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先般お邪魔した「つる家」でから得た六実の古くからやっている酒場の情報を頼りに三度、六実を訪れることになりました。一度目は新鮮な処女雪を探り探り進むような興奮を覚える、二度目は初訪時の感興を確認するため、三度目はこの町が己にしっくりと馴染み、そしてわが町となり得るかをそうなったつもりでキョロキョロと余所者感を放たぬよう周到に心構えして臨むのであります。なんてもっともらしい事を語ってみせますが、実は前々回に訪れた際には車で送ってもらったわけですが、新京成線を背後に残して車を進めたその車中から見過ごせぬ酒場物件を目撃していたのであります。そこは駅からは10分程度のそうは遠いといえぬ場所なのでありまして、都内近郊であればまあ何ら躊躇なく赴くであろうけれど、ここは六実。柏駅にも20分は電車に揺られなければならぬような土地なのであります。そう書くと大した距離ではないように思えるし、書いていても確かにそう遠く思えぬ。実際ここから新宿に通勤されている方ともお会いしています。だけれど、六実に帰る人はそれでいいかもしれぬけれど、ぼくのようにここまで来る時間に呑み歩く時間を加えると帰宅時間は必然いい時間になってしまうのであって、それを思うとやはりそうそう通う訳にいかぬのであります。 ともかく夜道―夜道といっても人通りのない道で、夜の住宅街も人通りがなく嫌なものだけれど、自動車道路というのも憂鬱なものであります―を自動車のヘッドライトを無作法にも浴びせられながら歩いていくと、やがて車窓から見えたバラック酒場が見えてきました。「喰い処酔い処 清か」というらしい。居酒屋とスナックが軒を並べているように見えるけれどスナックは営業していないように思われます。さて、店に入るとアッサリと先の疑問は氷解するのでした。店は大きく2つのコーナーに分かれていて、オーソドックスな居酒屋コーナーとカラオケ好きのためのスナック風のコーナーとなっているのです。ナルホドね。居酒屋コーナーは見ようによってはアメリカのドライブインのようにも思えて、なかなか味わいがあるけれど、背後からはおばちゃんの団体さんのカラオケ音が響き渡るのであって、それはそれで場末めいた雰囲気で悪くない。お通しは白和えだったか、これがママさんの自宅だかの庭で取れた柿を使っていてなかなかオツであります。20年前からここでやっていて、もとは焼鳥屋さんだったお店を引き継いでやっておられるようです。もとのお店の屋号は「鳥元」だったっけなあ、今では松戸だか柏に移られて商売を続けておられるそうです。といった話しを時折に自虐的なネタを絡ませ語ってくれるようなママさんは実に明るくていらっしゃる。奥の入口からかなりの高齢を見受けられるご隠居さんがやって来られた。この方もなんとも愉快な方で毎夜のようにここに来ているようで、散歩のコースに組み入れられているのですね。何とも愉快だけれどこのままでは、帰れなくなりそうなので席を立つことにしました。 実は来る度にここの「鳥孝 六実店」には顔を覗かせていたのですが、ようやくこの夜に入店が叶いました。ここが町では一番古くからやっていて、「つる家」の主人が語るにはもっとも美味しい肴を出してくれる酒場であるとのことでした。さすがに人気店らしく空きのあるのは奥の一卓のみです。まあ、正面にテレビもあるし、独り客には有り難い。場所柄なのか独り客は余りないのだろうか、カウンター席がないのが残念、なんてさっきと真逆な事わ述べても気にせぬのだ。「鳥孝」は東葛地域で展開する焼鳥チェーンでありますが、かつては20店舗近くあった―松戸店の箸袋裏に記述がありましたが、先般のものにはそや記載はありませんでした―のが今では半減したというような話しをどこかの店舗のおばちゃんにお聞きしたことがあります。だとすればぼくはその大部分にお邪魔したようだ。なんて一番立派な柏店には行けてませんが。いずれの店舗も似ているけれど似てないところも多い。それはどうやら肴よりも店の方のキャラクターに根拠を求めるべきかもしれません。何処もなかなか個性のある方が多くてそれがここを訪れる楽しみでもあるのだ。こちらの代名詞である鳥料理、もも焼きや手羽焼なんかもいいけれど、無難に串のももにしておこうかな。都内の酒場は焼きとんが主流で、それはそれで無論旨いのだけれどやはり居酒屋の定番は鶏だと思うのですね。当然都内にも焼鳥屋は幾らでもあるけれど、そこら辺の普通の居酒屋で普通に焼鳥が頼めるから千葉の酒場に通う事になるのです。
2019/01/31
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町屋というのが正確にどの辺の事を指すのか明確に把握しているわけではありませんが、これから向かおうとする酒場に至るには、それなりの距離を歩く必要があります。駅を背に隅田川方面にひたすら歩きます。やがて都立尾久の原公園があったり、首都大学東京の荒川キャンパスがある通りに出ますが、その手前の住宅街に寄り添うようにしてその酒場はありました。 そこは酒場と呼ぶのが相応しいか正直良く分からない。なぜならそこはと書き出そうと思う刹那にそれは違うと思うのです。その迷いを説明しようと思ったのだけれどどうもうまくいきそうにない。と言うよりこちらの店について無機質な口振りで説明するとすれば、かつて酒屋さんだった店舗を自由に呑み食いしてもらいつつお喋りができるように近隣の方たちに開放しているといった感じになりまして、酒や肴が切れると気の毒だから多少の酒や肴は提供するということにしたというところでしょうか。かつての酒屋時代の屋号を踏襲せず「やきとり やまや(山屋)」という店名を掲げているようです。という訳で角打ち好きの方には申し訳ないけれど、酒屋らしき痕跡はほぼ留めておらぬので、ここは角打ちには当たらぬのであります。唐突ではありますが、内観も焼鳥などの肴の写真もまるで残っておらぬことをお詫びいたします。しかし、実際にこちらを訪れていただければ分かることですが、少なくとも来歴のユニークさに比して店内の様子が面白かったり奇抜だったりすることは少しもなくて、小さな町の公民館とかせいぜいそんな感じなのでありますし、酒や肴に至っては家庭料理の粋を出ぬのであります。でもそんなことはこの店に通う方たちにとってどうでもいいことなのかもしれません。いつもの顔といつもの時間に変わらず会えるということがどれだけ幸福であるのかを彼らは知悉しているのであります。ぼくのような若造が入り込む隙はまだまだないし、あってはならぬのです。なんてやけに構ってもらったりしたんですけどね。 そのすぐそば、日暮里・舎人ライナーと都電荒川線の交錯する熊野前に至る通りに「居酒屋 二三」があります。衒いのない質実な構えに好感が持てます。さっきの店が見栄えよりも実を取ったとすれば、こちらは機能を越えた様式美にも通じるところを目指しているというと言い過ぎだろうか。でもこういう造りのお店って大好きなんですね。両国のとんかつ屋も似たような造りだったと思うのですが、店の手前がカウンター席になっていて、独り客が軽く引っ掛けてささっと引き上げる、奥は広い座敷になっていてそこでは団体だったり家族連れだったりがワイガヤと楽しくやっている。こういう店では座敷を興奮した子供が駆けずり回ったりするもので、普段なら知らぬ親の子だろうと怒鳴りつけるかもしれないけれど―無論、親の風体を確認してからだけど―、こうした店であれば子供の気持ちが良く分かる気がするのです。気持ちが理解できるだけでなく気持ちも大きくしてくれる効果があるのかもしれません。こちらは母子でやっておられて、息子さん―と呼んでしまっては失礼なのか!? このびっくりマークの指す意味は実地にご確認いただきたい―はお若いのに幅広いジャンルの料理をこなされるようです。ここでは肴もお楽しみにしていいのではないか。とにかくそこらでは食べられないようなメニューがあるから食道楽の人でもきっと楽しめるはず。まあ家庭料理の範疇なので、その辺を弁えてさえいれば十分、彼の料理上手を感じられるはず。といったように欠点らしい欠点がないのは素晴らしい。あっ、そうか、こちらの立地は明らかに欠点だなあ。町屋駅からここまで来て、帰ることを考えると、う~ん、やはり少し気が重くなるなあ。
2019/01/30
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いつものように前文で誤魔化すのもなき辛くなってきたました。金町の駅外れの呑み屋街の事は、このブログにお付き合い頂けている方であればもうリサーチ出来ているだろうから、これまで以上に語る事などないのです。でもあえて語っておくならば、これからお邪魔するお店、実は大変な人気店かもしれぬからその点は参考になると思います。 お邪魔したのは「家庭料理 天坊」であります。外観だけを判断基準として店選びをするのはかなり無理があるし、それで痛い目にあうことがあるという事を知らぬわけではないけれど、それしか手掛かりがないのであれば酒場好きとしては、入るしかないという結論に至るのが辛いところ。特にこの一帯の酒場は全店制覇―あっ、なんか嫌な言い方だなあ―、入ってみたいと思ってしまう不憫な性癖なもんだから始末が悪いのです。こちらは白地に店名が記されただけの質素な見掛けなのが潔くて好みのスタイルです。実はこの前によしと決心して店に向かうとマダム御一行が次々に足を踏み入れているのを見て、ここは女性客も好む居心地の良い店なんだろうなという安心感が芽生えると同時にそんな安全なお店への興味が一気に喪失していくのを感じるとともに、このかしましい方々のいるお店は大層騒がしいのだろうなという危惧で一度はとって返すことも思ったものですが、結局は玉砕覚悟でそのまま突入を試みたのでありました。テーブル席にはマダム達に取り囲まれるようにおっさんが独りというさほど羨めぬハーレム状態でありました。当然、カウンター席に腰掛けるぼくは彼女らの会話に耳をそばだてることになるのでありますが、残念なことに交わされる会話はちっともぼくの心を揺さぶらずにやがてテレビの画面に没頭することになるのでした。店内は極めて清潔かつ代わり映えせずあまり面白味はありませんが、まあ女性好みではありそうです―差別的な意味は孕んでいません―。肴にメンチカツをオーダー、これが付け合せも豊富でメンチカツそのものも手造りなのに上出来でありまして、ちょっとばかり量は多いけれど、無事完食いたしました。なるほど肴の上等なところが女性の人気を呼んでいるんだろうな。店のご夫婦はけして愛想が良いとは言えぬけれど、店の方に必ずしも愛想は無用なのだ。 肴は旨いけどどうも手持無沙汰感がそれを上回る印象を残した先の酒場では、どうも満たされない気分だったので、確実に手持無沙汰感を埋めてくれるであろう「大力酒蔵」を目指したのであります。ここは仮に独りきりだとしてもぼっち感が希薄であります。それは常連同士の繋がりが濃密であるためか、特に会話など生じる機会がなくともなぜか寥々たる気持ちに陥る隙がないのであります。それを疎ましいと感じるのであれば行かねば済むのでありますが、ここの煮込みの旨さはただ事ではない。ということで早速注文するのでした。赤味の強いトロリとしたスープがデミグラスソースのようなのだよな、と口にして違和感を嗅ぎ取ってしまいました。かつてのしつこいまでの濃厚さはどこに行ってしまったのだろうか。聞くところによると、代替わりしたとのことである。残念なことを御当人にお聞きするわけにもいかぬからここに足繁く通う知人から聞いたのであります。味はいいのだけれどここのかつての味を知る者としては一抹の寂しさを表明せぬわけにはいかぬのであります。しかしママは相変わらずとても感じがいいし―しかしどこかしら儚げな表情をお浮かべになられる気もする―、やはり好きな酒場だなあと独り笑みを浮かべるのですが、端から見ると不気味だったかもしれぬ。男は好きな酒場でも仏頂面を浮かべるべきなのです。
2019/01/29
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六町駅周辺には、場所が場所なだけに数は少ないけれど、長年営業を続けていると思われる居酒屋も要所要所で見掛けることができました。改めて見ると日本的と言えばこれ以上日本的な屋号はないと思える「居酒屋 家族」―「北の…」とか余計な修飾がないところが真面目で寡黙な印象で好ましい―、手書きのホッピーが描かれたトタン看板がそそられる「居酒屋 よっちゃん」、どうしてここが酒場じゃないのかと二毛作を本気で検討していただきたい「立喰そば うどん 和泉」などこれだけのためにも六町を再訪する価値があるかも。「和泉」は営業していたのですが、素通りせざるを得なかったのです。通常ならば多少の無理をしてハシゴもあり得たはずですが、喫茶巡りの途中で遭遇した一軒の中華飯店のとんでもない迫力をモロに受けた以上はいかにかけそば一杯でも喉を通るはずがないのです。「新興軒」は、いかにも町外れであればどこにだってありそうな当たり前だけれど、今の都心部では少しも当たり前には見られなくなったそんな地元に根を張った中華飯店であります。店内はテーブル席に小上り席と場所柄ファミリーを想定した造りとなっています。だけど人が切れることはないけれど満席になったりするという事態には陥ることもないようなので独りで1卓を占拠しても非難はされぬはずであります。さて、この日はA氏と一緒だったのですが、ぼくと同様に食がめっきり落ちています。かつては旺盛なる食欲を誇った彼も齢を取ったということか。さておき、瓶ビールを注文、ご飯ものや麺類は腹に溜まるから餃子を一枚取って、野菜炒めとワンタンの定食を注文しました。やがて運ばれた餃子は味はすごくいいのだ、だけれど残念なことになんだかぬるいのであります。どうしてこんなにぬるいのだ、実にもったいないことです。その間、職場仲間のグループのもとに運ばれる中華丼や天津丼の量のすごいこと、とりわけ500円の豚丼のボリュームはチェーン店の特盛どころでないボリュームに思われ、思わず目を見張ったものです。それは野菜炒めもそうだし、ワンタンも並みのラーメン丼などより巨大なドンブリに盛り付けられているし、やはりというべきか大量のライスが添えられていたのでありました。このライスがパッサパッサで好みの分かれるところですが、ぼくは大好きなのです。日本の朝ごはんといって通常思い浮かべるような定番であるなら日本のしっとりむっちりとしたのがうまいと思うけれど、インド料理やタイ料理はもちろん中華料理にもパッサパッサのメシの方がよほど合うと思うのです。この後、呑みに行くからあんまり食べちゃならないと思いながらも、つい二人で食べつくしてしまい、満腹感を蹴散らすためにひたすら歩くことになるのでした。
2019/01/28
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六町駅はつくばエクスプレスの都内最北の駅です。北千住駅の次が馴染み深い青井駅で、その次が六町駅です。青井駅と六町駅は駅間がわずかに1.4kmなのにその次の八潮駅までは3.6kmもあるのです。青井駅では何度も下車または乗車しているのに、六町駅まで歩いた事はついぞ機会を逸していたのです。そして常々思っていたのがどうして六町駅はもう少し北側に設けられなかったという事です。六町の北側には巨大な花畑団地が相変わらずの不便を強いられているかに、少なくとも余所者には感じられるのです。何ならもう一駅を設置してもおかしくなさそうに思えるのです。その辺の事情は調べれば容易に明らかとなりそうですが、どちらにせよ余り気分の良い話ではなさそうだから知らぬままとします。しかし、六町駅が例えばあと1kmでも北にあったなら間違いなくすでに今回の報告を終えていたはずです。歩けるけれどちょっと面倒という距離感、それが気軽に足を伸ばせぬ障壁となっていたのです。などと己の怠慢を交通機関のせいにするのはどうかしている。ぼくが常々驚かされていると同時に嫉妬という感情抜きにはおられぬ喫茶巡りのすごい人がおられて、じゅんじゅん会というサイトで精力的に見も知らぬ珠玉の喫茶を紹介されていて、それが余りにも鼻が効きすぎていて訝しい位なのであります。どれ程の時間と金を投資しているのかも無論他人事ではなく気になるところだけれど、何よりその情熱の根源をお聞きしたいものです。ともあれ、今回はじゅんじゅん氏を見倣っての工夫のない喫茶巡りなのでご参考にはならぬものと思います。 怠惰なぼくですが、かつて六町駅を目指したことがあります。そこは正確には青井駅と六町駅の中間、より正確を期すると明らかに青井駅寄りでありますが、かつて―5年前のことだったと記憶します―こんな喫茶店ありました。「珈琲の店 ハルキ」という名でありました。一度夜にお邪魔していて、その時の写真はどこかにいってしまったようですが、オーソドックスな店内ながらふくよかなママさんがとても感じが良かったという印象です。こちらはその後閉業してから撮影したのだろうか、それすら記憶にありませんが、今回は痕跡すら認めることができませんでした。 目当ての喫茶店はもうすぐというところで、「カフェテリア プリーズ(Please)」がありました。通り過ぎても良かったのですが、けち臭くもつくばエクスプレスの運賃を嫌って、東京メトロの綾瀬駅から歩いたのでちょっと休憩して、気分を散歩モードから喫茶モードに移行してからが至って家庭的なオーソドックスな造りの気軽なお店ということもあって、写真はご遠慮したのですが、それならきっちり撮っておくべきだったと後後になり後悔するのでした。 後悔したと書いたけれど、目当ての「珈琲 愛花夢」に入れたのはうれしかった。いやまあきっと当たり前に営業しているのだろうから入れて当たり前なのかもしれませんが、このところ営業しているはずなのにどうしたわけかやってないという境遇に恵まれてしまい、もうだめでもともとと決め込んで現場に至ることがほとんどなので、やってることだけでとてつもない歓びに思えるのです。さて、じゅんじゅん会の写真では結構なオオバコと思えましたが、実際には思ったよりもこぢんまりとしていて、しかしあの印象的なレリーフはやはり実物は写真に勝っているのでありました。しかしこの細部にのみ頓着するのは誤りだと思うのです。なぜというにこの飾りを他所に移設して飾ってみたところでしっくりいくかというとそうはならないはずです。この事と次第によっては下品になったり、某事務所っぽくなったりせず、どこまでも喫茶空間として飾り付けられるには装飾を選ぶ抜群のセンスとバランス感覚、そして大胆さが求められるのだと思います。こんな都内では辺境と言われかねぬ地でもこれほどの潜在力のあるお店があったとは、不遜な物言いをすれば出し抜かれる前にやはり六町に早く来ておけば良かったと無念に思うのです。 外観が工事中というのが気になって「セザンヌ」に立ち寄りました。チェアのリラックス感が悪くないけれど、特にどうこういえるようなお店ではありませんが、なぜかくつろげます。それはここが夜には居酒屋的な営業スタイルとなっているからかもしれません。多くのメニューが近隣の方に重宝されているのだろうなあと推測できます。が、お邪魔した際にはお客さんはおらず、くつろげるのに何だか長居するのが申し訳ない気持ちになりました。 さて、六町駅をさらに北上、つくばエクスプレスや綾瀬川とは別れを告げてここら辺がちょうど花畑のど真ん中になるのでしょうか。これまたじゅんじゅん会で紹介されていた「カフェ・ド・ブラッサム」はお休みのようです。ここは見るからにオオバコ風で内装は表からも眺められて、これはやはりスナック風の造りだなあ、むしろこぢんまりしたハコに収まるのが適当かもなんてことが分かってしまったもののそれでも入ってみたかったです。ならば途中見掛けた明らかにスナック風で開け放たれた戸の内側もやはりスナック―な「喫茶 メルシー」にお邪魔しておけば良かったかな。 ところで、じゅんじゅん会については、以下をご覧ください。 じゅんじゅん会公式写真集 https://plus.google.com/collection/wBxKXB
2019/01/27
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町屋の中心からは外れて、少し南に下り新三河島駅方面に歩いていくとごちゃごちゃとした飾り付けや貼り紙が目立つ普段なら通り過ぎてしまうような構えの酒場がありました。いつからあるのか知らぬけれど、少なくともこれまでぼくの視界には収まっていたのかもしれぬけれど、意識に留まるようなタイプの店ではないようです。この日は早めに所用を済ますことができ5時前には町屋に来る事ができました。この後に約束があるので時間調整するだけの時間潰しをするのにはこの店は良さそうに思えました。 というのもこの「名物やきとん とみちゃん」は、ハッピーアワーのシステムがかなり過激なサービスがあるらしく、そのためか表から近所の主婦グループが呑んでいるのが眺められます。ハッピーアワー狙いなのでしょう、奥には老人グループやスナックのママさん御一行が常連を同伴していたりもします。ぼくは窓際の窮屈だけれど町ゆく人々の往来を眺められる格好の席を充てがわれます。ここなら待合せにも都合が良いな。その後も特に夫婦連れなんかが目立ちましたが次から次へとお客が押し寄せ2階へと良いペースでピストン輸送されます。これは何とも盛況だわいと慌てて注文。この先があるから肴はすぐに出てきそうな牛スジ煮込みを頂いたのかな、これが200円程度とは破格にお手頃です。量も値段からは思いもよらぬボリュームだし味も良い。というかこれなら看板商品になるんじゃないかと思えるくらい。多様な部位が入っているのが好みにドンピシャでした。酒はハッピーアワーの効果の薄いホッピーにしてしまいましたが、それでも勘定書きはギョッとするようなものでありまして、これじゃ主婦会をここでやりたくなるのは当然かもしれぬ。町屋にはこうした昼呑み可能な酒場が何軒かありますが、ここでお得さに勝る店などなかろうから彼女たちは昼下がりの飲酒に格好の場所を確保し離すことはないのだろうなあ。でもいつも残業続きで遅くなる旦那がたまたま出張から直帰してそのザマを目撃したら大変な事になろうから、奥の目立たぬ席で呑むのが懸命と思うのだけれど、今時の昼下がりの妻たちは旦那の事など少しも恐れてはいないのかもしれぬなあ。だとしたら何とも羨むべき身分でひたすら嫉妬するしかないもの甚だ口惜しいことです。
2019/01/26
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金町の駅前が繁華街化しない理由として、都内の駅前としてはかなり贅沢な敷地が金町駅前団地によって占拠されているということがあると思います。これは別にこの団地の事を悪く言おうというつもりなどさらさらなくて、むしろこの団地の存在こそが金町の呑み屋街の個性の根源になっているのだと思うのです。巨大な三角地帯には寺や病院、小学校まで揃っていて至れり尽くせりの宅地開発がなされていて、ここを取り囲むようにして呑み屋さんが点在しているのであります。密集せずに適度に散らばっているのがむしろ良い。三角の頂点の先にやはり小さな三角地帯があります。ここが金町の隠れた呑み屋街を構成していて、なかなかに魅力的なのです。といってもここらにあるのはわずかに5軒なのでありますが、そのいずれもが一度は入っておきたいという潜在力があるのではなかろうかというオーラを放っているのでした。 というわけで、気になる店はつい先に手を出したくなるという誘惑をなんとか制御して、一度に全店回ることも可能かもしれぬところを何度かに分けて訪れることにしたのでした。「酒処 のぞみ」は外観だけで言えば「大衆酒場 末広」に次いて好奇心をくすぐられるお店でした。いそいそと店内に入ると右手にカウンター、左手に小上りという「末広」と似たような造りであります。後日お邪魔したここのお隣の店もまるっきり同じ造りでありました。金町の居酒屋はこのスタイルが定番だったのでしょうか。京成線の裏手の呑み屋街は狭小な立地の為か各店舗がその土地の形状に合わせるように様々な表情を見せてくれたのは大いに異なっています。お通しはチクきゅうとでも呼ぶのが適当なのか、チクワの穴にきゅうりをねじ込んだもので若い頃はこんな地味なもので誤魔化しやがってと出される度に歯がゆい思いをしたものですが、今ではこういう軽めの肴が愛おしく思えます。ならばさっぱりと呑もうと注文したのはゆで鶏であります。これ自分ちでもたまにやるのだけれど、変に凝ったりせずにシンプルに仕上げた方が美味しいんですよね。タレもあれこれ加えずこちらのようにポン酢をさっと降る程度でも十分なのです。そうそう写真からは見て取れぬけれど、お客さんも客席の半分を埋める程度に賑わっています。5軒を巡って眺めた限りにおいては、いずれもそこそこのお客の入りがあり、やはりご近所の方が大部分です。人によってはぼくと同様に日替わりで使い分けているのかもしれません。いや、そんな浮気なことはしないのかな。店の主人は50歳前後のちょっと性格キツ目の方とお見受けしましたが、注文を熟して客たちと言葉を交わしだすと表情は余り緩むことはないけれど案外お喋りで付き合いの良いお方のようです。う~ん、この5軒はどこも似ているようで少しづつ主人たちの個性が異なっているので、自分の気分次第で使い分けするのもなかなか気が利いていて楽しいです。
2019/01/25
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先般松戸の外れにある六実にたまたま立ち寄れて軽く呑み歩いたことを報告しましたが、その際にに六実という土地がその程度で収まりが付けられぬ町であることを知るに至ったのであります。先般お邪魔した「つる家」で伺った六実の古くからやっている酒場の情報を頼りに再訪れたのは駅前の、いかにもな駅前酒場らしい酒場だったのでした。 聞いていなければ敬遠したであろう「居酒屋 美也子」を呑み始めの酒場としました。常連の一人の高齢女性は、わざわざ新鎌ヶ谷駅まで自転車をこぎ電車に乗ってこの店に足繁く通っているとのこと。こちらの女将さん―きっと美也子さんというのだろうな―を大いに好きらしく、客に媚びないし料理の腕もすごいのよと褒めちぎります。ここのお客さんはいい人ばかりでね、と語り始めたのがかつての常連だった女性のお話です。その方はいつも独りで隅の決まった席に腰を下ろし、いつも愚痴に付き合ってくれたそうです。しかし、ある日から突如姿を暗ましてしまい、常連たちはその消息と安否を確認しようと必死に情報網を張り巡らしてやっとのことで彼女を発見したそうですがその時にはすでにお亡くなりになった常態でした。孤独死だったそうです。自分の来歴など一切口にしなかった彼女を失ったことを信じられぬ常連たちはようやく判明した彼女の故郷である五所川原にツアーを組んで彼女の影を追い求める旅に出たそうです。しかし、それでも未だに彼女の死を受け入れることができないのよとここばかりは寂しげにお話しいただけたのでした。ぼくも将来こういう常連たちが互いを気遣うような関係を築けるのだろうかとふと入り浸る酒場を一軒もつのもいいものだなあとしみじみ感じ入りました。と常連の仰ることはいかにも身贔屓が過ぎるとは思うけれど、それでも訪れるべき店が当たり前にやっていてくれる、そんな安堵を求めにやってくるお客さんはきっと絶えぬと思うから余所者が余り邪魔してはならな気もするけれど、席が残っている限りはまあ良しとされると思います。 次は駅から少々歩いた住宅街にある「阿久利」に伺いました。緩やかな坂道の中途にあります。民家居酒屋とでも呼ぶのが適当だろうか、自宅と兼ねておられるのだと思われます。ジャージ姿の女性や口の悪いけどこの酒場が好きで仕方ないといったお兄さんなどが実に騒がしく陽気に呑んでいます。そんな間に割って入るのも気が引けるけれど、店内はカウンター8席程度に奥に狭いグループ用の席も用意されていますが、照明は消されあまり使われることもなさそうです。店主は硬派と思いきやかなり客とはくだけた関係性を構築するスタイルらしくて、下ネタもなんのそのというフランクさで、この辺は好みの分かれるところかも。肴はそれ程種類はないけれど過不足はない程度には揃っていて、後から来たお客さんは冬場は独り鍋がお気に入りのようです。町外れの店だからもっと濃いムードを期待したいところですが、大抵は常連が織りなす人間模様なんぞを観察したり時には混じりこむという体制で臨むのが良いようです。買い替えたばかりのレジスターがどうもうまく使いこなせずにいるらしく金額の表示が暗くて見えないからとわざわざモニターを照らすために小さな照明スタンドを設置しておられます。主人はそれをどうだい、なかなかいいだろうと誇らしげに語ってみせますが、口の悪い常連たちはちゃんとマニュアル読みなよ、バックライトが点灯するに決まってるじゃんと大いに馬鹿にする。結局のところ、店の風情という点では、「つる家」が他店を圧倒する強度を確認できたのであります。
2019/01/24
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町屋という町は、雑誌なんかの居酒屋特集に取り上げられることも少なくないようで、何度か目にしてパラパラとめくってみたりすることもありました。今ではそうした企画自体に飽き飽きしてしまった事もあり、町屋に限らず雑誌そのものを手に取ることも稀な事になってしまいました。何より取り上げられる居酒屋がマンネリズムに陥っており、町名を見るだけでそこで紹介される店については大体の予測が付いてしまい、事実そのまんまだったりすることもあるから嫌気がさすのも仕方のない事なのであります。たまに変化を狙って見知らぬ店が交じることもあるけれどその大部分がこんなつまんなさそうな店を本気で紹介するつもりなのかと筆者なり編集者の良識を疑いたくなるような無理矢理感を嗅ぎ取るばかりなのです。そんな紋切り的な扱いにずっと町家は晒されてきた気がします。これじゃ町家は逆にそんな決まりきった居酒屋しかないのかという誤解を受けかねぬではないか。ってかくいうぼくも実のところ余り町屋の良い理解者などではなく、ここは隈なく散策すれば思いもかけぬ幸運が潜んでいるのではないかという漠たる予感、いや確信があるにも関わらずつい蔑ろにしてきてしまいました。それではいかんということで早速赴く事にしたのです。 折角行くのであれば極力駅から離れて不便なとこに行ってやろうではないかと駅を背にしてひたすら北上するのでした。隅田川までもうすぐという辺りまで来ると流石にそろそろ店を決めねばという焦りに後押しされるようになんとはなしに入ることにしたのが「ぶんぶく亭」でありました。勘定を済ませてから主人に伺ったのですが、店内は列車の枕木や木製の電信柱の廃材をリサイクルした柱などで装飾しており、じっくり眺めると実に興味深いのです。そのことを尋ねるとこれまで全くの無口だったご主人が丁寧で控えめな口調ながらも熱を込めて語って下さったのでした。他にお客さんはおらず、随分早い店仕舞だなあと思ったけれど店への愛着はお強いのだなあ。カウンター席の後ろは壁かと思いきや木製のパーテーションで仕切られていて、その奥はテーブル席もあるようですが、あまり使われることはないようです。と褒めたり落としたりと忙しいことですが、どうも焼鳥屋としてはちょっと残念な感じです。まず値段が高級店並みなのがこの辺りで商売するには厳しいんじゃないか。それに加えてポーションの小振り過ぎるのは物足りないだけでなく、肉自体が火が入りすぎてしまうのに寄与するばかりな気がしました。
2019/01/23
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かつては、常磐線各駅停車の綾瀬、亀有、金町について、不遜の極みたる発言をした事を後悔しています。覚えている方は少なかろうし黙っておけば済むことかもしれぬけれど、それを黙ってられぬのが育ちの悪さということで言い訳にはならぬだろうが勘弁はいただければと思うのです。かつては、綾瀬が一番、金町二番、ぐっと落ちて亀有なんて言っていたけれど、昨年の亀有ローラー作戦によりその序列は激変し、亀有一番となったのであります。そして昨年の暮れから金町に足を向けるようになると、なんと現金なことか、金町も捨てたものでは無いと恥知らずにも転向を表明する帰結に至ったのであります。しらっとした顔で開き直って金町の酒場の傾向について語ってみたりする。極論すれば、金町にはそれ程に際立った個性を持つ酒場はない。これには様々な異論が交わされても仕方ないけれど、実際にぼくも他人がそう断言したなら反論を試みるだろうけれどここでは直感に従うことにさせてください。 という事で普通だけれど、そこはかとない実力を醸す「呑み食い しんゆう 金町」を報告することにします。金町駅から歩くことしばし、世の人々が途中下車で立ち寄る居酒屋としてはギリギリの距離感にあると書けばその立地の絶妙というか微妙な位置を分かってもらえるだろうか。ぼくは先般来た時にここなど遥か通り過ぎて他所の酒場に向かった位だからなんの参考にもならぬのであります。って読み返すと何言ってんだかよく分からんけど、とにかく気にはなるけれどギリギリのところで行くまでもないかなんて事を感じてしまう酒場が金町酒場だと取り急ぎ定義してみせるのです。さて、外観以上に怪しげな階段を上がるとやはりここに入ってしまってホントに大丈夫なのだろうかというエントランスさんが待ち構えているのです。ぼくの場合、目先の金銭の損失よりわざわざ時間を掛けてやって来たというその一事が価値観のすべてになる場合があるのです。たから躊躇はあるけれど当然入る事にします。それにしても学生がひっきりなしに往来する表通りとは違って、ビルの中に一歩足を踏み入れただけでかなり不穏なムードが漂い出すのは愉快だなあ。近頃は見晴らしの良い安全で清潔な印象のビルばかりになったけれど、そしてそれはいい事なのは分かるけれどどうも店に入る前の儀礼を排されたようで物足りなく思うのです。不安な環境から逃れるようにして酒場に駆け込んだら心地良い空間が待っていたというのがとても素敵な通過儀礼に思えるのです。まあ入ってみたら意に反して廊下よりも劣悪な環境だったりする事もあるから気を抜けないのですが、ここは前者でありました。内装がなかなか良くて古風な雰囲気がホッとさせてくれます。店の若い主人に尋ねるとまだ開店して5年に満たなかったと記憶するので恐らくは基本的な内装はそのままに居抜いたのだと思われます。これだけの造りは若い人ではなかなか容易ではないでしょう。千円セットなんてのがあります。これは、飲物1杯に刺身ぶつ盛と本日の一品、この夜の一品はししゃもやぶりなどの南蛮漬け。 昨夜の残りを転用したんだろうけれどこれが実に良い。残り物を使い回すのは多くの飲食店で出されるけれど、大概は残り物だからとぞんざいな調理をしているのか旨くないことが多い。それに比してここは、いいじゃないの。若いのに、いや若いからだらしなく手を抜いたりすることがないのかなあ。雰囲気も酒も肴も主人も良くてとても気に入りました。
2019/01/22
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新宿という町にはないものなどはなく、すべてが揃っているという印象がありますが、案外、本当に古いものは思っている以上に少ないものです。池袋や渋谷なんていう後発の副都心とか呼ばれたりする地域も同様の物足りなさがあります。それでもわずか10年も前であればそれなりに古いお店などもあったりしますが、ちょうど世代交代の時期に当たるのでしょうか、次々に店舗は姿を消し、町としての魅力も加速度を増したかのように減じているように感じられます。それでも丹念に歩いてみると、まだ見落としがあるようですね。いや、以前は純粋な酒場という幻想に翻弄されて、世の中のかなり多くのお店が酒場として見做すことも可能であるとの視点が欠如していただけなのかもしれません。いやいやあんたは10年以上前から古い中華飯店や食堂なんかにも嬉々として訪れていたではないかと言われると力強く首を横に振るだけの自信はありません。 新宿駅西口を大久保方面にしばらく行った路地にある雑居ビルの1階、かなり控えめな様子で店を構える札幌ラーメンの暖簾。「札幌ラーメン 大富」なんて立派な店名があるのを知ったのは後のこと。佇まいの渋さもそうですが、無性に味噌ラーメンが食べたくなったのであります。めっきりと醤油派のぼくではありますが―例外的にカレー風味を好みはするけれど―、たまにたまらなく味噌味が恋しくなることがあるのです。昼下がりであったので、ぼくと入れ違いの客が帰った後は店はぼくが独り占めすることになります。店の方すら姿を暗ませて視界には現れなくなったので、実質的に一人だけの空間を新宿の真っただ中で確保し得る体験というのはそうそうないかもしれません。視線を前後左右に向けてみても赤と黒を基調に構成された直線と面のコントラストが実にかっこよく思えるのであります。味噌ラーメンは望んだとおりのオーソドックスなスタイルで、妙にスタイリッシュだったり、凶暴なまでのインパクトが有ったりしないところが大変好ましく思えます。10回に1度はゴテゴテしたラーメンも悪くないかもしれぬけれど、基本的にはシンプルかつ忠実に調理されたラーメンこそがあくまでも定番として不変であったもらいたいし、事実普遍であるのです。以前のように呑み食いがままならなくなると、かつては極力忌避していた昼呑みが愛おしい時間に感じられるのでありまして、つまりは今後ますますラーメン屋やら中華飯店などで過ごす時間が増えるのは必至となりそうです。
2019/01/21
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箱根という日本を代表する温泉街というのに、前夜は呑み過ぎて風呂にも浸からすバタンキュー。目覚めてからも二日酔いで風呂に入る気迫が湧いてこず朝食まではグダグダと過ごしたのでありました。温泉宿の朝食って何でこんなに美味いのだろう。昨夜の宴会向けの夕餉はひたすに苦行のごとくに食べ進め、最後には値の張る食材のみ箸を付けるのがやっとでした。いやはや何とももったいないものだ。温泉の食事は豪勢である必要などないのであります。なんて食事などどうでもいいのだ。二日酔いだけれど無理などあるけれど立ち向かわぬ訳にはいかぬのだ。で、またインターバル、今晩は二日酔い必至のへらへろ状況なのだ。だからあえて正直コメントをするつもりだったのだけれど、実は案外嫌いじゃないのだから困ったものだ。 特に駅前の「純喫茶 BELL(ベル)」は、ぼくの好みのドンビシヤリなのです。格別に衒いの余地などのにもないのだけれど、それはともかくとしてぼくの本当に好きなのはこういどうでも良いごく普通な店なのかと思わぬでもないのです。近頃、飾り気のないなんでもないお店に対してとても寛容になった気がする。寛容というのは少なからず目線が高いかもしれません。そうじゃなく正直に言うととても好きになったのであります。ケパケパと煌びやかな喫茶店は今でも無論大好きだけれど、ああいうのはあくまでも怖いもの見たさとかいうのに近い観光的な存在であって、何の衒いもないここのようなお店こそが休憩所としての本来の喫茶の機能であると思うのであります。しばらくぶりに訪れると店の印象など脳裏から消え失せているなんてのは、飽きがこなくて結構な事じゃないか。これが年を取ったせいだとは思いたくないものであるが、それを否定しうる根拠などどこを探してもありはしないのです。壁のタイルや黄色いチェアはなかなか魅力的ではあるけれど、無礼を承知で述べるとするとこれらのセンスはあくまでも機能性を追求したに過ぎぬのではなかろうか。機能性の美(それは言い過ぎかもしれない)としてたまたま結実したのではないか。もしこの推測が当たっていたとしてもそれはそれで素敵なことではないかと思うのでした。 続いては、「智路留」にお邪魔しました。路地裏のうっかりすると見落としてしまいそうなこぢんまりとさり気ないお店です。店内も先の店とはテイストが異なってはいるけれど似たり寄ったりです。しかしそのテイストの違いこそにぼくの好みというか嗜好が反映しているようです。どうもファミリー的というか人と人の距離の近すぎるお店というのが不得手なようなのです。ぼくはどちらかというとお喋りな性癖の持ち主ではあるのですが、それがあからさまになるのは酒を呑み始めてからに限られているのであります。いやいや別に酔っ払って口が軽くなるとかではなくて、ホントはいつだって喋るのは好きだけれど、あれこれと考え事が多くて日中は喋っている暇がないのですね。幸いにも常連の方がお越しになってママさんとの一対一の緊張の張りつめた時間もなく思索活動に従事できました。食事メニューが豊富なので、日中は盛況になるんだろうなあ。 実は最も愉しみにしていたのが、ラーメン店「せんふく」なのであります。何故に楽しみにしたかは写真をご覧いただければ言わずもがな。夕方通り過ぎた時点では真っ暗で閉業したものと思ってしまったのは事実です。宴会も終わり自由の身となり出向いてみても遠目には夕暮れ時と同様にやってるのか不審に思うような状況でありました。しかし、ちゃんとやってるんですねえ。外観を裏切らぬ古めかしい飾り気のない店内に一目でノックアウトです。見惚れてしまったお陰で酒の写真すら撮り損ねるのは酔っ払っていたからというだけではないはずです。ラーメンもまた素っ気ないというか驚くほどに淡泊であったとかいう感想を述べるのは不人情かつ不粋なことであります。ここではきらびやかな箱根の町に取り残された町の残滓を堪能すれば大満足なのです。
2019/01/20
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金町には有名酒場も多く好んで通ったものですが、最近になり駅前の再々開発で駅前の魅力はますます低下の一途を辿っているように思えます。だからつい足も遠のいてしまうのですが、先般知人が金町の住民であることを知り、そしてこの辺りでちょくちょく呑んでいることを耳にしました。その人物と金町の酒場事情について語り合ってみると金町の酒場なら大概知り尽くしている、なんていうこの自負自体が矛盾していることなど抜きに過信していたのですが、聞かされる酒場は聞き及ばぬ店名がいかに多い事か。人はやはり見たいものしか記憶に留めぬし、聞きたい事しか覚えられぬもののようです。 そんな彼から教えられた酒場を調べると―そこは駅から十分ばかり歩かねばならぬのですが―、その周辺には数軒の酒場が寄り添っていて、小規模な呑み屋街を構成していたのでした。そしてその一角をストリートビューで眺めてみると、教えられた酒場はすぐ様に忘却の彼方へと追い遣られ―いやいや、後日お邪魔しましたけど―、強烈にその存在を訴えかけてきたのがこの夜お邪魔した「大衆酒場 末広」だったのです。この構えを見てぼくが惹かれた事に共感を認めて頂ける方も少なくないものと思います。それ程多くはないだろうけれど必ずしも少数ではなさそうです。店に入った時点では女将さんが独りで常連の相手をしていましたが、どうやらしばらくすると旦那もやって来るようです。酒も肴も特筆するような事はないし、けして安いとまではいえぬけれどここの女将さんの人柄が素敵なのであります。と言ってもそこは金町流ということか、けして上品だとか話題が豊富とか言うんじゃなくて、金町の事を熱のこもった言葉で語り聞かせてくれるのです。駅からここに来る際に通る事になる団地前の「田吾作」がこの界隈では最古参、うちが42年になるけどその前からやってるからねと、長く町を見守り愛されてきた事が自慢になるのはとてもカッコいい事です。店は商品を扱うだけでなく町の記憶を留めるための装置でもあるのです。これからも末永く続けていただきたいものです。 続いては、一軒を挟んで軒を並べる「鳥吉」 にお邪魔します。構えこそ期待を煽るけれど店内は改装されており至ってありふれています。これが普通なのだ、残念がっては失礼に当たるというもの。しかし往時の姿を今に留める先の店の事を思いやらずにはおられぬのが人情というもの。店の主人はアジア圏のどちらかからいらしたらしい女性お一人です。居抜きで始めた店をここまでに客の途切れぬ店にしたのだから大したものです。しかしねえ、悪くはないんだけれどどうも座りが悪いのですよ。一見客だからということもあるんだろうけれど、他のお客さんも独りだからけして疎外された孤立感に苛まれるとかいうのじゃないのだけれど、何だか心許ない浮ついた気分が晴らされることがないのです。ようやく店に少しは馴染んだと思えたのは、常連のばあちゃんに語りかけられた頃からです。特にこれといって記憶に残るような言葉を交わした記憶はないけれど、そういう些細なきっかけで店の印象が格段に変容する事があるのだから油断なりません。うっかり一度訪れただけで評価めいた結論は配慮する必要がありそうです。
2019/01/19
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ここ数年で山手線でも少しも垢抜けぬいくつかの駅舎や駅前の様子が一新しました。田端駅もそんな変化に見舞われた一つでありますが、その駅ビルの最上階はお決まり通りの飲食店街となっていて、それらの各テナント店舗では酒場使いも可能でありまして、その一軒ではお得に呑む事もできましたので、初訪ではないけれど簡単にレポートしておこうと思います。 駅の改札を抜けてすぐ、右手のアトレのエスカレーターを4階まで上がると暖簾で仕切られているけれどオープンな「あぶりゃんせ 百干 アトレヴィ田端店」というお店があります。こういう開放的な店舗は駅前酒場や駅前地下街に多く見受けられた構えで、これだけのアイデアでぼくのような凡庸なムード上位主義者などは、いとも容易く吸い寄せられるのだからこれは真似してみても良さそうに思えます。まあ、そういう外套を羽織ったまんまで背中を丸めて熱燗を啜るという風情までは駅ビルに求めては求め過ぎであります。ちゃっと呑んでさっと帰路に着くというのが本来の駅ナカ酒場の有り様だと思うのです。しかしガッチリ暖房の効いた駅ビルだとそうもいかぬ。忙しなくも帰宅前のひと時の自由と開放感を謳歌するにはここは些かに快適過ぎます。さて、早速呑むことにしようか。酒も肴も何だっていい。近頃は特に温奴が気に入っています。適当にオーダーを済ませ退屈しのぎに店内を見渡すと、オヤジと若い娘との取り合わせが目立ちます。部下を連れ立ってなんでしょうが、手近のホステスとでも思っているのでしょうか。社内恋愛や不倫関係を一概に批判するつもりはありませんし、というかむしろ勝手にしろという考えでおりますが、しかし、居酒屋を主戦場とするのは如何にもみっともなく思えるのです。そんな客の観察はともかくとしてカウンターのチラシを見るとどうやらここはニュートーキョーの系列らしく、スマホでQRコードを読み込んで店員に見せると初回のみドリンクが一杯無料となるらしい。以前はこうしたサービスなど面倒で放棄していたけれど、ようやくスマホ操作の勝手を知ると退屈凌ぎに手を出してしまいます。店員に声を掛けると銘酒などでも構わぬという。銘柄酒の2番目に高額の酔鯨特別純米酒700円を頂くことにしました。並々と注いでたっぷり零してくれるのは有り難い。ぐるなびとかホットペッパーなどで事前にクーポンを印刷して持参するのは気恥ずかしいけれど、これなら気兼ねなくサービスを受けることが出来ていいものだ。しかしまあ、こんな小癪な仕掛けで客寄せするような酒場はやはりぼくには似つかわしくないとも感じてそっと赤面を隠したくなるのです。
2019/01/18
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新大塚駅の周辺はおハイソな人たちの住まう文京区のお屋敷街というのが専らのイメージで、その点を鑑みてもJRの大塚駅界隈よりずっと品がいいのであります。いくら利便性が良くても23区という各区のもたらすイメージには厳然たるヒエラルキーが存在するのだ。それを即時にいい町であるかつまらん町であるかの判断基準にしてしまうのは早計であるとの誹りを免れるはずもないのであるけれど、わが人生もとうに折返し地点に立っていることを認識せぬ身としては、老い先短い余生をどうしても有効に活用せねばならぬという思いに捕らわれるのであります。わざわざ新大塚まで出向いて後に空振りというのは極力避けねばならないのです。そんな無駄打ちを排するためにはどう振る舞うべきであろうか。言うまでもなく事前の調査を止むことなく継続し、いつ如何なる状況下に置かれようとも対応可能という体制を確保すればいいのであります。だけど言うは易しの言葉を持ち出すまでもないけれどこれがなかなかに大変なのであります。信用が置けるブログ書きの方がいればそれに追従するのが最も手っ取り早い訳なのですが、彼らの行動範囲はぼくのような横着な人間から見るとアグレッシブに過ぎるのです。仕事を片付けた後にヤレヤレと職場を出てわざわざ回り道をして呑みに行く気概などとうに失ってしまって久しいのです。いやまあ、翌日が休みだったりすればそれなりに遠出することもあったりするけれど、それじゃあ翌日が休みでない大部分の夜はいかに過ごすべきか。しかも調べを付けた駅ですんなり下車するかというとそれむしろ稀なことで、電車に乗ると気が大きくなるのかそれとも混雑にウンザリしてということもあったりして、想定外の駅にて下車することしばしなのであります。それじゃあ事前の調べも無意味であります。この夜も不意に大塚駅で下車したはいいけれど、あてどなく夜道を歩くうちに新大塚駅さえ通過してこのまま行くと護国寺駅か江戸川橋駅に行き着くことになりそうです。それではいつまで経っても埒があかぬとさすがに思い始めたところに何だかとてもいい感じの蕎麦屋があったので、迷わず飛び込むことにしました。「浅野屋」には、大正8年創業との看板があります。これはなかなかの老舗だのおと早くも名店の予感がします。古けりゃ良いってもんではないし、歴史があってもその痕跡すら微塵も感じられぬ事がままありますが、そんな実体の伴わぬ年季など高邁を喧伝しているようにしか思えません。ともかく店内へと足を踏み入れます。いやあ、いいですねえ、老舗という気負いもなく町場の蕎麦屋らしい少しも気取ったところのないところがしみじみ落ち着きます。おお、ビール中瓶が400円とは手頃であることよ。酒肴も手頃な価格帯に揃っているしこれは言う事がないですねえ。よく見るともりが380円とやはり安いけれど、ひとくちそばやうどんが100円なんてのもありますね。でもこの夜の気分はカレーライスでありました。オヤジさんが手早くちゃちゃっと仕上げられるそれはいかにもな蕎麦屋のカレーであります。例の黄色いカレーの可憐さとはまた違ったカレーフレークのそれではなかろうか。ぼくもカレーフレークを愛用し始めて久しいけれど、これがしみじみと美味いのであります。でも、この手軽な家庭の味がいかに旨いといえど、熟練の技によるこの黄色いS&Bのカレー粉によると思われる黄色いカレーの味わいには遠く及ばぬのであります。どこぞやのHPで黄色いカレーの秘密に迫るという記事があって、それを眺めるとカレー粉をラードにて炒める加減次第であの鮮やかな色彩が出現するということで、なかなか家庭で真似ることは難しそうであります。だからぼくはこうしたカレーの自作は諦めています。いや、やればやれるけれど、自宅の冷凍庫にラードを保存するゆとりはないのです。しかも自宅からそう遠くない場所にこうしたお店があって、しかも酒場利用も可能であることを知ってしまった以上はわざわざ自ら模倣することもなくなったのであります。でも次行った時には、う~ん、食べたい品が多くて再びカレーライスを注文するのは随分先のことになりそうです。 勢いに乗じて、以前から目を付けていた「居酒屋 でんでん太鼓」に立ち寄ることにしました。こちらは何が気になるかって表通りから奥まった路地にひっそりとあるのがとても気になります。ぼくのように落ち着きなくきょろきょろと視線を巡らしていれば見出すこともさほど難しくはありませんが、背筋をしゃんと伸ばして颯爽と町を闊歩するような方の視界に収まることはなさそうです。そんな裏通りのしかも背後には護国寺が控えているという少しミステリアスな立地。切り立った崖地と書くと大袈裟に過ぎるけれど、店の裏手は急な坂が忍んでいるのです。ここは今は墓地になっているようだけれど、かつては沼地だったのかしら。落ち込んだら抜けられぬような深みを感じる場所であります。と不気味なイメージを喚起しておいてなんですが、店は至って明朗なお店でありました。お客さんたちも顔見知りばかりで和気藹々。そんなところに一見のぼくがお邪魔して、店の片隅の席に着いてしまうと必然彼らの会話などを聞くともなしに聞く羽目になる。すると和気藹々と思えた彼らにもそう一筋縄ではいかぬ事情が隠されていることを知ることになるのです。この地のようにまさに天国と地獄の落差を知るにつけ、人生ままならぬものだともっともらしく聞き入るのだけれど、酒の肴に甘い物はありとしても甘い話、特にのろけたお話はごめんです。肴は独りにはちょっと多いけれど、なかなかに手が込んでいます。気になったのはお勘定に手心が加わっていたこと。ぼくのようなケチな人間に不信を残さぬように会計も明朗であってほしいものであります。
2019/01/17
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北千住駅の東側は、かつては活気こそ希薄ではあったけれどいい雰囲気に静かな商店街が伸びていて、しばしば目当てもなく歩いたものです。しかし、都心からとある大学が移転して来てからというもの、めっきり足を運ぶ機会が減ってしまいました。この大学などの公共施設の移転は町の活性化を促進する効果のある一方で町の景色を一変させる事も少なくありません。そういう意味ではこの移転は町往く人々もかなり若返りが感じ取れるし、周辺の飲食店なども彼らをターゲットに変貌しつつあるように思われ、まずは成功といって良さそうに思えます。と、心情的にも好意的に受け止めてはいるのだけれど、ぼくの個人的な本音を語ればどうも気に食わぬのです。その理由はハッキリしていて、端的にぼくが若者嫌いという点にあります。中年真っ只中のオッサンのやっかみ、若く精気あふれる連中が眩く思えるとかそういった事では全くないのであります。今の世の中では老人といっては叱責を受けかねぬけれど、ともかくそうした世代の人達が相対的に余程面白く付き合えるのだから仕方ない。「越後屋」は残念ですが、すでに閉業と思われます。以前赴いた際には、2階に人影を見た気がするんですけどね。 大きな川を背後に控える住宅街という風景は足立区の原風景とも評すべき独特の風情を湛えています。そこから実際に川面の眺めは見えずとも背後に悠然たる大河の息吹が感じ取れるような気がするのです。人間の五感とか六感なんて呼ばれる感覚器は、他の生き物たちに比べるまでもなく非常に能力が低いと思っていますが、あからさまに感覚する刺激とはまったく別様の漠然とした知覚を自然から受容しているのかもしれません。そんな足立区の閑静とも呼べなくもない住宅地に身を画するようにして「中華料理 幸楽」はあります。世は町中華がもてはやされているけれど、ここはその典型例とも思えなくはないけれど、この辺をはたして町と呼んでしまっていいものかと常々疑問を感じてしまうのです。まあ他人がそれを何と呼ぼうが知ったことではないし、むしろそんな些事に毎度愚痴を述べるのも大人気ないと糾弾されても仕方のないことです。さて、店内にはにこやかファミリーが遅めの昼食中。ぼくは瓶ビールに迷いに迷ってカツ煮定食としました。まずぼくが頼むことのない品であります。結局はめしの上に載せてしまう訳だから素直にかつ丼を頂いた方が店と客の双方に理があるんじゃないだろうか。出てきた品を見てちょっぴり残念に思います。量もそうだけど小鉢もないのは少し切ない。であればいつもどおり穏当に餃子とラーメンやカレーライスにしておくべきだったか。駅からは遠くはないけれど、あえて再び訪れるのもどうかなという町外れだから未練は普段の未練よりも一層ひしひしと胃腸に響くのでした。しかし昼下がりにこのような素敵な内装の店で差し込む日差しを感じるのは贅沢なことです。
2019/01/16
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池袋には中国料理店が有り余る程に点在しています。その数の多さは東京の夜空の星々の様というよりは地方の田舎町の夜空位に匹敵するんじゃないだろうか。その割を食ったのかもしれぬけれど日本的といえばこの上なく日本的な中華飯店―この呼び方もどうもしっくりこないなあ、ここで言わんとするのはさんざん繰り返し述べてきたので聞きたくもないとは思いますが、いわゆる町中華の事なのです。また一年掛けて適当な呼び方を検討しようか―がそのうちお邪魔しようか、はたまた再訪しようかという躊躇を認めぬかのように数を減らすのでした。今では町中華とは、大陸発の本場風中国料理店を意味すると考えた方がしっくりくるのではなかろうか。などと時流にわざと背くかのような言辞は今年は極力控える事にしたいと思っていますが、そんな年初の宣誓などものの三日もせぬうちに忘却の彼方へと霧散しそうではあります。ともかく町には今では大陸出身の出稼ぎ料理人による店に取って代わられているのは現実であります。そんなお店が多い中で現地の味を日本に迎合することなく保ちつつ腰の座った商売をするお店はその時点で既にいわゆるところの町中華に含めてしまっても構わぬのではないか。そんな一軒が池袋にもあって、そこの妥協のなき辛味にはいつもこれぞ中国の味と驚愕させられてきたのであります。 先日思い出したかのように足を向けたのは「中国家庭料理 楊 2号店」であります。本店主義のぼくではありますが、こちらの十条にあるというお店には一度も訪れたことはないし、恥ずかしい事に場所すら未確認なのであります。それにはそれ相応の理由があって、気に入って通った池袋の中国料理店の多くがそれなりに長い期間に亘って商売しながらもいつしか消え去ってしまうことを知っていたからで、ここもそれに倣うものだと思っていたし、この先もそうならぬとは言えはしません。池袋の三業地にあったハルピンの水餃子屋さんやハタスポーツセンター前のベトナム人と中国人夫婦でやっておられたお店など特に好んで通ったものです。「楊」にしたところで、それと変わらぬ頃から池袋に店舗を構えていたのだからそろそろ信頼を寄せても良さそうなものだけれど、互いに心を許した時点でらくの前から無情に去ってしまう経験はもはやゴメンなのであります。しかしまあ、このお店は変わらず賑わっているなあ。すぐ目と鼻の先の3号店はこちらも変わりなく閑古鳥が鳴いているけれど、そんなに店舗で味に開きがあるということか。だったらやはり客の入の良い店舗を選ぶのが人情というもの。こんなぼくのような安直思考がこうした集客の不均衡をもたらす元凶となっているのだろうけれど、そこら辺は店側に善処を期待したいところです。実際このお店でいやなのは客席が窮屈過ぎるところにあります。ここに来て欠かさずに注文するのは、水餃子に麻婆豆腐、そして担々麺ということになります。水餃子はともかくとして後に続く2品は激烈な辛さにいつも汗をダクダクに流して頂くことになります。だから狭いと周囲の客の視線が気になるのであります。しかし、どうしたことだろう、味は以前と変わりなく大変美味いのである、胃腸に余裕があればいつまでだって食べていたい。麻婆豆腐を担々麺に投入してみてもいいかもしれんなあなどと思うくらいである。しかし、以前のように痛みを伴う程には辛味を感じず少し物足りぬのであります。汗の量も明らかに減っている。これは加齢による代謝の低下が原因なのだろうか。それとも南インド料理に親しんだ事でスパイスへの耐性が向上したのだろうか。はたまた単に味覚が以前に増して衰えたということかもしれぬ。辛さへの欲求は留まるところを知らぬと聞く。ぼくもこれから人外の者として修羅の道を歩む事になるのだろうか。
2019/01/15
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新宿は好きな町だけどとうも呑み歩くのは億劫に感じられます。ひとえにそれは人が多過ぎるというまあしょうもない理由だからであります。無論、理屈を述べるまでもなく人が多過ぎる程に多いからこそこの町は魅力を放つ訳でありまして、まさに人は人を呼び混沌たる坩堝のごとき有り様を呈しています。多様な地域の文化が入り乱れ、広い世代の人々がそれぞれの欲望をぶち撒けつつ、それでも人という生き物は弱く出来ているせいか同じ臭いのする連中は群れるものらしく、場所毎に特異な町並みを晒しているのです。そういう場所は新宿にあっては挙げると切りがないのですが、酒呑みにとってもいくつかの群れをなす避難場所があって、その代表的な一つが思い出横丁になるでしょう。しかしまあ思い出って何なのだろうか、酒呑みなんてのは思い出などという感傷に溺れがちな最も弱い人種であることは明らかな事で、それは吾妻ひでおの傑作『アル中病棟』を見れば身につまされるに違いないのです。 孤独に耐え難くなれば、取り敢えずこの界隈に来てみれば孤独感を癒せる気分になれます。勿論、それは気のせいで真っ昼間から酒を呑もうなんて連中は大概が孤独に苛まれているものだし、孤独な者たちが寄り集まったところで孤独はさらに増幅されるばかりなのです。「晩杯屋 思い出横丁店」はしかし、どうも少しばかり勝手が違うようです。皆それぞれに孤独なはずなのに何故か悲壮感が感じ取れぬのであります。酒の最高の肴は孤独であると思うぼくにはそれは違和感そのものなのです。最低限の値の付いたお勧めを頼むとちょうど品切れだと言われてもそんなものだろうなあと自然に受け入れる自分がいる。目に止まったポテサラすら実は危うかったらしい。いろんな酒呑みがいるけれど、そして皆それなりに悩みは抱えているものだけれと、ぼくは、程々に悩みをいだきつつも程よく明るく振る舞える人が好きです。そんな程々な悩みすらこの店の客からは感じ取れぬのであります。それは果たしてとうしたことか。きっと彼らはこれから気のおけぬ仲間達と伴って本番の呑みに移行するつもりなのではないか。だからこそ彼らは一見すると独りであるけれど、孤独でなどありはしないのです。きっと彼らは既にこれから落ち合う相手との会話などを思い浮かべてみたりしているのではないか。そんなぼくも実はこれからが本番なのです。果たしてここで独り呑むぼくは周囲からはどう写ったのか、叶う事なら孤独な男に見えれば良いのだけれど。 向かったのは、都内各所で目にする「中国西安料理 刀削麺・火鍋 XI'AN(シーアン) 新宿西口店」でありました。あんまりチェーンの事を悪く述べてばかりいると、そのうち行くべき店がなくなりかねぬから注意せねばなるまい。雑居ビルの二階だったか、そんな雰囲気は悪くないけれど店内に入るとまあ広くはあるけれど、ご当地の方のお店らしい退屈な内装でゲンナリとします。円卓に着いても気分の高揚はありません。まあ仕方のない事と予想通りなのだから不満は述べぬことにします。しかし、ここまでさり気なく腐してはみたけれど、料理は案外悪くないのであります。餃子や小籠包などはそこらの専門店などより遥かに出来が良いし、店の名物の刀削麺はこれまで何度も口にしていて旨いことは旨いけれど感心などしたことがなかったけれど、ここの一番辛いのに山椒を追い掛けし、さらに添えてもらったパクチーを大量に乗せて頂くとこれが風味がグンと増してしかも刺激もあり凄く旨いのです。旨い旨いと馬鹿の一つ覚えで語っているけれど旨いものは旨いという言葉を発せれば十分なのです。こうして口中を痺れさせれば安物の紹興酒もグビグビイケてしまうのだ。ジャンクな食い物に安酒が似合うのは古今東西不変なのです。こうなると満腹中枢も麻痺して食欲は亢進、酒もよく進むのです。しかしまあその見返りとして胃腸は荒れて、翌日は後悔する羽目に陥るのだけれど、それもまた新宿の呑みに相応しい結末であるなあ、なんて出鱈目な結論に至るのです。
2019/01/14
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ぼくは温泉街の情緒を否定するものではないし、むしろ昼間の温泉街を散策するのはおおいに好むところであります。しかしそれも余りに混み合っているのもいやだし、かと言って人っ子一人ともすれ違わぬようなのも、どうかなあと思うのです。夜の温泉街は、風情はあるけれど宿を出て夜遊びできるようなところも少なくなっているようで、その点では先般訪れた水上などは寂れきって見えたがまだしもマシなのかもしれません。さて、時刻は夕暮れ過ぎ、随分久しぶりになるロマンスカーからの車窓を眺めるのも束の間、呆気なく箱根湯本駅に到着してしまいました。いかなる理由で箱根に来ることになったか、その仔細は例の如くにここでは述べぬことにします。宿で荷を解くと夕食まで残された時間は一時間少々しかありません。坂道を大急ぎで駆け下りると温泉街は思ったより近い。まずは箱根湯本で最もよく知られる純喫茶を訪ねることにしました。 駅からすぐの「マイアミ」は、古風な胸焼けを起こしそうな濃密な空間であるのかと思い期待して赴いた訳でありますが、その実態は確かにクラシカルではあるけれど、確かに純喫茶らしい意匠は纏っているけれど、しかしぼくには何ら感銘をもたらさなかったのでした。そう悪しざまに書くと悪いかなあ。別にここが格別悪いお店とか言うつもりはない。駅チカで町行く人も良く見えるし、そのためもあってか実に多くのお客さんがおられるのです。この写真を撮る直前までびっしりと日帰り入浴客なのか、満足そうでありながらも少し疲労の滲む表情で埋め尽くされていたのです。そして、まさにこの美徳がそのままこの店をぼくにとっての魅力を損なう理由となるのだからお店からしてみるとえらい迷惑な事であります。やはり古い喫茶はひっそりと秘密めいていて欲しいと願うのは好事家の身勝手で切実な願いなのです。 そんな箱根の目抜き通りをさらに進むと「画廊喫茶 ユトリロ」があります。ユトリロについて嬉々として語るほどの知識も趣味もないから、店内に入って開放的で明るいことを確認すると、あゝナルホドねと頷いてみせてそのまま立ち去りたい気になるのですが、まあそういう無体な事はできまいて。壁にはユトリロの筆になると思しき絵画が展示されているが、店主は余程この名こそ知れども格別知名度が高いとは思われぬ画家に相当な思い入れがあるらしいのです。程々に名の知れた画家の絵画は一過性の麻疹のようにかぶれる事はあるけれど熱が冷めると途端にかつての思い入れそのものが恥ずかしくなって、そんな麻疹状態の自分があった事など消し去ってみたくなるものです。という事はここを営む方はそんな生半可な趣味人ではな位ということになるのでしょうか。そんな事を思いながら、月替り、それが困難なら季節ごとにコンセプトとともに店名や店の印象を変えてみてはどうたろうか。強ち無理ではないと思うし、お客さんも楽しくはないだろうか。と、この天井が高く広々としたある意味で美術館とかサロンのようなスペースはもっと活かしようがあると思うのでした。 駅前には「喫茶室 ルノアール 箱根湯本駅前店」がありました。箱根登山鉄道の往来も眺められる旅の始まり、もしくは締め括りにはとても使い勝手が良さそうですが、今回はパスします。 「喫茶 浅乃」も目抜き通りに面してあるお店で店内が表から筒抜けています。のっぺりと平凡だけれど案外悪くないムートですが、時間もないのでここは素通りします。宿題店には、ウ~ン、そこまでではないだろうな。
2019/01/13
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金町ってのがどの範囲までをそう呼んでいいものやらハッキリとは認識していないけれど、ぼくの私的な考えでは、例えば自分の家から歩いて最も近くにある最寄りの鉄道路線の駅名が通常の会話で君の家は何処だいという質問に対する回答となる事が多いと思うのです。今さっき近くと書いたけれど、その近くというのはかなり個人的な見解の相違を孕むところがあって、大体二駅の中間にあって、しかし片方は急坂だったり一級河川を挟んでいたり、開かずの踏切りがあったりすると当然ながらもう一方の駅を最寄りと呼びたくなる場合もあるだろう。とまあかなり大雑把というか適当な定義であるけれど、公共交通機関ですら板橋駅や品川駅を例に上げるまでもなく強引な理屈によって名付けられるのだから、金町を最寄り駅と称する某大学の裏手の地域をこれも金町と呼んでもまあそれ程には無理はないと思うのです。地元の人はこの辺を水元と呼んだりするのでしょうか。以前、水元を抜けて八潮を訪れた際に駅から随分離れた場所にも商店が散在するのを知り、その何軒かをいつか訪ねなければならぬと思っていたのです。 金町駅からサクサク歩いても十五分は掛かっただろうか、駅に押し寄せる大学生たちを掻き分け掻き分けして進む事になるからどうしてもペースが上がらない。地元の方でも商店などの自営の方はメリットがあるだろうし、キャンパスから逸れているなら町のブランド価値を高めたと喝采を上げるのかもしれないけれど、通学経路の単なる住民からしたらいい迷惑と感じることも少なくなかろうと思うのです。まあ夜遅くなった時にはキャンパスの研究室の灯が消される事などなかろうから、少しは防犯に寄与するかもしれぬけれど、その一方で大学なんて施設は人の出入りに関してルーズなところがあるからそれはそれで心配の種は尽きぬのです。さて、キャンパスも途絶えて住宅街に踏み入るとすぐにバラック小屋のような店舗が見えてきました。「食堂 至福」とは、何ともはや大胆かつ意味不明な店名にしたものです。こうしたヘンテコな店名を付けるというのはズルいやり方です。ぼくはそれだけのためにどれほどアホらしい思いを重ねたきたかはこのブログを紐解いて貰うだけでもご理解頂けると思います。さて、店内は雑然と屋台まで組み込まれているけれど、基本的にはそれ程は褪色も煮染まってもおらず、清潔な印象であります。お客さんは想定したとおりに近所のご隠居さんがほとんど、というか恐らくは全てであってだからといって我々のような場違いな存在を異分子を認めて排除するような様子もなく、至って自然体で受け入れてくれるのです。お通しが少量で盛合せとなっているのは嬉しい。我々などよりずっと年長の客が全てだからこれが丁度よい肴の加減なのだろうか。って見ると皆さんよく召し上がっておられる。釣られるように我々も焼鳥を適当に見繕ったのでありました。値段も味も平凡だけれどこの場所にこうした寄り合いの場があるのは貴重なんだろうな。 さて、もう一軒。ほぼお向かいに店を構える「ミトヤ」にお邪魔することにしました。ここはさっきの見かけは安普請ながら店内は意外と平凡というお店とは真逆な真正のボロ物件であります。でもご安心あれ、見掛けこそ内も外もボロで煮染っているけれど、けして汚い訳ではないから変な緊張なしに過ごす事が出来るはずです。汚い店というのは、夏場はベタつくことが多くてそれはそれで嫌なものだけれど、冬場はどうしても重ね着になるもので外套を脱げば置き場に困るし、脱がぬと余計な汗で風邪を引く羽目となるなどなかなかに厄介なものなのです。それにしても店には主のオヤジさんしかおらず、静寂に包まれて少しく不安を感じます。品書を眺めると定食物がズラリと並びどうやらここは食事がメインのようですが、聞くと単品でも構わぬとのこと。そして意外と言っては失礼に当たるかもしれぬけれどいずれも簡単な肴ばかりを頂いたけれど、どれも丁寧に調理されていて美味しいのであります。そして、さらにはこのオヤジさん、見かけは無口で人間嫌いみたいな顔をなさっているが実は馴染むとよくお喋りになる。先の店が人気があるようだけれど、ぼくなら断然こちらに通うのだろうなあ。しかし、ここらは地元の方たちのお店だから、ぼくも今度はもう少し年を取ってからやって来るのが良いだろうか。
2019/01/12
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田端の駅前というか駅舎の一部になるらしいのだけれど、どうやら酒場がオープンしたらしいのです。特別ぼくに鉄道趣味があるとも思えず、単に若い頃は列車にただボンヤリ揺られて過ごすのが好きだったのです。列車から見える光景はどこの土地を行ってもその土地土地の個性があるようで、結局は何処も似たりよったりな気もしたのでした。自分は窓側の席に腰を下ろして漫然と車窓から見える光景を眺めている間にも、列車は常に留まることなく何処かへと導いてくれるのが、漠然とした焦りと不安にふとすると落ち込みそうになる自分を押しやってくれている気分にさせてくれたものです。しかし、帰宅するとその僅かに高揚した気分は途端に消え失せ、徒労感と虚しさに苛まれることになるのでした。そうした気分の落ち込みには今でも解放されてはおらず、いやそれはむしろ亢進されたかの印象もあります。そんな旅の過程で確か下関駅だったと思うけれど、鈍行列車で一挙に下関までやって来て座っているだけなのにクタクタになった身体を伸ばすために改札を抜けると、その駅舎のど真ん中にぐるりと囲みのカウンターがあって、そこで酒を呑ませていたのです。今はもうそんなものはないかもしれないけれど、ただひたすら辛いだけの身体と朦朧とした精神が酒の力で活力が漲って来るように思いました。三島や沼津なんかにはホームで立呑みさせる掘っ立て小屋もあったと思う。まあ、きっと酔客が酔い潰れたり、ホームから転げ落ちたりといったことがあって無くなってしまったのだろうけれど、そんな事情を汲んだとてとても残念と思わざるを得ません。 ということで、喜び勇んで「飯と酒屋」なるなかなかに勇ましい店名を付けられたお店を求めて田端駅にやって来ました。馴染みのある改札を抜けて、さて当のお店はどこかいなと振り返ると券売機の脇にそれはありました。何かイメージしてたのと違っているなあ、いやそれどころではない、全くぼくのおセンチさを刺激しないのであります。これなら改札の中のうどん屋でビールを呑んだ時のほうが余程味がある。どこがどうとは上手く言えぬけれどこの食事処と呑み屋の両取りを目論んだらしいお店はどうも想像とかけ離れ過ぎていて、早くも気持ちは萎え萎えなのでありました。窮屈な店内、無論窮屈なのは仕方ないけれど、それでもいくら何でも自分たちがスムーズに動ける程度の動線は確保しておくべきではなかろうか。客の方に身を縮こまらせるような造りでは、やがて恐縮してくれる客すらなく動線のみが充実した店になるかもしれない。既に不愉快になっているのでこれ以上書くのもどうかと思うのだけれど、あえて書かせて頂く。自慢料理らしき手羽先揚げ、このうま味調味料まみれの味はどうなのだ。いやまあハッピーターンみたいなのが好きな人ならもしかすると旨いと感じることもないとは言えぬけれど、少なくともぼくにはとてもじゃないがそのままでは食えぬのです。食えぬなら食わねばいいと言われてもねえ、こんなんでもお金を払っているんだし、可能な限り粉を払って食べましたとも。利に聡い美人OL二人はすぐさまそれを察知し席を立ったのです。気の毒なのは食事客で老女と青年がそれぞれ食事を注文したのだけれど、ぼくは店の人々が交わした言葉を聞き逃しはしなかったのだよ。それがなければここまで悪く言うつもりはなかったけれど、それは接客業をやっている以上は消して述べてはならぬ言葉であろうと思う。以前秋葉原の立呑屋でぼくもボロクソに言われた事があるけれど、それは店主に直接言われたからまだいい。ここでは客に聞こえよがしにやられるのたから溜まったものではない。でもまあ顔馴染みにはとても愛想が良くて、ちょっとそれも言いっぷりが店側と客との関係性を逸脱して感じられたけれど、まあそれ程気分の悪い光景には思えなかった。とにかくいくら注文がセコくてもそれを表に出さないで欲しい。でなけりゃ、店先に一人千円以上の注文を貼り紙するとか、ワンドリンクオーダー制にでもしたらいいと思う。客は必ずしもその店の販売戦略を理解して訪れるわけじゃないのだから。
2019/01/11
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松戸にそんなに大した店がない事などはお見通しなのです。だけどまあ、松戸には親しくしてもらっている老女がいるから―それだけじゃないけれど―、時々顔を見に立ち寄る事にしているのです。松戸には他の町にある思い出はない。けれど、いつかぼくがホントの意味での老いを自覚させられる事があるとすれば、その時には必ずやこの老女とそして彼女と巡った少なからぬ居酒屋の事を思い出すのでしょうか。 住んでいた頃には苦痛でしかなかった町が、状況が一転して遊びに来る町に変化しただけで、その受け止め方が一変する場合があります。新潟などまさにその典型で、新潟と聞いて角栄を真っ先に思い浮かべる世代、それも日本海側を故郷とする人には新潟のエコひいき振りには到底許し難いと思う人が少なくないらしい。ぼくも少なからずその考え方に同調するところがありました。まあ今となっては新潟という町のことを少しは知る事となり、全く持っての得手勝手やらかしたことではない事を理解せぬでもないけれど、まあ他の日本海側に産まれ、もしくは育った人達の怒りも理解せぬではないのです。ともあれ、先般の佐渡旅行もあり、さらに新潟好きになったぼくは「えちご(echigo) 松戸店」の看板にすぐさま目を奪われることになったのでした。なんてことを書くけれど、以前も一度、しかも同じ面子で来ていたのだからいい加減なものです。こんな事では新潟旅行から戻る度にここを訪れることにもなりかねぬ。店内は何の変哲もない個室居酒屋である事に、既にダメ出しをしたくなる。新潟の居酒屋は広間が基本のはずです。こんな区切られた空間では新潟の情緒など感じられないのです。なんて書いたけれど新潟の最後に寄った居酒屋はまさにこんな感じだったなあ。そして残念なのは新潟の郷土料理って一体何なのとまたも思わされたことです。確かにへぎそばとか栃尾の油揚げなどは新潟らしい肴かもしれんけど、何故かあまり旨いと思えぬのです。都会の空気や水が良くないとでも言うのか。旅の高揚感が舌の感覚を狂わせるのか。何にしろやはりというべきか虚しく引き上げる事にしたのです。 やはり松戸で呑むなら松戸らしい店にしておくべきでした。「鳥孝 松戸店」は、日本中どこにでもある焼鳥屋ですが、まさにこの店の味があります。味というのは店の雰囲気な事でもあり、肴の味そのものでもあります。しかも面白いのが「鳥孝」というお店、松戸ばかりでなく常磐線や東武野田線、新京成線の随所で遭遇するのでありますが、どこも似ているようで似ていないのが楽しいのです。「加賀屋」や「大吉」なんかもそうだけれど、どこかしら似ているんだけれど、それでも何かが違っている。その僅かな違いを分析するのは難儀だけれど、徐々に酔いながら身体で感じればよいのであります。ぼくはこの先何年生きられるかなど分かりはしないけれど、きっと松戸と無縁になる事があるとしたら、恐らくはここと何軒かのみを思い出すことになりそうです。
2019/01/10
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こんなぼくだって、牛込神楽坂で夜を迎えるなら贅沢でなくてもいい、ビストロなんかで少し美味しい食事とお酒を頂けたなら素敵だななんて思ったりもするのであります。なんて気取って書いていますが、ぼくにとっての神楽坂はそれこそ映画のための町でしかありませんでした。飯田橋ギンレイホールにその地下の今はなき成人映画館のくらら、日仏学院のホールなどにはウンザリする位に入り浸ったものです。くららはそうでもないか。そして、牛込方面に足を向けるとそこには神楽坂牛込文化がありました。ここもやはり成人映画館でありまして、まれに日活ロマンポルノファンなら垂涎のフィルムが上映されたりして、なかなか目が離せぬ小屋なのでした。今思い出すのは、神代辰巳の『美加マドカ 指を濡らす女』で、今ではいかようにも見る手段があるけれど、当時は見たくても見れない幻のフィルムの一本―というのはいかにも大袈裟だけれど―なのでありました。ここにぼくが通った当時は客というと異国の青年たちが多くて、煙草は当たり前だけれど、着席したまま平気で××ションしていたりもしたからかなりハードな環境だったのでした。それでもそんな障害をものともせずに通ったのだからぼくも若かったなあ。今ならそうまでして訪れようとは思わないかもしれないけれど、あの頃のぼくはその程度には情熱的だったのでありました。 外観から既にして強くフランスのエッセンスを散りばめられています。ぼくのイメージするビストロというのは、もっと路地裏の古い民家を改装したような家庭的な雰囲気であるとすれば、ここのはちょっとポップでカジュアルにすぎる嫌いはあるけれど、これはこれで現代的な装いでむしろ気軽な普段使いの店の印象を証しているようにも感じられます。「ラビチュード」は、東京で一番敷居の低いフランス料理店を標榜するだけあって確かに月に一度くらいは訪れても家計をそう圧迫することなく済みそうな手頃さがあり、しかも自宅でもそう手間暇かけずに作れてしまうフランス家庭料理とは一線を画したちょっと外食したくなるようなメニューが並び、いつも迷いに迷ってしまうのであります。店名はたまたま調べてみたら習慣といった意味合いを持つ言葉らしくて、実はもっと裏の意味もありそうな予感があるけれど、これ以上の理由はいま時点では不要です。店のお手頃さも無論重要ですが、ここで出される看板メニューは大定番の鴨のコンフィでこれが確かに習慣化したくなる味と食感なのであります。世の中にはもっと上等の鴨肉で上等の調理をしてくれるシェフが拵えた品を供するビストロがあるのかもしれないけれど、ぼくにはここのが今のところは一番舌に合っているみたいです。そして、ここが個人的には大事なポイントだと思っているのですが、ビストロは出来ることなら電車に揺られて行きたくないのです。今回はバスに乗ってやって来ましたが、ちょっと気張れば歩けなくもないのです。お腹も満足して、酔いはまだほろ酔い加減で寒空をしかしそれを心地よく感じられるくらいで自宅に向かうのが理想なのです。そして、自宅に辿り着くまでにもう少し呑みたいなあと思ったらブラリと立ち寄れるちょっと気取ってるけど、気疲れしないようなバーで2、3杯呑み足すことができればそれはもうかなり素敵な一夜と言えましょう。つまり、ビストロというのは都心に近いけれど、高級住宅街や歓楽街からも外れた都会のポケットのような場所に住むことが大切になるというなかなかに面倒な存在なのです。
2019/01/09
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松戸のずっと懸案だった一軒の店のことを書きたいと思っているのです。でもそこの事を書くだけじゃ、とっても短く纏まってしまうだろうから、かさ増しにあと一軒を付け足してみることにしました。好きなものを語ると饒舌になる人とそれとは逆に押し黙ってしまう人がいます。実際にはそれ程に事は単純ではないのだけれど、まあここではそういう事にしておくのであります。ぼくの場合は明らかに後者のタイプであります。というか、元来が何事かを語らんとする際、その語るべき対象と真摯に向き合えるか否かというと、ぼくは到底向き合っているとは言えぬのであります。どうしてそうなのか、理由は簡単なことで語れば語るほどその対象は実際に目の当たりにしたそれと乖離するように感じられるからであります。言葉を弄するほどに真実とかけ離れるもどかしさと徒労感に打ちのめされるのは出来るなら避けたいのです。といった訳で質より量というつもりはないけれど、あさましくも感じられかねぬ所業とはなりますが、二本立てにてご覧下さい。 ということで、一軒目は「松戸香房」というマンション一階テナントの中華料理店の報告から。ここの最大にして唯一の特徴は看板に店名が見当たらぬ事です。だから何だとツッコまれると返す言葉はないのでありますが、まあそういう事でありまして、他に間違えるようなお店がないからそれはそれで構わぬのかもしれません。中華系のお店は店子の入れ替わりも激しいし、気分転換するように店名を変えたりすることも少なからずあるようだから、あえて初めから店名を排するというのも一計と言えなくもない気もします。しかし、一方で中華街などに行くと目に付くのは金箔で龍がうねるが如くに大書された中華字体こそが町の景観を形作る要因ともなっていることを思うと少しばかり見た目に楽しくない気もします。まあ店内のコーヒーショップのような様子を見たら、中華料理店にも新たな波が到来したということか。日本などとっくにそうした時流に呑み込まれているのだから、他国で同様な潮流が認められるからとガッカリしても失礼な話かもしれない。しかし、一方で似非レトロが席巻とまではいえずともそれなりの勢力範囲の拡大を遂げている事を鑑みると、中国の人にはもっと長い目で将来を占ってもらいたいものです。マオイズムは現代にこそ活かせるのではないか。なんて事は置いておくとして、ここ案外料理がちゃんとしているのですね。中華というと大量の油で一気に火を通すというのが秘訣とされているけれど、ここのはぎりぎりまで油の量を控える事で胃が重くならぬよう配慮されている様に感じました。まあ、すぐに呑みに徹してしまい、ちゃんと味わう余裕などなかったのだけれど、そこはまあ店舗のイメージと料理のイメージを摺り合わせようという展開上、仕方のない事なのです。 さて、ずっと気になっていたお店というのは「レストラン 松戸スエヒロ」であります。今、ネットで調べたら松戸に三ケ所同名の洋食店があるので多分系列のお店なんでしょうね。写真で見る限りは、どこもクラシカルというよりは古めかしい装いでなかなかに良い雰囲気なのでありますが、最も喫茶好きを惹きつけるのはこの松戸駅から歩いて五分程の商工会議所のビルの中二階にある店舗ではないでしょうか。実際お店は喫茶店と称しても何ら違和感のない造りになっています。失礼ながらぼく以外に一人しかお客さんがいなかったのだから、むしろ喫茶営業をメインに据えたほうが入りは良いかもしれないなどと思ってしまいました。ハンバーグカレーとビールを注文。味は可もなく不可もなくなので、それにしてはお値段は少しお高めかしら。喫茶店ならコーヒー飲んでもせいぜい400円程度だろうから。いやいや、そういう意味で喫茶店に鞍替えする事を提案したのでは消してありません。表にも人通りがなく調理後は物音一つしない静まり返った店内は、いつの事か忘れてしまったけれど、ずっと前に感じた心の奥底からの孤独感を味合わせてくれて、この孤独を味わうためにも是非とも夜に訪れていただきたいと思うのです。
2019/01/08
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さて、豊橋駅に戻って来ました。豊橋って歩き回っただけの印象だと古くて味のある酒場に事欠かぬと思っていたし、実際に保険として何軒かは目星を付けておいたのだけれど、これがまあちっとも思ったようにはいかぬのでした。何というべきか、必ずしもチェーンとかでないのかもしれないけれど、少なくともフラリと立ち寄りたくなる構えの酒場がどんだけ少ないことか。とにかくもう町の隅々まで随分と隈なく歩いてみたのだけれどどうにもここぞという酒場を見いだせずやがてはさっき通った道を繰り返し歩いていたりするのでした。この長かった一日の疲れも噴出し、それは覿面に臓器に影響を及ぼすらしく胃腸の具合もどんどんと芳しからぬ状況へと陥っていくのであります。無論、もう若くなどない事は自覚しているけれど、身の回りのオヤジたちを眺めてみても彼らの頑丈さはぼくの数倍増しである事は明らかです。今の高齢者世代は貯蓄に専心して消費へと行動が向かわぬようでありますが、団塊の世代な人達はその日本人的な価値観、というか貧乏根性を払拭してくれるのではないかと期待したくもなるのです。実際、この世代の人達はガタイも良くて185cmを超えるような大柄な人も目立ちます。彼らには大いに呑んで食ってしてもらって、次世代へと酒場を継承するに一役担って頂きたいものです。 さて、頑強ならざるわれわれは、しんみりと呑める場所さえ与えてもらえればそれだけでもう文句はないのだけれど、その眼鏡に見合う酒場がちっとも見当たらぬのです。食堂や食事処はあれ程までに充実しているのにより酒場らしい酒場となると大いに事欠くのが結論なのです。お陰様で豊橋の駅前一帯は何度となく周回して、随分と知悉するに至ったのだが、肝心の居場所なき土地を知り尽くしたとてどれ程の価値があるというのか。ぼくにとっては数少ない眼鏡に叶う酒場、「豆の木」はA氏はすでに行ったことがあって、もう十分だという。普段なら我がままを通すところだけれど、この一日ぼくの我がままに付き合ってくれたから、この夜は公平に合意に基づく店選びとしたいのです。 やっとの事で折合いが付いたのが駅の斜向かいの路地にある「とり八 駅前店」でした。この通りはまずまずの風情を留めていて焼鳥屋が目立つようです。どうやら豊橋はもつ焼よりも鶏肉の焼鳥が主流らしいのですが、どこも混み合っていて、ようやく客の入れ替わりで上手く潜り込むことができたのがここだったのです。窮屈なカウンター席の奥には卓席もあるようですが、そちらもガタイの良いオヤジが通うには落ち着きにくいのではないか。古い酒場は大好きだけれど、余りにも窮屈な酒場は未だにどうも落ち着けない。いや肩と肩が触れ合う程度の狭さなら気にも掛けぬけれど、元より姿勢の良くないぼくがその自然体で座れぬままに呑み続けるのはかなり疲れるのです。店の主人は案外若いけれど終始テンパっていて、客としては気分が良いものではない、と思いきやこの狭苦しい中でも地元の方たちは結構楽しげなのです。狭さもまた慣れるということか。しかも彼らの食べて呑むその速度のハイピッチなことといったらない。呑む速さなら自慢にはならぬが多少の自負はある。しかし彼らは呑むだけでなく食うスピードも半端でない速さなのであって、われらが一串食べる間に数串食べてさらに次を注文しているのであります。そしてそれが185cm世代でなくわれわれと同世代だけでなく下の世代にも引き継がれているようです。呑み気より食い気がずっと勝っているようなのです。これで少し豊橋の事が合点がいった気がします。しかし、少しづつ酔ってくるとこの慌ただしく呑みかつ食う光景は駅前酒場らしくて好ましく思えてくるのでした。 一軒目、いやもう随分時間が経っているけれど「立呑 あさひ」でも呑んでいるからもう拘りとかはなげうっても良さそうなものだけれど、胃腸のもたれが幸いしてか、いつもより呑みのペースが大人しくまだまだほとんど酔っていない状態であります。そんなこともあって、次なるお店選びにもえらく難渋したのだけれど、さっきの繰り返しになるのでそこは割愛します。でもようやく「居酒屋風 おさ田」というお店に行き着いたのでそこに立ち寄ることにしました。行き着いたといってもすでに何度となく通り過ぎた店ですが、よりベターなお店という消極的な選択でありました。いくらか気取った雰囲気の大人な居酒屋という感じで、格別なものはありませんが居酒屋風というもったいぶった看板表記が気になっての入店という次第です。ゆとりのあるまあそれ程格式は高くないけれど、まあいかにもおぢさんたちが週末に呑みにいきそうなお店でありました。旅先だとこういう落ち着いて呑める店は、案外いいものだなあと思えるのは多少の時間と金銭的な余裕が気持ちにもゆとりをもたらすからなのだろうか。さて、こちらでは魚介類がお勧めらしいけれど、われわれは食欲とは縁がないからただただ呑むに徹します。しかし、ここでも豊橋のおっさんたちは旺盛な食欲をひけらかすように存分に発揮するのでした。さんざん呑み食いしているように見えたのに、さらに大皿一杯に盛り付けられた串揚げの盛合せを猛然と平らげるのです。いやはやそれを見ているだけで充分食べている気分になれるのでお得に思えるけれど、実際にはそれだけでも満腹になりそうでしかし視線をそむけることはできぬのでした。 良い具合に酔ったので席を立って町に出てみると、驚くべき事に人通りはさらに増加しているようです。先程、呑み気より食い気と書いたけれどそれは誤りだったかもしれない。彼らの呑み気はまだ始まったばかりで、これからが本番かも知れぬと思うともしかするとこれからの日本を支えるのはこの豊橋の人達かもしれぬと考えると頼もしさとともに空恐ろしさを覚えるのでした。
2019/01/07
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豊橋ではもう余り喫茶巡りをするという気力は失せていました。そうはいっても闇雲に歩き回ってたまたま遭遇した場合には、つい立ち寄ってしまうのであります。そう考えると喫茶巡りが嫌になったというよりは、豊橋の町を歩くのがかったるくなったというのが実情に近いかもしれません。そりゃまあこのところ、折に触れて途中下車したのだから無理もない。無理してでも立ち寄りたくなるポテンシャルを秘めた町と思っていたのだけれど、こう何度もあちこちでフラれ続けると町そのものに嫌気がさして来るのです。それは別に豊橋のせいではなく、事前にちゃんとしたリサーチをしなかったり、店が中休みに入っても仕方ないような時間帯に訪れようとしている己に非があるのでありますが、それでも他人のせいにしていないとやってられぬという気分になるのです。 すでに書きましたが、豊橋鉄道の東田駅から向かった「音羽屋」がまたも空振りで、虚しく豊橋駅に引き返そうと周辺をなんとなくぶらぶらしていたら、そう歩くでもなく競輪場前駅に行き着きました。これといったものもなさそうなので、市電に乗ろうかと停車場を目指したら、あらあら喫茶店がありますね。それほど個性の際立つお店ではありませんが、寄っておくには足る程度のお店に思えたのでした。 郊外型の大型店―というほどには広くないけれど、それでも50人近くは収容できそう―、「COFFEE モンクール」です。先程腐したような書き方をしましたが、近頃は奇抜すぎるものとは別にこういうのっぺりした全く衒いのないお店にも不思議な魅力を感じるようになりました。どこがどう好きかと尋ねられても、こうときっぱり言い切れるようなものではないのです。尖がったものばかり愛でていたら、それには飽きてしまい滑らかなものに愛着の矛先が移ったということか。女性であれば、活発でエキセントリックな女性の魅力には辟易させられ、和風のおっとりした女性に安らぎを感じるといえばまあ全く違っているということでもなさそうです。ここが別に女性的とか滑らかだなんていうつもりは全くないのだけれど、住宅街の外れで目下サボり真っ最中のセールスマンを見ると不思議と安心するのです。 豊橋鉄道渥美線の南栄駅のすぐそばに「デュエット」はありました。ここは以前通り掛かっていて、少しも気にならなかったのだけれど、改めて訪れて目の当たりにすると寄らずにはおられぬのです。店内はベルベットのセクシーなムードです。しかしよくよく眺めると老いらくの色香とでもいうのだろうか、成熟を通り越した老境に差し掛かった燃え尽きる直前の魅力がありました。というか今回はなんだかいい加減な擬人化で適当に誤魔化そうとしているけれど、これといったエピソードも特徴もないとなるとこうした印象論で語るのが一番楽なのだ。喫茶店の事を書くのに気張っていてはなんか可笑しいから適当な位がちょうどいいのかもしれません。「ボン」はまたもや開いていませんでした。まあ時間が時間だししょうがないかもしれませんね。というか豊橋にはなんだか疲れてしまったようです。当分の間、冷却期間を置いてみるのが正解のような気がします。
2019/01/06
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南千住とか三ノ輪の辺りというのは、蕎麦屋さんが似合う町のような気がします。それも日本橋とか赤坂とかの風流な―必ずしもぼくがそう感じているわけではないけれど―町にある文化人系蕎麦屋ではなく、ごくありふれた町にしっくりと馴染んだ肩肘張らぬ普通の蕎麦屋は実にいいものであります。そんな蕎麦屋で穏やかな昼下がりを店内に据えられたテレビを眺めつつ軽く板わさなんかを摘まみながら盃を口に運ぶ、なんてことを想像しただけでうっとりします。ここでは酒すら小道具に過ぎずこの居心地の良さこそがぼくをそこに向かわせる原動力となっているのだろうと思うのです。そして、そんな静かな町の小さな蕎麦屋の似合う町というのが南千住や三ノ輪という訳です。無論、巨大ビル群の谷間に埋もれるように店舗を構えるといった光景も感動的ではありますが、それは幾分か敗者の美学とか失われつつあるものに対する愛惜とかいった無常やら諦念といった息苦しさを伴うものであるのに対し、南千住の場合には多少なりとも寂しくはあるけれど、ごく当たり前に隣近所の住宅とも違和感なく溶け込んでおり、少なくとも哀愁や惜別の哀しみは孕んではいないのです。しかし、実際にそうした土着系の蕎麦屋はありはするけれど、案外に数は少ないようです。町の盛衰というのはなかなか一筋縄でいかぬところがあるようで、巨大資本の参入が町を飛躍的に活性化することもあれば、逆に劇的に過ぎることがそれに追い付けぬ人々をその町からつま弾きすることにも繋がりかねません。町のこれまでの有り様まで変えてしまう傲慢さは許されるべき所業であるか、それはまだ結論付ける事は出来ぬかもしれぬけれど、ぼくには必ずしも好意的に受け止める心の準備は出来ていません。 だからぼくにできる事、例えば「美加志屋」なようななんの変哲もない町の蕎麦屋を好んで訪ねる事にするのです。昼時を過ぎた店内にお客さんの姿は見られません。ひっそりと静まり返った店内には調理する作業音と時折店のご夫婦の交わす他愛ないといえばこの上なく日常的な会話が聞こえるばかりです。昼のビールはおいしいけれど、一本は少し多いなあなどとぼくもやはり思考を放棄したかのような詰まらぬことを思うだけです。たまに無性に食べたくなるカレー南蛮そばは、店の売りな一品であるらしいけれど、他にも豊富な品数で飽きさせぬようにしているのはとても楽しい事です。来る度に注文に迷うのは不粋なのかもしれぬけれど、これもまた週末の昼下がりというサラリーマンにとって特権的に自由な時間なのだから、お許し頂く事にしよう。その迷った末に注文を通した後にやはりコチラにしておくべきだったかなどと愚図ってみるのもそれはそれで小市民的で可愛げのある微笑ましい姿であると思うのです。こうした普通の蕎麦屋でのひと時をぼくは愛していきたいと思うように最近思えるようになったのだけれど、果たしてこの先、あと何十年こうしたささやかな贅沢を享受し続けることができるのか、人通りの少ない商店街を歩きつつ思うのでした。
2019/01/05
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そうなんだよねえ、大塚って町は安酒場とちょっと敷居の高い銘酒居酒屋が入り乱れるように軒を連ねて混沌たる様相を呈しています。至って普通な居酒屋もあるし、中華酒場も目立つからとにかくありとあらゆるタイプの酒場が揃っているから、どんなニーズにも耐え得る酒場偏差値の高い町だと思うのです。しかしそんな共栄共存関係を上手く保ってきたこの町に、例の立呑屋が殴り込みを掛けてきた時には、これはこの町もこれまでの様にはおっとりと構えてはいられないだろう、そう思ったものです。そこが今度は南口のサンモール商店街にも店舗を出したのでこれはさすがにヤバイことになるのは必死と大塚の将来を危ぶんだりもしました。ところが最初こそ北口のお店に入れ切らぬ位に客が押し掛けましたが、それも案外あっさりと沈静化したのです。聞いた話では大塚で夜な夜な呑み歩く客は曜日ごとに店を変えて、それぞれの店の常連などとの情報交換が活発になされてもいるようなのです。どこそこの店は何曜日の何時頃が空いてるから狙い目って具合に。だからそうしたネットワークは店と客の利用者にとって幸福な状況をもたらすようです。 そんなネットワークを盗み聞きした訳ではないけれど、「立呑み 晩杯屋 大塚南口店」は空いていました。大塚の町は町の南北の風通しが良いから、そして実質的にこの両店の距離も近接しているから、人によって混雑具合を眺めて店を選ぶ気がします。ともあれ最早話題にもならぬお店にまで登り詰めたのだからこれからはむしろ仲間内での熾烈な生き残り競争にシノギを削らねばならぬのは過酷であります。ありますが、このチェーン系立呑屋があらゆる意味でクオリティに差異があり過ぎるというのは、馴染みの店でお会いする酒場マニア―ぼくはマニアではないと言い張っている―からよく聞かされる言葉であり、ぼくも全店舗の半分も回っていないと思うけれど同じ事を感じています。さて、ここは少ない従業員でよくやっていると思います。愛想がないとかそういった事はこの酒場ではどうだっていい事です。恐らくは全く同じ食材が全く別物のように感じられるその不可解さがこやチェーンにはあるのです。しかし、このお店ではごく当たり前にこんなもんだろうという質で出されていました。まあマカサラと野菜天ぷらでそんなに差異が出ては困りますけどね。 いかに似非レトロ呑み屋街の一部として呑みこまれようとも、老舗酒場というのは覆い隠しようもない風格を放つものです。しかし風格と客の入りが比例しないのはこの業界ではよくあること。一度酒場放浪記で放映されたキリではさほどの評判を呼ばぬのも無理のないことかもしれません。一般化するのは嫌ですが、日本人というのは概して飽きっぽいという性質を生まれながらにして持ち合わせているんじゃなかろうか。もっともらしい説としては、台風や地震などの天災に常に向き合っておりその度に大きな被害を受けるものだから、執着するのがアホらしくなったといったようなものであるけれど、一理あるような気がします。だからこそその時その時に消えゆこうとするものに対して哀惜とか悲哀の念を感じ愛することになるのでしょう。こちらのお店は若い主人が店を引き継いでいるけれど、どうも頑張っている感に欠けるのであります。近頃の意欲的な酒場を切り盛りする若い店主たちと違ってどうもおっとりしているというか覇気がない気がします。うかうかしているとこの素晴らしい店舗も失われてしまうかもしれぬ。だからなんとか奮起して多くの客を愚劣な呑み屋街の偽物どもから奪い返していただきたいものです。
2019/01/04
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神楽坂って、これもまたお決まりの思い込みでお値段の張るお店が多いものと考えてしまいがちです。それは必ずしも的外れな想像ではないとは思うけれど、中には手頃な居酒屋さんもあるという事をつい先だって知ることになりました。そもそもどうして神楽坂になど行こうと思ったのか、答えはハッキリしています。神楽坂は目的地ではなく通過点に過ぎなかったのであります。しかも通過点とはいえ起点は定まっていたけれど、終点はどこと決めていないという出鱈目で行き当たりばったりな、つまりはノープランで何となく自宅に向かう方向に舵を切ってみただけなのであります。それにしたって自宅方面という前提が行動をガチガチに縛っていて、結局は見知った通りを歩いてしまうことになるです。だけれども近頃はようやく酒場ガイドというようなマニュアルの呪縛から離れられつつあるので、そうなるとようやくにして生身の町の姿をピュアな視点で眺められるようになるのです。ぼくはどうも教養主義的な一面を兼ね備えているらしく、基本を抑えてからでないとどうも、自由な視線を獲得しうるに至らないのであります。それはまあ根深く巣食った性分のなせる業だから如何ようにもならぬのです。 さて、お邪魔することになったお店は、創業者の奥方らしい方にお聞きした話によると、町名は失念してしまいましたが、40年以上前に蕎麦屋の「松吉」を振り出しに店を始め、30年ほど前に東京メトロの神楽坂駅のすぐそばに居酒屋の「松兵衛 駅前店」を始められたそうです。この日にお邪魔した「松兵衛 本店」は、本店とあるものの開店は一番遅く20年ほど前の事だそうな。とにかく神楽坂で商売を始めて随分と経つようですが、案外町のことをご存知ないのが面白いといっては失礼かな。坂の町、神楽坂らしく店は階段を下るようにして入ることになります。店は広くて、整然と配列されたテーブル席が奥へと伸び、カウンター席はないので厚かましくも中央の卓席を独り占領させて頂きます。まあ、他に客もおらぬから支障はないでしょう。今となってみれば立派な構えのお店ですが、ぼくが学生の頃にどうしたものか財布にゆとりがあった際に通ったとある居酒屋が思い起こされ、ぼくにとっての居酒屋の原風景に通ずるところがあり、回顧的で感傷的なおセンチおぢさんに堕してしまうようです。それを店の女将さんは許してはくれません。まるで思い出の泥沼に嵌まるのはあんたにはまだ早過ぎるとでもいうかのように矢継ぎ早に話題を繰り出すのであります。それも昔の神楽坂は良かったなどという回想に向かうのではなく、たまに顔を見せる娘さんが来る度に変わったねえと驚くその言葉や表情を愉快に受け止め、そして自らもフロマージュ屋さんやパティスリーなどの新しいお店を好んで利用されているらしいのてす。さて、オクラの煮浸しや手羽先唐揚げなどで軽く呑んだら次なる酒場を目指すことにしよう。折よくOL二人組が来られて、怒涛の注文でバタバタしだしもしました。夜の神楽坂はまだまだ隠れた酒場が潜んでいそうです。
2019/01/03
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六実駅は東武野田線―いつからか東武アーバンパークラインなどという失笑もののネーミングで呼ぶようになったようだが、ぼくはそれには断じて与せぬ意思を崩すつもりはないのであります―の柏駅から東に20分位の場所にある小さな駅です。今回初めて知ったことですが、駅の西側は松戸市、東側は鎌ヶ谷市と後者は、いかにもそうだろうなあと思うのですが、まさか松戸市がここまで広いなんて今回初めて知ることになりました。随分前のことになりますが、六実駅では一度下車したことがあって、その時は出張で訪れたこともあってじっくり散策することは出来なかったのですが、東葛地域では馴染みのある焼鳥店「鳥孝 六実店」を目撃していました。でも町の雰囲気もそうだったのですが、日中はゴーストタウンのように人通りもないし、商店街にも生気が感じられないので、もう辞めてしまったのではないかと推測しました。でもたまたま再び六実駅を訪れる機会が到来したのであります。であればまずはそちらを目指すことにし、記憶を頼りに向かうとなんの苦労もなくあっさりと辿り着きました。しかし、以前は失礼にも廃業を思ったそのお店はなんと満席御礼で、女性の従業員さんに丁重にお断りされてしまいました。さて、困ったどこに向かうことにしようか。 まったく下調べもせずに急遽六実に来ることになったので、路頭に迷うかというとそんなことは少しもなかったのでした。なぜなら、満員御礼の焼鳥店は駅前の寂しい目抜き通りを突き当たって、右に折れたところにあるのですが、そのすぐの路地の奥の方に赤提灯が棚引いているのを目撃していたのでした。砂利道の細い通りは近隣の方たちも多く―といっても同時に数名が行き来する程度であるけれど、この町では同時に人の姿を目にできる場所は限られているようです―暗いけれど、危なっかしくはないようです。その赤提灯の酒場は「大衆酒場 つる家」という渋いとしか言いようのない店名と安普請な構えで一気に気分が高揚します。店内に入ると当然のように客の姿はなく、最初店の方も見えなかったのですが、しばしのインターバルの後にかなりの高齢のばあちゃんが姿を現しました。むむむ、わざわざ好き好んでウィークデイに足を伸ばしただけの価値はあったというものです。天井には元はカラフルであっただろう黒ずんだ提灯が吊り下げられ、カウンターの向こうには座敷としても使われることがあったのだろうか、茶の間のような空間が見えています。この抜群の場末酒場感はなかなか味わえるものではありません。聞くとこちらはこの町の最古参の一軒で匹敵するのが「阿久利」というお店であるという情報を得ました。ぜひともお邪魔したいが行くに行けぬ理由がある。こちらの主たるお客さんは、都会で一杯呑んだ地元民が帰宅前に一杯立ち寄ったり、近隣の酒場が店を閉めてそのお客さんや店の仕舞いが済んだ店の方たちが多いようです。だから閉店時間もお客さん次第ということで、前夜は3時まで開いていたとのこと。でも早く閉めたら閉めたで結局寝床に着くのは明るくなってからになっちゃうのよ、ですって。だから遠慮なく遅くまで居座っても構わないようです。しかし、田舎町の酒場らしくお値段は見かけによらず強気なので、実はここで残金は約1,000円と心許ないことになってしまったのでありました。だから「阿久利」は諦めたんですね。ここはいずれ「鳥孝」とハシゴしに来ることとしよう。 駅前の通りに「居酒屋立飲み ひで」というのがあるそうなので、ここなら1,000円でも何とかなるだろうと立ち寄ることにしました。SUICAがあるので帰りの運賃は何とかなると思うけれど、いかにも綱渡りなことをするものです。しかし、運賃だけでも馬鹿にならぬウィークデイの最果ての地まで来たのだから、一軒でおめおめと引き上げるわけにはいかぬのだ。タクシー会社の1階が立ち呑み屋となっているとさっきのお店でお聞きしました。新しい店ではありますが、店をやっているのが熟年夫婦なのでそこそこの年季を積んでいるように感じられます。奥様らしき方から最初は飲物1杯と肴1品の500円のセットをお勧めされたので、チューハイと揚げウインナーをいただくことにしました。闊達な印象のご夫婦だろうか、そのカップルの女性の方はなんと新宿まで毎日通っておられるようで、まあ確かに六実はベッドタウンらしいから通えぬことはないだろうけれど、ぼくには違和感があるのは傲慢な心境と言えるのでしょうか。彼女たちにとっては帰ってくる町であり、ぼくにとってはわざわざ訪れる町、この差は町へのイメージを明らかに違ってくるようです。 でもまあ六実はぼくにとってかなり遠い町だけれど、他にも古くからやってる酒場の事をお聞きしたからまた訪れる日はそう遠くないことだと思うのです。
2019/01/02
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ビストロなんてものは本来が大衆のための食事処なのだろうから、このタイトルは矛盾しているのかもしれぬけれど、実際、日本のビストロで仮にプレフィックスのコースを食べて、例えば三千円のコースだったとすると、これで週2回通って食事だけという訳にもいかぬからワインをボトルでもらったりすればあっという間にエンゲル係数が跳ね上がるのだから、やはりとても大衆とは呼べぬことが多いのであります。だからここでは大衆フレンチとは呼ばず素直にビストロと呼ぶ事にします。そして、ぼくのようなセコい人間は、例えば高級フレンチ店なんかで食事をする機会に恵まれるとそのサービスのゆったり感にも促され、酒に掛かる費用が食事を簡単に上回るから要注意なのです。そんなぼくでも時にはビストロ料理が食べたくなったりするのです。さすがにビストロで高級店のクオリティは望むべくもないけれど、日常生活におけるプチ贅沢としては充分なのです。 この夜、訪れたのは早稲田の「モンテ(montee)」であります。早稲田通りの路地を入ってすぐの立地で学生街からは少し距離があるから騒がしくもなくいい感じです。こちらは、手頃な価格でフレンチ気分を楽しんでもらおうと伊川順二氏という方が曙橋「オー・ムートン・ブラン」にオープン、四ツ谷「パサパ」へと店を移っても良質でカジュアルなそして低価格で気張らない雰囲気もお店をやってくれたのは、ぼくのようなたまには旨いものを食いたいけれど、根がケチなものだからあまり大金は払いたくないという吝嗇家でも通えるお店を生み出した功績は素晴らしいものであります。今は無き目白台の「パ・マル レストラン(Pas Mal RESTAURANT)」、千石の「プルミエ」、高田馬場の「ラディネット」を始め、荒木町「スクレ サレ」は新宿御苑に移転されたようですね。今でも高田馬場「ラミティエ(L'AMITIE)」、神楽坂「ブラッスリー・グー(Brasserie Gus)」、護国寺「ル・モガドー」「ル・マルカッサン(Le Marcassin)」、市ケ谷「ラベイユ(L'Abeille)」、落合南長崎「エシャロット」といった志を継ぐ店があり、その料理の質や店の雰囲気、サービスのレベルには開きがあるけれど、それでも他の追従を許さぬ魅力を維持するのはシェフたちスタッフのあくなきサービス精神と研鑽の賜物と考えるのであります。なんて何処かから拾ってきた情報を切り貼りして何ともみっともなく辿々しい文章になってしまったけれど、こうした月に一度のお楽しみというようなお店が増えるのは大いに歓迎したいところです。 さて、この早稲田の新しいお店は、左記に書いた「ブラッスリー・グー(Brasserie Gus)」で修行したシェフが独立して始めたお店だそうな。彼の姿は店を出る際のお見送り時に拝顔したけれど、はじめは修行僧のような厳しい表情だったのが瞬時に心からと思える笑顔に切り替わってすっかり好きになったのでした。ここでは前菜で鶏レバーのパテ、メインに鴨のコンフィ、デザートにガトーショコラと大定番を頂きましたが、何れも満足感はしっかりあるのに嫌な胃もたれを残さぬサッパリとした仕上がりで胃腸の衰えを日々自覚させられるぼくにはとても美味しいばかりでなく、食後感も爽やかでした。もう一つ重要なのが、ワインがデキャンタにて手頃な価格で頼めるのが嬉しい。ボトルを開けてもう少しとなり、ボトルを開けてしまい、グラスの残りもあとわずかというのに料理がまだ結構な量残っているということがしばしば生じます。そういう時、グラスワインでは結局2杯、3杯と歯止めが掛からなくなり、ボトルだと呑み切ろうと躍起になりオーバードリンクとなってしまう。こんな時に大変ありがたいのであります。これから齢を重ねてボトル1本呑み切れなくなってしまう時が来ると考えると姉妹店の皆さんにもぜひ取り入れていただきたいと願うのでした。
2019/01/01
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