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2026.06.02
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カテゴリ: マザーとマハトマ
西郷隆盛、大島の三年
1858年(安政5年)
11月15日 薩摩藩は月照を日向の法華嶽寺に追放することを西郷に伝え、今夜すぐに船で出発するように伝える。西郷、月照、平野国臣(くにおみ)、重助(月照の従僕)の4人は藩庁が用意した丸木舟に乗り、錦江湾に漕ぎ出した。大島で重野安繹(しげの・やすつぐ)が西郷にじかに聞いたという話によると、鹿児島城下の沖合を三里ばかり東に行った所で、陸に寺が見える。西郷は舳(へさき)に出て月照を招き、あの寺は心岳寺といって、島津家には由緒深いお寺(島津歳久が豊臣秀吉に島津征伐に抵抗し切腹させられた)ですと由緒を語った。「薩摩藩士はいまも公の義列をしたって参詣がたえません。和尚も御一拝下され」と、月照が手を合わせ、腰をかがめたところを、西郷が抱えて海中に飛び込んだ(諸説あるがここでは「重野安繹演説筆記」による)(『西郷隆盛』井上清著 上p.64)

「さてさて残念な事をした。和尚独り死なして自分一人死にぞこない活きているのは残念至極だ。士の剣げきを用いずして身を投げるなどということは、女子のしそうなことで、誠に天下の人に対しても言い分けがない。ただ和尚は法体のことであれば、剣げきを用いずして死んだ方がよろしかろうという考えで投身したけれども、むしろ死するならば、女子のなすようなまねをして自分独り活き残って面目次第もないと、歯がみなし涙を流して拙者(重野)に話した」(「重野安繹演説筆記」)

11月29日 平野らによって二人は引き上げられ、二昼夜懸命の介抱で三日目に西郷は蘇生した。藩庁は西郷の処分に困り、幕府へは西郷は死んだと届け出て本人は菊池源吾として大島に潜居させることにし、年5石扶持米を支給することを決定した。

12月19日 肥後の長岡監物あて手紙
「わたくし事、土中の死骨にて、忍ぶべからざる儀を忍びまかりあり候しだい・・・・・・天地に恥ずかしき儀にござ候えども、今さらになり候ては、皇国のために暫く生をむさぼりおり候事にござ候」

12月下旬 大島に向けて出発したが、風向きが悪く、山川港で潮待ち

1859年(安政5年)
1月2日 大久保一蔵あて手紙
「大義の一挙につき御策問の趣き、幾度も承知つかまつり候えども、小生儀、土中の死骨にて、武運つたなくことに大義を後にいたし端島に身を逃れ候儀、たとえば破軍の降卒(戦いに敗れた兵)にて、(策問に答えるのは)たっておことわり申し上げ候儀にござ候えども、数ならずも先君公(島津斉彬)の朝廷御尊奉の御志親しく承知つかまつり、いかにもして、天朝の御為めに忍ぶべからざるの儀も相忍び、道の絶え果て候までは尽くすべきの愚存にござ候。汚顔を顧みず、拙考の儀もお返事申し上げ候」

1月始め 大島に向けて出航

1月11日 大島の名瀬に到着

*重野 安繹(しげの やすつぐ、1827年11月24日(文政10年10月6日) - 1910年(明治43年)12月6日)は江戸時代末期から明治初期に活躍した漢学者、歴史家。日本で最初に実証主義を提唱した日本歴史学研究の泰斗、また日本最初の文学博士の一人。





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最終更新日  2026.06.02 06:29:29


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