まいかのあーだこーだ

まいかのあーだこーだ

2023.09.06
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朝ドラ「らんまん」の終盤で、
きっとまた丈之助が登場すると思うのだけど、
それはやっぱり、
シェイクスピア全集を完成させたときでしょうか?



牧野富太郎と坪内逍遥が同じ長屋に住んでいた、
…ってのは、まったくのフィクションだと思うけど、

長田育恵がそういう設定にした理由はいくつか考えられる。

両者が同時代の人物で、

長田育恵が坪内逍遥に詳しいってこともあるから、
《馬琴も絡めて万太郎&寿恵子&丈之助の話を描く》
というアイディアが、まずあったのでしょう。

…でも、それだけじゃないかもしれない!

最近になって知ったのだけど、
じつは文学研究者としての坪内逍遥は、
矢田部良吉の影響を受けていた可能性があるのよね。

だとすれば、
…丈之助は、田邊教授とも無関係ではない!
ってことです。



女子教育を批判した小説「くされ玉子」は、
坪内逍遥の門下である嵯峨の屋おむろの作品でした。


坪内が矢田部に批判的だった可能性も否定できない…
と思っていたのよね。

直接的に矢田部を攻撃したのは、
そのあとの須藤南翠の小説「濁世」のほうですが。


…ところが!

文学者としての坪内逍遥は、
むしろ矢田部良吉の後継者に位置づけられると言っていい。



矢田部良吉は1882年に、
外山正一や井上哲次郎とともに「新体詩抄」を発表しました。
これが日本で最初の近代詩集とされています。
このなかで矢田部は、
シェークスピアの「ハムレット」の一節も翻訳している。

その3年後に、
坪内逍遥は「小説神髄」で次のようなことを書いています。

>日本の短歌や長歌はいっときの感情しか表現できない。
>それに対して、西洋詩(ポエトリー)は、
>むしろ小説に似ていて「人世の情態」まで写すことができる。
>だからこそ、矢田部良吉らは『新体詩抄』を著したのだ。


実際の文章はこちら(抜粋です)↓
小説は美術なりといふ理由
我が国の短歌・長歌のたぐひは、いわゆる泰西の詩(ポエトリイ)と比ぶるときは、きはめて単純なるものなるから、わずかに一時の感情をばいひのべたるに止まる。ポエトリイは我が国の詩歌に似たるよりも、むしろ小説に似たるものにて、もっぱら人世の情態をば写しいだすを主とするものなり。我が短歌、長歌のたぐひは、いはゆる未開の世の詩歌といふべく、けっして文化の発暢せる現世の詩歌とはいふべからず。さればこそ過ぎにしころ外山、矢田部、井上の大人たちが、ここに遺憾を抱かれつつ『新体詩抄』一部をあらはし、世に公けにせられたりき。

坪内逍遥は、
矢田部良吉の導入した近代詩を、
自身の小説論の基礎に置いていたといえます。

つまり、
坪内逍遥の近代小説研究やシェイクスピア研究は、
矢田部良吉の先行研究から影響を受けていた。
このことを長田育恵が知らないはずがありません。



かりに坪内逍遥と矢田部良吉に違いがあるとすれば、
それは日本の文化に対する考え方ですね。

矢田部良吉の場合は、
国字を改良してローマ字に置き代えるとか、
ちょっと過激な欧化主義者だった面があるけれど、

坪内逍遥の場合は、
小説の近代化をはかりつつも、
どこかしら「馬琴愛」を捨てきれなかった感がある。

長田育恵も、
坪内逍遥のことを、
「古い日本を抱きしめながら新しい日本へ向かおうとした人」
と語っています。




かりに牧野富太郎が、
「本草学を抱きしめながら近代植物学に取り組んだ人」ならば、
さしずめ坪内逍遥は、
「馬琴を抱きしめながら近代文学に取り組んだ人」かもしれません。


追記:
岐阜新聞の記事には、
牧野富太郎と坪内逍遥の交流について書かれているようです。

https://www.gifu-np.co.jp/articles/-/260259
有料記事なので中身は読んでませんが、
おそらく記事の写真から察するに、
シェークスピアのロミジュリに出てくる「マンドレーク」を、
坪内逍遥が「曼陀羅華」と訳したことに対して、
牧野がツッコミを入れたんじゃないでしょうか?



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最終更新日  2023.10.02 14:11:01


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