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介護職員基礎研修。今日の午前中の講師は、19歳で脊髄損傷で車いす生活を余儀なくされたT講師。事故後先生から告知された内容に初めて出た言葉が「うそっ?」。そして茫然自失の中、次に出た言葉が「やばい」だったそうです。病院の中で天井を見つめ、天井にあいた穴をひたすら数えていたそうです。その間だけは、現実を忘れる事が出来たのかも知れません。 リハビリが始まっても最初は熱心にはなれなかったT講師でしたが、いろいろな方との出会いを経て、介護職を経て福祉短大の教授になり、後進の指導にあたっておらrます。 経験、話題が豊富で研修生を飽きさせる事がありません。常に笑いの絶えない講義。大きなものを乗り越えた説得力と力強さ、そしてやさしさを感じます。こう言っては失礼かもしれませんが、事故を受け入れ障害を乗り越えたからこそ今のT講師があると思います。 障害(病気)を言い訳にせず、だからこそ出来る事を探し行動された。 私の心理学の師匠である長谷川泰三も脊髄損傷で車いすの生活をしています。師匠もまた障害を乗り越えた方の一人。素晴らしい方とのご縁に恵まれました。T講師に師匠の本「命のカウンセリング」を渡したのは言うまでもありません。問題(障害)を言い訳にしない。すばらしいお手本が目の前にある。どうとらえるかは研修生次第。みんなはどう感じたのだろう。
2011年07月29日
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介護職員基礎研修。同じ研修生の中にMさんがいます。その方は独身で何の病気かはわかりませんが、薬を飲み続けないと命にかかわる病気だそうです。体力的にもきついのか、授業中も机に伏せて寝てたりします。立っていなければならない実習中も一人で座ってます。何日か受講を休んだりもしています。理系の大学院まで出られた賢い方(本人が学歴を強調される)。ときどき、「私は知っている」とか「みんなには観察力がない」とか発言します。あるときに受講生の一人が受講態度を注意したところ、事務局に駆け込み泣きついたのです。すると事務局の講師から翌日、Mさんは病気なので気を遣うように言われます。今までもあった溝が深くなった瞬間でした。そんな事の繰り返し。飲み会を企画すれば、Mさんが行かないなら参加するといった事までになりました。ちなみにこの講座は就職支援で、雇用保険を頂きながら無料で受講で来る講座です。条件は受講終了後すぐに介護職に就く気のある人。健康で講座を休まず受講できる人です。 5月10日に講座が始まった時、得手不得手は別としてMさんに敵はいなかったはずです。利害関係のない知らない者同士ですから。人生経験の違いはあっても同じスタートラインに立ったご縁のある方たちですから。 ましてや温度差はあるにしても、介護職を目指すやさしい心の持ち主ばかりです。味方さえも敵扱いしてしまった結果が今。本人も誰にも相手にされないと、事務局の講師や受講生の中でもおとなしそうな人を見つけて、ギリギリのところで踏ん張って?います。知識があっても知性がないのか、コミュニケーション下手なのか・・・ 世間知らずの箱入りなのか?本人が被害者だと思っている限り状況は変わらないのに・・・ 人を動かすのは山を動かすよりむつかしい。何とか自覚しくれれば、方法もあるのだが・・・私がやきもきしても何にもならない
2011年07月28日
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久々のブログ。介護職員基礎研修。先週末から、座学だけでなく介護実習が始まりました。 先週末は心理学の友人を、大阪に訪ね、励ますつもりが励まされっぱなしで帰ってきました。心はリフレッシュ。さあ、今週から実習を頑張るぞ!と臨んだ週でしたが、3か月近くの座学でなまった足には、立ちっぱなしの実技は・・・修行先週末にベッドメーキングやシーツ交換。今週に入り体位変換、排せつ介助、ベッド上でのおむつ交換。ベッドメーキングくらいまでは良かったが、相手のある体位変換や排せつ介助となると頭がごちゃごちゃ。ひとつ覚えるとひとつ忘れる。しかも班でやるときはトップなので、訳が分からないうちに終わってしまう。昼休みや、終了後に再び練習をして何とかついていっている。 体位変換。ベッドの中心からはずれて、左右や、下方向に寝ている方を正しい位置に寝て頂く。知らないうちはどうやって移動していただくのかと思ったが、コツをつかむと案外力はいらない。ベッドから起きてベッド端に座ってもらうのも、思っていたよりは、楽に出来た。知ると知らないとではこんなにも違う。そして今日は排せつ介助。これがきつい。これは本当に気をつけないと腰をやられてしまう。介護職には腰を痛めた方が多いとの事。納得。 さてもう一つはおむつ交換。自分の身に置き換えて見ると分かるのですが、これがきつい。人は生まれてしばらくすると自分で用を足せるようになる。入院でもして特別な事情がない限り、人に排せつを手伝ってもらったり、おむつでするなど考えもしない。よく嫁姑問題で「嫁にだけは下の世話をしてほしくない」とか「姑の下の世話だけはしたくない」とか言う。嫁姑でなくてもいやだ。しかし利用者さんにはそれしか選択肢はない。自分だけでは出来ない方が多い。いかに気兼ねなく早く清潔に介助出来るか。技術と気配り、思いやり。 下の世話。漠然とされたくないとは思っていたが、体験するとよくわかる。介護職の学校では、実施におむつで排尿や排便を体験させるところもあるそうです。肉体的苦痛と精神的苦痛。受講生のご家庭に大人用おむつがあるうちがあって、分けて頂ける事になりました。排便までは抵抗があるので、おむつでの排尿はやってみようとおもいます。 知ること、感じる事、やられること、やってみること。
2011年07月28日
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介護職員基礎研修。昨日は6巻の試験があり、今日返ってきた。内容は家事援助で、栄養素など食の部分、服飾など衣の部分、住環境の部分などだが、些細なミスをして93点。冷静でいれば、何とか100点が取れそうなだけに悔しい。 話は受講内容に戻るが、昨日の午前中、麻痺がある人が寝ているのを、置き上がらせる介助をやった。最初は教えられずに、やったが起こすのが大変だった。次に先生の指導のもとやると、想像以上に楽に介助する事ができた。やってみないと分からないものである。その授業をやった講師の理学療法士で専門学校の先生でもある方がおっしゃった言葉が心に残った。先生は「本当のリハビリは、目の前の利用者がリハビリに来なくなる事」と言う。その場で心地の良い施術をやって、また戻ってくるようでは、本当のリハビリではない。来たときは痛そうだったり、動きづらい体が帰りには楽になって返すこと。リハビリがきつくて疲れて返すなどあってはならないと。この人プロだなと感じた。 その他にも介職の講師の方がいろいろ来られるが、事例などでご苦労された話をされる。話される顔はみな自信に満ちている。きつい、汚い、給料が安いと言われる介護職。しかし、使命感とも違う気負いも感じられない何かが伝わってくる。人とかかわり、人の笑顔や感謝の言葉がそうさせるのかも知れない。 今日の講座でも不適切な介護、介護の問題事例などを習ったが、利用者側に問題があるのでなく、介護する側の問題。性的なトラブル、過剰なサービス要求、認知の方に対する介助など介護職がクリアしなければならない課題はたくさんある。それを乗り越えてきた講師の方々。プロを感じるし頭が下がる。 私の師匠の心理学の長谷川泰三先生も、言った事がある。クライアントが黙って離れていく。街であっても、声をかける事はないし、何事も無かったかのように普通にしている。さみしい事だが、カウンセラーとクライアントはそんなもの。守秘義務が何より大切なカウンセラー。なるほどと思う。 やった人しか分からない言葉。言えない言葉。身にしみます。
2011年07月14日
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ある目的に向かって学んでいる仲間がいる。年齢、性別、経歴もバラバラ、それぞrの利害関係はない。しかし、同じスタート台に立ち時間を共有している。 そんな中で、病気を理由に和を乱し相手の事など目に入らない人がいる。講座の主催者側は、病気の内容には触れず、その人を支えていき、全員でゴールすることを望んでいる。そもそもその講座は、欠席せずに受講する事が前提。しかし病気を理由に欠席する事もある。 周りはその人を理解できないし、関わりたくない様子。許せないと言った感情もある。 自分も許せないし、放っておけない感情もある。どうするか。 まず気になるのが、自分が禁止している事を、いけしゃあしゃあと目の前でやられると腹が立つ。うらやましいとまで思わないが、気に入らないだけなのか? 人を変えようとする事は、山を動かすより難しい。本人が問題だと思っていないのにとやかく言う事は、逆ギレされるか、恨まれるだけ。 このままだと、目的に到達しないし、周りが離れていくと思う。人は不信感があるときにコントロールしたがるが、うまくいかない事が多い。このままではいけないと判断しているのは、自分の価値観(観念)。本当にダメなのか。 自分の都合に合わせようとしているのか、相手の事を思って考えているのか? 本人がどうあろうとも、直接的に自分に被害が被ることはない。関係ない筈なのに気になる。おせっかい。 自分が何とかしなければと思うおごり?偏った正義?言う後悔より、言わない後悔?葛藤、葛藤。気になって落ち着いて受講できない。
2011年07月12日
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愛車のバッテリーの話です。今日は朝から金沢へ向けて車を走らせる。午前中に心理分析士仲間のEさんとお茶。1年以上ぶりだが、旧知の中すぐにいろいろな話をする。とりとめのない話だけど、互いの人となりを知りつくした間柄なので、気兼ねない。途中、心理カードなども使い楽しい時間を過ごす。後ろ髪をひかれながら、別の心理分析士Hさんと合流し小松へ。心理分析士養成講座の4期ネット講座が始まり、そのフォロー講座のお手伝い。予定の時間に少し早いので、小松駅近くのショッピングモールに車を止めしばし休憩。そしてすぐそばの会場へ向かおうとした時車のバッテリーが上がり大ピンチ。 車をショッピングモールに放置し会場へは徒歩で移動。時間には間に合い興亜は無事終了。終了後、受講生に送ってもらい車へ。一縷の望みをかけ、エンジンをかけるもやはりかからず。JAFのお世話になる。購入して5年ちょっと、8万キロ走行の疲れで、バッテリーの寿命。応急処置でエンジンをかけ、富山まで、ノンストップ、エアコンなし、パワースライドドアオフ、オーディオオフ、ライトも付け渋って、超省エネ走行。無事富山に戻りエンジンオフ。明後日ディーラーに持って行くのにもう一度だけ、エンジンがかかりますように。無理かな?キーの綴じ込みで2度JAFを呼び、必要性を感じ入会。入会してから16年。自分の車では初めてJAFを呼ぶ。JAFの法則「入会しないと利用するが、入会すると利用しない」JAFの施設割引も使った事ないし、冊子だけでは割高感満載。でも、解約したらきっと使うんだろうな。。。。
2011年07月10日
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介護職員基礎研修。リハビリテーションの理念と目的。今までのイメージは歩行訓練とかしかなかった。 リハビリの意味は「人間としての権利や名誉の回復」とか「全人間的復権」とか言う。「能力障害あるいは、社会的不利をおこす諸条件の悪影響を減少させ、障害者の社会統合を実現することをめざすあらゆる処置を含むもの」という定義もある。こうなると歩行訓練とはイメージが違ってくる。もちろん、歩行訓練もリハビリの一部であることは間違いないのだが・・・ 医学、職業、教育、社会の4つの専門分野が協働して、障害を持った本人が自分の意思で普通の社会生活を送れるようにすること。 ここで重要なのは、本人が出来る事は本人がする事。介護者はあくまでも出来ない部分を補ったり、見守る事。午後からの別の講師の話の中でも「介護職は銀の杖」と言う言葉がでた。金でなく銀。あくまでも主役は本人で介護職はあくまでも黒子。 ややもすると、介護職が主導的になり誰の人生か分からなくなる。役立ちたいがために、行き過ぎてしまう。 してあげるのでなく、その人の人生を習い、その人の人生に寄り添う。 現場に出ると、施設ごとのやり方や限られた時間、職員の中で、どこまで基本を忘れることなく介護できるか。誰のための介護か。不安はつのる
2011年07月08日
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キャッチボール。私にとっては父親の象徴のようなもの。 先週末に息子のグローブを買った。研修が休みだった今日、自分のグローブを買った。キャッチボールをやるのは何年振りだろう。目が悪くスポーツの中でも球技は特に苦手なので、20年ぶりくらいだろうか。 小学校1年の時父を亡くしたので私自身、父とキャッチボールをやっていない。旅行に行った記憶はあるが普段遊んでもらった記憶はない。父を亡くし、それからの私は、教師や上司に大人の男性像を求めてきた。自分の理想の父親像にあてはめようとしてきた。 結果、理想などあるはずもなく、また表向きの付き合いの中に、家庭の父親象があるはずもなく、息子が生まれて以来、他の父親以上に試行錯誤をしているのだろう。みんな初めての子育ては同じなので自分が思うほどではないのかも知れないが・・・父が亡くなった歳をこえ、息子が自分が父を亡くした歳になり、ひとつひとつが、父が出来なかった事をやっているような、父を乗り越えたような気がする。 早く亡くなった父を恨んできたが、父の無念さが、本当の意味で身にしみるようになってきた。 ただし自分が歩むのは、自分の人生であり、父の人生ではない。自分人生を歩む中で、父の出来なかった事が出来ればそれにこしたことはない。 キャッチボールは、父と息子のスキンシップの象徴。 ちょっと思い入れが強すぎるか。まあ、良い汗かきました。息子の投げたボールの力強さに、ちょっとびっくり。成長を感じる。
2011年07月06日
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鎌田實さんの本で「がんばらない」と言うのがあります。とても好きな本です。内容は、がんばらないと言うよりはがんばりすぎないと言った感じでしょうか。 昨日は師匠長谷川泰三のネットラジオの日でした。そして今日は、介護職員基礎研修がお休み。朝からゆっくりと日帰り湯に行って、サウナ、露天ぶろ三昧。 最近気になるのは「程度が極端な人」冒頭のがんばり過ぎる人とかの事です。ネットラジオでも質問し、風呂につかりながらも考えていました。 泰三さんの分析型カウンセリングでは、クライアントさんの話をそのまま受け止めるだけではありません。なぜその言葉を今言うのか。固執するのか。その言葉の裏に何があるのかに焦点を当て傾聴します。問題は聞き手側が、いかに先入観なく聴けるか。自分にはどんな観念があるのかを加味しながら偏りなく聴けるかと言う事。「~しすぎろ」の物差しがどこにあるのか。自分の価値観に照らして診てしまうが、それは偏りがないのか。それは永遠のテーマだし分からない。普通の定義が、自分の過去の経験や周りとのかかわりの中でつくられた物だから。環境や立場が変われば普通の観点も違ってくるだろう。 結局答えは1つではないが、言える事は、誰かを見て、思いがあるかどうか。自分の都合で相手を変えるためでない事。 それを踏まえて「頑張りすぎている」「無理している」と映ったなら私は言いたい。「大丈夫。よくがんばっているね。そのままの自分を認めてあげて。」あなたはあなただから。だいじょうぶ。
2011年07月06日
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資格。無いよりあったほうがよい。無いと出来ない仕事もある。人から見て一定の目安になる。あると自慢できる?自己満足?自分に対する保険?あるからと言って安心できるものではない。同じ資格だから、同じスキルとは限らない。無くても、それ以上の人もいる。振りかざす事も出来る。期待する、期待される、期待はずれ。ようは生かすも殺すも本人次第。その資格を使いどうしたいのか。何かをなすに必要な資格を取得し活かす。
2011年07月01日
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介護職員基礎研修。今日は休み。お昼は研修を同じくする友人とランチ。研修を受けての気持ちの変化や研修後の就職の事など、話をした。講師の話や講義内容に一喜一憂し、自分に出来るのか、不安になったり、また気持ちを新たにしたり、お互いに変化している。 そんなときに講師より宿題。内容は、「死に逝く人の心理と援助」テキストを読んでレポート提出。スピリチュアルペイン、ターミナル、ホスピスケアと言った領域。余命宣告などの問題もある。余命宣告するのは医師だし、告知するかどうかは、本人や家族の選択。介護の専門職の立場でその時どうするのか。平時はほとんどの方が告知を希望するようだが、実際にその時になると、家族は告知を迷う。 日蓮の言葉で「されば先ず臨終の事を習うて、後に他事を習う」という言葉がある。どう死ぬかがどう生きたかの証。死にざまを見れば生きざまが分かる。そうなれば、日々出来うる限りの最善を尽くし死に向かって生きるしかない。 であれば、私は告知は必要だと考える。そして本人が事実を受容するサポートをし、残された人生をどう生きるか、どうしたいのか本人の意向を汲み、寄り添いサポートする。本人が人生を全うすることが、家族も役割を果たす事が出来て良いと思う。専門職は正しい情報、選択肢を広げるため、ニーズに合った情報を提供し援助することだと思う。 とは言うものの、その時になってみないと分からない。ただ、講師の先生が言われた言葉に「利用者の笑顔のため」やっている。と言う事。自分の意見は意見とし、最後はやはり利用者と家族の意向。現場に出ればこんな風にゆっくり考える時間は無くなるだろう。今を大切にしよう。 もし、自分が余命宣告をされる立場になったら・・・・・今なら絶対に事実を教えてほしい。子供が成人して、自分がおじいちゃんになっていたら宣告しなくても良いかもしれない。自分はどんな最期を迎えるのだろうか。人生の一番大きなテーマ。
2011年07月01日
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