では入試委員長から説明してもらうことに。 11時。矢内事務長。大学院関係、学長推薦委員会関係、文科省関係、などを確認。 12時。インターゼミ生の梅田君来訪。 12時15分。教育サポート室で金子さんと学部教授会議事録の確認など。 12時半。朝日新聞の荻野氏来訪。 13時半。春学期の成績付け。 14時。多摩信用金庫の伊藤さん来訪。9月の優良中小企業の社長さん向けの講演の打ち合わせ。過去の講師は、甲谷サイバーシルクロード代表(八王子)、地域活性化で有名な明星大学の関先生、優れた企業を紹介してベストセラーになった法政大学の坂本先生など大物揃い。テーマ案として「図で考える経営者(社長)は会社を(飛躍的に)成長させる!」ということになった。 15時。電力中央研究所から寺島文庫に出向中の青柳さん来訪。学長室高野課長加わる。学内を一緒に歩く。酒井先生、豊田先生。東京家政大の山岡先生と遭遇、他のプロジェクトの関係で会議らしい。 16時半。私のゼミの「にごみ班」の学生二人とたまたま会い進捗状況を確認する。来週木曜日は顔を出そう。17時から、多摩センターの京王プラザホテルで青柳さんと飲みながら懇親。
2012/08/02
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10時。九段の文庫カフェで、P出版社の編集者・鈴木さんと会い、進行中の出版プロジェクトの進捗状況を確認。8月中に完成させて、年内に出版。また会話中に、新しいプロジェクトが登場。こちらも楽しみだ。また、八木さんの「宣教師東漸!」の件を相談する。--------------------今年2月に続いて江東都税事務所に出講。13時から。鈴木前所長が台東都税事務所長に転じて、後任の池田美英所長(女性)と歓談。東京都主税局は3000人の大部隊だが、部長職の女性は5人だそうだ。受講者は50数名。江東都税事務所だけでなく、江戸川区都税事務所や中央区都税事務所、また江東区役所からも聴講者がある。二回目なので新聞記事を題材とした実習をやってみた。これもなかなか面白い。今日の「目からウロコ」は、所長とアンケートに一人。「自分の頭で考えることを大切にしたい」「納得と説得は違う」ワークライフバランスは間違い」「本当に「頭が動いていた」「思考力が高まった」「目からウロコ」「本当に面白い演習」「都税事務所の説明は方言」「地方公務員の一人一人が進歩することが日本の進歩となるとの言葉に身が引き締まった」「非常に頭を使った」「ライフデザインの話が面白かった」「久しぶりに「考える」行為を行った」「思考の訓練」「頭の体操」「書いてあること以上の発見ができるようになりたい」「疑問点が浮き彫りになる」「頭がとても疲れた」「新鮮」「頭がすっきり」「文章の10のうち8割を理解するのではなく12を把握するという言葉が印象的」、、。f:id:k-hisatune:20120801171735j:image終了後、小集団活動で発明した「ミラーズロック」の説明を担当の若い職員から受ける。車税の滞納者の車のミラーに派手な滞納マークを括り付ける新製品で、これによって納税率が大きく向上したそうだ。f:id:k-hisatune:20120801174824j:imageまた、「みどりのカーテンプロジェクト」の説明を推進している若い職員から受ける。江東都税事務所の壁に横25メートル、縦2-メートルの巨大で見事なカーテンが完成している。ゴーヤやへちまで厚くおおわれて、大きな省エネ効果があるそうだ。この事務所はこういう改善活動が盛んだ。夜行われた懇親会に参加し、若い職員たちと歓談。----------------------------------------その後、東陽町で都内の大学病院に勤める娘と待ち合わせて食事。
2012/08/01
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