わたしのこだわりブログ(仮)

わたしのこだわりブログ(仮)

2022年04月18日
XML
カテゴリ: 歴史の旅
星 ラストにback number入れました。すっかり忘れていました。ぽっ

​​​​​​​​​​​​今回は、​大航海時代を支えた船の事を入れたいと思います。
写真は南アフリカ、ケープ半島の喜望峰です。スマイル​​


いわゆる船の始まりは ガレー船(galley)である。
動力はオールのみのガレー船(galley)と帆とオールによる動力で船を動かすタイプのガレー帆船が存在する。
※ 紀元前の戦闘においてすでに利用されていた船。​

そのオールを動かす行為は人力であるから長時間航行には限界があった。
寄港地を多く必要としたので割と陸の近くを航行した船である。

ガレー船にも小なり大なりの船があり小型のガレー船でマストが1~2本。オールの数はその用途でも変わった。
ただの運搬船の場合は積荷の重量を優先して漕ぎ手は少くない。つまりオールは少ない。
※ 小型のガレー船フスタ(fusta)は漕ぐよりも帆走をメインとしていた。マストは1本。

が、軍用船の場合、速度が重視されるから漕ぎ手は増える。昔は戦士がそのまま漕ぎ手となっていた。後に大砲など銃器も積むようになると重量も増しオールの漕ぎ手の数も増える。
※ 兵士50人~150人程度?

当然、船自体が大型化する。食糧や水などの供給の為に長時間航行には限界があり、補給と休息の為の寄港地も増える。
​​​​​​​
ガレー船については、以前「海洋共和国番外 ガレー船(galley)と海賊と海戦」の中「ガレー船(galley)の変遷」のところで紹介しています。
リンク ​ 海洋共和国番外 ガレー船(galley)と海賊と海戦

上に紹介したガレー船は地中海の比較的穏やかな海で誕生したものだ。
ジブラルタル海峡を出て外洋に出ると、海にはただならぬ風と海流が存在し、海も荒れた。安全な寄港地だってあるかわからない。
外洋航海を目指した彼らは外洋に耐えられる船造りの必要性に迫られる。

特に水面(喫水)から上甲板までの距離(乾舷・Freeboard)は重要である。
外洋は波も高くなるので船の乾舷を大きく(高く)しないと沈没しやすい。

星 エンリケ王子は未知への航海に踏み出し海図を少しずつ書き足した。同時に船の開発もしたとされる。彼がエンリケ航海王子(Prince Henry the Navigator)(1394年~1460年)と呼ばれるのは、彼の元にそれら研究が推し進められていたからだ。
彼らは遠洋航海に適した大型の船の開発と、未知の探検に適した船の開発を成功させた?
※ ポルトガル南部のサン・ヴィセンテ岬(Cape San Vicent)に王子のヴィラがありそこに研究施設と学校があったとされる。

大航海時代、当初、世界の植民地化においてポルトガルとスペインの独壇場となったのは、外洋に出て行ける船を持っていた両国だけ だったからだ。

ところで船の写真はほぼウィキメディアから借りました。
船の本探しましたが無いのです。あっても近年の帆船の本ばかり。
中世の帆船を詳しく順序立てて解説している本が欲しかった。しょんぼり


アジアと欧州を結ぶ交易路​ 17  大航海時代の帆船とジェノバの商人

嵐の岬から喜望峰に名称変更
大航海時代の船
Georg Braunの鳥瞰図
キャラベル船(Caravel)

キャラック船(Carrack)
ガレオン船(Galleon)
ケープ・ポイントと希望の岬
ジェノバの商人​( The Merchant of Genoa )
ポルトガルとの関係
ジェノバの商人の見返りは何か?
スペインとの関係
​ジェノバ人の報酬​
帆船の風


嵐の岬から喜望峰に名称変更
ケープ・ポイント(Cape Point)からの喜望峰(Cape of Good Hope)
少し時化(しけ)た時の喜望峰(Cape of Good Hope)

少しの時化でも沿岸は岩場が多いせいか波が立ってますね。

ケープ半島(Cape Peninsula)の南端に喜望峰(Cape of Good Hope)はあるが、実際はケープ・ポイント(Cape Point)の方が少し南。
もっと言えば アフリカ大陸の最南端は喜望峰ではない。

ケープ半島南端は岩礁がすごくて海底が渦巻いているのかも。

バルトロメウ・ディアス (Bartolomeu Dias)は実際、アフリカの最南端であるアガラス岬(Cape Agulhas)まで進み船をターンさせた。

彼はアフリカ大陸の南の海で嵐に遭って13日間漂流。気付いたらアガラス岬まで来ていたのである。

星アガラス岬はアフリカ大陸の最南端と言うだけではない。実はここはインド洋(Indian Ocean)と大西洋( Atlantic ocean)の分かれ目 なのである。
それは海流(Agulhas Current)により明確に分断されている。

だから彼はそこより先に進め無かったのだろう。
遭難してさんざんな目にあい彼はやむなくターンしてケープ半島(Cape Peninsula)の南端まで戻る。
彼はそこを嵐の岬(Cabo das Tormentas)と報告した そうだ。
※ 帰りはベンゲラ海流(Benguela Current)に乗るので早い。

希望の岬(Cape of Good Hope)と名を変えさせたのはジョアン2世(João II)(1455年~1495年)。
東方への道が開けた「希望」が込められた名前らしい。
日本ではなぜか「喜望」が用いられているが・・。



大航海時代の船
ポルトガルが喜望峰に到達するのは1488年。
喜望峰に到達したバルトロメウ・ディアス (Bartolomeu Dias)(1450年頃~1500年)はキャラベル船(Caravel)2隻と補給船1隻でリスボンを出港。
​​​​​​​一方スペインからクリストファー・コロンブス(Christopher Columbus)(1451年頃~1506年)が大西洋横断するのは1492年の事。
コロンブスはキャラック船(Carrack)のサンタ・マリア号(La Santa María)を旗艦としてピンタ号とニーナ号と言う少し小型のキャラベル船(Caravel)の3隻でパロス(Palos)港から出港。
コロンブスの船は何れも中古船だったそうだ。
それにしても二人はほぼ同級生だったのね。びっくり

大航海時代を迎えるにあたり、まず造られた船は 外洋に出られる船 だ。
高波にも沈まない安定した船体 の船。すでにベースはあったと思われる。

遠洋航海が始まると食糧など物資がたくさん詰める船倉も必要 になる。交易品を積む上でも必要だ。
そのうち到達した未開地の探索の為の船も必要となる。 入江や川を遡上しての探検に適した小廻りがきき機動力のある船も必要 とされた。

星植民の為の侵略が始まると、現地との争いも起こる。 ​相手を威嚇する為に砲台の数も増えて行く。​
植民地との運送船には護衛する船が併走 するようになる。

護衛船は砲台の数を増やし 戦列艦と呼ばれる砲撃戦用の完全なる軍船 に進化もみせる。
また砲台は減らして 速度を重視したフリゲート(Frigate) も生まれている。
つまり大航海時代に生まれたガレオン船(Galleon)は、戦える船として輸送と兼務した活躍をみせる。
​​​
Georg Braunの鳥瞰図
1572年のポルトガル、テージョ川(Tagus river)河口のリスボン港

ドイツの地形地理学者 ゲオルク・ブラウン(Georg Braun)(1541年~1622年)が編集長として 世界で最も重要な都市? として編纂した本 「Civitates Orbis Terrarum」Volume 1、1572  からの出展?
ウィキメディアから借りましたが、これの原本はハイデルベルク大学図書館のデジタル・アーカイブらしい。​
​ゲオルク・ブラウン(Georg Braun)は546の都市の展望、鳥瞰図や地図を編纂。
1572年から始まり1617年にVolume 6(第6巻)まで刊行している。
当時も役に立ち、且つ後世の重要な歴史的資料にもなってます。スマイル

ポルトガルではキャラベルは2本マストの三角帆が好まれたと言う。​

新機種 大型のガレオン(Galleon)
ここにはかつてのガレー(Galley)と小型ガレーのフスタ(Fusta)もいます。
キャラック(Carrack) とキャラベル(Caravel)はなんとなく分けたので間違っているかも・・。ぽっ

大航海時代初期に利用されたキャラック船(Carrack)もキャラベル船(Caravel)も共にポルトガルが開発した? と考えられいる。
外洋航海の為に開発された安定性と容積の大きいキャラック船(Carrack)。
未知の土地での探検に適した小廻りのきくキャラベル船(Caravel)

確かに探検用のキャラベル船(Caravel)の完成型はポルトガルであったとは思うが、外洋航海用の キャラック船(Carrack)はポルトガルではなくジェノバの造船所が開発したものだった? 可能性もある。
何しろジェノバは1312年の段階ですでにカナリア諸島まで到達していたし・・。​
実際、ジェノバは船も売ってたからね。
​​​​

海洋共和国ジェノバの事は「アジアと欧州を結ぶ交易路​ 12~14 海洋共和国」編の中で書いています。
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 12 海洋共和国 1(Ragusa & Genoa​​)​
※ 海洋共和国ジェノバ(Genoa​​)と交易先,十字軍遠征に対するジェノバの功績、海洋共和国ジェノバ(Genoa​​)の快進
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 13 海洋共和国 2 ヴェネツィア(Venezia)
※ キリスト教国の逆襲、十字軍(crusade)の中、十字軍効果の経済
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 14 海洋共和国 3 法王庁海軍率いる共和国軍vsイスラム海賊
※ ヴェネツィアvsジェノヴァの交易


キャラベル船(Caravel)
1450年頃、
それは確かに、エンリケ王子(1394年~1460年)のチームが、必然により開発した船だったかもしれない。
​​​先に紹介したよう1488年、バルトロメウ・ディアス(Bartolomeu Dias)(1450年頃~1500年)が喜望峰に到達した時に利用していた船である。
しかも キャラベルは浅い沿岸海域で上流に航行する事が可能。まさに西アフリカの川を遡上しての探検の為に開発されたような船だ。
50〜160トン、マストは1〜3本。3.5対1、狭い楕円体フレームを持つ。

初期のキャラベル船の平均の長さは12〜18 m 39〜59トン。
また、初期のキャラベル船は2つまたは3つのマストを搭載。後に4本のマストも。

サイズで用途も変わるからマストの数は船のサイズによるだろうし、当然用途で異なる。
また帆の形などで機能性はかなり変化する。
帆の操作次第で風上に向かって航行する事も可能。
小型ゆえ積載量は限られるが、その操作性と機敏さから非常に高速での移動も可能だったらしい。

三角帆のキャラベル船 ウィキメディアから借りました。​​
パリの国立海軍博物館のコレクションからのポルトガルのキャラベル船のモデル。
3本のマストを持つ小型の帆船で、小廻りもきくし高い操舵性を有していた。

当時ポルトガルは西アフリカ沿岸から川を遡っての未開地での調査と同時に植民地や鉱物資源を探していた。
探検家たちは機動力を求めてラテンセイルを備えたキャラベルや100トン前後の軽キャラックなど小型帆船を求めたのだろう。
特にポルトガルでは三角帆のラテンセイル(lateen sail)が好まれたらしい。

四角帆のキャラベル船 ウィキメディアから借りました。​
ヨット (yacht)の語はオランダ語の 「jacht」から由来するらしいが、ヨット​ ​のルーツ自体はポルトガルのキャラベル船(Caravel)だったのではないか? と思った。 ぽっ

ところで コロンブスの旗艦のサンタマリア号はキャラック船(Carrack)であるが ピンタ号とニーナ号はキャラベル船 とされている。
小さいピンタ号やニーナ号の方が動きも迅速なのでコロンブスは旗艦のサンタマリア号よりも好んだと言う。

ニーナ号(La Niña)の復元船
横帆を帆装に持つキャラベル船 写真はウィキメディアから借りました。

ニーナ号のマストの数は現在も論議中。2~4本?
排水量およそ60トンで船団の中で一番小型だったと言うが、これを見る限りではほぼ漁船。

ピンタ号(La Pinta)の復元船


スペインのパロス(Palos)港のドッグに繫留されているピンタ号(La Pinta)の復元船。
約60〜75トンの約15〜20mの小さなキャラベル船

ピンタ号とニーナ号はキャラベル船とされているがポルトガルのキャラベル船とはちょっと違う気がする。ぽっ


キャラック船(Carrack)
​​​​​ポルトガルではナウ(Nau)、スペインではナオ(Nao)と呼ばれた。
キャラベル船(Caravel)よりも大型のキャラック船(Carrack) も、14~15世紀にポルトガルで開発されたとされている。

全長は30mから60m。3本~4本のマスト。
丸みを帯びた船体は全長と全幅の比は3:1。
特徴的な複層式の船首楼、船尾楼を有する。 ​船の安定性は高く、外洋航路での貿易船として都合が良く、貨物と物資の積載能力も高かった。​
ポルトガルのキャラック船は、当時は非常に大型の船であり、多くの場合1000トンを超えていたと言う。

コロンブスの旗艦であるサンタマリア(Santa Maria)。レプリカのキャラック船(Carrack)の写真をウィキメディアから借りました。
​​​​​​​
キャラック船(Carrack)
コロンブスによるアメリカ大陸到達500周年(1992年)記念のイベントとしてサンタ・マリア号、ピンタ号、ニーニャ号の船団三隻が復元。
製作は1986年に開始され、復元された船体は1992年にスペインで開催されたセビリア万博で展示。

下は船体部分のみカットしたものです。


キャラック船(Carrack)のシンプル図。(ウィキメディアの図を借りました。)

冒頭も紹介したが、それまで地中海で使用されていたガレー船は沿岸航行が主流。外洋航海ではより強い風と海流に絶えうる転覆しない安定した船の開発は必須。

高波にも安定する船体を持つキャラック船(Carrack)に近い船はすでにジェノバやポルトガルでは利用されていたと思われる


先にも触れたが、ジェノバも早くから地中海からジブルラルタル海峡を出て大西洋を北上。北海への航路を持っていたから当然、大西洋の高波にも絶えうると同時に積荷を汚さず、濡らさず運ぶ為の広い船倉を有した船の開発はポルトガルより先だったと思われる。
ハンザ同盟で栄えるブルージュの羊毛製品をポルトガルが独占的に取引するのは1430年以降である。
ブルージュの羊毛のタペストリーの御得意様はローマ教皇庁であり、その運搬をジェノバが担っていたと考えられるからだ。
※ ジェノバとローマ教皇庁の関係は十字軍以前に遡る。
前に「アジアと欧州を結ぶ交易路​ 15 大航海時代の道を開いたポルトガル」の中、「海洋王国ポルトガルの誕生」ですでに書いているが、
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 15 大航海時代の道を開いたポルトガル

星ポルトガルが海洋王国を目指したのは1317年頃。第6代ディニス1世(Dinis I)(1261年~1325年)(在位:1279年~1325年)の時である。
​​以降、 ジェノバの商人をリクルートして船や航海、交易のノウハウをポルトガルは獲得していく。
第10代ジョアン1世(João I)(1357年~1433年)(在位:1385年~1433年)の時代にはポルト港に400~500隻の船が出入りするほどの立派な海洋王国に成長を見せていた。

そのジョアン1世(João I)の娘イザベル・ド・ポルテュガル(Isabelle de Portugal)(1397年~1471年)​が
1430年1月、ブルゴーニュ公フィリップ善良公に嫁いだ。
​結婚の縁きっかけでポルトガルと北海方面の通商が始まったと思われる。​​
※ イザベルとエンリケ王子は同母兄妹である。
※ 仕入れた羊毛タペストリーは北アフリカでイスラムの商人とも取引されていた。取引自体はポルトガルではなくジェノバの商会が行っていたと思われる。

造船に関しては、そもそもジェノバの方が歴史は深い
ジェノバの造船造りのノウハウを得てまた人材を引き抜いてポルトガルが開発した可能性もある。

何れにしても、この 外洋の高波や海流に絶えうる安定の大型輸送船 キャラック船(Carrack)は、ガレオン船(Galleon)が登場するまで 大西洋航路で主流の 大型船であった
※ ガレオン船は16世紀半ば頃登場。

下はポルトガルが軍船として開発したキャラック船(Carrack)

サンタ・カタリナ・ド・モンテ・シナイ(Santa Catarina do Monte Sina)
部分を拡大

一見ガレオン船(Galleon)だと思っていたが・・。船底は広く安定してますね。

もしかして?
ポルトガルは軍船もキャラックから発展しているのでガレオン船は造っていなかったかもしれない。ぽっ

​1547年、ポルトガルはキャラック船(Carrack)で種子島に到達。
ガレオン船(Galleon)は16世紀半ばにはすでに開発されていたが、日本に来た ポルトガルの交易船は最後(1638年)までキャラックのままだった?
※ 数々の屏風絵に彼らと船が描き残されている。​すべてキャラックだ。

下は神戸市立博物館所蔵のコレクションから狩野内膳作「南蛮人渡来図」屏風絵から
ウィキメディアで借りました。

上は部分。下が全景。

狩野 内膳(1570年~1616年)
安土桃山時代から江戸時代初期の狩野派の絵師

因みに1637年の暮れに勃発した島原の乱が決定打? となって日本政府はポルトガルを排除し、交易相手をプロテスタントのオランダ国に乗り換えたのである。
詳しくは以下に書いています。


ガレオン船(Galleon)
ガレオン船(Galleon)はキャラックから発展したとされる遠洋航海用の船
16世紀半ば〜18世紀頃主流の帆船。
キャラックより小さめの船首楼と大きい1〜2層の船尾楼を持ち、4〜5本のマストを備え、1列~2列の砲台を備えて敵の襲来を防ぐ事も可能。 大航海の時代には武器も必須。護衛船として有用な船だっ た。

​ガレオン船の全幅の比は1:4。(キャラック船は1:3 )​
キャラックよりも幅に対しての全長が長くスリムな船 。形状だけでキャラックより速度が出ただろう事は解る。
​積載量も大きいが、喫水も浅く速度は出る反面、船体のスリムさ。重心は上に行くので安定性に欠ける。
いざと言う時に転覆しやすい船であったそうだ。
ガレオン船(Galleon)のシンプル図。 (ウィキメディアの図を借りました。)



海上輸送で利用されると同時に大量の砲台を配備できる船は戦闘に特化した戦列艦へと発展もしている。

スペインのガレオン船(Galleon)の軍船 (絵画部分)

スペイン船(上図)とオランダ船(下図)では砲台の数が違う。

スペインのガレオン船は、3本マストを搭載。船体は500〜600トン
​砲台の数が多く豪華で派手。見た目重視? 見た者を圧倒させる目的があったのだろう。
先にガレオン船は吃水が浅い為に速度も出ると紹介したが、この船に関しては性能は悪くスピードも出なかったらしい。
ただ、 並んだ砲台により一斉砲撃戦術が確立された戦列艦となっている 。​

植民地間を行く商船兼護送軍船でもあったので特にスペインでは大型化される傾向にあったらしい。
スペインでは新大陸の護衛艦として活躍。

オランダのガレオン船(Galleon)の軍船 (絵画部分)


原画 米国ワシントンD.C.の国立美術館(The National Gallery of Art) 出展(ウィキメディアから)
タイトル オランダとスペイン軍艦の遭遇(A Naval Encounter between Dutch and Spanish Warships) 1618〜1620年

画家 Cornelis Verbeeck (1585or1591年~1637年頃)
オランダ黄金期の海専(うみせん)の画家
​​
星 スペインとの80年に渡る戦い(1568年~(休戦1609年~1621年)~1648年)を経てオランダは独立。
※ オランダを導いた中心人物がオラニエ公ウィレム1世(Willem I)(1533年~1584年)
つまり この絵はオランダvsスペインの80年戦争の最中の絵なのである
但し、描かれた年代は1618〜1620年とされている。だとすると休戦期間(1609年~1621年)ただ中になってしまうが・・。​​


​ケープ・ポイントと希望の岬
下図は南アフリカのケープタウン界隈です。喜望峰はケープ半島の最南に位置しています。

大西洋側からの喜望峰(Cape of Good Hope)










​フォールス湾(False Bay)側からの喜望峰​​




喜望峰の手前 ダイス海岸(Diaz Beach)

新ケープ・ポイント(Cape Point)からの喜望峰(Cape of Good Hope)

ここまで上るのは至難です。途中からフニクラ(Funicular)があります。

Flying Dutchman Funicularのレール


目指すは新ケープ・ポイントの灯台(New Cape Point Lighthouse)

New Cape Point Lighthouseまでラストは階段です。

下の灯台はウィキメディアから借りてきました。


大西洋側の旧? ケープ・ポイント  喜望峰(Cape of Good Hope)の看板




このあたりはケープポイント自然保護区(Cape Point Nature Reserve)なっている。








マクレア海岸(Maclear Beach)



​​ジェノバの商人​( The Merchant of Genoa ) ​​​​
大航海時代の主役は確かにポルトガルとスペインであるが、細かく見て見ると、何れの国も海洋共和国ジェノバ(Genoa​​)との関わりが深い。
​​​​​​​深い・・と言うよりは 何れの国も全面的に金銭をジェノバ(Genoa​​)に頼っている・・と言う関係だった

ポルトガルとの関係
ポルトガルが海洋国家になる為にジェノバの商人を国家がリクルートしたと言う事はすでに「アジアと欧州を結ぶ交易路​ 15 大航海時代の道を開いたポルトガル」の所で触れているが、海運事業を立ち上げ、国際交易に参加する為のノウハウもすべてジェノバ商人の指導を受けている。
※  ポルトガルが海洋王国を目指したのは1317年頃、第6代ポルトガル王ディニス1世(Dinis I)(1261年~1325年)(在位:1279年~1325年)の時

商船を持ち運営するのは、ただ船があって船員を雇えば良いと言うだけのものではない。
交易をするとなれば、それは技術だけではなく商売をする上で金融のノウハウも必要 になる。
当然、 運営の資金の調達から契約の仕方、経理、法律など事務的な事のノウハウも必要 となる。
また、ポルトガルは100年後には自国での造船も行っている。
それらの全てをジェノバの商人らがお金も貸し付け指導もしていた のである。

では ジェノバの商人の見返りは何か?
実はこの頃(1312年)にはジェノバの航海士がカナリア諸島にすでに到達していた。
ジェノバはアフリカ大陸からもたらされる金にすでに目をつけ、西アフリカ方面に関心を寄せていたらしいのだ。
ポルトガル高官の中にはリクルートされたジェノバ人も入っていた。ジェノバの商人はポルトガルに海運のノウハウを教えると共に自分達の通商に有利に計らえるよう契約? 特権? があったのだろう。

​​​​​​​​​​ 1415年、ポルトガルは北アフリカのセウタに侵攻した。この時も当然バックにはジェノバがいた
※ 北アフリカの金の取引の市場は他に移転してしまい予定が外れた。しかもセウタからは何も得られなかったが・・。

ポルトガルによる外洋航海にジェノバは当然力を貸している。
星セウタは失敗したが、もしかしたら エンリケ王子をそそのかして海洋に興味を持たせ、ポルトガルを外洋航海に向かわせたのは彼らだったのかもしれない ぽっ

1425年にはポルトガルによるマデイラ諸島(Madeira Islands)​への植民 が始まっていた。
ここには ジェノバ人によりサトウキビが持ち込まれ15世紀中には黒人奴隷を使用してのサトウキビ畑の一大プランテーシヨン​(plantation)​ができあがり欧州へ輸出 された。

ジェノバのサン・ジョルジョ商会が出資。マデイラ諸島は欧州の砂糖の主要な供給地となっていた。
また、マデイラ諸島はブドウの一大産地でもありポートワイン(Port Wine)と同じく酒精強化ワインのマデイラ・ワイン(Madeira wine)の産地である。

※ フォーティファイド・ワイン(fortified wine)​について書いています。

1427年にエンリケ王子が派遣した船長により アゾレス諸島(Azores Islands)​ が発見される。
ここは 小麦粉とブドウと藍(あい)色の染料となる大青(たいせい)の産地に育てられた

1440年、セネガル川河口で金の交易が始まる。
※ 金はセネガル川上流のサハラ地区? で採掘されそれ以前は北アフリカのイスラム商人の隊商によって北アフリカの港に運ばれていた? らしい。

1450年、大西洋中央に位置する カーボベルデ (Cabo Verde)で奴隷を使用してのサトウキビのプランテーションがジェノバ資本で始まった。
​​​後に ポルトガルが南米ブラジルを植民地化すると、そこにもジェノバ資本のサトウキビのプランテーションができあがる

つまり表看板はポルトガル国であるが、大西洋上、マカロネシア(Macaronesia)でのプランテーションや西アフリカでの交易にはジェノバ商人の資本とサポートが多大に入っていたと言う事実だ。
それにしても15世紀以降の欧州の砂糖の市場はジェノバの商人が独占していたのかな?

マカロネシア(Macaronesia)
星アフリカ西の大西洋上の島々、 マカロネシア(Macaronesia)に属するマデイラ諸島、アゾレス諸島、カナリア諸島、ベルデ岬諸島の大半にジェノバの資本が入り、15世紀にはすでに欧州への食料庫として大量生産のシステムで開発が進められていた
※ プランテーション (plantation)・・ 大農園による生産システム

驚きなのはそれだけではない。
ジェノバの商人はすでに新天地にもかかわっていたびっくり​​​

大西洋上のマカロネシアでのプランテーションが確立される頃、 1453年5月、コンスタンチノポリスが陥落している。
すでに(1381年)トリノ講和条約にてジェノバは東方交易の利権を全て失っていたが、かつては黒海周辺に植民都市をたくさん持っていたジェノバである。
さらなる影響もあった? いや、逆に商機を得た?

ジェノバは窮地に落ちたと思っていたが・・。地中海を捨て、大西洋に、南米に。ジェノバの商人根性、先見の明。ヴェネツィアと違った意味で凄いと思った。ぽっ


スペインとの関係
​​​​ スペインが大航海時代の覇者となるきっかけを作ったのがコロンブスによる新大陸の発見。
その新大陸発見はコロンブスによる持ち込み企画で、当初はポルトガル王もスペイン王も断った非現実の冒険企画だった。
でも、その夢の企画に乗って現実に近づけてくれたのが、コロンブスと同国人のジェノバの商人だった。

実は ジェノバ人は12世紀にはすでにスペイン国内で商業金融を営んでいた と言う。つまり12世紀にはジェノバの資本がスペイン(カステーリャ、アラゴン、レオン)に入っていたと言うことだ。

しかも、彼らはスペインから免税や徴税権などたくさんの特権を受けていた。
それもこれも実は スペインの王室も貴族も財政的に苦しく、王や貴族は自分らが持っていた諸々の特権を借金の代わりにジェノバ人に譲渡していた からなのだ。

今回大きいのはジェノバの持っていた徴税権である。
教会、騎士団、警察組織などの徴税権を持っていたジェノバはそれらの中から融通の利く税収入を一部コロンブスの航海の為に捻出している。
コロンブス自身も個人でジェノバの銀行から借金もしている。
実際問題として、 大航海の為に一番必要なのは資金である。その資金を捻出できたのは、国王ではなく、ジェノバの商人だったと言う事実 なのだ。
だからコロンブスがジェノバの商人を味方につけた事は間違いなくこのプロジェクトの成功の鍵となった。​​​​
※ コロンブスはジェノバ出身者。同国人だったと言うのが大きかったかも・・。

​​つまり、 コロンブス探検隊による「インディアスの事業」は表向き、カステーリャの王室が行った事業であったが、実際ジェノバ商人らによる経済力で実行し、成功できた
そして 成功した暁には、ジェノバの商人は使ったお金以上の回収を望んでいたからコロンブスはそれに応える成果が何より先に欲しかった 。コロンブスとスペイン帝国の名誉は後の話だ。​​

それにしても商人らは本気で期待していたのか? 最初からギャンブルと思っていたのか?
ちょっと気になる。ぽっ


​ジェノバ人の報酬​
コロンブスが到達したのは、アジアでは無かった。そこは、インドでもなくジパング島でもなかったが、金鉱が見付けられたのはまさにラッキーだった。
スペイン帝国は南米から産出された金をジェノバへの返済金? 報酬? にしている。​​​​

ヴェネツィア駐在のスペイン大使の報告(1595年) ​​
1530年以後、8000万ドゥカード(ducato)の金銀がスペイン船によりアメリカ大陸から欧州に運ばれた。
※ ドゥカート金貨はヴェネツィア共和国の当時の冶金技術で精製できる最高峰の純度を誇る金
3.545gで純度99.47%の金貨。(​8000万ドゥカートで金283.6トン?)

しかし、全てがスペインのもうけになったわけではない。
1530年から1595年までの間に​​ その30% (2400万ドゥカード)がジェノバ人のものになっていた ​と伝えている。
金鉱が見つかった時の取り分30%? それは最初の契約にあったのかも知れない。

星地中海交易でヴェネツィアと争って負けたジェノバは東洋の物産を諦めはしたがスペインやポルトガルの航海に投資していたので大航海時代に双方の交易に係わり利益を得ていたのだ。
​実際、 スペインが南米に開いた植民地、また鉱山開発に初期投資し、アメリカ大陸との貿易に大きく組入っていたジェノバの商人。ヴェネツィアの商人よりも柔軟でやり手だったかもしれない


帆船の風
地球を吹く風は大きく2種に分けられる。
一年中ほぼ同じ方向に吹く恒常風(constant wind)と、夏と冬で風向が変動する季節風(モンスーン・monsoon) である。​
恒常風は大気大循環に伴い緯度帯ごとの循環で3種に分けられる。
​極東風(Polar easterlies)、偏西風(Westerlies)、貿易風(Trade wind)​
北半球、南半球共に3つの帯がある。

季節風(monsoon)は地域で異なる。
日本では、冬季には陸から海へ北西風が、夏季には海から陸へ南東風が吹く。

星帆船の航海には風が重要なので、昔は船乗りの経験による勘(かん)で風を読んでいたのだろうが、外洋に出た大航海では地球規模の風の影響を受ける。
恒常風と季節風を読めなければ外洋の航海は成しえなかった。
まさに ​貿易風(赤道前後30度)はこの風を利用して帆船が海を渡ったことに由来するらしい。​
そもそも ​それら風は地球の自転に起因する。​
だから北半球と南半球では、極東風、偏西風、貿易風の風向は反転している。
下の図はオリジナルです。


図を補足するのが下です。
​北極​ ・・・・極渦(きょくうず・polar vortex)​
​極高圧帯​ーーーーーー​​
極東風(北東風) ・・・・高緯度地域や極地で東側から吹く​
       極高圧帯から亜寒帯低圧帯に向かって吹く東風
​亜寒帯低圧帯​
偏西風(南西風) ・・・・30度から65度の中緯度地域で西側から吹く​
       亜熱帯高圧帯から亜寒帯低圧帯に向かって吹く西風
​​ 亜熱帯高圧帯ーーーーー ​​
貿易風(北東風) ・・30度以下の低緯度地域で吹く​
       亜熱帯高圧帯から熱帯収束帯に向けて吹く風
​​ ​熱帯収束帯​
​赤道​ーーーーーーーーー​ ​​
熱帯収束帯
​貿易風(南東風)​
​​​亜熱帯高圧帯ーーーーー​ ​​
​偏西風(北西風)​
​亜寒帯低圧帯​
​極東風(南東風)​
​極高圧帯ーーーーーーー​
​​南極​ ・・・・極渦(きょくうず・polar vortex)​

地球が丸い事も自転している事も知らなかったのに、経験則から風を読み、潮の流れを読み、広い海洋に繰り出し遙かかなたの大陸まで辿り付いて世界を広げた彼ら、凄すぎる。びっくり

​​​​​
最後におまけ
フォールス湾シール島自然保護区(False Bay Seal Island Reserve)

湾に浮かぶ大きな石? 島? はケープオットセイ(Cape fur seals)のコロニーとなっている。

面積は5エーカー(2ha)。
64,000頭のケープオットセイが生息していてるらしい。

フォールス湾の近いビーチからでも5.7 km。船で向かい遠くから撮影。
接近して撮影できていないのと、デジカメの解像度が低かった時代の写真なので拡大ができません。






前回、「アジアと欧州を結ぶ交易路​ 16 イザベラ女王とコロンブス」の中、「エンリケ王子の資金源」で石鹸の製造販売権の独占と言うのを紹介した。
彼は王国内での石鹸の製造と販売の独占権を持っていたのだが、その材料がオリーブ油とアザラシ油脂だったと言う。
アザラシとオットセイは似ているからね。
まさかここから調達? しょんぼり
ボウルダーズ・ビーチ(Boulders Beach)は枚数が増えそうで今回入れられなかった。ぽっ
「アジアと欧州を結ぶ交易路」まだつづく

Back number
​リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路 22 太陽の沈まぬ国の攻防
リンク ​ 大航海時代の静物画
リンク ​ 焼物史​ ​土器から青磁まで
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路 21 東洋の白い金(磁器)
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路 20 パナマ運河(Panama Canal)
リンク ​ マゼラン隊の世界周航とオーサグラフ世界地図
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路 19 新大陸の文明とコンキスタドール(Conquistador)
リンク ​ コロンブスとアメリゴベスプッチの新世界(New world)
リンク ​ 新大陸の謎の文化 地上絵(geoglyphs)
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路 18 香辛料トレード(trade)の歴史
    アジアと欧州を結ぶ交易路​ 17  大航海時代の帆船とジェノバの商人
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 16 イザベラ女王とコロンブス
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 15 大航海時代の道を開いたポルトガル
​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​リンク ​ 海洋共和国番外 ガレー船(galley)と海賊と海戦
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 14 海洋共和国 3 法王庁海軍率いる共和国軍vsイスラム海賊
リンク  ​ 聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 13 海洋共和国 2 ヴェネツィア(Venezia)
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 12 海洋共和国 1(Ragusa & Genoa​​)
リンク ​
アジアと欧州を結ぶ交易路​ 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミック
リンク  ​ ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは)
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 9 帝政ローマの交易
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 8 市民権とローマ帝国の制海権
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 7 都市国家ローマ の成立ち+カンパニア地方
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 6 コインの登場と港湾都市エフェソス
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 5 ソグド人の交易路(Silk Road)​
リンク  ​ クムラン洞窟と死海文書 & マサダ要塞(要塞)
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 4 シナイ半島と聖書のパレスチナ
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 3 海のシルクロード
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 2 アレクサンドロス王とペルセポリス
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 1 砂漠のベドウィンと海のベドウィン
​​





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2024年10月18日 03時00分01秒
コメント(0) | コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: