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2026.06.02
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カテゴリ: イマジン
森銑三(せんぞう)氏の「明治人物夜話」に日本新聞の主筆をしていた陸羯南(くがかつなん)の逝去の記事が出ている。
そこにベルギー大使をしていた加藤恒忠(つねただ)氏の懐旧談がでていて、その響きと調べが実にいい。

「去る2日(明治40年9月2日)鎌倉にて物故し、今日5日谷中(やなか)の全生庵(ぜんしょうあん:山岡鉄舟創設の寺で鉄舟の墓もある)で葬られる陸羯南(くがかつなん)氏は、新聞記者の一先達(せんだつ)であると同時に、また当代の一人物で、記者としても、人物としても、広く世間に知られていた。
しかし、不幸にして氏の最も親しかった友人の多くは氏に先立って死んでいる。
今生存しているのは加藤恒忠(つねただ)氏のみ。
加藤氏に陸羯南(くがかつなん)氏の事を問うたところ、次のようであった。」として始まる。(読みやすいように若干言葉を改めた。)

「陸(くが)は古い友人でした。
 書生時代からの旧友も少なくないが、30年間一日のように絶えず兄弟の交わりをしたのは彼一人です。
そのあいだにずいぶん議論もしたし、外交問題などについて意見を異にして激論をしたこともあった。
しかし、ただの一度も平生の友ぎを損ぜず、互いに胸中を打ち明けて、親密にしましたから、突然この良友を失い、悲歎に暮れています。

 一昨年の秋、ベルギーへ手紙を寄こして、自分は肺病になったから、もうながくないと信ずる。
生前に今一度会って馬鹿話がしたいと書いてきた。
幸いに僕は先日帰国して生前たびたび会うことができた。
もうその頃は、陸はぺたりと枕に就いていて、あまり馬鹿話はできなかった。
その上、7月以来、僕自身が痛風にかかって、近いところにいながら、臨終の手を握ることもできず、葬式に立ち会うこともできないのは、実に残念です。

 世間では陸の人となりを誤解して、極めて頑固な男か、または仙人のように思っている人があるようだが、決してそうではない。
極めて聡明な性質で、常識に富み、どちらかというと通人の方だ。
ただしあくまで意志が強く、自分の所信は、いかなる場合、いかなる人に向かっても、一歩も曲げない。
いかなる逆境にあっても、自分の本心がしたくないことはしない。
いわゆる威武も屈するあたわず、富貴も移すことのできない男だ。
どんなに貧乏しても、金銭のことを眼中におかぬところが、俗人の目には仙人と見えたのであろう。

 先年、ふと陸に向かって、ちかごろ新聞は、たくさん売れるかと問うと、あまり売れないというから、僕が『少し雑報の文体を変えて、ルビをつけて、外国の報道や相場の表などを入れたら売れるだろう』と言うと、
その時、陸は『なるほどそうすれば売れるかも知れない。だけど僕の新聞は、そんなに俗世間に売れなくてもいいんだ』と言った。」

 加藤氏はさらに日露戦争の少し前に陸(くが)がベルギーにやってきて、ロシアに行きたいが、相棒を紹介してくれと言われて、ドイツにいた医学博士の青山胤通(たねみち)を紹介した話を続ける。
 陸と青山の二人は、ロシア、スウェーデン、デンマークに旅行したが帰ってきてからの二人の弁がふるっていた。
陸は言う。
『青山との同行はもうごめんだ。
彼は非常にセッカチで、道を歩むにも名所を見物するにも、ズンズン一人で行ってしまって閉口した。
しかし君のおかげでよい友を得た。彼は当世珍しい人物だ』
青山はこう言う。
『陸は馬鹿に気がながくて、どこへ行っても、グツグツするには閉口した。
しかし当世珍しい人物だ』」

「僕が始めて陸をしったのは、明治9年司法省の学校にはいった時だ。
その前、陸は仙台の師範学校におり、校長と激論して、退校を命ぜられたそうだ。」と加藤氏は話を続ける。
「陸は奥州生まれ、僕は四国出の田舎書生同士で、互いに言語もよく通じなかったが、フト意気相投じて、三年間の同窓中、格別に親密にした。夏休みは国分や福本と四人で富士山に登ったり、東海道の徒歩旅行をして、途中一文なしになったり、あるときは千葉に遊歩して、警察署にひっぱられた大失策もある。
休暇中でも寝食をともにして、特に心安くしたが、陸は高潔な性格で、胸中一点鄙吝(ひりん)の心がなかったのは、死に至るまでかわらなかった。」

司法省の頃、陸と原敬は人のために放校処分になった。
司法省の役人が無理をいって、大議論になって、最後は司法卿まで乗り出してきて、学生の大半は屈服したが、陸と原はあくまで正論を唱えて、ついには15,6人放逐された。
放校処分を受けた面々は、乱暴者で勉強もせず、成績が悪く、しばしば校則を破っていたが、原、陸両人は、行いもよく、勉強もする、成績はよい、おまけに事件には無関係だったが、他人のために男の意地を張って同じ処分を受けたのだという。
しかし両人は少しも未練を残さなかった。
その時、陸は原敬のことを加藤氏にこう言ったという。
『原はヘンペンたる才子ではないと思っていたが、このように正義を重んじ責任を重んずる人とは知らなかった』
原敬、陸羯南とはこういう人物であったのだ。
退校後、原は報知新聞に入った。加藤氏と陸もぜひ東京の新聞社に入るつもりで一年間奔走したが、志を得ず、ついに陸は北海道に行った。
『その時、僕は大風雨をおかして千住まで徒歩で陸を送り、千住大橋の上で手を握って別れた。二人とも懐に余裕がなく、そこらに腰掛けて一杯のむというわけにいかなかった。』

陸は北海道で紋別製糖所の翻訳係に雇われたが、一年もすると上京した。





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最終更新日  2026.06.02 06:44:46


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