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■竹灯り@伊賀上野城 本丸広場 行ってきました。 【日時】 2019年8月10日(土)、11日(日) 17:00~21:00 つまり明日もあります。 今年で4回目の開催になるライトアップイベント「お城のまわり」!毎年多くの方にご来場いただいてます。上野公園および周辺の歴史的建物群が幻想的にライトアップされます。 4回目となり演出も慣れてきて洗練されてきました。 ※雨天の場合、イベント内容が変更になる可能性があります。 【場 所】 上野公園内(伊賀上野城、俳聖殿、芭蕉翁記念館) だんじり会館、伝統伝承館(伊賀くみひも組匠[くみ]の里)、旧市役所庁舎、上野高校明治校舎、史跡旧崇広堂、伊賀鉄道上野市駅(忍者市駅) ▶ライトアップ会場(スタンプラリー会場) 伊賀上野城、俳聖殿、芭蕉翁記念館、だんじり会館、旧市役所庁舎、上野高校明治校舎、上野市駅駅舎、史跡旧崇広堂、伝統伝承館(伊賀くみひも組匠[くみ]の里) 「お城のまわりスタンプラリー」はスタンプを集めると、抽選で素敵な賞品(伊賀ブランド「IGAMONO」等)が当たる!(応募用紙は対象施設に設置) ほのかに揺らぐ美しい竹灯りと和傘灯りが伊賀上野城本丸広場を幻想的な空間に演出されます。「伊勢志摩サミットおもてなし竹あかり」の制作に関わられたcanaarea(カナエリア)代表の川渕晧平氏(伊賀市在住)制作の竹灯篭も展示されます。今年は5mの巨大オブジェも登場! 点灯予定時間 18:30~ ※雨天中止 和傘あかり ダンス大会がライトアップされた俳聖殿をバックに だんじり会館の展示会場の中では、新町のお囃子が演奏されました。 白楽天 老松、という、お囃子は能調でバイオリンの伴奏で演奏され 葵123 流しは、早いお囃子で迫力がありました。 明日は、小玉町のお囃子が演奏されます。
2019年08月10日
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ぬ 広禅寺は現在本堂を昨年から大改修中で、来年秋に完成予定です。 広禅寺 伊賀地域に26箇寺の曹洞宗寺院の本山、俗に武士寺と言われ藤堂長兵衛家(渡辺家)をはじめ多くの藤堂藩士の墓所 応永21年(1414) 快翁玄俊大和尚により福井県今庄(いまじょう)より津市家所(いえどころ)へ堂宇(堂の建物)建立したのが始まりだそうです 永禄年間(1560) 織田信長の侵略により堂宇(お堂の建物)消失し伊賀市河北(大山田地区)に草庵を建立しましたが 天正伊賀の乱で再び信長の侵略に遭い伊賀上野に避難したのです 慶長13年(1608) 藤堂高虎入府に伴い渡邊勘兵衛(家老格)の寄与を戴き修行菩提の道場として興隆し現在に至ってます 本像はこの時のもののようです。 渡辺 了(わたなべ さとる)通称、渡辺勘兵衛 士大将 初代家老格 風鈴には古来より邪気を追い払う力が宿るという。寺を訪れる人に福が訪れるように願い、昨年夏から山門と庫裏を結ぶ回廊(約25メートル)の天井に、ガラス製の風鈴約1千個をつるしています。今年も9月末まで飾る予定です。 回廊の天井に吊されています。 転輪蔵 転輪蔵とは中央の柱を中心に回転する経蔵のことで回転させるだけで経典を読むんだのと同じ御利益が得られるもので県下でも珍しく県の指定文化財に指定されています。 会員の方が庫裡に案内され拝見出来ました、本尊とされる像。 本尊釈迦佛 襖には寺紋、笹竜胆が。
2019年08月08日
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広禪寺 徳居町(とくいちょう)の西南にある曹洞宗(そうとうしゅう)の寺。応永(おうえい)21年(1414)頃に開かれたと伝わり、江戸時代には、伊賀一円の曹洞宗寺院を支配した格式の高い寺だそうです。 伊賀市 広禅寺の本堂の左脇に「小女良稲荷」があり会員の方に面白い民話があると教えてもらえましたので図書館へ行くとありました、掲載します。 こじょろうぎつね 上野市制施行50周年記念 図書 上野市 [1991]上野市民話編集委員会∥文 より いつごろのことやったやろかな。伊賀上野(いがうえの)の広禪寺(こうぜんじ)では、毎月一回、檀家(だんか)の人らが集まってな、方丈(ほうじょう)さんのありがたいお話を聞いたり、ごっつおをもってきてよばれたりして、楽しんでたんやげな。 あるとき、年のころ十二、三歳(さい)のほっぺたの赤いかわいらしい女の子が、台所仕事を手伝いに来るようになったんやして。よう働く気だてのええ子やったんやげな。 「小女良(こじょろう)や、おくどさんを燃やしつけたら、おぜんの上をふいとくれ」 「はい」 「洗(あら)い物がすんだら、おわんをふっきんでふいとくれ」 「はい」 「小女良さんは、ほんまに、よう気のつくええ子やなあ」 などとほめられ「小女良、小女良」と、近所の子どもたちにも好かれてたんやげな。かすりの着物をみじかめに着て、赤いたすきとまえだれをかけて、きりきりとよう働く姿(すがた)を見た人らは、心があったこうなる気さえしたんやして。 小女良は、いつも朝はよ来て仕事をし、夕方になると、残ったごっつおをおみやげにもろて、うれしそうに帰っていくのやして。 「小女良のうちはどこ」 と聞いたら、 「長田(ながた)の山」 と答え、 「親はいるの」 と聞かれたら、いつも大きくうなずいてたんやして。 ある日のこと。お寺の台所では、朝から、よいにおいがただよってたんやして。なべいっぱいの油あげを炊いて、いなり寿司をこしらえようとしてたんやして。 さて、お昼前になって油あげにご飯をつめようとしたら、なんべん数えても油あげの数がたらんのやして。どうやら小女良が食べてしもたらしい、ということになったんやげな。方丈さんは、きびしく小女良にたずねたんやして。 小女良は泣きながら、 「お腹がすいて、おいしいにおいがしたさかい、つい……かんにんして……」 とあやまったんやけど、方丈さんは、これがくせになっては、と強くしかったんやげな。 小女良は、泣きながらお寺を出ていったもんで、方丈さんは追いかけたんやして。小女郎は鍵屋(かぎや)の辻(つじ)の坂を走って下りてってな。田ぁの中の道をかけぬけ、竹やぶの中の長田橋をわたろうとしたとき、赤いまえだれをはずしてしもて、じゃまになった赤いおこしもぬぎすててしもたんや。そしたら、長い大きな茶色のしっぽが見えたんやして。走る足も姿も変わってしもたんやして。そのうちに方丈さんは、小女良を見失のうてしもたんやげな。 小女良は命からがら逃げたんやけど、あんまりにも一生けん命走ったんで、とうとう正体があらわれてしもたんやげな。小女良は、ほんとうは長田の山に住む狐(きつね)やったんやげな。後をふり向いても、もう方丈さんは、追いかけてきやへん。長田の山はもうすぐそこやったんで、ひと安心してゆっくり歩きはじめたんやげな。 そのとき、一人の猟師(りょうし)が、鉄砲(てっぽう)をかついで通りかかったんやして。今日は、一日中山の中を歩きまわったんやけど、えものは一匹(いっぴき)もとれへんだ。すると、目の前を一匹の狐が歩いてるんやして。これはええこっちゃ、とばかりに鉄砲をうったんや。 ズドーン この音を聞いてな、方丈さんはかけつけたんやんか。そやけど、小女良狐は、もううたれた後で、ぐったりしてたんやげな。 あんなに気だてがようて、いろいろと手伝ってくれた小女良のことを思たら、方丈さんは悔(く)やまれてならへんだんや。そこで、お寺の中に小さな塚(つか)をたてて、手あつくほうむってあげたんやして。 徳居町(とくいちょう)の広禪寺のお堂の左側には、今も小さなほこらが建っててな。お稲荷(いなり)さまをお祀(まつ)りし、小女良狐の小さな石碑(せきひ)がおさめられてるんや。そして、小女良稲荷と書かれた赤い小さなのぼりが、ときどき風にひらひらしてるんやそうや
2019年08月07日
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現在の冨治林家之墓に刻まれている家紋源氏車に並び矢、西念寺『伊水温故(いすいうんご)』には、本尊は天正伊賀の乱の混迷に紛れるようにして、佐那具の西方寺へ移されたといわれています。この西方寺が当寺の発祥といわれ、長伝という僧侶が現在地に移し、その後西念寺に改められた、とされます。当町の北に位置する徳居町の通称「墓の谷」は、廣禅寺の墓地であるように思われていますが、元来は西方寺の墓所であった、と『伊水温故』は伝えているます。もっとも、これには、異説もあり、いずれが真偽であるか定かではありません。。境内には、伊賀流忍術・藤林(ふじばやし)三武次保武(やすたけ)の墓が現存し、墓石に「光岳院歓誉道喜居士」、「享保元年」(1716)死亡という銘があります。保武は忍術書「万川集海(ばんせんしゅうかい)」の著述者とされ、百地三太夫、服部半蔵とともに、伊賀流忍術の三傑に数えられています。現在の冨治林家之墓藤林長門守は高久公の時代に藤堂長門という代官がおられたので、藤林の姓を遠慮して、冨治林と改めたと伝わります。冨治林一族の墓 右より正直、氏昌、4番目が保武三代藩主藤堂高久の時、元禄14年(1701年)に保武、伊賀者に任命され城下町(忍町)に移り住みました。中が保武の子、冨治林氏昌の墓右が保武の孫、冨治林正直の墓 第4世冨士林正直は藤堂元甫の補佐をして宝暦14年(1763年)「三国地誌」をの伊賀編を担当した。これが冨治林保武の墓、藤林(冨治林)佐武次保武 藤林長門守の孫、延宝4年(1676年)萬川集海を著わしました。墓石に「光岳院歓誉道喜居士」、「享保元年」(1716)死亡という銘があります。冨治林東峽碑 東峽とは藤林長門守の現在の伊賀市東湯舟の地をさしているのでしょうか。
2019年08月06日
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