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とりあえず載せましたが、後から修正すると思います。
前回の序章「大航海時代の静物画」の中で書いた通り、教皇勅書スブリミス・デウス(Sublimis Deu)の発令により1537年以降、大航海時代は欧州各国が参戦しての第二章? に突入する。
以前「パナマ地峡を陸路行くスペインのラバ隊を襲って金銀を強奪していたのが英国人のフランシス・ドレイク(Sir Francis Drake)(1543年頃~1596年)である。」とパナマ運河の冒頭で紹介した事がある。
※ リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 20 パナマ運河(Panama Canal)
もともと奴隷商人だったドレイクは海賊に転じ、1573年頃からスペインが国に運ぶ為の金品を強奪しては英国に運んでいた
。
※ 海上で強奪したのではなく、パナマ地峡移動中のラバ隊を襲っていた。
1577年12月、ガレオン船ゴールデン・ハインド号を旗艦とする艦隊5隻を率いてドレイクはイングランド(プリマス港)を出航。海賊航海に出る
。
この、航海には イングランド女王(エリザベス1世)自体が巨額の出資していた
為、1580年ドレイクが帰還(ゴールデン・ハインド号のみ帰還)すると ドレイクの運んだ金品の配当により、国の債務も清算できた上にその資金は後のイギリス東インド会社の設立にも貢献した
らしい。
ドレイクはイングランドに財を運んでくる男。その貢献でドレイクは叙勲した上に海軍提督にまで上りつめている。 イングランド
が国として海軍を強化するのは海賊ドレイクきっかけ
なのである。
加えると、海賊ドレイクがあまりに有名であるが、ドレイクの従兄弟ジョン・ホーキンス(John Hawkins)(1532年~1595年)も王室に貢献した元海賊で、元奴隷商人で海軍提督になった男。彼には政治手腕もあった。
後で詳しく紹介するが、この ドレイクの所業、イングランドの違法取引と海賊行為に対して、当然スペインは怒っていた
。そこにネーデルランド独立の話と制海権問題が起こり 1588年7月スペインは艦隊を派遣し英仏海峡で海戦が勃発
する。それがアルマダの海戦(Battle of Armada)である。
このアルマダの海戦(Battle of Armada)は
スペイン vs イングランド だけでなく
スペイン vs ネーデルランド の構図もある。
英仏海峡の対岸であるネーデルランド。
ここで先に説明しておきたい。
ネーデルランド(Nederland)はオランダ語でオランダを指す言葉。
日本人が使用する オランダ(Holanda)は「ポルトガル語」呼びなのである
。
以前、「出島」の話しの時に触れた事があるが、長崎の出島でポルトガルと交易し、後にオランダと交易に至った後も、交易の言語はポルトガル語が使用され続けていた。
その名残で、「ネーデルラン」と呼ぶより「オランダ」の方が日本では定着してしまったのだろう。
※ ウィキペディアでオランダと引けばネーデルランド(Nederland)で出てきます。
それ故、「オランダ」ではなく、本家の「ネーデルランド」の名称を使いたいところですが、「オランダ東インド会社」を「ネーデルランド東インド会社」とするのはちょっと問題もあるので、そこは「オランダ東インド会社」で記すのでご理解お願いします。
この頃、ネーデルランド(オランダ)は宗教戦争に加えて、スペインとの80年戦争のさなかにあった。
そんな中にありながらも、ネーデルランドはアジアへの航路を開拓してアジアに植民地進出を果たそうとしていた。
理由は、おそらくポルトガルと同じで、領土を広げるにも限りがあるので海洋進出しての植民地獲得を考えたのだろう。
ネーデルランド(オランダ)の船団4隻が、初めてジャワ島バンテンに来航したのは1596年6月
。
そして オランダ東インド会社(Verenigde Oost-Indische Compagnie)(VOC)の設立が1602年(~1799年)。
ネーデルランド(オランダ)はジャワに植民地会社「オランダ東インド会社」を開き成功を収めるのだが、ネーデルランドの盛況はジャワだけではない。同時期に新大陸のポルトガル領のブラジルにも進出していた。
ネーデルランドは交易のみならず、科学、軍事、芸術の分野もでも一躍トップに踊り出て、黄金時代を築く事になる
。(理由は後に)
このネーデルランド(オランダ)の成功はイングランドのみならずヨーロッパ中に衝撃を与えたらしい。
しかもネーデルランドのやり方は武力による奪取型。
※ ネーデルランド連邦共和国がスペインから独立を果たすのは1648年。
イングランドはネーデルランド(オランダ)に脅威したからこそ、慌てて 1600年にイギリス東インド会社( East India Company)(EIC)を設立
したと言われている。
もはやそこにはスペインに対する遠慮など一切無くなっていた。
今回は「太陽の沈まぬ国」と形容されたスペインの話と、ネーデルランド(オランダ)が台頭(たいとう)するまでの話となります。植民地会社「オランダ東インド会社」の話は次回にまわしました。
ネーデルランドの成功はオランダ黄金時代を生み出します。そこには、宗教戦争が大きく関係してくるので、話は複雑に展開していきます。
アジアと欧州を結ぶ交易路 22
太陽の沈まぬ国の攻防
海洋進出一章のおさらい
スペイン王によるポルトガルの併合 太陽の沈まぬ国
ポルトガル併合
太陽の沈まぬ国の真実
ポルトガルの衰退
アルマダの海戦(Battle of Armada) イングランドとの因縁
イングランド女王とスペイン王の結婚
アルマダの海戦(Battle of Armada)
アルマダの海戦からわかる事
スペイン・ハブスブルグ家とオーストリア・ハプスブルグ家
マドリード王宮(Palacio Real de Madrid)
スペイン(カトリック) vs ネーデルランド(プロテスタント)の戦い
プロテスタント側の武装蜂起で始まった80年戦争
プロテスタント信仰ができた訳
ネーデルランド(
オランダ
)黄金時代の始まり
モルッカ諸島(Moluccas)
ポルトガル(国家事業) vs ネーデルランド(株式会社)
ネーデルランドの台頭(たいとう)アジア進出
海洋進出 一章のおさらい
ポルトガルが先んじて始まった大航海時代の植民地争奪戦。
ポルトガルは航海路だけでなく、外洋の為の船も開発。あちこちで交易を開始。
ポルトガルが海洋に進出したのは1419年。
アフリカ大陸を南下しながら途中大西洋の諸島に植民地を開き、西アフリカでは金の入手もしていた。
さらに彼らはスパイス・ハーブを求めてアフリカ南端を通り、インド洋を越えアジアを目指す。
続いたのは隣国スペイン。しかし、その開きは70年。
共にイベリア半島の両国であるが、スペインは最後のイスラム王朝を追い出しレコンキス(Reconquista)を終了させたのは1492年。
※ イベリア半島の戦いであったが、スペインはポルトガルの介入を許さなかったから、逆に早くからポルトガルは外に目を向けられた。
それ故、スペインは自国の中だけで精一杯。お金もなかった。むしろ莫大な戦費の借金だけがあった。
スペインの海洋進出はコロンブスによる持ち込み企画から始まる。
しかも スペイン王室には一切お金はかからない。むしろその成功報酬と、彼らが見つけた土地はスペイン王室のものになると言う特権付き
。
※ 公式に海洋に出る為には国と言う後ろ盾が必要だった。
1492年~1493年 スペインからコロンブスは第一回航海に出航する。
結果、スペインは新大陸の一部に到着し、スペインは図らずも中南米に進出した。
しかしそこはコロンブスの目指したアジアではない。
彼らは次にポルトガルと被らないようさらに西に進む。
新大陸を越えて太平洋を越えて、ついにスペインはアジアに到達する術(すべ)を見つけた。
それが、フェルディナンド・マゼラン(Ferdinand Magellan)(1480年~1521年)による 南米南端を通過しての太平洋横断からのアジア到達
。 さらにインド洋を南下してアフリカ南端を回り欧州に戻る航海。
マゼラン隊による世界一周の成功
である。
※ 1521年3月、マゼラン隊のフィリピン到達。マゼラン自身はフィリピンで死去。
ところで、 スペインが雇った、これら航海の船長や乗組員は、たいていが元ポルトガルの経験者
であった。マゼランも同じ。
因みに、この頃、フランスやイングランドは自国の戦争のただ中で海洋進出どころではなかった。
フランスとイングランドの間は百年戦争 (Hundred Years' War)(1337年~1453年)があった。
次に百年戦争敗戦の責任問題からのイングランド王家の王権争いが始まる。
※ 薔薇戦争(Wars of the Roses)(1455年~1485年/1487年)
代わりにスペインはポルトガル領内であったフィリピンを手に入れて後年、太平洋横断航路「マニラ←→アカプルコ航路」を確立する事になる。
※ 1521年マゼラン隊は太平洋越えを果たすが、往路太平洋越えは1565年までできなかった。
※ 「マゼラン隊の世界周航とオーサグラフ世界地図」の中で「モルッカ諸島の利権を手放した件」について紹介しています。
リンク マゼラン隊の世界周航とオーサグラフ世界地図
ポルトガル併合
両者はうまく住み分けしていたが、 最終的にはスペインがポルトガルの全てを支配するに至る
のだ。
それは単純に 相続問題で起きた事件
であった。
フェリペ2世(Felipe II)(1527年~1598年)の父はスペイン王
、カルロス1世(ハプスブルグ家のカール5世)。
そして 母は元ポルトガル王女
イザベル・デ・ポルトゥガル(Isabel de Portugal)(1503年~1539年)であったから、 ポルトガル王家が断絶(1580年)するとフェリペ2世は王位継承権の正当性を無理くり主張し、
ポルトガル王に承認された。
スペイン王がポルトガル王としても即位 したのである。
Philip II in Armour(甲冑を着たフェリペ2世)
1551年 推定24歳。
画家 Tiziano(ティツィアーノ)(1490年~1576年)
※Tiziano(ティツィアーノ)は当時宮廷画家であった。
所蔵 Museo del Prado(プラド美術館)
以前、「西洋の甲冑 4 ハプスブルグ家の甲冑」の所でフェリペ2世のマネキンが彼の特注の甲冑(かっちゅう)を着ている写真を公開しています。
リンク 西洋の甲冑 4 ハプスブルグ家の甲冑
フェリペ2世(Felipe II)(在位:1556年~1598年)としてスペイン王に即位。
フィリペ1世(Felipe I)(在位:1581年3月~1598年9月)としてポルトガル王に即位。
※ 海賊ドレイクが南米のスペインを襲っていたのがフェリペ2世の時代
である。
これにより、ポルトガルが所有していた領有権もろとも、スペイン王の元に管理される。
世界を二分していた国が一つになった
のだ。
欧州圏(イベリア半島の支配)のみならず、スペインはポルガルが植民地にしていたアフリカの西南諸島や南米ブラジル。またインド、東南アジア(モルッカ)含めてアジア圏の全てを掌握
。
※ スペイン自体はすでにブラジルを除く中米から南米を支配していた。
※ リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 19 新大陸の文明とコンキスタドール(Conquistador)
Philip II at the Battle of St. Quentin(サン・カンタンの戦いのフェリペ 2世) 部分
1560年 推定33歳
画家 Antonis Mor (1519年~1575年)
所蔵 サン ロレンソ デ エル エスコリアル王立修道院(Royal Monastery of San Lorenzo de El Escorial)
ウイキメディアから借りました。
1557年、欧州の覇権(はけん)をフランスと争いフランス北部のサン=カンタン(Saint-Quentin)で衝突し勝利
。
戦死者の為に1563年にマドリッド近郊にエル・エスコリアル修道院を建設。この絵画はそこの所蔵品。
絵画では凛々しい姿であるが、フェリペ2世は各地に福王を置いて代理させて統治。
1561年、フェリペ2世は宮廷をマドリードに移動はしたが、自身はエル・エスコリアル修道院隣接の宮殿に居住し、政務に専念。そこで亡くなっている。棺もそこにある。
ここは王家の霊廟であり、彼の父カール5世の棺もここに安置されている。
エル・エスコリアル修道院の空撮です。ウイキメディアから借りました。
教会を囲み修道院があり、王室の宮殿もそれに付随して建築されているようです。
残念ながら行ってませんでした。
太陽の沈まぬ国の真実
世界に植民地を持った スペインの繁栄ぶりを形容する言葉
が生まれている。
太陽の沈まぬ国(the empire on which the sun never sets)。
意味は、領有する土地(欧州、アメリカ大陸。アジア圏)のいずれかは必ず太陽が出ている。と言う事。
太陽=昼間=経済活動の時間であるから「繁栄」を示す褒め言葉?
である。
しかし、以前「アジアと欧州を結ぶ交易路 17 大航海時代の帆船とジェノバの商人」の所「ジェノバ人の報酬」で書いたが、
1530年以後、8000万ドゥカード(ducato)(金283.6トン?)の金銀がスペイン船によりアメリカ大陸から欧州に運ばれた
が、全てがスペインのもうけになったわけではなく、 1530年~1595年までの間、その30% (2400万ドゥカード)がジェノバ人の取り分なっていた
とヴェネツィア駐在のスペイン大使が報告(1595年)している。
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 17 大航海時代の帆船とジェノバの商人
スペイン最盛期はこのフェリペ2世の時代に収まっている。
スペインの盛況ぶりは誰が見てもあきらか
。実際相当な収益はあったはずである。
が、 フェリペ2世は1556年の即位時、同時に莫大な借金も相続していた
らしいのだ。
スペイン王室はそもそもお金が無かった。
長く続いた レコンキスタのツケ
もあったし、前王からの借金。(カール5世が神聖ローマ皇帝に即位する為にかなりのお金をばらまいたらしい。)
※ 神聖ローマ皇帝は、(一応)選帝侯らによる選挙で選出されていたからだ。
また 自国の海軍構築の為の経費と、維持費が莫大な金額
になっていく。
所領も広がれば、護衛の為の艦船も増大する。
※ スペイン海軍は アンドレア・ドーリア(Andrea Doria)(1466年~1560年)の元で力を付け、
一気に急成長。レパントの海戦 (Battle of Lepanto)(1571年10月)ではローマ教皇に言われてしぶしぶ参戦し、艦船 72隻を出して
勝利に貢献はしている。
※ リンク 海洋共和国番外 ガレー船(galley)と海賊と海戦
また、 戦闘に出て艦船が損害を受ければ艦船の補修や造船にもお金はかかる
。
だから アルマダの海戦(1588年)の敗北と帰還途上の嵐による艦船の損害は大きかったろう
。スペイン本国に戻れた船は約半分の67隻。つまり67隻相当の船の建造が後に必要になったのだから・・。
ポルトガルの衰退
スパイス・ハーブの独占と思われていたが、もともとアジア人やイスラム商人が買い上げていた事もあり、マラッカ支配も思うほどに収益が無かった?
商人らのマラッカ離れも起き始め、また ネーデルランド(オランダ)の進出で、1600年代に入るとポルトガル領のほとんどが持って行かれる事になる
。
スペインの艦隊が取り戻した場所もあったらしいが・・。
日本でも、 江戸幕府に取入りポルトガルから出島を奪っているが、新大陸アメリカに有するブラジルもネーデルランド(オランダ)に狙われ、奪われ始めていた。
最終的に、60年間スペイン支配の元にあったが、1640年、ポルトガルは反乱を起こしてスペインから独立を回復。が、かつてのポルトガル領はほとんど無くなっていた。
要するに、 フェリペ2世(Felipe II)(1527年~1598年)(在位:1556年~1598年)の時代は、スペイン帝国の最盛期であるが、同時に世界も大きく動いた激動の時代
でもあった。
あっちもこっちも事件で大変だったのだろうな。神聖ローマ皇帝の宝冠どころではなかったのかも。
アルマダの海戦(Battle of Armada) イングランドとの因縁
1588年7月~8月に英仏海峡で行われたスペインvsイングランド&ネーデルランド連邦共和国の戦い。
冒頭触れた、ネーデルランド独立問題と、イングランドの海賊行為、また制海権問題もからみ、スペインが怒って始まった戦いである。
フェリペ2世はカトリックに対する信仰が非常に強い王
。国の統一もカトリックを持って統治を図っている。当然、 新教のイングランドやプロテスタント化したネーデルランドを許せなかった。と言うのも戦争の要因にはあったであろう。
が、それにしてもこの両者の戦いは青天の霹靂(せいてんのへきれき)だ。
そもそもイングランドはずっとスペインに気を使ってきた経緯があった。
コロンブスの発見以降、他国が新大陸アメリカに近づく事も許されなかったから王室としては手を出せなかった
? いや、外洋に出る気持ちも以前は全く無かったと思われる。
イングランド女王とスペイン王の結婚
そもそも父カール5世までは共にフランスと戦うなど仲は悪くはなかった。
イングランドも戦争のつけでお金がなかった事もあるが、少なくともメアリー1世女王の時までは良好であった。
1554年7月、フェリペ2世
(1527年~1598年)
は11歳年上のイングランド女王であるメアリー1世(Mary I of England)(1516年~1558年)(在位:1553年~1558年)と結婚し、一時は共同王としてのイングランド王位が与えられた時期もあった
からだ。
※ メアリー女王は終生カトリック信者であった。イギリス国教会にしたのは父(ヘンリー8世)の離婚が要因のカトリック破門。彼女自身はカトリックに戻したかった。
フェリペ2世は1556年にスペイン王として即位する為にスペインに帰国。1年半後にイングランドに戻るも、3か月の滞在でスペインに帰国。
メアリー懐妊か?との期待はまさかの卵巣腫瘍の発症と言う不幸。メアリーは子を残さず、1558年に亡くなった。
結婚生活4年。
妻メアリー女王の次にイングランドを継いだのが異母姉妹のエリザベス1世(Elizabeth I)
(1533年~1603年)(在位:1558年~1603年)である。
彼女はカトリックではなかった。そもそも彼女の母と王の結婚でカトリックから破門になっている。
フェリペ2世はイングランドに海賊の取り締まりを願い出ていたが、女王自身が加担していた事実も判明。
先に触れたが、この イングランド女王(エリザベス1世)自体が海賊ドレイクに大口出資していた
のだ。
また、エリザベス1世はプロテスタントのネーデルランド(オランダ)の反乱を支援した事もあり、ネーデルランドも加わっての構図になった。
スペインとイングランドの関係が崩れたのはエリザベス1世女王からなのである。
アルマダの海戦(Battle of Armada)
(1588年7月~8月)
海戦の話に戻ると、 この海戦自体はスペインが負けた。
問題となるイングランドとネーデルランドに挟まれた 英仏海峡で行われた海戦は、当然スペインが不利
である。しかも、 軍船の数でもイングランドとネーデルランドの方が勝っていた
。
イングランド&ネーデルランド連邦共和国 側戦力
軍艦34隻・武装商船163隻(200トン以上30隻)・快速船 (en) 30隻
スペインの側戦力
軍艦28隻・武装商船102隻
The Spanish Armada off the English Coast(イギリス海岸沖のスペイン無敵艦隊) 1588年
ウィキメディアから借りました。
画家 コルネリス・クラースゾーン・ファン・ウィーリンゲン(Cornelis Claesz van Wieringen)(生年不詳~1633年)
※艦船や海戦の絵を得意とするオランダ黄金時代の画家。
所蔵 アムステルダム国立美術館(Rijksmuseum Amsterdam)
スペイン無敵艦隊が負けた戦いと言われるが、近海のイングランドとネーデルランドが有利なのはどう見ても明らか。
実際、 アルマダの海戦でスペインは負けるが、その後再び制海権を取り戻し、全体的には1604年、スペインに軍配があがりイングランドに勝利している。
サシでまともに戦えばスペイン艦隊の力はまだ大きかったと言う事だ。
アルマダの海戦からわかる事
冒頭に触れた
1537年の教皇勅書スブリミス・デウス(Sublimis Deu)の発令。
※ カール5世(スペイン王在位:1516年~1556年)の在位中。
これを契機に イングランドもフランスも、各国がすきをついて新大陸やアジアの市場に参入し、スペインやポルトガルの植民地が脅かされ始めて行く事になる。
崩壊はカール5世の代から始まっていた
。
息子フェリペ2世の代でポルトガルが併合(1581年)され領土は世界最大規模になるが、 広範囲に領地を持ったスペイン(ポルトガル)の戦いは領地を広げるよりも防衛に費やされる事になる。
実際、
スペインが欧州本土の80年戦争やフランス軍とのサン・カンタンの戦いなどで忙殺されている間に
、ネーデルランドは密かに新大陸アメリカやアジアを目指し、ポルトガル領のブラジルの乗っ取りを開始していた
。
ポルトガル人の根拠地にネーデルランドは直接攻撃をかけての強奪である
。
自国で新地を開拓と言うわけではなかったらしい。
それ故、ピルグリム・ファーザーズによる1620年のメイフラワー号(Mayflower)での新天地アメリカへ移民。それは純粋なアメリカへの植民として賛美されているが、それはかなりまれな行動だったようだ。
つまり、1537年以降、 スペイン・ポルトガルの敵は一つではなく、全ての国が敵になった
。
特に カトリック以外の国。新教を国教とするプロテスタントやイギリス国教会はローマ教皇の力が届かないからやりたい放題
。手段に手加減はなかった。全員虐殺の場合も・・。
軍船も兵士も足り無い? 軍費は増大するのも当然。
フランドル沖1602年 制作1617年
ウィキメディアから借りました
画家 ヘンドリック・コルネリス・ヴルーム(Hendrick Cornelisz Vroom)(1562年頃~1640年)
※ オランダ海洋美術または海景画の創始者と言われるオランダ黄金時代の画家。
所蔵 アムステルダム国立美術館(Rijksmuseum Amsterdam)
80年戦争中の絵画。
公式のタイトルでは、1602年、フランドル沖でオランダ船がスペインのガレー船に衝突となっているが・・。
場所は英仏海峡。対岸はネーデルランド(オランダ)。
スペイン船の姿は見えない。
中心のガレオン船がネーデルランド(オランダ)の国旗となっている
。
また手前の沈没しかかっている初期型のガレー船はスペインのではない。
ガレー船は近海用
なのでスペインの船が外洋航海でこんなところまで来れない。手前2隻もネーデルランドの船。つまり見えているのまは全てネーデルランドの船。
そもそもこんな海戦に初期型のガレーが出る事自体が無謀。もし本当に居たとするなら、人海戦術の特攻作戦だったのかな?
下の絵画は以前一度紹介したものですが、80年戦争中盤頃のスペイン船です。
スペインのガレオン船(Galleon)の軍船の絵画(部分)
描かれた年代は1618〜1620年
オランダとの海戦中の絵画 (部分)
で、下がオランダ船
タイトル オランダとスペイン軍艦の遭遇(A Naval Encounter between Dutch and Spanish Warships) 1618〜1620年
画家 Cornelis Verbeeck (1585or1591年~1637年頃)
原画 米国ワシントンD.C.の国立美術館(The National Gallery of Art) 出展(ウィキメディアから)
マドリード王宮(Palacio Real de Madrid)
フェリペ2世は1561年に宮廷をトレドからマドリードに遷都。
計画は16世紀にありながら、着工は19世紀。スペイン内戦(1936年~1939年)の間中断し、完成は1993年。
ゴシック・リヴァイヴァル建築で設計されている。
1566年、ネーデルランド全土のカトリックの教会がプロテスタントの暴徒に襲われ、聖像など破壊されると言う大事件が勃発。
カトリック信仰の強いフェリペ2世は激怒した事だろう。
この教会破壊によって、偉大な聖人の遺物や聖人の墓なども消えた。巻き添えで破壊された教会の墓も多数。
以前紹介したが、ゲントではドミニコ会修道院がプロテスタントの襲撃にあい、所有する聖書や本など手書きの貴重な蔵書30000冊が川に投げ捨てられたと言う。
暴徒となったプロテスタントの破壊行為は今考えれば歴史の大損失をおこしたと言える事件
です。
1568年、フェリペ2世は暴動の鎮圧に一万の軍を出し、暴動の首謀者? ネーデルランドの貴族20人余りを処刑した。
プロテスタント側からすると、処刑されたのは彼らの英雄。
この事件が、80年に及ぶスペインからの独立戦争に発展する
。
つまり、80年戦争(1568年~(休戦1609年~1621年)~1648年)は ネーデルランドのスペインからの独立戦争となり、そもそもが宗教的摩擦が大きな要因で始まったのである。
それは、さかのぼれば、マルティン・ルター(Martin Luther)(1483年~1546年)の 宗教改革が、特に北部フランドルに浸透してプロテスタント人口が増えた事があげられる
。
因みに、ドイツに逃れて無事だった オラニエ公ウィレム(Willem I)(1533年~1584年)(1544年家督相続)が以降中心となってネーデルランドの独立戦争は進んでいく。
※ ルターの聖書の話は「クラナッハ(Cranach)の裸婦 1 (事業家クラナッハ)」で書いてます。
リンク クラナッハ(Cranach)の裸婦 1 (事業家クラナッハ)
※ ルターが怒った聖異物崇敬や贖宥状(免罪符)などは以下に書いてます。
リンク デルフト(Delft) 4 (新教会とオラニエ公家の墓所と聖遺物の話)
※ 贖宥状(免罪符)の真実を以下に書いてます。
リンク アウグスブルク 6 フッゲライ 2 免罪符とフッガー家
※ オラニエ公の話と日本がプロテスタントの国と交易を始めた理由(出島問題)を書いてます。
リンク デルフト(Delft) 7 プリンセンホフ博物館と 番外、出島問題(中世日本の交易)
因みに、こうした事件の結果? オランダ、ベルギーなどプロテスタントが多勢の地域の教会は殺風景。本当に何も装飾が無い所がほとんどです。それ故、教会に行った所で箱だけ。感動はほぼ無い。
付け加えるなら、ルター否定の カトリックの煌(きら)びやかな装飾は神の世界を表現
している。信者に(天国を)体現してもらいたいと言う理由も込められている。
また、例え器は質素でも、偉大な聖人のお骨があり、ご加護がもらえる。と言うのもカトリック教会の売りではあった。
教会は大も小も自身の教会に信者に来てもらいたかった。お布施が欲しかった。と言うのが本音です。
それはヴァチカンも同じ。教会の維持費や建て替え資金などお金はいくらでも欲しかったからだ。
もし、贖宥状(免罪符)などと言う詐欺まがいのお札(ふだ)を発行してまでお金を集め無ければ、プロテスタントは生まれなかったかもしれない。
オランダ東インド会社は利益を求めた。
時に原住民を皆殺しにする。と言う過激な手法も使っている
し、政権争いしている王族らに介入して利権を得たりもしている。
1623年、アンボイナ事件が勃発。オランダ東インド会社は利権を得る為にイギリス東インド会社のイギリス商館の職員を全員殺害してイギリスをインドネシアから追い払っている。
オランダ東インド会社はかなりあこぎな事して成功を収めているのだった。
この一件からイギリスは東南アジアから撤退しインドに専念する。
以下はネーデルランド(オランダ)に取られていった場所。
1602年、香料諸島南方のバンダ(Banda)
1603年、ジャワ島のバンタム(Bantam)
1603年、マレー半島のジョホール(Johore)
1605年、香料諸島南方のアンボイナ(Amboina)
1609年、ジャワ島のバァタビア(Batavia)(ジャガトラ)
1612年、香料諸島南方のティモール(Timor)
1635年、ボルネオ島のバンジェルマシン(Banjermasin)
1641年、マレー半島のマラッカ(MalAcca)
1659年、スマトラ島のパレンバン(Palembang)
1664年、スマトラ島のパダン(Padang)
ポルトガルは原住民と独占商売をしたかっただけ。
一方、後から参入したネーデルランド(オランダ)は、原住民を皆殺しにしても全部奪いたかった?
生き残った原住民は奴隷のようにプランテーションで働かされている。
Model ship William Rex(ウィリアム レックス船の模型) 1698年
サイズ 510cm x 464cm x 225cm
オランダ海洋博物館(Het Scheepvaart Museum)
オランダ(Dutch Republic)の強さは艦隊にあったと言う。
強い海軍を誇示する為にこの全長5mに及ぶ船の精密な模型がゼーラント海軍本部の為に展示品として造られた
らしい。
オランダ海洋博物館(Het Scheepvaart Museum)は、1657年に海軍補給庁として建設された建物を改装してできた博物館。
オランダ東インド会社については次回に・・。
また、「黄金時代」と呼ばれたのは交易の事だけではありません。冒頭触れた「科学、軍事、芸術の分野もでも一躍トップに・・。」の理由入れ忘れました。次回にいれます。
Back number
アジアと欧州を結ぶ交易路 22
太陽の沈まぬ国の攻防
リンク 大航海時代の静物画
リンク 焼物史 土器から青磁まで
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 21 東洋の白い金(磁器)
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 20 パナマ運河(Panama Canal)
リンク マゼラン隊の世界周航とオーサグラフ世界地図
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 19 新大陸の文明とコンキスタドール(Conquistador)
リンク コロンブスとアメリゴベスプッチの新世界(New world)
リンク 新大陸の謎の文化 地上絵(geoglyphs)
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 18 香辛料トレード(trade)の歴史
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 17 大航海時代の帆船とジェノバの商人
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 16 イザベラ女王とコロンブス
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 15 大航海時代の道を開いたポルトガル
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海洋共和国番外 ガレー船(galley)と海賊と海戦
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 14 海洋共和国 3 法王庁海軍率いる共和国軍vsイスラム海賊
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聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 13 海洋共和国 2 ヴェネツィア(Venezia)
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 12 海洋共和国 1(Ragusa & Genoa)
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アジアと欧州を結ぶ交易路 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミック
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ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは)
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 9 帝政ローマの交易
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 8 市民権とローマ帝国の制海権
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 7 都市国家ローマ の成立ち+カンパニア地方
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 6 コインの登場と港湾都市エフェソス
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 5 ソグド人の交易路(Silk Road)
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クムラン洞窟と死海文書 & マサダ要塞(要塞)
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 4 シナイ半島と聖書のパレスチナ
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 3 海のシルクロード
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 2 アレクサンドロス王とペルセポリス
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 1 砂漠のベドウィンと海のベドウィン
アジアと欧州を結ぶ交易路 23 新教(プロテ… 2024年11月24日
アジアと欧州を結ぶ交易路 20 パナマ運河… 2023年04月24日
マゼラン隊の世界周航とオーサグラフ世界… 2023年03月21日