全94件 (94件中 1-50件目)
こんばんわ、全世界の深夜ブログ便ファンの皆様、毎日だいたい200から300の意味もなくおとずれるあなた、お元気ですか?ぼくは、元気です。ラジオの話をしたどころで、誰も記憶のかなただおうけど、テレビのやせたつるべをみるたびに、違和感を覚えてしまうのです。超人気番組MBSヤングタウン月曜日は長い間、つるべが担当し、その後さんまと引き継がれる、さんまの話が磨かれたのはこのやんたんであると、おおなべさんはいっちょります。つるべの番組はほとんどおぼえているは、10円だまの話、を覚えている、ある駅にゆくと、朝、ずっと切符自動販売機のよこに男の子がいて、永延と「10円ちょーだい!10円ちょーだい」といい続けるのだ、それがギザ10であれば喜び、いくらかたまると売店でお菓子を買うのである。いわば、物乞いである、しかし、その言い方がおもしろく、つるべはギャグにしていた、数年前、時任三郎のホームぺージで、その光景を目撃していたということを書いていた、驚きであった。あ、この話、そこでおわり。その10円だまの話だが、10円にはいろいろあり、ぎざぎざのついた10円玉があって、それを集めるというのが小学生のときにはやった。しかしながら、いま、自動販売機にはそのぎざ10は排出されるのだ、「こんな10円玉は拒否します」 かたんと、おちる。?何で、10円玉の話をしているのだろうか、ラジオの話である、深夜ラジオが好きで、ラジオDJに憧れ、中学高校と深夜毎晩、9時から4時前まで聞いていたぼくは、やがて、念願のつるべの母校、京都落書きノーベル大学にゆくのである、そこで、なんとか学生生活をエンジョイしながら、下宿「小山コーポ」でいろいろな下宿人と生活をともにし、4年になって、後輩たちをけしかけ、当時はやりつつあったMINIFMを設立しようとしてゆく。海賊無許可放送局。このラジオ局兼クラブボックスを自分の部屋を提供し、学生たちがあつまり、放送を開始してゆく。しかし、半年もたたぬうち、放送は終了。ぼくは引退し、みんなはスポンサーがついて、喫茶店からの放送をはじまる、ぼくは、当時まだ出始めのファミレスに就職するのだ、ここからが次の作になる、「ファミレスが好きだった、弁当屋のおやじの話」につながる、構想としてはそうだ、ほとんど現実の話であるが、少し色をつけてのばしてみてからの小説としての完成をしてゆこう。めざすは、ベストセラー弁当屋の親父シリーズだ、(かなり妄想)何を妄想、いや申そう、僕は本がすきで、一月にかなりの数で本を読み、漫画ではありえない、想像力と、活字の躍動がすきなのだ、しかしながら、夏休みの読書感想文。あれはきらいでたまらなかった。いつもあとがきとあらすじを適当にかいていたな。作文もきらいだった。唯一、現代国語の何とか模試で全国17位をとったきおくがかすかにのこる、工業高校電気科だろう?とつっこむところです。
2009.08.31
コメント(6)
![]()
青春/かぐや姫[CD]、あの時代は80年前半、この二十数年で劇的に変化、あのころはまだコンビニなんてのはなかった、駄菓子やの延長戦みたいなパンやさんとか、おじさんおばさんの営業する食堂、ほかべんもなかった、ファ味レスは出来た頃であった、僕のちかくの食べものやさんは、有名なところでは「千成食堂」安いのが300円で飯が食えた、おじさんはいつも競馬新聞を読み、奥さんがはこぶ。娘は手伝わないし、息子も愛想悪い高校球児。なんどか、京都を訪ねるがそのころはまだあった。でもね、最近行きたくて仕方ない、でも、もうないとか現実を実感するとまたもや喪失感で満たされるので、行かない。子供がついでいるのだろうか。上加茂神社の近くでは、「今井食堂」、これはテレビにもでていた、さば味噌定食がやすく、それしかない店で、壁に向かったもくもくと食べる、しかし、あるとき、清水が運悪くさばにあたり、アレルギーになり、ぼくもいかなくなった、でも、人気の店でした、風呂や、食堂、コインランドリー、小さな食料品店、酒屋、いろんな店が学生で成り立っていた京都のまち。K先輩はぼくが日清焼きそばUFOが実にうまく、カロリーがたかいと、教えると、そればかり食べていた。しかも、お湯を窓からとゆにながす、二階だから。K先輩の恋の行方は、みんながやきも帰している間、お膳立てもしても、二人にしてもノーアクションであった、「ともさんがまったいるのよ!」とわざわざ、友人の福井の女の子がいってもだめだった、下宿の二階に上がる階段は木製できついのぼりだった、そこの壁には思いもいのアイドルのポスターが貼られていた。河合奈保子、北原佐和子、松田聖子、中森明菜などの微笑が迎えてくれていた、そのポスターを見るたびに奈保子ちゃーーーーん、と叫ぶ先輩、そうか、デカパイがすきか?(その頃はきょ乳という言葉はなかった)あの頃の僕の日記ノートを見ると、本当にいろんな人が下宿を訪ねていた、先輩の同郷の女の子もよく来ていた、世間話をただして帰る、不思議なもんだ。それと、あった人すべての誕生日を聞いて、覚える能力があった。簡単な贈り物をするのだ、それにつられて僕たちも誕生日のプレゼントをするようになり、金もないしアイデアもうかばず、たびたび悩んだ。さて、先輩の恋はままならず、卒業と言う時間を向かえ、富山に帰る先輩、しかし、マドンナは大学院の研究室にのこり、京に残る、それでも、ぼくたちの下宿を訪ねてくれる、食い物をもって、あるとき僕は真相を尋ねた、「彼氏はつくらないんですか?」平然と、いる、と答えた、しかし、卒業までの契約だという、なんとも早割り切ったお付き合い、そういえば、おんなじことをいっていた友人がいた。ぼくとはいえば、いつまでも初恋の亡霊に虜になっているのに、憮然としていると、「彼女はいないの?」と聞いてくる。いない、の即答。1995年1月16日ぼくは震災の中、パニックになっていた、そんなとき、ポストに葉書。「困ったことがあれば電話してね、心配してるよ」そのもとさんからのてがみ。僕のぽたぽた落ちる涙で葉書の字はにじんだ、公衆電話に並び、感謝の言葉をつたえた。ガ、今も赤面する言葉が出た「もとさんのようなひとと付き合って結婚したかった。」相手がフリーズしているのがわかった、そのときは、34歳、大きな失恋を3回もしてPTSD状態に上に大地震であった。(意味不明)K先輩は田舎に帰り結婚、もうすっかりはげていることだろう、もとさんは地元の人と結婚、子供たちも成人し、50を迎える。あのときすれ違った出来事が昨日のように思い出される。加茂の流れに
2009.08.30
コメント(4)
本当にすごい勝ち方だった、すげい負け方だった。しかし、あのあべちゃんふくだくん、小泉二世は当選、てめえら、世渡り上手。しかし、あべちゃんがテレビのインタビューを受けてけている顔は陰鬱で、暗いものだった、しかし、一番無残が公明、ほんと、おつかれといいたい、保身のため重複はせず、代表三役、討ち死にです。やはりきみたちは清すぎるね、政教分離はそこがポイントだよ、汚いやつにだまされてていたのですよ、しかし、僕は大いに不安、この先どうなるか、悪夢は細川殿様における佐川事件、短い政権、それに、この不景気と悪循環をたちきれるのか?殿様がかわれど、我らは地道に働くしかないのだ。
2009.08.30
コメント(2)
![]()
【CD】鴨川/馬場俊英 ババ トシヒデこんばんわ、24時間テレビもまっさんの番組もありました、8/3024時間テレビは思いだすのが大学一年のとき募金のボランティアをした。あのときに若いしんぼうさんがいた。しかし、出ている人はお笑いで、どうも、コンセプトが疲労しつつある。 やはり、キーパソン、鍵になるひとがいないんです。きんちゃんです。拝啓、K先輩お元気でしょうか?背景のベッドにいるジョンレノンににている、K先輩は映画が大好きで、壁をみてもらえればわかるように映画のちらしを貼っています、横にいるのは後輩のO君、僕らの下宿で鍵になるひとは、K先輩であった、彼がいたからこそ、下宿人は仲良くなれたようなもの、みんな学校やバイトから帰ると、まずは先輩の部屋にゆくんですね、そこでいろんな話をする、飯をくいに、千成食堂にゆくか、加茂湯にゆくか、先輩の部屋のまえに黒電話の共有のものがあり、先輩がよく電話にでるのです。「おい!女の子から電話だぞ!」という先輩の言葉におどろきながらでると、おかんだったり、たのしくて明るい純粋なひとだった。後輩の歓迎会があって、O君が京都の山奥から出てきた、友人たちも読んで、ついでに女の子もよぶように指示が出た、10人ぐらい来て、みんなで二級酒で乾杯。岡山のかわいい女子ともう一人の女子。みんなどれぞれ話をし、楽しい時間がすぎた。先輩は自転車をだし「おれ、この子おくってゆくわ・・。」と岡山の子のアパートまで消えていった。何ヶ月かたち、どうもおかしい、先輩の様子がおかしい。どうも、そのおくってゆく途中で「つきあってくれ!」といい。その後何回かデートして、そのあと、、振られたらしいい?どうも、友人たちと消防士のひとと合コンをし、かっこいいやつとできてしまったとか、凹む先輩、ぼくは、後輩と相談し、岡山娘のアパートを梨本のように直撃し、ことの真相を聞いてみた。あっけらかんと、先輩はいいひとすぎて、私にはだめ、いい友達で・・。でたよ、いい友達、男と女の間にはそういうのはないよ!と若かりし僕は捨て台詞を残し、下宿に戻る、先輩は相変わらず、自分の部屋の中にこもり、UFOのお湯を二階の窓から流しながらぬかるみの世界であった。僕たちはどうも声をかけようか、考えていた、そうだ、あの人がいる。僕たちのマドンナ。ともがいるのだ、ともさんなのだが、本名はもとみなのだが、ともといわれていた。その人は僕よりひとつ上で、長崎島原の仏陀屋の一人娘、同志社の女子なのだ、どういう、知り合いなのか、話せば長いのだが、友人の友人が友人を連れてきて、とにかく、人が集まる下宿だった、それもこれもK先輩の人柄に惹かれてくるんだ。で、よく下宿にきてくれるんだが、ぼくは、いつもともさんが帰るときにK先輩が自転車に乗せて夜送っている姿をみていると、いつか、きっと付き合うことになるだろうと、みんな思っていた。しかし、一向にその気配がない。この話はまた続くのだ 5へ 鴨川
2009.08.29
コメント(4)
つるべのラジオは最高に面白かった、とくに、ヤングタウン月曜日、彼の影響は仁鶴であった、ヤンタンの裏、ヤンリクの中のコーナー仁鶴の頭のマッサージこれが関西で最高に受けた、早口でまくしたてて、次から次から葉書を読む「どんなかなー」というぼけもおもしろい。つるべもがんがん笑いをとる、マシンガンのように話す。それもまたおもしろく、人気があった、ミッドナイト東海では素でやっていた。あるとき、もうそういうのは、辞めるとラジオで宣言した。いろいろ考えてのことだろうけど、あの時は驚いた、東京12チャンネルの今はなき山城しんごの番組で肛門を見せて東京出入り禁止になった、これが、伝説となった。彼はそれでも、深夜ラジオでセイ!ヤング火曜日を半年ばかりやっていたのだ。悲惨なたたかいであった、二回目の放送は葉書が8枚しかきていない。関西のヤンタンでは数千枚の葉書であったが、東京での風はつめたかった、彼はいつものように面白いネタを自分で葉書に書き、自分で読む。ぼくも、孤軍奮闘しているつるべを応援すべく、葉書を書いた、しかし、つるべは受けないことにいつもの作戦にでるのだ、「裸」になるのである、ラジオだからわからないが、裸で放送するのです、しかも三時からの「走れ!歌謡曲」の番組にも裸で訪問し、あそこがちいさいと、深夜のおねえさんにいわれていた。そんな彼も、セイ!ヤングは短期でおわるんですが、その後、別の名前の深夜放送を木曜日、たけしのオールナイトの裏でする、このときはもう落ちつた彼になっていたが、深夜放送からテレビにシフトしてゆくのであった、やはり、パペポテレビの人気が彼を支えてのであろう。
2009.08.28
コメント(4)
はい、こんばんわ、今夜もご訪問ありがとうございます。あの吉川ゆりちゃん、詐欺事件、本当にひどいやつです、悪にん、としかいいようがありません、本日は、テーマを変更して、犯罪について語ります。僕はこの事件には本当に考えこまされました、挙句の果てにサイトまでつくり、ここ犯罪心理学の本を読んだり、いろいろ考えたのです、うわさにきいて、米国のテレビドラマのCSIの作品も片っ端から見ています。結論からいうと、このゆりちゃんの場合は完全すぎるので、プロの犯行であり、見張り役実行役指示役、運転役など複数の人の計画的な犯罪であるとぼくはおもった、見張り役なしでは、拉致現場を完全に目撃者なしで敢行できない。その後の性的犯罪は行われていない。2003年といえば拉致問題が座礁したとき、微細微量な痕跡を残していたかもしれないがそこまで科学的捜査検証は行われていないだろう、なにしろ、小さな町の警察署では設備もないし、刑事が兼務で現場保持して検証をする、CSIを見ていて僕が思ったのは、犯罪データベースのすごさである、架空のドラマにしてもたとえば、車のタイヤのデータはすべて、メーカーに提出させてコンピュータに入っている、指紋のしていても検索スピードが速い、たとえば、あの世田谷の一家殺人事件、あれも迷宮入りの様相だがあれだけ痕跡をのこしていながら、特定できない、その対策を立てているのかと、言いたい、どんなに大量生産しても、販売先は把握できる、流れはわかる、どんな製品でもマークや番号、製造年月日などをいれて、クレーム処理にあたるはず、そのデーターを提出させて、あらかじめ、データーベース化するのである。犯罪が起きて数日が勝負であります、加古川の子供が殺された事件も未解決、あれも証拠である横のあぜ道の検証を忘れ数日後にマスコミに踏み荒らされたあとに足跡をとろうとしていたらしい。すべての後手であります、オレオレ詐欺にしても、対策が遅すぎます、組織として上からの命令はよく動くかプランDOシーで自発的に動く野がどうも苦手の様子。犯罪がこれほど増えて、では、なぜ、おとり捜査が禁止されているのか?盗聴がなぜ禁止されているのか?犯罪を解決させるための法律を作れば済むこと個人情報保護法とかいうものを隠れ蓑にして、どれだけ悪は栄えているか・・もっと、戦える武器を能力をつけさせるべきです。それと、アホナマスコミです。こいつらもどうしようもない。のりPの問題が大きくなっていますが、犯罪はよくないですがあれだけバツシングするのもどうかとおもう、彼女の生い立ちからいろいろ考えると、親以前の因縁のようなものですべて、彼女が悪いのか?と思います、まあ、国民ぼくもそうでしたが、イメージでしか考えていないとこもあるし今回は本当に勉強になったです、テレビの中では善が悪である、うそがほんとうになり、本当のことはどうでもいい、ということ、すべ手はイメージ。これらのことは、テレビ業界の衰退の序章であるともおもいます。
2009.08.28
コメント(2)
2003年に大阪府熊取町で行方不明となった吉川友梨さん(15)の捜索などを装い、父親から現金約7300万円をだまし取ったとして、詐欺罪に問われた無職中谷浩気被告(40)の論告求刑公判が28日、大阪地裁堺支部(向井敬二裁判官)であり、検察側は「親心につけ込み反人道的で卑劣」として懲役10年を求刑した。判決は10月5日。 検察側は論告で「多額の借金までして金銭を捻出(ねんしゅつ)し、身を削る思いで娘の帰りを待ちわびた揚げ句、詐欺と知った父親の悲痛や絶望感は筆舌に尽くしがたい」と指摘した。 弁護側は最終弁論で「犯行の重大性を認識し、反省している」と寛大な判決を求めた。中谷被告は「どのような厳しい判決も真摯(しんし)に受け止めます」と述べた。 8月28日18時50分配信 時事通信こんな最低なやつは10年なんて、短い、民事でも、金を返済させるべき、
2009.08.28
コメント(2)
こんばんわ、みなさん、もうすぐ8・30の選挙であります。ミンスが320議席を獲得するとか、どうなることやら、選挙おわるまでは政治にことは発言ひかえよう。ようすいがでてたね、教育TVに、小田さんのコメントや、みゆきのコメントがいんしょうぶかいひさびさに、夢の中へ を聞きましたね、中学のときをおもいだしたね、みゆきちゃんの大好きな井上陽水のレコードやCDは一枚もかわなかったね。70年代と80年代、80年代の前半は70年におけるいろんな要素が残像としてのこり、常に混在した新旧であったような気がする。ぼくの学生時代には、ほとんど学生運動は消滅し、成田闘争の余韻もなく、ただただ、ぼけていた。あの雑誌、ポパイ、ブルータス、これがはやった。要するに軽薄短小への道がはじまっていたのだ、だから、僕はいつもあの田中康夫ちゃんをみると、「なんとなくクリスタル」の映画の原作をもいだす、僕の記憶がたしかであれば、かとうかずこが出ていたような。あの東子配るの元妻、まあ、みんな、いつの世も、いい服を着たいとおもうし、いい生活をしたいとおもうが、80年代はまだまだ、戦後30ねんで、物質文明よりは戦後を乗り越えたという自信というか、男は男らしくかっこよく、たばこをふかして、うーん、マンダムのようなスタイルがあり、今日にある、@草食系男子、とか聞きますと、いよいよ、第六の絶滅 人類の破滅を思うのです、この話はながくなるし、本題をそれて、大きくカーブしてしまうので、まあ、大学であのふかふかの軽い、ダウンのジャンパーが誰かきているのをみる、友人も着ている、持つと軽い、で、いくらかというと、4万だという、日本のではない。B定食160円か、A定食320円を悩むような僕には決して買えないのだ。それでも、いい格好をしてさぅそうとキャンパスをあるくのが、かっこいいのだ。どてらおきて、半年も洗濯しないGパンをきて、こたつにまるくなりながら先輩の読み終えた、週間プレーーボーイを見て、ラーメンをすするしかない。金がないけど時間はある、あの頃は、今は金も時間もないけどね、下宿は古い家屋であった、長屋でもあった、横の家は豆腐屋。豆腐屋は朝が早い、4時過ぎから機械がごとごとうごきだす。まえの家は、かわいい女子高生がすむ、山田さん、いつも挨拶をしてくれる、夕立が来ると、僕らの下宿では二階のあずまくんの部屋に集合、向かいの山田さんの家のものほしに、かわいい女子高生が短パンであわてて洗濯物をいれる。その光景を見るのが感動的であった、感動的ナきれいな足であった。あるとき、そのおばさんが、僕にこういう。「だれかさ、かずこの家庭教師のバイトしてくれないかな?」ぼくは、あわててみんなをあつめ、相談した、誰もが願ってもないことだ、おれは英語あんまりな、数学はぼくがとくい、という四人の下宿人、そんなとき、おばさんは、「ごめんごめん、ほかにいい人が決まったから・・。」とよく聞くと、大阪大学のさわやかいなやつが家にはいってゆく・・。ああああ、またしても・・。持てるわけがない、京都産業大学三人と同志社ひとり。メンバーは3年に先輩のKさん、2回のぼく、2回の同志社のあずまくん、一回のO君、このメンバーが共同で一軒の家を間借り。ぼくは、とりあえず、部屋代を節約しようと、学生部の一番安いものをさがしだした。春休みでバイトしたお金が25万ほどあり、魚屋でバイトしたのだが、三畳一間というおそろしく狭い部屋で、6000円という家賃。礼金が12000円、当時は2万から三万が主流だったが、あのせまさはまいった、それでもうれしかったのだ。思い出すのは申し込み用紙を大学の学生かで書いているとき、前に男がいて、ちらっとみると。同じ申し込み。「な-1」であった、ぼくは、やばい!とおもい、すかさず、書き上げ申し込む。セーフ。あいてはきずかず「これはもう、おわりました」といわれた、肩を落とし帰る彼。よくよくおもうと、あの数秒のことで、あの下宿のメンバーとは一生あうこともなかったんだとおもう、強烈に3年間、あの下宿でのであい、わかれが僕の人生を決定付けたとおもうのだ。今夜はここまで、あしたは、深夜ラジオの話。おやすみ
2009.08.27
コメント(2)

はい、こんばんわ、温暖化で暑いと思い込んでいたら、野菜高騰?日照時間がたらない、梅雨がながびいてせいで、キャベツやレタスの青物がたかい。暑い暑いといいながら、気がつけば、そよぐ風、秋の気配です。大学四年のときは一番忙しい一年であった、ボーっとする暇がなかった、一年のときにとった単位がたったの28単位。三年のときには卒業要件単位の半分もとれず、というか、三年の授業は受けれることができなかった、二年の単位不足。決定的留年候補であった、四年になり、解禁になり、好きなだけ単位とれよ、とチャンスをもらう。学科の優秀な連中は単位をほぼとり、卒論だけ、週に三回だけくるの、とか言う中ぼくは、月曜日から土曜日まで朝から夕方まで履修登録を行い、バイトもやめて、卒業に集中してゆこうとおもった、その頃の日記はぎっしりとスケジュールが埋まり、コンパもしたり、ミニFMのサークルを下宿の自分の部屋ではじめたり、とにかく、すさまじい毎日だった、充実していた。 そういうなかでも、最後の夏休みという予定で、北海道に一人旅を出た、旅も後半になり、会社説明会に行った会社から電話かかってきたぞ、ええ加減に神戸に帰って来いという、母の怒りの長距離電話を10円玉が切れたことにし、そろそろ戻ろうと考えていた。最後は昨年のたずねた、積丹YHにゆくことにした、これで最後になるな、そうおもいつつ、バスで余市から岬を目指す。バスのまえのほうには一人旅の女の子がいた、どこにゆくのか、おもっているとへんぴな半島の停留所でおりていったのだ、その女の子とのちにいろいろ起きるとは夢にもおもわかなった、YHについて夜になり、バスでいた女の子とであい、話すと、間違えておりたということ、てくてく歩いてきたから足が痛い、ビールをおごれ、という。そんなこんなで、仲良くなった、やっこという名前、学校は武庫川の薬学で二年。実家は宮崎のえびので親はでかい、薬剤店をしているという。明日、本土にかえるけど一緒に帰ろう?とぼくがいうと、いいよ、という。ついでに、京都によるか?下宿にとまる?と、僕が言うと、少し迷って「いいよ」という。僕が、その下宿に入るまえに大家さんからいわれたことは、「女の子だけは泊めないように、出て行ってもらうよ」という話、すっかり記憶の彼方。特急白鳥のたびは長い、青函連絡船を降りて、時間をつぶして朝の4時45分に青森をでて、ひたすら日本海の街を抜け、京都には夕方につく。自由席でふたりで座っていた、寝てなかったのですっかり寝込む。何度も何度も寝返るやっこはぼくに抱きついてくる、何度も何度も若い車掌が見に来る、なんでかな、とおもいつつ、手を戻し、彼女を引き離す、そう、ぼくは大学四年にしても道程であったのだ。そんなこんなで、京都につき、北大路まで地下鉄に乗り、「いいか、ぼくから50メートル離れてあるくんだぞ」といいながら、大家さんにみつからないように、歩く、大家さんは酒屋さんで配達で回っていたので、ばったり会うこともあったのだ。そうおもっていると、向こうから軽トラがじぐざくで運転。大家さんだ!「おお!帰ってきたのか!」「ああ、はい」冷や汗が出た。しかし、何かが匂う、酒臭い、あ、また飲酒運転をしている。大家さんはもうかなり前になくなったからここだけの話、ある中であった。後ろを振り返ると電柱の影にやっこが潜んでいた。なんとか、たどりつくと、後輩にすかさず、電話、「部屋をかしてくれ」と事情をはなし、二階の部屋にやっこを入れた、僕は荷物を置いて、整理していると。彼女が降りてきて、「ね、ね、銭湯にゆこうよ、夢だったのよ神田川みたいに・・。」そして、また大家さんの目を気にしながら神田川のようにせっけんかたかたいわせながら、近所のいつもゆく、加茂湯にいったのだ。そして、近所にできたばかりのかまどやのべんとうやで弁当を二個かい、帰った。まさか、17年後自分が弁当屋をやるなんておもうことなく。夜はビールを飲み、京都に残ってミニFMの開局準備とバイトしていた後輩の大江と遅くまで旅の話をした。僕の部屋は一階。やっこの部屋は二階。後輩の大江の部屋はその前。僕は、まったく下心がなかった。朝になり、突然、やっこが部屋に来て、怒った、「なんで!昨日、夜部屋に来ないの?」僕はこの言葉が理解できなかった。ずーと、理解できなかった。最近になりその話を思い出し、ああ、そういう意味だったのか、と思う始末、京都見物がてら、近所の植物園にゆく。デートはゆくなといわれるジンクスが京都には二箇所あり、「植物園」「嵐山」であった、ぼくは、ずっと妹のようにかわいがっていたが何度も何度もデートしたが、夏の暑い日、仕事して二年目の夏、あれから三年後、宮崎ゆきフェリー乗り場まで車でおくる約束をすっぽかし、それから連絡は消えてしまった。その日は深夜勤務で夕方6時から朝6時過ぎまで仕事し死ぬほど忙しかった。神田川を気取って歩いたあの道は忘れることができない、憧れでもあった、本当にあのときやっこ、わるかった、ここでわびます、
2009.08.26
コメント(6)
こんばんわ。本日もおいでくださりありがとうございます。本日、弁当を配達しようと住宅地図で家を確認しようとしたが見えない。あああきたな、とうとう、老眼か・・。という凹む僕です。大学のときはいろいろなアルバイトをしたが、あちこちすることもしんどくなり三年からは国鉄新大阪駅で列車食堂の荷物のにおろしのバイトをしていた、朝の九時から翌日の朝までバイトをし、仮眠は5時間ほどあるのだが、翌朝に学校にゆき、三交代のきついバイトをし、仕送りをもらわずなんとかがんばっていた、そんな生活だから深夜ラジオも聞く時間もなく卒業してしまったようなもの。木曜日の午後、真ん中のホームには必ず現れるあのひとがいた。いつも決まった時間に萩のやの駅弁をもち、スーツケースみたいな小さなかばんをもち、数人の僕がにがてそうな女の子を従え、そのこたちの話をききながら、そう、名古屋に向かうミッドナイト東海にむかうつるべであった。深夜一時の開始の番組でも葉書を読むために、昼過ぎには新幹線にのり名古屋に向かう。何度も何度も見ていた、あるときぼくから話しかけた。「ラジオよく聞いてました・・。」しらじらしくはなす、つるべは、ありがとう、といいながら、「君は僕に似てるな、みんなそうおもうやろ」周りの女の子ふりむいていった。僕は山のように言いたいことがあったが売店でお菓子を買いつるべに差し入れた。「君はバイトしてるんやろ、こんなん、もうてええやろか、あかんで」といいながら僕の手をにぎった。すかさず、ぼくの胸にさしてあったマジックインキを抜き、僕の作業服のうちポケットにサインしてくれた。何度もなんども見たサイン。彼はミッドナイト東海が1983年に終わるまで放送を続ける、最後は体育館でさよなら放送が行われた、つるべの名古屋のファンもたくさんいて、ドラゴンボールやドクタースランプの作者鳥山明さんは当時、東海放送の食堂でバイトしていた、つるべのファンで漫画にもつるべがでてくる、さだましの出会いもこの番組であったし、何度もとんぼちゃんをゲストに呼んだり、英五と友人になったのもこの番組であった。 ぼくはあのとき新幹線のホームで数年前にそのミッドナイト東海ラジオのつるべの放送の最後のコーナー、「四畳半のコーナー」に深夜電話したのをおもいだしていた、高一のはるだったろうか、夜中にこそこそ家を抜け出し、10円玉をすうまいにぎりしめ、近所の公衆からかけるが、話中、とうとう番組が終わった時間につながり、デレクターのひとが「もう、おわったからかけてこないで」といった、が、そこで遠くから聞こえるつるべの声「かわるわー」つるべは僕とじかに電話に出てくれた、ぼくはいろいろ話そうと考えていたことが全部とんでしまい、 「今度、神戸の東灘寄席にゆきます!」といったのだ、実は一番いってはいけないことだった、その寄席は自治体が行う寄席で、なんとあのつるべの師匠松鶴がとりででるのであった、当時、入門以降つるべはまったく落語の稽古をしておらず、師匠も稽古はしてくれなかったので、数本しかねたがない状態、あのときのことをおぼえている、友人とその寄席にいこうと階段を上ろうとしたら、ひとり、つるべが階段でうずくまっていたのだ。「おやっさん、来てるのかな?おこられるわ、遅い言うて、いきたない”!」僕と友人は励まし、つるべを楽屋まで見送る、いまでこそ、人気者の彼も駆け出しはラジオだった、あのときから、何度も何度もつるべをあっているが、どこかで僕の顔を記憶し、「なんで、君の顔しってるのか、わからない、きもちわるい」とぬかるみの世界の信貴山ツアーでもだえていた、
2009.08.25
コメント(6)
この曲はいろんなバージョンがあり、このバージョンは前奏20秒あるので初めてきいたのでした。ここジョンレノンが銃殺されたときのニュースが合間にながれる。
2009.08.25
コメント(4)
毎年毎年聞きながら、妄想する横浜の港、別れる二人、何回別れたらいいんですかね、小田さん、しかし、アレンジは最高です。ここ
2009.08.25
コメント(2)
![]()
この歌がなければ、オフコースの「秋の気配」はなかったと、おおげさにぼくがいったのを小田さんにじかに質問をあびせたひとがいた。正しくは、この歌のイメージで秋の気配ができて、愛w止めないでと、あ横浜をモチーフにした作品ができたので、(あろう)ここ【送料無料選択可!】COBALT HOUR / 荒井由美
2009.08.25
コメント(1)
![]()
今の季節になると聞きたくなる曲、この9月への時期、ユーミンの得意分野この歌は1976年、23年前でも輝きをもつ、すばらしい、ここ【CD】荒井由美(松任谷由実) / 14番目の月 (THE 14TH MOON) <2000/4/26>
2009.08.25
コメント(0)
![]()
こんばんわ、皆さんお元気ですか?今夜は二つも皆さんにお話をお送りします。「ラジオ」「鴨川のほとりの下宿」の二つは同時進行しながら混ぜたりします。鴨川という名前と加茂川という名前があります、国土なんとか建設局の名前は鴨のほうですが、高野あたりから加茂から鴨になる下加茂神社の前のあたりからか、鴨になるのですかね。ぼくは、加茂川のほうがなじみがあります、秋になると、冬に、あの川にたくさんの鴨がやってきます、夜になると比叡山に寝床をもとめゆくそうです。ぼくの下宿は古い古い、うなぎ床といわれる家屋を部屋ごとに学生に貸していた名前もない下宿、数多くの人々が出入りし、数多くのドラマを作った、ぼくは、命名した、「小山コーポ」という。太田ひろ美の歌の「振り向けばイエスタディ」この歌の歌詞ガいまだに色あせずに胸にせまるものがあります、松本隆先生は木綿のかんかちといい、この歌といい、すごいです。いまでもときどき、夢を見るんだ 白紙の答案、にらんでいる夢 君と一緒に一夜ずかした、ノートの隙間に朝日が見えたこのフレーズを聞くと、ぼくも同じように何度も何度も見る夢がある、大事なテストを寝過ごし、徹夜しすぎて、試験を受けれず留年する夢、それともうひとつ、ひたすら、下宿で寝ている夢。この二つはよく見た、友人の清水にいうと、自分も見るという、僕の中では強烈な記憶としてのこる、京都の下宿の記憶。その話はたくさんあります、ぼくは、神戸から京都の山奥まで一年間通学していました、親に下宿は金がかかるから通学しなさい、と、一時間目の授業があると、5時45分の始発で阪神御影から普通にのり梅田に向かう。これがまた、おそい、梅田につき、てくてく歩き、阪急を目指す、動く歩道も寝ながら歩く、大阪はいらちで、あの動いている歩道さえも歩く、歩きすぎて加速度がつき、おりるときはふらつくひとがおおいほど、急いでる。阪急梅田から通勤快速で京都線にのる、ここも始発だから、座れる、、しかし、あの茨木から高槻の込みようはすさまじい。座っていてもひざが押される、寝たふりに限る、真剣に寝ていたが。そこから四条大宮でおりた、まだまだ、つかない、そこから京都市バスにのり上加茂神社を目指すですが、ここもすさまじく、京都の女子高が暴力的に乗り込む、何台も乗り損ねながら、つり革にしがみつきながらなんとか、上がも神社につく、でも、まだつかない、そこから、また、スクールバスにのり、山の上を目指す。しかし、バスはこない、やっと、バスにのり、大学につくんだが、最後の関門があるのです。おそろしいほどの階段、永延階段をのぼり、三叉路にでて、あるき、一番奥にある校舎が、我らが外語館。もう、つく頃にほっとするわけです、しかし、入り口にある掲示板に人だかりが・・・「本日の講義は休講です」ああああ!もっとはやくいって!横を見ると、滋賀からの友人、大阪南港の友人、川西の山奥の友人、いずれも二時間以上かけて来た同志たち。もう、通勤電車はうんざり、バスもうんざり、ぼくが就職するときに選択した理由に一つの中に入るばかげてるリーズン。大学の通学時間、往復5時間ちかく、学生時代におけるその割合を計差するとかなりの時間になるぜったいに!家でもしても下宿するぞ!そう、思う18歳のぼくであった。つづく 第二号に、ここSMR 太田裕美/君と歩いた青春
2009.08.24
コメント(0)
こんばんわ、本当に自殺焼身自殺した子供、ひどい話です、これは抗議をこめて、のろいまでこめたものだとおもう、「いじめ」の問題は表面化しないだけで、潜在的にあるもの、僕も高校のときはいじめにあっていた、それほどひどいものではないが、かつ上げなどが横行し、抗議すると、逆に家に放火するぞ、と脅す始末。少年院にゆくのはこわくないぞ!の殺し文句であった。あの全国に吹き荒れた学校荒廃の時期。1979年ごろであったろうか、僕が自殺せず、こんにちまで生存しているのは「深夜ラジオ」のおかげかもしれない。誰も寝静まった夜、スタンドの明かりだけで、小さい机の上にノートと辞書と参考書万年筆で何回も書いておぼえる英単語。イヤホンで聞いているラジオ、このラジオの先にいたDJたちがいわば人生の先生でもあり、兄貴でもあった、彼らDJも生放送で、狭いスタジオにガラス越しにディレクターと向き合い一人で語るわけです、話しかけるように、まるで一対一で話すように。僕のクーガー115は数々のラジオ放送を受信して、大学にゆき会社に入り、引越しを重ね、その間も実家にぽつんとおかれていた。倉庫になっていた、僕の通路のような勉強部屋のすみに、ラジカセや、鉄道の写真を撮るために買った、ペンタックスSP2も阪神淡路大震災がおき、奇跡的に自分の家は残った、この残った理由もすごいもんですが、むちゃくちゃになってガラクタの中、おそらく全壊になっていたら再会することも、ここで語ることも思い出すこともなかったのかもしれない。ある夜、夢に出てきた、ラジオとカメラ。翌日あわてて実家にとりに行った、その夢は不思議なもので思い出の風景にでてきた。ラジオはFMしか、聞こえず、ロッドアンテナは折れていた、カメラはバッテリーがあがり、電池漏れしていた、が、自分で直すと動き始めた写せたのである。1982年ごろから1998年まで16年も眠っていたのに、動いた。デジカメが主流になったが、あのシャッター音の快感は忘れることは出来ない。再び、震災を乗り越え出会うことが出来た、クーガー115、今は僕の部屋の押し入れにある。このラジオで聞いた深夜放送こそが、僕の精神的ナ拠り所でもあり、逃げ道でもあった。学生運動が終わり、空白のイデオロギーのときを超え、僕たちの世代ではラジオもお笑いが主になりつつあった。そういう中でもマジで語るひともいた。つるべもそうであった、今の人気にすごさと仕事のすごさは感嘆するが、今の彼は、昔の彼でない、つるべ論を語ると本が出来てしまうのでやめとく、彼が名古屋のミツドナイト東海の木曜日に出ていた、この番組も長く続いた、はじまって間もない頃、ある中学生の男のから相談の葉書があった、「父親が厳しく、進路のことで相談したいと・・」電話番号がかいてあり、深夜、つるべは電話したのだ、しかし、深夜、あの頃の夜は深い。その父は医者であった、深夜で電話であれば、なにかあったのか、と、「もしもし・・」当然、子供を出すわけがなくかんかんになって電話でおこりだした。つるべもその頃はすぐに喧嘩するタイプだったので、いいあい。最後に、電話で、つるべはおとなげなく。「○○医院にはみんなゆくなよ!」と叫んだ。その一言、で、彼のDJ人生は終了、ラジオ局に厳重なる抗議が寄せられ編成局長は会議をおこない、この番組はおわることとなった。翌週、番組がおわることがつるべから伝えられた、リスナーは当然、いきさつを全部しっているので、猛然と怒り、駅前、学校、友人、家庭などで、嘆願書の署名運動が始まり数千名の署名が東海ラジオに寄せられた。東海ラジオのミッドナイト東海は、この手の事件がおおかった、一言、で番組がおわってしまうのだ、僕の好きなつボイノリオさんも些細な発言であの森本レオも下ろされた、自由な雰囲気である深夜ラジオでもある程度の言論統制を自主規制していたのだろう。つるべは、その事件で何とか首がつながり、今日の彼がいる、できれば、家族に乾杯のテレビ番組でも東海放送でも、あのときの電話の家の親子と再会を果たしてほしいとおもう。いじめがあったのも名古屋周辺だったかな、深夜ラジオなんてもう子供たちは聞かないのか、
2009.08.24
コメント(0)
名古屋市守山区の歩道で21日未明に焼死した中学3年の男子生徒(14)について、生徒が通っていた同市名東区の市立中学校の教頭(53)が24日、同校で取材に応じ、この生徒に対するいじめがあったことを明らかにした。愛知県警守山署は自殺とみており、関連を調べている。 教頭によると、昨年11月ごろ、生徒の母親から「いじめを受けているのではないか」と相談があった。学校で調査したところ、同級生ら計7人がいじめを認めた。 同級生らは生徒がアトピー性皮膚炎を患っていたことに関し、生徒をからかっていたという。また、登下校中に道をふさいだり、バッグを引っ張ったりした。同級生らは生徒に謝罪し、いじめは止まったという。 時事通信ひどいな、ひどすぎる。ほんと、テレビでも淡々と述べる教頭が放映されていたがやつらは事実関係どうのこうのと、何かが欠けているのだ、焼身自殺なんぞ、普通、するか?これは抗議だぞ。
2009.08.24
コメント(2)
大分県宇佐市の弁当店に押し入り、現金約8万円を奪ったとして、県警宇佐署は24日、強盗容疑で元衆院議員私設秘書の江口法勝容疑者(33)=福岡県苅田町尾倉=を再逮捕した。同容疑者は自民党の山本幸三前衆院議員の元秘書で、先月21日に北九州市のレンタルビデオ店で現金を奪ったとして強盗罪などで起訴されている。 逮捕容疑は6月2日午前4時ごろ、宇佐市の「Hotto Motto(ほっともっと)宇佐法鏡寺店」に押し入り、女性店員に包丁のようなものを突き付け、「金を出せ」と脅し売上金約8万円を奪った疑い。 江口容疑者は山本氏の事務所に昨年12月から今年7月11日まで私設秘書として勤務。無断欠勤など勤務態度をめぐり、解雇されたといい、福岡県行橋市にある事務所の清中英二所長は「元職員とはいえ、迷惑を掛け申し訳ない」とコメントした。 2009年8月24日(月)21時17分配信 時事通信弁当屋に強盗はいるとは!おどろきしかも、ひしょ?
2009.08.24
コメント(2)
ああ、またしても消えました、がっくりです、こんばんわ、大学の四方山話一作め、UPしたとたん、フリーズしてまいました、またの機会で、本日はおやすっみ。背景がはザ・ムッシュ、国鉄六甲道です、そのホーム。
2009.08.23
コメント(2)

はい、こんばんわ、今夜も深夜ブログ便においでいただきありがとうございます、昨日はNHKの方がログを残されていて、何を目当てにこられたのかよくわかりません年灸。僕らが中学のときにBCLブームが起きた、海外の短波放送を聴く、それできけたぞ!と、電波受信の手紙を送ると、お礼にBCLカードというのがくるんだね、ソビエトのモスクワ放送や、南米エクアドルの放送や、日本向けに日本語でやっているのもあった。ラジオはソニーとナショナル、東芝などが販売しており、ソニーはスカイセンサー、ナショナルはクーガーというものであった。僕の持つのはナショナルクーガー115というもの、中学のときにお年玉をためて星電社御影店で購入。このラジオのことは以前にもかきましたが、最近まで聞いていたのです、さすが松下電器です、おばあさんにかってもらった、電気鉛筆削り、これも40年近く動いています、コンセントを変えたけど、いまだに店にあります、どこの店に移動してもこの鉛筆削りは持参、鉛筆がすきなのです、鉛筆と万年筆がすきです、(大いに話がそれています)鉛筆というものはあの太さといい、とんがった先といい、きのぬくもりといい、考えるときカムことといい、鉛筆がいいのです、ラジオはどうなった?素快楽で店長をしているときに、ワークスケジュールを作成するときは必ず鉛筆。シャーペンはきらいなのだ。便利だし、芯だけなんだけど、やっぱり鉛筆の質感というものがいいのです、しかし、いまやほとんど、ペーパーレス、このパソコンでキーボード戦うのが書くことを忘れさせる。そうだ、鉛筆のようなキーボードがあればいいのだ。(完全に話が剥離)) そういうBCLブームに単純に乗るぼくは、海外の短波放送はまったくおもしろくなく、すぐに飽きてしまう、日本短波の大橋照子さんが人気でしたが、結局、日本のAMFMを聞くことにしました。ラジオライフという本があって、全国の放送局の番組を見て聞きました、まあ、とりあえず、好きなものだけですが、今は携帯電波やいろんな電波が飛び交い、推測ですが汚いで電波層だとおもうのです、昔は、夜になるといろんな韓国、北朝鮮、中国、ソ連などの放送局がえげつない大出力で電波を流し、敵の放送局に向けた妨害電波も出ており、地上の状態や電離層などの影響でぐわんぐわん、いうときがよくありました。しかし、日曜日の深夜だけはどこの放送局も機器の点検もあり、休むのです。そこで出てきたのが、ラジオ大阪OBC「つるべ・新野のぬかるみの世界」なのです、ぼくはもともと、つるべのファンでしたからこの番組は一回目から聴いてました。この番組の内容はさておき、この大阪ローカルの1314キロ減る図の電波が北海道から沖縄まで飛んでいたのです。で、春と秋に全国のリスナーに呼びかけ、生で深夜、その家に電話するという「全国縦断電話」という特集をしていたのです。札幌STVラジオの放送もよく聞いていた、松山千春がそこしか出ていなかったから、名古屋の放送局は特にCBCは常に電波状態が悪く、まあ、半島の放送と妨害を受けていた周波数だったから、それに合わせて三重県の電波送信システムをよくなかったな所らしく、数年前にかなりの深夜時間で改善工事をしたようです。名古屋といえば、ミッドナイト東海、この番組は本当に歴史あるすばらしい番組。この番組の蟹江アナが、さだまさしのグレープがまだ売れない頃、「精霊流し」を痛く気に入り、毎週毎週流して、ヒットに火をつけた話は有名、まっさんはその話を誰かに聞いて、自分の曲がラジオから流れるのを聞きたくて、はるか東京から深夜雑音だらけのの自分の曲が流れているのを聞いて感動した話。最近の話では、僕の好きな馬場俊英さん、売れなくなり、レーベルもけい約を切られ、自分のCDを自分の金でおそらく大借金だろう、「鴨川」という曲を802のヒロてらだいらさんが気に入り、放送で何度もかけた、たまたま聞いていたんだね、馬場さんが、それで、自分の曲が流れるのに感動して、奮起する。ラジオと音楽、リスナー、アーチスト、これらは重要な要素、しかし、そこに必要な台風の目は「DJ]である。ぼくは、そこに憧れた、高校大学と、熱心に憧れた、で、自分で自分たちでラジオ放送局をつくった、壮大なる物語がこれからはじまるのだ、(たいそうな)
2009.08.22
コメント(8)
こんばんわ、全国の深夜ブログ便ファンのみなさま、おげんきえしょうか?明日からマタマスクシテ、弁当配達です、暑いのにいやです。さて、先日かずっと前に本のしたいという「オフコースとあの頃 弁当屋の親父の話」のことですが、コンテストには落選しました、残念のきわみです、しかしながら、うまいとかおもしろいとか、講評されて、自費で工面どうのこうので、そこで挫折です、お金ないです。原稿用紙50枚ほど、希望者はメールで送ります、読んでください、ワードの原稿用紙ですので、重たくないですから、希望者、メールにて、osatani@osatani.com負けずに、次回は、「深夜ラジオ放送の思い出、弁当屋のおっさんの話」を作ります、その次は「鴨川のほとりの下宿の記憶、弁当屋の親父の話」その次は「ぼくはファミレスが好きだった、弁当屋の親父の話」という妄想と推測と睡眠不足の中、いつか僕にも追い風がふくかもしれないとおもいつつ、がんばる所存です。このブログでネタ記事を転がしながら編集して原稿にしてゆくのです。遊びみたいなもんです、 まずは、さっき、1981年の日記を読み返すと記憶が戻らないことが多すぎる、思い出せないことが多い、できるだけつまらないことまでいろんなことを記憶するのが得意の僕で、思い出話を語ると、「よく、おぼえてるなー」と関心される、その記憶力を語学の方向に向けていればと、反省するのである。で、ラジオの話であるが、僕が聞きだしたのが中学一年のころからだったとおもう、大学3年のときにはもうほとんど、聞かなくなっていた、深夜のバイトをしていたから、およそ9年間のラジオ生活であったようだ、今思い返すに、テレビというのは居間にひとつあり、父と母が占有するもので、たとえば金曜日には猪木やばばのプロレスを見るのが父であり、裏のドラマをみたいといっても、却下される、太陽のほえろをみたい、といっても見れない。11PMのすこしえろいのも絶対見れない、不可能の近い。通路みたいな部屋が僕の勉強の部屋で横にすぐ姉の部屋があり、姉ガ早く寝るのでスタンドだけで黒い画用紙で火が漏れないようにして勉強していた。子供たちはラジオ、親たちはテレビ。それでもあの頃は夜は早い。関西ではMBSヤングタウンガ絶大なる人気。音楽だけ延々流すABCヤングリクエストも人気で、こっちはテストまえに聞く、まあ、たしかにラジオ聞かずにコンストレーションを高めて早く寝たほうが効率はいいんだけど、学校にゆくとほとんどの人がヤンタンを聞いていた、ラジオの話で持ちきり。そのヤンタンの最初のコーナーが、「ハッピーツデーのコーナー」で今日あったことを電話して、採用されるとラジオに出れるのだ、僕の友人の出たがり目立ちたがりの田中くん、こいつがそのラジオのコーナーに突然ででたのだ!!あの時は本当に驚いた、「UFOが飛んでいた」という話、僕は内心、「またか・・」と思った、あのユリゲラーのスプーン曲げ騒動のとき、「ぼくもできるんだ!」といって曲げたときを思い出していた、学校中はその話題でもちきりとなり、クラスを超えた見物するものがでてきた、とうとう、上級セまで家からスプーンを持ち出し、まげてくれ、まげてくれ、という始末、各家庭の保護者は家からスプーンがなくなり、曲がったのがあるので問題となり、先生もとうとう、いい加減に教室でするな!というお叱りまできた、三年の不良先輩が、「おい、このクラスのスプーン曲げできるのを校舎の裏までつれて来い」という。みんなで心配してみにゆく、そこに必死で曲げる彼がいたが、僕らが見ているのをきずかず、スプーンを壁に押して曲げていたのだ。「おい!壁におしあててるぞ!」福田君が暴露したとたん、先輩は怒り出した!やばい!しかし、生活指導の音楽の先生が、「みんな解散しなさい!」といって田中君は先輩に殴られることはなかった。「おい!こないだ、カーSEXしてるのみたぞ!」という田中君の話はだれも聞かなくなっていた、そういうことがあって、今度はヤンタンにまで出て、UFOを見たという、誰も信じるわけがない。そういう田中君も今頃は山陽電車で働いている、 数年たち、ぼくはビルの上か大阪湾の上空に雲の間を出たり消えたりする光を発見!「やはり、UFOは いたのだった」冷たい視線を感じながらぼくはそう思う。
2009.08.21
コメント(6)
はい、こんばんわ、全世界の深夜風呂具ファンのみなさま、本日もどうぞ、読み逃げてください。学生の頃のノートが出てきて、さっき読んでいた。京都の夏は暑い、とにかく暑い、盆地だし、クーラーなんてのは深夜喫茶にゆかないとない。前期テストが終わり、大学三年の七月。飲み会をし、みんなで、宝ヶ池の近くの味泥ガ池ということに肝試しにゆこうということになり、みんなでいった、ぼくはそこで、脅かす役になり、深夜1時近く沼の近くにある大木の下に隠れていた、あの肝試しは脅かすほうが実は怖いのです、闇夜で待つ、しかし、一向に誰もこない、木々が揺れる影がどうも怖くて仕方ない、この場所の心霊の話はよく聞いたもの、タクシーの運転手がお客の乗せてこのあたりにきた、ついて振り返ると乗せたはずの髪の長い女の人はどこにもいない、シートにはびっしりと残る長い髪、水がしたたりおちる、しかし、誰も来ない、おかしいな、とおもいつつ、背中をとんとんと誰かたたく、びっくりして振り返ると懐中電灯を持った警官がいた。「こんなとこで、何しとるんね?」僕はあわてて、言い訳をした。「あの、おとしものをしたので、探しにきたのですが・・」「こんな真夜中に?」「ああ、はい、急に思い出して・・。」それから身体検査をされ、免許証学生証を提示し、凹みつつ下宿に帰ると、大笑いして友人たちが待っていた、ぼくはすっかり、冷や汗ですずしくなるつつ、その冗談に対しての「怒り」がこみ上げてきてしまい。翌月8月4日、仕返しをするのであった、たわいない僕。北海道に友人たちと旅に行き、その札幌でのできごと、失踪してしまい、一人で何も言わず消えたのである、友人たちはかんかんになり、夜に合流すると、口も聞いてくれない始末、みんなは、味泥のことを忘れていたのだ。 それから、再び、礼文島でであった女の子に一目ぼれした清水のために失踪をするのであった、この話はまえにもしたけど、明日またするね。おやすみ
2009.08.20
コメント(4)
![]()
佐藤公彦は、1970年台初期 - 中期にかけての日本のシンガーソングライター。東京都大田区生まれ。中央大学中退。アマチュア時代1967年ピピ&コットのリードボーカルとギターを担当していたが、中性的でキュートなルックスとセンシティブな歌声から、ケメという愛称で、ティーンエイジャーの女性を中心に絶大な人気を博し、後にエレックレコードからソロデビュー。「通りゃんせ」などのヒット曲を出すが、周囲の求めるアイドル性と自身の追求する高い音楽性との間のズレが次第に深まり、その後音楽活動から遠ざかる。しかし、近年その繊細で独特の情感にあふれた曲群に対し再評価の機運が高まっている。2009年 送料無料!!【CD】ベストアルバム/佐藤公彦(ケメ) サトウ キミヒコ 30年ぶりに全曲書下ろしのアルバム発表。ここ
2009.08.20
コメント(2)
松本 隆 ロックバンド「はっぴいえんど」の元ドラマー。東京都出身。港区立青南小学校から慶應義塾中等部、慶應義塾高等学校を経て慶應義塾大学商学部中退。東京都港区の青山生まれ。父は大蔵省の官僚で、中学校から大学まで慶應に通った。妹が生まれつき病弱で早くに亡くなっており、そのことが詞が優しいといわれる理由ではないかと自ら語っている。ビートルズの影響を強く受けた。細野晴臣、大瀧詠一、鈴木茂と「はっぴいえんど」を結成。はっぴいえんどの母体となった「エイプリルフール」時代に、常に本を持ち歩いていて文学青年に見えたことから、細野より「松本、詞を書け」といわれ作詞を担当するようになる。はっぴいえんど解散後、南佳孝『摩天楼のヒロイン』、あがた森魚『噫無情(レ・ミゼラブル)』などのアルバムをプロデュース。アグネス・チャンの「ポケットいっぱいの秘密」で歌謡界に本格進出し、太田裕美が歌った「木綿のハンカチーフ」で作詞家としての地位を確立した。歌謡界に身を投じたきっかけは、『ヤングギター』編集長の山本隆士に「メジャーな分野で詞は書かないのか」と問われたことだった。松本が「あんなものはいつでも書ける」と言い放ったところ、「言った以上は証明してみろ」と山本にいわれ、「それならやってやろうじゃないか」となった。初めは歌謡曲を見下していたが、「この詞には曲をつけられないだろう」と作曲家の筒美京平に「木綿のハンカチーフ」の歌詞を持っていったところ、あっさりと曲をつけられてしまう。以後、作詞に没頭するようになった。筒美京平とのコンビで中原理恵「東京ららばい」、桑名正博「セクシャルバイオレットNo.1」、近藤真彦「スニーカーぶる~す」などを手掛ける一方、'80年代よりはっぴいえんど時代の仲間たちを歌謡界に呼び寄せ、ヒットメイカーとしての快進撃が始まる。 ミリオンセラーとなった細野とのイモ欽トリオ「ハイスクールララバイ」や大瀧詠一の大ヒット・アルバム『A LONG VACATION』、第23回日本レコード大賞を受賞した寺尾聰の「ルビーの指環」、そして松田聖子の24曲連続オリコン1位中・17曲を手掛けるなど、阿久悠に代わり歌謡界で一時代を築き上げた。
2009.08.20
コメント(0)
![]()
【CD】風・空・そして愛/やまがたすみこ ヤマガタ スミコ 東京都北区出身、幼少時代は埼玉県草加市に在住。作詞作曲者としての名義は山県すみ子。モモ名義の録音もある。夫は井上鑑。小学校六年生の頃から作詞作曲を始め、上野学園高校在学中の1972年にTBS系ののど自慢番組『家族そろって歌合戦』に出場して自作曲を歌い優勝した。翌1973年2月に自作曲を歌ったファーストシングル「風に吹かれていこう/あの人が好きなのに」でコロムビアレコードよりデビューした。
2009.08.20
コメント(0)

岡田さんの手紙(1972年10月21日) 二枚目のシングル、誰しもがもつ「転校」する悲しさ別れの歌なのだ、ああ、ぼくもおもいだすな。マミちゃんの作詞であったとおもうのです。「いつかしか、手紙がこなくなりました」ここが泣かせるのだ。彼女たちの歌声は天使のささやきでもありながらしっかりとはもり、しっかりと、発声。親父さんの指導だろう。松田りかちゃん、マミちゃん姉妹、関西ではあのらじかんの「海の見える放送局」はなじみぶかい、ここ
2009.08.20
コメント(0)
こんばんわ、皆様、お元気でしょうか?再び新型インフルエンザのことをまたあの鱒添えのおっさんがいいだしました。もう、あの顔を見るとトラウマです、年金のことも介護保険のことも、あのおっさんの顔を見るとなんだか、やになる今日この頃、彼が総理になるならば、どこかのクニに亡命希望です。さて、街には「盆踊り」の音楽がながれ、地蔵盆の季節です。なぜか、ぼくはあの盆踊りは、なんか、寂しさを感じるんです、哀愁というか郷愁ではなく、なぜかしら、不思議な感情を抱く。昔はお菓子がもらえるので、三波春夫の万博のなんとか温度とか、月が出たてたなんとかの歌とか、あられちゃんの温度は却下です、世代ではないです。もっと古いのがいいのです、おばちゃんが浴衣を着ておじさんも仕事帰りで踊る、ああ、いい時代でした、みんな参加してました、狭い床に集まって、まわるんですね、あれは、日本のフォークダンスですね、いつからか、子供の祭りになり、子供の媚をしだし、あれがいかんのですね、若者たちはそこから離れてゆくのですね、そのあたりから衰退、いまは、さみしいものとなる、盆踊りの民族的検証をしてみれば、日本の歴史が見えてくるだろう、鎌倉時代に念仏踊りから始まったそうだ、この盆踊りのときに、若い男女が出会うのだったろうか、いつしか、フォークダンスに変化したのだろうか、士農工商の時代は武士も町民も一緒におどったのだろうか盆踊りがなぜか、悲しいのはなぜだろうか?精神的背景が僕にあるのだろうか、そういえばクリスマスは嫌いだし、DLもきらいである。地蔵盆の風習は本当に不思議なもので、京都の文化圏であることのひとつの証となるものらしい、地蔵菩薩を祭るというこらしいが、そもそも、地蔵菩薩ってなんだろうか、みんな知らずにお菓子だけもらうことしかない、もともと大地の菩薩のひとつで、そこから胎内や至急の意義になり、そこから子供の守り神になり、子供の祭りになるのである。で、近所には数多くの地蔵があるのだが、ほとんど、形が崩れ、石のかたまりのようなものもなる、どうやら野にさらされていた「道祖神」のようなものがルーツなのかもしれない。しかしながら、この道祖神は関東文化圏のものであり、街の辻にあったり、道の分岐点になったり、目印となったのか、旅人の行き倒れを祭ったものなのか、興味はつきない、お地蔵さんが多い場所と少ない場所があり、僕の店に近くには密集して現存してる。数百メートルに間隔で存在している。しかしながら、東灘区では少ない、これは歴史的に民家があって、街道があるかどうか、もしくは、空襲で全部やられたかとも思う。自然石の道祖神というのは数多くの旅人を見てきたのだろうと思う、いまは、徒歩で旅をするひとなんかいないが、昔はみんな、歩いて、危険にさらされながら旅をする、「客死」なんてことばもよくあったんだ。 と、いうことで、本日の講義は終わり。
2009.08.19
コメント(2)
共産党の志位和夫委員長は19日、仙台市内で記者会見し、社民党が民主党との連立政権樹立に前向きな姿勢を示していることについて、両党の外交・安全保障政策の違いを挙げて批判した。 志位氏は「例えばソマリア沖への(自衛隊)派兵について閣内で一致しなくなった場合にどうするのか。社民党のかねてからの主張と、連立を組むこととの整合が取れなくなりつつある」と指摘した。志井さんの言うことは正しい。社民党は解せない、あの辻本清美の悪夢をおもいだす。社会党が無残なことをして崩壊した、繰り返すな。自分の基本的概念はくずすな、政治家でなく政治屋であるぞ。
2009.08.19
コメント(8)
時が流れ、年をとり、いろんなものが変化し、喪失し、こんばんわ、ひさしぶるにFMラジオを聴くと知らない人にかわっていて、ラジオ業界もたいへんそうだな、と思いました。テレビも同じようなタレントが同じような番組を「笑い」で注目されるのはあきました。のりかと離婚された平然と陣内君、仕事は普通です、あの結婚離婚はどういう意味だったのか、といまだにおもうのです。なんでも簡単に済ませる「話題」作りの芸能界。ああ、またかのかなし、新型インフルエンザの死亡者二例目が神戸で出た、またもや神戸。秋には再び流行する兆しという、また、あのゴーストタウンになるのか、伝染の経路やポイントはわからないままかよー、なんで、スポーツ界を媒介しておこるのか、そこがポイントですね。拓郎が坂崎のラジオに電話で でたそうで、曲もつくってるそうだ、すこし安心したのです。拓郎は拓郎を演じることがいつもいつもつらいんだとおもう。あの時代に拓郎が出てきた、あれはみんなのパワーが集まった、アーチストは天からの何らかの信号を受け止めてラジオのように歌いだすんだと思う。そのアンテナが純粋である時期にたとえば16から22ぐらいの間に「ぴかぴかの感性」あればこそ表現できる、あの時代に背を向けて生きてきた僕たちが、あの時代の空の青さともしくはたそがれのいろかもしれない、あの時代の音楽を聴きなおすことに「不惑」であることは困難であるのかもしれない。とりとめもなく、本日はおわります。おやすみ、。
2009.08.18
コメント(0)
はい、こんばんわ、さっききじ書いたのですが全部。消えてしまいました!へこみましたので、本日はもう寝ます。政治的ナ発言がおおすぎたのか、北の藻琴先輩はどうしているんだろうか、
2009.08.17
コメント(4)
英五特集。いかがでしたか?こんばんわ。今夜も暑い夜です。今年のNHKの戦争特集は「証言」でありました。実にリアルでまことに心の中に刺さりました。戦争体験者たちは、ひどい体験を話そうとはせずそれは、PTSDだとおもうんだけど、いままで、口をとざしてきたが年齢も高くなり、きな臭い連中が戦争のための憲法改正をとなえ、時代がまた、そういう方向に行くのを危惧し、語るのであろう。靖国に本日、小泉安部両氏が参拝した。この件についても、僕は最近、意見が変わった、ぽっぽのいうとおり、国立の戦没なんとか、を作れば言いと、しかし、「千鳥がふちのなんとか」というものもあるし、靖国の関して、海外の意見を聞いていれば、次は何をいうのか、国としてもプライドは保持すべきものと、おもうようになった。もともと、政治に利用されて、再び、朝日新聞の喧伝され異常な反応を示されている。もともと、A級戦犯10人はこういうことをマッカーサーが予測し処刑後、灰を混ぜ、海に流し、一部残っていた灰を、どこかのお寺の住職が自分の寺で供養していたと聞いた。何年もたち、靖国に合祀されたのである。そのことで、裕仁天皇がお怒りになった、という話が数年前に流れた、複雑な問題であるが、明治天皇が維新の戦いで死んだ敵味方を祀りその後の経緯であの戦争のひとつのモニュメントになったがため、東アジアの国々の反発がくるのである。こういう今の世論も、ひとたび、大きなテロ攻撃を受けると9条廃止に動くのである。人々は単純である、
2009.08.16
コメント(2)
元気が出ます。えいごここ
2009.08.16
コメント(0)
途中でつるべがうつるが、彼は思い出していたんだろう。ラジオでゲストに来たときのことやあのねのねのばっくにいた、無愛想な初対面。ここ
2009.08.16
コメント(0)
旧友再会 -2009この歌は彼の遺作。いい歌です、彼の人生ものがたる。ここ
2009.08.16
コメント(0)
あのねのねプラス1(河島英五) 青春旅情
2009.08.16
コメント(0)

河島英五 / 旅的途上
2009.08.16
コメント(0)
![]()
本当にこころんしみるね。英五が若いとき、いろんなことを感じこの歌はぬかるみでよくながれたここ 中古》【CD】GOLDEN☆BEST/河島英五 SINGLES邦楽
2009.08.16
コメント(0)
こんばんわ、みなさん、本日は三時すぎになってしまいました。「オーラの泉」の録画をみていたので、英五の子供たちがでていて、あの世でも、英五が元気らしい。倉本先生が出ていたのは驚いた、杖までついているのでこれまたおどろき。いい話であった。いろいろ、この番組は言われるけれど、僕はいい番組だとおもう、精霊流しがおわり、盆もおわりか、しかし、これもいろいろ地方により習慣が違う。うちのほうでは、霊は海に帰るので、海に流すのである。子供の頃はまだ、小さな漁港のようなとこがあり、漁船が神戸から委託され沖に流しにゆく、考えればごみであるのだが、今は、燃やすのであろうか。いろいろな戦争の番組を見ていると、ため息がでるし、涙もでる。なんで、あんなに「命」を粗末にし、いったい、何を守ろうとしたのか、本末転倒なことである、いつから、軍隊はああなったのか、何に影響され思想が変わったのだろうか、明治大正から10数年であきらかにかわったいる。あの、海軍はほんとうに、みっともない。最後だが、海軍は陸軍のために引っ張られ、東京裁判ではだれも死刑にならない。あのあたりの歴史は、あまり語られていない。子孫や遺族の感情があるからだろう、歴史としての評価は100年たたないとできない、と司馬先生は言っていた。無様な選挙が始まる、うるさいだけの選挙カーは「公害」である、排気ガスで大気をよごし、税金の投入でガソリンを買い。夜勤明けの人の睡眠を奪い。名前を連呼、うそ800.
2009.08.15
コメント(2)
「不良少女白書」ダ・カーポ榊原政敏が横浜で音楽活動していたところ、榊原の兄がやっていた「サカキ音楽研究所」の同期生ということで、久保田広子と出会った。1973年、研究所の送別会が渋谷のジァンジァンで開かれた。このときに刺激され、グループ結成を決意。1973年8月に「夏の日の忘れもの」でデビュー。翌1974年にリリースした「結婚するって本当ですか」が優れたハーモニーで60万枚を売り上げる大ヒット、代表曲となった。またこの頃より童謡やアニメ主題歌など幅広いジャンルも手がけ、人気を博す。自身が学生時代に下宿していた横浜市の西谷付近を歌った「15秒の風景」は、1970年代フォークソングの一つの頂点といえる名作である。二人は1980年に結婚し、一時期は夫のみで活動していたが、1983年に2人での活動を再開した。フジテレビ系列の「裸の大将放浪記」シリーズ(のちに「『裸の大将』シリーズ」と改名。主演は芦屋雁之助)の主題歌としても知られる、1983年にリリースした「野に咲く花のように」は、大変よく知られている曲であるこの歌はまっさんですよね。
2009.08.15
コメント(2)
この歌も好きなんだなあここ
2009.08.15
コメント(0)
宗谷岬」ダ・カーポフェリー乗り場に流れていたな、礼文、利尻にゆきたいな。ここ
2009.08.15
コメント(0)
はい、こんばんわ。村田和人特集。いかがでしたでしょうか?達郎の弟分のように売り出した彼も実力がありながら評価するセールスもままならぬ、しかひ、音楽を楽しみ今に至る、なかなか、難しいもの、あの頃の80年代はサーフ音楽がひしめき合い、杉山清貴や角松さんとか活躍。サザンという存在もでかい。ああ、もうだれもサザンを思い出さぬかの「夏」です。夏といえば、本日の「終戦の日」「お盆」であります、毎年毎年NHKなどが戦争特集を行うのですが、今年もなんかせつなく、涙がでましたね。ひどい悪夢のような戦争です。「ほたるのはか」が毎年テレビでやるんですが、あれもみてられません、あの空襲の現場と長七の先祖由来の家が近く、野坂先生の実話をすこしかえて、アニメも小学校など実は変えているようですが、あの空襲のスタートの「焼夷弾」は長七の家周辺から爆撃がはじまりました、僕の先祖はあのお酒の有名な灘の生一本ブランドでおなじみの「菊正宗」というお酒の樽を作っていたもので、江戸時代から昭和はじめまでやっていてのです、樽屋長七、という屋号で、慶応三年の幕末の墓がまだあります、何が因果か、その長七という屋号を背負い、再び、今ぼくは弁当やをしているのですが、あの戦争ですべて灰になり、祖父母もあいつでなくなり、廃業。長七という名前の不思議な名前の符号がもうひとつあり、その灘で酒造りが起こるのは江戸時代半ば、その前は「油屋」をしていたということを西南戦争に生まれのそ祖母がいっていた、で、その符号が慶長七年、間の長七、その年に起こったことは、ありまたかつき断層が動いたという、伏見大地震、あの秀吉が伏見城崩落し、加藤清正が助け出し、謹慎と解かれたというあれ、六甲山の断層が動いたというやつで、かなりの崩落が六甲山でおこり、そのころ、六甲山ろくで水車小屋を利用し、菜種油を精製していたんだろう油や長七は廃業したのだろうと、推測するのです。おそらくです。もっと、さかのぼるとうちの家紋はよくある、三つ柏ですがこれはほとんどが平家由来で、一の谷の合戦で破れたひとが落ちてきて家族になったということ、もっと、もっとさかのぼると、聖徳太子が四天王寺を作るとき、大阪湾の向かいにそびえる六甲山にいい石が取れるというこを知っていて、ぼくの先祖ともう一軒派遣し石を取らせた、それが御影石に始まりであったという、その御影の土地にはぼくと同じ苗字のひとびとが30件以上もいた、あれ、なんで、こんなルーツの話をしているのか、ぼくが歴史がすきなのは、そこの時代に生きたであろう人々を感じるから、僕の中で生きているDNAは繰り返し、何かに挑戦し、大きな問題が起きて挫折し、再び乗り越えていったのだと、おもうのです。これはほとんどの日本人がいろんな場所で経験したことと同じだとおもうのです。米英を相手に戦争を起こし、無残に退廃し、ぼくの家もすべて灰になり。そこから、再びぼくの弁当やの名前になるとは僕自身も夢にもおもわないことであった、で、ぼくもあの地震がなければ、あの会社を辞めていなかっただろうし、嫁と出会うこともなかった、嫁が長七にすればいいと、言ったんだ、長七という名前はいいから、という単純なわけが複雑にさせた。ぼくの友人の女の子は400年続く老舗の和菓子屋に嫁に行った、驚愕すべき歴史である、400年まえといえば、家康が生きていたのだ、その家は、幕末維新の動乱も太平洋戦争も戦後のたいへんなときも乗り越えたきた400年であるが、今が一番たいへんだと!言っている、どういうことかときくと、今の日本の変化であるらしい。本当に今は大変な時代だ、選挙する顔ぶれを見ても「口がふさがらない」800兆の借金の話はだれもせず。おいしい話ばかりする。お盆になると死んだ人がかえるという、しかし、そうでなく、先祖のことを思い出せよ、いろんな時代乗り越えて生きてきたから自分がいるということを確認しろよと、いうことか、お線香でらリッテ思い出せよ、ということだな、
2009.08.14
コメント(0)
公式ブログここ
2009.08.14
コメント(0)
![]()
【Aポイント付+メール便送料無料】村田和人 / Now Recording + (CD)バンド活動をしていた大学生の頃に知己をえた山下達郎のバックアップをえて1982年シングル『電話しても』でMoon Recordsよりソロ・デビュー。マクセルのCMでした。ここ
2009.08.14
コメント(0)
![]()
村田 和人、日本のシンガーソングライター、作曲家。専門学校東京ミュージック&メディアアーツ尚美講師。東京都出身。(CD)村田和人/ずーーっと、夏。潮騒(The Whispering Sea) / 村田和人 with 安部恭弘 & 木戸やすひろ達郎の名曲をカバー。せつないくて海風がそよぐこえ
2009.08.14
コメント(0)
小泉のおっさんの評価といえば、北に二回もいって、拉致されたひとを帰らせたことだろう、その行動はすばらしい。米国も二人の記者を救い出した。しかし、日本。あれから、どうしようもない膠着になる。決定的ナのはノビタ福田総理が突然辞めたあのとき、日本の子供たちが突然いなくなる、それらしき痕跡ものこさず。不思議な事件がおおい。いわゆる失踪である。少しまえでは、テレビでよく公開捜査をしていたが、そのときには情報がはいる、しかし、ほとんどががせねたがおおい、前々から言っているが、頭脳犯には、頭脳で対抗すべき、たくさんの人間が捜索するがみつからない、それはやみくもにしてるから「作戦」というもの「指令本部」において作り、捜索には塵一つ残しているかもしれない痕跡や証拠を見出すことである、本人ではなく「影」を探すのである。そうしないと、いたずらに時間は過ぎ、痕跡も踏みじみられてしまう。捜査方針とかいうのもきちんとすべきもの、それらの専従させるべき広域活動ができる権限の専門家を作る必要がある。未解決が多すぎるのだ、兵庫の子供が殺害されて事件も未決がおおい。もう迷宮いりである。たぶん、無理であろう。遺体が残されているものであれば、いろんな痕跡が残るはず、見落としているのである。こういう問題は余計に政治の混乱や不況や、そういうものでかき消され人々の記憶から失われてしまう。危険すぎる世の中。たくさんの犯罪が行われ、逃げているのがどれだけおおいのか、
2009.08.13
コメント(2)

小林 雅尚 ちゃん(当時1歳10ヶ月) 平成13年10月25日(木)、岡山県賀陽町(現加賀郡吉備中央町)の祖父宅からいなくなりました。子供がいなくなる。考えられない。
2009.08.13
コメント(0)

失踪時年齢 8才失踪日時2000(H12).10.20失踪地岡山市網浜 夕方、自宅を出たまま帰宅せず行方不明に。もう、9年がたち、17歳。忽然と消える、そういうことはありえない。家出する理由もあったのだろうか、岡山には不思議な未解決事件が多すぎる。なぜだ、岡山県警さん、
2009.08.13
コメント(0)
愛知県常滑市の常滑西小学校5年生下村まなみさん(10)=同市保示町=が、岐阜県郡上市高鷲町の「ひるがの高原キャンプ場」で行方不明となり31日で1週間。関係者の懸命の捜索にもかかわらず、依然見つかっていない。郡上署などは手がかりとなる情報提供を呼び掛けている。 学校行事のキャンプに参加した下村さんは24日朝、ほかの児童3人と肝試しコースの下見に管理事務所前の広場から出発。500メートル余り先のカーブで誘導していた沢田広彰校長の前を通過した数分後、3人が「下村さんがいない」と沢田校長に知らせた。同校長は下村さんが、戸谷川を越えた先のカーブを曲がるあたりまでは姿を見ていたという。戸谷川はせせらぎで、付近にはがけなどの危険個所はない。 30日までに地元警察、消防、常滑市関係者ら延べ1430人が、強雨にも見舞われつつ捜索。木の洞や周辺の沼の中なども細かく調べた。関係者からは「これだけ捜して見つからないのは不思議としか言えない」との声も聞かれる。 当時、キャンプ場は常滑市の貸し切りで一般客はいなかった。不審者情報もなく、郡上署は何者かにさらわれた可能性は低いとみている。同署は「一度捜した場所も、草刈りなどして再確認したい」と話している。 常滑市では、延期を決めた残りの5つの小学校のキャンプを9月に実施する予定。同市教委は「現場周辺だけでなく、中部国際空港など人の出入りの多い場所での情報収集に努めたい」としている。中日新聞今のニュースの中に埋もれてしまい、このニュース葉流れにくい。基本的に行方不明は24時間が勝負。しかし、経験や知識の薄い人が闇雲の探しても発見を遅らせる。そこが、これらの事件の未解決を増やしている。
2009.08.13
コメント(0)
こんばんわ。全世界の皆様。イルカ特集、いかがでしたか?イルカの歌い方がどんど変化してゆくね、話し方も懐かしいね。「ごめんして」という言葉もなつかしい、神部さんとの物語はいままでよく書いてましたから、今回はかかないけど、イルカはずっとまえから、肉は食べない、菜食主義であった、動物を愛し、命を大事にし、というメッセージを送り続け、「なごり雪」とともに生きた人生はすごい。昨夜はあのJAL123便の墜落の日。もう24年間、遺族は時間が停止したままだろう、昨年も一昨年もそのまえも記事にしたな。今日はここまで、あした、また。ここ
2009.08.12
コメント(2)
全94件 (94件中 1-50件目)


![]()