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1950年代に文芸春秋等で書き綴った彼の社会批判はいわば社会のご意見番である。しかし高度成長時代に入った60年代以降彼の意見があまり聞かれなくなってしまった。パックスアメリカーナの戦闘要員の一人と化して突き進む日本では誰もご意見番の意見など聞こうとはしなかった。ところがそんな時代を乗り越えて低成長、二極化でゆれる今の日本社会では彼の意見がまた求められているのではないだろうか。そうして思うと最近の白洲次郎ブームも分からないではない。日本のあるべき姿を社会が求めだした時代だから急に次郎さんの言葉の重みが増しているのだろう。さて、他にもいくつか面白いと思った話題がある。議院内閣制に対する次郎さんの意見も面白かった。学生運動に肯定的な彼のプリンしパルは現制度を肯定できないといった彼の思想だろう。同じ意味で日本における議院内閣制特に二院制(参議院)の考え方が詳しく語られている。ただ次郎さんがもう少し親米派であったなら参議院の定数を47、つまり米国のセネターつまり都道府県を代表する意見を出す議会という立場を考えても良かったのではないだろうか。彼は二院制に否定的は意見を述べているがそれは参議院が衆議院の飾りとしての機能しか持たず存在意義をなくしているからであってしっかりと機能する二院制なら必ず支持したはずだ。もう一つ面白い話が彼の語る女性感だ。ここでは男女同権に関して多くが書かれている。学生運動と同じ津ある意味では弱者に対する支援がないことはないだろう。しかし彼はむしろ弱者を見て哀れんでいるのではなく強者をみてその間違いを正そうとしているのだろう。何れにしても次郎さんの思想はリベラルでありいつも公正であろうとし続けているのだろう。権力者からはいつも煙たがられる存在なのだ。それが占領軍でも戦後の政界でも。最後に本書でマッカーサー元帥はカックアーサーで統一されている。もともとMacあるいはMcはアイルランド系の名前で~sonに相当する言い方だ。ただしその部分をとってマックというニックネームで呼ぶ場合もままある。もちろん公式の場で次郎さんはマックアーサー元帥をマックと呼べる立場の人ではなかったはずだ。しかし当時の占領軍のプライベートな場所ではもしかしたら次郎さんはマックアーサー元帥を「マック」と呼んでいたのではないかとかんぐってみたりしている。いや次郎さんには当然そういう立場になりうる機会がいっぱいあったのだろうと信じたい。なんといっても「従順ならざる唯一の日本人」なのだから。
2006.07.31
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本書は白洲次郎氏が1951年のサンフランシスコ条約締結後の約五年間に文芸春秋を中心に書かれた文で成り立っている。社会全体が条約締結で戦後の終わりを感じ始めていたころ、次郎さんは戦後とは歴史の一ページであり「永久に続く」ものと位置づけている。彼にして見れば終戦から同条約締結までが一つの「仕事」であり、それを成し遂げた次郎さんから当時の日本社会・政治に対する痛烈なメッセージがこめられている。そんな次郎節がいっぱい詰め込まれている本書の中からいくつか面白いと持った点を上げてみよう。「Affectation」という言葉が使われている。とても英国的言葉だ。もちろん青春時代を英国で育った次郎さんは占領下のアメリカ人との間のやり取りで何度かその英国式と米国式の違いを述べている。ウィットニー長官が次郎さんの「英語」を褒めたときに、「あなたももう少し勉強すれば『英語』がうまくなりますよ」と彼が切返した裏には、どんなに立派な「米語」を話しても「英語」は別だといういかにも英国的大人のウィットと次郎さんの確りとしたプリンシプルがあるのだ。もともとマックアーサー元帥を含め当時の占領軍の中にいったいどれくらいの「ユニバーシティー」出身者が居るのだろうか。もちろんここでいうユニバーシティーはオールドユニバーシティー(オックスフォード)とニューユニバーシティー(ケンブリッジ)のことである。ニューイングランドやニューヨークにあるアイビーリーグ大学と英国のユニバーシティーはいわばメジャーリーグベースボールと日本のプロ野球の関係のようなものである。つまり本物の実力と誇りにかけて譲れないことがあるのだ。さて、そんな彼が言う「Affectation」とはどういう言葉なのだろう。同意語だとPose(かっこつける)、Air(きどる)、Manneism(わざとらしさ)などのような言葉もつかわれる。語源的にはeffect(効果)を生み出すaffect(影響を及ぼす)という言葉の名詞形だ。つまり「結果を得るために誇張や格好付けをいとわない」といったところであろうか。英国人気質はそういった輩を煙たがり、米国人気質はそれこそが効率のよい生き方と考えている。いずれにせよアフェクテーションは英国文化では良きとしないのだ。これに対してヒットラーの演説やアメリカ人の雄弁好きを対称軸に持っ来ている。そんな英国と米国の違いを悟った彼独特の世界観を持ってすると戦後急速に進んだアメリカ一辺倒の日本の社会や政治には耐えがたいものが多かったのだろう。
2006.07.24
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ちょっと嬉しい082好みの記事があったのでご紹介。先ずは先日の日経夕刊紙から。--------------- 英スコットランド、日本人バーテンダー活躍--本場も認める知識量(世界街めぐり) 2006/07/29, 日本経済新聞 夕刊, 3ページ, 有, 777文字 世界各地で活躍する日本人は数多いが、スコッチウイスキーの本場で話題の日本人バーテンダーというのも珍しい。皆川達也さん(36)。英北部スコットランドの港湾都市アバディーンから八十キロほど北西に行ったクレイゲラヒ村で、その知識の豊富さや情熱を買われている。皆川さんが勤めるハイランダー・インは専門誌が選ぶ今年の「ウイスキー・バー・オブ・ザ・イヤー」に輝いた。 皆川さんは山形県出身。十八歳からバーテンダーとして働き始め、ウイスキーの知識を蓄積した。三年半前、エディンバラで働いていたところ、現在のインのオーナー、ダンカン・エルフィック氏にスカウトされて村にやってきた。 人口六百人という牧歌的な小村での暮らしに、都会派の皆川さんが戸惑うことは多い。だが「辺りに五十ほどある蒸留所の人々の考え方に触れ、興味深い」と話す。インが提供するスコッチは現在、百五十種。皆川さんは「味やいきさつなどちょっと変わったもので、お薦めできるスコッチばかり」と自信満々だ。 近所でバーを営む常連は「私もうるさいが、達也の知識はトップクラス。うちの客にも達也と話すよう勧めている」と話す。海外から毎年やってくる顧客もできた。「日本から三カ月に一回来るウイスキー好きもいる」と皆川さん。 ウイスキー一本一本の個性の豊かさがスコッチの魅力という。一度好きになると、いろいろ試してみたいのがファンの常で、シングルモルトに加え、一つのたるだけから取ったシングル・カスクと呼ぶ限定品が人気を集めている。 たるに寝かせる期間は十年、十八年、三十年など。ウイスキーの味わいにはピークが何度かあるという。皆川さんは「人の一生に山が何度かあるのと同じ。僕の次のピークもそろそろ」と笑いつつ、本場で鍛えた腕前に自信を深めている。(ロンドン=林理佳)【図・写真】海外から皆川さんを訪ねてくる顧客も多い--------------- プロ中のプロになれる日本人は多いはず。前回W杯で決勝トーナメント入りできなかったサムライブルーの中には本場で通じる「プロのフットボーラー」が足りなかったからという考えも出来る。翻って経営のプロはどうだろうか。世界水準の経営者が日本にどれだけいるのだろうか。例えば「アレン&カンパニーのサンバレー会議」、ここに常時参加する日本人経営者が増えることになれば日本の経営も世界水準だろう。このあたりをまた近いうちに書いてみたい。
2006.07.21
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あなり流行の本を読んだりすることはない。正直今のベストセラーがなになのか知らないことの方がおおい。なのでOAZO内の本屋の棚に並ぶ多くの本を見ながら、そうか今こんな本が売れているんだと思ったりもした。だが厳密にいうと沢山並べてある本はそれを売りたいという書店側の意向でしかなく、本当に読者が何を読んでいるのかは分かるものではない。実はもう数年前になるがこんな面白い体験をした。男女の頭脳の違いを分析してその行動の違いや違いからくる男女間の問題を書いて世界的ベストセラーになった本がある。この本の原書を電車で読んでいたときあまりの面白さにふと笑い声を上げてしまった。すると近くにいた外国人女性がその本について話しかけてきたのである。もちろん僕がその本のタイトルを隠していなかったから何を読んでいるか直ぐに分かったのだろう。もし電車に乗る読者がみな本のカバーを外してくれたなら、今売れている本が何なのかよく分かるようになるのではないだろうか。そこから「僕もこの前その本読んでみたよ」とか「私も今読んでいるよ」というたわいのないパブリックトークも発生してくる。たわいのないパブリックトークは社会の潤滑油のようなものだ。こういうことばを交わすことで込み合ったスペースの中に少しでも和みの空気が生まれるのではないだろうか。 そうかと思えば同じ電車の中でスポーツ新聞のそれこそポルノまがいの記事や写真を公共で広げて読んでいる人たちが大勢いる。ついでをいえばスーツにタイをぶら下げて週刊ジャンプも様にならない。どうして書籍だけ匿名性を求めこのような新聞、雑誌は無法状態なのか。最近は小学生でも電車通学の時代である、中刷り広告も含めて社会のモラルをもう少し上げてもいいのではないだろうか。本のカバーをとることで自分は何を読んでいるといった小さな自己主張をしてみたらどうだろうか。そこから生まれるパブリックトーク、社会公共性がもっといい社会をサポートしてくれるように思えてきた。
2006.07.18
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日本の書店で書籍を買うとき必ず聞かれるのが「カバーおかけしますか?」という質問だ。先日東京駅の前に出来たOAZOというなんとも不思議な名前のビルにある大きな書店に行ったときもそう問われた。迷わず「カバーはいりません」と直に答えたのは、どうも人がやることを好まぬ082のひねた性格なのだろう。ただその後買ってきた文庫本を電車の中で読みながらふと気づいたことがあるので書いてみよう。最近は資源の無駄を減らそうといろんなことが言われる時代となった。それはとてもいいことである。以前もかいた「もったいない」の心は082のブログでも何度も言っている日本人の良き感性の表れのようなものだ。スーパーの袋も使わずに買い物用の手提げ袋に入れたり、クールビズ、ウォームビズと言っているのも同じ感覚の延長線上にあるはなしだ。ではなぜこの必要もない本のカバーをわざわざ忙しいカウンターでつけたりしているのだろう。もともと読者が自分の読んでいる本の内容を他人には知られたくないと思うから書店がカバーをかけるようになったのではないだろうか。本のタイトルや著者の名前を隠すことで「プライバシーを守ろう」としているのだろう。だから電車の中で読まれる本のカバーはすべて「ノーブランド」になってしまう。しかし隠すということは恥かしいという気持があるからではないだろうか。これではまるで「私はポルノ小説でも読んでます」といって隠しているようにも思える。さて全国出版協会・出版科学研究所の統計によると、2004年にはなんと7億4915万冊の書籍が日本で読まれたそうだ。ざっと一人頭年間6冊くらいといったところだろうか。たった一枚の紙と思うのは自分の手の中の一冊だからいえること。年間7億冊以上となればとんでもない数の紙が無駄になっていることになる。これだけの書籍のカバーをなくすことができれば相当な紙の節約になるのだろう。ついでにあの本の下の方に巻いてある帯もなくしたらその効果はさらに増すだろう。自然環境は日本人の感性の大切な部分、一人ひとりが出来ることなのだから是非始めてみてはどうだろうか。そことでもっと違った効果も現れるだろう。もう少し続けて書いてみよう。
2006.07.17
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本著は昨年来ブログ仲間を含めた複数の友人から薦められていた本である。今回出張の移動時間を利用して読んでみた。原題のイメージよりも軽いタッチの内容で非常に読みやすかった。もともとブログで書いているトピックと重なる部分が多く、その多くの部分で共感できた。例えば「日本のODA」で自分が書いてきた「日本人を増やすことが世界平和の貢献になる」といった持論の根拠の幾つかも本著のなかで語られている。日本人の「感受性」のなりたちを自然や四季そして神道に基づける考え方などは大いに共感するところだ。本著では取り上げられていなかったが、日本人の感性を語るときに季語を重んじる「俳句」というのを忘れてはいけないだろう。この日本文化の象徴の一つである俳句を通して、四季の移ろいに対する繊細な日本人の感性、わびさびの世界、もののあわれに対する感情などが生まれていると思うからだ。また、価値観を決定する上で「問答無用」という言葉を使っている。じつは自分もまったく同じタイトルのブログを書いたことがある。とにかく「いいものはいい、わるいものはわるい」のだ。こう言った一見封建主義的ともとれる価値観の中から品位、品格といったものが生まれるのかもしれない。まるで「悪戯に自由を与えればいいという訳ではない」と誰かが言っているような気がする。一方、本著の内容に対して少し違うかなーと思われる点も少なからずあった。資本主義の問題点は多い。「会社は株主のものではない」と書かれていたがこれは間違いである。「会社は株主のもの」であり社員の者ものではない。ただここで大切なのは誰をさして株主というかという点だろう。一般的に株主がその権利の行使権を持つには定められた時点で株を所有していることが必要だ。つまり一定の期間株を所有しないと株主権利を行使することはできない。言い換えれば短期間に売り買いをしている「投資家」は株主ではなく、「デイトレーダー」や「スペキュレーター」である。この辺りの定義をきちんと整理せずに話を進めているのは非常に危険であり、大いに誤解を招くことになるだろう。株主は資本の提供を通じて会社経営に対する評価権を持ち経営陣に対して株数に応じた否決権を持つ。日本的文化の良さはその社会の安定性で終身雇用や会社に対する忠誠心や親しみがもたらす利益は大きい。しかし、社員が会社の為にどれだけ長期間労働し、どれだけ企業価値向上に貢献しても、その会社の所有権は得られない。だからこれからはもっと多くの企業が社員による持ち株会制度を取り入れていくことを推奨したい。社員による長期安定株主作りは日本社会にマッチしたいい制度だと思う。持ち株会を通し長期間勤めた社員にはより多くの株を保有してもらうことで、会社価値向上の貢献度と自社株所有数との比率の正常化を図ることはすばらしと思う。本著でいいたい点も実はここにあるのではないだろうか。本著は資本主義に対し非常に敵対心を表している。しかしここで大切なのは資本主義に品格がないからよくないといっているのかそれとも品格のない人間が資本主義を乱用しているからいけないのか、まずは問題点の整理をすべきだろう。そうすれば資本主義のなかにも立派な品格がたくさんあり、逆にそういった点をもっと強調すべきだと気づくかもしれない。資本主義を否定する例として、デリバティブが取り上げられていた。金融界で使われるデリバディブ商品に対する否定的考えは表面的には分からないでもないが、実は生命保険や損害保険は同じデリバティブの手法を用いて作られた金融商品である。つまり金融市場にデリバティブ商品がなければ、このような社会貢献度の高い金融商品の提供が難しくなる事実を否定してはいけない。バイナリーにものごとを決め付けることなく、素晴しい日本文化の土壌をしっかりと取り戻し、そこに新たな資本主義や民主主義の種を植え付け、じっくりと育てていくのが一番だろう。「和魂洋才」という言葉があるが新たな思想や技術を日本人の感性で磨いていけばいいと思う。本著はこの土壌汚染がひどくなっていることを嘆き悲しんでいるように思う。それはとても重要なことであり、そのことは多くの読者に気づいて欲しい。最後に本書を通して色んなことを新たに勉強したくなってきた。この辺りは少しずつ考えながらこれから勉強してまたブログに書いてみようと思っている。そういった意味でもとても為になる良書であった。
2006.07.14
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もともと論語の言葉だそうだ。孔子が弟子の子貢に尋ねる「お前と顔回(がんかい)とでは、どちらが優れているか。子貢は答えました。私はとうてい回の足元にも及びません。回は一を聞いて十を知る事が出来ます。私は一を聞いてもニしか知り得ません。すると、孔子が言いました。その通りだ。私もお前と同じで顔回には及ばない。」それ程孔子は願回のことを可愛がっていたそうだ。確かに「一を聞いて十を知る」とはある種の褒め言葉としてよく使われることもある。082のブログでよくプロフェッショナリズムについて書いている。フットボールの話もよくその引き合いに出して書いている。あるいは株の取引を進めるのもそういった自己責任のあり方を伝える方法の一つとして書いている。実際会社経営に直接、間接的にかかわるときその業種はあまり意味を持たない場合が多い。もう少し突っ込んで考えると株の取引を含めると関わる業種の数はおそらく二桁を下ることはないだろう。この辺りは以前「株は人生の箱庭」でかいている。しかし、二桁の業種のプロになりえるかというと一般の人にはまったく無理な話だ。しかし「一を聞いて十をしる」ことができればそれも可能である。では「一を聞いて十を知る」とはいったいどういう意味なのだろう。もし経営というプロの仕事があるとすれば対象になる業種がなんであれその経営に関する要点は同じ場合がある。その経営法をパターン化していれば「一を聞いて十を知る」ことも無理ではあるまい。物事の飲み込みの早い人はある意味で聞いている事柄の詳細ではなく要点だけを聞いていることになる。言い換えると一次元の話を二次元の視点で見ることにもなる。つまり一つの次元にとらわれず自分の次元を別に持ちその考えに基づいて話を聞くからできる技なのだ。別次元でそのプロという感覚を備えるなら、その他の次元でのプロの考え方もわかろうというものだ。「一を聞いて十を知る」もう一度その言葉の意味をゆっくり考えてみよう。
2006.07.10
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誰でも少年の時憧れるものがある、082が小学生の頃はアクションスターでブルースリーという俳優がいた。それまでのアクションを大いに変えた俳優だった。彼の映画に「ドラゴンへの道」というのがある。その原題を捩ったのが今日のタイトルだ。といっても082はブルースリーに憧れて空手家になろうと思ったこがあるわけでもない。ただ大人になってこの映画のタイトルを何度か捩りながら使わせてもらっている。例えば4年前に作ったパワーポイントのプレゼンテーションの題が「Way of the Risk Management」だった。日本には古来、武道、柔道、剣道、花道、茶道、などなど多くの道が示されている。この道とはある意味では一つことを極めるといったことだろう。そんな思いに今朝も駆られたのは「フランス-ポルトガル」の試合の中のジダンの活躍を観ていたからだ。ジダンは今のフットボール界で一番「Way of the Football」を意識している現役選手じゃないだろうか。どんな道であれ、それを極めるのはたいへんなことだ。しかし極めることで見えてくることもある。話は変わるが先日陸上の日本選手権(?)の中継で久しぶりに脚光を浴びていて室伏さんも言わば「ハンマー投げ道」を極めている人物だろう。前回書いた中田英寿さん、今は「引退」と言う言葉で頭が固まっているが正直082には彼が「フットボール道」を極めているとはとても思えない。一度離れて頭を冷やすのはいいけれど若いまだ体力の続くうちに是非もう一度現役でピッチに戻ってきて欲しい。そのとき「道を極めつつある」彼の顔を今から想像しているのは082の想像力が豊か過ぎるのだろうか。夢が現実になることを大いに期待している。
2006.07.06
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村上ファンド、福井総裁、と話題のトピックが重なっている。メディアの総三面記事化を良しとしない082的にはあまり書きたくないトピックだが、かれこれ十年近く「Nakata.net」を読んできた読者の一人として書かないわけにも行かないだろう。先ずは、中田英寿氏が日本フットボール界と社会に与えた多大な功績、そして今回を含むW杯での活躍とそこでの夢を与えてくれた彼に感謝の意を捧げたい。もともと、彼の経営センスとプロ意識には注目してきた。ただ今回こういう形でフットボーラーをやめる彼の姿に今もTVで活躍する元投手江川卓氏の姿が重なって見えてしょうがない。元祖怪物と呼ばれ、我侭を通し続けた江川さんも当時の野球界ではその話題性、独自性、事業性などで今の中田さんとあまり変らない存在だった。また中田さんの言動は、今時なら矢張り野球界で今期引退を早々と告げたShinjoさんにも相通じる点が無いとは言えないだろう。彼ら三人に共通なのは知名度が高く、本業のスポーツ界の記録や名誉ではなく、実業界で稼いでいる、あるいは稼いでいこうとしている点だ。マルチタレントという言葉がある。金融界でも投機家ら実業家に転身して成功を収めている人たちもいる。今の中田さんに果たしてその実力があるのだろうか。彼には名声と資金力がある、しかし「Nakata.net」に掲載された文章を見ていても上場会社の非常勤執行役員(そういう言葉が成り立つかも怪しいのだが)である人物の文章とはとても思えない。矢張りどう読んでもただのフットボーラー程度の文章だ。一部の報道にはこれから大学に行くと言ったことすら伝えられている。学歴は別にどうでもいいが、経営をそんなに簡単に考えてはいけない。上手く行っているときは経営力はほとんど要らない。堀江さんのときにもそんなことを書いていた。彼のこれからを期待しつつ、「自分探しの旅」が終わったときに「俺はフットボーラーだ」とだけは悟って欲しくない。いやもしそんなことがあるとするならここ一、二年の内に自分を見つけて欲しい。それならまだ2010年のW杯に間に合うのだから。
2006.07.04
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W杯もいよいよベスト4が出揃った今週末、試合に釘付けだった人たちは昨日の休日を寝不足解消に当てていたのではないだろうか。そういう082も今回は「魔のヨーロッパタイム」を適当にこなしながら準々決勝の試合を見ていた。個人的予想(希望)から言うと準決勝は「アルゼンチン-イタリア」と「イングランド-ブラジル」を期待していた。実際に勝ち上がってチームの結果から言えば1勝3敗で082の予想はズバリ外れたことになる。いずれにしてもアルゼンチン、ブラジルなしのベスト4は何かしらユーロの準決勝のようでW杯には似つかわしくない顔ぶれになってしまった。愚痴はともあれ本命のブラジル、敗因の多くはパレイラ監督の戦術の間違いにあったと酷評されている。おそらく優勝が目的という十字架を背負ったブラジルの監督としては「まだまだ準々決勝、ここらあたりでロナウジーニョに点を取ってもらい調子を上げてもらわぬことには最後の二戦がきつくなる」と言う読みがあったのだろう。結果は、前線のロナウド、ロナウジーニョにつなぐべきカカが絶不調、後半63分にアドリアーノ、同79分にロビーニョを投入するまでブラジルらしいパス回しをあまり見ることが出来なかった。ジュニーニョペルナンブカノ、ジウベルトシウバ、ゼロベルトのトリプルボランチを使ったのも、もしかしたら「ジダンの動きを止めなければ」といった「ジダンの呪縛」があったのかもしれない。一方終了間際のフリーキックをロナウジーニョが惜しくも外してしまった。あれが決まれば、おそらく調子の上がったブラジルが延長で勝ち越していたようにも思える。この試合が終わってみれば、今大会は「ロナウジーニョの為のW杯」になるはずが、「ジダンの復活祭」になってきそうな様相。やはり「神の声」を聞いたジダン率いる地獄から這い上がったレ・ブルー(フランス)に残り2試合期待としよう。最後に、カカやロナウジーニョの責任問題は語らずに、全てを己の采配ミスと認めた敗戦の将、パレイラ監督。彼はお国に帰れば戦犯扱いで可也の詰問が続くのだろう。負けても何も問われないジーコ監督とは大いに違う環境だ。それは一重に監督の問題と言うよりもフットボールの結果を社会がいかに受け止めるかの違いでしかない。以前から言う、ペーパー資本主義、ペーパー民主主義の日本社会はフットボール界においてもまだ一流国のレベルには追いついていないようだ。そう思うと、日本代表がベスト16、ベスト8、ベスト4の常連となるまでの道のりはオシムジャパンの4年くらいじゃまだまだ埋められないのかも知れない。
2006.07.03
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