全83件 (83件中 1-50件目)
はい、こんばんわ、いかがお暮らしでしょうか、あきかぜぞふく白川の関。この一節があたまをよぎる。白河だな、東北だ。ところで、国会はまじめの審議し、予算をやっている、よかった、僕の忠告を聞いてくれた。あせる公明党、必死の公明党、連立政権を維持するためにみなさん、もう選挙活動をしてはいかんのにしてます、彼ら純粋さというかひたむきさはどこにあるのだろうか、政治の世界は裏と表があり、駆け引きがあり、汚い手で札束を握り締めながらそしらぬかおで笑顔でいなければいけない。で、それをより続けると、不思議な顔になってゆく。独特の雰囲気と、なんか、得体の知れないオーラを発する。ま、今の世の悪さの責任を君たちにもすこしとって、もらおう。自民も公明も同罪だ。頭を冷やす時期だ。これからの時代は、麻生さん、違うよ。もう、循環型縮小社会になる、ばら撒いても無駄がねですぞ、そういう政治背策は、さんざん、りゅうちゃんがやつたろう、結果、あかん、消費税をぐんぐんあげるのは、経済自由主義を破壊する。でも、それでいいとおもうよ。でかいものはうれなくなる、労働意欲もなくなる、消費意欲もなくなる。それで、どんどん、社会が閉塞してゆく。それでいいと思うよ、民主主義はいいけど、自由資本主義はもう行く末が見えてきている。デフレインフレの繰り返し、戦争でいつも回避している。戦争をしなけらば景気が回復しないという妄想は、世界一頭のいいゲルマンのドイツがユダヤを弾圧したことで実行した事実。何処正義、巧言令色少仁、親墨。
2008.09.30
コメント(4)
![]()
はい、こんばんわ。10月です。光陰矢のごとし、人類加速度的に環境破壊生物滅亡のきょうこのごろ。佐野元春の曲、最近、よく聴いています。99ブルース佐野元春&ザ・ホーボーキング・バンド/THE SUN LIVE AT NHK HALL(CD)99は100から、いつも不十分であるという。おわらいの99もいつも不十分。満たされない思いをテーマに、彼はこの歌を作る、彼の曲は実はいろんな社会風刺や批判など「ロック魂」というのが潜んでいる。どうも彼が正当な評価を受けているとは思えない。日本の音楽シーンはなんで、いつもミーハーなんだ。そう思う。ミーハーとは テレビが普及し始めた1950年代後半、大宅壮一が唱えた「一億総白痴化」とほぼ時期を同じくし て用いられた。 昭和初期に生まれた。みいちゃん・はあちゃんの略で(当時の女性の名前に多かった「みよちゃ ん・はなちゃん」から来ていると言われる。また、英語の「Me」「Her」から来ているという説 もある。)、かなり進行した現在の日本は、無料テレビ放送の毒CMにひどいもんです。(話が最初からそれています)昨日、読売新聞のひとのログがのこってたんです。ひどいセンテンスデナンセンスとおもったでしょう。さて、何の話だった?そう、音楽シーンの話、音楽をだめにしたのがベストテンとレコード大賞です。結論、以上。結論だすと、話がつづけないよ。そうか、僕は昔深夜ラジオのファンだった、(何回も聞いてる)はがきを書いていたのだ、つまらないものだった。ほんとうに、つまらない。で、何であんなにはがきををだしていたか・・。読まれたときに、うれしい「ドーパミン放射」がはじまるので快感につながり、また、かくのだ。やんたんバックは5個もあり、親戚の子供にあげていて、まあ、パチンコのフィーバー出た瞬間かな(たとえわるし)物語でエピソードをかいたもの、ギャグをかいたもの、聞いているぞとかたわいのないものヤングタウンはすごく人気で、木曜日の角とつるこうの放送がすごく人気があった、あと、つるべの月曜日、やんすいといわれる、ノブロウの水曜日などがよくよまれた。もう、ほとんど、忘れたが、きょうふとおもいだした。ある町で、路面電車に乗っていたこと、路面電車が車のとびだしで、急停止したんだ。車内はすいていた。ロングシートの対面で前には正座した小さいおばあさんが座っていた。が、その急停止の拍子に、おばあさんはころりころりと前にころがっていった、数秒のできごとにみんなびっくりして運転士さんのところまでころがり、「わて、ここでおりまんねん」といいながら、颯爽とおりていった。車内からは拍手喝采、おばあさんはピースをしながら町へ消えていった。という話であった。この話は実を言うとある本を読んでその話からヒントを得て創作したものでした。しかし、16歳の記憶はどこに格納されていたのだろうか、で、今日はん?何の話だった?ラジオ番組はリスナーが育てる、よい番組はよいリスナーがつく。ということで、おわり、親墨
2008.09.29
コメント(2)
こんばんわ、みなさん、オフコースが好きですが、オフコースのねたがすくなくなり、オフコースファンが去り、あまりにも恐ろしい出来事の1980年代を書いていたらなんか、ゆきずマリまして、あわせて最近、不眠症が改善されつつあり、いや、薬は飲まない主義。あのドリエルはあわないですね、翌日もぼー。とします。深夜に見ていたERのせいだとおもうのですが、中山大臣がさっさとやめて、かなりの顰蹙。予算委員会をもうやめて、さっさと解散するかもしれないとのこと、おいおい、おまえら仕事も宿題もせんと、せんとくんでもするぞ、(なんのことや)そう、せんとくん、あの不気味な感じが人気だそうで、仏像にしかのつのあがはえた、あれです、そう、そういえば、ピノキオもそうだったかな、いや、花が伸びて木になったのか、どういう話の展開か中山のおっさんは、ピノキオである、(なんのこっちゃ)そう、お爺さんはきの人形を作って、ある日おきると人間になっていた、でも、わるさばかりするので、木になった。せんとくんは関係ない、 『ピノッキオの冒険』(Le Avventure di Pinocchio)は、イタリアの作家・カルロ・コッロ ーディの童話作品。1883年に最初の本が出版されて以来、100年以上にわたり読み継がれている 著名な童話である、 意志を持って話をする丸太が、木の人形にされ、ピノッキオと名付けられた。ところがこのピノ ッキオは勉強と努力が嫌いで、すぐに美味しい話に騙される。青い髪の妖精や話をするコオロギ などの忠告にも耳を貸さず、幾度となく焼かれそうになったり、殺されそうになったり(現に一 回死ぬが、生き返る)する。苦難を乗り越えて人間の少年へと変化するまでの逸話が書かれて いる。あれ、なんかちがうな、僕の記憶している話とちがう、かしのきモックのほうかなそう、僕が思うに中山のおっさんが、あまりにもあっさり暴言をはき、でくの坊のような印象を国民にあたえ、なんで、東大でて大蔵完了が、あんなにあほなことをいうのか、無理にいっているのであろう、言わされてる、もしくは、次の選挙で落選が目に見えてるからとか傍若無人というか、麻生に自爆させようとしたのか、なぞ。これはえっキスファイルにはいるんだろとおもう。予算委員会を組んで補正しなおしていろいろすべき法案もあるんだ、でも、自分たちのことばかり、これはやはり、よくないです。選挙や国会運営の方法が手段が間違っています。せんとくんのはなしにもどすと、いや、あの不気味なものが人気が出たりする、それは話題にのぼってから、あまりにもむごたらしい仏教会への冒涜さえおもえても、みんな、注目してしまいます、やはり、中山君はピノキオでなく、せんとくんです、(何のことや三連発)ああくだらない、申し訳ないです、国会議員は本当にほんとうにそのありかたがおかしいです、これからの選挙で、ポスターをよく見てください。「笑ってる」「歯をむいている」「横を向いてる」これはよくないです、自分のうそをごかますために、笑い、悪人であることをかくそうと、歯をむき正直でないから、少し斜めをむいてる。と、いうことで、今夜も時間となりました、ブラジルのなんとかというおっさんの東海大地震予言、あと二日です。やはり、彼はまがいものかもしれません、。ここはないです。おやすみ(親墨)
2008.09.28
コメント(8)
こんばんわ、みなさん、オフコースが好きですが、オフコースのねたがすくなくなり、オフコースファンが去り、あまりにも恐ろしい出来事の1980年代を書いていたらなんか、ゆきずマリまして、あわせて最近、不眠症が改善されつつあり、いや、薬は飲まない主義。あのドリエルはあわないですね、翌日もぼー。とします。深夜に見ていたERのせいだとおもうのですが、中山大臣がさっさとやめて、かなりの顰蹙。予算委員会をもうやめて、さっさと解散するかもしれないとのこと、おいおい、おまえら仕事も宿題もせんと、せんとくんでもするぞ、(なんのことや)そう、せんとくん、あの不気味な感じが人気だそうで、仏像にしかのつのあがはえた、あれです、そう、そういえば、ピノキオもそうだったかな、いや、花が伸びて木になったのか、どういう話の展開か中山のおっさんは、ピノキオである、(なんのこっちゃ)そう、お爺さんはきの人形を作って、ある日おきると人間になっていた、でも、わるさばかりするので、木になった。せんとくんは関係ない、 『ピノッキオの冒険』(Le Avventure di Pinocchio)は、イタリアの作家・カルロ・コッロ ーディの童話作品。1883年に最初の本が出版されて以来、100年以上にわたり読み継がれている 著名な童話である、 意志を持って話をする丸太が、木の人形にされ、ピノッキオと名付けられた。ところがこのピノ ッキオは勉強と努力が嫌いで、すぐに美味しい話に騙される。青い髪の妖精や話をするコオロギ などの忠告にも耳を貸さず、幾度となく焼かれそうになったり、殺されそうになったり(現に一 回死ぬが、生き返る)する。苦難を乗り越えて人間の少年へと変化するまでの逸話が書かれて いる。あれ、なんかちがうな、僕の記憶している話とちがう、かしのきモックのほうかなそう、僕が思うに中山のおっさんが、あまりにもあっさり暴言をはき、でくの坊のような印象を国民にあたえ、なんで、東大でて大蔵完了が、あんなにあほなことをいうのか、無理にいっているのであろう、言わされてる、もしくは、次の選挙で落選が目に見えてるからとか傍若無人というか、麻生に自爆させようとしたのか、なぞ。これはえっキスファイルにはいるんだろとおもう。予算委員会を組んで補正しなおしていろいろすべき法案もあるんだ、でも、自分たちのことばかり、これはやはり、よくないです。選挙や国会運営の方法が手段が間違っています。せんとくんのはなしにもどすと、いや、あの不気味なものが人気が出たりする、それは話題にのぼってから、あまりにもむごたらしい仏教会への冒涜さえおもえても、みんな、注目してしまいます、やはり、中山君はピノキオでなく、せんとくんです、(何のことや三連発)ああくだらない、申し訳ないです、国会議員は本当にほんとうにそのありかたがおかしいです、これからの選挙で、ポスターをよく見てください。「笑ってる」「歯をむいている」「横を向いてる」これはよくないです、自分のうそをごかますために、笑い、悪人であることをかくそうと、歯をむき正直でないから、少し斜めをむいてる。と、いうことで、今夜も時間となりました、ブラジルのなんとかというおっさんの東海大地震予言、あと二日です。やはり、彼はまがいものかもしれません、。ここはないです。おやすみ(親墨)
2008.09.28
コメント(0)
さっき、医学のことを記事にしようと書いてましたが、止め。もし、この人口何とか細胞の研究が進み、人間の体のパーツがどんどんできて。2050年ころから、変異した遺伝子が人類を滅亡の追いやる、まるで、SFの世界。2050年か日本はあるかな、42年後か、今日は複雑な思いで弁当配達。まず、あり警察の留置管理の景観さまの弁当。それから、法務省のある構成施設の弁当。(あえて誤字、今1時)そして、刑事さんの弁当。人は弱いんだ、強がるやつほど中身は弱い。本当に強い人は、精神的に強い人だ、弱い人とか、反省のないひと、こいつらがどうしようもない。反省ができる人間は成長できる。たくまも死刑になる寸前までも反省はない。反省するのが「損」するとおもっているのか、自己否定したくないのか、人間の中にある数多くの細胞、この細胞の積み上げがどう違うのかどこかどうおかしいのか、よくできた人間とそうでないのになる。欧州の貴族も末裔は、優性遺伝を繰り返し、優れた人類になるかとおもいきやそうでないし。織田信長の末裔、織田信成はスケートですべらず、飲酒運転でつかまった、だいぶまえ。やっぱ、遺伝子なんか、関係なおですよ、小泉さん。27歳のけつのあおそうな息子が、この難局の政治できますか、といいた。まったく、話がそれている。しかしね、話がそれるけど。すかいらーくにいたころ、会長や社長は息子たちをぜったい会社に入れず後継者にしない、といっていたんだ。で、一番いい社員を社長にしたんだが、だめだった。まったく。子供たちは会社を経験もろくにないくせに事業をおこし、どんどん失敗しその付けを会社にまわし、どんどん損失がふえて、つぶれた。よくよく考えると、それなら自分の会社にいれて洗い場から仕事させればよかったんだよ。そういう、風土は日本の同族経営のパターンだ、でも、今は逆にそのほうが安心できる。というわけで、睡魔せん。。どて。
2008.09.27
コメント(6)
iPS細胞 (induced pluripotent stem cells、人工多能性幹細胞、じんこうたのうせいかんさいぼう,もしくは「誘導多能性幹細胞」)とは、体細胞(主に線維芽細胞)へ数種類の遺伝子(転写因子)を導入することにより、ES細胞(胚性幹細胞)に似た分化万能性(pluripotency)を持たせた細胞のこと。京都大学の山中伸弥教授らのグループによって世界で初めて作られた。元来、生物を構成する種々の細胞に分化し得る分化万能性は、胚盤胞期の胚の一部である内部細胞塊や、そこから培養されたES細胞、及びES細胞と体細胞の融合細胞、一部の生殖細胞由来の培養細胞のみに見られる特殊能力であったが、iPS細胞樹立法の開発により、受精卵やES細胞をまったく使用せずに分化万能細胞を単離培養することが可能となった。分化万能性を持った細胞は理論上、体を構成するすべての組織や臓器に分化誘導することが可能であり、ヒトの患者自身からiPS細胞を樹立する技術が確立されれば、拒絶反応の無い移植用組織や臓器の作製が可能になると期待されている。ヒトES細胞の使用において懸案であった、胚盤胞を滅失することに対する倫理的問題の抜本的解決に繋がることから、再生医療の実現に向けて、世界中の注目が集まっている。再生医療への応用のみならず、患者自身の細胞からiPS細胞を作り出し、そのiPS細胞を特定の細胞へ分化誘導することで、従来は採取が困難であった組織の細胞を得ることができ、今まで治療法のなかった難病に対して、その病因・発症メカニズムを研究したり、患者自身の細胞を用いて、薬剤の効果・毒性を評価することが可能となることから、今までにない全く新しい医学分野を開拓する可能性をも秘めていると言える。
2008.09.27
コメント(0)
胚性幹細胞(はいせいかんさいぼう、Embryonic Stem cells: ES細胞)とは、動物の発生初期段階である胚盤胞期の胚の一部に属する内部細胞塊より作られる幹細胞細胞株のこと。生体外にて、理論上すべての組織に分化する分化多能性を保ちつつ、ほぼ無限に増殖させる事ができるため、再生医療への応用に注目されている。その製法は受精卵が胚盤胞と呼ばれる段階にまで発生したところで取り出して、フィーダー細胞 (feeder cell) という下敷きとなる細胞と一緒に培養をすると、内部細胞塊が増殖を始める。この内部細胞塊は、胎盤などの胚体外組織以外の、全ての身体の組織に分化してゆく細胞集団である。増殖した内部細胞塊由来の細胞をばらばらにしてフィーダー細胞に植え継ぐ操作を繰り返し、最終的に「ES細胞株」を樹立する。ES細胞を樹立するには、受精卵ないし受精卵より発生が進んだ胚盤胞までの段階の初期胚が必要となるヒトの場合には、受精卵を材料として用いることで、生命の萌芽を滅失してしまうために倫理的な論議を呼んでいる。米国ブッシュ政権が2001年8月に公的研究費による新たなヒトES細胞の樹立を禁止している。ヒトになりうる受精卵を破壊する事に対する倫理的問題から現段階でのヒトES細胞の作製を認めない国がある。一方、パーキンソン病などの神経変性疾患、脊髄損傷、脳梗塞、糖尿病、肝硬変、心筋症など根治の無かった疾患を将来的に治療できる可能性から、その研究を認める国などに対応が分かれている。日本においては限定的に認められている。米国においても、公的研究費を用いない形での研究がハーバード大学幹細胞研究所などで行われているほか、カリフォルニア州においては、アーノルド・シュワルツェネッガー知事が認める方向を打ち出すなど大きな社会的議論になっている。
2008.09.27
コメント(0)
幹細胞(かんさいぼう)は細胞分裂を経ても、同じ分化能を維持する細胞のこと。発生における細胞系譜の幹 (stem) になることから名付けられた。通常は幹細胞から生じた二つの娘細胞のうち、一方は別の種類の細胞に分化するが、他方は再び同じ分化能を維持する。この点で他の細胞と異なっており、発生の過程や、組織・器官の維持において細胞を供給する役割を担っている。幹細胞では分化を誘導する遺伝子の発現を抑制する機構が働いており、これは外部からのシグナルやクロマチンの構造変換などによって行われる。普通の体細胞はテロメラーゼを欠いているため、細胞分裂の度にテロメアが短くなるが、幹細胞ではテロメラーゼが発現しているため、テロメアの長さが維持される。これは分裂を繰り返す幹細胞に必要な機能である。幹細胞の性質が維持できなくなると、新たな細胞が供給されなくなり、早老症や不妊などの原因となる。受精卵からつくられる胚性幹細胞(ES細胞)は全ての種類の細胞に分化する事ができる(全能性)。また、生体内の各組織にも成体幹細胞(組織幹細胞、体性幹細胞)と呼ばれる種々の幹細胞があり、通常は分化することができる細胞の種類が限定されている。例えば、骨髄中の造血幹細胞は血球のもととなり、神経幹細胞は神経細胞へと分化する。このほかにも、肝臓をつくる肝幹細胞、皮膚組織になる皮膚幹細胞、また生殖細胞をつくり出す生殖幹細胞などさまざまな種類があり、医療分野への応用を目指して再生医学で盛んに研究が行われている。
2008.09.27
コメント(0)
深川の事件も西口の事件も犯人は家庭をもつことができなかった、幸せをつかむことができないことで幸せそうな普通に人々を狙い、自分が死刑になることを望む。ほとんどのそういう事件のパターンは同じだ。だから、人ごみを狙うんだろう。「愛」を持つことで人は変わるという、人を愛することでやっと理解できることがたくさんある。今の時代は「愛」はどうだろうか、というとこころで、激しく睡魔がきましたすいません。不眠症はよくないので、寝ますおやすみ、ここ
2008.09.26
コメント(5)
はい、こんばんわ、今夜もぐだぐたゆきます、昨日は「フォーク排斥運動」がおき、音楽が変わってゆく中で、さだまさしが懸命に音楽を因果か、運命かがんばったことをかいて、ぼくもあらためて、その偉大さに感動したね。感動した!という言葉の小泉さんが引退したね、っしかし、息子に4代目をつがせるのは「二世三星四世議員禁止法案」長七提案。に反するね、貴族になるんかな、小泉さんが成功したひとつの手法はマスコミを利用し、言葉がたくみであったこと、テレビの中で「自民党をぶっつぶす!」といったら、みんな期待するね。でも、自民党をつぶしたのは(予定)あべちゃんとふくちゃんですから・・。(ギター侍風)というのも、古い。ギター侍は普通にテレビに出ていた、お笑いの移り変わりはすごくはやい、もうすでに、僕は見ないようにしている。1980年の10年間の中でおきた事件で「深川無差別」「新宿西口」の事件は記憶の中に鮮明に残る。たしか、通り魔という言葉もそこでどこかの記者が作った言葉ではないだろうか。無差別。通り魔殺人。この言葉の裏にあるものは「反社会的」であるということ、深川の川俣は覚せい剤中毒であったが、そこにいたるまでに社会に中にうまく解け込めない、自分の居場所を作れない、協調性社会性がない人間として育った。物事の善人悪人が生まれつきであるか否かという問題で、甘えた考えであやまちをおかすことは、もって生まれた悪いところを悪い環境で悪く育ったという、三拍子であるとおもうんだ。80年代は暗い、ということがだめである、のような思考はこういう残忍な事件を否定し、暗い時代から楽しい明るい時代になろうともがいていたのかもしれない。しかし、人間の精神は複雑だ。脳の解明もすすんでいない。交通事故死よりも自殺のほうがおおい。だから、いくらごまかしても明るく演じても暗い、影の自分や、感情の綾地や内証ということは実は大切なことだ。秋葉原の事件もなんら解決はしていない、だから、殺された人は運が悪いでおわりになる。それではだめだ、あの加藤のことが裁判で明らかになり、問題はどうであったか、ということである。父や母に問題があったんではとおもう、すべて自分の中の精神の葛藤の「素」はほとんどが親である、そこから以下に脱却するか成長するか、乗り越えるか、今日、弁当の配達をしにある交番にいった。壁にはたくさんの「行方不明」があったんだ。老人、若い女にひと。たくさんある、その中で写真と目があった。奈良で6月に失踪した32歳の主婦である。三歳のこ一歳半の赤ちゃんを残しいなくなった、育児ノイローゼであったのかもしれないということ北海道にいるかもしれない、公開した記事。ここいろんなことがあるから失踪したのかもしれないが、よくわからない事案である。子供を残して出てゆくことは信じられないし、やはり、精神的に追い詰められてしまったんだろうか育児に対してはよくわからないが早く見つかることを祈る。後半に続く
2008.09.26
コメント(4)
深川通り魔殺人事件1981年(昭和56年)6月17日午前11時35分頃、東京都江東区森下二丁目の商店街の路上において発生した無差別殺人事件。茨城県出身の元トラック運転手の男(当時29歳)が商店街の路上で、主婦や児童らを包丁で刺し、児童1人と乳児1人を含む4人が死亡、2人が怪我を負った。男は主婦や児童を刺した後、通行中の女性を商店街の中華料理店に引き連れ、女性と中華料理店の店員や家族などを人質にとった(中華料理店営業時間外)。家族は店の裏口から逃げ、難を逃れたが、男は店の2階に立て篭もった。中華料理店は駆けつけた警察官に包囲され、男の説得に当たった。しかし、男は全く応じなかった。午後6時50分頃、男の隙を見て人質の女性が逃走した。これを機に警察官が突入し、柳刃包丁を振り回し抵抗する男を取り押さえ、現行犯逮捕した。女性に怪我は無かった。白いブリーフにハイソックス姿で連行される男の様子がテレビ中継され、世間の耳目を集めた。男は傷害事件などで7回に及ぶ逮捕歴があり、覚醒剤を常用していた。男は逮捕後、取り調べで「寿司職人になろうと面接を受けたが、断られて腹が立った。子供を持つ家族が羨ましかった」と供述。1982年12月23日に東京地裁で行われた判決公判で、裁判長は「犯行当時、覚醒剤中毒による心神耗弱状態にあった」としたが、刑事責任能力は問えるとして、無期懲役の判決を言い渡した。犯人の男が逮捕された時の異様な風体や男の供述に出てくる電波という言葉が世間の耳目を集め、薬物中毒者が起こした象徴的事件となる。電波が出てきたのはここが最初ではないだろうか、この事件で覚せい剤の取り締まりが強化され、暴力団への締め付けを厳しくし暴対法により、実質暴力団はほとんど壊滅した。皮肉なものだ。罪のなく、殺された人が哀れでならないこれらの事件は2008年の秋葉原の事件にも影響をあたえたのだろうか
2008.09.26
コメント(0)
新宿西口バス放火事件1980年8月19日、東京都新宿区の新宿駅西口バスターミナルで起きた路線バスの車両が放火された事件。1980年8月19日午後9時過ぎ、新宿駅西口バスターミナル20番線で、発車待ちのため停車中だった京王帝都電鉄(現・京王バス東)の運行する中野車庫行きバス(日野RE100)の車内に、後部ドアから男が火のついた新聞紙とガソリンが入ったバケツを車両後方へ投げ込んだ。火は瞬時にして燃え広がり、6人が死亡、14人が重軽傷を負う惨事となった。犯人は妻が長男を出産した翌年に精神病院に入院して離婚、子供を児童施設に預け、九州や大阪、静岡などを転々として、上京して現場作業員として働き、毎月子供に仕送りをしていた。事件当夜、駅前広場に通じる階段に座って酒を飲んでいたところ、会社員などにここから出て行けと言われてカッときて犯行に至った犠牲者の中には、後楽園球場の読売ジャイアンツとヤクルトスワローズの試合を観戦した帰りの父親(40歳)と息子(10歳)もいた。この事件を聞いた後楽園球場を管理する株式会社後楽園スタヂアムと巨人軍が告別式に花を贈ったことや、王貞治が祭壇にサインボールを供えた死亡した被害者の中には、事件当日に子供の運動靴を買うため勤務先から帰宅途中たまたま新宿に立ち寄り事件に遭遇した母子家庭の母親がいた。通常帰宅経路から離れた場所で事故等に遭遇した場合通勤災害は認定されないが、このケースでは当時の労働大臣の発言等もあり労災認定が実施された。刑事裁判において検察側は犯人に死刑を求刑したが、一審の東京地方裁判所は「被告人は心神耗弱状態にあった」として無期懲役の判決を下した。弁護側・検察側の双方が控訴したが、二審の東京高等裁判所も一審判決を支持した弁護人は安田好弘。事件を知った安田は 被告に自分を弁護人として選任するよう持ちかけた。死刑を望んでいた被告は断るも、被告の兄に選任され弁護人となり、無期懲役を勝ち取ったしかし、被告人は無期懲役になったことに対し良心の呵責に苛まれることとなり自殺をする。この事件の被害者の一人、杉原美津子は事件後『生きてみたい、もう一度』という手記を出版した。これはベストセラーとなり、1985年に『生きてみたいもう一度 新宿バス放火事件』のタイトルで映画化された。彼女は事件時、異性関係の悩みから自殺願望を抱いており、放火された際に逃げるのを躊躇したため全身80%火傷の重傷を負ったが、回復した。彼女は自らの希望で被告人に接見している。犯人に対しての言葉は「もう一度やりなおして欲しい」であった。カメラマンである杉原の兄はバスが放火された時に偶然そばを通りがかっており、本能的に燃え広がるバスを撮影し、その写真は翌日の新聞にスクープとして大々的に掲載された。だが、実の妹がその事件で重傷を負う中、救護の手を差し伸べていなかったことを知った彼は、そのショックでカメラマンを廃業している。ほんとうに、あのときバスの放火がなければ数多くの人生はそのままであったろう
2008.09.26
コメント(0)
![]()
ワーナーミュージック・ジャパン さだまさし/帰去来 【Aポイント+メール便送料無料】さだまさし / 夢の吹く頃 (CD)【送料無料選択可!】夢ばかりみていた プライス・ダウン・リイシュー盤 / さだまさしこんばんわ、秋の夜長に、10CC、i'm not in loveこの曲の前奏がたまらなくひきこまれそうで、好きです。80年の前期の時代は70年大からの洋楽ブームがまた続いていた、洋楽は歌詞もほとんどわからないまま、聞いていたが日本の作曲編曲の人々に影響をあたえてゆく、まるでぱくるのもいたが結果生き残れるかどうかみれば、やはり個性的でオリジナルの特徴が強く、自らの強みをしり、ファンを知るものが残るのかもしれない。洋と対話するものが、「和」であり、その80年代は和の文化が花咲く時期でもあった、言葉の響き、日本語の響きと音を大切にしてゆくアーチストであると、やはり、さだまさし であるとおもう。ほんとど日本語しかつかわない。落語が好きだった彼は、歌をひとつの物語として演じる。実を言うとぼくはまっさんのLPはほとんどもっていない、つるべの深夜ラジオでよく聞いていたぐらいで買わなかった。しかし、当時は爆発的なヒットをまきおこした。「親父の一番長い日」「関白宣言」と次はどんなのがでてくるか、たのしみであった。絶頂期の彼は島を購入、「詩島」と名づけていた。80年代にはいってすぐ、フォーク排斥運動のようなものがおこった、暗いことがだめで明るいことがいいことで、フォークは暗い、と、全般に時代は「軽薄短小」の時代を迎える、攻撃されたスケープゴートは、「オフコース」「さだまさし」であった。彼らはいわれのない攻撃でセールスは落ち、フォークの時代は終焉した。アングラになり生き残るフォークは吉祥寺あたりのライブ・・。さだまさしは攻撃されることで「もう、音楽をやめよう、あしたこそマネジャーに言おう」そう毎日おもっていたそうである。攻撃され報復する同じ土俵には立ちたくない、もうヒットの連続で経済的にも問題ないし、そう思っていたのである。今にしてみると、その攻撃があってこそ、彼は今は存在するのである。彼は中国に逃げた、映画を作ろうとした、北京でコンサートを行い、「長江」という壮大な映画を作ろうとした、彼が撮影で上流に向かうとき、船がでないという。彼のそのコンサートがテレビでながれ、船に乗る人がのらないと、乗客にひとりがそこに本人がいることを知り、何千の人が集まり、危険な状態になった、そこで、歌を歌え、と彼らはいい。その川のほとりで演奏した、言葉が通訳を介しておこなわれ、無事そのゲリラライブは終了した、中国人と川の壮大さにさだまさしは感動し、気がつけば何億という金を銀行から借りていた。しかし、映画は完成し、残ったのは膨大な負債。マスメデイアにはでず、そこから再び、コンサートをしながらお金をかえしてゆく。あのときの負債がなけらば3000回もコンサートをしていないだろう。こつこつと音楽をやり続ける20数年。「暗い」といわれでアンダーになり、イメージが損なわれ、しかし、そこが偶然のことをよび、今の彼が存在する、「暗い」ということは実は本当は大切なことであるといまさらながらおもうし、とても懐かしくおもう。あの時代に今回帰する、オフコースが暗いとか言われてめめしいとかいわれても、ぼくはヘッドホーンで自分の下宿で聞いていた、好きだから聞いていた、でも、どこか隠していたのかもしれないし。歌詞の意味も理解してなかったのかもしれない。あの時代を今思い返すに、いい時代だったとおもう、「哀愁」という言葉がベースになり、そこに乗るように文化があったんだと思う、それはやはり、戦争の影響もあるし、あの大韓航空撃墜やテロ事件など不穏な時代でもあった、しかし、90年00年、突き抜けた明るさの馬鹿騒ぎはもううんざり、みんないい年になり、またいろんな問題をそれぞれ抱えた、「 世の中おもいどうりに生きれない、一生懸命いきている。」さだまさしの「関白失脚」は切実に僕のハートにずしんとくる。現実の世界でも苦労して音楽をやることで彼の存在意義は光輝く。よくぞ、暗いと非難してくれた、よくぞ、映画で負債を抱えてくれた。現実的なぼくの感覚は逆説的に生きる彼の人生をすばらしいと思う。厳しいスケジュールの中、全国をコンサートし、しまいには「声」が出なくなり、そこもまた彼は発声方法を変えて、のどの使い方を変えたりしたそうだ。 数年前、長崎の平和コンサートにつるべがよばれ、「やっと、負債のローンが終わったよ」といったのをつるべがラジオでいったとき、すごいなーと感動したもの、そういうこと、一切忘れていてぼくは彼のCDを聞きたくなりベスト版を購入。グレープ時代のもの聞きたくなった。あの「東海ラジオ」のエピソードも感動もの。売れないときに栄養失笑になりながらも音楽を続け、名古屋のミッドナイト東海ラジオの蟹江アナウンサーが何度も何度も深夜で「精霊流し」をラジオでながし、うわさを聞いて彼は雑音の中、深夜、そのラジオを聞いた、自分の歌がラジオから流れるのを感動したそうだ、その深夜ラジオから、グレープはヒットする。もともと、本当に明るい性格の彼は、その歌のイメージで自作も「無縁坂」「縁切り寺」とか、もう次は墓場の歌しかない、と、創作意欲の限界で解散。さだまさしの話ばかりでした、バイオリンの音は寂しく響く。つづく。ここ
2008.09.25
コメント(4)
こんばんわ、昨日はたくさんのコメントありがとうございました。みゆきちゃんはいまはどこにいるのだろうか、いつかどこかで、出会えるのかもうすれ違いであっているかもしれない。20数年のいや30年近い、時の流れ、1995年の阪神淡路大震災。この地震で大きな被害を受けた僕のふるさとはたいへんであった。みゆきちゃんは、とっくの昔に一家そろって引越し。ぼくの高校の前にあった、みゆきちゃんの家は四階の一番南の部屋は、地震のときつぶされておそらく、その部屋の方はなくなったのだろう。少子化で高校も統廃合になり、その高校も数年前に廃校になった。ぼくは、もう12月で47歳になるんだな、この年になるとはもう、言葉が出ないな。人生の折り返しポストを回って、どこにあるかわからないゴールにむけて立ち止まることなく、生きている。せつない、という言葉がかぎとなり、この記事と昨日の記事をかいた。せつない、悪い言葉とか悲しいことばとか、実はそういうものでない。時を感じる。という意義である要素が多分に含まれていると思う。仏教用語では、「刹那」というときの最小単位、刹那に生きる、というフレーズがあるが、その時間を生きてゆくということ一秒一秒、心臓が鼓動をうち、血液を送り、脳が機能し、意識し思考する。その積み重ねが人生なんだな。意識せず、呆然と付与さえるがまま いきている人もいるし残り人生が二ヶ月と医者に告知されて 生きている人もいることだろう。同じ時を感じていても、前者は価値がないかもしれないし後者はかみ締めるように時を生きるのだ。高齢者社会になり、人生がながくなった、60でリタイヤしても30年近くの残りの時間があるんだ。時は無限でかつ有限である。転校生のみゆきちゃんとであい、初恋をし、分かれて、このブログでかいて、それを200人近い人がお読みになり、不思議なめぐり合わせというか、それでまた自分のことをフィードバックし思い出すんだね。ああ、とりとめもなく、散文でいたしました。まだ、続く今夜もお付き合いくださいまして、ありがとうございます、お風邪をめされませんようにthere
2008.09.24
コメント(4)
はい、こんばんわ、みなさん、おげんきでしょうか、初恋の話をしよう。経済のこととか、宗教のことは、人生のこと、いろんなことをぐるぐると頭に中に回るが、こないだ、中学のアルバムをみていた、三年二組だ、全体写真、しかし、どこをさがしても、ぼくは、いない。おかしいな、思い出した、その撮影のとき、学校をやすんだ、かぜでやすんだ。情けない顔して校舎の中に別枠の顔。思い出すと、情けないことばかり、修学旅行のときは風疹、進学先がきまる実力テストでもインフルエンザにかかる。なにもかも、そういう「へま」なことで中学三年はおわった。まだ、僕の中学のころは学校は荒れていなかった。きんぱち先生のあのドラマで不良がスターになり、まさしく、腐ったみかんの方程式で学校はあれまくり、いじめが蔓延し、ひどい時代を迎えた。僕の高校でもかなり荒れた、かつ上げ、暴力はあたりまえ、工業高校というのはそういうものだった、初恋のみゆきちゃんは、普通の高校、男女共学、ぼくは、悩みに悩み、卒業式に日に、ラブレターをおくった。ほんとうにいまさらながら、あの勇気にはおどろいたものだ、自分ながら、、ポストのまえを何回も何回もまわり、どうすするか、ださないほうがいい、後悔する、返事は、かなり、かなり、あとのきた。2ヶ月ばかり、あと、「いい友達でいてください」これは、殺し文句、ああ、だめだ、しかし、時々文通をしよう、とかいてあった。皮肉にも、僕の高校は、みゆきチャンのマンションの前にあった。僕はかなりの近眼で、黒めがねがすごくいやで、見えないままあるいていると、前からくるんだ、しかし、きずかないぼく、「なんで、無視するの!」複雑な少年の心はかなり屈折していたもの、この間の話は、「愛をとめないで」「さよなら」のオフコースの歌の思い出ともに、書いたので省略。大学に入り、最後の文通の手紙は「ずっと、友達でいたほうがよかった」のは、本心であって彼女は転校生でおとうさんが銀行員で全国を転々としなかなか友人ができなくて小六の秋に転校してきて、僕がはじめて話しかけてくれたのがすごく、うれしかった。だから、友達でいたかったんだよ、そう、書いてあった。1980年代後半になり、女のことつきあいはじめ日本が恋愛症候群で女性が優位な時代に、何回も何回も懲りずに振られながら、すっかり、そういうことを忘れたいた。数年まえに、ダンボールからでてきた、手紙のやま、LPレコード、オフコースの歌を聞きながら、切なくなるおやじは、いつまでも少年でいたかったと午前3時の...親炭ここ
2008.09.23
コメント(8)
こんばんわ、やっとすずしくなってきたようですね、福岡の事件や千葉の事件、心が痛みます、ブルーというやつです。今日、いつも昼過ぎに弁当かいにくる人がいて8月末からこない。「なんでだろー」と、ずっとおもっていたら、あるひとから、そのお客さんが先月ひき逃げにあい、亡くなった、と聞いた、ほんとうに、シヨックだった。まじめに働くひとだった。命というものははかない、運不運というののある。この世に卵子が精子とであい、細胞分裂をはじめ、肉体を形成しその肉体もせんざ万別だ。障害を持つ子の親はいつもおもうんだが、大変な覚悟でいるんだろうとおもう。だんだんと、時がたち、自分たちが老いてゆく、ある町のことであるが、生活保護世帯が100人にひとりということだそうだ、そのほとんどの人が高齢者であるという、しかもその町は高齢者がおおいまち、数年前まで国民保険だけでなんとかやってきたが、後期高齢者の制度できびしくなり生活保護を受けるようになっているひとがふえたという。なんということだろうか、確かに医療費は恐ろしい金額になっている、しかし、結果、税金で生活保護で補填するなら同じであるのだ、やぶれかぶれの政治は、人気をとるためと、花火をあげるような巧言で自分たちの政治が正しい意図であるように、しかし、政権をとると現実に沿うべくして方針を変えるんだ。下々の弱い人の痛みもわからない。お金持ちのにぼんぼんばかりだ。クリーンなひとはいない、みんな汚れた手で札束をにぎりしめている。福田のおっさんが引退するかどうか、引退してこそ男であろう、のうのうと、安部のぼんぼんが笑い、福田のおっさんがよめさんと買い物を楽しむ。天誅が必要な、ぼんぼんである。徳川幕府が成立したときは精鋭であった、旗本たち、幕末の戦争ではまったく役に立たず、諸子の勝海舟、農家の近藤勇などが最後の幕府を支えていた、旗本たちは大塩の乱で仕事したきり。子供たちお年より、この弱いひとたちを支えようとしない、福岡のあの女のもフォーロー体制があればたすかったのかもしれない、児童相談所、ケースワーカーの充実、ADDへの理解、発達障害の教育プログラム。素人の弁当屋でも思いつく政治行動。自分のことしか考えない政治家、政党の利益しか頭にないやつら、やれば、やりかえす、政治家。私腹だけはたんまり増やす連中。そういう人々が支配する国だから、偽装、欺瞞、詐欺、暴力が有効なものとなる。正義と真実はどこにあるのだろうか、殺された子供たちが不憫である。親墨ここ
2008.09.22
コメント(4)
またもや、陰惨でひどい事件がおきた、福岡、続いて、千葉県、幼い子供がまた殺された。親たちの苦しみは耐えがたいものであろう、また、ニュース番組は興味本位で恐怖心をあおりたて、週刊誌など俗な本はあることないことかきたてる。犯人は、初犯で前がないんだろう、捜査はまたもや行きずまるんだろうか、初動捜査の間違えがその後の事件に影響する。神様の最大の失敗作品「人間」このエラーのおおい生物は、自分より弱いものを攻撃する、男は女を、大人は子供を殺されるために生まれてきてのではない。あの大韓航空機爆破事件もひどい事件だった。なぜに、人は人を殺すのか、このいかれた連中がむらがりおこるようになったのは最近。80年代は、それなりの事象があるもので、00年代は、わけもない殺人が横行する、子供を見ればかわいいと思う心。自分の子供をおもう、もしくは、自分の子供時代をおもいだす。で、微笑む。しかしながら、その子供時代が暴力や飢餓、差別などですごすことになったら、そういう感情をおこしえないだろう、強いものが支配し、それも力で支配するのであれば、弱いものをいじめることで自分の弱さを隠そうとする。聞かなくていい情報が氾濫し、どうしようもうない人間がそれらで犯罪を知り反社会的な人格であるそいつは、自分もまねようとする。「正義」の味方がいない。自分さえよければいいと思う心、他人に無関心な心。どこまでも危険な世の中になるまえに、やることはたくさんある、政治家たちはまったく雲の上のお公家さんのように優雅に過ごす。実をいうと戦前戦後、こういう事件は数多く存在している。今だけの問題でない、マスコミにも惑わされてはいけない、数多くの異常者たちが犯罪を犯している、露見しないものは「神隠し」扱いされているのだろう。
2008.09.21
コメント(9)
1987年11月29日、イラク・バグダッド発、アラブ首長国連邦アブダビ、タイ・バンコク経由、韓国・ソウル行きの大韓航空858便・ボーイング707型機が北朝鮮の工作員によって飛行中に爆破された航空テロ事件である。乗客・乗員115人全員が死亡した。858便はアブダビを世界標準時日曜日の午前0時01分に離陸した。858便はインドを横断しムンバイから始まるアンダマン海上の航空路R468を飛行してに到着した。ビルマ(現:ミャンマー)の航空管制空域に、離陸から4時間半後の現地時間午前10時31分(世界標準時:午前4時31分)に到達し、両国の境界である"TOLIS"ポイントからラングーン(現:ヤンゴン)の航空管制官に対し「現在37000フィート(およそ10700m)を飛行中。次の"VRDIS"には午前11時01分、"TAVOR"(ミャンマー本土上陸地点)には午前11時21分に到達の予定」と報告したのが858便の最期の通信[1]となった。ここで858便は航空路ロメオ68を飛行しており、ほぼ定刻通りにバンコクに到着するはずであったが、ラングーンから南約220Km海上上空の地点で午前11時22分に機内で爆弾が炸裂し、機体は空中分解した。乗客・乗員115人全員が行方不明(12月19日に全員死亡が確定)となった。大韓航空機の捜索にミャンマー、タイ両政府当局が当たった。タイの捜索隊はビルマとタイの国境付近のジャングルに墜落したとして捜索していたが、実際には海上に墜落していた。なお858便の遺留品は救命筏や機体の部品、乗客の手荷物と遺体、バラバラになった機体の一部がそれぞれ発見されたが、搭乗者の完全な形での遺体は、他の多くの空中分解事故のケースと同様に一人も発見されず、わずかに回収された遺体の一部がDNA解析され身元が判明した。回収された救命筏などの残骸の多くは高温に晒され強い衝撃を受けた損傷があり、空中で何らかの爆発があったことを裏付けていた。当初、空中分解の原因は事故機となったHL7406号機(1971年製造、製造番号:20522/855)固有の欠陥が原因と見られていた。これはHL7406機は当初は大統領外遊時の特別機として韓国政府が使用していたが、大韓航空に移管され主に国内線で運航されていた。だが1977年9月に釜山で胴体着陸事故を起こし、事件の2ヶ月前の9月2日にはソウル・金浦国際空港でランディングギアが出ずにまたしても胴体着陸する事故を起こしており、修理を終えて運航復帰した直後に発生したためであった。しかし実際には航空機テロであったことが後に判明することとなる。事件直前、バグダッドで搭乗して経由地のアブダビ空港で降機した不審な男女2名がいた。この2名は日本の旅券を持っており、30日午後にバーレーンにガルフ航空機で移動し、同国のマナマのホテルに宿泊していた。韓国当局もこの「日本国旅券」を持つ2人の男女が事件に関与したと疑っていたため、当地の韓国大使館代理大使が、その日の夜に接触した。これは事件の直前に日本赤軍の丸岡修が日本の東京で逮捕されたが、丸岡が翌年に迫ったソウルオリンピックを妨害工作するためにソウル行きを計画していたことが明らかになっており、日本赤軍が本拠地とする中東が舞台であることから、事件の関与が疑われていた。そのため韓国当局は早い時点で2人をマークしていた。また日本政府当局は「日本人による反韓テロ事件」を懸念していた。この2名はバーレーンの空港でローマ行きの飛行機に乗り換えようとしていた為、日本大使館員がバーレーンの警察官とともに駆け付け、その場で旅券を確認したところ、偽造であると判明した。日本大使館には身柄拘束権が無かったため、同国の入管管理局に通報し、警察官に引き渡した。空港内で事情聴取しようとした時、男は煙草を吸うふりをして、その場であらかじめ用意していたカプセル入り薬物で服毒自殺した。同伴の女も自殺を図ったが一命を取りとめた。死亡した男のパスポートの名義は東京都在住の実在の男性であったが、警視庁の調べで、この男性は東京におり、パスポートも自宅にあることが確認された。この男性によれば「宮本明」を名乗る男に全額費用もちでマニラとバンコクに1983年秋に旅行したが、その翌年に「宮本」にパスポートと実印を1ヶ月ほど貸していたことが判明した。しかも「宮本」は警視庁が北朝鮮工作員を摘発した西新井事件に関係していた北朝鮮側工作員の李京雨であることが判明し、事件への北朝鮮の関与が疑われるようになった。また、自殺した男が所持していた日本製の煙草の製造年月は4年も前の「(昭和)58年4月」となっており、既に3年前には全品売り切れであったうえに賞味期限も過ぎていたため、「宮本」が逮捕前に作った、下手な「小道具」の可能性が高いバーレーン警察による取り調べが行われた後、女の身柄は12月15日に韓国へ引き渡された。その時彼女は自殺防止用のマスクを被せられていた。ソウルの国家安全企画部で尋問が行なわれたが、女は当初日本人になりすまし、ついで黒龍江省出身の中華人民共和国人の「百華恵」であると供述、容疑を否認し続けた。しかし、取調員からの連日の事情聴取の中で、日本人や中華人民共和国人であるとする説明の数々の矛盾点を指摘された上、「日本に住んでいた時に使っていたテレビのメーカーは?」という質問に北朝鮮ブランドの「チンダルレ(つつじ)」と答えて捜査員にも笑われる事態についに北朝鮮工作員の金賢姫(キム・ヒョンヒ)であることを認め、航空機爆破の犯行を自供した。金賢姫の供述によれば、爆発物は時限装置付きのプラスチック爆弾が入った携帯ラジオと液体爆弾が入った酒ビンであるとされた。爆弾は2人の座っていた機体前方の7A,7B近くのラックの中に入れており、爆発物は彼女がバックの中に入れて機内に持ち込んだと供述した。実行犯は北朝鮮工作員の金賢姫(当時25歳)と金勝一(当時69歳)であった。2人は10月7日に金正日の「ソウルオリンピックの韓国単独開催と参加申請妨害のため大韓航空機を爆破せよ」との親筆指令に従いテロ行為に及んだもので、父娘であると偽りテロ実行のために旅行していた。韓国当局の取調べによれば、2人は11月12日に任務遂行を宣誓し、ソ連のモスクワへ朝鮮民航(現:高麗航空)に北朝鮮政府関係者2名とともに向かい、そこでアエロフロート便に乗り換え当時共産主義国だったハンガリーに11月13日に北朝鮮のパスポートで入国した。そこで6日間滞在した後にハンガリーから隣国オーストリアに11月18日に陸路入国した。この時まで金賢姫は別人名義の北朝鮮旅券を使い金勝一は北朝鮮外交官旅券を使っていたが、オーストリア国内で日本の偽造旅券を使い始めた。6日間滞在したあとウィーンから11月23日発のオーストリア航空621便でユーゴスラビア(現:セルビア)のベオグラードに移動して5日間滞在した。2人はベオグラードの北朝鮮工作員のアジトで爆発物を受け取ったとされる11月28日にベオグラードからバグダッドへイラク航空226便で移動し、その日のうちに運命の大韓航空858便に搭乗していた。なお、2人が機内に持ち込んだのは酒瓶に入った液体爆弾と、豆腐大のプラスチック爆弾と時限爆破装置を仕込んだ日本製トランジスターラジオであった(トランジスターラジオは電池がなければ作動できない構造)。イラク航空に搭乗した際にはイラクが戦時体制にあることから電池を取り上げられていた。そのため大韓航空機に搭乗する際にはイラクの空港職員に対して「個人の持ち物まで没収するのか」と金勝一が抗議したため、返却されたという。このようなイラクの航空保安体制の不備が、事件を未然に防ぐチャンスを逸したともいえる。また2人が降機後にラックに爆発物が残されていたのを客室乗務員が発見出来なかったことが後に疑問とされたが、事故で客室乗務員も殉職しているため真相は不明であるが、忘れ物の確認作業を怠った可能性が強い当然の事ではあるが、現在も北朝鮮当局は事件への関与を否定しており、韓国当局による「自作自演」を主張しているが、この事件の指導・総指揮は、当時既に金日成の後継者に指名されていた朝鮮労働党書記・金正日(朝鮮民主主義人民共和国国防委員会委員長)が取ったと言われている。金賢姫がハンガリーに北朝鮮パスポートで入国し、そこから日本の偽造パスポートで出国したことから、ハンガリー当局は北朝鮮による謀略があったと判断し、当時の東側陣営の盟主であったソ連へ報告したため、東側社会主義国全体も卑劣なテロ国家として認識されるようになった。そのため、オリンピック参加を曖昧にしていたソ連及び中華人民共和国は正式に参加表明をした。そのため他の東欧諸国も追随し参加を表明した。結局参加しなかったのは北朝鮮ぐらいであった。その後、北朝鮮は米韓合同軍事演習を「戦争の瀬戸際だ」と宣伝し有事の際の支援を要請したが中ソ両国から反感をかった。翌年の6月には金日成が中ソ両国を訪問したが、その場で「これ以上オリンピックを妨害工作をするのであれば、北朝鮮が1989年開催する世界青年学生祭典に参加しないと圧力をかけられたという事件後に当事国のみならず世界各国により北朝鮮への非難が巻き起こったが、北朝鮮が意図した「韓国の信頼低下」という現象は起こらず、翌1988年には無事ソウルオリンピックが開催された。金賢姫は韓国における1年間の取調べの後、「トランジスターラジオにセットした時限爆弾で868便を爆破した」と認定され、韓国の国家保安法、航空法、航空機運行安全法違反で1989年2月3日に起訴された。韓国の裁判所は一・二審とも死刑判決を下し、1990年3月27日に確定した。しかし韓国大統領は「事件の生き証人」という政治的な配慮から、事件遺族の抗議の中、4月12日に特赦した。また5月には内外の記者との会見が行われ、自己批判と北朝鮮の体制批判をした。この時に飛び出した話の一つが前述の「李恩恵」の話であった。現在もこの問題は何にも解決をしていない。なぜ、一般市民をもまきこむことをしたのか、いま、重篤にある彼が指示したのだろう
2008.09.21
コメント(0)
グリコ森永事件、本当に不思議な事件、あの事件が起こった、翌月、僕は皮肉にも某レストラン西宮店に配属になり、キッチン研修がはじまった、相棒のIも同じ店、しかも彼は家も西宮、犯人が使用した車が赤だったらしく、何度も何度も検問でとめられ、そのたびに車全部調べられ、遅刻する始末。あの甲子園のコンビニもよく知っていて、ほんとうに迷惑なはなし。しかし、あの事件はやみ。北朝鮮説、宮崎学説、いろんなことがでてきたが闇のなか。でも、今の事件と違うのは、闇雲に人を殺さなかったこと、犯行は悪いが滋賀県県警本部長が自殺したことで終結宣言した、もともと人殺しは犯人の意図でないようだ。僕はグリコ森永事件のときは仕事を覚えることで必死でテレビをよく見た記憶がない、大学を出てなんでまた。と思われるようなこをとし、日曜日、車で朝行くとき、43号線の車線が多い道で車が並ぶ右も左も車はカップル、どこかにデートにゆく、「学生気分は3年は消えないだろう」そう、先輩社員にいわれて、いつもなんのことか、さっぱり理解できず友人たちと休みも違うし、みんなちりちりばらばら、仕事するしかないか、そうおもいつつ、いつやめようか、ということも思っていた。サザンの音楽やユー民の曲をカーステでながしながら、世の中のことや将来のことまったく考えない、ばかなわかものであった。20歳台に何をなすべきかという本が鈴木健二さんがだされて、読んだが、やっぱり、結論。20歳から30歳前半までは、男は「子供」であると、今思う、成人式というのは精神的な成人式は、結婚するまでだとおもうし、結婚してもがきのような大人になるのが「男」であると、今も思う。夢や進路をきちんとし、がんばってる人もごく少数いるが、やっぱ、車 女 酒 ギャンブル おたくが大脳を支配しているだろう。しかし、グリコ犯は実に頭のいいやつ。僕は北の工作員ではないかとおもう。1978年から拉致事件が頻発し、1984年にはいったんしずまる。警察へのかく乱であるのではないか、と思う、彼らがお金必要であつたのかもしれないし、警察はとにかく、共産と半島のものを目の敵にしていた。いまごろ、推理してもしかたない。最近、三重県で行方不明になった女の人が北にいるという証言があり、2000年以降らちはしていない、というのもうそになりつつある。大阪の行方不明女子のあの事件も、僕は北ではないかとおもっている、完璧に証拠を残さないのは協力するひととがいて、冷静でプロでないとできない。福岡でまた子供が殺された、罪もない子供、ひどい。この事件もきちんと解決しないといけない。しかし、未解決が多すぎる、どれもこれもだ。子供が殺された事件、若い女の子が殺されて事件。どれここれも、お手上げの様子。警察組織の問題があるとしかおもえない、政治はそれすらもきずかない、悪が栄えるこの時代はひどすぎる、天誅を!親炭ここ
2008.09.20
コメント(2)
グリコ・森永事件は、関西地域を舞台として食品会社を標的とした一連の企業脅迫事件である。警察庁広域重要指定第114号事件。2000年(平成12年)2月13日に時効となった。グリコ・森永脅迫事件、犯人グループが江戸川乱歩の『怪人二十面相』をもじった[1][2]「かい人21面相」と名乗ったことから、かい人21面相事件などとも呼ぶ。1984年(昭和59年)3月18日午後9時30分頃、江崎グリコの江崎勝久社長が兵庫県西宮市の自宅(当時)で入浴中、侵入してきた犯行グループの男3人に全裸のまま誘拐され、身代金10億円と金塊100キログラムを要求する脅迫文が高槻市内の電話ボックスで見つかったが、犯人は姿を現さなかった。江崎社長は、3日後の3月21日午後2時30分ごろ警察に保護された。大阪府摂津市の東海道新幹線車両基地近くを流れる、安威川沿いにある治水組合の作業小屋から、自力で抜け出したとされ、大阪貨物ターミナル駅構内で保護された事件は収まったかのように思われたが、4月7日になって犯人グループは、「かい人21面相」名で「けいさつの あほども え」との書き出しで始まる、和文タイプライターで記された挑戦状を新聞社に送りつけてきた。マスメディアや捜査本部では企業へ脅迫目的で送られた手紙を「脅迫状」、新聞社やテレビ局、週刊誌などに送って社会へ公表することを前提に書かれた手紙を「挑戦状」として区別している5月10日に送られてきた脅迫状の文面には「青酸ソーダ(シアン化ナトリウム)入りのグリコ製品を置いた」とあったが、その時には青酸ソーダ入りのグリコ製品は発見されていない。その後、10月7日に江崎社長の自宅(当時)がある兵庫県西宮市内のコンビニから「どくいり きけん たべたら しぬで かい人21面相」と関西弁で書かれた紙が張られた森永製菓製品の菓子が発見され、実際にシアン化ナトリウムが検出された。防犯カメラに犯人とおぼしき男(野球帽の男)が映っていた為、警察はその男の写真を公開、幅広く情報収集に乗り出したが、有力な手がかりは無かった。その後、かい人21面相と書かれた脅迫状が丸大食品、森永製菓、ハウス食品、不二家、駿河屋に次々と送りつけられ現金を要求。江崎グリコに対する休戦宣言の裏で、丸大食品を脅迫したが実際失敗している。9月18日には森永製菓に脅迫状が送りつけられ、2ヵ月後の11月14日にはハウス食品に脅迫状が届いた。ハウス食品は犯人の指示どおり車に1億円を積み名神高速道路の指定された大津サービスエリア内で待機したが、その前後に以前から犯人グループの一人と目されていた「キツネ目の男」が一般道から進入できる同サービスエリアで複数回目撃されているまた、同時間帯に警邏中の滋賀県警の警察官が、名神高速道路の栗東インターチェンジ付近で不審者の乗った自動車を発見した。地元の人しか知らないと言われている高速道路と一般道が交差する場所であり、エンジンをかけてヘッドライトは消している状態であった。警察官が職務質問をしようと近づくとその車は急発進し、市街地へと巧みなテクニックで逃走した。その後の捜査で、車が停まっていた頭上の高速道路には白い布がフェンスに巻き付けられており、不審車の存在を考えると現金の投下場所であった可能性が高いと報道された。また、この際使用された逃走車から特殊な工場廃棄物が発見されている。この逃亡事件に関わった滋賀県警は一連のグリコ森永事件の広域捜査には参加しておらず、捜査網を敷いていることなどの捜査に関する情報自体が現場の警察官にもたらされていなかったことから、警察がこの時最も犯人に近づいていた状況であるにも拘らず、せっかくの逮捕のチャンスを逃す結果となった。マスコミにより、広域犯罪に対して、警察の縦割り組織の弊害と各都道府県警とのつながりの悪さなど、警察組織の甘さが批判された。その後、マスコミによる滋賀県警批判や、結果的に重要事案の被疑者を取り逃がした可能性が高い点を警察内からも問題視されたことから、当時の滋賀県警本部長が焼身自殺する。翌年の1985年の新年早々、前年の12月に犯人グループが「不二家」を脅迫していた事実を新聞が公表し、不二家脅迫が発覚。2月には「駿河屋」にも届くなど、食品業界の狼狽は続いた。1985年8月12日(日本航空123便墜落事故と同日。同事故の犠牲者にハウス食品の浦上郁夫社長もいた)、犯人側から「くいもんの 会社 いびるの もお やめや…悪党人生 おもろいで」との終息宣言が送りつけられた。理由は自殺した滋賀県警本部長への香典代わりというものであった。この終息宣言の後完全に犯人の動きがなくなり、2000年2月13日午前零時に東京と名古屋で青酸入りの菓子をバラまいた2件の殺人未遂事件とこれにかかわる28件すべてに公訴時効が成立した。犯人(かい人21面相こと、キツネ目の男たち)の正体及び動機は不明のままである。犯行の際の遺留品の多さにも関らず、遺留品が大量に、広範に流通された商品なので犯人の特定には至らなかった。また、特殊な職種でしか使用されないと言われている廃棄物から捜査が行われたが、犯人に結びつく結果は生まれなかった。なお、犯人も終息宣言の後は一切活動をしていない。警察発表では「犯人は何も得てはいない」ということになっているので、一連の犯行の目的が何であったかは不明のままである。脅迫された食品会社が裏取引したのではないかとも言われているが、グリコをはじめとする被害にあったメーカーはそれを否定している。また、一説には、脅迫を受けた企業の株価が乱高下しており、それにより利益を得た、あるいは株価の操作そのものが目的だったとする説もある。犯行の際に警察無線が傍受されていたのが遺留品から判明した為、警察無線が傍受されると会話の内容が分かるアナログ方式から、既に警視庁で一部導入が始まっていた傍受されても会話の内容が分からないよう暗号化されたデジタル方式への転換を進めるきっかけになった。グリコ・森永事件の捜査においては、警察は傍受を警戒して、当時、警視庁に数台しかなかったデジタル方式の警察無線で連絡を取っていた。警察が「殺人未遂事件」として捜査したシアン化ナトリウム入り食品に関しても、『シアン化ナトリウムが入っていた食品には必ず「どくいり きけん たべたら しぬで」の紙が張られていたのでその罪状が当てはまらないのではないか?』とする意見がある。この点の不備を補うべく、グリコ法こと流通食品への毒物の混入等の防止等に関する特別措置法が制定された。結果として毒入り食品による死者は発生せず、また誘拐放火等により命を落とした人もいなかった。そのため、凶悪な事件であるにもかかわらず、市民の中には「かいじん21面相は憎めない奴」と共感する人も少なからずいた。犯人がキャリア警官を嘲笑したり、アフリカ飢餓への募金を呼びかけるなどしたことも、「義賊」の印象を与えた。この後、この事件を真似た事件が頻発した(1984年だけでも31件発生)が、現在までに全て解決している。なお、この事件で江崎グリコに次いで脅迫されたのは丸大食品であったが、当初この事実は捜査当局により伏せられ、三社目に森永製菓が脅迫された事件を毎日新聞がスクープし連続脅迫が発覚、社会に衝撃を与えた(当局は当初、便乗犯であり誤報だとの態度をとったが、その後犯人側の声明文で確認された)。事件が「グリコ・丸大事件」ではなく「グリコ・森永事件」と呼ばれるのはこのためとみられる。また、犯人グループは読売新聞社に宛てた挑戦状でおよそ30年前の1955年に森永製菓の関連会社である森永乳業が引き起こした森永ヒ素ミルク中毒事件を例に挙げ「森永 まえ ひそで どくのこわさ しっとるやないか」と森永製菓を挑発していた。同じ挑戦状では明治製菓が当時売り上げ1位で、グリコの次は明治が狙われると誰もがそう思う、だから明治(を標的にするの)はやめた、という旨も書かれている。事件当時の大阪府警察本部長、四方修は退官後マイカル系列のメンテナンス会社、ジャパンメンテナンス(現イオンディライト)社長に就任。その後マイカル本社の社長に就任したが、マイカルは2001年に経営破綻、そのごたごたの中で解任されている。アマチュア無線用の145MHz帯ハンディー機を受信改造して当時のアナログ警察無線を傍受するなど無線通信に対する知識も高いとされている。また、事件の発生している時期の1984年12月4日にアマチュア無線の7MHz帯オフバンドにて「こちら21面相…」「不二家はやっぱり金払わんちゅうとんのかい」などいう「21面相」と「玉三郎」を名乗る2人の通信が北海道岩内郡のアマチュア無線家によってたまたま傍受録音され、過去にテレビで放映された。捜査本部は犯人グループの可能性が高いと判断して、捜査が行なわれた本当に非道事件だったダイエーやスパーが販売を停止したことや不買になってことで余計にこれらの会社は窮地にたたされた。今とはかなり違う時代であるな、とおもう。
2008.09.20
コメント(2)
ああ、夜も深いのに、眠れませんなーー毎晩毎晩、パソコンは毒ですな、DVDも、深夜テレビもしかし、昨日の話、つボイさんのこと、僕は実にファンでしたね、本当に面白かった、タモリもたけしも所ジョージもみのもおんたも、全部深夜ラジオからでてきた。もちろん、三枝も鶴こうもつるべも毎晩、毎晩、勉強している振りして聞いていた深夜放送、あの時は本当に眠かった、眠い、所のオールナイトでは二部の坂崎がきて、よくギターならして歌をなまでうたう、実にこれが眠い。トークで面白いのは博学のつボイ先生であった、とにかく、彼の放送との出会いは、神戸の海の見える放送局であった、いまはAM神戸というがとうじは、やたらでかいエリアの名前を使う。ラジオ関西、というやつ。ここは音楽のメッカでいろんなアーチストがきていた、しかし、周波数は680だったかなすごく、左端のさびれたところにあり、間違ってアナログダイヤルをそこにはいかない。そこに若いつボイさんが名古屋からよばれてきていた。新神戸から三宮まで市バスしかないときで、彼は名物おばさんから切符をかう。話がおおいにそれるが、そのおばさんというの回数券をバラにしてバスに乗る人にうる、おばさんの取り分は、回数券を買って11枚ついてる一枚分。いまおもいだすと、すごいことを思いついて販売(かってに)していた、大きなお金しかないひとや、便利だから買うひとがおおいのだ、僕の母もそこでよく買っていた、話がついでにそれるが、いま、その新神戸駅のまえにあるでかいホテル、ダイエー系であったのが外資系にうりとばされたやつ。新神戸オリエンタルホテル、そこができる前は神戸市民病院というのがあった。僕はそこで生まれた、それだけの話、しかも4200グラムもあって母は苦しんだんだとおもう。話がもうひとつそれるが、母が根性があったんだとおもうのはICUでなくなる前にDICになって、機械につながれて10日間も生きたということすごいきつい、おそらくモルヒネで眠らされているのだろうか、ある親戚の声のでかいおじいさんがいるんだけど、でかい声で「元気にならなあかんよ!」と危篤状態に母にいったとき、目が動いたんだ、わかったんだ、すごいな、とおもった、話をもとにもどすと、つぼいさん(めんどうなので、本来はつボイという芸名ですが)のファンクラブにはいった、いもつぼい団というやつ、そのときに名古屋でファンの集いがあるというので母親をだましてなけなしのこずかいで近鉄特急にのり、名古屋までいった。栄公園というところにあつまった、うだうだ話しておわりだ。母親には鉄道の写真を撮影にゆくといって、うそをつき。4000円もこずかいをもらい、学食で原をすかしながらためたお金で参加した、生のつぼいさんをみて感動し、安藤なんとかというきれいなCBCのアナウンサーにもサインをもらい、プリンプリン物語の台本までもらった、(この台本は内緒だがやふおくで2500円で売ったんだ、反省)それから次の年、イタリアの落書きで有名になったあの大学にいき。二年生のとき、春、新聞のラジオ欄をみていたんだ。当時は今のように、ラジオ欄が新聞のどこにあるのかわからんような扱いでなくでかい字でテレビのしたにあった、近畿放送、がKBS京都になり、ハイヤング京都になんと、つぼいさんが担当たしか、水曜日であったとおもう、ぼくはうれしくて放送終了後まえに蛤御門、そう、長州が、ちがう、こりきでないそこでつぼいさんをでまち。出町ファンは、二人、ぼくと、高校生の子、「ああ、あのときにきてくれた神戸の高校生か?」つぼいさんはおぼえていてくれた、何度となく聞いていたが、バイトや勉強、コンパ、忙しい日々が続きとうとう深夜ラジオを卒業してしまった、あんなに話の面白い人はほかにいない、みのもんたなんか、くらべものじゃない。つぼいさんは、世渡りがすごく下手である、そう思うでもそこが人間的ですごくいいんだ、ネットでも放送をしていてやっぱり、ぼくみたいな隠れファンはたくさんいて人気です、山下達郎夫妻もつぼいファンで有名。しかし、今夜も僕のブログはばらばらやな。反省。親墨 ここ
2008.09.19
コメント(4)
前略 小田和正殿小田さん、誕生日おめでとうございます。本当なら奥さんとゆっくり家でワインでもあけながら、ゆっくりとそのときを楽しみたかったのかもしれない、明日はライブだそうです。本当にお疲れ様です、単なる通過点である誕生日でありますが一年一年、一日一日、せえいっぱい、音楽の仕事をされてがんばられている姿尊敬します。コンサートがおわり、控え室で一人靴下を脱ぎながらああでもない、こうでもない、と思い返すのでしょうか、高揚した感情が激しく襲う夜、ライブの夜は眠れず、おそらく疲労もたまり、その御身を心配するわけです。僕の願いはひとつ、「無理はしない」でください。ドームツアーをやると聞いたときもすごく心配でした、音響も事故もあるが小田さんが走り回る距離のすごさに、映画はまたやってくださいね、駄作とかいわれても気にせず。オフコース再結成してくださいね、あと、不同意はおそらく、社長だけですオフコースの完璧な演奏は必要がない、どれだけの人間を励まされ、勇気付けられるか、それに、愛というものが今の時代、欠乏しています、今の人たちに、愛をつたえるのはオフコース以外ありません、一度、また、うちの店にきてください、追伸 525円のシングル、安いけど、「ダジョウブ」?
2008.09.19
コメント(9)
こんばんわ、今宵も懲りずにきましたね、起こし着ていただきありがとうございます。大韓航空機の撃墜事件は衝撃的でした、あの80年代は、ソ連米国の冷戦の中、いつ、核弾頭ミサイルを打つのか、戦争はおきるのか、そういう恐怖心があり、だから、平和というものが大切という実感があった。映画も小説も音楽も、そぅだった。さだまさし、203高地の映画でテーマ曲「防人の歌」を作るだけで右翼とか言われる始末、過剰な反応が80年代であったと記憶する。冷戦のおまけが日本の平和であり、敗戦後の4分割されていたら、大変な今を迎えていただろう、80年の前後で大きな問題として、「拉致」の問題が水面下でおき、ありとあらゆるスパイ工作員が暗躍していた。ラジオでの混信もひどがった、韓国の放送に妨害電波を出す北、もろ影響を受けていたのが中部日本放送、CBCの放送を僕は神戸から聞こうとしていたのだが、無理だった。東海ラジオは聞ける、TBSもニッポン放送、文化放送、STVラジオ(札幌)とか、BCLブームでお年玉でかったクーガーでアンテナたててきくんだが、「つボイ」先生の放送が聞けなかった。当時、オールナイト日本の金曜日で絶大なる人気を得ていた彼は、あまりのいそがしさで、ヤングジャパンを辞めてしまう。当時、金曜日の深夜あさまで、オールナイトをやり、寝ないでバイクで東名をはしり土曜日の何とかという放送、これを生でやるには新幹線ではまにあわなかった。で、つぼいの放送が名古屋しか聞けないことになり、妨害電波のおかげで、聞けなかったのである、話がぜんぜんそれている。ひたすら数字を言っている放送とか、怪しいのが深夜流れていた。その影で、たくさんのひとが袋に入れられ、船にのせ、北朝鮮につれていかれる。本当に怖いことだ、当時の社会党などは唯一パイプをもっていても何も行動せず、いまの社民党であるが、本当にひどい政党である。AMの電波はよく飛ぶ、特に深夜、日曜日の夜とか、妨害電波も日曜はやすむのだ。撃墜された飛行機の乗客は補償とかしてもらったのだろうか、韓国も飛行機を落とされ、ひどい目にあってもなすすべがなかった。朝鮮戦争は実は今も、休戦協定であるだけで、終戦はしてないのだ、ひたすら、あのラインで対峙しているのだ、北の将軍さまが重篤であるという、できれば福田君、得ろ本でも持って見舞いゆけば最後の仕事として輝かしい歴史にのこるのではないだろうか北が後継者の問題で内乱がおき、そうなるかのシナリオは米国は作成しているだろう、出方しだいで、戦争は開始されるだろう。もう、ソ連はない。中国がどう出るかも問題、日本にミサイルをぶち込むとこれも参戦になる。平和的に解決するには、福田君得ろ本作戦で命をおとしてくれれば「僕はあなたと違うんです、客観的にどうのこうの・・。」という言葉がいい意味で歴史のヒーローとして上福戦争の勝利者となれるのだ、ああ、今日も意味のないぶろぐであった、反省親墨ahi
2008.09.18
コメント(2)
大韓航空機撃墜事件1983年9月1日に大韓航空のボーイング747が、慣性誘導装置の設定ミスのためにソビエト連邦の領空を侵犯したために、ソビエト連邦の戦闘機により撃墜された事件。『なぜ007便は航路を逸脱したのか』、『なぜソ連は民間機を撃墜したか』、という大きな謎が長らく解明されずにいたが、ソ連が崩壊するとともにロシア政府が、事故発生後にソ連海軍が回収したものの、その後回収したことを長い間隠しておいた007便のブラックボックスをICAOに提出した。ICAOはこれを高い解析技術を持つ第3国であるフランスの航空当局に提出、解析を行い、その結果をもとに調査の最終報告を提出した。航路を外れた007便は自衛隊の稚内レーダー部隊により観測されていた。しかし、この時点で洋上飛行中(のはず)であった007便はATCトランスポンダから識別信号を発しておらず、自衛隊は007便を「ソ連国内を飛行する所属不明の大型機」として、その周りに飛行するソ連軍戦闘機を、「迎撃訓練を行う戦闘機」として扱った。これとは別に、陸上幕僚監部調査第2部別室(通称「調別」、電波傍受を主任務とする部隊)は、ソ連の戦闘機が地上と交信している音声を傍受。「ミサイル発射」のメッセージを確認したが、この時点ではソ連領土内での領空侵犯機に対する通常の迎撃訓練が行われていると考えており、実際に民間機が攻撃されていたという事実は把握していなかった。この録音テープは、のちにアメリカがソ連に対し撃墜の事実を追及するために使用するが、公式には日本政府からアメリカへの引き渡しは行われておらず、どのような経緯で渡ったのかは不明である。アメリカは、この日の内にソ連が007便を撃墜したと発表。傍受テープも、雑音除去・ロシア語のテロップを付けた上で一部放送した(日本の軍事情報であるこのテープを公開することについて、中曽根康弘首相や後藤田正晴官房長官をはじめとする日本政府首脳は全く相談を受けていなかった)。 この事件の最大の疑問点は、「民間機と認識した上で撃墜したのか」ということであるが、ソ連崩壊後に行われた、撃墜した戦闘機のパイロットのゲンナジー・オシポビッチや地上の指揮官に対するその後のインタビューの中で、『007便が航行灯を点灯していた』ことと、『パイロットも地上も、007便を民間機を装ったスパイ機と認識していた』ことが明らかになった。また、アメリカ軍が撃墜後のソビエト軍の地上基地同士の交信を傍受した中で、撃墜2時間後に「どうやら我々は民間機を撃墜してしまったらしい」という報告もなされていた。これを裏付けるように、1976年に函館空港でのベレンコ中尉亡命事件でアメリカに亡命し、空軍顧問となっていたヴィクトル・ベレンコ元ソ連空軍中尉は、事件当時、アメリカ国防総省の依頼で交信を解読し「領空を侵犯すれば、民間機であろうと撃墜するのがソ連のやり方だ。ソ連の迎撃機は、最初から目標を撃墜するつもりで発進している。地上の防空指令センターは、目標が民間機かどうか分からないまま、侵入機を迎撃できなかった責任を問われるのを恐れ、パイロットにミサイルの発射を指示した」と、1997年8月の北海道新聞のインタビューで証言している。事件の調査のため日米ソが樺太の西、海馬島周囲の海域を捜索したが、ソ連は領海内への立ち入りは認めず、公海上での捜索に対しても日米の艦艇に対して進路妨害などを行った。その後、機体の一部や遺品など一部の回収物件は日本側へ引き渡されたが「遺体は見つからなかった」、「ブラックボックスは回収していない」と主張していた。しかし、事件直後から機体の破片や遺体の一部が次々日本の沿岸に流れ着いていたため、この様なソ連の発表内容は当時から疑問視されており、実際、ソ連崩壊後に行われたイズベスチヤ紙の取材で、複数の遺体とその一部、数々の遺品が回収されていたことが明らかにされているが、その全てが証拠隠滅のために焼却処分にされていた。韓国や日本、アメリカなどの犠牲者を出した西側諸国では政府による正式な抗議のみならず、ソ連製品の不買運動など多くの市民によるソ連に対しての抗議運動が起こった。 アメリカはソ連の国営航空会社であるアエロフロート航空機のアメリカ乗り入れを無期限停止し、同じくパンアメリカン航空機のソ連乗り入れも停止した。 大韓航空は、遺族からの賠償請求には事件の原因の不可知論を理由に拒否したため、多くの遺族は和解に応じざるを得なかった。 007便のボイスレコーダーには機長と副操縦士があくびを繰り返すのが記録されていることから、設定ミスもしくは切り替えミスに気づかなかった原因として疲労によるヒューマンエラーを指摘する声もある。実際、操縦士ら3人は、事故前にソウル→アンカレッジ→ニューヨーク→トロント→アンカレッジという勤務スケジュールであり、休養も取っていたが、小宮巌は著書で、『時差に疲れて休養を取るというのは、単に眠ればよいという単純な時間のつじつま合わせでは解決しない』と述べており、乗員らは時差ぼけが抜けきらなかった結果、注意力が散漫になったと主張している。 この事件のことは闇に葬られ、今や誰も語ろうとしない。ソ連という得体の知れない国が崩壊する予兆であったんだとおもう、28人の日本人がなくなり、今も遺族たちはやるせない気持ちであろう、当時、ソ連上空を飛行機がとべないので、案彼経由が主体で大韓航空はやすいので学生たちはよく利用していた。
2008.09.18
コメント(0)
親子の顔やしぐさ、親戚という関係を見てると、「遺伝」というもの強く感じる。昔の人は、遺伝子やゲノム解析しなくても、「顔」「特徴」「能力」などを判断し「家」「血族」を意識したんだとおもう。「家」「血族関係」を重視するのはアジアの特徴である。韓国は家を大切にし、母を大事にする、家に対してのプライドが高い。日本もかつてそうであった、それらが崩壊した原因を考察してみることがおおい。まずは、恋愛結婚のおおさであるかもしれない。1975年の「結婚しようよ」という、たくろーの歌を時代のキーポイントとして、見合い結婚は衰退してゆく。見合い否定者である若者は自分で彼女、彼をみつけれないものはださい、という風潮が続く。時代は恋愛の主役、女性の地位がかわった、中島みゆきの70年代の歌は「捨てないで」という女の叫びがあった。いま、「捨てないで」というのはどうしようもない男がはく言葉。「家」「血族」の主は、長男であり、まさしく、崩壊の一途をたどる。親殺しや、重悪事件を起こす少年たちの家はすべて機能不全で、バランスがわるい。キーポイントは祖父母の溺愛がおおい。「家」を守り行く子供を育てるのなら溺愛すれば、価値観のうすい。どうしようもない人間になるという人間になるというのに、また別のことであるが、「敗戦」も重要な影響もある、かなりの人々の家が崩壊し、男尊女卑、天皇陛下万歳の血族国家の矛盾をかんじ、否定したものであろう。ああ、だめもう3時半、いつかまた、このわけのわからない話をおつきあください。僕のいいたいことは支離滅裂ですが、親墨それ
2008.09.17
コメント(2)
80年代は、驚くような事件事故が頻発した、豊田商事事件もそうだし、 道端で一億円拾った大貫さんのこともそうだった。、いろんな事件がいろんな人に波及し時代の流れができてゆき、知らずにきがつくとまったく違う世界にいるわけだ。事故米というわけのわかない言葉もそうだ。この米の問題も貿易摩擦のこのころからの流れである、また、企業経営者の人間性の低さもそうだ。 一連の偽装事件で出てくる連中のあの独特な雰囲気はなんだろうか、ふてぶてしいというか開きなおるというか、醜いというか、要領のいいものが上にあがれる。どこでもそうだ、正直者が馬鹿を見るといいたげな、「ばれなきゃいい」「みんなやっている」みたいな。未だ80年代少しは正直さが残っていた、殺人はいけないが、会長を刺殺した男たちは自分たちのばかげた行為ともおもわなかったのだろうか、同時期に横浜の金属バット殺人もおきた、この事件も今に続く、親殺しの異常さ。後半につづく あの
2008.09.17
コメント(0)
一億円拾得事件とは、1980年4月25日に東京都中央区銀座で一般人が1億円を拾った事件のこと。1980年4月25日、トラック運転手である大貫久男(1938年 - 2000年)が東京都中央区銀座3丁目の道路脇で現金一億円入りの風呂敷包みを拾得。大貫は一億円を拾得物として警察に届け出た。このことが報道され、大貫は一躍時の人になった。大貫には自宅に電話や手紙が殺到し、勤めも辞めた。大貫はお笑い芸人として日本テレビの番組『テレビに出たいやつみんな来い!!』の準レギュラーとなった。拾得者の孫である大貫幹枝も、吉本興業のお笑い芸人、タカダ・コーポレーションのツッコミ役として現在活躍している。落とし主は現れなかったため、旧遺失物法にもとづき6ヶ月(当時。2007年12月以降、現在は原則3ヶ月)の届け出期間を経て、同年11月9日、全額について大貫に所有権が移った。しかし、所得税法第34条による一時所得であるため所得税約3,000万円を国家に納付したため、実質約7,000万円が大貫のものとなった。落とし主は結局現れなかったが、落とし主として名乗り出ると資金の出処を警察に明かさなくてはならず、名乗り出られなかったのではないかと噂された。この一億円は企業の裏金、政界の裏金、相場資金、麻薬取引金など、犯罪と関連があるのではないかと噂された。しかし、国はせこいな。3000万円も税金とるなよ。
2008.09.17
コメント(0)
1980年代を語る上で、この大きな詐欺事件は避けることができない。豊田商事事件は、金の地金を用いた現物まがい商法の会社による悪徳商法事件。被害者数は数万人、被害総額は2000億円近くと見積もられている。被害者の多くが高齢者であったこと、解約に応じない強引な手口、会長の永野一男の刺殺、またこの殺人犯に対する温情判決などにより大きな社会問題となった1952年8月1日、永野一男が岐阜県恵那市に生まれる。1981年、豊田商事の前身である、大阪豊田商事株式会社が設立。1982年に、豊田商事株式会社に改名。1985年、その悪徳商法が社会問題化。国民生活センターなどにより豊田商事関連の110番が設置された。同年6月18日、会長の永野一男が自宅マンションで刺殺された。「会長が今日逮捕される」との情報を聞きつけて多数の報道陣がマンションの自宅入り口通路を取り囲む中、詐欺被害者の元上司に当たる自称右翼の男ら二人が報道陣の目の前で窓をこじ開け自宅内に侵入、「今、永野会長を殺した」と血に染まった旧軍の銃剣や長身の刃物を持ち自宅より出て来た。各マスコミは一斉に報道。同年7月1日、豊田商事は破産宣告を受ける。破産管財人として、弁護士の中坊公平が選出される。客は金の地金を購入する契約を結ぶが、現物は客に引き渡さずに会社が預かり「ファミリー契約証券」という証券を代金と引き替えに渡す形式を取った。このため客は現物を購入するのか確認できず、証券と言う名目の紙切れしか手許に残らない現物まがい商法(ペーパー商法)と言われるものであった。一応、豊田商事の営業拠点には金の延べ棒がこれ見よがしに積まれていたが、後の捜査によってそれはイミテーションであったことが明らかになっている。豊田商事の同系会社の鹿島商事(かじましょうじ)も、販売対象物を金からゴルフクラブ会員権に変えて、現物まがい商法に会員権商法を組み合わせた商法を行っていた。客が購入した会員権は自分ではプレーせず、これを豊田ゴルフクラブという別会社に賃貸してその賃貸収入を得るということを謳っていた。だが、当のゴルフ場は申し訳程度に営業しているだけであり、会員権には全くと言っていいほど資産価値は無かった。また同系会社のベルギーダイヤモンドは、マルチまがい商法によって資産価値の殆ど無い屑ダイヤを販売していて、催眠商法の手口も悪用されるなどして豊田商事本体と並んで多くの被害を出した。頓挫した事業としては、インドネシア海軍の機材納入企業の設立やハイチ共和国の国軍向け被服工場建設(ともに現地側の都合により実現しなかった)、大洋商事(たいようしょうじ)という会社を設立して、オーストラリアや沖縄に陸海空に亘る総合レジャークラブ設立し、会員権を売り出そうとしていたが、オーストラリアでは外国人による土地取引に関する規制により、沖縄では地元住人の反対運動により販売体制ができる前に豊田商事が行き詰まった。当時、金に対する国民の関心は高まっており、1981年に国内金輸入量は史上最高を記録。このため私設の先物取引市場が横行し、それに伴う被害も多く社会問題になっていた。豊田商事の前身の大阪豊田商事も私設市場を舞台に先物取引を扱っていた業者の一つだった。このため商品取引所法が改正され、商品先物取引は政府が公認した市場で指定した品目に於いてのみしか認められない様にするなど、先物取引を規制する政策が打ち出された。この法規制を切っ掛けとして豊田商事は現物まがい商法へと商法を変えたと言われている破産時、売り上げの半分は従業員への給与の支払い(支店長クラスで基本給140万+役職手当90万これに支店の売り上げの0.5%が加算される)会社の運営資金として、残り半分は永野個人の先物取引きでの損失や会社としての事業の失敗により殆ど消えており、豊田商事には資産といえる資産は皆無だった。永野一男個人も、殺害されたときの所持金はわずか711円だった。しかし、管財人となった中坊公平の率いるチームによって、今まで豊田商事が浪費した金が回収される。中坊チームの資金回収は徹底しており、家賃敷金や高額の給料を貰っていた豊田商事の従業員が納めた税金まで回収し、その金額は100億円を越えた。回収に対する妨害行為も多々発生しており、一部の暴力団や金融機関等は、管財人チームへの詐欺行為による回収された資金の奪取や建物占有行為を実行した。その後、「特定商品等の預託等取引契約に関する法律」が制定された。この法律により、金などの預託取引契約に対して、一定期間内なら、理由の如何を問わず契約を解除できるクーリングオフ制度が導入された(なお預託取引契約は、一般的なクーリングオフ制度と異なり、店舗外での契約だけでなく、店舗内での契約に対してもクーリングオフ制度の適用がある)。本当にひどい事件であった、こういうことから法律もかわり、いろんな制度もできたが人の悪さはいまもかわらない。
2008.09.17
コメント(2)
こんばんわ、元春が米国に渡り、肌で感じたかのちのぶんか。一方、そのころ1980年代前半には、戦争で負けた日本が経済で米国を負かしていた。この立役者は戦争体験者たちであった、彼らの努力とものづくりのこだわりは日本を貿易黒字国とし、いまのような投資国でなく、貿易国であった、本日、米国リーマン社が破綻、64兆3600億円というとほうもない数字を残した。米政府は、日本のやり方を見ていて、勉強し、あえてつぶしたそうだ。日本の大幅貿易黒字から、円高攻撃をうけ、円高不況になりプラザ合意でバブルを起こしバブルがはじけ、次々に金融不安がおこり、銀行への公的資金注入や、ダイエーなどの産業再生をおこなってきた。しかしながら、コスト削減、利益重視のながれが中国への生産シフトとなり、「よりやすく」のデフレスパイラルを起こし、規制緩和などのよりより格差社会になった。で、日本、今度は混迷の政局だ、小沢党首は国民新党を抱きこむかわりに、リップサービスともおもえる、郵政国営にもどす、ということを言い出した。これはだめです。政治が変わるたびに、民営国営を繰り返す政治の「迷走」になります。思えば、郵政民営化してなにもかわらない。巨大企業が民業圧迫するだけ、そこを改善してゆかないと、だめで、また官営にしてそのコストはどうするの、せっかくの税収入もなくなるし、郵貯から流用した「米国債購入」資金をかえせ、といわれるよ。だから、民主党はぼけてるの、ミンスといわれるのよ。おもえばさ、80年代の自民党の中の抗争とおんなじだよね、小沢さんはカクエイの弟子だしね鳩山さんもそうだよね、変な話だね、米国がえらいことになれば、日本から巻き上げた米国債は紙切れ同然、80年代の政治が今に深く影響していますよね、親墨there
2008.09.16
コメント(6)
貿易摩擦の一例として「アヘン戦争」がある。当時、イギリスでは上流階級のみならず庶民の間でもお茶を飲む風習が広まっており清国からお茶などを輸入していた。一方、清国はイギリスからほとんど何も買わなかったので、両国の貿易ではイギリスが赤字で清国は黒字であった。これを問題視して赤字を解消しようとして実施されたのが当時イギリスの植民地であったインドで栽培したアヘンの密貿易であった。アヘン中毒が蔓延して清国側がアヘン取締りに乗り出すと、イギリスではアヘン商人が「わが国の国益が損なわれる」として議会に働きかけた。ウィリアム・グラッドストンは「こんな恥ずべき戦争はイギリスの歴史に残る汚点となる」といって批判したが、投票の結果、わずかな票差で開戦が決定された。香港が長くイギリス領だったのは、アヘン戦争の結果(南京条約のため)である。 1970年代以降日本車の海外輸出超過によってアメリカ合衆国の自動車産業に影響を与えたとして政治問題となった。日本では「日米自動車摩擦」と呼んでいたが、アメリカでは端的に「デトロイト問題」と呼んでいた(デトロイトには自動車産業が集中していた)。アメリカ側は、日本に対して牛肉やオレンジなどの農産物の輸入拡大を求めたほか、内需拡大や市場開放をも迫った。また、一部のアメリカの労働者は抗議活動の一環として日本車を破壊するパフォーマンスを行った。その後、日本の自動車産業は輸出よりも現地の雇用に悪影響を与えにくいとされる海外現地生産に主力を置くようになった。しかし、失業率と経常収支の対GDP比との関係を長期的に見ると、経常収支の赤字が増えた場面ではむしろ失業率は低下しており、日本が世界中に失業を輸出したかのような非難は当らない。貿易摩擦で競合した車は今は完全に「トヨタ」の勝利となったが、当時、この問題から派生して顕在のバブルを経過し、この失われた10年におよぶ。もし、この問題をきちんと別方向で解決していたら、今のような状況にならないあくまで、結果論、80年に起こったことが、ここまでひびくとは、
2008.09.16
コメント(1)
プラザ合意(Plaza Accord)とは1985年9月22日、アメリカ合衆国・ニューヨークの「プラザホテル」で行われたG5(先進5カ国蔵相・中央銀行総裁会議)により発表された、為替レートに関する合意。当時のアメリカ合衆国の対外不均衡解消を名目とした協調介入への合意である。対日貿易赤字の是正を狙い、円高ドル安政策を採るものであった。歴史的な会議であったが、事前に内容は詰められており、会議自体の所要時間はわずか20分程度であった。1980年代初めのアメリカではインフレーションの抑制を目的にした厳しい金融引締めが行われていた。金利は2桁に達し、世界中の資金がアメリカへ集中した。結果、ドル相場は高めに推移することになり、輸出減少と輸入拡大をもたらした。高金利による民間投資抑制と重なり需給バランスが改善、インフレからの脱出に成功した。結果的に、莫大な貿易赤字が計上されることとなった。その後インフレ沈静化に伴い、金融緩和が進行。景気回復で貿易赤字増大に拍車がかかった。金利低下により貿易赤字の国アメリカのドルへの魅力が薄れるに伴い、ドル相場は次第に不安定化した。1970年代末期のようなドル危機の再発を恐れた先進国により協調的ドル安の実施を図るため、このプラザ合意が成された。発表の翌日の1日(24時間)で、ドル円レートは1ドル235円から約20円下落した。1年後にはドルの価値はほぼ半減し120円台での取引が行われるようになった。この合意を受け日本では急速な円高が進行し、円高不況の発生が懸念されたために低金利政策が採用・継続された。この低金利政策が、不動産や株式への投機を加速させバブル景気加熱をもたらした。 また円高により、日本経済の規模は相対的に急拡大。「半額セール」とまで言われた米国資産の買い漁りや、海外旅行のブーム、賃金の安い国への工場移転などが相次いだ。その後、進みすぎたドル安に歯止めをかけるべく、為替レートの安定化を図るために1987年、再び各国が協調介入することをうたったルーブル合意がなされた。プラザ合意についてはバブル崩壊後にさまざまな議論がなされたが、バブル景気とその後の失われた10年(長期不況)の要因ではないかとの見解がある。輸出が需要創出の大きな柱である日本が為替レートを恣意的に調節することは大きなリスクを伴う。協調介入によって人為的に円高に導いた結果、輸出産業は競争力を相対的に失うことに繋がった。日本にとって不利になるこの合意がなされた背景には、以前からあった日米貿易摩擦もあると考えられる。1980年代前半にはアメリカの莫大な経常赤字により日本では輸出が急伸し、経常黒字は著しく増大した。これにより、輸出産業を中心に好業績の企業が相次いだ。当時アメリカは、財政赤字と貿易赤字という、いわゆる「双子の赤字」を抱えており、日欧諸国はアメリカによりもたらされる経常黒字が物価上昇圧力になっているという指摘があった。これらの世界経済不均衡を是正するための効果的な手段としてドル安への誘導がなされたという指摘がある。ドル安にすれば米国の貿易赤字(とりわけ対日貿易赤字)が目減りすると期待された米国のいいなりで、日本がおこなう、中曽根竹下の意思がのちのこの時代を招いた。よく、このあたりはこれからの歴史で記憶しておいてください。
2008.09.16
コメント(2)
円相場の上昇(円高)に伴い日本国内の輸出産業が損害を被る結果発生する不況のことである。円高デフレとも言う。特に1983年から1987年にかけての不況期を指すことが多い(政府発表では1983年から1986年の第10循環に相当する)。円相場が円高に傾くと、外貨建て債権を有する日本の輸出産業は為替差損を被ることになり、経営が圧迫される。逆に輸入産業は為替差益を得ることになるが、日本は貿易収支が大幅黒字国であり輸出産業の方が経済に及ぼす影響力が強いため、日本経済全体としては、差益より差損の方が大きくなる。そして利益が減少したことで社員給与の減少や価格への転嫁が起こり、結果購買意欲の衰退、不況へと向かう。変動相場制移行後最初の円高不況は1971年8月、ドルショックの影響で引き起こされた。およそ4半世紀の間1ドル=360円の固定レートが使われていたため収支計算には勿論その固定レートが用いられていたが、急なレートの変更(1ドル=307円)が日本の輸出産業に与えた打撃は大きく(ニクソンショック)、赤字を計上する企業が続出した。その後1973年までの2年間は再び固定相場体制が採られた(スミソニアン体制)が、不安定かつ暫定的な体制であったため数次にわたる通貨危機が発生し、遂には変動相場制に移行することとなった。これにより日本円は信用の低下していた米ドルに対して急速に切り上げられることとなり、再び輸出産業は大きな損害を被った。1970年代後半から1980年代前半にかけては円相場は250円近辺に落ち着くようになったが、じりじりと円安ドル高が進行している状態であった。 ドル高による国際競争力の喪失を恐れたアメリカは1985年、プラザホテルにてG5を招集し会議を開き、諸国にドル安誘導を要請し各国はそれを承認した(プラザ合意)。1ドル=240円台で推移していた円相場は1985年末には1ドル=200円まで修正され、その後も一貫して円高ドル安状況が継続していった。特に中小の輸出主導型会社は苦境にたたされることになったが、1986年ごろから政府主導で公定歩合を2.5%に引き下げる超低金利政策などの不況対策が行われ、状況は改善していった。発生した余剰資金はストックの増大をもたらし、やがて来るバブル経済の下地を作ることとなった。円相場がなせるわざで、バブルを迎えた円高不況は、僕の1983年の就職活動で求人がまったくなく。ぼんくらの三流大学では、壊滅状態。、で、僕は新境地のふぁ見れ巣にゆき、ここにいたる。不思議な輪廻、(?)
2008.09.16
コメント(2)
さあ、新しくて古い夜行列車のスタートです。行く先は1980年だいです。偉大なる80年だい、実にダサい時代、70年はあるいみ、スマートで反戦とかのポリシーがあったが、80年代は自分の回帰がおわりフォークが終焉し、新しい電気的な音楽がマスにたいおうできるべくして、より、商業的なものへと変質した、商業的音楽、言い方が悪いが、そのマーケットはでかかった。洋楽の大物は日本にきたがる、そのギャラに高さにひかれ、「なんで、こんな人が売れないのか?」そういうことがおおい。運が悪いのか、売り方がわるいのか事務所がわるいのか、佐野元春は当初、ヤングジャパンにはいっていて、アリスとかの前座をしていた、彼の音楽性とは、時代も内容もまったく違う、前座という「試練」誰も聞かない、オフコースもあべ静江の前座や杉田ジローのバックをしたりして音を出していた。元春はけっこう、メジャーデビューしてからすぐに火がついた。大瀧えいいちのナイアガラ渡来殴るの引っ張りがあり、斬新なかっこいい音と詩は80年代にはなかった。三枚のLPのときに、NYに渡り、安ホテルにとまり、薄い壁越しにここえるプリンスのラップに感動したという、自分の殻とか枠組みとかできる前にいろんなことを吸収しできるだけ、自己満足の天狗になってしまわないようにしなければならない。国際青年年にアーチストが集まりライブをした、司会はたくろー。4人になったオフコースもいた、デビューしたばかりの元春もいた。音楽の時代が変わりつつあるときだった。あの時代から20数年。いろんなことがあった80年代の波及効果、未来が今の時代。誰も予想できないことが山のようにおきている、この起きていることが、判断していることが2030年にころの未来に大きな影響を起こし、未来の人々は振り返るかもしれない。いまのぼくがしているように、音楽が商業主義に走ったことは過ちであった。ぺんぺん草ものこらない、いま、アーチストたちを育成保護し、芸術や文化としてのグレード意味をつけないと、大衆文化の中にうもれさることだろう。sorachiサンの後輩が学童の合唱で「言葉にならない」をつかうそうだ。これはほんとうにいいことだ、歌がひとつの命を得て生きてゆく証だ、ベートベン、モーツアルトの曲が残るのと同じだ、演じての技能、性格で持つ歌ばかりで、本来の歌としてどうであるか、そういうことが意識してするしないではないんだろうけど、人々の感動を与えれる歌はきっとのこり、若い人が語り継ぐだろう、いつか、誰しもが与えられる死。小田さんも死ぬし、僕も死ぬ。しかし、歌はのこる、それは商業主義でない。芸術主義でなけらばならない。ロックを語るやつが一億円のギャラでCMにで続けるとその魂、悪魔に売りとばしたり、そう感じる、親墨here
2008.09.15
コメント(8)
こんばんわ、みなさん、台風が急カーブして日本に向かう、その動きは販促。いや、反則であった、たっぷり途中急温暖化され、気圧が減滅されパワーを増やし日本に向かう。一方、中国らしき潜水艦が足摺岬沖で侵犯する、いつだって、戦争はやるよ、みたいな。おいおい、それはないだろう。一方、神戸では、創価学会の人々が三国志の国宝を借りてきて展示、すごいんだが、いきたいが、いけないし、池田先生は、中国と国交を回復した偉業をもつ。しかし、世間は草加嫌い。宗教はいつの世の弾圧されるもの、生協分離の法則、あえて誤字。あっそうさんがばんばん、述べられていますが、やっぱ、自民はすごいね、やり方がうまいよ、でも、昔みたいなぼくでない。政治なんかどうでもいいと、女の子の決を負いまわしていた90年代。深く反省。残念ながら、深夜部ログ便はきょうで最後となります、ありがとうございました、明日からまた、違う名前でおなじことやります。ああ、もう産児。親墨
2008.09.14
コメント(6)
元春のビジター図を聞きながら、相当まいっていた、22歳のころ。大学を出て、なんでコックの修行をおこなうのか、2ヶ月でその店にヘルプに夏場行かされ、キッチンをすべてまかせるという、できるわけない、チーフもシェフもいない、怒鳴り散らす店長とおとなしい社員と仕事のしない社員その中で、バイトやパートの人の仕事を見よう見舞えでおぼえてゆく。そこは、名神の高速と中国縦貫のインターの近くの店で、レジャープールのでかいのがありとてもではないが夏場は1000名を超えることがよくあった今でも忘れない、土曜日のラッシュ、異動してまなしのとき、突然のラッシュ、ホールの連中がオーダーをたくさんとりまくり、最初のオーダーが、イセエビのテルミドール、4つ。コース。最初から、かちのかちです、冷凍のイセエビ解凍で電子レンジがふさがりそのあとのオーダーができない、解凍し、ベシャメルを溶かしかけてシュレットチーズをかけて、オーブンで10分。もう、パンク、そのあとのオーダーがとまる、客席はすべて、キッチンの僕を見る、ホールもキッチンも僕を見て「だめだ」なんとかしなければ。きがつくと、お前どけ!と追いやられ、洗い場に、夏場、なんどもなんども指示をだせなかったり、間違えて怒鳴られる日々。バイトの連中もまったく、言うことを聞かない。「あんたの言うことを聞いていたら料理がでないよ。」一番古いバイトが(6年もいた)そういった、ぼくは、無性に腹が立ち、もう、やめようとおもった、お店の屋根に登り、寝転んで、仕事を放棄した、仕事をきちんと教えてもくれず、バイトにはばかにされ、一応、変なプライドだけが残っていた、仕事をしない社員のひとが、屋根まできて、「やめるのは簡単だけど、もう一月がんばってみれば、その次できたら、もう一月やればいい」ぼくは、開き直り、バイトには負けずという気概で、やっと秋風が吹くころ料理をきちんと出せるようになった、「異動!おつかれさん」その店を去り、大阪、神戸広島岡山四国など6年ほどの修行。6年めになんと、その研修中の近くに新規店舗ができるというので僕が任命された、店のオープンはたいへんで、死ぬほど働いた、あるとき、ホールのひとがぼくあてに電話があったと、あの時研修のとき苦労した店でいた深夜のパートのおばさんが、「がんばって、よかったね、」そう伝えてくれと。元春の歌を聞くと、あのころを思い出す、今もまた、研修のようなものだ、いつになれば楽になれるんだろう、ここ
2008.09.13
コメント(4)
![]()
こんばんわ、全席空席の深夜風呂具便であります。くだらないことをおもいつきいろいろと語ります、実をいうと、ラジオ深夜便の朴理ではありません、大昔、高校のころ大学のころまで深夜ラジオに熱を上げ、いつかはきっと、深夜ラジオの放送をしたい、そうおもいつつ、できなかった夢をブログで表現しております、学生のころ、なんでもやりたいというのがあり、自分の下宿でミニFMを後輩たちとしそのとき、いろんな音楽と出会い、音楽がもともとだいすきであったぼくはインターネットでまたふたたび、音楽のCDLPなどを集めだし押入れの中に数枚しかなったCDが。棚が三段まで増え、300枚にもなり。この先はどうなるのか、今、聞いているのが1984年の佐野元春の「ERJ 佐野元春/VISITORS」このLPは斬新な編曲と、歌詞、素敵な声、もうおどろくばかりの音楽でした、オフコースを封印した1982年、それから、大瀧サウンド、山下たつろう、サザン。明るめの音楽にシフトしてゆくのです。その時代は、このLPは、その後の音楽シーンを変えるほどの衝撃、そのころ、元春はNYにすんでいてあちらのダウタウンの音楽を肌で感じていたのだろう、あのリズムは考え付きようがない、24年も前にラップのリズムをいれたのは、おそらくこの元春が最初、歌詞の中の単語をならべるだけで情景を表現させ言葉の間にそのイメージをもたせ、彼の音楽はそのころからかなり先進的であった。尾崎豊は浜田省吾と元春の影響をかなり受けている、コンプリケイション・シェイクダウン1984年帰国。渡米中に制作したアルバム『VISITORS』を5月にリリース。オリコンで1位を記録する。冒頭の「コンプリケーション・シェイクダウン」を含む数曲でラップを取り入れ、当時の音楽業界に大きな衝撃を与えた。これはメジャーレーベル系・ミュージシャンとしては初の日本語ラップと言われており、現在も国内ラップミュージシャンから大いにリスペクトを受けている。佐野はコンサートツアー『VISITORS TOUR』を全国で展開するが、チケット申し込みの電話回線がパンクする事件がおきるほどの人気を博した。この年、松田聖子の「ハートのイアリング」を作曲。そのときのペンネーム「Holland Rose」は、佐野がDJを務めるラジオ番組に小学生リスナーが送ってきたリクエストハガキで「ホール&オーツ」を間違えてホーランドローズと書いていた微笑ましいエピソードをヒントに付けたという。 ぼくが、DJの道を決別し、大学を出て就職し大きな壁を感じながら働き始めたときに聞いていたことを思い出す。171号線を西宮から武庫川をこえ、車で走りながら、中古の車のカーステで何度もきいてたな。
2008.09.13
コメント(0)
ブラジルのジュリーアヌなんとか、というひとがこの九月に当会大臣滋賀おこると、予言してる。妄想人たちはパニックテル。(東海大地震)なんで、そんな変換するのかな、このばかぱそこんめまじっでおきるのか、しかし、GPSの衛星による監視、いろんな監視をしてる、しかし、あの、何とかシステムはだめだね、おそらく、あてにはできない。早期伝達されても寸前ではむずかしい。心配は、あの原発だ、1.2号機が停止しているがほかのは動いています。断層の上に立ち、しかも軟弱。停止できることをおいのりします。もう、9月も半分、あのブラジルの予言者がにせものであるのかどうかわからないがみなさん、きたら、うまく逃げてください。どうぞ、ご無事で、
2008.09.12
コメント(2)
もうすっぐ。300回になろうとしています、深夜風呂具便。こんばんわ、全席空席の深夜風呂具便、どうぞ、大塩平八郎の乱、すさまじいです、こういう人がいるとは、しかし、歴史の流れは権力者勝利者の歴史、反乱者はなかなか、紹介されない、利他的遺伝子の持ち主はもともと、幕府の人間であった。人々が苦しみ、餓死したりするのをみながら、妻家族を離縁し、人々のために立ち上がろうとする姿。ヒーローではないだろうか、日本史には数少ない利他的なえいゅう!米の歴史は暴動の歴史、貧富の差ができたのも、戦争に明け暮れたのも弥生時代、稲作のよって、富が満たされ、労働集約産業がおこり、そのまま兵士になる。僕の近所で、川の分水器が発掘された、それは石でできており、川の水を平等に左と右の用水路にわけるもの、稲作には水が大切であった、その水を争うことで殺し合いまであったんだろう。米が大阪に集まり、そこで相場が決まる仕組みは、確か秀吉がきめたとおもう。全国の米が売り買いされるのも大阪、堂島あたり、ここで値が決まると、のろしを上げたり、信号を送り、いち早く藩に通知された、しかし、いつの世もひどいやつがきて、値が上がるまで隠し、一円でもたかくうろとしたり幕府米はおおいので相場に影響しやすく、旗本のわるいやつが豪商と値を上げるように操作したりそう、いつの世もおんなじ。まあ、いまは米相場暴落で事故米のことでたいへんだから、しかし、なんで、精米して保存するのか玄米で保存し、低温で保管しておくと「かび」なんてのは発生しない、「農薬」なんてのはすぐに輸入時に検査すればいいんだが、どうも、おかしい。日本人は歴史始まって以来、米をくわなくなった。パンとかバーガーとか、そういう小麦粉のものたべるようになった。で、昨今のバイオメタノールのせいで、値上がりして、パンなどは値上げ、しかし、米は安い。こめ食えばいいやん。しかし、農家の人々は米を作るのを減反政策、後継者不足で減りつつある、1993年だったか農地の減免税を止めて宅地並みにしたのもおおいに、影響して衛星都市では壊滅状態となった。田んぼの風景は、水風景であり、たくさんの水をつかい、かえるやめだかなどの水べのいきものが美しい風景を作りだしてきた。荒れた農地には雑草がはえ、農薬付けでおそらく、アトピーなどの原因は憶測であるがそこにあるとおもうアトピーが騒がれだした時期と米の農薬が強化された時期と符合する、いや、米の話をしてじつにつまらんですか?つきないですね。いったん、ここで、休憩ここ
2008.09.12
コメント(0)
1918年7月22日の夜間、富山県下新川郡魚津町の魚津港に、北海道への米の輸送を行うため、「伊吹丸」が寄航。伊吹丸への荷積みを行っていた十二銀行の倉庫前へ魚津町の主婦ら十数人が集まり、米の船積みを中止し、住民に販売するよう求める嘆願がなされたこの時は巡回中の警官によって解散させられたが、住民らは集会をはじめるなど、米の販売を要望する人数はさらに増加していき、翌月8月3日には中新川郡西水橋町で200名弱の町民が集結し、米問屋や資産家に対し米の移出を停止し、販売するよう嘆願した。8月6日にはこの運動はさらに激しさを増し、東水橋町、滑川町の住民も巻き込み、1,000名を超える事態となった。住民らは米の移出を実力行使で阻止し、当時1升40銭から50銭の相場だった米を35銭で販売させた。この件は地方新聞を通じ、全国の新聞に「越中女一揆」として報道された。米騒動の始まりであった。米価の暴騰はとどまりを見せず、1918年8月1日には1石35円を超え、同5日には40円を超え、9日には50円を超えた。8月10日には京都市と名古屋市を皮切りに全国の主要都市で米騒動が発生する形となった。米騒動は移出の取りやめ、安売りの哀願から始まり、要求は次第に寄付の強要、打ちこわしに発展した。10日夜に名古屋鶴舞公園において米価問題に関する市民大会が開かれるとの噂が広まり、約20,000人の群集が集結した。同じく京都では柳原において騒動が始まり、米問屋を打ちこわすなどして1升30銭での販売を強要した。こうした「値下げを強要すれば安く米が手に入る」という実績は瞬く間に市から市へと広がり、8月17日頃からは都市部から町や農村へ、そして8月20日までにほぼ全国へ波及した。騒動は次第に米問屋から炭坑へと場所を移し、9月12日の三池炭坑の騒動終了まで、50日間を数えた。8月17日以降には米騒動は山口県や北九州の炭坑騒動へ飛び火する。山口県沖の山炭坑、福岡県峰地炭坑などにおいて炭坑夫の賃上げ要求が暴動に転化した。沖の山炭坑の騒動は付近住民を加えた数千人規模の騒動に発展し、米問屋、屋敷の打ちこわしや遊郭への放火などが起こった。出動した軍隊に対してもダイナマイトで対抗するなど、死者13名を数える惨事となった。「米騒動」や「米騒擾」などと呼ばれた約50日間に渡る一連の騒動は最終的に、1道3府37県の計369ヶ所にのぼり、参加者の規模は数百万人を数え、出動した軍隊は3府23県にわたり10万人以上が投入された。検挙された人員は25,000人を超え、8253名が検事処分を受けた。また7786名が起訴され、第一審での無期懲役が12名、10年以上の有期刑が59名を数えた。米騒動には統一的な指導者は存在しなかったが、一部民衆を扇動したとして和歌山県で2名が死刑の判決を受けている。米騒動での検事処分者は8185人におよび、被差別部落からはそのうちの1割を超える処分者が出た。1割は人口比率に対して格別に多かった。これは被差別部落民が米商の投機買いによる最大の被害者層であったからである。処分は死刑をも含む重いものであった。1920年、事態を重く見た原敬内閣は部落改善費5万円を計上し、部落改善のための最初の国庫支出を行った。同年、内務省は省内に社会局を設置し、府県などの地方庁にも社会課を設けた。余談だが、ぼられる、という言葉の言葉はこのころの暴利米価格からきているのだ。米騒動の報道に際し、各種新聞は民衆の行動を好意的に報じると共に、根本的な原因は民衆の要求を無視し続けた政府にあるとした。一方政府は事件が広がったのは新聞が誇大に報道したためであるとし、8月7日に『高岡新報』を発禁処分にしたのをはじめ、8月14日には米騒動に関する一切の報道を禁じる記事差止命令を報道各社へ通達したマスコミの宣伝に怖さを認識したのであろう東京春秋会(新聞社複数社で結成された連合)はこのような政府の処分に対し取り消しを要求し、水野錬太郎内務大臣は「内務省発表の公報情報のみ掲載を認める」と柔化させた。しかし、政府発表情報があまりに事実と反していた事から春秋会はさらに抗議を続け、報道禁止令を撤廃させる事に成功している。一連の寺内内閣の言論弾圧に対し新聞社は激しく抗議し、言論報道の自由に関する運動に発展していった。言論弾圧が内閣をかえ、逆の平民宰相原内閣をつくる。しかし、その後再び、恐慌、貧困などが問題となり、戦争への道を進む。すべては食い物からはじまった。歴史的にみれば、この米に関するトラブルは後に大きな火種を残す。そういうことがあり、戦後政府は、規制をかけ、価格を安定させ、税金を使い農家を保護してきた。しかし、今、いろんな問題があり、ウルグアイラウンドなど、無視できないグローバルな関連を含め、農水の仕事は複雑かつ困難な問題を抱えている。しかしながら、政府はことごとく信頼を裏切るような天誅ものの大臣ばかりで情けないのだ。歴史は繰り返すのだ。
2008.09.12
コメント(2)
生田万の乱(いくたよろずのらん)とは、天保8年(1837年)6月に平田篤胤門人生田万が越後国柏崎で貧民救済のため蜂起した事件。天保の大飢饉・大塩平八郎の乱の余波。天保年間は大飢饉により多数の餓死者を出していたが、そのような状況にあっても豪商や代官役人は結託して米を買い占める不正を働き、米価は暴騰して庶民生活を圧迫していた。柏崎へ移り住んでいた生田万は、救民の名の下に柏崎代官所を数名の手勢と襲撃したが、首謀者の生田が負傷して自刃したため鎮圧された。騒動の翌日より、米価は値下がりしはじめた(暴落したとも言われている)。先の大塩平八郎の乱と共に幕府権威の失墜を示す事件であり、幕府は天保の改革により巻き返しを図ることになる。いつの時代でもおんなじ議員の多くは、ファウンドにおそらく投資、その金はオイルマネーになり、石油暴騰で利ざやをえたはず、
2008.09.12
コメント(0)
大塩平八郎の乱は、江戸時代の1837年に、大坂(大阪府)で町奉行所元与力大塩平八郎と門人らが起こした江戸幕府に対する民乱である。大塩の乱とも言う。旗本が出兵した戦としては1636-37年におきた島原の乱以来、200年ぶりの合戦であった。前年1836年の天保の大飢饉により、各地で一揆が多発していた。大坂にも米不足が起こり、これに幕府の大坂東町奉行与力であり陽明学者でもある大塩は、奉行所に対しに民衆の救援を提言したが拒否され、仕方なく自らの蔵書数万冊を全て売却し、得た資金を持って救済に当たっていた。しかしこれをも奉行所は「売名行為」と看做していた。そのような世情であるにも関わらず、大坂町奉行の跡部良弼(老中・水野忠邦の弟)は大坂を省みずに、豪商の北風家から購入した米を新将軍 徳川家慶就任の儀式のため江戸へ送っていた。 多数の大坂担当の役人たちも皆、江戸の幕閣の機嫌を取ることに一生懸命であった。その最中ですら利を求めて、更に米の買い占めを図っていた豪商に対しての怒りも募り、1830年に与力を辞職した平八郎は家財を売却し、家族を離縁した上で、大砲などの火器や焙烙玉(爆薬)を整えた。一揆の際の制圧のためとして私塾の師弟に軍事訓練を施し、豪商らに対して天誅を加えるべしと自らの門下生と近郷の農民に檄文を回し、金一朱とひきかえる施行札を大坂市中と近在の村に配布し、決起の檄文で参加を呼びかけた一方で大坂町奉行所の不正、役人の汚職などを訴える手紙を書き上げ、これを江戸の幕閣に送っていた。決起の日を、新任の西町奉行堀利堅が、東町奉行の跡部に挨拶に来る二月十九日と決め、同日に両者を爆薬で襲撃、爆死させる計画を立てた。ところが決起直前の当日になって、内通離反者が出てしまい、計画は奉行所に察知されてしまった。爆死させる計画は頓挫し、完全な準備の整わぬままに2月19日(西暦換算で同年3月25日)の朝、自らの屋敷に火をかけ決起した。現在の大阪市北区天満橋の大塩邸から難波橋を渡り、北船場で鴻池屋などの豪商を襲い、近郷の農民と引っ張り込まれた大坂町民とで総勢300人ほどの勢力となり、「救民」の旗を掲げて船場の豪商家に大砲や火矢を放ったが、徒に火災(大塩焼け)が大きくなるばかりで、奉行所の兵に半日で鎮圧されてしまった。大塩は養子・格之助と共におよそ40日余り、大坂近郊各所に潜伏した。せめて先に江戸に送った告発文が幕府に届くことを期待したのである。だが告発文は箱根の関所で発見され、押収されてしまう。失意のまま大坂に舞い戻った大塩は、美吉屋五郎兵衛の店(靱油掛町)に匿われたが、出入りする奉公人によって大坂城代土井利位に通報され、土井とその家老鷹見泉石らの率いる探索方に包囲された末、火薬を使って自決した。遺体は顔の判別も不可能な状態であったと伝わる。大塩の挙兵は失敗に終わったものの、幕府の役人だった大塩が反乱を起こしたことは、江戸幕府の要人達に、また幕政に不満を持つ民衆達に大きな衝撃を与えた。 この乱後に全国で同様の乱が頻発し、その首謀者達は「大塩門弟」、「大塩残党」などと称していた。 遺体の状況から「大塩はまだ生きている」「海外に逃亡した」という風説が流れた。身の危険を案じた大坂町奉行が市中巡察を中止したり、また当時アメリカのモリソン号が江戸湾に侵入していたことと絡めて「大塩と黒船が江戸を襲撃する」という説まで流れた。これに、大塩一党の(遺体の)磔(形式的な公開処刑)をいまだ行っていなかったことが噂に拍車をかけた。幕府としても元役人で、武士でもあり、遺体の状況をも鑑みた上での処置であったろうが、そのため余計に生存説が拡大してしまった。仕方なく幕府は事件一年後に磔を行うが、それは塩漬けにされて人相も明らかでない遺体が十数体磔にされる、という異様な風景で、当然見物人からは大塩本人の遺体の真贋判断などできるわけではなく、さらに生存説が拡大することとなってしまった。大塩の発した檄文は、幕府に反感を持つ庶民の手で、取締りをかいくぐり、写筆により全国に伝えられ、越後国では国学者の生田万が柏崎の代官所を襲撃する乱を起している。すごい、ヒーローです。こういう人がいまいたら、大田のおっさんは磔だろう、福田のおっさんもすごい歴史だ。だれもしらない大阪市民。
2008.09.12
コメント(0)
![]()
小田さんの誕生日がもうすぐすれぬしさん、最近みない。たしか、去年もそうだった、そのまえは、あった、誕生日お祝いのメッセージをみなさん、ばー、とゆきましょう 今日も どこかで / 小田和正
2008.09.12
コメント(6)
まだまだ続く、北海道で地震があり、巷では次の地震のことで検索しまくっている、なんもわからないが「地震雲」とかなとか、阪神大震災のときに淡路の人が撮影して話題になり、根拠があるのかないのかどれもこれも、それらしく動く雲。プレート境界型のものが続き、一番怖いのが東海大地震、これに連動して動くものが、南海、東南海、世の中が変わるときには、ほうき星がながれ、地震がおきて、大きな動きがある、地震とはべつに、北の問題もある、将軍さまがおびよきらしくて、その混乱が予測される、独裁政権というのは危うい、軍部はどう動くかだ、核放棄するのをやめて、ミサイルをうつのかな。さあ、散々、怖いことをかいてしまい、反省、眠れぬ夜でありますそれでは、尾張、ここ
2008.09.11
コメント(5)
事故米のパニックが続く。今ごろ、いってももうおそい。もう食べてる、大体炊くときひを使うからおなか壊すことはあんまりない、米はほんとうにわからない。僕は基本的に米やは嫌いだ。全部とはいわないが、たいてい、米やは悪人がおおい。売れ残りの古米を混ぜて売る、これはやらないひとはいない、混ぜてもわからない。米つぶをよく見ればわかる、おおきさ、割れたの、色、ブレンドまいは別にして、違う種類のものがまじっていたらきけん、袋が部分、透明になっているので、必ずすかしてみる、精米の日時も必ずみること、2週間以内でないとおいしくない。しかしながら、こういう事件とは裏腹に、米の値段は暴落を続けている。農家の皆さんは農薬や肥料で金がなくなり、ほとんど儲けがいないそうだ、米が売れない、みんな見ていると若い人はもうご飯なんてほとんど家で炊かないサトーのご飯か、弁当だ。サトーのご飯はじつにうまかったりする、それにしても、日本の経営者のモラルの低さはどうしようもない、農水省の役人もどうしようもない、あんな米を返品すりゃいいのに、廃棄処分するか糊の工場でただでやればいのに、考えればわかるはずだ。性悪説でゆかないと、だめだ。これも全部、消費者と販売者の間の深い溝みたいなものがあるからだ、その溝は、大手のスーパーのような販売の仕方、商社とスーパーの間で売れればなんでもOKのようなモラルの低い販売をし続けた経営者の傲慢さというか、だから、そういう企業があぶりだされている。市場商店街のひとびとは、自分で売るものきちんと把握している、僕も必ず、朝、煮物は全部嫁さんと食べる、サラダも食べる。開店まえに朝飯ですが、たべると、いたんでるのがわかる、人間のやることだから、間違えもあるし、でも、お客さんはきっとその店を信じて買う、卸もそうだ、信用が第一、それが、いつからか、利益第一、ばれなければ、なんでもOK因縁ということばがあり、そういう人たちはいつか報いを受けもしくは、自分のところに因果があれば、必ず、リターンする、この偽装や不正の原因はどこにあるのだろうか、世代的に今の経営者は戦後すぐの世代で戦前の経営者とは違う、そこにあるのだろうか。
2008.09.11
コメント(3)
偉大なる80年代。オゾンホールが発見された23年まえその出来事を振り返ろう、1月1日 - シェル石油と昭和石油が合併し、商号を昭和シェル石油に変更。石油業界再編の先駆けとなる。 1月15日 - 第55代横綱・北の湖が引退を表明。32回の大鵬に次ぐ(当時)幕内最高優勝24回の功績を称え、大鵬に続き2例目の一代年寄「北の湖」を襲名。 時代がウルフに、1月20日 - ロナルド・レーガンアメリカ合衆国大統領の2期目の任期開始。 1月31日 - 中曽根康弘首相が防衛費GNP比1%枠突破の可能性を言及、衆議院予算委員会が混乱状態に。 2月13日 - 改正風俗営業法施行、正式名称変更。ノーパン喫茶が姿を消す でた!先輩はゆきましたがぼくはいかなぅた。2月27日 - 田中角栄元首相が脳梗塞で倒れ入院。以降、政治活動の一線から姿を消すことに。 3月5日 - 第2回名古屋国際女子マラソンで、佐々木七恵(ヱスビー食品)が大会初優勝(自身は前々年の東京国際以来2度目の優勝)。日本女子マラソン界の先駆者と称される佐々木は同レースを以て競技者から引退。 佐々木さんは80年代前半のマラソンスター。3月17日 - 科学万博つくば'85開催(~9月16日) 3月21日 - 日本初のエイズ患者を認定 神戸の南京町で外人相手に売春をしていた女だった。この感染と薬害エイズ問題はべつもの、いまは、かなり増えている、4月7日 - 第57回選抜高校野球大会は高知・伊野商業高校が大会初出場で初優勝。桑田真澄・清原和博の「KKコンビ」を擁する大阪・PL学園高校は準決勝で同校に敗退。 そのきよも10/1で引退、歴史を感じるな。4月17日 - 甲子園球場の阪神-巨人戦で巨人・槙原寛己投手からランディ・バース・掛布雅之・岡田彰布の3選手がバックスクリーン3連発 伝説である、大阪の飲み屋は大繁盛5月17日 - 男女雇用機会均等法が成立。三菱石炭鉱業南大夕張鉱業所でガス爆発、62人が死亡。 6月18日 - 豊田商事の永野一男会長が自室玄関前にマスコミ取材班が集まる中、マンション内で刺殺される6月19日 - 投資ジャーナル事件に関与したとして、投資ジャーナル社の中江滋樹会長らが逮捕される。前日の「永野刺殺」の二の舞を避けるための駆け込み逮捕とまで言われた。 6月23日 - インド航空182便爆破事件。乗客乗員329人全員死亡。6月24日 - 松田聖子と神田正輝が結婚7月1日 - 大阪地裁が豊田商事の破産を宣告。 7月3日 - 映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』がアメリカで劇場公開。 7月9日 - 徳島ラジオ商殺人事件再審にて、徳島地方裁判所、被告人無罪の判決を下す。 7月19日 - 徳島ラジオ商殺人事件が結審。事件発生から33年目。レオポンの「ジョニー」が死亡。 そう、今はなき、阪神パークにいたレオポン、阪神が優勝するとは・・。8月12日 日本航空123便が群馬県上野村の高天原山の御巣鷹の尾根に墜落、520名の死者を出すも乗客4人が奇跡的に生存。 グリコ・森永事件で犯行グループから「終結宣言」が送付され、以降動きが途絶える。 阪神球団の社長もなくなる。優勝を知らず、しかし、それが起爆剤になったとおもう。8月15日 - 中曽根首相が靖国神社公式参拝。 ここから始まるこの歴史、中曽根は歴史的にだめだしをだされるだろう。8月21日 - 第67回全国高校野球選手権大会は大阪・PL学園高校が2年ぶり3度目の優勝。決勝戦(対山口・宇部商業高校戦)で清原和博が1大会新記録となる5本塁打を放つなど、桑田真澄との「KKコンビ」としてのラスト甲子園を有終の美で飾る9月1日 日本で、乗用車の前席シートベルトの着用が義務化。 今は妊婦にまで後部シートも9月11日 ロス疑惑の三浦和義が逮捕 女優の夏目雅子が急性骨髄性白血病により死去(享年27)。 この日はいろいろあるね。9月13日 - スーパーマリオブラザーズ発売 ここから始まるゲーム。9月22日 - プラザ合意。翌日ドルは暴落。この後日本は円高不況を経てバブルへ向かう。 9月28日 - TBSテレビのバラエティ番組『8時だョ!全員集合』が同日の生放送を以て終了、16年間全803回の歴史に幕。 10月7日 - テレビ朝日の報道番組『ニュースステーション』(キャスター:久米宏)放送開始。 10月11日 - 政府が1987年4月1日付での国鉄分割・民営化を正式決定。 10月16日 阪神、21年ぶりセ・リーグ優勝。 テレビ朝日系ワイドショー番組『アフタヌーンショー』にて女子中学生のリンチ事件報道につき「やらせ」であることが発覚、同番組ディレクターが逮捕され、2日後の同月18日放送を以て番組は打切りとなる。 10月20日 - 中核派など過激派が千葉県成田市三里塚交差点付近で、丸太、鉄パイプ、角材、火炎瓶などを武器に、機動隊と大規模衝突を起こす(10.20成田現地闘争11月2日 - 阪神、日本シリーズで西武を破り4勝2敗で日本一に輝く。 11月29日 - 過激派による国電同時多発ゲリラ事件。首都圏、大阪を初め各地で線路のケーブルが切断されダイヤが混乱。600万人に影響が出る。 きのうの薬師丸の歌もこの年、さんまんまんま、あっこにおまかせ、おにゃんこなどテレビは全盛を迎える。あなたは、この年に何してた?今の関係することがあまりにもおおいんで、おどろき、昨日のよう安全地帯「悲しみにさよなら」音楽も全盛であった、歌謡でも演歌でも洋楽でも
2008.09.11
コメント(0)
11日15時46分配信 時事通信 気象庁は11日、南極上空に今年発生したオゾンホールが、9~10月の最盛期に過去最大級になるとの見通しを発表した。過去最大だった2006年に匹敵すると予想している。 オゾンホールは、南極や北極上空の成層圏のオゾン層における春期のオゾンの濃度の減少を指す。人工衛星の映像が、まるで穴があいたように見えることからオゾンホールと呼ばれるようになった。南極上空のオゾンが毎年春期に減少することの発見は、ジョセフ・ファーマン、ブライアン・ガードナー、ジョナサン・シャンクリンの1985年の論文によって発表されている。一方で、最初の報告と呼べるものは日本の南極昭和基地の観測データの国際会議での発表といわれているオゾンがもっとも減少するのは、成層圏の下層部分であるが、オゾンホールは単位面積あたりのオゾン全量(ドブソン単位によって計測される)によって示させるのが普通である。 春から初夏にかけてのオゾンの減少は、1970年代前半には発生していたことがわかっている。 オゾンホールの特徴として南極上空に顕著にあらわれる。 春から初夏にかけてあらわれる。 年々規模が拡大する。南極圏でのオゾンホールは、オーストラリアやニュージーランドの南部にまで広がることがある。そのため、この地域での紫外線の増大は、帽子をかぶらないと肌が荒れてしまうほど強烈であるし、人類の健康を無視できない影響を及ぼす。 強度の紫外線は皮膚がんを誘発する要因であるとされている。紫外線の10%の増大は、男性に対しては19%、女性に対しては16%の皮膚がんの増加になるという研究結果もある。200万年前のプランクトンの世界的絶滅は、超新星爆発の影響で紫外線が降り注いだためと考える学者もいる。1987年のモントリオール議定書 (Montral Protocol)により、オゾン層破壊物質の削減・廃止への道筋が定められた。 この議定書では、5種類のフロンについて1998年までに半減すること、3種類のハロン(フッ化炭素類)を1992年以降に増加させないことが定められている。 日本では1988年に、「オゾン層保護法」が制定され、1989年7月より、フロン等の生産規制が始まっている。 2007年11月現在、この議定書の締約国は、190か国及びECである。しかし、この先この現象がどうなるか、予想しがたい。オーストラリアの健康被害はすでに報告されている、グローバルな問題は国境がない、
2008.09.11
コメント(0)
テレビ依存症であったわれわれの世代は、落ち着きがなく、気が変わりやすく、CMを見ては商品を買い、また、次を買い。いわゆる大量消費社会を形成した。いま、確実にテレビを見る人は減少してる、お笑いのオンパレードだし、品質内容見るに耐えない、ドラマもアニメも見ない。サスペンスも実はぼくは、おもしろいなとよく見ていた、しかし、ある法則を感じたので、おもしろくなくなった。それはまず、時計を見ていたらCMの時間を除けば、展開の仕方が2時間で決めるので、解決へのきっかけは大体あ15分から20分でおきることを見ているとわかる、配役でもう、犯人もろばれ、出ている役者は二流がおおく、同じ人の繰り返し、毎晩毎晩、殺人事件がおきるわけがない、人が殺されないとドラマにならない、果てしないワンパターンサスペンス、テレビ欄で犯人わかり、テレビのCMはもっと減るだろう、もうすでに、減り始めている、広告主はより効果あるものへながれてくる。それはインターネットでもあり、ブログなどを利用したやらせてきな広告がもっとでてくるだろう。テレビ依存で、ないかしら依存しないと生きてゆけないわれわれに格好なご主人が現れた、携帯電話である、老若男女、自転車にのるときもどんなときも、携帯をもち、もしもし、と話す。依存以外なものでなもない、以前、この携帯の電磁波の影響が心配されたが微弱であるので心配ない、ということも拍車がかかる。携帯もなく、パソコンもやらないで、テレビも見ない。依存はない、そういう人はいるのかな。まあ、依存が悪いというわけでない。依存ということばは、そもそも、そのものによって存在することを助けるだけのことだから、薬物ではないから、なければなんとか、やっていける、というもの、しかしだ、なくてもやっていけるのは無いときを知っているからであり、最初から存在していた子供たちは絶えがたい苦悩になるのかもしれない。 ああ、今日も支離滅裂、ごめんざい。おやすみ。ここ
2008.09.10
コメント(2)
こんばんわ、全世界の深夜風呂具便のファンの皆様。ようこそおいでくださいました、どうぞ、最後までお付き合いのほど、よろしくお願いします、さて、冒頭の依存するこころ、意味のない人殺し。傲慢な人間の心は文明を興しても、いまだにおろかなる行動を繰り返す、もしかしたら、今の子供や僕たちはテレビ依存症であったんではとおもう、しかし、ぼくはきっとネット依存症であるので、その分は変化してしまう。ただほど怖いものはない、無料大好きな日本はまたたくまにテレビが浸透されて、まあ、テレビもいまのように丸投げ製作でなかったので、局の人が真剣につくっていたんだろうけど、いまの僕たちの時代はテレビがこうだ!というと洗脳されてしまいやすい。しかし、今のテレビの悪質さはどうだろう、パチンコスロットの宣伝はいつから解禁になったのだろうか、ギャンブルの宣伝、それにサラ金の宣伝、あわせて、高い利子で借りさせて今度はまとめ借りろと宣伝。毒垂れ流しながら正義をほざくニュースは、真実はそこにあるのかテレビ依存症の次は、ゲーム依存。これでの脳はいかれる、ゲームに支配されている脳は脆弱で光や音の反応は早いが、心の葛藤や複雑な困難に立ち向かえない、だから、孤独な作業こそがゲームだ。ゲームを作ってきた任天堂はその罪を問われる前に、路線を変えて手法をかえて、頭の体操や体の体操など家族でできるものにシフト。問題はこの先20年に起きる事象。25歳の反乱はすでに10年前からはじまっている。25歳のひとびとがどうのこうのでなく、その時代がゲーム育ちであるし、神戸連続児童殺傷の事件、秋葉原無差別事件の加藤。この付帯する時代の流れはどこに続くのか、そう思うのである。
2008.09.10
コメント(0)
インターネット依存症インターネット中毒は、1997年にイヴァン・ゴールドバーグによって理論づけられた障害である。賭博依存症 (en:Compulsive gambling) と比較することで、DSM-IVで診断される。
2008.09.10
コメント(0)
依存症とは、WHOの専門部会が提唱した概念で、精神に作用する化学物質の摂取や、ある種の快感や高揚感を伴う特定の行為を繰り返し行った結果、それらの刺激を求める抑えがたい欲求が生じ、その刺激を追い求める行動が優位となり、その刺激がないと不快な精神的・身体的症状を生じる精神的・身体的・行動的状態のことである。この状態のことを「依存が形成された」と言う。依存は、物質への依存(ニコチン依存症、摂食障害、薬物依存症、アルコール依存症など)、過程への依存(ギャンブル依存症、インターネット依存症)、人間関係・関係への依存(共依存、恋愛依存症など)がある。一般的には嗜癖・「中毒」と呼ばれることも多い
2008.09.10
コメント(1)
全83件 (83件中 1-50件目)
![]()

