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アジアと欧州を結ぶ交易路 13 海洋共和国 2 ヴェネツィア(Venezia)
ヴェネツィア(Venezia)と東ローマ(ビザンツ)帝国
キリスト教国の逆襲、十字軍(crusade)
そもそも十字軍の公式部隊とは何か?
果てしなく遠い聖地
十字軍効果の経済
第2回目の十字軍(second Crusade)
ヴェネツィア(Venezia)の街
ヴェネツィア(Venezia)の成り立ち
海との結婚とブチェンタウロ(Bucintoroto)
海の税関ドガーナ・ダ・マーレ(Dogana da Mar)
ヴェネツィアのパノラマ
ヴェネツィア(Venezia)と東ローマ(ビザンツ)帝国
前回 ジェノバが第1回目の十字軍遠征(First Crusade)の時に大きく貢献してローマ教皇やエルサレム王国に恩を売り利権を得た事は紹介
。実はヴェネツィアも東ローマ(ビザンツ)帝国との間に同じような事情があったらしい。
以前「モンサンミッシェル 3 インド・ヨーロッパ語族のノルマン人」の所で「イタリア半島を南下したノルマンの一派数十人がイスラム教徒に戦いを挑み南イタリアとシチリア島の奪還に成功している。」と紹介した事があるが、彼らノルマン人(Norman)はさらにその勢力を伸ばしコンスタンティノポリスにまで及ぼうとしていたらしい。
リンク モンサンミッシェル 3 インド・ヨーロッパ語族のノルマン人
それを脅威に思った 東ローマ(ビザンツ)帝国の皇帝の依頼でヴェネツィアが帝都とアドリア海の防衛をまかされ活躍
している(First Crusade以前)。
※ 1080年~1085年、アドリア海上でルマン人と海戦もしている。
これにより ヴェネツィアはエーゲ海や地中海の港での税の免除と言う特権が
東ローマ(ビザンツ)帝国より
与えられ、また帝都コンスタンティノポリスの一等地に居住地をもらい店や倉庫、専用の港も与えられ、アマルフィよりも優位な待遇を受ける事になる。ヴェネツィアはこの時点でエジプトとの貿易も拡大している
。(First Crusade以前)
ところで、 First Crusade(1096年~1099年)へのヴェネツィアの参戦は1099年の陥落後
らしい。いろいろ戦略あっての事? いや、 そもそも東ローマ(ビザンツ)帝国側は、ローマ教皇率いる神聖ローマ帝国側がまさかエルサレムを襲撃するとは考えていなかった
からだろう。
当初、東ローマ(ビザンツ)帝国皇帝アレクシウス2世が望んだのは、1071年の戦いでセルジューク朝トルコに奪われた土地を取り返す為に軍隊の派遣を要請しただけだったからだ。
それ故、「 何でこんな事に?」西側の行為に彼らは非常に横転した
のである。
ヴェネツィアが出遅れた理由はまさにそこだったと思われる。それでも開戦してしまった以上のらなければ損。エルサレ王ボードゥアン1世(Baudouin I)(1065年頃~1118年)に相当の恩を売ったのではないか? と思われる。 ジェノバより遅れたが同じウトラメールの諸港への利権を与えられている
からだ。
まさに「我が世の春」的な ヴェネツィアの快進撃がこれより始まる。それもこれも東ローマ(ビザンツ)帝国との蜜月があっての事
。
だから1202年の第4回十字軍(4th Crusade)? の時のヴェネツィアの蛮行は青天の霹靂(せいてんのへきれき)である。 (*꒪⌓꒪)
唖然
ヴェネツィアは十字軍と共に東ローマ(ビザンツ)帝国に侵攻して1204年、コンスタンティノポリスを陥落。 自らラテン帝国を樹立
する。
ヴェネツィアの狙いは当初から東方の富を象徴する都の航路と貿易
でありマルマラ
海
(Marmara Sea)
の制海権は元よりエーゲ海
(Aegean Sea)
や黒海
(Black Sea)
の制海権全てを握る事に成功した。
キリスト教国の逆襲、十字軍(crusade)
ラテン語: cruciata、仏語:croisade、英語: crusade
※ 十字軍に参加していた者はフランス人が多く彼ら十字軍国家が公用語にしていたのがフランス語。
第一次十字軍(The First Crusade)1096年~1099年。聖地エルサレム奪還の為の西欧の軍隊の出動。
ジェノバは自国の売りであるガレー船で向かったが、 First Crusadeの場合、陸路でエルサレムを目指した部隊の方が大多数である。
※ コンスタンティノポリスまで 内陸の北方ルートでは3.5~4ヶ月。南方の船を含むルートでは7~8ヶ月かかっている
。
公式部隊は、1096年8月から順次故郷を出発。有力諸侯は パリからルイ王の弟、ロレーヌからはロレーヌ侯、プロバンスからはレイモン伯、ノルマンディーからロベール公など。さらにイタリアのノルマン人
らが参加。
道中は盗賊もいたし、イスラムの侵略地もあり、彼らは戦いながら前進。コンスタンティノポリスに全ての隊が集結したのは翌年1097年1~5月頃。
※ その先はさらにかかっている。
そもそも十字軍の公式部隊とは何か?
ローマ教皇は西ヨーロッパのキリスト教圏の諸侯全体に聖地奪還の為の部隊を出してほしいとお願いをした。
※ 本来の東ローマ(ビザンツ)帝国皇帝のお願いはそんな話しではなかったのだが・・。
教皇が望んだ戦士は、まず大国の王による正式な戦士による部隊である。
王が参加できない場合は、代理となる近しい臣下や騎士を伴う諸侯による軍隊を指していた。
そう言う者らは教皇に「私が行きます。」と正式な書状が出されているはず。
つまり正式にローマ教会からの発令と受理があったか? がポイントだろう。
むろん諸侯が地元の者を戦士として募って正式に領主から参加許可が出された者はましな方。
First Crusadeではおよそ騎士4200人~4500人。歩兵3万人
とされるが、実際は、貧しさ故にどさくさで土地を離れたい者らが行列の後ろにまじっていた? 戦士になるどころかお荷物の者のが多い部隊もあったので彼らを守る為に隊の進軍は遅れていく。本末転倒。 実際の戦力は1/6程度?
※ 戦士以外に調理人や聖職者なども隊にはいた。最初から戦力外は当然いたが・・。
いらない者が付きすぎて足手まといだったのが真実。 実際聖地まで辿りついたのは数%
だったと言う。
本来は免罪のキップを手にする為の参加ではなかったか? たいていの者は一攫千金をねらって部隊に入った? それは彼ら諸侯らも同じだった。彼ら諸侯がこれから樹立するウトラメール(十字軍国家)の主になるのだから・・。
※ 少年十字軍。自発的に十字軍に参加したいと、大人に騙(だま)され人買いに売られてしまったのもいた。
果てしなく遠い聖地
陸路で中東のエルサレムを目指す。今、地図で見てもそれは容易な距離ではない。国によってはなおさらだ。ほとんどの者はそれがどこにあるかさえ知らなかったであろうし、簡単に行って帰ってこれると参加した者のが多かったろう。
当然だが、 陸路組はその道が過酷で命を落とす者の方が多かった
のだ。
そんな中でも初心を忘れずに真に信仰の元に動いたのがロレーヌ出身のゴドフロワ・ド・ブイヨン(Godefroy de Bouillon)らである。
彼は聖地を取り戻す為に前進しようと皆を鼓舞したが、有力な騎士である仲閒は自分が獲得した土地を守る為に聖地へ行くのをこばんでいる。だから聖地に近づくにつれて隊の人数は減って行くのである。
First Crusadeでは聖地に至るまでのがとても難しかった
のだ。
だから聖地近くから突然船で参戦したジェノバは、精神的には楽勝であったはず。
しかし、先に書いたが海ルートで7~8ヶ月。ガレー船は風まかせと基本手こぎだしね。
十字軍効果の経済
ジェノバは十字軍の騎士らが建国した4つの植民都市。
ウトラメール(Outremer)の主要港
に接岸する権利と同時に商取引の権利を得ていく。
※ またこれから陥落させて増える十字軍の港もそれにあたる。
もともと農作物の採れる場所ではないので、食糧は、ほぼほぼ西欧からの輸入に頼るしかなかったので 彼ら商人は4つの王国に食糧他、生活物資も当然運んだが、武器、武具だって大量に運んだ 。船の納品だってあったはず。商機はいくらでも転がっていた。今後は 聖地詣でをする巡礼者らを大量に運んで行く 事にもなる。
ところで、First Crusadeで活躍した戦士のほとんどは任務を終え、故郷に帰ってしまった。
後続の軍隊や巡礼者のほとんどは、十字軍らが切り開いたパレスチナの港へ船で到着するようになるのだが、 パレスチナへ接岸する航路をもっていたのはジェノバやヴェネツィアの他、ピサ、アマルフィ、アンコーナなどの一部 海洋共和国である。
だから聖地に向かう戦士や巡礼者はまず、欧州でそれらの国の港をめざしたのである
。
本国の共和国の街は人が増えてどこも経済は大きく動いたはず。
だが、ヴェネツィアはこの時すでにもっと先の商売に目をむけていた? 軍事特需の向こうに東洋を見ていた? ヴェネツィアは商売に対して純粋に貪欲だったのかもしれない。
船賃も恐ろしく高額であったろうと思うが、巡礼者の数は以外に多かったのだろうと想像する。今もそうであるが、巡礼者をあなどってはいけない。信仰の為なら命もお金も惜しくはなかった人達だ。
11世紀に海洋共和国の経済が好景気を迎えたのも道理
である。大量の民族の移動が起きていたのだから・・。
それに テンプル騎士団は彼ら巡礼者を守る為のボランティアから誕生している。
リンク 騎士修道会 1 (テンプル(神殿) 騎士修道会)
第2回目の十字軍(second Crusade)
1144年12月
、最初に得た最も大きい エデッサ伯領の陥落
を受けたからだ。
キリスト教国は激しく同様。当然そこにはローマ教皇の要請が再び出たであろう。
が、それよりもインパクトがあったのが クレルヴォーの修道士
ベルナール(Bernardus)(1090年~1153年)による「再度聖地へ」と言う十字軍勧誘の演説が各地で行われた
事だ。
※ シトー会出身のベルナールは後に聖人認定されて聖ベルナールとなる。また彼はテンプル騎士団設立に強く貢献している。テンプル騎士の白装束はシトー会の衣なのである。
※ 教皇庁の聖人の認定について書いています。
リンク 聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂
福者については「ミラノ(Milano) 8 (ミラノ大聖堂 6 福者)」で列福者を紹介しています。
リンク ミラノ(Milano) 8 (ミラノ大聖堂 6 福者)
この歴史的にも有名な演説効果は大きく、実際ものすごい数の戦士も集まったが、肝心のsecond Crusade自体はことごとく途中の経路で失敗して終わっている。
当然であるが、 負け戦が始まり、聖地から十字軍兵士等が追い出されれば、聖地での需要は減る。共和国側の特需も激減して行く
事になる。
ヴェネツィア(Venezia)の街
大運河(キャナル・グランデ)入り口 右岸 サンマルコ広場側
ここが 共和国時代のヴェネツィアの表玄関
である。
左 サンマルコの 鐘楼(Campanile di San Marco) 右 ドゥカーレ宮殿(Palazzo Ducale)
下 ドゥカーレ宮殿(Palazzo Ducale)の後方に連なっているのがサン・マルコ寺院 (Basilica di San Marco) 見えているのは堂の右側面
上下共にドゥカーレ宮殿の回廊から
ヴェネツィア生まれの景観画家 カナレット(Canaletto)(1697年~1768年)
Piazza San Marco verso la Basilica 1735年
※ 海は尖塔の右方面。尖塔の後方にドゥカーレ宮殿(Palazzo Ducale)が見切れている。
広場前にはエジプト産の花崗岩の円柱が立ち、その上にはヴェネツィアの守護聖人が乗っている
広場の名前にもなっているサンマルコ(Piazza San Marco)とはこの街の守護聖人、福音記者マルコ(San Marco Evangelista)であり、円柱の上にのっている有翼の獅子は聖マルコのアトリビュート(attribute)。
すなわち象徴である。これを持ってヴェネツィアの街は聖マルコの加護の元にあると言う事を示している。
海からの写真が無いので広場側から
ヴェネツィアはとにかく教会が多い。そしてたいていの教会には名画がかけられていたりする。ヴェネツィア派と呼ばれる著名な画家が多くこの街から誕生しているからね。
こちらにはルネサンス期のヴェネツィア派を代表する画家の1人、ティントレット(Tintoretto)(1518年~1594年)「最後の晩餐」,「マナの天降」があるそうだ。昔見に行ってると思うが記憶にないな。
ヴェネツィア(Venezia)の成り立ち
ヴェネツィア(Venezia)はアドリア海の北に位置するヴェネタ潟(Laguna Veneta)と呼ばれる潟(かた)の中にある
。
アルプス山脈を分水嶺としてロンバルディア平原を通りアドリア海に注ぐポー川(Po River)が土砂を運びデルタ(Delta)を形成。それは潮流とぶつかり徐々に潟(かた)が形成。
最後の氷河期が終わった6000年ほど前から水位が上がり閉じられた要塞のような潟(かた)を形成した。
こうしたデルタの潟(かた)はどこの都市にもあった。
通常なら潟(かた)自体を埋め立ててしまうものだが、ヴェネツィアでは歴史がそれを許さなかった?
水の都と呼ばれるヴェネツィアの街を維持する事に努力がされてきた
ようだ。
それは最盛期のヴェネツィアの繁栄に欠かせない要素であったと同時にその栄光の歴史を留めておきたかったからだろう。
※ 現在は観光と言う目的が一番だろうが・・。
ヴェネタ潟の衛星画像 ウィキメディアからかりました。
潟(かた)の中に点在する島々。118の小さな島々からなっている。
本土から4km。海から2kmの潟(かた)の島? 標高わずか2mのヴェネツィア(Venezia)の街がある
。
それは一応ヴェネト州(Veneto)の州都となっている。
下のピンクがヴェネツィア(Venezia)の街と呼ばれる部分。
ヴェネツィア(Venezia)の街は100の島、100を越える運河。400を越える橋でつなぎ止められてできている。
それも、そもそもはわずかな砂州に丸太の杭を打って底上げしてできた張りぼての土台だ。
位置的には西ローマ帝国の領域。 ローマ時代には潟(かた)の近くにはローマ人の集落がありローマ貴族のヴィラ(別荘)が華麗に連なっていたと言う
。
※ 実際ラグーナ(トルチェッロ島近くの水中)から古代ローマ時代のヴィラの遺跡が発見されている。ローマ時代は今よりも水位も低かったらしい。
ゲルマン民族の諸部族のローマ侵略が始まると、ここはローマ市民の避難所となって行ったと言う。
476年、西ローマ帝国が解体されここは東ローマ(ビザンツ)帝国の属州扱いになっていた?
568年頃、ローマ帝国自体の力が衰えはじめるとスカンディナヴィア半島を源郷とするゲルマン人のロンゴバルド(Longobardi)らが南下しヴェネツィア自体の侵略が始まる
。
※ ロンゴバルド(Longobardi)は、インド・ヨーロッパ語族(Indo‐European languages)ゲルマン語派(Germanic languages)の民族。いわゆる「蛮族」と呼ばれた人達です。
元の住人であるローマ人? らは 侵略者からのがれるべく潟(かた)や中の島に逃げた。
ラグーナまで侵略される事はなかったので、 彼らは先のように丸太で基礎を造り石灰でかためレンガを積み上げてそのままそこに住みついた。それはまるで海鳥の巣のようだったらしい。
車内からの写真なので綺麗ではありませんが潟(かた)の一部です。
こんな所に丸太で基礎を打ったのでしょう。
トルチェッロ島 (Torcello)は潟(かた)の中でも人が定着した島としては最も古く当初は10世帯程。5世紀~6世紀頃から人口増加し、639年、アルティーノ(Altino)の司教がトルチェッロ島 (Torcello)に司教座聖堂を建立する頃は相当人口は増えていたらしい。
人々の多くは漁と塩焼きをし、やがて塩の交易で成功を見せる。
東ローマ(ビザンツ)帝国からは自治が認められ彼らは東ローマ(ビザンツ)帝国とのつながりをより強化して安全を計ると共に 697年にはラグーナに分散していた彼らは自分達の代表として総督(ドージェ)を選出。その公邸を中核として自治機構を構築し共和国の基礎を造るに至った。
811年頃、フランク族のカール王が進軍
してきたが、彼らはそれを押さえた。しかし、それをきっかけに 安全で新しい政治の中心となる都の必要性が生じラグーナの中に新たに街を建設
。それが 現在のヴェネツイア(Venezia)の街
である。
デフォルメされた地図ですが、解り易いかと・・。ピンクで囲ったのがサンマルコ寺院とドージェ宮のある中心地です。
海との結婚で指輪を投げたのが紫で囲った海域と思われる。
下はヴァチカン美術館から 中世のヴェネツィアを描いた図です。
高台など無いのにこの鳥瞰図(ちょうかんず)
ヴェネツィア生まれの景観画家 カナレット(Canaletto)(1697年~1768年)
The Entrance to the Grand Canal, Venice 1730年
上下共にカナレット(Canaletto)で、ウィキメディアからかりました。
最初の一枚。大運河(キャナル・グランデ)入り口と同じ場所です。左が税関ですね。
サンマルコ広場前の波止場(molo)からサン・ジョルジュ・マジョーレ(San Giorgio Maggiore)島とジュデッカ(Giudecca)島
右が大運河(キャナル・グランデ)入り口
大運河(Grand Canals)(手前)とドルソドゥーロ(Dorsoduro) 地区
奧にジュデッカ運河(Giudecca Canals)とジュデッカ(Giudecca)島
下 ジュデッカ(Giudecca)島
ジュデッカ(Giudecca)島の奧
左 サン・クレメンテ島(San Clemente)
右 サッカ・セッソラ・ラグーナ(Sacca Sessola Laguna)
海の税関ドガーナ・ダ・マーレ(Dogana da Mar)
大運河(Grand Canals)(手前)とジュデッカ運河(Giudecca Canals)の間、ドルソドゥーロ(Dorsoduro) 地区の端にあるのがプンタ・デラ・ドガーナ(Punta della Dogana)。
隣接するのがサンタ・マリア・デッラ・サルーテ聖堂
大運河入リ口。サンマルコ広場前のこの場所は税関であり船の検問所があった場所。
船舶は、サンマルコ前の海に錨を下ろし、海からの来訪者はここで検閲をまった。
つまりここは海の税関ドガーナ・ダ・マーレ(Dogana da Mar)
があった場所。
実はこの場所はヴェネツィア初期に塩の倉庫があった場所。ヴェネツィアは塩の生成と販売で、当初成り上がった街。
繁栄期のヴェネツィアでは需要の多さから、 15世紀に海からの入国と陸からの入国で税関をわけている。
陸の税関ドガーナ・ダ・テッラ(Dogana di terra )はリアルト橋近くのワイン河岸に置かれていた
。
1677年に行われたコンペにより1678年~1682年の間に新たな税関としてジュゼッペ・ベノーニ(Giuseppe Benoni)(1618年~1684年) のデザインで建築された。
ジュゼッペ・ベノーニはバロック時代のイタリアの建築家。
2006年に安藤忠雄 氏によりリノベーションがされている。
2009年からフランスの実業家 フランソワ・アンリ・ピノー(François-Henri Pinault)(1962年~ ) 氏のプライベート・コレクションの美術館になっているようです。
黄金の天球を支えるアトラス(Atlas)とその上に乗るのは運命の女神像。それ自体が風見鶏(Weathercock )となっている。
スイス、イタリアの彫刻家バーナード・ファルコーニ(Bernardo Falconi)(1630年~1697年)製作。
ヴェネツィアのパノラマ
撮影はサンマルコ広場にあるヴェネツィアで一番高い鐘楼から360度パノラマで・・
鐘楼に上るのに行列です。夏場は特に・・。
下のサンマルコ広場中央にあるのが鐘楼です。美術館見学や土産を買いたい人、ゴンドラに乗りた人には時間無いかも。
ヴェネツィアに来たら、確かにこれで街は一望出来るけど、美術館に行かないのは損です。
ヴェネツィアはティッィアーノなどヴェネツィア派と言うジャンルがあるくらい絵画が秀逸です。ここでしか見られ無い持ち出しのできない大きな絵画もありアカデミア美術館は絶対必須です。
島ではなく、潟(かた)の上の浮島のような街です。これら建物のあいだには無数に小さな運河が路地を形成しています
写真下はドゥカーレ宮殿(Palazzo Ducale)
ドゥカーレ宮殿(Palazzo Ducale)に隣接(接続)して海より奥側にサン・マルコ寺院 (Basilica di San Marco) がある。
サン・マルコ寺院 (Basilica di San Marco) 内容については次回に・・。
上の写真はサンマルコ広場(Piazza San Marco) からの撮影。
下の写真では寺院は右下で見切れている。
行政館にはさまれた15世紀に造られたヴェネツィアの時計塔。
この時計塔は海の都ヴェネツィアにとって意味のある時計。これも説明は次回に。
下は時計塔の尖塔部
写真向こうの陸がイタリア本土です。ヴェネツィアの街と本土(メストレ地区)とを結んでいるのがリベルタ橋(Ponte della Libertà)。鉄道橋と併走しています。
下はウィキメディアから借りてきたリベルタ橋(Ponte della Libertà)の写真です。
全長3850m。
ツアーではバスでこの橋を渡り、渡ったすぐ右の波止場? トロンケット・マーケット(Tronchetto Mercato)で船に乗り換えるそうです。
サンマルコ広場(Piazza San Marco)
一周です
海洋共和国ついでにヴェネツィア観光も含めました。けっこう盛り沢山です。
なかなかこのご時世、当分海外旅行など行けそうにありません。
いつか行く時の参考にしてください。次回も続きますが・・。
ところで、数日前にワクチンを打ちました。1回目なのに腫れて熱持って痛いし・・。翌日も翌々日も薬を飲み、集中力が保てず遅れた事申しわけありません。m(。-_-。)mス・スイマセーン
2回目恐いな ブンッ!!(((>_<。≡。>_<)))ブンッ!!
Back number
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リンク 大航海時代の静物画
リンク 焼物史 土器から青磁まで
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 21 東洋の白い金(磁器)
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アジアと欧州を結ぶ交易路 20 パナマ運河(Panama Canal)
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マゼラン隊の世界周航とオーサグラフ世界地図
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 19 新大陸の文明とコンキスタドール(Conquistador)
リンク コロンブスとアメリゴベスプッチの新世界(New world)
リンク 新大陸の謎の文化 地上絵(geoglyphs)
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 18 香辛料トレード(trade)の歴史
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アジアと欧州を結ぶ交易路 17 大航海時代の帆船とジェノバの商人
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アジアと欧州を結ぶ交易路 16 イザベラ女王とコロンブス
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アジアと欧州を結ぶ交易路 15 大航海時代の道を開いたポルトガル
リンク 海洋共和国番外 ガレー船(galley)と海賊と海戦
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 14 海洋共和国 3 法王庁海軍率いる共和国軍vsイスラム海賊
リンク 聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂
アジアと欧州を結ぶ交易路
13 海洋共和国 2 ヴェネツィア(Venezia)
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 12 海洋共和国 1(Ragusa & Genoa)
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アジアと欧州を結ぶ交易路 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊
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アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミック
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ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは)
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アジアと欧州を結ぶ交易路 9 帝政ローマの交易
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アジアと欧州を結ぶ交易路 8 市民権とローマ帝国の制海権
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アジアと欧州を結ぶ交易路 7 都市国家ローマ の成立ち+カンパニア地方
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アジアと欧州を結ぶ交易路 6 コインの登場と港湾都市エフェソス
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アジアと欧州を結ぶ交易路 5 ソグド人の交易路(Silk Road)
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アジアと欧州を結ぶ交易路 4 シナイ半島と聖書のパレスチナ
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アジアと欧州を結ぶ交易路 3 海のシルクロード
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アジアと欧州を結ぶ交易路 2 アレクサンドロス王とペルセポリス
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アジアと欧州を結ぶ交易路 1 砂漠のベドウィンと海のベドウィン
アジアと欧州を結ぶ交易路 23 新教(プロテ… 2024年11月24日
アジアと欧州を結ぶ交易路 22 太陽の沈ま… 2024年10月14日
アジアと欧州を結ぶ交易路 20 パナマ運河… 2023年04月24日