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あの頃の音楽は、今のものとどう違うのだろうか、中島みゆきを発掘したのはヤマハの川上源一社長、彼は谷山浩子も発掘した、イルカを発掘したのはだんなの神部和夫さん、もし、発掘されないままであれば、これらの音楽は世に出ることもなかっただろう。それに、不思議なのは、あの70年から80年にかけて、シンガーとしてすばらしい美声の持ち主がどんどん出てきたこと、松山千春の楽曲もすばらしいが、あの伸びのある声、さだまさしの声もすばらしい、山下達郎も実にいい声、谷村ベーヤンのあのコンビもすばらしい声。きりがないほど、出てきた人々。いま、それほどの美声があれほどの数で出てくるか?いや、出てこないだろう、本人たちがカラオケボックスで満足して終わりかもしれない。で、なんで、あんなたくさんのシンガーソングライターがいたのか?やはり、マーケットがあることと、それらを演出したりまとめたりするひとがいたからだろう、いま、CDが売れなくなり、CDレンタルでさえ、若い子達はいかない、ダウンロードですましてしまうのである。ダウンロードで味気もくそもない。ぼくが昨日、ブログで書いたような、LPレコードの思い出やエピソードもない。これでは音楽の未来が心配である。でも、音楽の中で食えないながらも、インディーズの世界はそれなりに本当に音楽を楽しんでいるのかもしれない。ぼくが好きだったオフコースの楽曲は、LPの作品として今でも聞き応えのあるものがおおい。それは、鈴木康博さんの作品の初期のころのものなど、「昨日への手紙」「幻想」など、深夜こっそりとパソコンで聞くとその世界にどっぷりとつかり、心地よいのだ。世の中がどんどん変化してゆく、遅れるものはおいてゆく方式。テレビはデジタル放送になり、携帯の電波もぼくのやつはもうなくなるという。便利を追求するのがいいのか、それがどうも気に食わない。その変化の加速度は増し、原点を見失う。ぼくたちが80年代、近未来の夢を見ていたのはこれだろーか、ソフトは便利になっても、ハードは劣化しつつあるような気がする、まさしく、ハードは人間そのもの、もしくは人間性。IQは高いが、HQが低い連中が支配するマネー資本主義。格差社会。貧困社会。切捨て社会。これらは、省みないものが要因であろう。音楽が青少年の心を癒し、教えを説き、恋を語り、そういい時代であった。あの時代と彼らに感謝するのだ、そして、今も、ぼくの心をあのときの思いを奏でてくれるのだ。おわり、
2009.06.30
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みゆきの 「ホームにて」「あ・り・が・と・う」のLPに入る歌。僕の好きな歌である、ふるさとへ 向かう最終に乗れる人は 急ぎなさいとやさしい やさしい声の 駅長が街なかに叫ぶ振り向けば 空色の汽車はいま ドアが閉まりかけて灯りともる 窓の中では 帰りびとが笑う駅というものがひとつの物語の拠点でホームはいわば、ステージの情景。誰しもが持つふるさとへの郷愁。最終、という響、これに乗り遅れると帰れない、あきらめのようなもの。以前にもかいたけど、弁当を配達するときに粗大ごみの片隅であった、このみゆきのLP,ぼくは、このLPを持っているけれど、その捨てられたLPが哀れになり、持ち帰った。Bサイドの「ホームにて」の曲を何回も何回も聞いてであろう、針の傷が数多くあった、この持ち主の人生のようなものをそのLpで感じた。おそらく、何回も何回も引越ししたのであろうか、そのたびにこの思い出の曲がはいったLPを持ち続けたんであろう、ジャケットには押入れのその家の独特の残臭のようなものがあった。みゆきのLPをなぜ、捨てたのだろうか、ステレオもなく、針もなく、ターンテーブルもなく、LPだけが残ったのであろうか、思い出を捨てたのだろうか、ぼくは、その人の思い出を大切に拾い上げこっそりと棚にしまった、そのひとの「ホームにて」を聞く過去を想像しながら音楽の中にドラマを感じるのである、たそがれには 彷徨う街に心は 今夜も ホームに たたずんでいるネオンライトでは 燃やせないふるさと行きの乗車券ネオンライトでは 燃やせないふるさと行きの乗車券ここヤマハミュージックコミュニケーショ 中島みゆき/あ・り・が・と・う
2009.06.29
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こんばんわ、マイケル・ジャクソンの死亡ばかりのテレビ。しまいには、専属医師を悪魔とよばわり、ひどいもんです。彼のダンスは良く見ていると、足首やつま先などを酷使、関節も痛めただろうとおもう、清原選手もあのすごいスイングで足を痛め、いまだに苦しんでいる様子、いい年になるとあちこちが悲鳴をあげだすんだね。それにしても、マイケルは満たされない心を物欲でごまかそうとしたり周りに集まるのは金めあてのひとばかりだろう、ほんと、自分自身を見極めて判断しないといけないな、とおもう、ああ、眠いのでなます
2009.06.28
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1979年12月1日。オフコースのシングル、 歴史的なシングル。 さよなら が発売された。冬の時期に、またしても、愛を止めないで のような、小田さんの詩的な物語である。この歌は、小田さんの高音のシャウトがすごい、のけぞる、ラブストリーは・・でもかなり、シャウトされているが、あの声をいまだすのは、つらいと彼はいう。1970年にデビューして、やっと、大きなヒットをだした、およそ10年である。彼らは3人から二人そして、5人になり、コンサートではじわじわ人気をあげ、熱狂的な女性ファンが10代を中心に広まり始めた。この秋にでたスリーアンドツウ、のLPでは入っていない歌であった。このLPもすごい完成度が高い、ぼくは当時高校三年のときであった。中学時代は、勉強せず、鉄道や、SLが好きで、ぼーっとしていた。数学の教科書を見るふるをしなが、国鉄時刻表で妄想のたびに出ていた。だから、普通科高校にはいけなかった。深夜ラジオから流れるいろんな曲をききながらよふかしをしていた。愛を止めないで、ぼくの愛も止めないでのページを読んでくれれば判ると思うが、当時、ぼくはまだ証拠にもなく、みゆきちゃんをあきれめていなかった。高校はいわゆる工業高校で、とてもじゃなくて進学などできなかった。しかし、中学の時の屈辱と、ずっと好きな初恋の女の子がもっとランクの上の高校に行き自分も大学へいくと心のきめ勉強に励んだ、あるリベンジであった。夢のなかで、互いに大学生となり、たのしい学生生活を送ることを夢見ていた。寒い冬の朝。ポストの中にでかい封筒が・・・「 やったあ!合格だ!」しかし、みゆきちゃんは、大手銀行に就職・・・・がくっ。なぜだ!彼女の意思はまったくわからなかった、しかし、ぼくの友達はみゆきちゃんが手をつないで、マフラーをおそろいで歩いていたという現場をわざわざ自転車をとばし報告にきていた。深夜、ぬかるみの世界の番組を聞きながら、自分もぬかるみにはまっていた。同じ大学生同士で・・と夢ははかなく消えた・・寒い夜に、ラジオからながれてきたのはオフコースのさよなら。だった。小田さんがぼくにいった。「 もう、終わりだね・・・君がちさく見える・・♪」いまでも、この歌を聞くと、3年間、無理して勉強したことと深夜ラジオのこととオフコースのことと、みゆきちゃんのことを思い出す。はれて、大学生活に入り、汚い安いぼろい下宿にぼくはいた。先輩が、ふすまをがばっとたたく。「 おまえ オフコースすきやなー」ずっと、聞いていた。ある夜、その先輩と隣の大学生と部屋で安い酒を飲んだ。どうみても、三人、持てるわけがない。「 好きな子。おらんのか?」みんなに先輩が聞いた。「 いたけど、振られました。」 えええ、3人とも同じだった。「 みゆきという、ロングヘアーの子です。」偶然、3人とも同じ名前であった。話がもりあがり、意気投合し、男同士の話が進んだ。「 オフコース 、もう聞くのやめようか 」 ぼくはそう思った。なぜか、封印した。はやばやと、みゆきちゃんはかっこいい男性と結婚した。ぼくは、大学卒業後某ファミリーレストランに勤めた。3年ほどたち、神戸のある店に勤務し、売店商品の「棚卸」をしていた、深夜である。入り口の階段を上がるカップルがいた。べろべろに酒に酔っていた。「 いらっしゃいませー 」 といって、ぼくがそちらを向くと。「 あああ!」「 ああ、」みゆきちゃんだった、「 ええ、なんで、ここにいるの?なにしてるの?」ぼくは大学をでたあと、ここに入社したことをいった。まだ、おどろいた感じだった。あるシーンが頭をよぎる。大学四年のとき就職を決めた時、ある友人がもらした。「 なんで、そんなとこにいくんだ。皿洗いするのか?大学でて・」気にせず、どうぞ、といった、だんながいることをきずかった。工業高校であるコンプレックス。もてない男のコンプレックス。そういうのは、すべて、さよならだ。26歳の時にあの再会のあと、今までもう再会は無い。そのほうがいい。 ここ
2009.06.27
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はい、こんばんわ、先日、家出していた女の子が無事にかえったと、おばあさんから電話があった。よかった。あとは、きちんと話し合うことだ、いつの世も、性が乱れ犠牲になるのは女性と、次世代の子。家出していた少女がどうなるか、せえいっぱい、生きてほしい。マイケルジャクソンが急死した。おもえば、オフコースが武道館で活動を休止した、1982年、あのスリラーが発売され、翌年にかけてすさまじいヒットを続けた。彼は生い立ちから少年時代から歌を歌い、きちんとした思いでもつくれぬまま成長したんだろう、クリスマスは家でパーティでなく、舞台で歌うのがほとんど、フランスではそういうこともあり、少年少女のテレビ映画での労働を全面禁止。日本もそうすべきである、子役というのは、制限が必要である。その後の人生で苦労するのが法則のようになっている、あの大子ロウも殺人までおかした、ラジオでは、きよしろうの残した歌が何度も何度も流れる。彼の歌声は死んでから良く聞くようになった、追悼という名も、どうかな、とおもう、ザードの泉さんがなくなったときも追悼でCDが良く出ていた。ほんとうに、CDとか、映像とか死んでから流れるのも不思議なものを感じる。もともと、スターに会えるものでなく、非現実ナ存在、らライブとか出会えるのもごく一部。だから、ほんとうに死んでるのか、生きているのか関係なく、CDをながせば、自分の耳にその声と音楽は流れる。いわば、バーチャルなものである。死んでから稼ぐのも何か、悲しい。安らかに眠れさせてほしいともおもうかな。いつしか、忘却の彼方にゆくのであろう、どういう音楽でメッセージを伝え、残せるか。と、いうことだろうか、
2009.06.26
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フォーエバー・マイケル/マイケル・ジャクソン[CD]【Aポイント+メール便送料無料】マイケル・ジャクソン Michael Jackson / Millennium Collection (輸入盤CD)1981年3月には1975年発売の「フォーエヴァー・マイケル」から、「想い出の一日(One Day In Your Life)」がモータウンから発売されたが、「オフ・ザ・ウォール」の売り上げが凄まじかったために、このシングルも話題を集め全英1位を獲得している。1981年12月には次回作のため、「オフ・ザ・ウォール」では「ガール・フレンド」を書いてもらったポール・マッカートニーにコラボレーションを打診した。これが実を結び、ポールと正式にコンビを組むことになり2曲のデュエットを後に生むことになる。ポールとはプライベートで一緒になることが多く、2人ともアニメーションが大好きで、一緒にたくさんのアニメを見たとマイケルは語っている。1982年6月にはクインシーのプロデュースにより、スティーヴン・スピルバーグ監督の「E.T.」のストーリーブックのナレーション入りアルバムの制作に参加した。1982年8月には、クインシーと2人で完全にロサンゼルスのウエストレイク・スタジオに篭りっきりのような状態になった。クインシーによると、この頃彼は相当の恥ずかしがり屋で、レコーディング・スタジオでも、灯りを消してソファの向こうでしか歌おうとしなかったと語っている。そうして出来上がったアルバム「スリラー」は全米チャートで37週にわたり1位を記録。「Billie Jean」「Beat It」「Thriller」とミュージック・ビデオの概念を変える作品を次々に発表し、「スリラー」はアルバムの売り上げの世界記録を更新した。1983年1月発表の「Billie Jean」はマイケル作詞作曲の曲で、曲とビデオの両面でゴシップ記事に苦しめられる自身の姿を投影したものと言われている2009年6月25日(現地時間)、自宅にて心肺停止状態に陥り、マイケルのスタッフが救急隊に通報。12時26分に救急隊が到着。13時14分、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)付属病院へ救急搬送されるが、1時間近い蘇生活動を行うも、14時26分、死亡が確認された。死因は心臓麻痺といわれている..ご冥福をここ
2009.06.26
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Number Ones/マイケル・ジャクソン[CD]翌年、兄マーロンと二人の従兄弟と入れ替わりにグループに入る。当時5歳であったが、父の厳しい特訓を受け、兄弟バンドRipples & Waves Plus Michael(のちthe Jackson Brothersと改名)の一員として頭角を現した。初めてナイトクラブで働いた時の収入はわずか8ドルであり、ほぼ無名の状態であったが、翌年くらいになるとタレントショーやスーパーマーケットのオープン記念に出演することで地道にではあるが徐々に名前が知られるようになっていった。1965年には地元ゲイリーのルーズベルト高校で行われたタレントコンテストでテンプテーションズの「マイ・ガール」を演奏し、見事優勝した。1966年に4人の兄たちと「ジャクソン5(ジャクソンファイブ)」を結成。ゲーリーのナイトクラブ、ミスターラッキーでデビューする。1967年にはニューヨークのアポロ劇場にも進出し、大々的なタレントコンテストで優勝した。これによりジャクソン5はシカゴのリーガルなどの名門劇場に出演できるまで成長する。当時はまだまだ駆け出しであったため前座の出演であった。この過程でジェームス・ブラウン、ジャッキー・ウィルソン、サム&デイヴなど様々なスターのパフォーマンスを勉強した。地元ではインディーズの「スティールタウン・レコード」からシングルを何枚か出しており、1968年1月には「ビッグ・ボーイ」でデビューしている。1968年7月にモータウンと正式に契約。1969年10月シングル「帰ってほしいの(I want you back)」でメジャーデビュー(マイケルは実際のところ11歳だが当初8歳の設定だった)。リードボーカルとして天才児ぶりを発揮し、何とメジャーデビュー作であるにもかかわらずヒットチャート全米1位にまで上り詰めた。幼く可憐な感じでありながらビブラートが掛った声がファンを惹きつけた。その次のシングル「ABC」の相手はビートルズの「レット・イット・ビー」であったが、首位の座から引き摺り下ろし見事1位を獲得。その後「小さな経験(The Love You Save)」「I'll Be There」のシングルを4曲連続で全米チャート1位に放り込んだ。マイケルは1971年10月発表のシングル「Got To Be There」でソロデビュー。11月には人気コメディー番組「フリップ・ウィルソン・ショー」に出演した。翌年には「ベンのテーマ」もヒットした。1970年代半ば、ジャクソン5とレコード会社の間で音楽的方向性の違いが表面化。マーヴィン・ゲイやスティーヴィー・ワンダーなどが自分自身のセルフプロデュースによって、ニュー・ソウルと呼ばれる新しいポップミュージックの枠を作り出していくのを見て、メンバー達も自分達による音楽という新しい方向性を見出していったのだが、それに対してモータウンが反発したのである。モータウンとの金銭的なトラブルも出はじめた。マイケル本人も背が伸び、ひどいにきびに悩まされ、その上声変わりが追い打ちをかけて、性格が急変。ラ・トーヤは「元気な少年だったマイケルはこの時内気な青年に変わってしまった」と後に語っている。実際、「背が伸びて可愛くなくなったなー」などと冷やかされることもしばしばであった。結局、自分達による音楽を求めたメンバーは1975年にモータウンを離脱し、エピック・レコードへ移籍した。しかしその際、モータウンがジャクソン5のグループ名のエピックでの使用を認めず、訴訟問題となった。そのため、グループは名前を「ザ・ジャクソンズ」と改め活動を行う事になった。しかし当時一番マイケルと仲が良く、グループのセックス・シンボル的存在でもあったジャーメインは、モータウン社長の娘と結婚していたためグループから脱退。新たにマイケルの弟ランディがザ・ジャクソンズに新たに加入した
2009.06.26
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ギネス・ワールド・レコーズでは史上最も成功したエンターテイナーとして認定されている。世界総売上げは7億5000万枚(2006年10月末現在)以上。エルヴィス・プレスリーやザ・ビートルズと同様に、歴史上の天才の一人。ギネス記録は「全米シングルチャートで首位を獲得した最年少ボーカリスト(ジャクソン・ファイヴ当時11歳)」、「全米シングルチャートで初登場1位を記録した最初のボーカリスト(You Are Not Alone)」、「年間売上げ高が1億ドルを超えた最初のエンターテイナー(1989年、Forbes誌)」、「史上最高額の所得を得たエンターテイナー(89年に1億2500万ドル)」などの記録を保有。アルバム"Thriller"に関する記録は「1億400万枚の世界最高枚数の売り上げ」「全米アルバムチャートでの最長期間首位(37週・サウンドトラック盤を除く)」、「最も成功した音楽ビデオ(100万本以上の売上げ)」などのギネス記録を保有している。兄弟と結成したジャクソン5のボーカルとしてデビュー。1980年代にはそのダンスやヴォーカルの実力で、全世界をその娯楽性で魅了した。「ムーンウォーク」は、彼の代表的なダンスのひとつ。ゴシップキングとしても知られ、整形と病気による尋常性白斑の影響によるマイケル・ジャクソンの外観の変化のためよくタブロイドのネタにされる。1993年、マイケル・ジャクソンの1993年の性的虐待疑惑が発生。13歳の少年が自分の父親(ビバリーヒルズの歯科医)によってマイケルを告発させられる。だが本人は現在、マイケルに虐待されたとは思っておらず麻酔を用いた虚偽記憶であったと考えられている。また、2003年にはマーティン・バシールによるマイケルジャクソンの真実の報道の結果、マイケル・ジャクソンは児童性的虐待疑惑で逮捕されたが、マイケル・ジャクソン裁判の結果、全ての件に関し無罪となった。尚、歌手のラトーヤ・ジャクソンは実姉であり、歌手のジャネット・ジャクソンは実妹である。2009年6月25日、自宅近くのカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)医療センターに呼吸停止の状態で運ばれ、その後死亡が確認された。50歳没。10人兄弟姉妹の8番目(六男)として(兄のひとりが夭折)、インディアナ州ゲーリーのアフリカ系アメリカ人街に生まれる。ゲーリーは住民の8割以上をアフリカ系アメリカ人が占める、全米で最もアフリカ系アメリカ人の率が高い都市であり、また黒人たちにとっては最初の黒人市長が1967年に出た誇りの土地でもある。当時は黒人の自己主張が高まりだしていた頃で、金銭を多く持っていた白人がそこを去っていったため、街は一時的に無法状態が蔓延していた。父ジョセフ・ジャクソンはUSスティール社の貧しい製鉄所のクレーン操縦士であった。母キャサリン・ジャクソンはエホバの証人で、マイケル自身も同様であった。その活動の一環である家庭訪問はThriller発売後も行っていた。父親は厳しく、しばしば息子に手を上げた。財政的に厳しく、キャサリンはシアーズなどの小売店でパートタイムとして働く事で家計を何とか補おうとしていた。父は昔「ファルコンズ」というR&Bバンドでギタリストをしていた過去を持ち、アーティストの道を諦めてからも当時のギターを大事にしまっていた。1955年に白黒テレビが壊れてしまった後は、演奏を披露することもしばしばあった。ところが或る時、愛蔵のギターを息子たちが勝手にいじりまわして弾いていたのを発見し、初めはカンカンに怒ったものの、息子たちの演奏がなかなかうまいことに気がついた。これはひょっとすると貧困から抜け出す手立てになるかもしれないと思った父は、息子たちに歌とダンスの訓練を授けようと決意。ジャッキー、ティト、ジャーメインと二人の従兄弟(実は他人)で1962年にボーカルグループを結成した。つづく
2009.06.26
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オフコース/over(生産限定盤)(CD)1981.12.1発売。僕は一番、このLPを聞いた、擦り切れるほど。まさか、解散のことがテーマだったとおもうと、いまだに切ない。「愛の中へ」シングルカットされたこの歌の冒頭にヤッサンのコーラスをかぶせるとこがすごくいい。このLPを製作する模様はNHKの「若い広場」で流された。当時、さよなら以来のヒットでも、テレビには出なかった彼らは、わざわざ、誰も見ないNHK教育テレビにでるとは・・最近になる、NHKアーカイブスで再放映、で人気がでて、DVDにもなっています。「君に送る歌」2曲目は、やっさんが小田さんに送った歌。離れて、離れてゆく、止められない、誰にとめられない。。。新しい夢をいま・・旅立つ。鈴木康博は、オフコースを離れてソロでやるわがままを許してほしいということ、「ひととして」3曲めは、出会いは風はのようで別れはあめのようでと歌いだし・・いままでのオフコースをおもってことか。この歌も別れを予感させるもの、人として、生まれ来て。。。それぞれの道へ・・当時、僕はぼくは、まったく、オフコースの解散をキズクことなく、このLPを聞いていて、全体にこの雰囲気はなにか、哀愁を感じていた。哀愁がまたいいのだった。「メインストリートをつっ走れ」この歌は鈴木康博のメッセージがこめられていると思う。ともよ、お前は俺と同じおとこなら、走れ。・・・ひとりつぶやく、なにかがちがう。彼らは常に、力をあわせてオフコースを守り立てていたのだが、鈴木の心の中には苦悩があったのだろうか。「僕のいいたいこと」人にはそれぞれ悲しい思い出があって・・松尾さんの歌。素敵な歌声、アレンジもビートがきいた感じだが、変調はやはりかなしい。ここまでは、互いの歌が問答のようになってるようだ。「哀しいくらい」僕の間違いは悲しすぎる・・小田さんの歌が始まる。夜明けを解散と比ゆし、夜明けはこないでほしいと歌う。君の間違いはおびえる心・・どうして、そんなことをおもっていたの・・小田さんは、鈴木の抜けたオフコースの構想や行く末をかんがえることもできないほど、哀しいくらい・・鈴木がすきだった、心開いて・・・小田さんの心の叫びが聞こえてくる。この作品はリメイクされてないのは、よほどそのとき衝撃的な哀しさであったのだとおもう。「言葉にできない」永遠の名曲は鈴木康博に送った感謝の気持ち。小田さんの武道館での心模様はかなしかった。でも、この歌の、旋律は綺麗、伸びやかな彼の広い音域を生かし、心哀しくて言葉にできない。このワンフレーズでも、彼の歌い方は複雑で言葉に気持ちをのせている。果たせぬあの時の夢はもう消えた。それがくやしくて、言葉にできない。松尾さんのうまいハーモニカが、また、哀しく、切ない、あなたにあえて本当に良かった、うれしくてうれしくて、本当に良かった。小田さんは、鈴木さんにであうことが人生の大きな分岐点にひとつであった、そういうことをかみ締めて聞くと、小田さんの心の叫びが聞こえる。「心はなれて」最期も、小田さんの歌、あなたがいたから、たちあがれてこともあった。、もう遅すぎる、そこへはもどれない。
2009.06.25
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ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト (YAMAHA LIGHT MUSIC CONTEST, LMC)は、ヤマハ音楽振興会主催による音楽コンテストの名称。1967年から1971年までの5年間行われた。このコンテストは、全国各地で行われた地区予選を勝ち抜いたアマチュア・バンドが東京で行われる全国決勝大会に出場することができた。 V.G.S、ロック、フォーク、ジャス・コンボ、フルバンドの5部門に分かれて審査され、最終的にその5部門から1組のグランプリが選ばれる。 グランプリを獲得したグループには、賞状、トロフィーのほか、副賞としてヨーロッパ周遊旅行の招待券と、ジルジャンのシンバルセットが贈呈された。赤い鳥-第3回 (1969年)全国大会グランプリ オフコース-第3回 (1969年)全国大会第2位。メンバーの小田和正はこの大会で最優秀歌唱賞を受賞。 チューリップ-第4回 (1970年)全国大会フォーク部門第2位。メンバーの財津和夫は、前身のザ・フォーシンガーズで第3回全国大会に出場し、6位入賞。
2009.06.25
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はい、みなさんこんばmわ。もう、夏かよ、です、毎年焼き豚のようになるぼく、今年は40度という気温が日本を襲うだろう。今日、夜、弁当を配達していると、バス停のベンチに人が寝ている。通過するとき見ると、タンクトップをきたわかそうな女性であった、おっさんがよっぱらって、寝るにはわかる、しかし、若い女がベンチで寝るだろうか?不思議でしかたない、再び、見ると、寝ている。周りにいるサラリーマンなどは、しらんぷり。ぼくは、「こんなとこにねてはだめだよ!」と声をかける。よく見ると結構おばさんであった、あ、酒臭い、うなっている。「あんた、だれ?家に送ってよ!」という。あきれた、もうあきれた。さすがのぼくも、ひいたね。。とりあえず、もう一度、質問、家はどこ?電話してあげよう。寝てはだめ。しかし、反応なし。ところが、ずばっと、おきて、こちらをにらむ。げぼーーーーーー。吐き出しだ。ゲロだ、思わず逃げた。バス停の前はゲロの塊が散乱、ぼくは、よくゲロを見て血が混じってないかげろを詰まらせ死ぬ人がいるのでもう一度見に行く。しかし、そのゲロで僕も気分が悪くなった。気持ち悪い。そうしているうちに、店のかたづけをしてたら、自分で119二コールし自分で救急車にのって去っていった。真っ黒なバス停には、ゲロだらけ。バケツを水で流す。何回も、そうしているうちに僕もはきそうになり止めた、ひどい、話だった。いろんな泥酔者がいて、もう最近は通報もしない、保護必要なし、でも、女のひとがそうなるのは初めてみた。男尊の時代には考えられないことである、歩きタバコをし、大またであるき、携帯で高笑いをし、マスカラでパンだの様な若い女の子、世も末、広末。(意味なし)
2009.06.23
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1979年1月「愛を止めないで」が発売された。 「やさしくしないで」君はあれから 新しい別れを恐れている♪このフレーズではじまるこの歌、実に透明感のあるボーカル小田さんの声。実に高い音程。いつも、新しい歌はラジオからだった、深夜のラジオでかかる歌を聞いて、オフコースを知った、「 愛を止めないで 」 は1979年1月、寒い冬に流れた、僕は当時、高校二年生、鬱屈した高校生だった。最悪の学校、荒れた工業高校、皮肉にも、僕の大好きなみゆきちゃんの家が見える高校、僕のかたおもいであったが、中学のときに好きになってしまい、彼女は普通科へ、僕はできのわるいので工業高校にいかざるえなかった。中学最期のときに、思い切って初恋のラブレターを送ることにした。迷った、「送るかどうかを」 オクル、オクラナイ。一歩ずつあるいて、決めようとした、道を歩いて歩いて気が付けば、違うまちまで、歩いていっていた。ポストの入れた。あああ、とうとう、いれてしまったよ、はずかしいな。どうしようか。。。。郵便の回収のひとに、返してくれといいにいこうともおもったが、もう、なるようにしかならない。そう、おもった。・・・返事がかなりあとにきた、決まり文句、 「 びっくりしました、いいお友達になってください。」・・・・ぼくは、それでも満足だった。気持ちを伝えることで、満足していた。ほどなく、文通という形で何ヶ月が一度で手紙が来た。同じ小さい街にいながら、遠い存在だった。かなりの近眼でありながら、ぼくは、めがねがきらいで前行くひとさえ、顔がわからないありさま。そういう目つきでも不良たちにはいやな目つきとおもわれたろう。しかし、街でみゆきちゃんとすれ違うことがあった、しかし!ぼくはきずかなかったり、あとで、手紙で、「なんで!無視するの!」とか怒られるしまつ。高校生活はひたすら深夜ラジオを聴きながら受験勉強。なぜか、というと、就職はいやだし、普通科にいったみゆきちゃんもきっと、必ず大学にゆくだろう、そこで、再び・・・。という作戦もあったのだ。ラジオから流れるオフコースをきいた。「 愛を止めないで 」いい歌だ。学校では相変わらずかつあげが横行し教師に暴力をふるうものまでいた。つまらない高校生活にうんざりしていた。そういうことを手紙で書いた。つまらない高校時代は灰色です。その手紙を読んで、なんと、みゆきちゃんが電話してきた。「 そんなに、元気なくて面白くないの?映画でもいこうよ・・・」初めてのデートだった、機関銃のように、楽しい高校生活を伝える、みゆきちゃん、ほんとうに、たのしそうな、感じで。ぼくは、うつむいて、うなずくしかなかった。僕「 オフコース、愛をとめないで、 いい歌だね、しってる?」みゆきちゃん 「 あんまり、オフコース聞かないな。。陽水がいいな!」明るい声で、陽水の音楽を語ってくれた。まさに、僕の心は「氷の世界」。(さすがはがき職人自画自賛) ぼくは、いきなり君を抱きしめよう なんて、夢のまた夢。映画館はいっぱいだった、立ち見だった、どこもかしこもカップル、手をつなぐカップル、肩を抱く彼。ああ、ぼくもカップルなですが、友人です。映画の内容は覚えていない、なんで、あんな映画をみたんだろうと、反省。ルパン三世のアニメだった、その後、さんちかの喫茶店にはいった。実をいうと、喫茶店にはいったのは生まれてはじめてだった、しかも、女の子と、どきどきだった。みゆきちゃん「なんか、話ないの?」いや、いっぱいあるんです、話したいことは山のようのあるのですが、胸がいっぱいで、ずるずる、いわせながら、レーコーを飲むしかない。ぼく、「ああの、神戸港に客船きてるかもしれないから、みにゆきませんか?」港には、誰もいない、神戸港第六突堤までゆこうとした、たくさんのかもめが飛んでいた。オフコースのEPのかもめを思い出していた。みゆきちゃんが慣れないヒールで足を引きずり出した。「やばい」ぼくはおもった、港には星のマークがついた、汚い客船とタグボードしかなかった。帰るしかなかった、家に帰る阪神電車。楽しかった一日はおわった、切符をみゆきちゃんにぶん2枚買おうとした。でも、すかさず、みゆきちゃんはお金を渡した。僕はその100円だまを、ずっと、手におさめ。家に帰っても、ずっと100円だまをみていた、大事にしまっておこうと思った。帰りの電車でも話す言葉が少なく、手もにぎることはなかった。手には100円だまが汗を掻いていた。そんな、100円だまもどこかへいってしまった、デートの行きしなの御影駅でにクラスの不良に見つかったらしく、翌日学校で大騒ぎされた、なんで、あんな美人といるんだ!紹介しろ!とわめく。そんなこともみゆきちゃんにはなすことがないまま、2回目のデートはなかった。いま、しずかに、オフコースの 「愛を止めないで 」を聞くと、あのときの自分を思い出す、 「 オフコースしってる?」「 ええ、あんまり」幾度となく繰る返された会話、 もう、誰にも聞かずに、そっと、自分だけの世界でいいや、阪神淡路大震災でもう引越ししていたが、みゆきちゃんのマンションは劇的に破壊されていた。ぼくの学校も、廃校になった、悪たちも、みゆきちゃんも、俺も。もう、遠いいま。愛を止めないで※以前の記事の書き直しです。
2009.06.23
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1970年大から80年半ばにかけての時代というものを思いだしている。あの頃はみんなが同じ方向のある何かの目標や夢を持って行動していた。いまは、先の見えない不安な毎日をできるだけ現実をみないような、そんな異質な感じがする。とりあえず、勉強をして、いい学校、いい高校、いい大学、いい会社、という人生選抜試験のような感じだったかな。しかし、あの金属バット殺人事件で僕の中では砂のお城のような、あるものが崩れたような気がした。深夜放送ラジオでは、つるべがよくはがきや電話の相談でいい学校とは、どういうことや?とよく反論していた。自分のいく学校こそがいい学校で、親が苦労して金かせいで生かせてもらっている、学校をそういうふうにいうたらあかん。といっていたのを思い出す。あの頃はみんなたいてい、ささやかな夢のようなものを持っていた。それに、生活の中でのささいな喜び、驚きがあった。テレビがカラーになったとき、音声多重になったとき、電子レンジがきたとき、カップヌードルをはじめて食べたとき。物質文明の出会いであった、様な気がする。そういう経験をしているだけでも幸せなのかもしれない。受験戦争で編み出された「偏差値」とかいうやつ。あのグラフ。それにすごい倍率での受験。何年も浪人している人たち、受験戦争で何か目標に向かう間はいい、しかし、その後のほうが実は大変なのだ。オフコースの小田さんとやすはそういう部分ではエリートであった。中学から私学で、高校もレベルが高い。その中で彼らはサラリーマンの道を捨てて、音楽の道を志す。しかしながら、屈辱的なことや、不本意なことがたくさんあったらしい。世の中のことなどわからない、おぼっちゃまであったので、苦労が絶えぬのである。「いまならまだ間に合う、」こういうせりふがよく、歌に出てくる。オフコースをする目的は好きな音楽をするため。それは、売れなくてもいい。という答えになる。幾度もその言葉を投げている。絶頂期、脱退寸前のときにさえ、ヤスはインタビューで答えている。しかし、小田さんはオフコース・カンパニーの社長であったのである程度、売れないと、社員に給与は払えない。彼らがテレビに出ない理由もそこにのあったのかもしれない。
2009.06.22
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はい、こんばんわ、テレビのニュースバラエティを見ていると、自民とうの末期症状にはほとほと、まいるね、麻生卸。もう、総理大臣になったら、必ず、なんとか、おろし、とやりはじめる。大政奉還、とかいっている、やからもいる、おいおい、大政奉還なら、天皇に政治してもらわなあかんのにね、んあで、麻生さんを下ろすか、というのは、「選挙には勝てない」とおもうから、要するに「自分の選挙には勝つ自信がない」という、個人的ナ利益を優先し、国の利益、国民のための政治、ではなく、私利私欲のための利益であり、自民党のたまの政治、なのである、で、鱒添えのおっさんがいいとか、勝手なことをのたまわる、そもそも、おまえらの自民党の総理大臣がばんばん辞めるから「不信」のものとなったんだろう。どうせ、鱒添えのおっさんがなっても、あーだこーだと、問題がでてきて、鱒添え卸をして、小池さんあたりがいいとかいいだして、二年のたたぬうちにどんどん変える、その間の政治の空白混乱は繰り返しおきる。総理がリーダーシップをとれないのは、そういう背景もあるね、米のように、きちんと4年間、やらして、みんなで応援して支えてやればいいもん、大臣がろくなやつがいないし、それも、わがままな議員やお子様二世議員のせいだろう。政治の混乱は、腐敗を招き、汚職をおこし、国民は悪政、重税に泣き、やがて、軍部がクーデターを起こしというのが、戦前の流れ。というわけで、おやすみ。
2009.06.21
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こんばんわ、本日はなかなか厳しい一日。なんとか、切り抜けました。TULIPのあの、財津さんが、いっていた、「僕たちは常にリストラされ、仕事がなくなる恐怖で働いている」そう、食うために、家族を養うために、仕事をお金をかせがないといけない。しかし、世の中はそんなに甘くない。しかし、常にポイントを抑え、無駄なく要領よく生きるやつがたまにいるんだ、なかみが空虚でも見せかけでいくやつもいる、と、いうわけで今夜はおわり、また。
2009.06.20
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こんばんわ、明日は非常にハードなすけじゅるであります。あと、4時間後のは起きて店にゆかないといけない、本日は嫁の弟が結婚式でして、それが昼まえからその日に弁当の予約がはいる、しかも4年も継続してくれてる、お客様。しかも100個近い。これをつくり、届けて、すぐに帰り、式場にゆき、披露宴をでてそれから、店に帰り、予約弁当をして、配達をして、夜まで営業。母が亡くなったときもハードだった、泣きながら弁当配達してた、ICUに毎晩通い、昼は仕事。亡くなったのが夜中の三時過ぎ、それから、寝台車の手配。これがまた、無料とかいって、葬儀屋と病院は・・。実家に母を連れて帰る、呆然としながら、店に帰り夕方抜けて通やにいって、通やおわったら、店にフォローにゆきそれから、お寺にいって、仏さんの横に寝て明け方店に帰り、予約弁当を二件して、それから、本葬にゆく。このときは、実にやばいタイミングでお坊さんが中に入る後ろに影のようにはいった、葬儀がおわり、焼き場にゆき、急いで店に帰り再び、仕事。あ、寝ます。ああ、サラリーマンのほうがよかつたかもよ
2009.06.19
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こんばんわ、みなさん、明日からの政局や北朝鮮問題、いろんな問題が山積しつつ、世の中がどんどん、悪い方向へ行く、ようなかんじ。あの郵政DM問題も口利きの国会議員はだれか、これが大物ミンスであったならば再び、自民の攻撃となり、修羅場と化す。問題をするかえる絶好の機会。北朝鮮の問題も、金親父がほんとやばい、らしい、長男と三男の争いか、どうみても、軍部の代理戦争になるんだろうね、米国のひとによると、日本の米軍基地をまず攻撃するとか、沖縄、岩国、横須賀、三沢、日本の敵対教育で思想荷まで浸透した恨みみたいな軍部が狙うのか、まず、どういうことになるのか、緊張する。どうも、いろいろなことがおきている、空からおたまじゃくしが降る今日この頃、音符かよーとおもうのですが、どのテレビを見ても吉本のお笑いばかりの番組を見ている子供たち若者たち携帯メールで時間を費やすひとびと、平和はいつまでもつづかないよ、ぼけてるばあいじゃない。それにしても、テレビはなんであんなにつまらないのか、リアクション芸人が、笑い転げているが、みていると、?????どこがおもしろいのか?と、おもわず、教育テレビの高校講座「地学」のほうが実におもしろかったりする。と、いさびさの、深夜ブログ便でした、おやすみ。
2009.06.18
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ぼくも中学の頃、ソウルが好きでスタイリスリスのこの曲をABCヤンリクで聴いて、すかさず、レコードやにかいにいった、懐かしい。しかし、この歌の内容は金がないけど、愛はある、という貧乏なうただった。ここおまけに、これだ!
2009.06.18
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この歌をささげます松尾さんに、ここみなさん、tsunekimiさんのTUBEを見てください、いいですよ。
2009.06.18
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オフコースでおなかいっぱいです、洋楽ですきな、カンザスいや、カンサス、この歌は1977年の曲ここ【Aポイント+メール便送料無料】ブラック・オーク・アーカンサス BLACK OAK ARKANSAS / LIVE (輸入盤CD)
2009.06.18
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オフコースのファンクラブの会報、オフコースブック21号で松尾さんのインタビューで、解散のときの話がのっている。今回、解散したい、ということは小田さんから出てきた。もちろん、小田さんも悩んで考え抜いた挙句のことだろうとおもうけど。それで、ミィーテイングをしたんだ。そのミィーティングでは、解散するかどうか、というものでなく、僕の気持ちだと、「ああ、みんなそうだな」という感じでオフコースはやっぱり、小田さんとヤスさんが始めたということもあるから、でも、小田さんは、このツアーもしたくない。と言い出したんだ。ぼくも、それだったら仕方ないみたいな感じだったけど、最後のツアーにもなるし、チケットももう売り出しているし、ファンの人たちも申し訳ないし、ひとしさんの説得で、なんとか、このツアーがんばろう、ということになったんだ、それから、発表するかどうか、という問題になって、こうなったんだ。(ファンクラブ全員に白い封筒で、解散することを知らせる形)やっぱり、複雑といえば複雑、これまでも、ヤスさんがやめたとき、解散という雰囲気になったけどやっぱり、そういう形にならなかったのは小田さんの気持ちなのかな?以上、オフコースが4人になって、なんとかがんばった4人、小田さんの中には常に葛藤、迷いがあったんだろう、1989年に何があったのかそのとき、オフコースには何かがあったのか、僕も良く知らないが情熱という力が、失せたのか、ソロになる準備ができたのか、1988年11月14日にスポーツニッポンにオフコース解散、とすっぱぬかれる。もう、ツアーは半分終わっていた。千葉県文化会館からSTILLツアーは半年を向かえていた。ツアーを終えて、オフコースたちにファンから解散コンサートをしてくれそう、懇願された、みんなはそういう気分にさえならず、説得が続いた。ひとしは、5人から4人になったときもその解散のときも、大きな発言をしみんなを支え引っ張ってきた、しかしながら、反対していた。テレビカメラさえ、いれないでほしい。なんとか、最後の東京ドームのコンサートが決まった。幕が上がり、メンバーはテレビカメラが何台もあるのを見ておどろく、「裏切られた」最後にいやな思いをしながらもひとしは泣いた、彼のオフコースの役目は重要なものであった。小田さんに意見をいえる大人のメンバーであった。このテレビカメラ騒動でもあるのだろうか、このライブはビデオになっていない。小田さんのファンクラブのビデオに一瞬、早送りで載っている。彼らの目にはあのとき、何が映ったのだろうか、いろいろな風景や出会いがよみがえるものだったんだろう。オフコースが解散し丁度、今年が20年になる、はやいものである。あのころファンだった人も、オフコースの仕事してきたひともメンバーもこの20年は どうだったろう。あっと、いうまだったかな、小田さんが「もう、オフコースはしないよ!」という言葉にはいろいろな気持ちや葛藤があったんだとおもう。オフコースの作品はつくづく、未完成なものがおおかった。そう小田さんはいう、それで、LOOKING BACK を作ったのかもしれないがでも、それで、再び、オフコースの楽曲でファンが増えたのだ。オフコースからは決して離れることができない、人生そのものであろう。ぼくは、決して、再結成をしない、わがままで頑固である小田さんに非常に好感をもつ、決して流されないようと、自分の足で踏ん張るからだ。しかし、再結成を切に願うのであります。ここ
2009.06.18
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あの頃、あの頃の話をしなければならない。いまとはかなり違う時代、空気、まるでいまのがだめとはいわないが、今日も弁当を配達していた、信号で赤信号を無視して猛スピードの高校生の自転車、右手には携帯電話、ぼくは、おもわず、激突しそうになる、しかし、青信号でもぼくは発信せず、ほんの軽く、その子供の高校生は目で謝ったようにみえた、ぼくは、少しにらんだ程度で、注意しなかった、何も言わなかった、昔のおやじたちは、怒鳴ったり、その場で説教したんだが、ぼくはしなかった、できないというか、あきれたというか、実際、ぼくは事故をおこさなくてよかったという、それだけを感じた。2年前じいさんが目の前で携帯電話しながら片手自転車で車に接し、運悪く道端の石に左そく頭をぶつけ、即死した場面に遭遇したことがあった、ミミから血があふれ、それでも口は動いていた、頭蓋骨が陥没し脳の中で血があふれる中意識が混濁し、阪神大震災にも生き抜いていた命をつまらないことでおとした。携帯電話というものがぼくは実にきらいである。オフコースや山下達郎がテレビがきらいであったように、その横暴さがきらいである。この20数年のうちに便利になり、ひたすら、「楽」を通給して軽薄でかつ短小な時代。あの時代は、重厚でかつ壮大であった。権威のようなものであるのか男女比の関係でもあろうか、大人は大人で、子供でなかった。携帯で片手の高校生を注意できなかったぼくは、どうであろうか、と反省する。僕の中にも熱意というものがうせてきているように感じる。あるとき、弁当を配達しているときに猫が弾かれて死んでいた、ぼくは、新聞にくるみ、ふたたび、弾かれない様に歩道に移した、その光景をヤンキー風の中学生がおどろいたように見ていた、ぼくは、「な、かわいそうやろ」とつぶやいた、ヤンキー風の子供は、うなずいた。ぼくはいつもそういう光景を見ると、イルカの「いつも冷たい雨が」という歌を思い出す。中学生のころ、犬が大きな国道でミンチになるまでダンプにひかれても醜いなとしかかんじ得なかった、イルカのあの歌を聴いてから、ずしんと胸にくるようになった。ぼくはぼくなりにイルカの歌の影響を受け、そのヤンキー風の中学生にいい影響をあたえたのかもしれないし、今日、しかることができなかったことを反省する。あの頃の歌には、そういうテーマや哲学のようなものがあった。歌に教えられてきたものが、たくさんあるのだ、儲けに走る、偽装的ナ歌ででないのだ。僕の中で、常にその心を打つオフコースの哲学的うたはやはり、LP[ワインの匂い]の中からこの歌をささげます。ここ
2009.06.17
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ヤスがオフコースを抜けたいといったのが話によると1979年のころ1982年の 武道館の10日間のoverツアーまで2年に近く、待ったのであろうか止めたのであろうか、皮肉にもその時期が一番、注目されて。「語らないオフコース」は人気を高めてゆく。小田さんとヤスの間の軋轢や心の行き違いなんてのもあったのだろう。NHK教育のテレビ「若い広場」で 愛の中への録音風景をみた、小田さんのキーにあわせて、ヤスの声ももっと高い声がでるようになったというが、すさまじい、高い、その音程を保つには音感もかなりのものであろう。「ナンダコレー」とヤスがさけぶ、小田さんはすかさず、楽譜を説明しに行くいろんな、ヤスのコーラスのテイクを重ねてゆき、ハモラサセルのであった。積み重ねるように作る曲、イメージの中で曲ができて、それにあわせた詩が天から降ってきて試行錯誤して、編曲をおこない、最後に題名で完成。建築の手法なんだろうかね、アルバム over が1981年12月1日発売。その中のシングルとして「愛の中へ」が同日発売。ファンはほとんど迷うことなくシングルはかわず、LPしかかわない。それでもこのシングルはベストテンにランクインされていた。録音風景フリーダムスタジオの録音が終わると、やすまず、米国にミックスダウンへゆく。やはり、ヤスのコーラスは重要なものであったとおもうし、ライブの風景を見ていると、ヤスのコーラスのあと、小田さんのショットを見ると「実に寂しそうに悲しそうな表情」愛の中へ
2009.06.17
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松尾さんが和合ハイツのIFの事務所で岩崎宏美のレコードを聞いていた、そのころ原宿のすこしおくにはいった、目立たないその和合ハイツの二階には山下達郎の所属事務所もこっそりとあった。達郎と小田さんは犬猿の仲、といううわさ、ほとんどうわさ、達郎さんが原宿のレコード店で山のようにレコードを買い、もって帰れないから束にしておいたあり、それを見て小田さんが、びっくりしたという話。達郎さんがのちの伝説の「クリスマスの約束」の第一回での招待を辞退したとき丁寧ね返答をよこした、そのとき、達郎にしてみれば、バンドで成功せず、シュガーベーブもあんまり売れなくて、本人いわく、バンドで挫折した日々、挽回すべくひとりでがんばったいた時期、オフコースがヒットをだし、売れ始めたのをみて、うらやましいとおもったのだろう、「さよなら」の物語の中に達郎は映画で見たようなリアルな情景を浮かび上げ感動したのだろう、こういう歌ができるんてすばらしいと。オフコースが活動停止した翌年、1983年の暑い夏、あのLP「merodies」が発売、その中に、「クリスマスイブ」がはいる。 きっと、君は来ない、 雨は夜更けすぎに 雪へとかわるだろう SilentNight HolyNightこの上記の達郎の詩は、オフコースの「さよなら」 さよなら さよなら さよなら もうすぐ外は白い冬 愛したのは 確かに 君だけ そのままの君だけ 外は今日も雨 やがて雪になって 僕らの心の中に 降り積るだろう 降り積るだろう どちらも有名な歌ですが、オフコースの方がずしんときます、達郎のほうがJRの宣伝の採用で毎年毎年流されて、12月のなればまたかよ、というぐらいながれます。それと、ぼくは、この「さよなら」はふきのとうの「白い冬」の影響も受けているとおもうのです、さよならもクリスマスイブも別れの歌なんですが、ナンデ、クリスマスの歌ではやるのの?所詮人の心は孤独とのたたかい。そのいやしで本能的にうっ、とくるのだろうねここ
2009.06.16
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松尾さんは中学にはいると、ブランスバンドへ合わせて友人とバンドを作る、中学の進路指導のときに「東京に出て就職したい・・。」を書く。実は音楽をするために夢のために東京へゆく決心でかいたのだ、先生はもちろん、反対、親が呼び出され、結局、能代高校に進学。高校三年のときのコンテストで大間と出会う、大間はすでに松尾を知っていて、結構、有名な人間だった。大間と松尾はほかの友人たちとバンドを組む「ドナルドダック」東京のテレビのコンテストに出て優勝。プロの道へと歩む。しかし、二年間、三枚のシングルを出すが売れず。挫折。彼らはグループサンズのようにか、アイドルのようなのかそういう路線で売り出した。松尾は当時のことを「つらかった」とコメントしている。当時の芸名、大間はジローという名前をずっとつかうが松尾は使わない。思い出すのもいやだったのだろうか、東芝EMIのレコードの配送センターでバイトをしながらくいつなぐ。「ジャネットのときより、いいわ」とバイトしながら曲もつくる。当時彼らの面倒を見ていたオフコースのも担当していた武藤さん、彼もまた、リガニーズという学生のバンドをして、レコード会社に入社。若いひとのこころがわかるのか、松尾さんは武藤さんに曲ができれば、聴いてくださいと渡していた。しかし、無名の人間の曲なんぞ、誰も相手にしない。ある日、武藤さんと酒を飲んでいると、「明日、オフコースというグループのレコがあるから遊びにおいでよ」訪ねていくと、そこには小田さんと鈴木さんがいた曲は、めぐる季節小田「この歌にハーモニカいれたいんだ、松尾君、できるだろ?」松尾さんは、翌日ハーモニカを購入して参加、1976年10月5日、このEPは9枚目シングルとして発売。ドラムのジローは既に「ひとりでいきてゆければ」で参加していた、この作品でも参加。それでは、めぐる季節をどうぞ、ハーモニカも聞いてね、この先行シングルの後、名作「song is love]の録音合宿が箱根のスタジオではじまり。松尾さんは参加するのであった、音楽の夢の挫折は、ここで再び乗りこえてゆくのだ。曲づくりをして、いろんなひとに曲を再び渡すと、「オフコースの松尾さんの作品」ということで相手は態度が豹変、実は、バイト時代のおんなじ作品であったとしても、一見、明るく、ステージで飛び跳ね、ムードメーカーである彼もいろいろあるんだ。人はそれなりの歴史を持つ、ある忘年会、二次会にまでなり、松尾さんは当時、千葉の市川に家があり、返れそうにない「だれか、とめてよー」しかし、みんな知らん顔、タクシーで帰る。原宿のパブで始発までまつことに1979/12/29/AM4パブのドアを開けると、松尾さんは恭子さんと出会うのであった、松尾さんの話はこの後も続く、オフコースは武藤さんがまとめていったようなかんじもあるが、メンバー以外の多くの人間が支えていたのである。それでは、芳恵さんからのリクエストにお答えしてこの曲をどうぞ、おやすみなさい。ここ
2009.06.15
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こんばんわ、夏模様、いい歌です。松尾さんの旋律は、せつなくて、ビートルズのイメージが強い。これだね、1974年松尾さんは「ザ・ジャネット」でデビュー。ちなみに、ジャクソンファミリーでない。松尾さんの父は鉱山技師。小学一年のときからピアノを習い始める、野生児の彼は山奥でとびはね、ピアノには興味を示さず、父親の教育は挫折。しかし、小学4年ころ、父親がポータブルのレコードプレイャーを買い与える。それから、ラジオも入らない山奥で、彼は二枚のレコードを手にする。のっぽのサリー ダイヤモンドヘッド、パイプラインこのレコードをひたすら聞く少年、のちの人生に大きく影響したんであろうか続くのだ。このあと
2009.06.15
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隠れオフコースファンとして大学にゆくぼく。男はかっこよく、サングラスをして、タバコをふかしながらきざに決めるのが、あの時代。男は男らしく、女は女らしく。死語の世界になりつつあり、あのころに発売されたのが、ソニーウォークマン、なかなか、手に入らない。生産がおいつかない。貧乏学生のぼくはバイトしても生活費で消えるのでなかなか買えない、下宿には大きなラジカセ、こたつ、スタンド、弾けないのにあるギタービニールの洋服いれ、本棚、テレビはない、まだ、コンビにもなく、ワンルームマンションもない。定食屋と銭湯と汚い下宿があればいいのだ、僕の下宿は京都の北区の小山元町というところにあり、北山とおりの少し下にあった。学校は山の上、周りはまだ田んぼと竹薮と、今頃になると「ゲロゲロ」とうるさいかえるが一晩中鳴いている。清水は松田聖子のファン、石川の小松というところが実家。「なんで、おまえ、オフコースみたいなもん、すきなんじゃ・・。」と、言う。「しかし、聖子の歌も財津さんや、ユーミンがつくってるんやぞ」と反論、しかし、清水は 「オフコースは誰に歌を提供してるんや?」ぼくは返答に困る。「しかし、フォークとかやって来た人が、アイドルに提供してるのだから、おんなじやろ」そう、反論になっていない、オフコースはアイドルに歌を提供していない。のではなく、していたのをぼくは知らなかったのである。オフコースもメンバーの松尾さんは、当時、岩崎宏美に曲を提供していた。しらなかったのだ、松尾さんが実は、岩崎宏美のファンであったことは知っていたがどういう経緯で曲をしかも、詩まで提供していたのか、・・。岩崎宏美のうたのすがすがしさ、伸びのいい歌、いま、聞いてもすばらしいものがおおく、聖子や明菜が出てくる前、百恵たちと世代は同じだが、ヒットをたくさんもつ、しかし、松尾さんの楽曲は、「潮風のなんとか」という歌をだしてももう、ひとつつくってくれといわれ、それもすこひ、色っぽいやつをで、これになる。当初、抱いて、というももだったがあまりにもそもままであったので、胸騒ぎ になった、らしい。しかし、話変わるが、あの髪型はほんと、いいよね、黒髪の日本人としても美しさを表現、まゆげのところまで前髪をたらす、あれは当時はやりました。おでこ、をみせない、というのがトレンド。松尾さん、でもファンでありながら曲をだせるというのは本当におどろいただろうね。松尾さんはまだあの柏原芳恵さんにも。。夏模様ぼくはこっちもすきです、坂道なんというか、哀愁というか柏原さんの魅力というかスローなとこというか、いいですね、松尾さんの作品を知らずにみんな聞いてたりするのです。当時、稲垣潤一さんが売り出すときにもいろいろ曲をだし、秋元さんが詩をかくパターンがありました。246:3AMほんと、難しい歌ですが新人のJIは歌いこなします。最後にとんぼちゃんの名曲をどうぞ。ここ
2009.06.14
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はいどうも、こんばんわ、、オフコースは今日はおふです、みんなが引いているのを感じる今日この頃。先日、弁当を配達していると、交番にいつもの若い警官にもっていったんだね、老夫婦が呆然として、いたんだね、なんか、話して電話していた、ぼくは交番を後に外にでると、老夫婦もでてきた、あまりにも深刻そうなので、ぼくは、「どうかされたんですか?」と聞いてみた、財布でも落としたのかと、そうすると、15歳の娘が家出をして帰ってこない、という話。堰を切るように、話し出しだ、自分の息子の子供で、母親は育てられないと逃げ出し、15歳になるまで自分たちで育てきたと、高校になって、彼氏ができて、妊娠してしまい、堕胎するように説得してもきかず、ある日突然、家にかえらないようになった、とのこと、警察は事件にならないと動かないんだ、そこまで税金をつかえないわけだ、仕方ない。一万円の所持金しかなく、もう九週を過ぎてどこにいるのだろうか、と。ぼくは、チラシを店にはり、よく見ておくといい、きっと、無事に帰るから、無理しないように待っていればいい、と励ました。しかし、15歳で妊娠家出を驚かない自分にもあきれるし、きんぱち先生の中学三年の杉田かおるのドラマでは驚いたが、あれから20数年、かなり乱れたものであります。ここまで男女交際が乱れて性も解放的になり、犠牲になるのは常に、女の子、と、未来の人間、鎌倉時代にも相当乱れて、僧侶が兵庫の港で教えをひろげ、捨てられた子供や、誘拐されたり暴力から女性を救い、倫理を説いたという、そういう意味で、人間はおろかなる動物で、倫理などいうものは強制的ナ枠組みでしか会得できないのだ。鎌倉時代から平成時代まで、進歩しないヒューマノオイド、話はもどり、想像するに15歳の女の子、「愛」が欲しかったんだとおもう。自らが母親に捨てられ、母という概念もなきものが、自らが母になるとき、繰り返さないために、祖父母の強い反対をよそに、おそらく、その彼氏と結託し、どこかで生もうとしてるのかもしれない。本能というものがあるのだろう、母性本能、混沌とした世の中、携帯やパソコンや、いろんな過多な情報が子供たちを襲う、神様、仏様、無事に帰れますように、と祈るのみ。やはり、オフコース「やさしさの時代」「愛の時代」が必要だとおもうのでした。
2009.06.13
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1979年のスリーアンドツーのコンサートの大成功。大阪フェスも二日間盛況、翌年はたしか、三日になり、四日になりさよならから、ヒットが続く中、おそらく、そのあたりで、ヤスが悩み、オフコースを抜けようとおもったんだろう。オフコースが念願の武道館のライブをやり、そのときの小田さんのことばは「ぼくたちは、だいそれたことをしています。」緊張気味にでかい一万人はいる武道館でMCをした、丁度、20代から30代にかわる年齢だった。タモリの批判もあり、ベストテンの辞退、ライブツアーの激務、アルバム製作、しかし、もう彼らは家庭を持つ男でもあった、急がしいき急ぐようにあの時代を駆け抜ける。1980年といえば、僕は19歳、大学一年生。いろいろな音楽を聴いていた、オフコースばかりでなく、イルカや中島みゆき、谷山浩子、ハイファイセット、山下達郎、もうあげればきりがない。竹内まりあもファンだったが、達郎と結婚したのは驚いた。吉田美奈子もすきだったが、関係ないか。音楽が好きであった、しかし、あのレンタルレコードができてからレコードを買うのがかなり減った。当時、神戸の高校生のぼくは、三宮のAOIレコードでLPを購入していた。オフコースの新作がでます、と、書いてある。タイトル未定、6月ころまだ、3ヶ月も前から予約を受け付ける。予約すると、特典があるから、ビニールのオフコースと描いたロゴ入りのものとか、ステッカーとか、ポスターとか、当時、2800円のLPは非常に高いものであった、アルバイト時給が450円前後だった。1000円札も価値があったものだ、そういう中、LPを買うのは度胸が必要。ラジオの番組でレコード券とかいうものをもらったり、お年玉をつかったり、あの当時の音楽の連中はそういう人々のお金を集めていたんだね、ライブも2000円前後、これはもういまは倍以上です。三ヶ月前に予約し、お金を半分入れて、発売されるとわくわくしてレコードを買いに行く、あんまり目立たないように、家に持ち帰る。あのシュリンクといわれる透明な袋は破る。ターンテーブルにのせ33回転にし、ヘッドホーンをはめて大音量にし、針を落とす、その瞬間、ざーというノイズのあとに演奏が始まる。あの今思えば面倒な儀式もなつかしい、一こま。たたみにねころんで、ライナーを読みながら、A面はあっというまにおわるんだね、B面を聞いているうちに寝てしまう。オフコースファンの友人がいないぼくは、その感想を言い合うひともなく、傷つけないように、静電防止のスプレーとほこりがつかないように中のシートをすこしおり、そっと、大切にレコードをしまう。いまから数年前、実家にはもうステレオも粗大ごみになり、大学のときに買った山水のアンプも引越し11回のドサクサで無くなり、部屋の片隅の押入れの中にあるダンボールの中、その中でオフコースのLPは眠っていた、もう、捨ててもいいかい?300本はあるカセットテープと100枚はあるレコードいや、捨てないで・・。そう簡単に思い出とレコードは捨てられない。なけなしのこずかいで買ったもの、over のLPを買いにゆけず、予約していたのだが、いろいろあって、買いに行ったあのときのことなど思い出す。しかし、いま、音源はパソコンにいれてほとんどそれで聞いている。レコードはめんどくさくてひっくりかえすのがたいへんで、あんまりきかない。あの20数分のA面をB面にひっくり返すことさえ、いまは、短いな、とおもう、その時間の感覚の貧弱さに驚く。ゆつたりとした時間があったな、コーヒーでものみながら、レコードを聴く、そういいつつ、いまもオフコースの歌をパソコンで聴いている。オフコース 「私の願い」です、つぎのきかせてもいいのですが、曲がかわるあの空間がすきでした。会うたび君はきれいになってそのたび僕はとりのこされてここ
2009.06.12
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オフコースが「さよなら」のヒットを出したのが1979年の冬から1980年の春。冬の風景の別れの歌として人々の思い出の中にいきずく。あの、クリスマスの定番における、達郎のクリスマスイブもこの「さよなら」のイメージでできた。オフコースがヒットをだし、人気が出始めて、次のシングルも似たようなものをだせば、再び、ヒット間違えない。しかし、そうはいかない。東芝EMI関係は反対したんだろうけど、オフコースはこういうときにこそ、注目されるからだすんだ、と、でもヒットはしない、しかし、この歌はずっといままでも注目されている。1980年といえば、エポックアクシデントのひとつ。川崎の金属バット殺人事件がおこる。オフコースたちの時代への危機感はまさに、真実となり、永遠と現在まで親殺し、もしくは子殺し、家庭内暴力など危険な時代に突入してゆくのである。多くの過ちをぼくもしたように愛するこの国ももどれない、もう戻れないこの歌詞を聴くたびに、広島の原爆祈念碑も思い出す。いままさに、北朝鮮が核保有国として既成事実を積み上げ世界の世論では抑止のために日本が核を持つことを提言している。川崎の金属バットの少年は13年の刑期を終え、海外のボランテイァをしているらしい。親と子供の関係、国と国の関係、オフコースは危機感をもち、提言する形でこれをだす。ここ
2009.06.11
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オフコースが人気絶頂であるとき、オールナイトニッポンでタモリが批判を始めた、あわせて、さだまさしも批判の対象になった。小田さんがたまたま深夜、仕事帰りに車のラジオを聞いていると自分たちの批判が聞こえてきた、ぼくもリアルタイムで聞いていた、複雑であった、タモリの放送は面白く人気もあり、毎週聞いていたが、同時にオフコースやさだまさしのファンでもあったので、「そうか、くらいんだ。」と改めておもうのであった、特にさだまさしの批判がすごく、ものまねまでしてやられた、203高地という戦争映画の「防人の歌」を歌えば右翼だとか、関白宣言なども批判、おすぎとぴーこも同調した。さだまさしは、当時、その批判を耳にし、いわれのないもので「もう、音楽はやめようと」とおもったという、芸能界の体質というかそういうんにうんざりして、反論するきにもならず、おんなじ土俵にいることもいやであった。深夜ラジオ放送で一方てきにこうやられると、セールスにも影響が出る、やっと、順調に行けると思いきや、オフコースもいろんな問題を抱えるわけだ、で、前回も書いたけど、なぜ、オフコースとさだまさしが標的になったのか、アリスでもなく、中島みゆきでもなく、なぜなのか、そこがなぞ。たまたま、ということだろうか、で、さだまさしは中国に逃避するんだね、映画「長江」もそういう背景からでできている。オフコースはまったく気にせず、大人であった。しかも、4人になり、小田さんはタモリの番組にでている。ほんとうに、小田さんは偉いとおもう。タモリもほんとうのこというと、たちの悪い冗談ではじまったのが、冷や汗ものになる、皮肉にもタモリは朝日系で長い間音楽番組をするが、一切、こういう世代はでない。しかし、小田さんが作った歌がJr系のタレントがでたときに、「さすが、小田さんですね」といったという、また、さだまさしの小説「解夏」が映画になり、その作成はフジテレビになり再び、その映画の宣伝できた俳優にさだまさしの原作をプレゼントされるという皮肉、一番、実はおたくでくらいのがタモリだったのは、彼の趣味を見ていればわかる、タモリクラブの番組を見ていると、ぼくは、そう感じるのである。あの時若いタモリはアングラの人間であったから、なんでも言いたい放題。しかし、有名になってしまうと、逆に発言への責任を感じ、止めるほうに回るつまらないことになる。さださんや小田さんが人格者の余裕を感じるのはそういう経験もしているからであろう。二年前の小田さんの番組にさださんがでたときに「よく、昔、くらいとか、めめしいとか、いわれましたねー」という言葉に僕は彼らのときの流れを感じた、そして、暗い、めめしい、とか言われることを、実は自分もいやだったことも思い出し、複雑なニュアンスを思い出して、懐かしく感じてしまった。暗く女々しい、このことは実は精神衛生上に大切なことだとおもうし、自分の内側を見るという行為は、人生の最初にやっておかないと、しんどいことだ。ここ【古本】 解夏/さだまさし【レコード・EP盤】(中古) さだまさし/天までとどけtotoeba
2009.06.11
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1980年といえば、先ほど天に召された清志朗のRCが、「トランジスタラジオ」などヒットをばんばんブレークさせた時期。このころの音楽業界は相当にぎあう。演歌も歌謡もアイドルもロックも全盛。そういうなか、オフコースは田園コロシアムライブ(通称田ころ)から武道館10DAYSのoverライブまでの二年少し、ランナウェイします。バンドは対等であり、ギャラも五等分。編曲はかならず、オフコースであり、印税にも配慮。それぞれが音を出せてこそのものがバンドであるというものであった。その考えでこのアルバムはこういうデザインになる。しかも順番でさえ、アルファベットである。この作品からあのビル・シュネーが参加するのだ。小田さんがツアーで地方都市でひまをもてあまし、パチンコをし、勝ちそこであったLPを勝ちだまと交換する。ボズ・スギャックス「ミドルマン」であった。【Aポイント+メール便送料無料】ボズ・スキャッグス Boz Scaggs / Middle Man (輸入盤CD)きもちよさそうに寝るボズ。これがベンチに座る前作であったら小田さんは違うLPを手にしていたかもしれない【 レコード・LP盤 】(中古) ボズ・スキャッグス/シルク・ディグリーズ SIDE A時に愛は (5分47秒) 作詞 作曲 : 小田和正 僕等の時代 (3分49秒) 作詞 作曲 : 小田和正 おまえもひとり (4分22秒) 作詞 : 鈴木康博 清水仁、作曲 : 鈴木康博 あなたより大切なこと (4分19秒) 作詞 作曲 : 小田和正 いくつもの星の下で (4分22秒) 作詞 作曲 : 鈴木康博 SIDE B一億の夜を越えて (4分27秒) 作詞 : 安部光俊 作曲 : 鈴木康博 せつなくて (4分29秒) 作詞 : 大間仁世 松尾一彦、作曲 : 松尾一彦 Yes-No (4分32秒) 作詞 作曲 : 小田和正 私の願い (3分35秒) 作詞 作曲 : 小田和正 きかせて (4分31秒) 作詞 作曲 : 小田和正 やはり、注目すべきはBの一曲目 一億の夜を越えてである、作品は 安部光俊のものである。79年のツアーから参加し、オフコースの前座として参加したり自分のアルバムの製作にもオフコースが参加していたりした、オフコースが売れないころに夢見たことを詩の託した、ここオフコースがこの曲でライブののりをだしてゆく、このアルバムのことはまた明日。続くのだ
2009.06.10
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オフコースの歌には「別れ」の歌がおおい。イメージ的にどこからそういうものが出てくるのか。映画のストーリーからか、実際に恋愛体験からか、二人とも、こういう話は煙に巻く。それから、あの時代は「優しさの時代」とも言われる。どんどん過去のなり、あの時代の学生だった人は、もうかなりの年、結婚し、母になり、子育てをし、子供も高校生大学生になったころ、ひと段落して、余裕ができ、再び、音楽を聴く時間もできたのであろう、そういうことを含め、小田さんが支持されている背景はそこにあるのだ、話し変わるが、松田聖子さんにおける人気も不思議なものだ。あのころは男性が支持していて、いまは、シングルマザーなど女性に支持され当初の男性ファンはまあ、それどころでないにしても、オフコースのファンも小田さんにのみ回帰しているのだろうか、「それはないぜ・・。」といいたいところだが、小田さんもオフコースもおんなじ、とおもう人がおおいなか、財津さんそのものがTULIPではないように、そのあたりが、しっくりしない。あの時代が、優しさの時代、といわれるものの中にやはり世代的に親たちはほとんど戦中派であり、祖父母は戦争の被害で相当なくなっていて、家族などの家を再構築するじだいでもあった、この僕たちの世代より前にいるものは、学生運動や安保闘争などをおこないまた、団塊の世代もその団塊世代ジュニアも、優しさの時代をかんじない。やはり、核家族のほんの少しの幸福を得るがために親たちは子供たちに愛情を注ぎ、学歴社会のために教育にお金をかけ優しさの中で子供たちを育てた、オフコースの歌が売れ始めた1980年前後はそういう時代であったんだと、おもうのです。実際に別れの歌を聞いて、ああ、こういう恋愛も自分はするのかな。とおもうのでした。何も知らないのでした。とりとめもなく、思い出した。
2009.06.10
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オフコースのコンサートにいってから、いつもぐるぐると頭の中で演奏が繰りかえさえ、なんどもラジカセでテープを聴く。生の演奏はすばらしく、リアルである。この1980年のスリアンドツーコンサートから爆発的に売れ始め1982年6月の活動停止まで 5人時代のオフコースは絶頂を迎える。しかし、その期間は実に短い。20年のオフコースの歴史の中でその二年は輝くロックバンドであった、シングルはさほどでもLPは常にトップセールス。そう、当時、貧乏学生のぼくの部屋にはテレビなんかない。友人の清水や東の家にゆくと、ちいさいソニーのテレビがあり、清水が大好きな松田聖子がザ・ベストテンが見れるのである。この番組は本当にすごい番組で音楽業界にもかなりの影響を与えた。しかし、でないのである、オフコースは決してでないのである。何回も何回も久米さんが、頭を下げて出ない理由をコメントする。「時に愛は」のときも、かなり上の方まで行ったが、出ない。当時、出ないことで有名な松山千春はあの有名な番組の人にいわれ、一回だけでた。番組の人は、はがきがたくさんきています、地方で何回もコンサートにゆけない、お金もない、だから、テレビで見たい」という言葉に落とされて千春はでた。このときはさすがに見入った、千春は、自分の歌が何位とか、何番とか、言われたくないんだ・・。その言葉が衝撃的であった、ますます、千春のことが好きになったがオフコースはそれすらもなく、スルーであった。オフコースカンパニーは堅い城であった。一方、サザンやツイストはひたすらででまくるのである。サザンはライブでもそのときまで待つかして、やっていたのを思い出す。あの差はいったいなんだったのか、おもうわけである。絶滅希少価値のオフコースファンは複雑な思いをしてシングルのヒットをみながらミーハーな強烈な新参ファンと、空気をかんじるのだった。しかし、1982年の活動停止の時に、TBSのためにNEXTという番組を作りテレビにでり、1981年には若い広場に出た縁もあり、教育テレビの中でドキュメントとして、オーバーのLP作成のものがでた。なんで、あのCHにでるんや?ほんまひねくれてると、僕はおもったもの。しかし、あのオフコースのライブを見れば、誰しもテレビでは表現するのがむずかしく、あのスケジュールをこなし、作品をつくる、あのぎっしりとしたスケジュールはくずせない、それに、あの当時、写真を見ると小田さんも鈴木さんも、どちらかが必ず、「腕を組んでいる」腕を組むという心理は、決して自分を崩さず流されず、つっぱる、ということ。頑固ものでつっぱる、やっかいなグループであった。スリーアンドツーのLPはゴルフが好きな小田さんの発想だろうか?田コロで華やかに3人の正式加入を伝え、オフコースは3人と2人が合わさったという7作目の作品となる。しかし、既に彼ら三人はかなり前からオフコースのメンバーであったのだ。 SIDE A 思いのままに (4’42”) 小田和正 作詞 作曲 恋を抱きしめよう (4’05”) 鈴木康博 作詞 作曲 その時はじめて (4’19”) 小田和正 作詞 作曲 歴史は夜つくられる (4’11”) 鈴木康博 作詞 作曲 愛を止めないで (3’49”) 小田和正 作詞 作曲 SIDE B SAVE THE LOVE (8’19”) 鈴木康博 作詞 作曲 汐風のなかで (3’49”) 鈴木康博 作詞 作曲 愛あるところへ (4’48”) 小田和正 作詞 作曲 生まれ来る子供たちのために (4’53”) 小田和正 作詞 作曲 ~「いつもいつも」(1979.8.5 田園コロシアム ライブより) ほぼ、小田作品鈴木作品が均等であり、LPの作品とEPの作品のありかたがぜんぜん違うものであることが垣間見れる。EPはヒットを狙い、ファンを増やし、レコード会社にも貢献、ということで、愛を止めないで が収録されている。このLPが秋の10月に発売。12月1日に「さよなら」のEPが発売。しかし、その歌はどこにも入っていない。しかし、この歌もあのベストテンにもでず、一位にもならず、順位はやはり、いろんなことを含んでいるのである。このLPの「思いのままに」これは僕は5人時代のすばらしい演奏とコーラスの結晶であるとおもう。君にはただの愛の唄も、ぼくにはこんなに切ない愛のしらべ君は君の歌うたえ・・・この歌詞はぼくは、あの批判するひとへの歌と受け取った。オフコースが10年苦労して、やっと、ブレークしたときに批判されるのである。めめしい、暗い、とか、やはり、そういうことを含めて懐かしいともおもうし、批判されてもファンは増加してゆく、テレビにでないことやいろんなコアな魅力があり。逆に、それでよかったのかもしれない。思いのままに
2009.06.09
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オフコースのチケットはますます入手困難。ダフ屋もでまくり。「はい、あまっているチケットない?買うよ!ねーさん、あまってないのかい?」やくざ風のダフ屋がどうどうと、ロビー前にたくさんいる、その光景と不似合いなオフコースファンたち。ダフ屋はオフコースの歌なんぞ、知ってないのだろうか、「さよなら」のせつなさ、を理解していえるのだろーか。「にいちゃんも、オフコースの券、あるの?」僕に話しかけたきた!やばい。1980年6月19日木曜日、スリーアンドツーのオフコースのコンサート。そう、もうなくなる、愛すべきすばらしい会場「大阪フェス」もう29年もまえかよ・・・僕は18歳。松尾さんのひげもない。なんと、二階席、しかも、一番前。オペラとかクラッシックなら音響全景最高の場所。ぼくは、感動していた、その席に、Tシャツとかグッズとかロビーで売っている。貧乏学生にはまったく興味もナい。今思えば買えばよかった、と反省。ぺらぺらのスリーアンドツーのLPノジャケット、タムジンの沖縄での撮影。正式に、5人になった、バンドとしてのオフコース。そういう姿を見れて、ぼくは感動した。暗転になり、オフコースのコンサートがはじまった、LPとは少し違うアレンジ、もちろん、5人の生の演奏だからね、「愛を止めないで」の最初のパイプオルガン?もない。セットリストもわすれた、ぼくは、曲がはじまると、もう感動しまくり、一曲目で立ち上がる。が、見渡すかぎり。誰も冷静に着座し、演奏を聞く9割の女子たち。今日。弁当を配達しながらその光景を思い出して、いろんなことを連想した。そう、あの時代はまだ、男尊女卑的に、男らしくしなさいとか、女の子はこうでなきゃ、とか、そういう、性別の主観があり、男はかっこよく、サングラスをし、タバコをふかすみたいな、感じで、オフコースを聞くぼくは、そのハザマで小さくなっていた。思い出す連想することは小田さんのクリ約でアルのりのいい若手の演奏のとき客はのるのだが、誰も着座し、けつがおもいのか、テレビ局のえらいさんが、絵図ら的にクレームをつけ、「すいませんが、観客のエキストラさんはみんな、この歌のときは乗って、立ち上がってください」とNGをだし、取り直すハプニングがあったそうだ。オフコースファンは20年の経過をしても・・。そう、スリーアンドツーのツアーで大阪フェスのときも誰もすぐにたちがあらないのであった。しかし、俄然、ぼくはたちがあがり、のりのりの拍手。オフコースのメンバーは僕の姿をきっと見ただろう、小田さんもぼくをちらりと見た、と、勝手に妄想している。二階席はほとんど、たたず、よくよく考えてみると、「はじめの一歩」の中にセットリストがあるのをおもいだし、見てみると、やはり、一曲目、「愛を止めないで」だった、ぼくがのるはずである、この歌がはやったときは高校生、初めてのデートのときに見た神戸港のかもめを思い出す。横浜でない、外国客船が来ているといって、わざわざ見に行ったけど、ハングルの貨物船しかいなくて、帰った。あの時初めて喫茶店にはいり、コーヒーを飲んで、大人になった気分になる。僕の思い出の歌。二階席で一人たちがった、男の子をオフコースたちは今日はのりがいいな、と、演奏に力がはいっただろーか、一曲目 愛を止めないで二曲目 ランナウェイ三曲目 恋を抱きしめよう四曲目 雨の降る日に五曲目 思いのまま六曲目 歴史は夜作られる七曲目 そのときはじめて八曲目 潮風の中で9曲目 失恋のすすめ10曲目 潮の香り11曲目 秋の気配12曲目 愛あるところへ13曲目 君待つ渚 14曲目 眠れぬ夜15曲目 生まれ来る子供たちにアンコール さよなら のがすなチャンスを 愛を止めないで いつもいつも 眠れぬ夜小田さんのMC 「こんばんわ、オフコースです、今日はすこしでも多くの演奏をたのしんでもらいたい と、おもいます。」しか、記憶にない。ひたすら演奏のパターン、しかし、このオフコース、武道館をタキシードで演奏をこの大阪フェスのあとでやっている、よくもまあ、全国53箇所もまわり、アルバムをつくり、再びツアーの繰り返しの激務をover までやるんだね、よく働いたとおもう、ダフ屋さんも聞けばいいのに、と、おもいつつ、しかし、さよならを、いつ持ってくるのか、そこがにくい、アンコールの歌も実はきまっていたのかなでも、ステージで、次はこれしようか、なんて話していたのをおもいだします。ここ
2009.06.08
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オフコース再結成。これがまた、夢のまた夢。実現不可能。ぼくが、オフコースのページをつくったのも(未更新放置)目的は再結成。アリスもLIPも何回も何回も、再結成している、なんでだ?絶滅したオフコース。絶対にしないという、小田和正様。ヤスは脱退後はかなりの間、オフコースの歌を封印してきた、オフコースを捨てた?といいうかんじかな、いや、辞めたという決心かな。なんで、鈴木康博がオフコースを絶頂期に脱退したか、いろいろ言われていたことをおもいだす、人気バンドのごたごたを三流週刊誌が書く。上野博さんが小田さんをメインにしてやれば売れる、バンドはコアが必要なこと、とオフコースをそういう風にもってゆき、Bサイドばかりの鈴木作品に納得ゆかない、とか、いう話。話し変わりますが、以前、上野さんの話をここでしていたら、上野さんが訪問され僕の間違えを訂正し、コメントまでくれた、上野さんの音楽に対しての貢献と、オフコースの立役者であることは、またいつか述べたい。オフコースが三人のとき、赤い鳥とジョイントコンサート「8人の音楽会」で名古屋に行った帰りの新幹線、そこで、地主さんはぽつりと、いう。「オフコースを抜けたいんだ・・・。」小田さんも鈴木さんも驚いたのだろうか、表面はしかたないな、といいながら、どうすればいいんだ。思えば、高校から音楽を楽しんだ同士で、大学まで小田さんとおなじ、しかも建築。3人ではもり、それが売りだったに、地主さんはその後、竹中工務店に入社。設計における偉業をどんどんなしとげ、取締役までなったのである。東北大学の建築で学んだ連中はそれぞれ建築屋設計など、どんどん形ある仕事。ひきかえ、音楽の道に足を踏み入れ、彼らの戸惑いと迷いは相当なものだったろう、おそらく、そのあたりのことを、ヤスは思い出していた。もうひとつ、彼の脳裏になったのが、東京電機大学までゆき、卒業までに会社の内定までもらったいた、そう、大学4年の最初のころまでは、サラリーマンになるつもりだったのだろう、そこで思い出作りのヤマハの音楽コンテスト参加。そこから、音楽の道に行く決心がどこかでついたんだろうか、小田さんはことあるごとに、「もう辞めよう、いつかやめよう」と迷い続けながら、やるわけだ、でも、ヤスが真剣に音楽に取り組む姿をみていろんなコードや編曲にしかたなど、教えてもらい、いわば、当初はリーダーはヤスではなかったのか、トモ推測するのである。内定まで蹴って、音楽のほうにゆく決心をついたヤスは親に言うわけだ、親は電鉄会社の重役、すごい家柄らしく、ものすごく反対。勘当するぞ!まえいわれ何のために大学までいかせたのか!と罵倒する。そこまでして入った音楽の世界。苦労した二人のオフコース、そういうことを考えたんだろう、あのときのビデオには@「いろんなことにとらわれたくない、いろんな音楽をしたい(だから、バンドという制約をなくすために、やめたい)」のような言葉を残す。小田さんが最近、ヤスにもっと、いろんな音楽に挑戦、表現してゆくとおもった、と、コメントしていたこともおもいだす、でも、実際、オフコースががんがん売れていたとき、松尾さんはいろんな人に曲を提供していたが小田さんは決してやらなかった、まあ、イルカの曲はやっいたが、1980年から数年、松田聖子が出てきて、彼女の歌唱力もすばらしいが、ユーミンや財津さんがいい曲を惜しみなく提供していたが、同時期に彼らもブレークしていたので作る暇もないが、決してやらない。でも、ヤスは郷ひろみの「素敵になんとか・。(忘れた)」を提供したりコーラの宣伝の歌をつくったり、いろんな風に活動してゆく、しかも精力的に。一番の脱退して衝撃を受けたのが小田さんであったとおもう、新幹線で地主さんに辞めるといわれた、そのことも、今回のこともしかし、バンドは運命的にいつか、解散する、という宿命を予感していて、そういう、ありとあらゆる気持ちを濃縮し、あの歌で、泣いたんだとおもうよ、オフコースを再結成しない、という決心もそこにあるんだとおもし、でも、いま時代はオフコースの愛の時代を必要としている。元オフコースの丸丸といわれる、しかし、ソロになり元オフコースが外れるのは相当なことが必要で、どうしてもその扱いでないと、マスコミは納得しない。元オフコースが元歌をアレンジしなおして、また歌う。これもいろんな気持ちが入り乱れたんだとおもうが、小田さんもそのあたりはふっきれているのかもしれないが、オフコースの歌と、小田さんのセルフカバーは、まったく別門、と、いうわけで、今回もおわり、また、明日明日はどういうことにするか?ここ
2009.06.07
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大学の下宿にはラジカセ、ヘッドホーンでオフコースのアルバムをテープに落としたのを聞く。隣の部屋では先輩ががらがらと、マージャン、毎晩あけがたまで経営学部はのんきなもんだ。そういいながら、わけのわからないスペイン語の小説を辞書を見ながら訳する、要するに予習というやつ、これをしていかないと、教授が激怒、まあ、ぼくがいまべんとうやをしていることをご理解いただければ、まったく物にならない4年間であった。オフコースの overこのアルバムが僕としてはかなり気に入ったもの、ヤスが脱退することや解散するかもしれない、という情報、このアルバムにはペーソスかんがただよう、アルバムとしてひとつのテーマがあるのだろう、LPには表と裏があり、A面、B面、というものがあった、Aから聞き始め、Bで終わる。途中から聞きたいとおもっても、最新のターンテーブルでないとできない、自分で目視して、そっと、針を落とす。このアルバムのテーマは、別れ なんであろうか、ぼくはそのころ、20歳になったばかりで友人を事故でなくし、初恋のみゆきちゃんが結婚するというWボンバーでへこむころであった、そういう僕にはぴったりであった。なんで、この一番売れているときに脱退し、活動を停止するのか、謎というか、ぼくはそのころ、まったく、関心がなく、ひたすら、楽曲としてのオフコースを愛していただけ、隣の部屋ではがらがらとマージャンを、ぼくは、ヘッドホーン大音量でオフコースをひっそりと聞く、そう、ひっそりと聞くのだ、当時は、オフコースファンは9割が女性。そして、タモリの迫害も始まり、女々しいとか暗いとか揶揄されていたのだ。そう、常に絶頂期にはそういうことが起きたりするのが常。そう、あの伝説の初デート、みゆきちゃんと神戸港を横目に歩きながらの会話、ぼく 「好きな音楽はどういうの?」みゆきちゃん 「ようすいとかアリスがすきだな・・。」ぼく 「オフコースとか、どう?」沈黙みゆきちゃん 「ええ、あんまり聞かないな・・」ぐさりと僕のハートは敗れる、いや、破れる、それから、数年、オフコースが好きだという人間は僕の周りにはいなかった、コンサートのゆくも、ひたすら女の子、何の行列かとおもいきや、トイレの行列。だから、ぼくはもうあきらめ、オフコースが好きだということは、誰にも言わないでおこう、そう心に決めた、アリスが好きだということを聞き、まあ、当時はもう売れ始めていたが、いま聞いても、アリスが明るくてオフコースが暗い?そういう論理はおかしい、森田童子があかるくて、中島みゆきが暗い?明るいのがよくて、暗いのがよくない?この問題も変な話だよな、これはスケープゴートであるのかもしれないな。で、今回は何の話だったかな、オフコースの人気はそれでも相当なもので、コンサートのチケットはなかなか入手できない、黒い電話の前にかじりつき、じーこジーコト、何回も何回も時間にかけないのと売り切れ、徹夜で並ばす女の子にも問題があって、はがきで応募ということになる。このはがきも相当な数で、200万枚程度のはがきが10万人の武道館ライブを目指し喜んだのは民営でない郵政省であろう、オフコースのバンドとしての味は、絶妙な計算された演奏であるとおもう、どうも、小田さんばかり目立ちいまもそうであるが、前奏間奏があってこその曲である。「さよなら」の歌はほんといい歌だけど、あれはヤスのエレキが泣くのが見せ場、それにひとしも松尾も控えめに音を高くあわせ、小田さんの声が3Dのように前に出るのである。オフコースが活動停止し、いろんなアルバムが出て、東芝の武藤さんもついでに儲けようとしたのか、オフコースのインストルメンタルのLPを出した、それも二枚。曲としてもきれいな旋律。でも、プロが演奏し楽譜とおりにしても、違和感でまくる。なんか、違うのである。微妙な「間」、隠された音とか、違うのである、小田さんが前回のライブでオフコースコーナーをやったが、みんな、喜んでいたが、あれも、どこか違う。このアルバムには「言葉にできない」がはいっている、この曲は、突然、小田さんの頭の中に天から降ってきた「ら・ら・ら」みんなでライブの準備か、レコーディングか、居残り、さっさ、と完成したらしい。らしい。この歌は、小田さんが鈴木さんに会えてよかったと感謝の気持ちであるのだとおもう、ライブではひまわりの映像がフル画面で映し出されライブの中の見せ場になっているのだ、しかし、小田さんが再び、その曲でソロで脚光を浴びるのである、CMが話題となり、障害を持つ子供の親の気持ちを代弁する歌になり、数多くの主婦が共感したのである。その世代がしかもあの時代の高校生。不思議な繰り返しである、それもヤスの脱退のおかげであるのだ。ここ
2009.06.06
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1970年代は、混沌とした時代だった、ミグ戦闘機が函館に亡命!ええと、あの、レチェンコだったか?チンコだったか?忘れたが、あれもびびったね、代官港木々?大韓航空機撃墜事件、爆破事件。ソ連と米国の「冷戦」あれは、ずしーんと日本列島を覆う雲ののようにしかし、日本は平和ぼけをしたいたのか、それとも、そのパワーバランスの恩恵でなんとか平和でいられたのか、一番の影響はマスコミたちのベトナム戦争の取材であったし、それ以前にあった、安保反対どうのこうの、で、学生運動で揺れるんだね、しこたま日本が燃えていた記憶がありますが、そのころ、僕はといえば、腸学生でなくて、小学生でありました、しかし、変な返還するな、変換やっちゅうねん、最近、またこのパソコンのぼけがいいのです。話それますが、このパソは長生き、いまだに98のOSです。XPもあるんですが、このボケ変換が冴えるときがありまして、ぜんぜん話違う方向へ。、そういう時代におきたのか、フォークの時代です。そもそもそのフォークの成り立ちは戦争反対とか、労働者のためとか、そういう思想のもつたものでした。これを、ざーっと、商業にかえたのが、吉田拓郎であったような記憶がします、当時、岡林などのアングラな人々は、ある意味、拓郎をさげすむようなところがあったのです。しかしながら、売れた物がちです。いま聞くと、拓郎の歌はすばらしく、心に響きます、人生に二度おいしい、とおもうのです。よくわからんうちに歌詞を聞いていたがいま50歳を前にして、うるうるきます、オフコースの話がない。拓郎とオフコースは深い深いかかわりがあるのです。まじで、拓郎はオフコースのバンドの憧れ、小田さんの加入を申し入れて即座に否決されるのです、それをオフコースのファンクラブの会報の中でわざわざ文章にしてるほど、拓郎は常にバンドの憧れ、その間合いというか空気というか、が好きだったんだろう。だから、この前の体調わるくキャンセルしたツアーには、松尾さんを呼んでいた。オフコースが1982年の6月武道館を終えて、活動を停止したときに、わざわざ、オフコース三人衆をツアーにいれて、拓郎のバックにいたほど、好きだったんだね、彼等が。あの、目だね、仁がみてるんだね、小田さんの手を、松尾さんのギターもあの間合いですよ、絶妙なものああ。お風呂、また夜中にかく
2009.06.06
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オフコースの話ばっかりにします。もう、特化します。拓郎が出てきて音楽シーンはかわる、音楽は時代の世相を常に反映している。拓郎はメッセージソングのフォークを歌いだし、それまでのフォークとは少し違ったものになってゆく。そういうメッセージソングとか、人間性がどうのこうのとか、一切、当時のトレンドを気にせず、自分たちの音楽をしていたのがオフコースである。当時、変コツ、生意気、頑固ものといわれ、やりにくいとさえ関係者にいわれていたらしい、オフコースにしてみれば自分たちのアーチストとしての気持ちであったのが、いろんなひとにいじられたくない、という気持ちもあったのだろう。さあ、僕の思い出とともにオフコースをこれから語る長編にします。ざあ、と書いてまとめて、最後に単行本の公募の応募します、このブログを土台にしてゆこうとおもいます、今までの内容と重複する部分もありますが、あきずに、お付き合いください。それでは、おやすみなさい。
2009.06.05
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オフコースがいろんな番組で出ていて、多分、キャンペーンでいろんな番組で宣伝していたのは、さっき言った、東芝EMIが、がんがん売れていて、「次はオフコースをうるぞ!」という気概のようなものがあったんだとおもう。もう、東芝が撤退し、EMIだけになったが、あの当時はあの水色のレーベルはかなり売れたはずである。オフコースはじわじわと人気があった、マニアックな女子がすこしいたのだ、せっせと、ラジオのリクエスト番組にリクエストをおくるのだ、はがきで、当時のニッポン放送のひとが、そのはがきは一様にきれいな字で、女の人でファンクラブの組織的な運動であるのをきずいた。当時は芸能界や音楽界は親衛隊とか、応援隊とか個人的に応援し、メジャーにする、という奇特なひとびとがいたんだね、しかし、皮肉にも売れ始めると、自分たちの居場所をなくし、さみしく、後ろのほうからこっそりみる、というのがオフコースの初期におけるファンであった。「きゃーーおださ------ん」なんては、いわない。ミーハーな連中が武道館を占拠し、アコギなころのオフコース三部作をこっそりと聞きながら、卒業してゆくのね、それでも、オフコースはオフコースであるのである。オフコースは当初、3人であった。地主さんんというオーナーのような名前のひとがいてこの人もすごい人だが、というわけで永遠にオフコース、次に続くここ
2009.06.05
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ぼくが、オフコースを知ったのはラジオからだった、当時 毎日放送は千里が丘の丘の上にスタジオがあり、そこから毎晩「ヤングタウン」を言う番組をやっていた。この番組は関西の音楽の歴史の中で重要であります。数々のヒット曲やアーチストを世の中に送り出していったのだ。そう、あのころはラジオはなくてなならないもの、ラジオはラジオでもFMでなく、ざーざーいう、AMである。FMは当時はNHKとFM大阪しかなく、番組もクラッシックなどばかりで70年後半になると、エアチェツクとかいって、FMファンを買ってテープに録音するのだ、レコードは高くてなかなか、買えるものでない。あれ、話がずれてるな、どんどんずれよう。ラジオはなくてはならないもの、で、イアホンで聞く、そう、「勉強しているふり」をするためだ。ラジオはぼくは、中学のときに買った、いまななき、星電社御影店で購入した、松下電器のクーガーだ。このラジオはいまでもヤフオクなどで高値で売買されており、黒いロッドアンテナがついていた、かちかちと、まわすんだね、よく聞こえたもの、札幌の松山千春のラジオも聞こえたし、文化放送セイヤング、名古屋のミッドナイト東海も聞こえた、神戸からである、オフコースからずんずん話がとうざかるのだが、中学のときに深夜放送ラジオの魅力に取り付かれ、とくに、鶴瓶のファンであった。彼の番組はすべて聴いていた。月曜日がヤングタウンで火曜日がセイヤング、水曜日はテレビで浜村淳さんのチン版瓦版、木曜日は名古屋のミッドナイト東海、日曜日が伝説のOBCぬかるみの世界、である、鶴瓶がべーさんとかいわれ、テレビで人気になり紅白にも司会で出たり、いまだ人気衰えずであるが、彼は、チャンネルを停止させる男で、彼が出る場面にチャンネルを変えるひとがすくない、要するに、注目してしまうのである、その注目してしまう彼の原点は、これらの毎晩生放送の深夜ラジオのトークである。彼はオフコースもすきで、ラジオでよく流してくれた、オフコースの話にもどろう。オフコースは実力がありながらヒットするのがかなり遅い、デビューが1969年で、さよならのヒットが1980年、その間に同期であった人々はヒットしまくり、アリスも苦労して売れた、TULIPもどんどんヒットをだす。ユーミンはがんがんゆく、赤い鳥は解散してしまうが、その人気はすさまじいものであった。ハイファイになってもヒット。と、いうこの話は続きますこの歌はなかなかきけないものここ
2009.06.05
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足利事件、冤罪とわかり、相当な衝撃がおそった。まずは、17年も無罪で監獄に収監されたしまったのはおそろしいことだ。それに、この事件の新犯人はほかに存在し、数多くの似たような事件をおこしている。子供が犠牲になった未解決なものが、栃木群馬などのあたりで続出。警察の捜査方法がずさんであったこと、DNA鑑定そのものにおけるずさんさ、一年かん、追跡し、ごみばこからはなかみを捜査員が採取し、そこからDNAをとり、違法な捜査、自白の強要などがこの冤罪をつくりだした。ということは、この時期の事件のDNA鑑定はすべて再検定する必要がある。やはり、常々おもうのは捜査する能力がなさすぎるのではないだろうか、兵庫県でも加古川で自宅前で女の子が殺害された、犯人は逃走経路に畑のあぜみちをつかったかもしれないのに、現場保全も足跡の採取もせず、マスコミにあらされ、数日後に気がついて調べるしまつ。どこの警察でも鑑識というのがあるとみんなおもっているが、ほとんどが刑事などが兼務でやっており、科学捜査も県警本部にしかない、予算も人員もノウハウもなく、昔ながらの地道な聞き込みを主体とした捜査が主にやるしかないのであろう。これだけ悪のはびこる国は、対応して捜査のエキスパートを金をかけて養成すべしである。県警の枠をこえた、縄張り意識のないものでないといけない。もう、完全に犯人たちは警察をなめているとしかおもえない。
2009.06.04
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杏里はいい歌がたくさんあります。この歌は2000年のCD[ the beach house}kokoこの歌もいい、砂浜
2009.06.04
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1970年、同志社女子大学在学中、小林京子(こばやし きょうこ、1951年1月24日 - )とフォークデュオグループ「ピンク・ピクルス」を結成した。グループ名の由来は、京都にちなんで、「柴漬け」の意味。 MBSラジオで楽曲『僕にさわらせておくれ』(作詞:戸田良子。作曲:大杉文雄、二村健二)へのリクエストが殺到し、同曲でテイチクより1971年3月25日、レコードデビュー(B面曲は『小さな恋』)。 シングル「天使が恋を覚えたら/五時になったら」(1971年9月5日)、「一人の道/あなたの手紙」(1972年1月10日)、LP「FOLK FLAVOR」(1971年12月5日)がリリースされた。 1972年、ピンクピクルスは解散。 koko
2009.06.03
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シモンズは田中ユミ、玉井タエの女性デュオである。シモンズの名前は二人がファンであった「サイモン&ガーファンクル」のサイモン(Simon)をローマ字読みしたもの。二人は高校時代からベッツィ&クリスのカバーなどを歌ってライブ活動をしていた。毎日放送ラジオの「ヤングタウン」のオーディションで合格。高校卒業後に上京し『恋人もいないのに』でデビュー。デビュー曲は『あの素晴しい愛をもう一度』になる予定であったが、なぜか北山修と加藤和彦が唄うことに決まったため急遽『恋人もいないのに』を歌うことになった。この曲は60万枚を越える大ヒットとなった。しかし、人気絶頂の1974年にタエの結婚を期に解散。また、100曲を越えるCM曲をうたっている。なかでも明治製菓のチェルシーのCMソングは最も有名である2009年7月25日、大阪府守口文化会館(エナジーホール)にて、玉井タエを迎えて田中ユミのコンサートが開催される。 シモンズ結成40周年記念として解散以来、初のデュエットが蘇るkoko
2009.06.03
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ベッツィ&クリスベッツィ&クリス(Betsy & Chris)は、ハワイ州出身のベッツィとアイダホ州出身のクリスによるフォークソングデュオ。1969年にサウンド・オブ・ヤングハワイのメンバーとして来日した際にスカウトされ、デビュー。青山音楽事務所に所属していた。koko
2009.06.03
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なつかしいです。麗美ゴールデン☆ベスト/麗美[CD]ユーミンの妹分、麗美(れいみぃ、REIMY、1965年1月6日 - )は沖縄県宜野湾市出身のシンガーソングライター。本名は堀川麗美。元クラリオンガールの姉(作曲家のMAYUMI(堀川まゆみ))が持っていた麗美の写真が偶然関係者の目にとまり、1984年1月1日、松任谷正隆・由実夫妻の全面的バックアップでデビュー。松任谷夫妻の元を離れた後は、1986年にアメリカのロサンゼルスに渡り、巨人と言われたプロデュサートレヴァー・ビーチの元でアルバム「My Sanctuary」を録音。アメリカへも進出し、1988年に全曲英語によるアルバム「SMOOTH TALK」を発売する。ここ
2009.06.03
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小泉の息子はやっぱり、自民公認らしい。なんら、世間の経験もないくせに、いきなりかい。世襲制どうのこうの、とぼくはかなり前から提案しているのだが、次の次の選挙とかいいだすしまつ。先送りは常套手段。日本国滅亡までの時間が短縮したろう、それに、北朝鮮は次から次へと花火大会。もう、かなり、きてます。日本はこの騒乱を乗り切れるのだろうか、まあ、外交官がするからいいのか、大臣は飾りだからな。世襲制反対を言い出した自民の議員は注目すべきだね、えらいよ、この20年の腐敗国会の根本はそこにあるんだね、給付金で景気回復どころか、給付菌の悪影響は相当なものだ。神戸のホテル関連のキャンセルは相当なかずだった、あわせて付随する交通機関、観光地、商店街、飲食店、すべて、この5月は地獄の売り上げ、で、マスコミはこのねたを放置し、次から次へのニュースをおい、ひとびとは、忘却の彼方。弁当を配達していて、道端にすてられた数多くの「マスク」ああ、おろかなる日本人、指導者がいない、思想家がいない、たとえば、司馬遼太郎さんは国が滅びる危機感をずっともち、歴史を通じて本の中で、今の日本のおろかさを解いてきた、彼は小説家でありながら、思想家でもあったのだ、しかし、亡くなった、かなり前に、彼は太平洋戦争については、まったく物語を追わなかった、反吐げでるほどの嫌悪感をもっていたのだ。北朝鮮が核保有となれば、日本は保持すべきと、海外の政治家はおもう。自民の議員でもそういう発想でいるものがいる。核を持つことでの抑止力である、しかし、日本では数多くの原発があり、技術的には数年もかからず核爆弾を持つことができる、しかし、広島長崎の経験はまったく、語られない、これは、ニュース関係や報道のひとびとが現実や現実に近い扇動しかおこなわず。つっこんだものがないからだ。かなり、テレビは薄型である、中身もどの政党の意見も??がつくものばかり、これで日本領海にミサイルきたら、いっきに憲法は摩り替わる。国民は激怒し、戦争への道をたどる、
2009.06.02
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こんばんわ、オフコース「雨の降る日に」いい歌でしたね、今日、店がおわりぎわに、配達が二件はいり、常連さんだったので、急いで配達、路地を曲がり、団地へ、配達を終え、店に帰る途中、バス道にでるまえに、おじさんと女の人がいた、角ををまわろうとして、ふと、そちらを見ると、細い側溝から人の足が二本でていた。ぼくは、目を疑った、側溝に中に人がはさまっているのだ。おじさんは、ぼくに手を貸してくれ、といった、バイクを降りてみたら、お年寄りらしきひとが、ぶつぶつ、いっている。「なんで、わたしはここにいるの?」「早くだしてちょうだい?」ちょうど左半ぶんんからだが、埋まったいて、怪我がないか、血はでていないか、確認した、おじさんは、引き出そうというが、僕はもしも、骨折してたり脊髄を痛めていたらたいへんだからレスキューを呼ぼう、といい、自ら119に電話。「あの、すいません、どぶみたいなとこに人がはさまっているのです。」「怪我をされているのですか?」「いや、あの、レスキュー隊と救急をおねがいします。」実を言うと、その一時間半まえにぼくは弁当を消防に久々配達、まあ、今日は119と縁がある。ほんとうにはやく、到着、サイレンで近所の人がでてきた、ぼくは、到着するまで、頭を支え、励ました。よくよく聞くと、一人暮らしのおばあさん、しかし、?なんか、酒のにおい?「おばさん、少し飲んでるの?」「ひとりでな、三宮で飲んできたの。。」そうか、酔ってはまったのか、レスキューはすばやく、指示を出し救出を行う、しかし、僕は、頭をもっていて、エプロン姿のぼくに交代要員が・・。「ああ、かわります・・。」さっと、引き出す、案の定、片手は下のほうで血だらけ、それでも家に帰るとかおおがさにするな、とかいっている。ぼくは、あわてて、次の配達をするために店に帰る、今日の弁当うまかったかな?レスキューにひとたべたかな?次の配達は少し遅れた。ごめんなさい。本当に、弁当配達でなんど119に電話したろう。いろんなものにであう、捨て犬、しかもちわわ、うさぎ4匹、セキセイインコBMWの盗難車、老人2名保護、などなど、あのおばあさんは、骨折してないだろうか、神戸では消防にかたが東灘で殉職されたんだ、昨日。ほんと、いろんなひとが支えている、
2009.06.01
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またまた、すごいのを発見!1980年2月のライブ、いいですよ、これついでに、この歌もいいんです。こっちは、北山修先生のライブ、小田さんと、ジローさんのハーモニーすばらしいんです。ぜひ、今年は、クリ約のゲスト、ジローさんよんでねここ
2009.06.01
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