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山の呼び方は、実に多様だ。一般的には「山」で、富士山(ふじさん)、大雪山(たいせつざん)、安達太良山(あだたらやま)のようにサン、ザン、ヤマと読んだり、鳥取県付近では大山(だいせん)、蒜山(ひるぜん)のセン、ゼン(呉音)もある。岩木山のように、ヤマとサンのどちらの読みでも良い場合も多い。「岳」(タケ、ダケ)も有名な高峰に多い。岳は高い山、険しい山の意味を持つ。木曽の御嶽山(おんたけさん)や東京都の大岳山(おおたけさん)のように、岳(嶽)と山が同居する例もある。単に御嶽(おんたけ、みたけ)と呼ばれたのが後で山をつけたのだろう。また、ミネ(峰、峯、嶺)と呼ばれる山も多く、さらには「・・峰山」の形式もある。竜ヶ森(りゅうがもり、岩手県、秋田県)のように「森」を用いるのは主に東北地方。ほかには、紀伊半島南部、四国西部、沖縄(読みはモイ)など。森とは、山地でも平地でも木が生えている場所を意味するが、古くは山そのものを指したという。反対に、世田谷区の八幡山(はちまんやま)のように、「山」が平地を含む森の意味で用いられた場合もある。両者の意味は長い時間をかけて逆転し、その時間差で「森」の山名が上記の地域のような周縁部に残ったと考えられるのかもしれない。八幡平市の前森山(まえもりやま)のように、後に山を付けたものもある。山の語尾は、山、岳、森だけではない。・「丸」 檜洞丸(ひのきぼらまる)=丹沢山地・「頭」 丸子頭(まるこがしら)=広島県と島根県の境界にある恐羅漢山(おそらかんざん)の近く・「鼻」 王ケ鼻(おうがはな)=長野県美ヶ原の西に聳える・「壇」 五社壇(ごしゃだん)=福島県新地町以上の山の語尾は複数みられるものだが、以下は全国で1つの珍しい例だ。・高毛戸(たかげど)=秋田県湯瀬温泉の近く・野竹法師(のたけほうし)=和歌山県紀伊半島中央・両様(りょうざま)=秋田県の森吉山近く・小猿合(こさるご)=福島県川内村・浜益御殿(はまますごてん)=北海道石狩市の暑寒別岳の近く・日本国(にほんこく、にほんごく)=山形、新潟の県境■今尾恵介『地名の魔力:惹きつけ、惑わす、不思議な力』PHP研究所、2024年■関連する過去の記事 山形と新潟の県境にある山 日本国の伝説(2013年10月9日)
2024.12.26
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岩手県一関市の名の由来は、諸説あるもいちばん有力なのは「一堰」説。北上川の洪水を防ぐのに、一堰、二堰、三堰を築いたことに因むというのだ。資料としては室町期成立とみられる「月泉良印禅師行状記」に「一堰願成寺」とあり、文明16年(1484)の中尊寺巡礼札には「三堰」とあるとされる(『岩手県の地名』)。堰が関に転訛する例はいくつもある。文京区関口は、江戸時代に神田川をせき止めて上水を送ったという「大洗堰」がルーツ。他方、一関は「関所」に由来するとの説もあるが、関所を第一から第三まで近接しておくことはあり得ないとして信憑性を持たない。■丸善出版編『47都道府県ご当地文化百科・岩手県』丸善出版、2024年6月(谷川彰英執筆部分)
2024.12.24
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多賀城碑の経緯や碑文内容についてわかりやすい説明の書籍があって、大いに参考になった。■會田康範・下山忍・島村圭一編『文化財が語る 日本の歴史:政治・経済編』雄山閣、2024年(下山忍さん執筆部分「古代の石碑は何を語るのか」)以下に当ジャーナルの整理と要約により記す。文字の着色や下線などは当ジャーナル。1.古代の石碑について 日本における古代の石碑と確認されているのは18基。最古は宇治橋碑(646以降、宇治市、架橋記念碑)である。(古い順に3番目)那須国造碑(700,大田原市、墓碑・顕彰碑)、(4)多胡碑(711、高崎市、建郡記念碑)、(12)多賀城碑(762、城修造記念碑)の日本三古碑も含まれるが、18基全体では仏教や寺院関係の石碑が多い中で、これらは地方行政に関し、すべて東国(東山道)であることが注目される。 上野三碑とされ、特別史跡、またユネスコ「世界の記憶」に登録されているのが、(2)山上碑(681,高崎市、墓碑)、(4)多胡碑、(8)金井沢碑(726、高崎市、供養碑)。 分類すると、所在地では、奈良県5基、群馬県4、熊本県4、宮城・栃木・滋賀・京都・徳島が各1基。 古代の行政区画では、東山道7、畿内6,西海道4(すべて同一寺院に),南海道1基。 種類別には、記念碑6、墓碑4、経典・偈文3、寄進・寺領関係2、仏足跡・歌碑2、供養碑1、造塔1基である。 国宝3基、重要文化財7基、特別史跡3基、など。〔おだずま注:文章中では多賀城碑は重要文化財として説明されているが、18基の「古代の石碑一覧表」の中では、「文化財等指定等」の欄に多賀城碑は「国宝」と明記されおり、表では国宝は4基になる。なお書籍の奥付けでは2024年5月10日初版発行とある。国宝指定(官報告示)は2024年8月27日だが、既に同年3月15日に国宝指定の答申が出ている。〕2. 歴史的背景 石碑は、中国では秦の時代から建立された。目的は墓碑が最も多く、顕彰碑、橋や道路の紀功碑なども。 朝鮮半島最古の石碑は楽浪秥蝉(ねいてい)碑(178年)で、高句麗広開土王(好太王)碑)414年)が有名。半島では、石碑の多くが領域拡大の証明のため最前線に建立されたと指摘されるが、この性格は多賀城碑にも共通する。 日本には半島伝来で伝わったと考えられ、文字(漢字)の使用に遅れて7世紀半ばから始まるが、中世の板碑の盛行(5万基)などと比較すると、自らの政治的権威を誇示するための有効な方法とは位置付けていなかったのではないかとの見解がある。3.多賀城碑と壺碑(つぼのいしぶみ) 多賀城碑は762年(天平宝字6)の紀年銘をもつが、世に忘れられて、江戸時代初期に発見された。・新井白石『同文通考』には、「万治・寛文の頃に土中」から見つかったとある。・仙台藩儒学者の佐久間洞巌『奥羽観蹟聞老(もうろう)志』には、「草莽の中に埋もれること千年」とある。 こうして「発見」された多賀城碑は城修造記念碑より「壺碑」として知られることになる。壺碑は、坂上田村麻呂が弓の弭(はず)で日本中央と書きつけた陸奥の古碑とされ、古来より歌枕として著名で、11世紀移行多くの歌人が取り上げた。・西行 「陸奥の国 奥ゆかしくぞ 思ほゆる 壺のいしぶみ 外の浜風」 多賀城碑が壺碑として知られた背景には、末の松山、浮島、野田の玉川、千引石、沖の石などの歌枕を領内に整備していた仙台藩が強く関わったとの指摘がある。 壺碑発見の報をうけ、井原西鶴も寛文年間に訪れるなど文人の来訪が相次いだ。1689年(元禄2)来訪の松尾芭蕉もその1人である。この時、まだ覆屋はなく、路傍の石碑は「苔をうがちて文字幽(かすか)なり」だったという。4.近世の保護 仙台藩でも「発見」後に佐久間洞巌らに調査研究を命じたが、文化財の保全に大きく貢献したのは徳川光圀である。光圀は修史事業の一環として家臣の丸山可澄(よしずみ)を1691年(元禄4)に派遣して多賀城碑を実検させ、1694年前後に藩主伊達綱村に親書を送っている(義公書簡)。壺碑は古来有名な碑であるが破損していると聞く、差し出たことだが、修復を加え、覆屋を建て、長く保全できるようにしていただきたい、との趣旨であった。 なお、光圀は1681年(天和1)に那須国造碑を知り、家臣の佐々宗淳(さっさむねきよ)に調査と修復を命じている。 綱村は光圀の助言に従い、覆屋を建立したと考えられる。綱村在任中(1660-1703)に建立という文献史料もあるが、発掘調査結果からも1700年前後が推定され一致する。なお発掘調査からは、1875年(明治8)、1889年(明治22)、1954年(昭和29)にも改修されたという。5.偽作説と真作説 明治の研究で壺碑とは無関係であると知られるが、同時に近世の偽作との説が提起され昭和に至るまで大きな影響を持った。・田中義成、黒板勝美、喜田貞吉 らの国史学者・中村不折 らの書家偽作説の主な根拠は、(1)碑の形態、(2)書体、(3)碑文内容(里程、国号、官位官職など)、(4)関係文献の批判。真作説からの反論もあったが、学会趨勢は偽作説を黙認する傾向にあり、資料として活用されることはなかった。1969年当時は地元の人も偽作の碑と言い切ったという(平川)。 真作説の浮上の契機は、60年代からの多賀城跡の発掘調査である。その結果、多賀城には4時期の変遷があったことが明らかになる。・第Ⅰ期 8世紀前半の多賀城創建・第Ⅱ期 8世紀後半の大々的な改修・第Ⅲ期 780年(宝亀11)伊治公呰麻呂の乱による焼失後の再建・第Ⅳ期 869年貞観大地震による崩壊後の復興このうち第Ⅲ期と第Ⅳ期は文献上から知られていたことを裏付けた結果となった。偽作説は、近世の知識人が文献を基に碑を作成したとするが、1960年代以降の調査で初めてわかり、江戸時代には文献上知り得ない第Ⅰ期と第Ⅱ期についても碑文と一致することが明らかとなった。 そのため、多賀城碑の再検討が開始された。その経緯と内容は、安倍・平川編『多賀城碑ーその謎を解くー』(雄山閣、1999年)に詳しいが、文字は古代の薬研彫りで、碑文も集字(拓本からの収集)でなく一人が書いたものであること、などから偽作説の根拠は薄弱となり、重要文化財指定にもつながった。 同書刊行以降は真作説に立つ研究が多いが、碑文の書体と書風から偽作説に立つ研究もある(安本)。6.碑文からわかること6-1.多賀城からの里程・去京一千五百里・去蝦夷国界一百廿里・去常陸国界四百十二里・去下野国界二百七十四里・去靺鞨国界三千里 まず京からの位置を示したのは、多賀城が朝廷の出先機関であることを示し、次に蝦夷国との距離を示したのは、蝦夷政策の拠点である多賀城の性格を端的に示す。 常陸国と下野国は、陸奥国と接するそれぞれ東海道と東山道のそれぞれ果ての国。 靺鞨国は渤海国と考えられ、出羽国と通交の可能性が高いが、碑を制作させた藤原朝獦が陸奥国だけでなく出羽国も管轄する按察使の地位にあったことによる。6-2.里程の検証 一里を534.6mとすると、・平城京から801.9km・蝦夷国界から 64.2km・常陸国界から 220.3km・下野国界から 146.5kmとなる。議論あるが、まず平城京の距離は東山道経由で実測とほぼ一致。蝦夷国界の距離は岩手宮城県境付近となり、当時の最北の城柵が桃生城(石巻市)だったことから当時の律令政府の実効支配の北限となる(柳澤)。 常陸国界と下野国界は、勿来関(当時名称は菊多関)と白河関と考えると、多賀城からほぼ同距離なのに大きく異なっている(偽作説の一つの根拠だった)。 常陸国界について。多賀城から東海道経由で勿来関まで計測すると177.7kmで、碑の里程に足りない。里数の誤りの可能性も指摘されるが、東山道を経由すると碑とほぼ一致する。最短距離でないのは非合理だが、多賀城のある陸奥国が東山道に属したためだろう(柳澤)。 下野国界について。白河関までの計測距離は173.0kmで、碑の里程と一致しない。解釈は難しいが、718年(養老2)に陸奥国から一時分離した石城国・石背国との関係から、陸奥国と石城国の境に置かれていた玉前(たまさき)関から白河関までの里程を示したもの(計測距離は143.4km)であるとされるが(柳澤)、下野国のみ多賀城でなく玉前関を起点とする説明が必要だろう。 また、常陸国界を、常陸国と下総国の境とし、同様に下野国界を下野国と上野国の境と考えると、碑の里程と非常に近い距離となる。藤原朝獦が常陸国や下野国から鎮兵を挑発する権限があったことに由来するという(長瀬)が、朝獦が任命されていた節度使についてさらに解明が必要だろう。6-3.蝦夷国について 蝦夷国界について、里程に異論はないものの、律令国家統治下にない蝦夷に行政単位の「国」を用いた点が問題とされた(偽作説の一根拠)。蝦夷政策を推進した朝獦が敢えて事蹟を誇示したという解釈(平川)や、律令国家の華夷思想を背景に四至を明示したとの解釈(長瀬)がある。6-4.靺鞨国について 渤海国のことと考えれている。696年高句麗の遺民大祚栄が靺鞨族を率いて建国し、唐や新羅との対立から727年以来しばしば日本と通交した。靺鞨(靴下を意味)は唐による蔑称で、友好国日本が国号として用いるのは不自然とされてきたが、律令国家の華夷思想から敢えて蝦夷国と並べてこう呼称したとされる(平川、長瀬)。また、この靺鞨国は、渤海国でなくツングース系の粛慎(あしはせ)を指すという説(伊藤)、渤海より北方の黒水靺鞨を指すという説(柳澤)もある。6-5.藤原朝獦の地位 多賀城碑は、碑を修造した藤原朝獦の事蹟を顕彰する意図が強く読み取れる。その官位・官職は、「参議・東海東山節度使・従四位上・仁部卿兼按察使・鎮守将軍」とある。 このうち官位である従四位上が文献上の従四位下と一致しない(偽作説の一根拠)が、大野東人の官位との均衡のためとされる(安倍・平川)。 朝獦は、藤原仲麻呂の四男。757年(天平勝宝9)の橘奈良麻呂の乱の後に多賀城に赴任し、陸奥国・出羽国を管轄する按察使に加えて、鎮守将軍にも任命され、蝦夷政策の全権を委ねられた。桃生城、雄勝城を造営するとともに、国府・鎮守府の置かれた多賀城の修造にあたった。碑文の天平宝字6年(762)12月1日が、参議就任の日に当たることもその顕彰の意図とされる。 仁部卿とは民部卿のことで、父仲麻呂政権の唐式官名採用により、当時こう呼称されていた。 節度使は兵士の徴収や訓練、兵器の製造などを担当する軍政官。761年に新羅征討を目的に任命され、実戦の際は朝獦も指揮官となる予定だったと考えられるが、764年孝謙上皇らの仲麻呂政権打倒(仲麻呂・朝獦父子敗死)で、新羅征討計画は頓挫した。■関連する過去の記事(古代多賀城、多賀城碑) 国宝指定された多賀城碑(2024年09月16日) 日本三古碑と上野三古碑(2023年01月13日) 利府町の埋蔵文化財(2022年5月7日)=窯跡など 多賀城 命名の由来(2012年10月9日) 多賀城の遺跡認識(下)(2011年11月19日) 多賀城の遺跡認識(上)(2011年11月18日) 多賀城と4面サイコロ(2011年9月14日) 多賀城碑、壺の碑、日本中央碑について(2010年11月1日) 東北の道 概説(その1 古代)(2010年10月23日) 多賀城 壺の碑(08年9月15日) 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2024.12.21
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岩手県に見られる地域文字に、一関市の地名「霻霳」(ほうりょう)がある。字北霻霳に八雷神を祀る霻霳神社がある。天正12年(1584)葛西氏家臣の二関兵庫が勧請、江戸時代には宝龍権現と呼ばれた。豊隆権現社を維新の際に豊隆神社と書き改めたとされる。なお、「ほうりょう」と読む地名は東北地方に散見され、法量(十和田市)、法霊(八戸市ほか)、法領(花巻市ほか)、豊料(一関市)、方両(一関市)、宝良(奥州市)、宝領、宝領前(石巻市ほか)、保料、保料前ほか(大河原町)、宝量(大仙市)、堀量(湯沢市)、宝了(遊佐町)、方料(二本松市)など様々な表記がある。阿部和夫『一関の地名と風土』(トリョーコム、1981年)は、一関市の「豊料」地名として、同市赤萩(ママ)の豊料や、厳美町の宝竜とともに、北豊隆、南豊隆があげられ、降雨や豊作、安産を願う神で竜神または雷神に起源をもつとする。豊隆神社が一関市花泉町金沢と同町老松にある。■笹原宏之編『方言漢字事典』研究社、2023年 から■関連する過去の記事 方言漢字を考える(2019年11月18日)
2024.12.13
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川島秀一さんの近著を読んでいて、オカミサンが取り上げられている。私自身の小学生の頃の自宅での光景を思い出した。■川島秀一『ハナシ語りの民俗誌』勉誠社、2024年・第三部第一章 口寄せの声(初出は、巫覡盲僧学会事務局「巫覡盲僧学会会報」第15号、2003年、とある)・第三部第二章 一生を語るということ ー 東北の口寄せ巫女の語り(初出は、日本昔話学会編「昔話ー研究と資料ー」第37号、2009年、とある)1 オカミサンと口寄せについて川島氏の上掲書では次のようなことが叙述されている。非常に興味深い内容なので、内容を紹介させていただく(当ジャーナルで整理と要約)。------------1.呼ばれ方 死者(ホトケ)を自身に憑依させてその口を通して語らせる盲目の口寄せ巫女は、青森県から岩手県北部の旧盛岡藩の地域ではイタコと、岩手県南部から宮城県にかけての旧仙台藩領域ではオカミサンと、秋田県ではイチコ、山形県はオナカマ、福島県はワカと呼び分けられている。2.オシラサマと口寄せ 巫女の祭文のひとつ「オシラサマの祭文」(オシラ祭文)は、現在イタコが儀礼(オシラサマアソバセの中で語る。旧仙台藩領のオカミサンも同様のオシラ祭文を語ったようだが、現在は儀礼で用いることはなく、オシラサマの由来譚の形で伝承されている。なお、岩手県沿岸部で呼ばれるイタコは、上記とは異なり晴眼者で、修験神子(みこ)の系譜だが、やはりオシラ祭文を(「シラオの本地」として)儀礼の中で語る。 これとは別の儀礼が、「口寄せ」で、ホトケの一生を語るものである。3.口寄せの形態 亡くなったばかりの死者(新口)のオカミサンによる口寄せは、大きくいうと、ミチビキ(ミチワケ)に始まり、家族を相手にナナクチを語り(ホトケの一生)、最後にトメグチで終える。 ミチビキは、ホトケが男性(女性)なら過去の女(男)の死者(古口)を、身内の中から選ぶ。オカミサンが、どのオホトケで下ろしますか?と訊ねることから始まる。トメグチは必ずしも異性を当てるわけではない。このミチビキとトメグチの2人の古いホトケに挟まれて、新しいホトケが語る。 遺族の一人に対しての口寄せ(ヒトクチ)は10分から30分くらい。家族である7人を相手にして、一人一人にホトケが「問い口や」と呼びかけながら、実は自分の一生を語るという構造である。 1993年気仙沼市の事例(90歳近くで亡くなった女性)では、トメクチは先に亡くなった夫。ナナクチは、ホトケの長男夫婦、孫夫婦、ひ孫夫婦と続く(6人)。オカミサンが鉦を一つ鳴らすたびにヒトクチ終えるが、ナナクチの後に休憩を取ったのち、本家、二番本家と続き、一日で53クチを語り終えている。 1997年の同市内の事例は、ホトケが90歳近くの男性。ナナクチには、嫁(長男の妻)と孫の2人が順に対応するが、その場に語る相手がなくてもナナクチは行われた。ナナクチの後休憩を挟んで、本家からシンルイに続けて、22人がほぼ2クチづづ、計40口を語り、トメグチはホトケの(亡くなった)男親であった。 一般には、亡くなったホトケのより若い頃を知っている身内から始まり、最近だけを知る身内へと流れていくようだ。一人で2クチ頼むというのは、その参加者が自分に対する語りだけでなく、その場にいない者の名前を告げて(参会者たちと共に)もうヒトクチ聞くことができる。 基本的にホトケ対依頼者1人のディアローグが原則だが、ほとんどはホトケの一方的語りで、問い口を通して返答するだけ。 上出の第二の事例では、ホトケが嫁に対して、4月6日に西の方角でケガがあるから気をつけよと語っている。多くの参加者は、食うようであるとともに、自分たちの災厄を予言して注意を促してくれることを期待している。4.口寄せの要件 ー メッセージとしての声 栗原郡築館町伊豆町の巫女(明治30年生まれ)が口寄せの由来を語る伝承では、お釈迦様が、十大弟子のひとり目連尊者に、亡くなった母親を生き返すことはできないが声は聴くことができる、と教え諭している。しかも、口寄せの声とは、死者を懐かしむ声ではなく、目連が枕許に母親が立つので何か伝えたいことがあると思ったように、死者から遺族へのメッセージを得る手段としての声を求めているのである。 このことを口寄せの儀礼の現場でみよう。口寄せは広義では、神を下ろす神口と、ホトケを下ろすホトケ口に分かれるが、民俗語彙では神口をタクセン(託宣)やオセンダクと呼び、儀礼をオクチビラキやカミサマアソバセ、オシラサマアソバセと呼ぶ。ホトケの方は、ホトケ口もその儀礼も、口寄せと呼ぶ。 託宣と口寄せという2つの巫業における声に注目すると、託宣は神から一方的なメッセージがなされるため、叙事的で抑制された声を出すが、口寄せ(とくに亡くなったばかりの新口)は双方からの対話にならない呼びかけ合いで、叙情的で韻律的な声を出す。 もちろん託宣にはアイヘンドウと呼ばれる仲介役が、口寄せにも問い口と呼ばれる仲介役がいて、神やホトケがよくない予言をしたときに「守ってくだはれせ」などと言葉をかけるが、この問い口を無視して遺族が死者に呼びかけることが新口の特徴である。 岩手県大東町猿沢の巫女(明治45年生まれ)が1990年に行った口寄せ(子どものホトケ)では、ホトケが順次遺族に呼びかけており(問われるイトコ様よ、問われる母親様よ、など)、また遺族が随所でホトケに声を呼び掛けている。 このように、口寄せの言語とは、託宣の独白(モノローグ)と異なり、呼びかけの言語であり、ホトケと遺族の間の会話にならない呼びかけ合いの場を作り上げている。5.サエギリボトケ 七口下ろしを終えると、最後に新口のホトケに一番身近で長命の者のトメクチと呼ばれる口寄せが行われる。ところが、このトメクチを呼ぼうとするときになって突然思いもよらないホトケが巫女に憑いて語り出すことがある。これをサエギリボトケや主(ぬし)なしホトケという。ワカバ(水子)の例や、遠隔地で亡くなり供養されなかったホトケの場合もある。 サエギリボトケが出るのが可能な理由は、口寄せの声が特に声色をつかわないことに起因すると思われる。声の主体はいつでも替えられる可能性があり、常に主体が曖昧化、多重化していると言える。6.口寄せの儀礼空間にみる声の問題 宮城県中田町の巫女(大正12年生まれ)は新口でも古口でも、センス(扇)で口を隠して口寄せを行う。扇の上に神が乗ることで自分の神口が可能になることと語っている。口を隠すことで他界の言葉を語ることを示すとともに、扇にホトケが乗ることに関わるのかもしれない。 気仙沼地方の新口の口寄せの例では、桃と柳の枝を死者のミタテ(納棺)の時に使った布キレで巻き付け、水の入った茶碗の中に立てかけておく。口寄せの最中、問い口が時折、その茶碗の水に濡らした綿で布切れを湿らせる。オホトケが喉を乾かさずにたくさん語るためとされる。この場合、巫女は祭壇に向かっており、後ろに控える遺族からは巫女の口は見えない。むしろ、桃と柳の枝がオホトケの口として象徴されているのである。 これらのように、巫女は、語っている「声」と、目に見える「口」を分離させる。口寄せに耳だけで参加するよう仕向けるわけだ。7.オシラ祭文との関係 宮城県のオカミサンは、オシラサマなどの神様を下ろして語る「神口」、死者の霊を下ろして語るホトケグチ(新口、古口)と分けて呼ぶが、一般にホトケグチを口寄せと捉えているようだ。 口寄せとイタコのオシラサマアソバセのそれぞれの儀礼で、下ろした神霊の一生の語りを聞いた後に、今後に気を付けるべき「日忌み」を教えてもらう点で構造上の一致があり、語りを聞き入る側にとっては同様の心持をもった参加の仕方だと思われる。ただ、オシラサマアソバセの場合は、家族の個人ごとの占いの前に、当年の村の一年間の様子を語る点が違う。 この「日忌み」を青森県のイタコはウラナイと、岩手県の修験神子のイタコはヒイミ、宮城県のオカミサンはタクセン(託宣)やゴセンダクと呼ぶ。 唐桑町(現気仙沼市)の巫女(大正13年生まれ)の場合、オシラサマアソバセは、(1)六根清浄の祓い、(2)岩戸開き、(3)国がけ(全国の寺社の名を唱える)、(4)オシラサマの御真言、(5)東方立て、(6)オシラ善神の祭文(馬娘婚姻譚はなし)、のあと巫女にオシラサマが憑いて一人称で語り、参集者はゴセンタクを聴く。 陸前地方では、オシラサマを持たない集落では、その集落の神社の神様を巫女が下ろして、一人称で語る占いを聴く(神様アソバセ)。 オシラサマアソバセを行うご縁日は、1,3,9,12月の16日が主で、命日と呼ぶところが多い(オシラ祭文の中で、3月16日に蚕となって舞い降りる姫の命日)。 口寄せもオシラサマアソバセも、口寄せやご縁日など限定された時間で語ることに、その特異な意味が生まれると思われるが、場所についても要件であり、奥座敷か神棚仏壇が祀られたオガミと呼ばれる部屋で行われる。しかし、ナナクチとオシラ祭文が決定的に違うのは、ナナクチがホトケが一人称で語るのに対して、祭文は「姫は」など三人称で、また、「語る」のではなく「よむ」と巫女の中で使い分けられる。 ただし、津軽のイタコが伝承を管理する「岩木山一代記」という祭文では、イタコが村に呼ばれその年の豊凶などを占う前に岩木山の神が憑いて自らの一代記を語る。五所川原市桜田の巫女(大正4年生まれ)によると、この神は人間に向かって、神になってもこんなに苦労していることを語るのだという。彼女は、岩木山一代記をモノガタルと言い、一人称で30分くらい語るものだった。また、同女は「金比羅一代記」という祭文も伝承し、船祈禱に読まれるが、その詞章も一人称である。「弘法大師の一代記」も伝承する。これらの一代記は婆さまたちから要望があれば、占いを離れてなかば娯楽のように祭文だけ語ることもあったという。 口寄せのナナクチとオシラ祭文の間に、この岩木山一代記などの祭文(語り物)を置くと、それらの共通基盤が明らかになると思われる。 陸前高田市気仙町の巫女が伝承する「十六ぜんサマ」というオシラ祭文は、馬娘婚姻譚は説かないが、「オコナイ(オシラサマのこと)は今ぞ居ります草間よりあしげの駒に手綱よりかけ」で終わり、口寄せでも同じ詞章が使われる。志津川町の巫女(大正11年生まれ)による口寄せのヨリクチ(導入)の詞章には、「今ぞ寄り来る長浜の葦毛の駒に手綱寄りかけ」とある。これらの詞章のある祭文がオシラ祭文のモノガタリ成立以前に語られていたことも考えられる。 以上から、日忌みなどの共通性から考えると、オシラサマが巫女に憑いて一人称で語ることは、オシラ祭文として定着する以前からあったように思われる。おそらく、修験などの文字を持った者により、中国の捜神記などの伝奇小説の文献の関与によって「オシラ祭文」は成立して、イタコなど巫女の伝承に影響を与えたと思われるが、明らかにオシラサマが憑いていると聴く者に認知されなければその後の占いに積極的にかかわることがなかったと思われる。つまり、オシラ祭文は、巫女自身に憑かせるためだけでなく、オシラサマが憑いていることを周囲に明らかにさせる祭文でもあったわけだ。8.一生を語る意味 ホトケが一生を語ることがなぜ供養になるのか。枕崎市のカツオ漁に関する民俗に、大漁祝いの一つとして「供養釣り」がある。この儀礼は、大漁の後に湾内にカツオ船を浮かべて、ワラで作ったカツオを用いて大漁を再現する。つまり、カツオの最後の様子を再現してカツオの供養にもなるという考え方。亡くなった人が一生を最後まで語ることがそのホトケの供養にもなるという点で、繋がっていると思われる。------------2 自分の思い出 祖母が亡くなって、しばらく経った日だと思う。小学校低学年だった私の家に親類が集まり、座敷にオカミサンを迎えた。私は誰かの言うがままに、並ばされて、ハイ次はアンタだよ、と促されてオカミサンの前に(背後にだったか)移動したように思う。正直いうと幼少の私は祖母に冷たい態度を取っていた自覚があって、優しく接することのないままに亡くなった祖母から叱責があるかもと内心怯えたことを覚えている。オカミサンの口を通して祖母から言われたことで記憶にあるのは、水の事故に気をつけなさい、川や海に近づくな、ということ。たしかに、友人と川遊びに行って木から落ちたりしたから、納得する感覚があったように憶えている。 周りではおばさんたちが、あー、そーだそーだなどと涙ながらに合いの手をいれて、語りに聴き入る。おそらく、祖母の一生の思い出話に共感し、また、残された家族親類への占いを受けて感謝する、その全体が供養の空間だったのだろう。 そして、オカミサンは、一本弓を張った楽器のような道具を畳に置いていて、これを弦でジャンジャカジャンジャカと鳴らすと、次の人に交替するのだった。儀礼の後、従兄弟たちとジャンジャカと物まねをして遊んだものだった。 この儀式とは別の日だと思うのだが、やはり自宅の座敷で、お坊さんによる法要の一場面だったろうか、2人がそれぞれ鉦とシンバルのようなものを持って、チーン、ジャーンとやる。最初は1秒以上間を置いて、徐々に間隔を詰めて、チーンとジャーンを繰り返し最後は同時にトレモロになって終わる。これを何度か繰り返していた。もちろん、これも従兄弟たちと台所の鍋のフタを持ち出してマネをしたものだ。■関連する過去の記事 田村三代記(田村語り)(2011年8月28日)
2024.12.07
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