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朝起きて、あくびをしながらマンションのエレベータに乗って階下に新聞を取りにいく。三階でリュックサックを背負った小学校3年生くらいの男の子が乗ってくる。赤い体操帽をかぶって扉の脇で横向きに立っている。見覚えのある顔だ。3~4歳くらいの頃からおばあさんの自転車の荷台に座ってエレベータによく乗り込んできた。たぶん保育園の送り迎えだったのだろう。何か事情があるのか、マンションの祖父母と同居しているらしい。おばあさんはきさくな人でエレベータの中で何度か世間話をしたことがある。自転車なのでいつもこちらが「開く」扉を押して待っていると「すいませんね」といいながら乗り込んでくる。坊やは人見知りで、話しかけても下を向いて黙っていた。もうこんなに大きくなったんだ。しかもなかなか端正な顔立ちだ。立派な男前予備軍の一員である。赤い帽子をかぶっているということはたぶん……。すると男の子がこちらを見上げてこういった。「今日、運動会なんだー」「そう、何時から?」「う~ん、わかんない」「ま、たぶん朝からだな。それで走るの?」「うん」「足、速いの?」男の子はこくんと小さくうなずく。運動神経もよさそうだ。「一番になれるかな?」小さくうなずいた首が、ゆっくりと旋回を始める。「うーーん、わかんなーい」「一生懸命走れば、きっとなれるさ」そう言って彼の肩のあたりをぽんと軽く叩くと、開いたエレベータのドアから、まるで手を離したぜんまいじかけのおもちゃみたいに外へ向かって駆けだしていく。「いってきまーす」「いってらっしゃい、がんばるんだぞ」 朝、エレベータの中でねぼけ顔のおじさんに声をかけた瞬間から、おまえの一位は約束されてるぞ、坊主。という感じで一日がはじまる。いつもこうだといいのだけれど、なかなかそうはいかないのが人の常である。だが、おそらく男の子が私に声をかけてくれたのには訳がある。それは私の顔に漂っていたであろう夕べの音楽の記憶である。金曜の夜、サントリーホールにロジェストヴェンスキー指揮、読売日本交響楽団定期演奏会を聴きに行った。曲目はボロディンの交響曲3番、1番、2番。かなりマニアックな選曲である。招待券をもらわなければ、まず聴きにでかけることもなかっただろう。アークタワーズというのだろうか、向かいの巨大なビルの蕎麦屋で腹ごしらえをして、会場へ向かう。しかし、このホールは感じがいい。慎みのある華やかさというか、おちついた優雅さのたちこめる空間である。さすがのサントリー嫌いの私も、このホールの良さは認めざるをえない。吉田秀和氏の名随筆「サントリーホールの階段」を思い浮かべながら、エスカレータ脇の階段をしずしずと上る。席は二階席の上方。眼下にオーケストラの全景が見渡せる。ハープの女性奏者が練習をしているが、音響効果も良好だ。アコースティックな響きを自然に遠くまで届ける配慮がなされており、聴いていて耳が心地いい。どれほど完璧なオーディオ装置を使っても、これほどの再現音を聴くことはできないわけだから、考えてみれば贅沢な体験である。ボロディンというとロシア五人組の一人、音楽の教科書に出てくる例の「韃韃(だったん)人の踊り」の作曲者だというくらいしか予備知識がない。何百枚もあるクラシックCDの中でもボロディンの曲は、例のカルロス・クライバーのボロディン交響曲第二番一枚のみである。それも同じ盤に入っているモーツァルトの交響曲第33番のほうばかり聴いていて、ボロディンは数えるほどしか聴いていない。しかし、天才クライバーもついに亡くなってしまった。どれほどの才能も出し惜しみばかりしていてはしかたがない。惜しいことをした。なんでモーツァルトの33番なんか振ったんだろう。死ぬまでに彼の振る39番、40番(!)、そしてジュピター(!!)を聴いてみたかったなあ。あとベートーヴェンの英雄も。冒頭の和音を彼がどんな感じで響かせるか、いつも夢想していたのだが、ついに夢想で終わってしまった。最終楽章の変奏曲なんか絶品だったろうなあ。と思っても今となってはしかたがない。見果てぬ夢に終わってしまったか。かえすがえすも残念である。おっと話が脱線してしまった。ボロディン、ボロディンでしたね。彼は2曲の交響曲と1曲の未完成の交響曲を残した。未完成が第三番。これが今日、最初の曲目である。定刻にオーケストラが舞台に上がってくる。一人遅れてコンサートマスターが拍手を浴びながら登場、そして巨匠ロジェストヴェンスキーがしずしずと舞台中央へ歩いてくる。パンフレットによると年齢は75歳。しかし背筋はぴんと伸びている。頭の中央部が禿げ上がり、まるで散髪帰りのお茶の水博士のようだ。親指と人差し指で細い指揮棒をひょいとつまみ、さりげなく演奏が始まる。上体の力を抜き、体はほとんど使わない。ひじから先だけをしなやかに動かし、手首を柔らかく使って、音楽をスムースに、自然に、しかし明快な指示のもとにのびのびと展開していく。二階席から見ていても、とてもわかりやすい指揮だ。大げさな動作ひとつないが、どのパートに力点を置いているか、テンポはどうして、旋律はどう唄わせるか、それが指揮棒の先から細い糸のように楽員に放射されているのが見てとれる。オーケストラもそれによく応えている。管はよく唄い、弦の統制もとれている。トゥッティの時の第一バイオリンのひじの動きがよく揃い、視覚的にも美しい。ティンパニーの響きもいいし、ホルンもがんばっている。正直言って、これほど水準の高いオーケストラとは思わなかった。ベートーヴェンやブラームス、それにブルックナーだって悪くないだろう。圧倒的な迫力というのではないけれど、弦主体の交響曲を味わう上では何の不満も私は感じない。これで十分ではないかというのが率直な印象である。ボロディンは基本的には音色と旋律の音楽家ではないかと思う。時折、ラヴェルのような鮮やかな音色のひらめきがあり、多彩な画に向きあうようなはなやかさがある。その一方で旋律がよく「立っている」。自律した旋律が音楽の中心にあるせいで、その展開がとてもたどりやすい。旋律があまりにも明確なので、曲の中でその旋律がほぐれて解体し、それがまた徐々に形を作っていくような音楽の生成の喜びを十分に味わえないといううらみを感じることも時折あるが、まあ、それは強いていえばという話である。初めて曲に接する人間にとってはむしろこのほうがありがたい。消化不良にならず、しかも劇場的効果も堪能できるすばらしい演奏であり、曲だった。第三番は他の人の補筆が入っているせいか、思いのほか、単純な曲という印象。でも耳には心地いい。スタジオジブリの映画のバックに流れていても何の違和感も感じないような、軽やかでチャーミングな音楽である。弦の合奏の精度も高い。この曲を冒頭にもってきたのは正解だろう。第一番もいい曲だった。第一楽章ではさきほどいった音楽の生成のよろこびを味わうことができる。ここには少しベートーヴェンの香りがする。もやもやとした薄明の中から徐々に主題が立ち上がってくる姿がいい。第二楽章のスケルツォは旋律の喜びが感じられ、第三楽章のホルンものびやかで気持ちがいい。彼の曲はどこまでも広がる草原を思わせる。その上を悠然と吹き渡る風のように息の長い旋律がゆったりと流れていく。第四楽章のひきしまった造型も見事である。フィナーレは圧倒的だった。少しずつずらした弦の合奏が波のように寄せては返していく展開部を聴いていると誰もが「ああ、シューマン」と思うだろう。ロマン主義の大きな波を感じさせる終結部だった。楽曲終了後、掌が赤くなるほど拍手した。見事な演奏だった。第二番は勇壮なテーマの合奏で開始される。やや単純なブラームスという感じの出だし。旋律もよく唄っている。大地の轟きが聴きとれる。第二楽章はチャーミング。管楽器による旋律の応答のさまが楽しい。草原の上の軽やかなステップ。第三楽章はハープで始まる。そしてホルンののびやかな旋律。大草原の上をゆったりと吹き渡る風。そしてそこから一瞬の間もおかず、唐突に第四楽章の華やかな舞踏会が開始される。大地の地鳴りのような響きがそこに重なる。突き上げるような高揚感。激しく打ち鳴らされるシンバルの響き。最後の大きな和音の塊が二尺玉の花火のように盛大に目の前で弾け散った瞬間、全曲の演奏が終わった。拍手喝采の中、ロジェストヴェンスキーは三度舞台を往復し、まだ鳴りやまぬ賞賛の嵐の中、コンサートマスターの背をわっしとつかみ、舞台袖へと拉致し、当夜のコンサートは終了した。やわらかな弦の響き、軽快な管の声、リズミカルなティンパニの打撃音、のびやかなホルンの旋律、ハープ、シンバル、トライアングル。さまざまな音が互いに顔を見合わせながら、大きなひとつの球体を作る。それが一気に目の前で弾け跳ぶ時の爽快感。その余韻が今朝の私の頭にもまだ残っている。昨晩の余韻に浸っているうちに、時間は正午を過ぎた。あの坊主、先頭でテープを切ることができただろうか。こうして土曜の半日が過ぎようとしている。
2006.09.30
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書店で講談社のPR誌「本」10月号を手にとる。お目当ては福岡伸一「生物と無生物の間」という連載である。福岡さんは青山学院大学教授。専攻は分子生物学。一連の狂牛病騒動の時にはコメンテーターとしてテレビ、ラジオに出演されていた(らしい)。狂牛病関連の新書も二冊ほど出されていたはずである。それらは未読だが、この連載を読むだけでも実にすばらしい文章の書き手だということがわかる。私は理系、自然科学系の名文家の文章を好む。もともと父親は100%理系人間であり、今でも国語の先生よりも数学や理科の先生のほうが話が合う。なによりも自分にとってまったくの未知の世界を生き生きとした明快な筆致で描き出した文章に出会うと、頭のなかのよどんだ澱がさっぱりと洗い流されたような爽快感を感じる。柳澤桂子さんなどの文章を読んでもそうである。ただ残念ながら、そういう書き手の数はけっして多くはない。10月号は「原子が秩序を生み出すとき」というタイトルだった。その中で福岡さんは物理学者シュレーディンガーの「生命とは何か」(岩波新書)に言及している。この本はDNAの二重螺旋構造を解明してノーベル賞を受賞したワトソンとクリックにインスピレーションを与えた書物としてつとに名高い。その中にこういう一節がある。「原子はなぜそんなに小さいのか」原子は元素の性質を失わないで到達可能な最小の粒子であり、その大きさは1億分の1センチメートル。1メートルの百億分の1を1オングストロームと呼ぶから、それに従えば、原子はおよそ1~2オングストロームということになる。これに対して生命体の最小単位である細胞はおよそ30万~40万オングストローム。3~40万個の原子が集まってはじめて一個の細胞ができるわけである。なぜこんなに原子は小さいのか。そう述べた後で、シュレーディンガーは「これは確かに一寸ずるい問いです」とつけ加える。この問いがなぜ「一寸ずるい」か、おわかりだろうか。たしかに考えてみると、この問いの立て方はおかしい。生命体が誕生するはるか以前から物質は存在し、原子は存在していたはずである。だとすると、原子が小さいのではなく、むしろその原子の大きさ(小ささ)に比して「なぜこれほど生命体は大きいのか」という問いを立てるべきなのである。こういうダイナミックな発想がすらりと出て来るところにすぐれた自然科学者の文章の妙味がある。読んでいると、思わず自分が巨人になったような気がしてくる。たしかに原子の大きさに合わせてもっと小さな生命体が生まれてもまったく不思議ではないし、むしろそのほうが自然な気もする。にもかかわらず、生物はなぜこれほどでかくなってしまったのか。今回の文章はこの謎を解き明かす形で展開されてゆく。その謎を解く語りのよどみのなさ、すっきりと明快な味わいはぜひ原文にあたってたしかめていただきたい。残念ながら、私のよどみ、ひねくれた文章では福岡さんのなめらかな語り口をうまく再現することはできない。しかし、その中でもとくに印象に残ったのはブラウン運動の話である。牛乳や水面に浮かぶ微粒子を顕微鏡で見ると、粒子があちこちに非常に不規則な運動をしているのがわかる。これをブラウン運動という。この現象は微粒子が、周囲にある目にはみえない原子(あるいは分子)にあちこちこずきまわされて細かく揺らいでいることから起きる。あるいは「拡散」という現象もある。ある物体を水溶液の中に入れる。その物体が水溶性だと徐々に水中に溶けだし、濃度の高い方から低い方へと次第に粒子が移動していき、最終的には水中に一様に拡散していく。ブラウン運動における霧の粒子の運動も、あちこちでたらめに運動しているように見えて、結局は粒子全体の動きは「平均して」重力の方向へ収斂していき、徐々に地表へと落下していくことになる。こういう微粒子の運動する様を観察すると、すべての粒子が同じ方向へ動いているわけではないことがわかる。中には重力に逆らって上に向かって動いたり、多数派とは逆の方向に、すなわち濃度の低い方から高い方へと移動している粒子も観察される。しかし、統計学的に処理すると、そのような「はぐれもの」粒子の頻度は「平方根の法則(ルートnの法則)」に従うそうである。たとえば100個の粒子が運動するとき、10個程度の粒子は平均的な動きから外れたふるまいをする。これは統計学から純粋に抽出される法則だそうだ。これはなんとなくわれわれの生活実感にも即している。100人いると、9割の多数派と1割の少数派に分かれる。マジョリティとマイノリティの比率としては実感に対応した数字といえる。しかし、この法則のミソは「平方根」というところにある。ああ、100人に10人が少数派なら、10人だったら1人が少数派か。そう思われる方があるかもしれないが、それはちがう。10の平方根は3.16……。すなわち母数が10人ならば、少数派は3人以上なのである。不思議なことにこれもなんとなく実感としてわかる。10人いたら7人の多数派と3人の少数派。しかも自分は確実に3人の中に入っている。そういう気がする。100人中10人でも私が少数派に属する確率はかなり高い。しかし肝心なのは私のマイノリティ気質の確認ではない。平方根の法則によると、10人なら3人が少数派、100人なら10人が少数派、1000人なら31人が少数派、一万人ならば100人が少数派、十万人ならば316人が少数派ということになる。要するに少数派の占有率を比較すると、10人=30%、100人=10%、1000人=3.1%、一万人=1%、十万人=0.316%ということになる。粒子の数が多くなればなるほど、急速に少数派の占有率が下がっていくのがわかる。母数を1億人とすると、少数派は1万人。つまり9999万人の多数派と1万人の少数派に分かれるわけである。少数派率、なんと0.01%。実はこれが「なぜ生物はかくも巨大なのか」という謎の解答なのである。つまり生命現象は動的な秩序を形成し、それにしたがって物質が一方向に移動することによって営まれている。肝臓で分解された物質が逆流して消化管に戻ってしまっては困る。動脈と静脈の血流の逆流も困る。せっかく尿にとりだした毒素が血液に戻ってしまっては尿毒症になってしまう。逆流の割合が1割もあっては生命体はとても生きてはいけない。だから一定の秩序、流れに即して物質の移動を行い、生命の秩序を保つためには、大きな母数が必要となるのである。少数派の占有率を極力小さくし、生命活動を円滑に行うためには、生命体の中にある原子を増大させ、平方根の法則にしたがって少数派の影響をゼロに近づけるしかない。こうして生命体は原子に比べてとほうもないほどの大きさとなり、その生命体の一員のわれわれからみると原子はとほうもなく小さく見えるようになったというわけである。平方根という数の不思議さ。人間を粒子に見立てた時の少数派の割合。それが母数の大きさに伴って影響力を減じるということ。10人に3人、100人に10人、1000人に31人という少数派の比率。さまざまなことが頭の中に思い浮かぶ。そして、物質の粒子の運動は効率だけを目指すのではなく、その中には常に母数の平方根の数だけの「ひねくれもの」「はぐれもの」が内包されているということ。また、そのことの意味。生命体と原子のスケールの違いからさまざまなことが連想されてくる。意志をもった人間を単なる粒子の運動に喩えることの乱暴さを承知の上でいえば、人間もまた巨大な母数を目指して日々活動しながら、ある一つの方向を目指して運動をつづけているのかもしれない。そして、その方向性に異を唱える少数派は日一日とその影響力を減衰されながらも、なお少数派であることをやめない。その少数派にもし存在意義があるとすれば、それは小さく切り分けた集団の中でこそ確かめることが可能となる。少数派であることの恍惚と不安と二つわれにあり。そういうことになるのだろうか。
2006.09.28
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「私にとって敗戦の時が二十二歳でした。 敗戦はショックでした。 このショックはちょっと説明しなければなりませんが、なんとくだらない戦争をしてきたのかと、まず思いました。そして、なんとくだらないことをいろいろしてきた国に生まれたのだろうと思いました。敗戦の日から数日、考え込んでしまったのです。昔の日本人は、もう少しましだったのではないかということが、後に私の日本史への関心になったわけですね。」「いったい日本とは何だろうということを、最初に考えさせられたのは、ノモンハン事件でした。昭和十四年、私が中学の時のことでした。こんなばかな戦争をする国は、世界中にもないと思うのです。」「ひとびとはたくさん死にました。 いくら考えても、つまり、町内の饅頭屋のおじさんとか、ラジオ屋のおじさんなら決してやらないことですね。ちゃんとした感覚があれば、お店の規模を考えるものです。 ところが、こんなばかなことを国家の規模でやった。軍人を含めた官僚が戦争をしたのですが、いったい大正から昭和までの間に、愛国心のあった人間は、官僚や軍人の中にどれだけいたのでしょうか。 むろん戦場で死ぬことは『愛国的』であります。しかし、戦場で潔く死ぬことだけが、愛国心を発揮することではないのです。」「私自身の経験を言いますと、私は戦闘に参加したことはありませんが、どういう状況になっても恥ずかしいことはしなかっただろうと思います。周辺の人間数人、あるいは十数人の人間を前にして、みっともないことはしたくないという気持ちですね。それがあれば、人間は毅然とすることができると思います。それは愛国の感情とは違う問題になります。 むろん、愛国心はナショナリズムとも違います。ナショナリズムはお国自慢であり、村自慢であり、家自慢であり、親戚自慢であり、自分自慢です。 これは、人間の感情としてはあまり上等な感情ではありません。 愛国心、あるいは愛国者(パトリオット)とは、もっと高い次元のものだと思うのです。そういう人が、はたして官僚たちの中にいたのか、非常に疑問であります。」一週間ほど前、本屋でぼんやりしていると、ふいに「おい、おい」と呼びかけられた。その声は書棚の上の方からしてくる。「君、君、君だよ」「え、俺ですか」私はその声のした方へ顔を上げる。書棚の上から二番目の棚にその本はあった。真っ白な背表紙に黒い文字が書かれている。「なんで、今あなたの、そして、そのタイトルなんですか」でも、その返事はなかった。しばらく耳を澄ませてみたが、もう何も聞こえてはこない。私は思いきり背伸びをして、伸ばした右手の先でその本の背中をつかみ、手にとった。その本には『昭和という国家』(司馬遼太郎)(NHKブックス)と書かれていた。冒頭に記した文言は、その本の第一章の一節である。今日、その本を読み終えた。想像したよりもはるかにすばらしい本だった。司馬遼太郎の本を読んだのは初めてではない。「竜馬がゆく」は私の愛読書である。しかし、この本のことばは、彼の小説のそれよりも、もっとすばらしいのではないか。明晰で、論理的で、深い思索を背景とした重みがあって、誰にも誤解のしようのないほどわかりやすく、それでいて鋭く深い、みごとな日本語の語りがここには実現されている。私はそう思った。この本はNHK教育テレビで放送された番組を文字に起こしたものである。昭和初年から昭和二十年までの間にいったい何が起こったのか。そのことを12回の放送で語った番組の記録である。私は会社への行き帰りの電車の中でこの本を読みながら、何度も深いため息をついた。ここには痛切な訴えがある。ここには自分のいなくなった後、この国に住む人々へのやむにやまれぬ思いがこめられている。この二十年間に起こったことを忘れてはならない。そこから学ぶべきものを学ばなければ、また同じことを繰り返すことがないとはいえない。そこで何が起こったのか。その原因は何であったのか。そこからわれわれは何を学び、何を教訓とすべきなのか。そのことを考えなさい。この本は静かに、しかし熱く、そのことを語りかけてくる。司馬氏はノモンハン事件のことを長期にわたって調べ、資料を集め、たくさんの人にあったという。そして、ついにそれについては一行の文章も書かなかった。その当時、番組を収録したディレクターには「○○君、『昭和』ばかりしゃべっていたらハラワタが腐るよ。」とつぶやいたという。そして、「若い人がマネーゲームに勤しむ。働いて、つまらない収入を得ることの大事さを誰も教えない。これでは社会は壊れてしまう」「繁栄は続きません。産業の神さまは必ずよそへ移ります。その時、落ち着いて老いさびたクニに、日本をどう作って行けるのか……土俗の日本人として、真剣にそれを考えないと」と言ったという。それは1986年。いまから20年前のことである。この本についてこれ以上のことを語ろうとは思わない。この文章の冒頭の数行の引用を読んで、何かをこころに感じられた方がもしあったとしたら、とにかくこの本を読んでみてください。私にはこの本のすばらしさを語り尽くす力量は残念ながらありません。でもある日、ある時、この本からじかに呼びかけられた人間として、「こういう本がありますよ」ということだけはここに記しておく義務があると感じました。ノモンハン事件の当時、満州国という虚妄の国の優秀な官僚であり、その後、A級戦犯の容疑者となり、釈放され、日本国の総理大臣となった人間。その人間の孫がもうじき同じ国の総理大臣になろうとしています。その時にあたって、この本を一人でも多くの人に読んでほしい。私はそう思います。私は新しい政治的リーダーに微塵も期待はしていません。それどころか彼に対して強い懸念と警戒心を抱いています。その気持ちはこれからも持続していこうと考えています。この本を読み終えて、あらためてその思いを強くしました。「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです。」あまりにも有名なヴァイツゼッカーのこのことばを私はこころの中にあらためて強く刻み込もうと思う。
2006.09.23
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その1水曜日、会社の帰りに内田樹先生と柴田元幸さんの対談を国際文化会館へ聴きに行く。都営大江戸線に乗って麻布十番の駅で降りる。こんな駅で降りるのは生まれて初めてである。地上へ上がり、鳥居を右手に見ながら西進、右に曲がって鳥居坂を登る。かなり急な坂道で息が切れる。右手に東洋英和の校舎が見えてきたと思ったら、左側に会場の国際文化会館が現れる。着いたのは17:55分頃。開演は18:30だから、まだ30分以上余裕がある。軽く食い物を腹に入れるか、いい席をとるかの二者択一だが、迷わず後者を選ぶ。なにしろ内田先生の尊顔を拝す機会などめったにないことなのだから(今回で二度目)、謦咳に接するべく、至近距離の席を確保することを優先する。受付は始まったばかりであり、100名前後入る会場内には、まだ5~6人の姿しか見えない。中央やや左手、前から3番目の「S席」を確保し、読みさしの司馬遼太郎『昭和という時代』を開きながら、開演を待つ。定刻を5分ほど過ぎた頃、突如、右手に大きな男性の影を感じる。左には小柄な男性の姿も。「先生は、右左どちらがいいですか」「私は、どっちでもいいですよ」「じゃ、私が左ということで」おお、内田先生の声だ。顔がやや赤く見えるのは日焼けのせいだろうか。相変わらずの堂々たる偉丈夫ぶりである。濃いグレーのジャケット姿だ。柴田さんは思ったよりも小柄。そそくさと右側、こちらから見ると中央の左側の席につかれる。やや遅れて内田先生が向かって右側にどっこいしょと着席。5~6メートルの至近距離である。うう、いやがおうでも緊張と興奮が高まってくる。このお二人の登場の印象をどう伝えればいいか。やや古い野球のファンの方にしかわからない比喩を使えば、ロッテの村田兆司投手(いわずとしれた「まさかり投法」の剛球投手)と中日の木俣捕手(地味で職人肌のキャッチャー)が並んでグラウンドに向かって歩いてくるという感じだろうか。対談の様子もほぼそのイメージでとらえてもらえばいいと思う。ハンドマイクの占有率は先生が7~8割、柴田さんが1~2割というところ。時折キレのあるスピードボールやぐいっと落ちるエッジの効いたフォークボールを先生が投じ、それを柴田さんがひょいっと受けとめる。ほぼそういう流れで試合は展開する。このブログを読まれている方の中には内田先生のファンも多いと思われるので、ここで僭越ながら先生のヴィジュアルの印象について一言述べさせていただく。これまで何度も書いたとは思うが、内田先生は私の心の師であり、私が「先生」という時には、自動的に内田樹先生のことを指す。もちろんこれは私の勝手な思い込みであり、メールのやりとりはあるけれども、直接お話ししたことはない。あふれんばかりの尊敬と敬意の気持ちを抱いているのはいうまでもないが、そればかりを書いていたのでは「実際、どんな人なのか、さっぱりわからないじゃないか」といわれそうである。敬意をとるか、リアリズムをとるか。しばらくは後者を選択してみることにしよう。(失礼な物言いがあったら、先生ごめんなさい)えっとですね、これはあくまでも、たとえですからね、たとえ。もしも地球上に人類が三人しか生存していなかったとします。そして、その三人が内田先生、おすぎ、ピーコだったとしますね。そうすると、先生は外見的にはおすぎに、仕草としゃべり方はピーコに少しだけ似ておられます。(わーん、先生、ごめんなさーい。)誤解のないようにいっておきますが、これは極端な仮定の上に立った上での話ですからね。その点をお忘れなく。でも、この三者に共通するのは、とってもたのしそうにうきうきと話をするというところにあります。昨日、聴き終わって帰る時には、こちらのこころもうきうきと弾んでいました。たとえそれが人の悪口であったとしても、とにかくおしゃべりするのが楽しい!という感じで話されると、なんだかこちらまで気持ちが浮き立ってきます。昨日再確認したことは、先生はやっぱり「女の子」だということです。これも誤解を招きそうな言い方ですが、先生の笑い方をちょっと再現してみますね。みなさんもできたらご一緒に。先生は自分で話している時によく笑われます。自分の言ったことに対して「うふ、おもしろいっ」という感じで笑われるんです。その時のしぐさは、まず目をつぶります。そして少し首と肩をすくめます。体の中心に向かって体全体を少し縮めるような感じで。そうです。できたら膝なんか少し持ち上げてみてもいいかもしれません。ややデフォルメすると両手をそろえて、手のひらを握って顔の方へ向け、あごの下あたりにもっていってもいいでしょう(先生もさすがにそこまではなさりませんが)。その姿勢で、はい、「うふふふふ」と声に出して笑ってみましょう。はい、「うふふふふ」。そう、よくできました。どうですか、これって「女の子」笑いですよね。私にはまったく真似できません、この「うふふふふ」笑いは。でもそれをとっても自然に、ほんとうにたのしそうにやられると、こちらまでこころの中が「う」と「ふ」の二文字で満たされてきます。それでは肝心の話の中身のほうへ移ることにします。(しかし長い前振りだな)当日の一応のテーマは「翻訳」と「文学」だったので、まずは翻訳の話から。「柴田先生はとにかく本をよく出されます。私もこの三年くらいたくさん本を出していて、年に十冊くらいは出していると思うんですが、柴田先生はそれよりもハイペース。先週送ってもらった本をぺらぺらと開き始めると、次の週には新しい本が来て、その次の週にもまた本が、という感じ。どういうペースで仕事されてるんですか」という内田先生に対して、柴田さん。「えー、世間では『ムラカミハルキのコバンザメ』と言われている柴田です。(笑)まあ、年間15冊くらいですかね。でもほんとはもっと速く訳したいんですよ。昔は手で書いてて、それではおっつかないのでワープロにして、それでもまだ遅いんで、最近はちらしの裏なんかに手でわーと書いて、それを奥さんに打ってもらってます」「えー、先生、手書きで書いてるんですか。それで打つより速いんですか」「もちろんすごい字で、漢字なんかみんなひらがなで、変換してもらう印に下に線だけ引いとくんですけどね」うーん。私でもキーボードだと手書きの二、三倍の速さで文章が書けると思うんだけど、それよりも速い手書きっていったいどういうんだろう。それにしても奥さんもかなりの重労働ではないだろうか。「でもとにかく速く訳したいという気持ちはずっとあるんですよ。速さって大事だと思うんです。だって、自分が原書読んで、面白いなということを伝えたくて訳してるわけですよね。だから、できたら読む速さで訳したいな、ぼくは。」「読む速さで訳す」――すごいことばである。その後は、先生が大学卒業後、翻訳会社で翻訳をなさっていた話、大学の英語のテストの「ヤマ」を次々に当てて、「内田は英語ができる」という伝説が生まれたという話(「書き手の念がこもっているところはぱっと見るとだいたいわかるんです」)、そして、ついにレヴィナス師の著書と出会い、その翻訳を通して人格が陶冶されるような強い人間的影響を受けたという話、そしてレヴィナス師にパリまで会いにいくという佳境へとなだれこんでいきます。おおよそは過去の日記や本で読んだことのあるエピソードだったのですが、さすがにナマの語りで聴くと、感動や興奮が直に伝わってきます。聞き覚えのあるエピソードが新たな「熱と輝き」を帯びてよみがえってくるという感じ。このあたりは時を忘れて聞き入ってしまいました。ということで、ここまで話しているのはほとんど内田先生です。「レヴィナス先生の『困難な自由』を最初に訳した時のことですけど、訳してみると200字詰めの原稿用紙でこんな(20センチくらいだろうか)の山になったんです。でもそのころ助手やってて、子どもも生まれたばっかりだったんで、忙しくて、そのまま押し入れに入れといたんですね。そして二年くらい、そのままほっといたら、さすがに国文社の編集者から催促の電話が入りました。それで押し入れから取り出して読んでみたんですが、これが二年前にわからなかったところがいくつもわかるようになっているんです。自分で訳した訳文がですよ。訳してた時にはわからなかったことが少しわかるようになってる。それでその原稿用紙の山を捨てて、もう一度最初から訳し直したら、前よりもだいぶましになってるわけですね、これが」「え、全部捨てちゃったんですか。赤入れすればよかったんじゃないですか。もしですね、その頃パソコンがあってそこにファイルを作ってたとしたら、そのファイル捨てましたか」「うーん、それを修正するんじゃあ、たぶんうまくはいかなかったと思いますね」私は深くうなづく。柴田さんが驚いた「原稿を捨てた」という箇所で、実は私は深く共感していたのである。「うん、やっぱり捨てるか」という感じで。このへんは感覚の違いかもしれないが、そこで原稿の束をどさっと捨てちゃうのが先生の先生たる所以であり、私が尊敬してやまないところでもあるわけです。
2006.09.21
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その2閑話休題。この二人の対談となれば、当然「あの人」が出てこないはずがありません。この後、もちろん出てきます。「あの人」が。「内田さんはそうやって人格の陶冶というか人間修行というような感じでレヴィナスの翻訳に打ち込んでこられたわけですから、他人の訳を直すなんてことは考えられないでしょうね」「そうですね。とにかく没入してますから。そして原本の著者の知的容量は自分のそれよりもはるかに大きいわけですから、自分の意識を細かいクラスターに割っていって、相手の世界の隙間にまるでリキッドみたいな状態にして潜り込ませるわけですよ」といったディープな話の後で、「そういえば柴田さんは「あの」村上春樹さんの翻訳を直したりされるんでしょう。いったいどんな感じでやっておられるんですか」おお、ついに出た。「えっとですね。ちょうど中日の中村というピッチャーがいたんですが、ご存じですか。あれとキャッチャーの木俣がバッテリーを組んだ時というのは、試合時間がすごく短かったんですよ。どうしてかというと、中村は自分の腕を振りかぶって、そこで始めてキャッチャーのサインをちらっと見るんですよ。それまでは全然見ない。当然、そこで首を振るなんてできないわけですよね。そのまま投げる。だから一時間半くらいで試合が終わっちゃうんですね。ぼくと村上さんが組んで訳してる時って、ちょうどそういう感じじゃないかなーって気がしますね」「でも、たとえばですね。ぼくなんか技術書の翻訳なんかやってて、『内田さん、ここ誤訳ですよ』とか指摘されたら、やっぱりショックでね、『あー、そうですねー』とかいいながら、話題が続かなくなって、沈黙がちになって、顔にこう縦線とかが入っちゃったりするんですけど(笑)、そんなことないわけですか」「ああ、村上さんはその点はすごいですよ。なんといったらいいんだろ、『ready to be corrected』っていうのかな。(すいません、このあたりうろおぼえです)とにかく『直される準備ができてる』人っていったらいいんでしょうか。私が『こことここがこういう感じでちょっと』というと、『ああ、そう』といってじっと考えて、さらさらって直しちゃいますね。顔に縦線とかそんなのまったくないです。それはすごいですよ。」一字もメモをとらずに記憶に頼って書いているので話の順序がちょっと変わってしまっているような気もするが、村上ファンには実に興味深い話がさらに柴田さんから出て来る。「えーと、『グレート・ギャツビー』の訳ですね、あれ、すばらっしいですよ。村上さんの訳」「えー、ギャツビー訳してるんですか」と内田先生、思わずのけぞる。さすがの内田先生も「村上朝日堂」はチェックなさっていなかったご様子。「いつ出るんですか、それ」「今年かな、来年かな。それで、すばらっしいんですよ。実に、その訳が。村上さんの訳の特徴は文章が複雑でややこしくて訳しにくいところの訳文が実になんというかすばらしいんですね。どうしたらこんなふうに訳せるんだろうと思うくらい。そして、簡単なとこ、数字のとこなんかでミスしてるんですよ(笑)」柴田先生は日本でも数少ない、既に村上訳「グレート・ギャツビー」を読んでいる方だったのだということに改めて思い至る。その当人の「あれ、すばらっしいですよー」という言い方を聴いた瞬間、私の脳裏にははるか彼方の遠い灯を見つめるギャツビーの描写が浮かんできた。きっとあの部分もすばらしい日本語になってるんだろうなーとしみじみと思わせる、それはそれは気持ちのこもった二度にわたる柴田教授の「すばらっしいですよー」でありました。まだまだいろんな話が出たんですが、ちょっと書ききれないので、最後に30分の質疑応答の様子を少し。レヴィナス先生の翻訳の話をされる際に、内田先生はお得意の「知的肺活量」の話を披露される。ご存じの方も多いだろうが、「ポセイドン・アドベンチャー」で神父が転覆した船の水底に潜る。向こう側に出口が開いているのかどうかはわからない。半分まで潜ったところで選択肢は二つある。そのまま引き返せば、少なくとも元には戻れる。でも、「えい」と思って向こう側へ行くと、たいていの場合、なんらかの出口が見つかる。そういうことがレヴィナス先生の翻訳でも何度もあった。わからない部分があって、それは語彙や文法レベルではなく、もっと本質的な難解さなのだが、機械的なことばの置き換えで済ませてしまう方法もある。しかし、それでは永遠にこの大きな岩の向こう側の風景を見ることはできない。えいやっと向こう側に泳いでいくと、なんとかそれにふさわしい表現が見えてきて、その瞬間に見たこともない世界が眼前に広がる。その瞬間にレヴィナス先生の背後にある古代ユダヤの世界から連綿と連なる知の巨大な連関に自分が触れた気がして深く感動するーーという話である。その話を受けて、聴衆の中から「先生の、そのなんといったらいいのでしょうか、根拠のない自信はどこからくるのでしょうか(笑)」という質問が飛ぶ。「えーと、それは質問というか、ほとんど詰問だな(笑)。でも、ほんとよく聞かれるんですよ。あなたのその根拠のない自信はいったいどこからくるんだって。お答えしますけど、それはおそらく家族ですね。私のうちは父、母、兄と私の四人だったんですけど、私は幼いころから愛情を注がれて、かわいがられて育ったんですね。社会から承認を受ける前に、家族によって完全に承認されたんです。だから、あえて社会から承認を受ける必要性を感じないんですね。それで100人のうち99人があっちへ行っても、私一人「え、ふつうこっちだろう」と思って反対側に行くのはなんともないんです。おそらく幼い時に家族からひたいのこのあたりに「合格」という印を押されてしまったのが、根拠のない自信につながっているのではないでしょうか。あなたももしお子さんをお持ちでしたら、思いっきり甘やかしたりすると、その後とんでもないことをしでかして、親を楽しませてくれますよ」以上、まだまだ面白く興味深い話もあったのですが、それはまたの機会ということに。拙い文章ではありますが、内田先生の話を直接聴く機会に恵まれない方々に当日のなごやかで親密な会場の雰囲気が少しでも伝わればと思って、よちよちと書いてみました。ほんとうに感銘を受けた話はまだ書いていないのですが、それはまたいつかゆっくりと考えた後で文章にしてみたいと思います。しかし、ほんとうに愉しい愉しい一夜でした。「仕事の帰りにこんなに元気な姿は見たことがない」帰り道、そう断言された私でありました。
2006.09.21
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土曜日の午前。電車に乗って出かける。最後尾の車両の、そのまた最後尾の座席。たまの休日くらい、乗り換えのことを忘れ、便宜や便利を忘れ、座りたい場所に座る。そういえば、大学の頃、教室の定位置はいつも一番うしろの右隅の席だった。そこにはけっこう面白い人間が集まってきたものだ。久々の休みで、久々の青空、空の色はなんといえばいいだろう。そう、モネの空の色。乾いたにごりのない青色が空に広がっている。暑くもなく、寒くもない。ホームに立っていても、時折吹きすぎる風が肌に心地いい。席に座り、文庫本をとりだしてページをめくる。大橋歩「くらしのきもち」(集英社文庫)。まったくがらにもない本をもってきたものだ。まっしろな表紙に黒い犬のイラスト。原宿のブックオフで、表紙を見て、衝動買いしてしまった。「村上ラジオ」以外ではこの人の本を読んだことはない。ぺらぺらとページをめくって読んでいると、とくに何が書いてあるわけでもない。面白いことを書こうとか、しゃれた文章を書こうとか、これがいいたいとか、そういう文章ではまるでない。最後まで読めるかな、と思いながらページをめくっていたが、少しずつ本の中に入り込んでいく。とくにすばらしいことが書いてあるわけではない。だからといってつまらないわけでもない。力みがなく、気張りがなく、自然で、すなおで、やさしく、品のいい文章。ひかえめで、まっすぐで、てらいのない文章。そういう文章を読む心地よさが今日の天気にふさわしい。著者略歴をみると年齢は64歳。そうか、その歳で、このやわらかな文章を書くことは、けっしてふつうでもあたりまえでもない。いや、実はとてもむずかしい仕事であると思う。大橋歩という人は、とにかく大事なことをたいせつにして生きている人であり、大事なことを人に教わろうという姿勢を持ち続けている人だ。それが文章から自然ににじみでている。だからこそ、大事なことを教える人がいつもそばによってくるのだろう。「村上ラジオ」もそのようにして生まれた本ではなかっただろうか。次々にページをめくっていると、ふと隣に座っている若い女性が席を立つ。「あ、どうもありがとうございます」という初老の女性の声が聞こえる。その女性の傍らには足に装具をつけ、杖をついた初老の男性が足を引きずりながら電車に乗り込んでくる。おそらく夫婦なのだろう。男性はぎこちない足どりで私の左隣の席に座る。席を立った女性は私の右斜め前に向こう向きに立ち、ペットボトルのお茶を一口飲んでいる。日常のあたりまえの風景である。何も変わったことは起きていない。しかし、私は本から目を離し、今起こったことの意味を考える。私は席を譲るべき時に他人に遅れをとったことはほとんどない。そういう記憶を思い浮かべることすらできない。しかも、今、私は席を譲るべき人が電車に乗ってきているということすら気づかなかった。もちろん本を読んでいたということもあるだろう。それにしても、そんな経験はこれまでなかったし、第一、隣の女性が席を譲るのと、初老の夫婦が電車に乗り込んでくるのは、ほとんど同時だった。よく考えると、これは不思議なことである。私は隣の女性のことを思い浮かべる。黄色いノースリーブのシャツと黒っぽいジーンズを履いたパーマをかけた金髪の女性。年齢は30前くらいだろうか。電車に乗ってきた時は、私の右隣の位置に立っていた。席が空いたので私の左の座席に座った。でも座る時に座席のクッションが大きく沈むこともなく、どこかが私に触れることもなかった。すっと腰をおとし、音もなくそこに座った。そのことを思いだした。席を譲る時、彼女はどうしたか。日本人の多くは席を譲る時、まず迷う。席を譲るべきか否か、と。そして短い時間、逡巡する。その後、おずおずとまっすぐ立ち上がる。どういうせりふを言おうかと考えながら。そして、「あのー」と口を開く。「ど、どうぞ」と口ごもりながらことばを発する。そして、内心どきどきする。まあ、かくいう私も似たようなものである。席は譲り慣れているから、もう少しスムーズにことを運ぶことはできるけれども、基本的には同じようなものだ。でもその女性は違った。まず、席を立つタイミングがとても速かった。電車が駅につく。ほとんどそれと同時に彼女は立ち上がった。そして、立ち上がり方が違った。彼女はまっすぐ立たなかった。右斜め前に向かって、まるで目標に向かってスタートを切るような姿勢ですぱっと立った。そして一言も発しなかった。電車が駅についた瞬間に、無言で斜め前に向かってすぱっと立ち、そのままの姿勢でその方向へ向かって数歩歩き、向こう向きに立っていた。席を譲られた初老の女性の対応から推察するに、彼女は立ち上がった瞬間、何もいわなかったけれども、おそらくにこっと微笑んだのではなかったろうか。立ち上がりざまに一瞬微笑んで、右前方へすっと歩き、一口お茶を飲む。今考えてもほれぼれするほど機敏で敏捷な動作だった。それはまぎれもなく「マナー」の実践だった。そこには迷いや逡巡はなく、「いいこと」をするという意識すら感じられなかった。ほとんど条件反射といってもいいくらいだ。でも席を譲られた人にも、それを回りで見ている人にも、さわやかな一陣の風が吹いたような感触を与える動作だった。「ああ、俺が譲ればよかった」などということすら考えさせないような俊敏さだった。私はすっかり感心してしまった。電車の中でこんなさわやかな行動を見たのはいったい何週間、いや何ヶ月ぶりだろう。偶然、降りる駅が一緒だったので、私は彼女と並んで電車を降りた。おそらくはフランス系の外国の方か、あるいはハーフの方とお見受けした。シンプルな服装だったが、とても優雅に、そして美しく見えた。日本人ではなかったということに、私は少しだけ納得と失望を感じた。電車を降りても、その余韻はしばらく続いていた。その余韻の中で道を歩いていると、突然、前方で「あぶない!」という声が聞こえた。車が向こうから走って来て、その前をすばしこい小さな動物が走りすぎる。よく見ると、ほとんど生まれたばかりの子猫である。学校のそばの道。道ばたにはつつじだろうか、背の低い植え込みがあり、子猫はそこから出てきたようだ。幸い車の運転手がそれに気づいてスピードを落とし、その傍にいた段ボールを抱えた女性が助けたようである。私は気になってそちらの方に歩いていった。その学校の女学生が4~5名ほど生け垣の方を向いて何か話している。段ボールを抱えた女性が彼女たちに説明している。「子猫でね、一匹は目が見えないの」という声が聞こえてくる。そのうち、また生け垣から小さな物体が道路に向かって走り出す。おそろしくすばしっこい。まちがいなく子猫だ。白と茶色のまじった子猫。生後2~3週間というところだろうか。どうやら段ボールをもった女性はその子猫を捕獲しようとしているらしい。「一匹は目が見えなくてね、病院につれていこうと思ってるんだけど、もう一匹がどうしてもつかまえられなくて」ということばが耳に入る。だいたいの事情がこちらにも呑み込めてくる。私はその女性に声をかけた。「手伝いましょうか」「ええ、目の見えない一匹は箱の中にいれたんだけど、もう一匹が。とりあえず近くの動物病院に連れていきたいんだけど」私は生け垣の中に逃げ込んだ子猫の後をそっと追う。小さな体だ。私の掌のなかにほとんど入ってしまいそうな大きさだ。でも子猫はおびえている。どうしていいか、判断がつかないでいる。背後から手を伸ばすと、やみくもに走り出す。そのすばやいこと。走ろうとする意志と、走る動作との間にまったく隙間がない。走る意志がそのまま動作となって路上を駆け回っているという感じである。必死で追っかけたがとてもつかまえることはできない。おそろしいほどの逃げ足の速さである。でも、その姿をしばらく見ていると、彼(彼女?)は逃げようとしているのでもないようだ。あっちへ行き、こっちへ帰ってくる。向こうへ走り、こちらへ戻ってくる。よく見ると、小さな円の中をあっちからこっちへと移動しているだけである。とにかく追われているから逃げているので、どこかへ走り去ろうとはしていない。そのことは見てとれる。何度かの追跡劇の後、私は生け垣の上から子猫を見おろす。そして、そっと指先を伸ばす。ふと、子猫は顔を上げ、こちらの顔を見る。「どうするの!」その眼はそう言っている。「だいじょうぶ、だいじょうぶ」。私は心の中でそうつぶやく。何がだいじょうぶなのかは私にもよくわからない。でも、そういうしかないではないか。私はさらに子猫に向かって手を伸ばす。人差し指が猫の背中にそっと触れる。彼がびくっと身をすくませるのがわかる。ここが勝負だ。私はそう思い、手のひらを広げて、彼の背中をそっと覆うようにする。手のひらを彼の背中にそっと押し当てる。子猫はそっと目をつむる。彼にとっては母親のあたたかいお腹を離れてから、おそらくははじめて触れたあたたかい物体だったはずだ。そのあたたかさに触れた瞬間、彼はそっと体の力を抜く。私は逆に右手にそっと力を込め、子猫を背後からつかみ、ぱきぱきと生け垣の枯れ枝を折りながら、猫を持ち上げる。あっけないほど軽い、骨と肉と皮と毛のやわらかく小さなかたまり。しかし、空中に持ち上げても彼は身じろぎひとつしない。引っ掻くどころか、私の手の中でまるで眠ってでもいるかのように、ふんわりと体を預けている。彼は賭けたのだ。このあたたかいものを信用するという選択に彼は命を賭けたのだ。私は女性が抱えた段ボール箱の中に眠っている小さな猫の上に、その猫をそっと置いた。「ありがとうございました。助かりました。」女性はそういった。私はあいまいな返事をして、その場を去った。「よろしくおねがいします」といいたかったのだけれど、それも何かおかしな返事であるような気がして。土曜の午前。久々の青空とさわやかな風。その中で感じた小さな幸せ。小さな幸せ?大きな幸せというものがはたしてこの世に存在するのだろうか。幸せはそもそも小さな形をしているものではないだろうか。そして、その小さな幸せに出会うためには女性の介在が必要だ。そう考える根拠は何もない。ただ、その時の青空と風が私にそう告げただけだ。幸せはいつも小さな形で人を訪れる。小さいということは幸せであることの重要な条件のひとつである。私が今日学んだのはそういうことだ。
2006.09.16
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もう15年近くも前になるだろうか、休みの日には自転車でずいぶん長い距離を走っていた。長年愛用していた「無印」の自転車を駅前で盗まれたので、しかたなく近所のダイクマに新しい自転車を買いにいった。近所に買い物に行く時に使うくらいなので、別に何でもよかったのだが、銀色に光る真新しい自転車を眺めていると、ふとスポーツ車もどきの一台に目がとまった。一見サイクリング車、よく見ると普通の自転車である。車体にはスポルディングというロゴが入っている。「これ、ください」と店員に言って、それにまたがってうちまで帰った。帰りの本屋でサイクリングの本を立ち読みし、ペダルを下まで押し下げた時に足が伸びきるような位置までサドルを上げ、そこそこのサイクリングもどき車に改造した。ただ、こうすると信号待ちの時などつま先が下につくかつかないかぎりぎりの高さになり、下ろした足がつりそうになる。なに、男は心意気だ。そう思って、それ以来、サドルの位置は変えなかった。そのかわり、強く足を踏み込むとかなりのスピードが出る。見栄を張れないようでは、男は終わりだ。私にとってそのサドルの位置はささやかな見栄の基準線となった。休みの日にはスポークと車体をぼろ切れで丁寧に磨き、チェーンに油を差し、タイヤに空気を入れ、こまめに整備した。そうして、サドルの頭をよしよしと撫でていると、近所をぶらぶらしているだけではなんだか物足りなくなってきた。押入れの奥から住宅地図を引っ張り出して見ていると、自宅から10キロくらい離れたところを起点とするサイクリングロードがあることを発見した。頭のなかでイトミミズのようなそのサイクリングロードを想像し、そこを走る自分の姿を思い描いた。よし、行ってみるか。そう思って、天気のよい五月のある日、私はサドルにまたがってペダルをこぎはじめた。住宅地を抜け、森のある大きな自然公園の脇を走り、大きな道路の向こう側へ渡ると、田圃の中を細い一本の道が通っている。車や単車は走行禁止であり、人通りもすくない。自転車とマラソンランナーがぽつぽつと走っている程度である。道は周囲よりもやや高いところにあり、両側に視界が開けている。この道はどこまで続くのか、自分で走って確かめてみようと思い、どこまでもペダルをこぎつづけた。おそらく10キロ近くは続いていただろうか。森を抜け、田圃を抜け、川を渡り、大きな国道を越え、どこまでも走りつづけた。何も考えず、風に吹かれていると、日頃は思いつかないことがふとひらめいたりする。汗をかき、腹も減り、途中で水を買い、ついにサイクリングロードの終点にたどりつき、そこで弁当を食べ、河原に寝ころんでしばしまどろんだ。ふと目覚め、自転車の向きを変え、今来た道を引き返す。昼過ぎにうちに帰りつき、缶ビールを飲み、そのまま倒れるように昼寝をする。なにをしたわけでもないのだが、なにかをなしとげた気分になる。なかなか充実感のある一日だった。それから天気の良い休日には自転車でそのコースを走るのが日課になった。地図で距離を調べてみると、走行距離は往復でほぼ40キロ少し。マラソンの距離とほとんど同じである。かなりのスピードで飛ばしていたから、実質的な所要時間もマラソンのトップランナーより少し落ちるくらい。実質2時間半くらいだったろうか。しばらく続けていると、朝、通勤の時に交差点を走って渡っても息が切れなくなった。足にも少し筋肉がついてきた。サイクリングロードの片道10キロをストップウオッチで計ってタイムをとったりもした。そのように自転車で長距離を走ることでいろいろなことを学んだ。ある日、サイクリングロードから公園へ降りようと思い、かなりのスピードで走り降りていると、砂利道でコントロールが効かなくなり、斜めに倒れたなり、そのままの形で坂を滑り落ちた。肩から地面に叩きつけられ、横倒しに倒れて、下まで滑り落ちた。とっさに頭を守ろうとして、肩と足を舗装道路に叩きつけたようである。ふと気づくと、仰向けに倒れており、あたりには人っ子一人いない。空を見上げると澄み切った青空が見える。耳を澄ますと遠くの鳥のさえずり以外、何も聞こえない。私は茫然としてしばらくそのままの姿勢で空を見ていた。しばらくして、上体を起こし、自分の体を点検してみる。下は舗装道路だったので、倒れた時にジーパンの厚い生地に裂け目ができ、そこから血がしたたりおちている。シャツも破れており、肩のあたりに血がにじんでいる。私はそこから自宅までの距離を思い浮かべた。およそ12キロくらいはあるだろう。しかし、こうしていてもしかたがない。私は痛みをこらえて自転車にまたがり、ぽたぽたと足から血をしたたらせながら、なんとか自宅までたどりついた。道行く人が不審そうな顔をしてこちらを見ている。自宅の玄関のドアを開け、その場に倒れ込んだ。そこから浴室まで這っていき、シャワーで傷口を洗い、傷の処置をした。その日以降、自転車の運転にずいぶん慎重になった。いつもいま自宅からどれだけ離れたところにいるかを意識し、それを行動に反映させるようになった。そうしながら、何か貴重なことを学んだような、そんな気がしていた。雨も自転車の大敵である。10分、15分ならば雨の中を走っていてもなんでもないが、10キロ以上雨に打たれていると、体が冷え切ってふるえが止まらなくなる。いつまでたってもやまない雨ならばうちに帰ることができない。何度かそういう経験をした後で、雨の予兆を読みとることはできないだろうかと思った。局地的な雨は天気予報だけではわからない。私は上空を見上げ、雲を読む訓練をした。経験を積むと、かなりの確度で雲が読めるようになる。雲の厚さ、上空の風の流れ、風向き、湿度、鳥の動向、それらを総合的に判断すれば、だいたい雨の動きは読みとれる。この能力は今でも役に立っている。旅先で突然の雨に会い、雨宿りをしたとき、どの段階でそこを出るか。ほとんど判断を誤ることがないのは、この時の経験のおかげである。そのことを通して、都会での生活はそのような読みとり能力をいかに鈍らせるかということもその時思い知ったことである。しかし、自転車に乗っていていちばん印象に残っているのは次のような日のことである。走っているとなんだか体がとても軽い。ペダルを軽く踏むだけで、すいすいと抵抗なく体はすべるように前方に移動していく。いったいなにが起きているんだろう。しかも走りながら、風を感じることがない。ほとんど無風状態の中で軽々とペダルをこぐと、飛ぶように体が前進する。おまけにまったく疲れるということがない。あたりは静まりかえっており、世界はどこまでも自分に好意的である。いったい何が起こったんだろう。そう思うくらいいつもとは違う走り心地である。なぜこんなに体調がいいのか。疲れもまったく感じない。試しにいつものコースでタイムをとってみると、これまでの最高記録よりも30秒近く速くゴールに到達する。まるで自分が別の人間に生まれ変わったような感覚である。ああ、俺もしばらく自転車に乗るうちについに肉体改造に成功したのか。つくづく感慨にふける。満ち足りた気持ちでゴール地点につき、用意していたほか弁を食べ、しばらく休息をとった後、気分も軽やかに自転車の向きを変えて帰路につく。と、その時である。今まで何が起こっていたのか、なぜそれほど快調にここまで来れたのかという理由が忽然としてわかる。帰り道を走る私のペダルはどこまでも重く、どれほどこいでもいっこうに前に進まない。風はびゅうびゅうと体に吹きつけ、頭を下げて懸命にこぎ進めてもスピードはまったく出ない。なんのことはない。要するに行きは追い風に助けられていたのである。しかし、風を背負って走っている時、私はまったく風を感じることはなかった。それは無風状態としてしか感知できなかった。私は自分の体調の良さを不思議に思い、タイムの速さに首をひねったけれども、それが風のせいだとはまったく想像することもできなかった。この時の感覚は今でも鮮明に覚えている。そして、逆風に向かってペダルをこぎながら、そのことの意味を考えたこともよく覚えている。順風の時、人は風を感じない。自らの力の充実を感じる。しかし、帰り道、逆風にあうと、今度は風しか感じられなくなる。すべてが苦しく、むなしい。自分の力の存在など感得することすらできない。だがよく考えてみると、何も思わず、自らの力だけで苦もなく生きていると思える時には、実は順風が吹いているのである。愛する者が無言で自分の背中を押してくれているのである。だからこそ、自分の力を疑うこともなく、力強く前進することができていたのだ。そして、そのことに気づくのは、悲しいことに風向きが変わった時である。今まで自分の背中をどれほど多くのものや人が押していてくれていたのか、そのことに気づくのは真正面から自分に吹きつける逆風を体感する時なのである。その逆風から逆算することによってしか、人間は自分の背中を押してくれていた力の存在を感じとることができない。私が自転車に乗って学んだ最上の教訓はそういうことだった。そして、そのことを近所を自転車で走っている時にふと思い出す。人間は順風の時には風を感じず、自分の力を頼みとする。逆風の時には風の存在しか感じることができず、自らの力を忘れる。風を忘れるな。答えはいつも風の中にある。現代の吟遊詩人もそう唄っていたではないか。
2006.09.09
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京都2日目。朝、三階の見晴らしのよいレストランで朝食をとる。三階といっても山の中腹にあるため五~六階建ての建物が見下ろせる位置にある。天気もよく、みごとなパノラマが眼前に広がる。右手には東山の山並みが連なり、その手前には南禅寺の三門が顔を覗かせている。目を左側に転じていくと、ほぼ正面のあたりに金戒光明寺(黒谷寺)が山に包みこまれるように鎮座しており、さらに左を見ると平安神宮の朱色の鳥居が見える。おそらく金戒光明寺の右手奥をずっと山沿いに入っていくと、今日の最初の目的地、詩仙堂があるはずだ。朝の和定食は、お粥、みそ汁、焼き魚、煮物、漬け物、温泉卵、海苔など。過剰もないが、不足もない。だしの利いた丁寧で上品な味付け、おだやかで趣味のよい器。あからさまな主張を慎むことによって伝わる穏やかな主張。そういう風情の漂う朝食である。京都では運のいいことにこれまで自分の舌に合わない食に出会ったことがない。この地では「食」が大事に扱われている感触がある。食に対してぞんざいな扱いを許さない姿勢が町に浸透しているように思う。生の根幹につながる食への敬意と尊重がそこにはあるように感じられる。とにかく今日の主題は詩仙堂である。時を忘れて詩仙堂でひとときを過ごすこと、それができれば一日の目的は達成される。ホテルの前の道を西に向かって歩き、平安神宮へ向かう通りから市バスに乗り、一乗寺下り松町を目指す。なんだか刀を差して袴をはいていないと降車を拒否されそうなバス停の名前ではある。去年六月にここを訪れた時にはずいぶん蒸し暑く感じたものだが、今日はそれに比べるとかなり涼しい。空を見上げると雲は消え、陽射しが徐々に強くなってくる。坂道を10分ほど登っていくと、右手に詩仙堂の入り口が見えてくる。狭い入口のうえにはおおいかぶさるように山茶花だろうか、背の高い木が生い茂っている。順路に沿って石畳の道を歩くと、やがて玄関口が見えてくる。詩仙堂は現在JRの駅貼りのポスターで大々的に取り上げられているので、もしかすると人が殺到しているのではないかと危惧していたが、「詩仙の間」に入ると先客は二人ほどで、部屋の中はひっそりと静まりかえっている。こんもりと繁ったさつきと、細い線が描かれた白砂が、明るい陽光の中にくっきりと浮かび上がっている。詩仙の間は八畳程度の座敷の二間からなり、正面と左側の戸が取り払われ、黒光りする柱以外に視界をさえぎるものは何もない。時折涼しい風が吹き抜ける典雅で静かな部屋である。これほどこころが落ち着く場所というものを私は知らない。思い浮かべようとしてもうまく思いつかない。初めて訪れた時から懐かしさを感じさせる場所。意識の中心が頭部からゆっくりと下降していくのを感じとれるところ。静謐、簡素、閑寂、静穏。そういうことばがゆっくりとこころのなかに浮かんでは消えていく。最初は部屋の周囲にある縁側から庭の白砂を見下ろしていたが、ふと思いついて座敷の奥の中央部にあぐらをかいて座り、そこから庭の全景をぼんやりと眺めてみる。そうすると、なぜか「世界」が見えてくるような気がしてくる。おおげさにいうと「宇宙」が見えてくるようにも思える。少なくともいわゆる「庭」ではない、何か大きなものが感じとれるようだ。いったい何を感じとっているのか自分でも定かではないままに、しばらくその姿勢で壁に背中を軽くもたせかけながら庭を見つめてみる。なぜこの庭に「世界」を、さらには「宇宙」を感じるのだろうか。目の前にあるものはこんもりと丸いいくつかのさつきの小山と、真っ白に輝く白砂のみである。さつきには花はなく、濃厚な緑の小さな葉が一面に茂り、地面に触れる部分まで刈り込みはなされていない。まるで緑色をした大きな卵がごろりと庭にころがされているようだ。それが白い砂の上に浮かんでいる。白砂の上に描かれている細い線はおそらく波だろう。これは海だ。さつきの小山は常識的には青山ということになるだろうか。色合いとしては白砂青松に近い。海と陸。それは世界の成り立ちそのものだ。さらに眺め続けていると、さつきの山が苔むした石か岩に見えてくる。そうすると、これは竜安寺の庭と相似のものとも思える。白砂の静謐をたたえた平面、さつきのダイナミックな立体感。平面と立体、これも世界の構成要素だ。では宇宙は。なぜこの庭と正対した時に宇宙を感じたのか。その謎はまだ解けない。私は自分の座っている位置を確かめる。庭の正面に向き合っているように思っていたが、実際にはそれよりもやや左側を向いている。正面に二間分の空間があり、その左側にも吹き抜けの空間がある。私は正面と左側の中間のあたりに自然に視線を向けていたようだ。おそらく宇宙のイメージは、この庭の与える立体感のもたらすものである。正面から見て、四角く縁取られた枠の中に、まるで絵画のように庭がしつらえられていたならば、こうまで立体を感じることはなかったはずだ。この庭はそうではない。ここには微妙な「ずらし」がある。よく観察すると、庭の右手は意識的に狭く感じられるように植え込みの木が前面に迫ってきている。そして、庭全体をよっこらしょっと持ち上げて、回り舞台のようにそれを左側に45度ほど回転させる。すると庭の中心線は正面と左側面の間に位置することになる。そうすることによって、庭は正面のみの二次元の世界から、左側面まで含めた三次元の空間へと一気に広がる。私が広々とした「宇宙」をイメージすることができたのは、中心線をずらすことによる立体効果のもたらすものだったわけである。そして、そのことに気づくには縁側や座敷の前部に位置していたのではいけない。この庭はできるだけ奥に下がって見なければならないのである。そうすることによって、畳の間の全体が薄暗い前景となり、その向こうに緑と白の簡素な宇宙が浮かび上がる。そういう作りになっている。さらにこの部屋が広さを感じさせる理由がもうひとつあることに気づく。人間の周囲には四つの面が存在する。正面、左側面、右側面、背面。この四つである。詩仙の間では正面と左側面が外に面している。しかし、座敷の奥に座っていると、なぜか三面が目の前に開かれているように感じる。三方が開かれているような開放感があるのだ。それはなぜか。そう思うと、正面を半分に区切っている柱の存在の重要性に気づく。この座敷は二間だから、正面の真ん中に黒い柱があり、それが正面の風景を二つに分割している。正面と左側面の比率はほぼ2:1。これはつまり三つの面が目の前に広がっているような感覚をもたらすのである。右側面には床の間があり、外界に開かれていないにもかかわらず、まるで三面の屏風を立て、一番左の面を直角に折り曲げ、正面には本来ならば正面と右側面にあたるものを広げて立てたように二つの面が見てとれる。実際には二面しか開け放たれていないにも関わらず、まるで三面が開放されているような視覚のマジックが、正面を二つに分かつ黒い柱によって演出されているのである。ただ座って、庭を眺めているだけなのだけれど、連想は次々とふくらみ、飽きるということがない。そんなことを感じながら、時計を見ると、ここを訪れておよそ小一時間が経過していただろうか。以上の感想はあるいは私の勝手な空想、臆断、妄想のたぐいなのかもしれない。しかし、詩仙の間から見える情景の中に「世界」があり、「宇宙」があるということ。それだけはたしかな実感として感じとることができた。前述のJRのポスターでは、正面の座敷の中央に花瓶に挿したすすきが生けてある。全体としてはよく撮れている写真であり、色合いも構図も立派なものだが、この花瓶はいただけない。構図的に中央部が空きすぎると思って、あえてオブジェを置いたのだろうが、閑寂な世界創造の場に中途半端な遮蔽物を置くべきではない。これは浅慮というべきである。空白に耐える精神がなければ、世界も宇宙もその姿を現わすことはない。願わくば私の勝手な妄想がこの庭の真の姿を遮蔽するぶざまな花瓶となっていないことを祈るばかりである。
2006.09.06
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思い立って京都へ出かける。東京を出発する時には、空は雲に覆われ、時折ぽつぽつと雨が落ちていたが、新幹線で西に向かうにつれて、空が明るくなってくる。京都駅に降り立つと、雨は降っておらず、涼しい風が肌に感じられる。厳しい残暑を予想していただけに、やや意外である。京都駅の七条口からバスに乗って、ホテルへ向かう。四条通を東進、その後、河原町通りに左折し、鴨川沿いに北上していく。鴨川の景色を眺めていると、何か以前とは風景が変わっているように感じられる。なんだろうと思ってよく見ると、川沿いの店が川へ向かってひさしのように床を張り出した、いわゆる「川床」が設営されている。この時期に京都へ来たことはないので、川床を見るのは初めてだ。ちょうど屋形船の座敷部分だけをやぐらの上に載せて、川の上方へ張り出したような格好である。視覚的に浮遊感と涼しさが感じられ、なかなか風情がある。ホテルでチェックインを済ませ、知恩院、円山公園、八坂神社、清水寺と、洛東を徒歩で南下する。滞在するホテルは南禅寺を眼下に見下ろす位置にあるので、周囲をぶらぶら歩くだけで十分に名所旧跡を辿ることができる。部屋の内装はやや古びてきているが、山の中腹に位置しており、眺望にすぐれたお気に入りの宿である。知恩院はいつみても巨大だ。日本中の富がここに結集しない限り、こんな建物が建つはずがない。専修念仏を唱えた法然がこんなばかでかい威圧感のある建物を必要とするはずもなく、これは徳川家の財力と権勢が築かせた「どうだ、でかいだろう、すげーだろー」というメッセージが濃厚に感じられる建造物である。三門も本堂もとにかく巨大であり、本堂内の広大な空間は黄金色の鈍い輝きに支配されている。ただし、そのような権力と富の象徴でありながら、観光客や地元の人々がふらりと入ってきて、土間で靴を脱いでポリ袋に入れ、本堂の中でいつまでもぼんやりしていられるところはいい。東本願寺もそうだったが、ぶらり、ふらり、ぼんやりという人間の所作を許容しているところは懐が深い。色の浅黒い体育会系の高校生が一人でバスケットシューズを袋に入れて、背後に置き、正座して手を合わせている姿など、なかなかいい光景である。巨大な空間が寛容性と結びつくと、「懐の深さ」を感じさせるということは覚えておいていいことのように思う。同じ空間が厳格なボディーチェックなどと結びつくと、まったく正反対の印象を人々に与えることはいうまでもないが。清水寺もまた空間を楽しむ場所だ。幸い修学旅行の集団もおらず、目につくのは関西風味のヤンキーのカップルの方々ばかりである。おそらくは途中にある縁結びの神と関係があるのかもしれないが、なぜか妙にその手の方々が多い。この建築物は巨大な構想力の具現化である。近くにいたヤンキー(女性)が「よーも、こんなとこに、寺つくろうなんて思うたもんやなー」と率直な感想を漏らされていたが、まさにその通り。山を切り開いてあそこに舞台をしつらえ、それをこっち側からこの角度で見られるようにしたらと妄想をたくましくするところまではいくかもしれないが、それを実際に作ろうとは正常な感覚の持ち主ならばまず思わない。かなりの奇想力と強靱な実行力が合体しない限り、こんな建築物が地上に出現することはなかっただろう。清水の舞台を見ながら、ふと、この形状はどこか「川床」に似ていると思う。ひょっとすると川床は「清水さんの舞台を鴨川の上に作って、その上で飲み食いしたら、ええ気分やろーなー」と誰かが妄想した結果なのかもしれない。いずれにしても宗教的感情というよりも「無謀さの具現」が印象に残る建造物である。清水坂を下りながら、七味と山椒を買って、抹茶アイスを舐め、抹茶煎餅などを囓っていると、なんだかものを考えるのがめんどくさくなってくる。まあ、こんなとこでぐちぐち考えててもしかたないよなーと思いつつ、ぱっぱらぱーな観光客気分に浸される。坂を下りきったところで八坂神社へ向かう道を右に見ながら、ふと気まぐれでその道を向こう側に渡り、ふらふらと路地の中に迷い込む。そのあたりには格式の高そうな料理屋が軒を連ねている。道に迷うかもしれないなと少し気になってきたあたりで、右手に忽然と建仁寺の建物が現れる。一度行こうと思いながら、いままで行きそびれていた場所である。偶然ばったりと出会ってしまった。ガイド本に頼ることなく、自力で探し当てることができて気分がいい。境内は広々としており、通勤、通学の人々が自転車ですいすいと通り過ぎていく。暮色の迫る空を背景として、建仁寺は質実簡素、閑寂な世界の中にすっくと屹立している。思考停止状態のおかげで御仏のお導きにより、望みの場所にたどりつくことができたようである。建仁寺を過ぎると、そこはもう祇園の街並みである。そろそろ腹も空いてくるころだが、さすがにこのあたりの店は敷居が高い。もうちょっと庶民的な場所へ行こうと思い、四条通方向へ歩を進めると、正面に「よーじや」が見えてくる。「よーじや」には用事はないのだが、その一本手前の道を奥に入った甘泉堂には用がある。昨年、一舗堂の茶店で食した水羊羹が風味絶佳、舌がしびれるほどのうまさだったので、最終日に買い求めようとして店を訪れたところ「日曜閉店」の張り紙をみて、がっくりと首うなだれた記憶がある。ああ、これもまた仏のお導きと念仏を唱えながら(嘘)、細い路地にそそくさと分け入ったのであった。ということで「てきとー」が次々と功を奏していい気分の中、昼間に見つけた川床の店が並ぶ鴨川べりに出た。できたらあの上で浮遊感を楽しみながら、京の一夕を楽しめたらと思うのだが、そこは田舎者、はたして「一見さん」で大丈夫だろうかとおっかなびっくり店先を覗き込んでいたが、ここでも即身成仏のうるわしき弥勒菩薩のお導きにより、みごと希望通りの店に入ることに成功する。(都合により委細省略)比較的カジュアルな店で、店員も若くはつらつとしている。幸い川床の席が空いており、端の方に座る。空を見上げると、青から藍、そして群青へと微妙な青のグラデーションの推移が見られる時間帯であり、うっすらと白い半月も天空にかかっている。鱧(はも)のおとし、イカとネギの酢味噌和え、鱸(すずき)の塩焼きなどをつまみながら、生ビールをあおると、至福感に包まれる。風はときおり涼やかに吹き渡り、とにかく視覚が広々として自由である。しばらくするうちに、この気分のよさ、さわやかさは、まわりの景色だけによるものではないように思われてくる。たしかに川面を渡る涼風、青みを増しつつある空、ひそやかな水音、遠くから聞こえる虫の音、ほとんど完璧なロケーションではあるのだけれど、どうもそれだけではない。むしろ、そういう微細な物音、繊細な景物の鑑賞を妨げるものが「ない」ことが重要なのではないか。そう思えてくる。具体的にいうと、満席の酔客がまわりにひしめいているにもかかわらず、けたたましい叫び声や嬌声が聞こえないのである。客層はふつうの居酒屋とさして変わらない。未成年とおぼしき集団が顔を真っ赤にしてチューハイを飲んでいたり、けっして上品とはいえない男女のカップルがいたり、会社帰りのサラリーマンが3、4人で卓を囲んでいたりしている。しかし、東京で最近特に耳にすることの多くなった、周囲から浮き上がった壊れたスピーカーのような、耳の遠い独居老人の家から聞こえてくる巨大な音量のNHKのニュースのような、そういう暴力的な騒音は聞こえてこない。ふと背後のカップルの会話に耳を澄ませても「~やね」「~やんか」「ほな~」と、語尾や相槌は聞こえるのだが、「~」の部分は聞き取れない。自然な賑わいはあるのだが、けっしてうるさくない。そのような空気の中にしばらく身を置いていると、「これがふつうなんだなー」ということをあらためて感じる。別に不思議に感じるようなことではない。これがふつうであり、あたりまえのことなのだ。皆、一日の仕事を終え、疲れを癒しにここへ来る。気の置けない仲間や恋人や家族とひとときのくつろぎを求めて鴨川縁を訪れる。親密な会話を交わすのに大声は必要ない。ふつうの声で、ふつうの内容を、ふつうに語るだけでじゅうぶんである。そういう「ふつう」の情景に驚いている自分がいる。自分の日常がいかにふつうではないかということの、それは証明でもある。わざわざ京都の鴨川の川床で思うべきことでもないのかもしれないが、この自然さ、このふつうさが今日この場に存在しているからこそ、彼らは明日も明後日もふつうで、自然でいられるのである。ふつうはふつうを生み、異常さはさらなる異常さを生む。われわれはやはり壊れたテレビのような声でがなりたてる人間の存在をあたりまえと思ってはならないのだ。卑劣なふるまいや恥知らずな行動や無礼や配慮のなさに慣れてしまってはいけないのだ。日常とふつうはちがう。異常な日常はけっしてふつうにはならない。いや、けっしてふつうにしてはいけないのだ。そんなふつうのことを考えているうちに、いつしか上空の半月は視界の外へと消え去ってしまったのであった。
2006.09.05
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