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Q 宣教師や牧師とは関係がなかったのですか。
A ありませんでした。当時の札幌は開拓早々の草深い田舎町で、人口もようやく2、3千で、教会などは一つもなく、牧師もおらず、函館あたりから宣教師が時々巡回して来るぐらいでした。全くクラークの伝道の結果です。
「宮部金吾」
6 札幌懐旧
開拓使本庁 当時において最も豪壮なりしは、米国風なキャピトル式木造2階建の開拓使本庁で、中央に丸い塔が聳えていた。この建物は明治12年1月17日に焼失、仮庁舎として南一条西三丁目旧札幌女学校を使用し、数年の後現今の煉瓦造に変わった。本庁の構内は今の道庁構内よりも広大で、現在の道庁より北へ2町、南、東、西は1町広い、北一条西四丁目の角から西の方へ四丁(266間)、北の方へ5丁(344間すなわち現在北六条の鉄道線路の所まで)、正門は現在の道庁の正門より1町東に当たり北三条西四丁目にあった。土塀が構内の周囲をめぐっていた。西の方には小流があり、道路は無く、ただ塀に沿うて細い踏跡がついていたのみである。この広い構内には、北米から輸入されたリンゴ、西洋梨、桜桃などが区画に従って整然と植え込まれ、果樹園をなしていた。
構内の西北隅に立派な二階建の西洋館があった。これは高位高官の宿泊所に当てられていた。数年の後この建物は北一条西五丁目に移され、道庁長官の官舎に用いられた。
私たちは札幌に着いた翌日、新入生一同この開拓使本庁に挨拶に行った。その日は快晴で、塔の上からの展望は素晴らしかった。西方の峯々あたりには黒々とトドマツが茂り、山腹から渓にかけて濶葉樹の緑で埋っており、また他の方面一帯も原始林で覆われていた。東なる豊平川方面と屯田の方こそ少しく開いていたが、ほとんど奥深い森林の世界で、原生林の幽玄さはひしひしと身にせまった。
札幌の街 明治10年私が札幌に着いた時には、このところは人口僅かに3千、東京に住み慣れた私には小さな淋しい街であった。大通り中心に、南の方が市街地で、北の方には官庁の建物があり、開拓使本庁と札幌農学校が一番に人目を惹いた。
市街地は当時の渡島通の一丁目から二丁目のあたり(現在の南一条西一丁目から二丁目)が中心で、大きな商店が軒を並べていた。大きな商店といっても平屋で、屋根には大きな石が乗せてあり、柾葺は少かったように覚える。これにつぐ繁華な街といえば、狸小路か、沙流通一丁目から二丁目(現在の南二条東一丁目から二丁目)辺の所であったろう。そこでは五十集(いさば)屋が軒を揃え、色々な魚類が並べられ、また鹿の股肉が多量に吊してあった。そして街並は渡島通(南一条)でさえ西八丁目で止り、他の所は西六丁目くらいで止っていた。東本願寺は古い寺であり、現在の南二条西六丁目あたりから見ると、その間には家が無く、ポツネンと本堂が見え、寺への道にはナハソロイチゴが沢山生えていた。当時札幌の街ははずれの西北は一面の桑畑であった。私共在校中は西八丁目には米国風のヤマダモを裂いて作った棒垣があって馬の進入を防ぐためそこに木戸があった。桑園は明治8年、黒田長官が会津の藩士を招聘して開墾せしめ、桑を移植したのに始まっている。藩士一行は春に来て秋帰った。その会津の藩士の記録を読むと皆袴を以て開墾していたと記されている。この桑園の中で今札幌市立病院のある北二条西八丁目のあたりに大きな養蚕室があった。しかし数年続いた失敗に、開拓使でも養蚕事業の継続を中止し、黒田長官が一時有望な事業として奨励した養蚕も取り止めの形となったのである。
札幌農学校と本庁敷地との間には建物がなく、ただ寄宿舎西側の前あたりに御雇米人ダン氏の官舎があったのみで、その他は全部ホップ園であった。
また街の西の方に行くと、現在の南一条西十三丁目あたりから、東西に七八町、南北に二三町の緬羊場があった。多くの小川が街中を流れていたが、今記憶しているものに主なるものが2つある。その一は、今の札幌病院中を通り植物園に入り、更に桑畑の方に流れたものと、なお一つは薄野あたりから豊平館の南を流れ創成川の川しもはその頃物資の運搬上大切な役目をなしていた。茨戸辺から引舟で運んだ物資は、今の製麻会社の辺の川の両側に在った倉庫に入れ、米などがそこへ貯えられた。官庫の北方に信州から移住した上島正という篤志な園芸家がいて花菖蒲や牡丹、芍薬を専ら栽培して改良を計っていた。その後、東皐(こう)園と称して札幌の一名所となった。
当時森林は、現在の植物園のあたりや、桑園の北の方に残っており、農学校の農園の流れに沿うても林地があった。現在の植物園のあたりや、桑園の北の方に残っており、農学校の農園の流れに沿うても林地があった。現在の大学構内には楡の巨木が鬱蒼としていた。ここは始め原生林であり、ことごとく伐採され尽くされるべき運命に置かれていたのであるが、ケプロンその他の御雇アメリカ人たちがそれら巨幹を称えて保存するよう注意されたので、楡の木だけが残され、あるものが今日まで残ったわけである。なお、街の所々にも大樹が保存され、北一条図書館前に現存している巨樹のごときも実に当時の面影の一つである。
札幌につづいて東屯田(南四条より南二十条西八丁目)、西屯田(同じく西十四丁目)のあたりは既に開墾されていた。東北の方では同じく本村あたりが御維新前から開墾されていた。豊平川の沿岸にはドロノキ、ヤナギ類、シラカンバ、シナノキ等の巨幹が亭々と聳えて真駒内までつづいていたが、平岸村通には既に多少の開墾地が見えていた。豊平橋は室蘭街道の国道筋にかかっていたが、始めはごく粗末なものであった。しかしその後ホイラー教師の設計で相当立派なものにかえられた。
偕楽園 それから当時の小公園なりし偕楽園についてちょっと記しておこう。空知通の西端(現在北六条西八丁目)辺より北に小坂を下りると偕楽園に入った。入るとすぐ右にあたり池に面して平家の博物館があった。そこには北海道の天産物やアイヌの作品等が陳列してあり一般の縦覧に供していた。明治13年頃東京芝公園内の開拓使の北海道物産陳列所が廃され、その陳列品の一部がこの博物場へ、他の一部は札幌農学校演武場内の標本室へ分配された。博物館が面したこの池には泉があって、清水が絶えず湧き出で、一方当時屯田兵招魂碑の在った地域(現今伊藤亀太郎氏邸内)に水源をもつ小流と合して、札幌農学校農場と開拓使の育種場との小川となった。博物場の前に物産局所属の製物場の建物があった。ここは化学工業試験所のようなものであった。それより少しく北に進むと、小高くなった所に今も保存されている清華亭があった。これは明治13年6月落成したもので、14年明治天皇行幸の御時、御小憩になって由緒ある建物となった。亭より西方の土手に添うて小さな温室があった。これより先、ボーマー氏は丹精して造り上げた北三条西一丁目の温室と花園が明治11年に札幌農学校へ保管転換されたので、非常に落胆憤慨して開拓使に迫り、この温室を造って貰ったといい伝えられる。これらの建物の外、偕楽園には何物もなく、実に天然の勝地であった。松や桜などが移植せられ、また花壇もあった。その他全体がローンを以て覆われていた。偕楽園の地続きに開拓使の育種場の広い土地があった。その後この土地と施設物全部が札幌農学校へ保管転換され、今日の北大農学部の一部及び理学部等の敷地となっている。育種場は専ら内外の植物の種子や苗を取寄せ栽培して風土に適するや否やを試験したところで、当時育種したドイツタウヒやドイツクロマツの大木が今は植物園内や北大構内に繁茂しており、またケヤキ、クリノキ等も伊藤邸内に残っている。なお偕楽園につづき、育種場内(現在農学部の位置を占む)に競馬場があった。これは雇アメリカ人エドウィン・ダンの意見を徴してつくられた距離440間(48ロング)の楕円形馬場で、明治10年に設置され、明治11年初めて春季競馬を執行、明治20年競馬場が中島遊園地に移るに及び廃されたものである。
補注「内村鑑三Q&A 山本泰次郎」 そ… 2026.05.31
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