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まっさんの「まほろば」が春日大社のまえの中継で見れるとは、すごい。こんばんわ、生さだ、忘れてました。さだまさしの人気がじわじわ来てますね。再び。そうです、初期のCDが再発するときですよ、フリーフライトのみなさん。まっさんが注目されるということはあんまりなかった。CDよりもライブでの評価がたかい。地道。まっさんとイルカはあんまり接点がないが、イルカとおださんは付き合いがながい、イルカオフィスとオフコースカンパニーがたしか、同居してるみたいなとこあったし、杉田二郎さんとの事務所ではイルカがデビューまえ、お茶汲みまでしてたんではとおもうのです。イルカといえば、「なごり雪」ですが、あの歌の前奏がイメージを決定付けますね、雪のイメージ。駅のホームのイメージ。あれは、ユーミンのだんな様。正隆さんの作品です。その歌をしょーやんがつくり、イルカのイメージで作ったんだが当初、イルカは歌うのが嫌であったらしい。どう聞いてもヒット間違えないし、自分の力ではないし、でも、しょーやんが是非に歌えと、言って決まった。神部和夫さんのことは何回もこのブログで書いたがイルカさんのだんなさん、マネジメント全部やっていた。早稲田大学のフォークソングの同好会の部長で、大学時代に有名になり大学の枠組みを超えた音楽の集まりをつくり、女子美大のところにあるグループ「奇奇怪怪」という変な女の子のところに教えに行った。それが出会いであったらしい。イルカは神秘的なところと野獣のようなところとかわいい声と、純粋なところと、いろんな隠された原石のようんものを神部さんは発見したんだね、フォークも新しいの古いのとなり、自分のシュリークスにイルカをいれて、がんばるが、みんな抜けてゆき結婚したばかりで、相当な生活苦、イルカという名前で一本でゆくことをきめデビュー曲。「あの頃僕は」をだす、がうれない、でも、これもショーやんのうたで僕は大好きなんです。これはリバイバルすべき歌だとおもうのです。そのデビューのプロヂュサーが木田さん、そのつながりもまた、長い。さっき、ナターシャセブンのレコードを見ていたら木田さんの名前があった。彼はナターシャにもいて、その前はジャクスにいた。編曲家になり、神田川などのアレンジも彼がした。しかし、彼は交通事故でなくなる。1980年のこと31歳のこと、しかも、神部さんの誕生日パーティに向かうところで事故を起こしなくなる。神部さんは、自分の誕生日がとてもきらいになる。もちろん、友人の命日という悲劇のためだ、自分の責任であると思い込む、いくらイルカが「それはちがう」といっても、繊細な彼は落ちこむのであった。1970年に西岡たかし、木田さん、斉藤哲夫と「溶け出したガラス」という作品を出している。また、いずれの機会に聞いてみよう。音楽を好きで、生業とし、その中でさまざまな人間がであいそして、生きて、そして、死んでゆく。これらの物語は本当にドラマチックである、木田さんを亡くしたことは、音楽の業界における損失であったといえよう。今夜は、その、木田さんのイルカのデビュー曲を聴いておわりにしよう。ここ
2009.07.31
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1969年、早稲田大学フォーク・ソング・クラブのメンバーで結成されたザ・フォーシュリークが解散し、リーダーの神部和夫が明治大学の山田嗣人(山田パンダ)、早稲田の嘉屋泰雄を誘って結成、1969年9月コロムビアレコードから「君よ!人生は」でデビューした。その後、嘉屋泰雄の脱退と入れ替えに、ザ・リガニーズの所太郎が参加した。1970年に東芝エキスプレスから「さらば」をリリース、ヒット。後に保坂としえ(後のイルカ)が参加し「君の生まれた朝」をリリースしたが、所太郎と山田嗣人(後に山田パンダとしてかぐや姫に参加)が脱退したため、男女二人組となった。1. 知床旅情2. コキリコの唄3. 緑の恋4. ノーエ節5. 風と共に6. もずが枯木で7. きみまつと8. 防人の唄9. 救世主10. ぼうやの見た夢11. 琵琶湖周航の唄12. 北帰行13. 雪の降る街を日本回帰というか、民謡や子守唄など学生運動とは別の次元での音楽がひそかにあった、西岡たかしと神部和夫、この二人がその叙情派フォークの巨匠である。koko
2009.07.31
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こんばんわ、全世界の深夜ブログ便のファンの皆様。どうもです、僕の携帯はどこもです。(意味なし)深夜ラジオが好きで、夢は深夜ラジオの語るDJであった。好きな音楽を流し好きなことをいい、若い人の悩みを聞き、人生を説き、そういうのが夢であったが、なかなか、人生はまっすぐにゆかない。同じ線路の上にいくつものポイントがあり、どんどん、変わってゆく。大学は、憧れのあの落書きとノーベル賞の有名な大学。最初、経済学を学ぶつもりが、なぜか、スペイン語を勉強に、しかし、まったく頭に入らない。知的欲求よりも違うものがあふれ出ていた。それでもなんとか勉強しようと努力していた、その痕跡がノートにあった。今でもなんでもっと勉強しなかったかくやしいのである。これもひとつの夢であるがもう一度、大学にゆき、きちんと勉強してみたい。先日、大学の女の友人たちがきて、そのスペイン語のはなしになり。ほとんど、優だったわ、とほざく。もう、テキストなんか、全部捨てた。これにはかなりの衝撃を受けてしまった。ぼくは、バイトとコンパの中、あんまり学校行かなかったが辞書も全部おいてあった。この差はなんであろうか。根本の違いは、男と女の脳機能の相違であると、おもう。(あれ、話がずれてるな)女は、どんどん思い出を捨てる。男は、いつまでも思い出のものなどを捨てずにいる。そこにあるのは、時間軸の中で限定された記憶素子を生活の中で有効に使ウ主婦は過去の消去を知らずにおこなうのではないかとおもう。僕はつまらないことまで本当によく覚えている、いろんなことを忘れずにいる。だから、貴重な最近にことを記憶できなかったりする。たとえば、ビル型のパーキングの車を置いて、時間が経過すると何階のどこに置いたか思い出せない。切符をどこにいれたか、思い出せない、かぎのありかを忘れる。ラジオの夢は、自分の下宿で海賊FMラジオをすることである程度実現した。電波を飛ばす機械、これが問題で、アンテナもそうですが違法な上に、どれだけ飛ばせるかが問題。この機械を見つけ出し、なんとかクリアしその後、僕は引退して就職して、その夢はまだどこかでくすぶる。で、その機械をまた、購入するのである。しかし、仕事が忙しくなり、引越しを続け、ダンボールのまま広島にゆき、四国にゆき、転々とし、今の嫁さんとであい、結婚。結婚して引越しするときに、ガラクタとして処分された。サンスイのアンプも学生のとき、ローンを組んでかった、あの名機もこのアンプのSWを入れるたびに下宿の電燈が消えそうになることをおもいだすステレオもFMトランスミッターも粗大ごみにゆき。ああ、とため息を漏らすぼく、夢よさようなら。といいながら、また深夜にこういうことをしている。懲りないおっさん、それが僕です。おやすみ、ここ
2009.07.30
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オフコース 愛の唄当時、カーペンターズが人気ぜつだい。この歌をカーペンターズに歌ってもらおうとデモテープを米国まで送付。しかし、返事はなかった。のちに、カレンなきあと、兄に会う機会があり、「あの歌はいい歌だったよ」といわれたらしい。切ないハーモニカがはじまる、このハーモニカ、誰か切ないやつはいないか、武藤氏は考える。もう、あいつしかない。ビブラートもすくなく、ストレートな音をすこし響かせこの歌のイメージを決定付けて印象を感じさせる すぎゆくは若い日々♪この歌詞がよく20代にでてくるとおもう。 永遠の命も名誉もいらない 貴方に会えてことそれだけでいい 歩き慣れた道を今一人で行けば めぐりくる季節にも懐かしいにおいがして この歌が「愛」をテーマに曲作りをおこなうオフコースの原点のような気がします、なによりも、松尾さんとのであいは武藤さんが導いたものでジャネットの活動で売れなくてアルバイトで食いつないでいた松尾さんを「ハーモニカふけるか?」の一言で完成したようなもの。
2009.07.30
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アンジェラの「手紙 拝啓15の君へ」この歌は本当にいい歌だな。アキはなんでか、関西弁なんだろうか、(徳島らしい)この歌を聴くといつも泣けてくるな、15歳の子供たちがおいおい、泣いているのをみると、つられて48にもなるぼくは泣いてしまう。心の響くものがあるのだろう、拓郎が今、詩をかけなくて、こまっていて、たとえば、90年後半からでてきた、グレイの歌はいいんだろうけどその歌のどこがいいのか、わからない、否定するのでなく。そのフレーズに弾かれる言葉はなんであるか、もしくは、自分のこころにひびかないのはなんであるか、そこが、とても、くやしい、というわけだ。小田さんも同じ様なことをかなり前に言っていてはやる歌は言葉のアンテナにひっかかる、しかし、さださんは、先日の佐野さんの番組で流行はおうと、色あせて10年後歌えないものになるからともいっていた、アンジエラのこの歌は、15歳の多感な思春期の心のゆれを表現しているのである、異質なる自分との対話。自分探しのたび、これが原点であり、原動力となる。拓郎は鹿児島で生まれ別けあって、広島に子供の頃引っ越す。鹿児島は独自性が強いとちであり、言葉も難解。広島も独自な部分が強く、被爆のとち、その中で異質なる拓郎は自分との対話をはじめ、あの声を神様からいただき、いろいろな歌を完成させてゆく。アンジェラもハーフであり、アメリカと日本との間で自分というものを異質なる物へと感じ、創作できる自分ができたのだとおもう。ぼくにバイトの女の子がずっと前に「コブクロの歌がいいですよ、気に入りますよ!」といってくれた、でも、コブクロの歌は、ぜんぜん、心に来ないのである。馬場さんの歌はぐっときますが、こないのです。なんで、あの歌がはやるのか?理解できないものがたくさんあります。その歌をはじめからおわりまで、きちんと、拝聴するひとはすくない。ラジオから流れた、一つの言葉や文章に、耳どまりして、それから、何度も聞くたびに、心に響き、もっと、聞きたいとおもう、そして、その人の声であるなら、いろんなものを聞きたいと拝聴するんだね。15の君へもテレビのPVを見ていても感動しなかったのです、しかし、中学生の子供たちが真剣に合唱し、泣いて、そういうリアルな光景を見て、歌詞が燦然と輝き、心のひだにジャストミートしたのです。なかなか、こういうのはないし、もう既に昨年の話しだし。馬場さんの歌がぐっとくるのは、やはり、彼の中のリアルさを感じるのである。一度はデビューし、だめになり、またインデイx-ズからはじめラジオのDJに発掘され火がついて、人気が出てくる、彼を見ていると、ほんとうに勇気が出るのである。コムロ君とはえらい違いなんである。アリスもぜんぜん売れなくて、佐竹さんの「いまはもうだれも」のカバーで火がつき、これで、彼らはきずくんだね、この手のアレンジと歌で手ごたえを、それからみんな注目し、つぎからつぎへと売れる。彼らはこだわらず、いろんなひとからの歌詞の提供を受けアリスとして売る、まあ、歌謡的要素もかなりあるが、それではおやすみ。ここ【CD】手紙~拝啓 十五の君へ/アンジェラ・アキ アンジエラ・アキ送料無料!!【DVD】アンジェラ・アキ My Keys 2008 in 武道館&大阪城ホール/アンジェラ・アキ アンジエラ・アキ送料無料!!【CD】ANSWER/アンジェラ・アキ アンジエラ・アキ
2009.07.29
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さっき。深夜テレビを見ていたら東京にだい地震が来るアニメをやっていた、ほんの数分しかみていないが、お台場のフジテレビに取り残された人のドラマらしい、が、なんとも言いがたい気持ちになった、阪神大震災を経験している神戸市民としては、「そんなもんじゃあないよ」お笑いの連中がドリフを賛美し、神のようにたたえていた。まあ、僕も好きだったが、その価値観というもの、肯定と否定。僕らが見ていたころは、日本PTA何とか協会のひとびとが何度もクレームをつけ「食べ物を大事にしない」「下品」「失礼なことが多すぎる」と、否定されまくるものであった。見てはいけない、おばかの番組であるが、ぼくは大好きで笑いこけていた。で、先日、YOUTUBEの中島みゆきのオールナイトでのこと、最後の葉書で、「ブスだといじめられてる、目の前で、ゲー、とやられる」という相談があった、僕はピンときた、ドリフのコントである。ドリフでも研ナオコあたりがでてきて、ゲーというものをやっていた。子供ながら笑う、ぼくも実はやったことがある。複雑である。ぼくも罪を犯した、一方で、ラジオを聴きながら女の子の気持ちもわかる。これらは否定すべきことである。差別や偏見が横行していたあの時代、人を批判することで自分を保持しようとした、ラジオのぬかるみの世界という番組は、掘り下げていろんな話をほとんど偏見でやっていた、そういう中、つるべがよく書けていたのが「泣き虫ろぽぽ」や泉谷の歌や、みゆきの世情とか、コアなフォークをつるべの選曲でかけていた。弱者というか、悩みおおきものとか人間はどうも人には悩みや弱みを隠すのに、それらを否定しつつ自分の中の優位性を見出したい、そこが心理的に偏見や差別の思想に繋がる。今の時代がどうも価値観の喪失をおもうのだが人の心情はあの時代より余計に深刻になっているような気がする、自殺者の急増がそのものだ、ぼくもつらくてしんどくて、嫌なことばかりで「死にたい」とか、ふっとおもうかどうか自問すると、まったくないと、思うことはない、否定も肯定もしない。おそらくこの感情は脳における「病原体」のようの存在し自己否定の加算がおき始め、判断能力を喪失する。あの頃の音楽とラジオは本当に社会的役割を果たしていた。おわり。
2009.07.28
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いい時代だった、ひとがたくさんいる、演技もすばらしい。ここ
2009.07.28
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旅は長く遠く 肩のに重く時の堪えかねて 涙をふけば胸の奥に熱く 何かがさわいだあの日とめどなく あふれた夢さなつかしい人が はるかな日々が時の流れこえて ほら めぐる旅路国鉄100年記念のドラマの主題歌国鉄が好きでした。ここユニバーサルJ 小椋佳/ゴールデン☆ベスト
2009.07.28
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こんばんわ、みなさん、いつまで梅雨やねん、とおもいつつ、大雨土砂崩れなどの災害で亡くなられて人にご冥福をお祈りします。人間、いつ死ぬかわからない。そう思う。僕の友人が交通事故で死んだ、20歳のとき。もう、かなりまえになるが、この話も何回もしているがあの時も衝撃もかなりであった。しかし、最近、思うことは、加害者の大学生のことである。実はそいつは僕と同じ京都産業大学で野球のセレクトではいった、年はいくつかわからないが、おそらく同じような年で、年末のお歳暮のトラックの運転をしていた。そう、その日はクリスマス慰撫。4時45分。夕暮れの北大路、出会い頭にバイクとソイツノトラック。バイト同士であった。僕が知らせを受けて堀川病院にゆくと、遺体安置所からエレベーターで葬儀屋のひとが寝台車に乗せてゆく寸前。僕は頭が真っ白になり、階段で泣き崩れ、卒倒してしまった。今でも忘れない光景、廊下には下宿のメンバー、と少しはなれて頭をうなだれる男、とその母親らしきひと。数秒であるがそちらを見て、母とその人は頭wさげていた、死んだ友人のことをずっと考えてきたこの30年ちかく。一番苦しんだのは、その加害者だ、と最近思い始めた。生きることは楽しく、おもしろく、ということばかりでない、嫌なこともどうしようもないこともある。おそらく、学校を退学され、交通刑務所に服役し、その後の人生はどうなっただろうか、僕がもしそうなっていればどういう感情でいきてゆくことだろう。僕が大学生のとき新大阪で初老に人々と仕事をしていた、戦争経験者である彼らは、ぼくにたまに戦争のことをいう、夜に酔って、「オレは人を殺したことがあるんや!」と言うのである。たまらない顔をして、ぼくはまたか、とおもいつつ、戦争が終わって僕が生まれて、僕に言われてもな、と反応にこまった、ことあるごとに戦争がどうのこうの、そのときはそう思った、しかし、あの戦争で人を殺すことを公認されていても、心の傷は墓場までもってゆくのだろう。僕の友人を過失致死させたそいつも、たまらない人生をおくったのであろうか、福井の友人の家に何度もいった、いろいろ、そのお父さんと話した、そのお父さんは実は自分の父をひき逃げで亡くしている、犯人はわからず。親を亡くし、子を同じように亡くし、そのつらさはどれほどのものかはかりしれない。今日、ふと思い出した、加害者のあいつが幸せな人生を送ることが出来ていればな、とおもった、みんな、おまえを許している。さだまさしのすきな、死んだあいつは、夜中に下手なギターで歌っていた。ここ
2009.07.27
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この歌をリクエストしたら、ribon15さんがUPしてくれました、ヤンタン、よくきいてた。ここいつだって、しくじるばかり恋人もできないろぽぽだけど、きみはそのままが背伸びしないで素敵だよね、ろぽぽ元気をおだし。ザ・ムッシュ/さよならコンサート(ライブ)山本雄二、徳永章、土橋広市の3人のフォークグループ。山本はラジオ番組「ヤンタン」のDJとしても人気があった。1975年の大阪厚生年金ホールのライブを最後に解散。
2009.07.27
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(青春は)まるで映画のように 杉田二郎この歌もいいいです、ジローさんは、どうしてもロングヘアーにいめーじがあります
2009.07.27
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1971年の音楽の歴史の作品。ここコックンさんの作品だった涙は明日に
2009.07.27
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この歌は拓郎もカバー彼の歌はほんとうのところ現実味がある。こここっちも
2009.07.26
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拓郎物語見ればわかる
2009.07.26
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吉田拓郎 大いなるあなたのこころにささげます
2009.07.26
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明日に向かってはしれ、言葉をつくろうまえに1985年のつまごい。ゆけなかった君にささげる。ここ観衆が興味深いどこか、なつかしいしみんな、どこか、ちがう。おなじでない
2009.07.26
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はい、こんばんわ、選挙公示してないのにもう、がんがんうるさい、今日この頃。バッドアナウンスは繰り返す同じこと。消費税がどうのこうの。幸福なんとかとうは消費税をなくすという、9条も廃止し、臨戦態勢をひくとのこと。で、先日三宮の駅まで街頭演説をほんの少し聴いたが、まったく、リアル感がない。説得するものがない。ミンスも同じだが、公明は一番の選挙上手ですので、うまい。ミンスもだいぶまえ、ぽっぽさんがきて街頭演説をしていたがやはり、うまい、これも路上ライブと同じだね。でも、どうしたって、やつら自分のために議員になりたいやつらだから、欲が見えてるね。ぽっぽさんの財産はおそろしいほどのものらしい、お坊ちゃま麻生さんのものとくらべものにならないぐらい。だから、余計、リアル感がない。小沢君が、公明の大田代表の選挙区に刺客を送り込む。それも、参議院の議員ではないか、どういうこと?おかしくない?この手法は汚すぎます、まあ、小泉さんのときもやってましたが、このやり方で兵庫区8区もあの、元長野知事のおかたがでるそうだ、このお方も参議院である、参議院を馬鹿にしてるのではないか、小手先の戦いは本質の問題をすり替え選挙の意義をもたない。まあ、これらで学会の人々が激怒し選挙違反したり、無理な行動をすることが予測される。この人たちは素直で従順だから、やれといわれればなんでもやる。自公政権は危うい付き合いの中で成立しているので、温度差がある、本当の「投票」をするならば、お願いしますではだめだ、だから、いい加減なことばかりする人が議員になるのだ。演説や選挙カーはいらない、ひとりずつ、国民の意見、状態をつぶさにみること、逆に話を聞くことが一番の選挙運動であるとおもう。くだらない、名前の連呼ほど、くそ暑い夏の環境破壊の他ならない。ミンスが政権をとっても、問題は解決しないだろう、難問奇問にねを上げるかもしれない、ぼくは麻生さんこそが一番よくやっているとおもう、まえの二人の尻拭いをし、馬鹿な大臣しか人材はいないし、麻生おろしとか、言い出すやつらにもめけず、まあ、様子をみるしかないか、選挙違反はばんばん、取り締まりねがいます。
2009.07.25
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拓郎の歌といえば、北海道のユースホステルで夜にミーテイングがありそこで歌う「落陽」を思い出す。積丹半島の先にある、カモイ岬の海に沈む日本海の夕陽は壮大であった。これは大学四年のとき、北海道一人旅で最後の落陽であった。当時のたび日記が出てきたので1983年8月15日月曜日晴れ旅で出会った人60人目の人が渋谷区の神主の息子広瀬君、61人目が千葉県市川にすむ本田要一郎くんであった、この日は富良野ホワイトユースホステルの宿泊。昨日、歩いて、北の国からの撮影場所「ろくごう」に歩いてゆくぼくをバイクで見つけ夜、同じユースであったので話した。ろくごうは僕の中の北の国からのイメージとは裏腹に観光地化されていてとても、残念であった。お金がなくなり、銀行もやすみ。ユースでは先払いがルールだが、後払いでお願いし、朝一番で拓銀にゆき。二泊分5000円支払う。広瀬君と本田君は白金温泉にいくといい、駅でわかれ国鉄富良野駅でラベンダーを買う。旭川までローカル線に乗る。ローカル線のコンパートメントには旭川の地元の女の子と一緒になり、北海道のユースホステルはどこがいいか?語る。11時35分旭川駅下車。11時45分 急行 宗谷 に乗る。この急行はこのたびで二回目であった。宗谷のコンパートメント(要するに真向かいで座る席)に居合わせた男の人と話をする、いかにも山おとこ、という人、大雪山系に二ヶ月もこもっていたという彼は29歳であった。植物の研究をしていた。線路から何回も見える黄色の花がなんであるか?たずねた。「あれはね、帰化ものでオオハンゴウソウというんだよ、夏から秋に咲くんだ。」物知りだった。大学のころに日本一周を徒歩でしたことがある、といっていた。札幌には13時43分到着。昔の札幌駅に駅前にはライダーがずらりといて、野宿していた。13時55分特急北海二号にのる、ワイド周遊券では道内の特急の自由席は自由に何回も乗れるのである。それで余市まで向かう。北海道を旅しながら就職はどうするか?みんな活動しているのに遊んでいる自分をいけないなーとおもったりしていた。その後、そのユースについて落陽をみるのですが、また好評であれば、旅の思い出をかたります。千春に合いたかったがあえずでした。
2009.07.24
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所属レコード会社は23日、慢性気管支炎が完治しないため、開催準備をしていた残る2公演(25日の静岡・つま恋、8月3日の東京・NHKホール)を中止すると発表した。 吉田さんは6月から「最後の全国ツアー」を始めたが、7月8日の大阪公演以降の4公演を中止していた。読売そうか、最後のツアーもなくなったのか。拓郎。きにすんな!そのうちできるさ
2009.07.23
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「全国学校音楽コンクール・中学校の部」より全国ブロックを勝ち抜いた中学生たちによる大合唱。 この合唱を舞台裏で聴いていたアンジェラ・アキは号泣していまし た。 泣きますよ感動です、ここ
2009.07.23
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オフコース解散のとき、NEXTのLPの中で一番好きな歌であった、1982年から26年あと、ヤスはそういう気持ちで歌っているのだろうかしぶい、の一言。ここいいことあるさ/鈴木康博[CD]【送料無料選択可!】Yasuhiro Suzuki Anniversary Live 1970-2008 / 鈴木康博
2009.07.23
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30年ぶりに聞くとまた違う感じ。ライブ音源です。ここ
2009.07.23
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活動を休止したんだろうか、ソングフォ-メモリーズここソングフォーメモリーズ コンサート2009 渋谷 C.C.Lemonホール
2009.07.23
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この歌も隠れ名曲。ここ
2009.07.23
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このユーミンの歌もいいのです。セピアトーンの曲はユーミンの得意分野。荒井由美がいいのです。ここ冷たい雨卒業写真ハイ・ファイ・セット / ベスト・オブ・ベストハイ・ファイ・セット スーパー・ベスト(初回生産限定)《送料無料》ハイ・ファイ・セット GIFT BOX(CD)
2009.07.23
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Hi-Fi SET/GOLDEN☆BEST/ハイ・ファイ・セット(ハイファイセット)風の街1977年、原付の宣伝でした。大川さんいまどこに
2009.07.23
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はい。こんばんわ、大昔深夜放送ラジオが好きで、毎晩毎晩、遅くまで三時四時まで聞いていました、あのコロに聴いた音楽は忘れることが出来ない。その歌を再び今聞くと、あのときの情景がざーっと、現れまるで、頭の中がタイムスリップしたような感じになる、あのとき悩んでいたことや夢を持っていたことや、いろんなコンプレックスやラジオから流れるDJの言葉や音楽のことばに励まされ生きてきた、明日また、そういう感じで、いつしか、ラジオも聞かなくなり、流行の歌を聴くようになり、レコードも聴かなくなり、CDが出てきて、車を買って車でしか、音楽を聴かなくなり、まあ、彼女を乗せてさだまさしの音楽を掛けるのはどうもな、ということになりそれなりのかっこいい音楽を追い求めるようになったのだ、しかし、残されたレコードやテープはあのときのまま時間が停止して、ずっと、そこで何回も若い声で聞かせてくれる。1975年のあたりはそういう音楽が群がり起こり、さまざまなアーチストが出てきて、消えてゆく。僕たちから見れば、「消えてゆく」のであるが、実はそうでなく。実在し、演奏し続けているのだ、永井さんも何回も何回もあの「道標のないたびlを歌い10年目20年目そして31年目を向かえ、人々にめせっじーを送るのだ。イルカは「なごり雪」を懐かしいとはおもわない、自分の体の一部であると言っていた、自分が何千回と歌い、でもその前にいる人は生まれて初めて聞くかもしれないと・・・斉藤哲夫さんの顔を見て感じた同じものをこういう人たちはもっている、達観したようなもの、売れるとか、売れないとか、そういう次元でなくライフワークとして自営業として音楽をやってきたのであろう。ベストテンとかそういう番組は関係ない、ただただ 風に吹かれてゆこう というかんじ。
2009.07.22
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嵯峨野の表現をよく出来た歌です。タンポポ宮村保志子(みやむら ほしこ、1954年6月15日 - )、宮村三代(みやむら みつよ、1956年1月25日 - )による姉妹フォークデュオ。1975年7月の「嵯峨野さやさや」(伊藤アキラ・作詞、小林亜星・作曲、京都レコード)で有名。この曲は株式会社愛染蔵(愛ZECRA)のCMソングとしても使われた。他にはイーグルスのカバー「ホテル・カリフォルニア」(なかにし礼の日本語詞)が有名である。後には、名前に柔らかさを出す為に、平仮名の「たんぽぽ」とし、宮村保志子が「宮村星子」としてソロで歌うこともあった。 1981年引退。タンポポは、タンポポの花が生命力の強い花である事から、末永く活動してほしいという願いを込めて京都レコード社長が命名したグループ名である。縦縞のシャツを着て髪結は、当時同じ京都レコードにいた河島英五の歌の提供である。現在CDは出ているのだろうか?
2009.07.22
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よるヒットにでてました、ここルカさんのコピーがすごい、ここルカ、注目。がんばれ!
2009.07.22
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この歌も懐かしいですここ
2009.07.22
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パックインを聞いてました。そう、みんな、神田川を気取りたかった。ここ阿部敏郎(1953年10月27日 -)は、静岡県生まれのシンガーソングライター、ラジオパーソナリティ。1974年にフォークグループくもと空のメンバーとしてボーカルとギターの他、ピアノやサックスなども担当。解散後はシンガーソングライターとしてソロ活動を開始。作詞家、作曲家としてもあおい輝彦、秋吉久美子、アグネス・チャン、おばたあいこ、清水由貴子、太川陽介、松平健、松本ちえこ、芳本美代子、レモンパイらに楽曲を提供、川崎製鉄のCMソングなどの作曲もしている。後にラジオのパーソナリティーや俳優としても地道な活動を行い、一時芸能活動を中断したが、2001年に復帰した。現在は妻で歌手の惣領智子が経営する飲食店など、沖縄県那覇市を中心にライブ活動やラジオのパーソナリティとして活動をしている。
2009.07.22
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永井 龍雲(ながい りゅううん、1957年11月4日 - )は福岡県豊津町出身のシンガーソングライター。福岡県立豊津高等学校卒業。《送料無料》永井龍雲/龍雲ベスト2002 25色の肖像(CD)(CD)永井龍雲/夢は眠っていないか?中学時代より、フォーク愛好会を作り音楽活動を開始。 高校卒業後、大学受験に挑むが、挑戦した4つの大学受験全てに失敗し、本格的にミュージシャンを目指すこととなった。1978年キャニオンレコードより「想い」でデビュー。1979年5枚目のシングル『道標(しるべ)ない旅』がCMソング効果もありスマッシュヒット。1989年五木ひろしの『暖簾』の作詞で第22回日本作詞大賞「優秀作品賞」受賞。1992年日本コロムビアに移籍。有名なビートたけしのオールナイトニッポン木曜1部後の2部の担当をしていた。 道標ない旅 昨年の30周年記念ライブ問わず語り彼の歌は純粋なひたむきさ問わずガタリもすきです。
2009.07.22
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別涙/因幡晃[CD]「わかって下さい」わかって下さい/因幡晃[CD]秋田県大館市出身のシンガーソングライターである。所属事務所はアップフロントエージェンシー。秋田県立大館工業高等学校卒業後、鉱山技師として就職。1975年、第10回ヤマハポピュラーソングコンテストに『わかって下さい』で出場し最優秀曲賞を受賞。秋田のひとはすごいひとがおおいね、松尾さん別涙このうたもいいのだ、白いかばんからはじまり深夜放送でこの歌を聴くと、さみしくなったもの
2009.07.22
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本日は暇だった、景気がどうのこうの、というけれど、底なしの不景気。これにはわけがある。夜中に、マックのCMをばんばんしてるのをみてなぜかとおもいつつ、24時間営業をスルーのみでしていて、店長がろくに残業手当もつけられず、訴訟問題となった数年前。経済資本主義で、自営業、商店などは戦略上弱いものになる、思い出すのが、昭和58年の秋、就職活動のとき、今はない、大阪ガスにあったOGロイヤルと、西宮鳴尾にあったすかいらーくのでぽどちらも内定もらい、ロイヤルに断ると、2時間ぐらい閉じこめられてぐたぐたいわれた、内定式ではくしくも隣の部屋が関西マックの内定式。最後までマックをけって、らーくに入ったやつが入り口で「これで人生がきまるがいいのか?」といわれていた。マニュアルとチェーンストア理論とか、散々頭に洗脳されて兵士になって、店のマシーンを化し、死に物狂いで働いた、夏といえば、商勢期、遊んでいる場合はない。このテーマでもえいえん、話がありますのでまたの機会を、おやすみ。シグナルのメンバーはすみでさんは、ギターリストとして活躍あさみあきおさんは、嫁さんの堀江美津子さんの会社の仕事、それぞれ、活躍されています。すみでさんが、大丸の電気売り場でいた、あさみさんいさそわれて、音楽の道へ。いろんな人生があるのだ、まさしく、シグナルのように
2009.07.21
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バズ、オフコースと並ぶフォークDUOジョイントコンサートもしましたねあなたにささげます、。1972ver.憧れの車でした。いい時代です、みんな、こういう車を持つ、夢があった。2007ver.愛と風のように
2009.07.21
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あなたにささげます。どうぞ!ここ
2009.07.21
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「八月の空へ翔べ」NSPN.S.P/シャツのほころび 涙のかけら(CD)N.S.P/明日によせて(CD)
2009.07.21
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NSPの世界は独特の「詩」の風景画であるとおもう。やっぱ、この人たちも東北のイメージであるのだ、ココロの原風景を描くのが得意であり、今でも数多くのファンをもつ。7/1が天野さんの命日であった。ここ
2009.07.21
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NSPは、岩手県出身の三人組の歌手。 一関工業高等専門学校の同級生であった三人が在学中の1972年に結成した。アマチュア時代にはニュー・サディスティック・ピンク(New Sadistic Pink)として、当初はロックを中心に活動していた。しかしフォーク調の曲でデビューするのにこの名前が似合わないという理由で、頭文字だけ取り出したNSP(N.S.P )というアルファベット三文字のバンド名に変更された。高専在学中の1973年に第5回ヤマハポピュラーソングコンテストに於いて楽曲「あせ」でニッポン放送賞を受賞し、同年6月「さようなら」でデビュー。 翌年、高専を卒業を機に上京する。その後74年に「夕暮れ時はさびしそう」がオリコン11位の大ヒットに、同年のアルバム「N.S.Pひとやすみ」はオリコン4位のヒットを記録。その後も、76年「赤い糸の伝説」がヒットし、叙情派フォークを代表するグループとなる。1980年代に入りメンバーそれぞれが作曲、プロデュースなどソロ活動が多くなり、1985年には中村が脱退する。澤近泰輔、深浦昭彦を加えて活動するも1987年に平賀脱退を機に、活動を停止。天野滋はソロ活動を開始。 2002年にオリジナルメンバーで再結成。1月26日、日本青年館大ホールで復活後初コンサート。チケットは1時間で完売した。2005年2月に19年ぶりの新曲シングル「水のせいだったんです」、アルバム「Radio Days」を発売したが、同年7月1日午後7時8分、リーダーの天野滋が療養中の病院にて脳内出血で死去した。「ぼくの夏休み」NSP
2009.07.21
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財政が危機的水準に達する中、8月の総選挙では消費税を含む政策財源の問題が、政権選択の大きな焦点となりそうだ。自民、民主とも「子育て支援」「高速道路料金減免」など似た政策を掲げるが、時限的な施策が並ぶ自民に対し、民主の施策はほとんどが恒久措置だ。裏付けとなる財源確保をめぐっても、両党の立場は大きく異なる。 民主がマニフェスト(政権公約)の目玉に掲げるのが、中学生以下の子ども1人当たり月額2万6000円を支給する「子ども手当」の創設だ。所要額は年5兆3000億円と試算。当初2年間は半額、2012年度に全額実施を計画する。財源に充当するため所得税の配偶者控除と扶養控除を廃止する方針で、子どものいない世帯では実質増税となる。 また、民主は高速道路料金の無料化やガソリン税(揮発油税など)の暫定税率の廃止も政権公約に盛り込む。高速道路各社が料金収入などで返済するとしてきた約40兆円の債務は、国が承継する。これまで利用者負担が原則だった高速道路債務の返済に、税金が投入される格好となる。 民主の主要政策にかかる費用は計16兆8000億円。大半は公共事業の大幅削減を含む予算の無駄の排除や、特別会計の剰余金など「埋蔵金」で手当てするとしている。消費税率引き上げについては「まずは徹底的に行政改革をする」(鳩山由紀夫代表)とし、4年間は議論しない考えだ。 これに対し自民は、消費税に関し景気回復後に税率を引き上げ、少子高齢化に対応する社会保障の充実に全額を充てるとの立場。民主の財源論を「幻想や空想で遊んでいる」(与謝野馨財務相)などと痛烈に批判する。 jijtushinn.絵空事ばかりいうな、ミンスはもうすこしましな、マニフェストできんのか本当の地方の経済の建て直ししないと、やばいよ、この国は、投資家ばかりいらないんだよ、産業をなんとかすれば、解決するんだよ
2009.07.21
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こんばんわ、たくさんの訪問される人々。本日、早速、衆院候補のミンスのあの人が街頭演説にたった。そう、かなりまえ、月見ハンバーグ定食を食べて帰った、あのかた。しかし、だれも立ち止まり聞こうともしません、まったく、すどおりです。このお方。選挙運動を昨年の夏まえから準備をし、こつこととやったいられる。いつも、不思議なのはその期間、どうやって、飯を食い家族を養うのか?供託金300万おさめなあかんし、まえのみんすの議員が落選した事務所をかりて、これも一年以上借りてる、月10万としても敷金こみで300万は使ってるだろう。ぼくは毎日店を開けて閉めてそれでも生活は苦しい。あんなに時間と金のあるやつは、さぞかし、裕福であろう。ぼくはいつも街頭演説を見ていると、路上ライブのコブクロの言葉を思い出す、ワンフレーズで、待ちゆく人の足を止めさせる。この候補者は演説が下手である、キーワードがない、ずれてる、。「消費税」のことばかり、言っている。それと、ぼくはいつもおもうのだが、「人の批判ばかりするやつ」「交換条件のようなことをいうやつ」これはだめだ、いま、麻生さんのことを批判したり降ろそうとしたり、そういうやつらはだめだ、腐敗している。それから、何とか実現とう。という女の人のポスターのあれ。あれは、キーワードを北朝鮮のミサイルにしている。これも、ぼくは納得できないものである。無駄でうるさい程度の低い選挙が始まりますが、国民はどれほどのことを理解しているのか、本当に話を聞いているのか行く先が不明。50%のひとびとはテレビのニュースを鵜呑みにしいい加減な判断で投票するだろう、それが民主主義だからね。熱い外を弁当を配達していて、交差点で立ち止まるたびに見る、あの選挙ポスター。「なに、笑ってるの?」大空をバックに笑う、懇親の笑顔。ぼくは、それを見るたびに、怒りがこみ上げる。あのミンスの小沢のおっさんは、半分怒っていたが、あれでいいのだ、媚びるな!国民に!と、おもうのだが、国民はイメージでぼけているのでああ、いひとそうね、といれてしまう。ぼくはこの日本の廃頽は自民党と公明党の責任でもあるが民主党にも多い責任があるとおもう、党利党略にばかり国政を振り回し大義を忘れ、私利私欲に走り、政治資金には貪欲で、裏技得意に、本質を見ていない。国会こそ、リストラされるべきであります。
2009.07.20
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コックンさんの久々の訪問がありました。もう100万も超えているアクセス。すごすぎます。あんべさんのファンはねずよい。いろいろなアーチストがいて、商業主義の会社や市場原理があって、今の音楽業界はなんか、いまひとつしっくりこない。絢香の新曲はすばらしくいい。あの声もすばらしくいい。しかしだ、女性ボーカリストが山のようにいて、それぞれ特色があるんだけど、紅白三年もでていても、結婚とあの病のことがなけらば、注目して聞くことはなかったのかもしれない。なんか、売れるという現象は皮肉さも混じるのか。FMラジオから流れる音楽も指定曲は何度も流すので、いい歌ならいいけどあんまりすきでない歌はいやになる。ザードのあの人がなくなってCDがよく売れたり、マイケルが死んでCDが売れというのが、あんまり解せない。で、話変わるが、元春のあのテレビ、さださんがでていた、本当に、まっさんは詩人であるとおもった、「まほろば」の解説など「檸檬」も、ほんとうに歌としてでなく、文学としての作品で完成されているとおもうのである、汚い商業主義の音楽業界の中にあって、あのいそぎよさはなんだろうとおもうし。汚れのないココロは感服する。まさに、映画「長江」の失敗の産物だと、いつもおもうのである。あの失敗があるからこそ、3600回もコンサートを行い、完済したのである。売れなくても、今、マスコミから相手にされなくても大手のレーベルの契約がなくとも、いろんなすばらしいアーチストがいて、それを知らないだけだ、紹介する人も番組もないからな、ラジオもテレビもほんとつまらないと、おもう。カウントダウンとか、ベストなんとか、もういい加減無意味だときずくべき。それこそが今の音楽衰退を招いたのだ、
2009.07.19
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星の旅/あんべ光俊【送料無料選択可!】AMBE MITSUTOSHI Album Collection CD-Box 2 / あんべ光俊佐藤ちくぜんも好きな歌オフコースとのかかわりも多く。彼の作品はヤスの協力などあった・
2009.07.19
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【CD】あんべ光俊/NEW BEST 1500<2005/8/24>《送料無料》あんべ光俊/JALANの風(CD)あんべ 光俊(あんべ みつとし、1953年9月16日は、日本の男性シンガーソングライター、音楽プロデューサー。岩手県釜石市出身。宮城県仙台市在住。本名:安部 光俊。岩手県立釜石南高等学校(現・岩手県立釜石高等学校)卒。早稲田大学社会科学部卒。1974年(昭和49年)、早稲田大学在学中にクラスメートと四人組のグループ「飛行船」を結成し、「しょうよう歌」でデビューするが、1977年(昭和52年)に解散。1978年(昭和53年)に東芝EMIより「風は知っている」でソロとしてデビューする。「遠野物語」「星の旅」「イーハトーヴの風」などの代表曲のほかに、岩手県立大学学生歌「風のモント」や、坂本九、オフコース、時任三郎などへ作品提供をしている。また、萩荘小学校の校歌も作っている。また、岩手県の「銀河系いわて大使」(現在は「希望王国いわて文化大使」に改称)の1人であるとともに、岩手県遠野市の「民話のふるさと遠野大使」、沖縄県那覇市の観光大使でもあるHPkoko
2009.07.19
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野外でドンちゃんさわぎみたいな、コンサートしたいな。小田さんが、こうつぶやく。前年のことである。当初、日比谷野外がいいという話であったが、取れるのに時間がかかる、夏休みの最初の土日を抑えるということで、この本来はテニスコートの田園コロシアム が押さえられた。五月、オフコースカンパニーも社員の入れ替えなどあり、新しいスタッフで取り組む大きな仕事となる、果たして、二日間も満杯にできるのだろうか、メンバーも不安を抱えつつ、オフコースカンパニー、ミュージカル・ステーション、メロディハウスのスタッフからプロジェクトチームを作り、実現まであわただしく動く。予算を組み、チケット代を換算し収益を考え6/3の前売り販売の告知を行うまでにできた。前売りに徹夜組みも現れチケット両日即完売。何よりも驚いたのはオフコースのメンバー。その勢いのすごさにとまどう。小田さんがツアーで何度も四国のあの野外ステージを利用しているイメージはこの田コロの二日目の夕日の「一人で生きて・・」のイメージだろうと僕は推測する。田コロのチケットも凝ったものとなった、予算を割いてカラーで切符のイメージ。田コロの話は明日も続く。
2009.07.18
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高校三年のとき、夏休み、日本海へ泳ぎに行った。浜坂ということろで、宿はやすい、ユースホステル、ここもごたぶんにもれず、営業を休止している、全国の有名なYHは閉鎖休止になっている。僕の学校は工業高校で、ほとんどのものが就職。だから、最後の夏休み、三人でいった、海岸にゆくと、若者がたくさん。僕と友人Eは乗り気だが、友人Iがとても、女性恐怖症で逃げる。そう、なんとか、女の子と友達になりたい。見渡せ度女の子はいるが、六人だったり、4人だったり、うまく合わない数字。どうやって、声を掛けるか?なんか、飲みにゆこう?それも、なんだかへん?友人が、フリスビーをしよう、作戦を考案。女の子二人をみつけ、誘う、しかし、砂はまでするのは結構つかれる、。四人でやっていると、どんどん海のほうにフリスビーが飛び、泳ぎながらするしまつ、延々と、会話もなくフリスビーをする四人。もう、疲れ果ててきた、「おい!いつまでするねん!」友人に叫ぶと、「もう、わたしら、やめるわ!ばーいばい!」と去ってゆく。友人はあわてて「かきごおりでもたべにゆこう!」とひつこく誘うが「おなかがひえるから、ええわ・・・。」と帰っていった、失敗であった、それから友人は何回も何回もフリスビーをもちナンパするが、難破であった。ぼくはふと、砂浜をみると、忘れ去れた女性恐怖症のI、日焼けし、真っ黒のなっていた。もう時計を見ると、3時近い。ああ、もうすぐ帰る時間か・・・。持てない男は無惨だな、そのとき、斜め後ろにいた女性が僕たちに声を掛けた「写真とってくれませんか?」ぼくは、驚いて振り向くと、黒いビキニのお嬢さんが二人いた、眩しくてみえないのだ、ぼくは、カメラのシャッターをとり、「どこからきたんですか?」とおそるおそる、訪ねてみた。「大阪です。」良く聞くと、おなじところに泊まっていた、が、僕たちとすれ違い。そこで会話がとまり、深い沈黙がながれ、波の音が聞こえてきた。友人が「もっと、話せよ!」とつつく、ぼくは「年上にきまってるやろ。あかんあかん」と、そこでサングラスの男が現れた、「あっちで、バーベキューやってるんだけど、こない?」戸惑う女の子。「どこからきたの?」「大阪です、」「大学生?」「ええ、高校生です」ぼくと、友人はその瞬間、見合わせた。帰りの急行で、反省会、あの時どう見てもOLか、大学生にしか見えないな、あの黒いビキニのナイスバディはどっちにしても、振られていたんだろうけど、あのときは、同世代の女の子が私服を着たりすると年上に見えてしまうのだ、ビキニなんてもなおさらだ、中学のスクール水着以外見る機会もないし。子供だったのだ、あの黒いビキニの大阪の女の子もかなりの年月を経過し、どうしていることやら・・。
2009.07.17
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拓郎の79年12/31のライブみつけた、70年代がおわろうとしていた。制服1975/6/1
2009.07.16
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青春の影はいったい別れのうたじゃないのか?結論がよくわからない。ここ財津和夫は、音楽の道を直走りに走っていた時代のメンバーと同窓会紀行 「それぞれの歌の別れ ~財津和夫と仲間たち~」 (1994.12.30 NHK総合)という番組で再会を果たし、財津の過去の仲間への思いとわだかまり、そして過去の仲間が当時の心情と財津への思いを腹を割り同番組で語り合っていた。アマチュア期とのメンバーで最初に出した「私の小さな人生」というレコードが出てから25年が経ち、財津は昔の仲間の本当の気持ちが知りたくなりこの番組に出演することになった。そして、故郷の福岡に帰郷し、再会を果たす。財津和夫は、高校時代からの親友である吉田彰と共にミュージシャンを目指していた。プロのミュージシャンを目指していた西南学院大学時代、キャンパス内のチャペルで末広信幸に出会う。美声を発する末広を見て財津は、すぐにスカウトをした。うまいプレイヤーを見つけるとすぐに自分のバンドに引き入れる財津は「バンド潰しの財津」と呼ばれていた。末広信幸は脱退後、音楽の世界と別れ15年間のサラリーマン生活をし、その後電気店を経営。そして、89年から新聞販売店に切り替えているという。 宗田慎二も財津に才能を買われ、他のバンドを脱退してチューリップに加入した仲間であった。宗田慎二は、現在福岡市内で録音スタジオを経営している。当時、宗田にはプロへの意志はなく普通に就職する事を希望していた。 しかし、4人は地元でたちまち人気になり、TV番組やライブハウスの活動、ラジオ番組などが増えていった。多忙な日々を過ごして4年生になるころには、ファンクラブが結成された。大学4年の冬、東京のレコード会社から声がかかり、プロデビューを目前としていた。 だがしかし、財津の野心とは裏腹に宗田慎二も末広信幸も心が揺らいでいた。東京でのレコーディングを終えて地元に戻ってきた後、宗田と末広から脱退の連絡を受ける。末広は、財津に「もう財津の敷いた線路の上には歩けないんだ」といわれる。財津も番組で当時を振り返って「うすうすは、そうなる(脱退する)のかなとかんじていた。」と語った。そして、25年後、財津は宗田と末広を当時一緒に活動をしていたライブハウス「照和」へ呼び出しそこで久々の3人だけのライブを行う。そこでアマチュア時代の代表曲「柱時計は10時半」を披露。これをきっかけに財津は、宗田と末広の今も残る音楽への熱い気持ちを感じ取っていた。そして、ライブ後に財津は、なぜ当時二人がチューリップを離れたかを聞き出す。財津は、プロへの野心が強かったあまり、他人の気持ちを推し量ることができなく二人を傷つけていたことに気がつく。財津がメンバーを傷つけたエピソードには、財津が他のバンドから末広を引き抜いた後、練習時に財津は末広に下手クソと罵り傷つけていた。末広にしてみれば他のバンドをすでに辞めてチューリップに来ているのに、ここでこのことを理由にチューリップを辞めるわけにもいかないのでとりあえず耐えたという。そして、練習する時は、財津のいない場所でやるよういつも警戒してたという。宗田と末広の辞めた理由の中に「財津の敷いた線路の上には歩けない」もひとつだったがそんな思い上がった人間(財津)と付き合いたくないという気持ちもあったという。けれども二人の中には財津には自分無しでやっていける才能があると当時から高く評価していることもカミングアウトした。そして、自分たちにとって財津のことが多少脱退する理由にも入っていたが一番の理由は、プロでやっていく実力が財津ほどなく将来への不安があったことを告げた。 しかし財津は、二人に当時自分は「生意気にもこれが私の考える最強メンバーだと思ってたのね。それで無しってなった時、手足をもぎ取られた感覚になったよ」と初めて思いを伝えた。 腹を割って話をした後、わだかまりも解け、その後3人は初めて一緒にレコーディングした曲「私の小さな人生」を宗田のスタジオで鑑賞し、男の友情を確かめあった。財津は、この話し合いをきっかけに「自分の中にあった嫌な部分がやっぱり振り返ってみてはっきりでてきたなと。すごく反省させられました」とコメント。をはじめ井上陽水、海援隊、甲斐バンドなど九州、特に福岡出身の多くのアーティストが出演していたことからしばしば“伝説の照和”と称される、ライブ・ステージを備えた喫茶店。所在地は福岡県中央区天神二丁目。チューリップが出演するようになったのはアマチュア期チューリップ(財津、吉田、宗田、末広)から。当初は大学のフォーク・サークルを中心に出演者を探していたが、チューリップは当時既にかなりの人気であったチューリップ加入前、姫野達也は「ライラック」、安部俊幸は「ハーズメン」として照和に出演していた。第二期チューリップのドラマーである伊藤薫も「リンドン」在籍時に照和に出演したことがある。その後メンバー2名が脱退してしまい(『魔法の黄色い靴 (アルバム)』収録の『あいつが去った日』はこの事件に触発されたものと思われる)と財津和夫は他のグループから引き抜くような形でメンバーを集め第一期メンバー(財津、吉田、安部、姫野、上田)を揃えるが練習場所がなかったため、照和を練習場所として使えるように交渉し、営業終了後の店内を使って深夜から朝まで猛練習を行うようになるのであった。第二期 (1980-1985) 財津和夫、安部俊幸、姫野達也、宮城伸一郎、伊藤薫 第三期 (1986-1989) 財津和夫、宮城伸一郎、丹野義昭、松本淳(1987年7月脱退)、高橋裕幸(1987年4月加入) 1989年解散ツアー時メンバー 財津和夫、宮城伸一郎、丹野義昭、高橋裕幸、安部俊幸(ゲスト)、姫野達也(ゲスト) 再結成(1997-2007)からのメンバー 財津和夫、安部俊幸、上田雅利、姫野達也、宮城伸一郎
2009.07.16
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この映像はかなり貴重です、車の女性はかたせ梨乃さんらしい。ここ【送料無料選択可!】君のために生れかわろう [期間限定価格盤] / チューリップ初のファン人気投票によるベスト・アルバム!チューリップ リクエスト ベスト★ベスト CD 12CD-1254(VICL-62380)(CD)チューリップ/魔法の黄色い靴
2009.07.16
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なぜか、LIPのレコードは買ったことがないオフコースファンの密かな抵抗であったが名曲はたくさんしっていたのだがここ悲しきレイン・トレイン姫野さんの声もよかったなあ
2009.07.16
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