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またまた、議員報酬とは何かを考えさせられる報道が、あった。以下に要約して引用。------------●(2月22日朝日新聞県内版)岩沼市議会が、出席停止議員の報酬を停止日数に応じ減額する規定の廃止を決定した。21日の議会運営委員会で、条例改正案の提出が了承され、22日の本会議で可決される見通し。そもそも岩沼市議会では、議員の言動に対する懲戒処分が繰り返されて問題となっていたが、出席停止の場合の報酬減額は2012年に決められた。こうした規定は全国でも少数だという。2023年仙台地裁が、出席停止処分を裁量権の逸脱として違法と認定。議員報酬の減額分の支払いを市に命じる判決を相次いで下し、確定。今回の条例改正は地裁判決を受けた動きとみられる。●(2月23日河北新報県内版)岩沼市議会は22日、出席停止の懲罰を受けた市議の報酬を減額する規定をとりやめる条例案を、全会一致で可決。昨年の3月と5月に、少数会派の市議に科した出席停止の懲戒処分を裁量権の乱用として取消などを命じた2つの仙台地裁判決が確定。2012年12月に設けられた報酬減額規定にも出席停止が対象となっており、昨年12月の市議会改選後、議員が見直しに動いていた。酒井信幸議長「裁判を踏まえて時代にそぐわないと判断した」。(ここまで新聞記事の要約)------------経緯を簡単に整理する。2016年9月に大友健市議が、市議会での発言が品位を欠くとして、23日間の出席停止処分を受ける。市議は処分取り消しと報酬支払いを求めて仙台地裁に提訴。地方議会の出席停止処分が審査対象となるかが争点だったが、2018年1月地裁は訴え却下。2審は審査対象と認め、市側が上告。最高裁は2020年大法廷で60年ぶりに判例を変更し、審査対象となるとして審理を差し戻した。そして、2023年3月仙台地裁は処分取り消しと議員報酬支払いを命じる判決(確定)。大友さんは、2023年12月24日の市議選で再選されている(得票数3位)。むかし憲法で学んだ「司法権の限界」論では、(議会の)自律権や部分社会の法理として、議会(や団体)の自立性を尊重し裁判所は立ち入らないのが基本だ。地方議会は、民主主義に立脚して多数派少数派のダイナミックな渡り合いがあるのはむしろ当然で、政治に司法が介入するべきでないという実質論的な事情もある。しかし、その社会の構成員から除外する処分(議員懲罰なら除名)はさすがに司法も判断するべきだ、ということだったと思う。60年ぶりに判例を変更したという。最高裁の判断の内容をちゃんと勉強すべきだろうが、割愛。そして、こうした問題の本論とはちょっと離れるのだが、議員報酬について考えた。判決に従って岩沼市議会としては出席停止処分自体を取り消して議員報酬も支払ったのだろうから、その点では条例が支障にはならないのだが、条例改正の問題は、「出席停止処分中の議員に報酬を支払わないことの是非」に直結した別の議論だ。朝日は、こうした条例は全国でも少数という。ここで、改正前の岩沼市の条例では、出席停止中の議員報酬を減額するというので、その内容を見ると、以下のようだ(下線は当ジャーナル)。------------議会議員の議員報酬、費用弁償及び期末手当に関する条例(抜粋) (議員報酬、期末手当の減額)第6条 (略)3 議会活動ができない事由が公務災害による療養のとき、又は議長が特に認めたときは、第1項の規定にかかわらず議員報酬の月額の全額を支給する。(略)第6条の2 第2条の規定にかかわらず、地方自治法第135条第1項第3号に規定する一定期間の出席停止の懲罰を受けた議員に係る議員報酬を減額するものとし、減額する額は、第3条第3項の規定〔おだずま注:日割り計算〕を準用する。2 前項の規定により返納金が生じた場合には、第3条第4項の規定を準用する。(平24条例30・追加)------------一般職の公務員なら、懲戒処分で停職ならその間無給になる。制裁として賃金を与えないことが主旨だ、また、減給処分より重いのだから当然とも説明できるし、ノーワークノーペイ原則にもかなう。では、議会議員はどう考えるべきだろうか。労働者としての大切な生活給を制限される一般職とのバランスから、政治的地位にある議員は不支給が当然だ、との論法があろう。他方で、多数派が少数派をつぶそうとするなどまさに政治の世界であって(多数派が議案通すために少数派を出席停止させる事例←司法が介入してくれるようになったから考慮しなくていいとの反論もあるか)、懲罰を受けるのもいわば議員の仕事で、他方で議会の外での政治活動継続も役割として期待されているのだから報酬支払うべき、という民主主義機能面からの論陣も成り立ちそうだ。問題を定式化し、「(出席停止処分などの)議員活動が制限された場合の議員報酬の支払」について、まず、国会議員の場合を含めた法制や解釈をいくつかの場面に分けて確認しよう。(1)懲罰による場合 地方議会における議員の懲罰は、戒告、陳謝、出席停止、除名の4種類だ(地方自治法135条)。国会議員の場合は、憲法58条の議院自律権に基づき、国会法122条で、戒告、陳謝、登院停止、除名の4種がある。国会議員の歳費、旅費及び手当等に関する法律では、除名に関してだけ記載があり(4条、11条の2)、歳費等は辞職と同様の扱いとなる。規定がない登院停止は歳費等を支給する扱いだ。 地方議会については、懲罰による出席停止期間中の報酬を減額や不支給とする条例規定を認める解釈(昭和32年自治庁)が示されている。(2)理由のない欠席の場合 じつは(登院停止とはちょっと異なるが)理由なく登院しない議員の歳費を4割減額する法案が、昨年参院に提出されたことがある。NHK党のガーシー議員の問題をうけてのことだ。法案には、登院しないことに加えて、何らかの懲戒処分を受けることを要件とし、また出席すれば支給する、などの「配慮」も盛り込まれたようだ。結局、ガーシー議員が除名され(最初は陳謝の処分、次いで除名となった)、法案も審議されなかったようだ。 地方議会の報酬条例で、議会や委員会に不出席の議員の報酬を不支給とする規定を設けることはできるというのが公権解釈(昭和24年地方自治庁)のようだ。現に都道府県議会レベルでも事例がある。宮城県議会の場合も、議員報酬条例に規定がある(3条の2)。なお、欠席が公務災害や出産などの事情による場合は、除外としている。岩沼市の条例でも上記引用の通り。(3)当選無効となった場合の無効確定までの期間 どう考えるべきか難しい問題だが、地方議員について50年ほど前に自治省が返還請求できないとの解釈を示していたが、大阪市の事例で、昨年12月に最高裁判決が支給すべきでない(返還求めよ)の判断を示して、国会議員にも及ぶのかを含めて反響を呼んだ。■前回の記事 当選無効と議員報酬の返還を考える(2024年2月12日)(4)逮捕などの場合 これも難しい問題。国会議員には不逮捕特権(憲法50条)もあるほどで、少数派を政治圧力から守る法制や解釈が重要であると言えそうだ。ただし、地方の場合はその要請はそれほどでもない(団体自治を重視)ともいえるし、現に拘束される期間は議会外を含め議員活動ができない訳だし、逮捕が不当であった場合は事後救済策を措置すればよいという考え方が可能と思われる。住民意識にも適うだろう。 宮城県議会の場合は、昨年(2023年)に条例に次の規定が追加された。------------第三条の三 前条の規定にかかわらず、県議会議員が被疑者又は被告人として、逮捕、勾留、その他の身体の拘束を受けたときは、当該身体の拘束を受けた日から身体の拘束を解かれた日までの期間(以下「拘束期間」という。)に係る議員報酬の支給を停止する。ただし、拘束期間の始期が議員報酬の支給日の直前であることその他の理由により当該支給を停止することができない月の議員報酬については、この限りでない。2 (略)〔おだずま注:日割り計算にする規定〕3 第一項の規定による議員報酬の支給停止(以下「支給停止」という。)は、当該支給停止に係る行為に関し次の各号のいずれかに該当する場合にこれを解除する。一 公訴を提起しない処分があった場合二 無罪の裁判が確定した場合------------■関連する過去の記事(類似の論点を含むもの。地方議会に関するもの。他にもあるかも知れません) 当選無効と議員報酬の返還を考える(2024年2月12日) 国会議員の懲罰を考える(2023年03月19日) 別れさせ屋と不法原因給付(2013年2月15日) 山形県の無免許元教諭の返還額を考える(2016年2月25日) 山形県教委の教員任用無効の法理を考える(2016年2月23日) チケット不正転売禁止法の謎(2019年6月16日) 仙台厚生病院の提訴の件(続き)(2016年7月25日) 仙台厚生病院が市議を提訴した件を考える(2016年7月23日) 条例の取消を求めて提訴 青森県の新渡戸記念館の廃止で(2015年7月1日) 大衡村の議会解散を考える(2015年3月18日) 今度はラン問題の大江町議会(2012年4月11日) 大江町議のその後(2011年11月30日) またも議員飲酒運転か(2011年11月26日)(大江町議) 仙台市議会と定員問題を考える(10年8月26日) 警部補飲酒運転と山形県議会(08年4月23日) 山形県村山県議の動向(07年12月5日) あの飲酒運転山形県議、お隣さんからも三行半(07年8月10日) 村山県議問題を考える(07年7月11日) 山形県議会議員の飲酒運転問題を考える(07年5月25日) 鳥取県の人権侵害救済条例について真剣に考える(05年10月13日)
2024.02.24
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朝日や読売の全国版紙面は、黒石寺蘇民祭が行われたことを写真付きで報道していた。淡々とだが、2008年のポスター騒動にも言及していた。かなり紙面を割いたのが毎日新聞で、大要はこんな感じ。----------●「岩手の奇祭」1000年の歴史/担い手不足 蘇民祭に幕関係者の高齢化と担い手不足のため今年が最後の開催。日本三大奇祭の一つとも称される。2008年に胸毛男性のポスターがJR東に掲載拒否されて話題になった。モデルとなった花巻市の会社員佐藤真治さん(53)は責任を感じ今回を含めて祭りへの参加を控えてきた。来年以降、祭はなくなるが旧正月の護摩祈祷などは続けるという。●伝統行事の中止 全国で歴史ある伝統行事が担い手不足で中止される例は全国で相次ぐ。・和歌山県有田川町の「久野原の御田(おんだ)」。・秋田の「男鹿のナマハゲ」も実施集落が減少した。女性参加の議論が浮上した時期もあるが伝統が理想とされ実現していない。・筑後市熊野神社の火祭り「鬼の修正会(しゅじょうえ)」は、大たいまつを30人ずつで3本支える人が足りない。地元で宿泊費負担で参加者を集め2本を引き回せた。民間シンクタンク(祭り・イベント総合研究所)23年夏アンケートでは、課題は資金難、準備スタッフ不足、当日スタッフ不足など。体力的に大変、高齢化した主催側と若者の共存図れない、などの回答も。武田俊輔教授(法政大)は、変化をどこまで許容するか。やり方や中止に至る過程などを記録して、将来世代が復活について判断する余地を残すのが望ましい、と指摘する。●東北冬点描 奇祭の終幕 惜しむ/岩手・蘇民祭「楽しみなくなる」最盛期には見物客を含めて4000人が訪れた奇祭の終幕を惜しむ声。蘇民祭争奪戦で最後まで袋を握っていた「取主」は、保存協力会青年部長の菊地敏明さん(49)だった。毎年写真を撮りに来ている栗原市の佐藤健さん(74)は、長く続けてほしかったと惜しむ。倉成奥州市長は、少子高齢化は時代の流れで地元の判断を尊重したい、と関係者をねぎらった。----------伝統行事と担い手の問題がまずは中核だろう。これだけでも難しい問題だが、観光や地域おこしの視点が混じってくると一層難しくなる場合がある。2008年の胸毛ポスター問題のときも、地元の意見は、真剣な伝統行事を進めているだけなのに外野が何をいうのかという思いだったと思う。もとは全裸男性の争奪戦だったが、奇祭と伝えられて奇異の目で見られたことも。担い手確保の視点から女性の参加も検討されことがあるという。河北新報は、他の事例を紹介して、イベントとして開放された形での継続を示唆するかのような論調だった。それも一法だが、そもそも伝統行事とは、信仰や地域生活に密着した催事であることを基本に考えなければならないと思う。その上で、地域の維持や交流人口拡大の視点から、継続を議論されることはもちろん良いことなのだろうが、じつは地域の催事全般に言える難問なのだ。毎日新聞全国版の記事はその点を指摘している。■関連する過去の記事(黒石寺蘇民祭) 黒石寺蘇民祭を考える(2024年02月18日) 奥州市の蘇民祭ポスター掲載拒否を考える(08年1月10日)■関連する過去の記事(地域と感染症など) 仙台藩の飢饉と金勝寺、徳泉寺、願行寺(2023年09月08日) 感染症と人類の歴史(2023年08月15日) 水の森公園の叢塚と供養塔(2023年08月03日) 仙台とコレラ流行の歴史(2022年9月19日) 芋峠(2021年8月9日) 芋峠(仙台市)と感染症(2020年11月28日) 鈴木重雄と唐桑町(2016年6月19日) 宮城の民間医療伝承(2011年9月4日) 明治のコレラ大流行と仙台市立榴岡病院(10年9月3日)■関連する過去の記事(疫病や感染症に関する民俗) 世界に誇る東北の郷土芸能(西馬音内盆踊り、鬼剣舞など)(2022年12月14日) 疫病と向き合う東北の民俗伝承(2022年6月8日) 民俗信仰と東北(2022年6月4日)=黒石寺蘇民祭など 鬼剣舞と念仏踊りを考える(2022年6月2日) 魔よけと東北を考える(08年2月10日)■関連する過去の記事(奇祭など。ほかにも過去記事ありそうですが) ついに見た!米川の水かぶり(2023年02月09日) 中新田火伏せの虎舞(2013年4月29日) ハンコタンナと覆面風俗(2015年2月1日) 塩竈の「ざっとな」(2011年2月27日) 奇祭 鶴岡化けもの祭(2011年1月3日) 民俗信仰と東北(2022年6月4日)(弘前市鬼沢) 岩木山信仰とモヤ山(2022年5月30日)■関連する過去の記事(来訪神などに関するもの) 西馬音内の盆踊り(2012年8月5日) ナマハゲやスネカの起源と神(鬼)の両義性(2022年5月29日) 秋田美人を考える(再)(2022年5月11日) 日本三大美人と秋田(2016年1月31日) 小野小町(2011年7月23日) 秘密結社とナマハゲ(2011年6月4日) 海の民、山の民(2010年12月25日) 秋田美人を考える(2010年12月23日) 秋田ナマハゲは秘密結社か 再論(2010年5月20日) なまはげと東北人の記憶を考える(10年4月27日) 秋田なまはげは秘密結社か(07年8月13日)
2024.02.20
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今月17日、奥州市の黒石寺で蘇民祭が開催された。夜中に裸の男たちが蘇民袋を争奪する奇祭として知られ、争奪戦はコロナ禍を経て4年ぶりの開催なのだが、住民高齢化と後継者不足を理由に、今回を最後に千年以上の歴史に幕をおろしたことが、あちこちで報道されている。産経新聞ニュースでは、16年ぶりに祭に来たという花巻市の佐藤真さん(53)が記事に出ている。この方が、2008年に掲示が拒否されて話題になったポスターのモデルだった人だという。記事には、当時のポスターも示されている。河北新報でも最近、蘇民祭に関する記述がだいぶあった。●2月18日 一面記事 蘇民祭/有終の肉弾戦●2月16日 河北春秋(大要 長岡京跡で蘇民将来之子孫者と書かれた木札がみつかった。蘇民将来は疫病神から家族を守ろうとした庶民信仰。千年以上の歴史を誇り日本三大裸祭りに名を連ねる黒石寺蘇民祭が、あす開かれる。苦渋の決断だったろうが、復活を信じたい。)●2月15日 とうほく・総合面 ほっとタイム 歴史の終わりに万感/蘇民祭撮り続けた88歳写真家(大要 奥州市のアマチュア写真家佐々木稔さん。1955年ころ黒石寺蘇民祭に初めて行き、以来通い続けた。闇の中で男たちが揉み合う泥臭さが魅力だった。佐々木さんの作品は祭りのポスターに毎年のように採用。2008年JR東日本が掲載拒否したポスターの写真も佐々木さんが撮った。)●2月11日-14日 社会面「炎消ゆ 惜別 黒石寺蘇民祭」(11日 上 決断 高齢化にあらがえず)大要 黒石寺住職の藤波大吾さんは12月5日、淡々と開催終了を説明。黒石地区は人口900人、高齢化率50%超。祭りの中核を担う檀家は9軒に減り、70代80代中心に10人ほど。祭りの準備は1か月以上かかり、寺と檀家しかできない部分がある。開催1週間前から精進潔斎は家族全員に課されるため、女性は入浴できず、子どもは給食を食べられず弁当を持たせる。 藤波さんは言う。祭りは信仰の手段であって目的ではない。担う人や家族は伝統の核だから、無理やり変えてまで蘇民祭を続ける必要はない。 蘇民祭は、疫病除けの神と信仰された牛頭天王の化身をもてなし、その力を授かった伝説上の人物蘇民将来を祭る。厳寒の川で身を清め、火の粉を浴びる荒行は深い信心の証し。蘇民袋争奪戦の後、袋は細断され災い除けとして参拝客に配られる。(12日 中 尊重 真剣なら参加拒まず)大要 花巻市の会社員で4児の父、佐藤真治さん(53)(おだずま注:産経記事とお名前が異なる)は2008年のポスターのモデルだった。祭りに懸ける真摯な姿を撮ってくれたとわだかまりはないが、テレビコメンテーターに、下劣、威圧的、女性の敵とまで言われたことを悲しげに振り返る。 その年取材陣は10倍の170人に達して森厳な祭りの美は損なわれた。自分がいたら取材のぶら下がりが続くと、当時37歳の佐藤さんは14歳から毎年参加した祭りから身を引いた。 今回の祭りには、新宿二丁目のゲイの人たちも蘇民祭に参加する。黒石寺住職は、精進潔斎して感謝の気持ちあれば誰でも問題ないとする。保存協力会青年部長は、裸が見にくいとかゲイが気持ち悪いとかは、体験してから言ってくれ。過酷な祭りに真剣な思いで参加するなら誰でも歓迎されると言う。(14日 下 模索 議論重ね難局打開へ)大要 1月28日金ケ崎町の長岡蘇民祭が行われた。祭は1989年に農協青年部が企画したのが始まりで、地元有志の実行委員会で運営。寺、檀家、信者が中核を担う他の蘇民祭より人材確保や資金調達が容易だ。 岩手県内の蘇民祭は、黒石寺に限らず担い手の高齢化と人手不足で廃絶や中止が相次ぐ。明治以降、ピークは県南部中心に20ケ所で実施されたが近年は10ケ所ほどに半減。石鳥谷の光勝寺も800年以上続く五大尊蘇民祭を今年打ち切った。黒石寺の廃止発表の数日後の決定だった。 蘇民祭はこれまでも廃絶の危機に瀕したことがある。戦後混乱期には3回の中止。1971年には参加者を殴りつけた暴力団員が逮捕される事件。寺主体の祭りは終わるが、地元住民の保存協力会では、場所を変えて蘇民袋争奪戦を続けられないかと思案する。■関連する過去の記事(黒石寺蘇民祭) 奥州市の蘇民祭ポスター掲載拒否を考える(08年1月10日)■関連する過去の記事(地域と感染症など) 仙台藩の飢饉と金勝寺、徳泉寺、願行寺(2023年09月08日) 感染症と人類の歴史(2023年08月15日) 水の森公園の叢塚と供養塔(2023年08月03日) 仙台とコレラ流行の歴史(2022年9月19日) 芋峠(2021年8月9日) 芋峠(仙台市)と感染症(2020年11月28日) 鈴木重雄と唐桑町(2016年6月19日) 宮城の民間医療伝承(2011年9月4日) 明治のコレラ大流行と仙台市立榴岡病院(10年9月3日)■関連する過去の記事(疫病や感染症に関する民俗) 世界に誇る東北の郷土芸能(西馬音内盆踊り、鬼剣舞など)(2022年12月14日) 疫病と向き合う東北の民俗伝承(2022年6月8日) 民俗信仰と東北(2022年6月4日)=黒石寺蘇民祭など 鬼剣舞と念仏踊りを考える(2022年6月2日) 魔よけと東北を考える(08年2月10日)■関連する過去の記事(奇祭など。ほかにも過去記事ありそうですが) ついに見た!米川の水かぶり(2023年02月09日) 中新田火伏せの虎舞(2013年4月29日) ハンコタンナと覆面風俗(2015年2月1日) 塩竈の「ざっとな」(2011年2月27日) 奇祭 鶴岡化けもの祭(2011年1月3日) 民俗信仰と東北(2022年6月4日)(弘前市鬼沢) 岩木山信仰とモヤ山(2022年5月30日)■関連する過去の記事(来訪神などに関するもの) 西馬音内の盆踊り(2012年8月5日) ナマハゲやスネカの起源と神(鬼)の両義性(2022年5月29日) 秋田美人を考える(再)(2022年5月11日) 日本三大美人と秋田(2016年1月31日) 小野小町(2011年7月23日) 秘密結社とナマハゲ(2011年6月4日) 海の民、山の民(2010年12月25日) 秋田美人を考える(2010年12月23日) 秋田ナマハゲは秘密結社か 再論(2010年5月20日) なまはげと東北人の記憶を考える(10年4月27日) 秋田なまはげは秘密結社か(07年8月13日)
2024.02.18
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2020年国勢調査をベースにした将来推計人口(令和5年推計)について。(4回シリーズとしています。)・地域別人口推計を考える(その1)(2024年01月31日)=地域別推計結果の概要・地域別人口推計を考える(その2)東北の市区町村(2024年02月14日)=個別の市区町村の結果・今回 地域別人口推計を考える(その3)(2024年02月15日)=将来推計人口について・地域別人口推計を考える(その4)移動仮定と封鎖人口(2024年04月25日)これまで2回は地域別推計について記した。3回目の今回は、推計人口というもの自体について。(本来は順番が逆とも言える。地域別将来推計人口は昨年12月公表だが、全国値の将来推計人口は昨年4月26日に公表されています。)公的な将来人口の推計として、国立社会保障・人口問題研究所が国勢調査の確定値を出発点として算定する「日本の将来推計人口」がある。2020年(令和2)の国勢調査を受けて、2023年版の「日本の将来推計人口(令和5年推計)」が2023年(令和年)4月に公表された。この最新推計では、前回の推計(「日本の将来推計人口(平成29年推計)」)と比較して、将来の総人口が増える結果となったのが特徴である。つまり、日本の総人口は減少することは前回推計と変わらないが、人口減少の進行はわずかながら緩和するというのである。以下に当ジャーナルとして解説したい。1 将来推計人口の基本的なしくみまず、「将来推計人口」の基本的なしくみを確認しよう。国際標準とされる人口学的手法に基づいている。具体的には、人口変動要因である (1)出生、(2)死亡、(3)国際人口移動 の統計指標を数理モデルにより将来に投影する形で、男女年齢別に仮定(後述)を設け、それらを起点人口に適用して1年後の人口を推計するコーホート要因法により、将来の男女別年齢別人口を推計するもの。すなわち、既に生存する人口については、加齢とともに生じる死亡数と国際人口移動数を反映して、将来人口を求める。また、新たに生まれる人口については、15-49歳の女性人口に生ずる出生数を性比で分け、その生存数及び国際人口移動数を順次算出して求め、翌年の0歳人口として組み入れる。このコーホート要因法の推計のためには、いくつかの仮定が必要だ。(1)基準人口(男女年齢別)、(2)将来の出生率及び出生性比(同前)、(3)将来の生残率、(4)将来の国際人口移動率(数)に関する仮定である。これらの仮定の設定に際しては、統計指標の実績値に基づいて人口統計学的な投影を実施することで行う。(1)基準人口(男女年齢別)は、令和2年国勢調査の人口(2)将来の出生率及び出生性比 日本人女性に発生する出生率に基づいて総人口の出生動向を推計。 コーホート年齢別出生率は、(a)50歳までの累積出生率と、(b)年齢パターンを設定して求める。(a)は、初婚、出生、離婚再婚などの行動に関する各指標を投影し、出生順位別コーホート合計特殊出生率(注:ここで3つの出生仮定=出生中位・高位・低位=が設定される)を合計することで定める。(b)は拡張リー・カーター・モデルで将来推計。 人口動態統計と同定義の合計特殊出生率は、実績値が2020年で1.33に対して下記となる。 中位の仮定で 2023年1.23 2070年1.36 高位の仮定で 2023年1.37 2070年1.64 低位の仮定で 2023年1.09 2070年1.13 男女の出生性比は、2016-2020年の実績値平均の(女児100に対して男児)105.2を一定として用いた。 (3)生残率の仮定(将来生命表)について。翌年の事項を推計するには、生残率(男女年齢各歳別)が必要で、それを得るために将来生命表を作成する必要がある。本推計では、1970-2020年の死亡率に基づき、作成。ここで、死亡率の推計について、標準となる死亡中位仮定のほか、死亡高位仮定、死亡低位仮定が付加されている。(4)国際人口移動率(数)の仮定は、国際情勢や災害等により大きな影響を受ける。日本人については入国超過率、外国人については入国超過数を基礎として設定。 なお、ベースは日本に常住する総人口であり、外国人を含む。国勢調査の対象と同一だ。2 推計のパターン(場合分け)将来の出生推移及び死亡推移について、それぞれ、中位・高位・低位の3仮定を設け、組み合わせにより9通りの推計を行う(これらを基本推計という)。公表資料では、出生3仮定(中位・高位・低位)と死亡中位仮定を組み合わせた3推計が主に記述されている。3 推計結果の概要死亡中位推計で、出生3推計は以下の通り。・出生中位仮定 総人口 2020年12615万人→2070年8700万人【←前回推計時8323万人】 0-14歳人口 2020年1503万人(11.9%)→2070年797万人(9.2%)【←853万人】 15-64歳人口 2020年7509万人(59.5%)→2070年4535万人(52.1%)【←4281万人】 65歳以上人口 2020年3603万人(28.6%)→2070年3367万人(38.7%)【←3188万人】 合計特殊出生率 2070年1.36【←前回推計時1.44】 平均寿命 2070年 男85.89年 女91.94年【←前回 男84.95女91.35】 外国人入国超過数 2040年163,791人【←前回 2035年69,275人】・出生高位仮定 総人口 2020年12615万人→2070年9549万人 0-14歳人口 2020年1503万人(11.9%)→2070年1115万人(11.7%) 15-64歳人口 2020年7509万人(59.5%)→2070年5067万人(53.1%) 65歳以上人口 2020年3603万人(28.6%)→2070年3367万人(35.3%) 合計特殊出生率 2070年1.64・出生中位仮定 総人口 2020年12615万人→2070年8024万人 0-14歳人口 2020年1503万人(11.9%)→2070年569万人(7.1%) 15-64歳人口 2020年7509万人(59.5%)→2070年4087万人(50.9%) 65歳以上人口 2020年3603万人(28.6%)→2070年3367万人(42.0%) 合計特殊出生率 2070年1.13要約すれば、総人口は50年後に総人口は7割に減る。前回推計(平成29年)よりも出生率位は低下するものの、平均寿命が延伸し外国人入国超過増により、人口減少はわずかに緩和している。4 今回の推計の特徴(編集長が加入している学会における討議を参考に。)前回推計に比較して、総人口が増えている。高齢者も増えるが、生産年齢人口が増えている。(以下中位推計で論じる。)前回との相違を整理すると、(1)出生率は長期で1.36(前回1.44)と推計されており、少子化が進行。(2)寿命は伸びるが伸び幅は大きくない。それにもかかわらず推計総人口が全期間で前回を上回っている。とはいえ、年齢別では、14歳未満人口は推計の全期間で前回推計より少ない一方で、生産年齢人口が全期間で前回推計より増加している。少子化が進行する一方で生産年齢事項が前回より増える現象の理由は、外国人の増加である。国際人口移動仮定において、純流入(入国超過数)が前回6.9万人→今回16.4万人、すなわち約10万人が増加することになっている。外国人でも定住すれば年金の加入と支払いの義務が生じるが、増えているのは若い世代(就学、一時的就業)であり、将来にわたり定住するかは定かではない。日本人人口の推計だけで見ると、総人口と異なり、生産年齢人口は前回から減少する結果となっている。少子化の影響は大きい。周辺諸国を見ても、韓国(0.8程度)、香港、台湾、シンガポールなどは急激な先進国化による現象で、日本に追随した形である。
2024.02.15
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(4回シリーズとしています。)・地域別人口推計を考える(その1)(2024年01月31日)=地域別推計結果の概要・今回 地域別人口推計を考える(その2)(2024年02月14日)=個別の市区町村の結果・地域別人口推計を考える(その3)(2024年02月15日)=将来推計人口について・地域別人口推計を考える(その4)移動仮定と封鎖人口(2024年04月25日)2023年12月公表された地域別の人口推計(国立社会保障・人口問題研究所)について、前回(その1)は地域別推計(都道府県、市区町村)の結果の要点を記した。今回は、東北を中心に個別の市区町村をみていく。(なお、福島県浜通り13市町村は1地域とされている。市区町村数は全国で1884地域。)(1)総人口の減少動向まず、2020年→2050年で全国を見て、95.5%の団体は減少。減少率が大きいのは、順にこうだ。1.群馬県南牧村 -74.8%2.熊本県球磨村 -73.33.奈良県野迫川村 -72.54.北海道歌志内市 -72.05.奈良県御杖村 -71.5東北地方をみる。人口減少が顕著(4割以下になる)の市区町村を抜き出す。2020年を100として2050年推計を指数で示す。●青森県(全県61.0)今別町 29.6(2334人→691人)外ヶ浜町 32.4深浦町 34.7中泊町 36.6佐井村 33.9新郷村 38.1●岩手県(全県64.7)西和賀町 37.8●宮城県(全県79.5)最低が丸森町40.6●秋田県(全県58.4)男鹿市 37.6上小阿仁村 36.8藤里町 36.7●山形県(全県66.6)最低が西川町40.1●福島県(全県68.0)三島町 36.4金山町 38.4東北地方では人口が増える地域はないが、全国では下記の通りだ。つくば市 106.0守谷市 111.4つくばみらい市 113.0群馬県吉岡町 101.7さいたま市(全市) 101.2(なお市内6区で増加)川口市 100.9戸田市 107.0朝霞市 104.2志木市 101.7和光市 100.4八潮市 109.3吉川市 106.8滑川町 111.0千葉市中央区101.0船橋市 101.4柏市 102.1流山市 120.9印西市 116.8東京都は23区の内で減少が葛飾区、江戸川区のみ武蔵野市 105.8三鷹市 103.6調布市 104.4小金井市 102.3国分寺市 100.9狛江市 104.6稲城市 108.6西東京市 102.7御蔵島村 101.2(323人→327人)横浜市内の5区川崎市(全市) 104.4(市内の多摩区以外の6区も増加)開成町 102.5長野県南箕輪村 100.5(15797人→15882人)名古屋市東区 103.2常滑市 100.7大府市 100.9日進市 100.6長久手市 107.3草津市 100.4守山市 102..2木津川氏 101.9大阪市内の6区(西区110.7など)神戸市中央区 102.6福岡市(全市)100.6(市内4区で増加)福津市 108.3福岡県志面町 102.8須恵町 101.2新宮町 102.7久山町 107.1粕屋町 109.3熊本県大津町 104.1菊陽町 107.0豊見城市 101.8南城市 101.9恩納村 103.5(10869人→11249人)宜野座村 108.1(5833人→6304人)北中城村 101.7(17969人→18269人)中城村 117.8(22,157人→26,102人)与那原町 109.2(19695人→21504人)南風原町 102.0(40440人→41255人)八重瀬町 111.0(30941人→34340人)拾い上げて疲れた。(2)75歳以上人口(数)の動向75歳以上人口(数)について、2020年(100)→2050年の指数で。顕著な地域(3割以上増加)を拾う。●青森県(全県110.5)三沢市 135.8六ケ所村 136.2おいらせ町 165.9階上町 142.4●岩手県(全県105.9)盛岡市 139.9北上市 138.3滝沢市 171.6矢巾町 160.3●宮城県(全県136.1)仙台市168.6(青葉区173.1など)名取市 177.5多賀城市 153.5岩沼市 148.5富谷市 222.0(4743人→10529人)大河原町 145.7柴田町 133.3亘理町 134.3七ヶ浜町 134.9利府町 189.5大和町 144.7大衡村 137.1●秋田県(全県94.7)●山形県(全県104.3)●福島県(全県117.9)福島市 131.5郡山市 151.5須賀川市 136.0本宮市 135.4大玉村 150.8(1126人→1698人)西郷村 173.8(2299人→3996人)数の増加率では富谷市が突出している。全国で2倍以上になるのは、東京都中央区、つくば市、長久手市などだ。(3)75歳以上人口の割合今度は75歳以上人口の占める割合の動向。2050年の割合の高い地域(50以上)ないしは最高の地域などを拾う。●青森県(全県17.1→31.1)今別町 30.9→52.2外ヶ浜町 29.1→50.82050年で割合が最低は、六ケ所村の(11.8→)24.2●岩手県(全県17.8→29.1)最高 洋野町(22.1→)43.5最低 北上市(13.9→)24.1●宮城県(全県14.0→24.0)最高 丸森町(23.5→)40.3最低 大和町(11.2→)17.3なお、(2)で75歳以上人口の増加が顕著な富谷市は、その割合でみると、9.2→22.5 となっている。●秋田県(全県19.9→32.2)最高 上小阿仁村(32.8→)48.9最低 秋田市(16.0→)28.0●山形県(全県17.9→28.1)最高 西川町(25.6→)40.9最低 東根市(15.1→)22.3●福島県(全県16.0→27.8)最高 下郷町 (26.4→)42.7最低 大玉村 (12.7→)21.3全国を見渡して50を超えるのは、以下のようだ。群馬県南牧村(43.6→)55.2長野県栄村50.5京都府笠置町(30.0→)56.4大阪府豊能町50.7同能勢町50.5大分県姫島村(28.7→)52.5
2024.02.14
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現在、当ブログのフリーページ「東北情報ソース」をリニューアル作業中です。しばらく前の作成でしたので、リンク先アドレスが変わったり、廃刊したと思われるメディアも見られるためです。順次確認と作業を行い、今月中をメドに完成めざします。2024年2月13日 夜編集長 小田島樹成(ODAZUMA Journal) 謹白
2024.02.13
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ちょうど2か月前になるが、昨年(2023年)12月12日のニュースで報道された。非常に興味深い判決だ。2019年4月に当選して公選法違反(買収。ウグイス嬢手配に報酬を支払)で失職した大阪市議会議員が、当選無効の判決確定(20年2月)までの間に受け取っていた議員報酬や政務活動費など1400万円余りについて、大阪市に全額の返還を命じる判決が最高裁(第三小法廷)であった(12日)。1審と2審は、議員の活動で市も利益を得たとして、身柄拘束期間だけの約160万円に限って返還を認めていた(市が上告)。判決では、民主主義の根幹である選挙の適正を著しく害したもので、確定までの期間を議員として活動していたとしても、市との関係で価値はないと評価すべき、として全額の返還を命じた。なお、1人の裁判官は、資格がなくても活動した事実は残り市は利益を受けた、とする反対意見を述べた。また、自治体での議員報酬返還に関するルール作りなど議論が尽くされることを期待するとの補足意見もあった。(NHKなどのニュースから)当選無効確定までの間の議員報酬についての初の判断で、今後国会議員などにも影響しそうだという。なお、半世紀以上前に自治省が返還を請求できないとの行政解釈を示しており、現在まで返還請求のハードルになってきた(朝日)。以下は当ジャーナルの見解。まず、当選無効判決確定までの期間の報酬をどう考えるか。その前提として、現行法制に明記ないことから問題になるのであって、裏を返せば(補足意見にあるように)立法的解決が一つの解決方途だろう。とはいえ、現在は法解釈で乗り切るしかないとして、大きく二つの(極端な)方向があると思われる。(1)当選無効は民主主義の根幹である選挙の効力(議員の資格)の問題だから、判決確定までの期間の(事実上の)議会における行動や議員としての対外的活動も無にすべきが基本。すなわち、議会における表決もこの議員については遡及的に削除されるべき。同様に、報酬も支払う理由がなく、返還は当然。不当利得の法理では、善意なら現存利益の範囲で返還となりそうだが、私法体系よりも公法上の秩序を優先するのだろう。(2)たしかに議員としての地位について公法上の無効の効力は遡及すべきだ(そうでないと意味がない)が、議員として活動した実態から事実上生じた社会的関係は存在し、地方公共団体の団体自治にも一定程度は寄与している。また、議会活動は他の議員や住民との相互作用の総体と見ることもできるから、たとえば議会の討論から当該人物の言動だけを抜き取っても、それによって影響を受けた他の議員の言動まで削除するのかの問題も生じる。 そうであれば、その活動の対価としての報酬は支払っても許容される。実質的に考えても、議員の地位が遡及的に消えるとしても、当人は当該活動で市(団体自治)に貢献した利益の対価を求める権利がある。公法上議員ではなくなったとしても、いったんは公に当選証書を与えられて活動をしたのであるから、単なる一市民とは異なる。時間を見つけて研究しようと思っていたが、まだできていない。半世紀前の自治省の見解とやらも調べてみたいところ。当ジャーナル編集長が怠慢しているうちに、今度は、名取市の市議が、地方教育行政法(スポーツ事業を知事部局に所管させるには条例が必要)に反して、条例を設けずに、名取市がスケボーのトップ選手を育てる「スーパーキッズ育成事業」を行うことについて、その公金支出と契約の差し止めを求めて仙台地裁に提訴したという(2月7日河北新報記事)。地教行法に反するかどうかの判断が第一だが、かりに違法とされる場合、市が行った民事上の契約の有効性はどう判断されるのかに関心を持った。■関連する過去の記事(類似の論点を含むもの。他にもあるかも知れません) 別れさせ屋と不法原因給付(2013年2月15日) 山形県の無免許元教諭の返還額を考える(2016年2月25日) 山形県教委の教員任用無効の法理を考える(2016年2月23日) チケット不正転売禁止法の謎(2019年6月16日)
2024.02.12
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東北では菊地が18位、菊池が23位の多姓であるが、岩手県では菊池が多く、菊地の20位を大きく引き離し第5位。ちなみに、岩手県の多姓は、第1位から順に、佐藤、高橋、佐々木、千葉、菊池、阿部、菅原、及川、伊藤、鈴木と続く。岩手県の菊池氏は、遠野市、宮守村、東和町、江刺市、大東町などに多く、中でも遠野市では4.8世帯に1世帯が菊池という多さ。菊池の発祥は、肥後国菊池郡(熊本県菊池市)で、中世菊池氏の居城跡と菊池神社がある。菊池氏は瀬戸内海から紀伊半島にかけて活躍した海族だったが、平安後期、壇ノ浦の戦い(1185年)で平氏に敗れ各地に散った。一族は、現在の大分、愛媛、三重、千葉、茨城、福島、宮城、岩手各県に落ち延びたという。遠野市小友町館内にある奥友館は、菊池喜左衛門の居館跡といわれる。阿曽沼氏の家臣に菊池氏が多くみられ、阿曽沼氏から八戸南部氏にかわってもこれに従ったと思われる。むつ市田名部には、九州菊池の一族菊池正興の城跡がある。■参考 鈴木常夫『多姓と難読姓からみた 東北人の苗字』本の森、2001年ところで、当ブログでも随分参考にさせていただいている田村昭さんの著作(出典下記)に、仙台の本郷さんは古く菊池氏から発生したとある。(以下に要約)仙台藩のお抱え刀工の本郷国包(くにかね、新寺二丁目善導寺に墓、中央二丁目の貴金属店本郷は子孫)、松川だるまの本郷けさのさん(柏木一丁目、8代目)など、宮城県内では約560世帯がある。ところで本郷の名字は、本郷の地名と関わりがあるのだろう。東京文京区の本郷はじめ、宮城県内にもたくさんある(白石本郷、利府本郷、坂元本郷、舘腰本郷など)。本郷の姓の起こりは、藤原氏の流れをくむ菊池から起こった本郷氏が既に古い時代から発生しているから、地名と名字のかかわりが深かったと想定できる。(要約以上)本文中では、本郷さんが地名に由来すること、菊池から本郷氏が発生したこと、は記述されているが、宮城県の本郷姓が菊池(氏)から発生したとまでは記載していないと思う。しかし、この項目(p74)の見出しは、「集落発展基礎の本郷さん 古く菊池氏から発生」とされている。なお、目次ページでは、「集落発展基礎の本郷さん 菊地氏から発生」と記載されている。細かいことだが。■参考 田村昭『宮城県のお名前漫歩』宝文堂、1985年■関連する過去の記事 東北各県の特徴的な名字と珍名(2019年11月24日) 仙台の苗字の特徴(2016年1月11日) 変わった名前で珍問答(2015年2月10日) 東北の変わった苗字(2015年2月9日) 名字の都道府県別ランキング(2012年9月28日) 氏と姓と名字の成り立ち(2012年9月29日) 都道府県名と同じ名字(2011年12月19日) 各県の名字ベストテンと特色ある名字、珍しい名字(2011年12月18日) 宮城の代表的な苗字は(06年9月13日) 宮城県の苗字ランキング(06年9月12日) 姓と苗字の違い(06年8月23日) 宮城県の由緒ある苗字(06年8月1日) 苗字と名字の違い(06年5月22日) やっぱり多い鈴木さん (06年5月9日)■関連する過去の記事(人の名前あれこれ) シンコペーテッドな名前 再論(2023年01月03日) 下から読んでも同じ名前(2011年11月25日) 同一の段だけの氏名はあるか(09年4月23日) ア列の名前(08年7月26日) 回文を考える(07年9月15日) シンコぺーテッドな名前(06年12月22日)
2024.02.10
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秀吉の天下統一の戦いで、最後に戦陣を張った東北の英雄だ。(長谷川ヨシテル『どんマイナー武将伝説』柏書房、2023年 から当ジャーナル要約)1 天下統一と九戸政実 秀吉の天下統一は1590年(天正18)の小田原征伐と思われているが、翌年秀吉は東北に大軍を派遣して九戸城(岩手県二戸市)を攻めている。九戸政実の乱と呼ばれる。2 九戸家 南部家の分家にあたる。『二戸郡誌』などによると、1536年(天文5)生まれと考えられる。秀吉の1歳上になる。三戸を拠点とした南部本家に仕え、1569年(永禄12)には、侵攻してきた安東愛季を撃退して鹿角を奪還するなど、武勇に秀でた人物だったようだ。室町幕府からも一目置かれたらしく、1563年(永禄6)の幕府に従う家臣や大臣の名簿『永禄六年諸役人附』にも、本家当主の南部大膳亮(晴政)と並んで九戸五郎(おそらく政実)の名が記される。『南部史要』(1911年刊行)には、1万7、8千石の領地があり、家臣筆頭であるだけでなく、富は宗家を越えていた、と記されている。3 南部家との争い 南部家24代目の晴政には実子がなく、従兄弟の南部信直を娘と結婚させて養子に迎えていたが、1570年(元亀1)に実の子(晴継)が生まれると晴政は息子を溺愛。3年後に信直に嫁いでいた娘が死去すると、晴政は自ら兵を率いて信直を襲撃して殺そうとした(元禄年間成立の『八戸家伝記』)ため、信直は後継を辞退して領地の田子(青森県田子町)に退く。 しかし、1582年晴政が死去し、その葬儀の帰り道に晴継は何者かに暗殺される(江戸後期の盛岡藩記録『公国史』)。ふたたび後継問題が起こり、信直に対して、政実は弟の九戸実親を推す。実親は南部本家から正室を迎えていた。政実を支持する南部家重臣が多かったものの、信直を推す北信愛(南部家の分家)の大演説に押し切られて、なかば強引に信直が継ぐことになった。不満を抱いた政実は、本家と対立を深める。 1590年(天正18)小田原攻めで秀吉の参陣命令に、信直は参陣。戦後の奥州仕置と太閤検地に反発した勢力が、葛西・大崎一揆や和賀・稗貫一揆が勃発し、信直は新たに与えられた領地で発生した一揆の鎮圧に奔走。そのタイミングを狙い、政実は戦の準備を進め、1591年3月に挙兵する。九戸政実の乱である。4 九戸政実の乱 政実に味方する勢力はかなり多く、さらに政実に寝返るものもいて、信直は防戦一方で滅亡してもおかしくない状況に追い込まれた。ここで信直の使者を受けた秀吉は鎮圧軍を派遣。秀次を総大将として、伊達政宗、徳川家康、前田利家、石田三成、大谷吉継などが名を連ねた。8月には葛西・大崎一揆と和賀・稗貫一揆も鎮められ、鎮圧軍は九戸城に迫る。9月1日には九戸方の前線拠点である、根反(ねそり)城と姉帯(あねたい)城(ともに岩手県一戸町)が落城。翌2には6万5千といわれる大軍が九戸城を包囲した。 九戸城攻防は、『南部根元記』や『九戸軍談記』に詳しい。それらによると、攻めた武将は、天敵南部信直をはじめ津軽為信、秋田実季など東北勢、蝦夷の松前慶弘、秀吉家臣の蒲生氏郷、堀尾吉晴、浅野長政、家康家臣の井伊直政の面々という。 対する九戸城の城兵は5千ほどだが、士気高く、ひるむことなく応戦した。切岸を登る秀吉軍を弓矢と鉄砲で撃退。蒲生氏郷が唐傘を開いて立てて呼びかけると、工藤右馬之助(兼綱)が名乗りを上げ百間(181m)離れたから傘を打ち抜いて両軍から大喝采を浴びたという。 秀吉が小城と侮った九戸城は、防御力が高かった。三方を川に囲まれ(猫淵川、白鳥川、馬淵川)、切岸は屏風のように広がり、堀は深く土塁は高く、塀には狭間を多く設置してその上に櫓を構えた。力攻めでも無駄に兵を失うばかり。くわえて秀吉軍が大軍で兵糧が不足する事態に陥る。 そこで、浅野長政は策略を実行。政実の菩提寺の長興寺(九戸村)の僧薩天を開城の交渉役に命じ、降参すれば一門家臣を助命され、武功を褒められ領地を与えられるだろうとの書状を託す。弟の九戸実親は、城を枕に討ち死にすべしと説得するが、政実は、一命を以て衆の命を替えるは武士の本道と、降参を受け入れ命を差し出した。剃髪した政実が9月4日城を出て長政のもとに行くと、突然捕えられる。氏郷は降参の条件を反故にして、九戸城の全員の撫で斬りを命じる。実親は二の丸で奮戦するが、本丸を制圧した氏郷軍の鉄砲で討死。 秀吉軍に騙された政実は、7人の城将とともに秀次の陣のある三迫(さんのはさま、宮城県栗原市)まで護送され、そこで処刑された。享年56と伝えられる。5 その後 政実の遺骸は斬首された地に埋められ塚が建立されたというが、江戸時代には荒れてしまったという。明治初期にとある行者の夢に政実が現れたため、何かの暗示だと草むらを探索したところ遺骸の埋まった塚が発見され、その供養のために、九ノ戸神社が建立された。近くには、首級を洗ったとされる「首級清めの池」が伝えられる。 また、政実の首は京都の戻橋(もどりばし)に晒されたともいわれるが、家臣の佐藤外記が乞食姿で密かに首を盗み出して九戸村に埋葬したとも伝えられ、今も「九戸左近将監政実首塚」が残されている。首塚の近くの九戸神社は、九戸家が先勝祈願したとされる神社で、隣には1995年建立の政実神社がある。すぐ東には、九戸城以前の九戸家居城と考えられる「大名舘」や菩提寺の長興寺がある。■岩手県公式サイト 九戸政実の足跡■二戸市公式サイト 哀涙の政実を訪ねて
2024.02.04
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2月というのに雪もない。吉岡から三本木まで奥州街道の名残を探訪した。吉岡の宿場町を出て、国道4号をクロスして進む。■前回記事 吉岡宿を訪ねて(大和町)(2024年02月01日)すでに大衡村に入っている。田圃の中を北上。善川をわたり、村道に一旦出て東進するがすぐまた折れて小さい道に入る。昌源寺脇のため池を左に見て小道はのぼる。散策路整備の看板がある。(画像では遠方に小さく看板が見えます。)(その看板を大きくしました。)奥州街道の歴史にふれる散策路の整備ここには、第二仙台北部中核工業団地ができる前、奥州街道がありました。奥州街道は、江戸日本橋を起点として、津軽半島の北端三厩宿までの日本で最長の街道です。平成20年度からの工業団地の造成工事により奥州街道がなくなることになったため、この区間を歩いて移動できるように代替えの散策路をつくりました。 散策路には、この地域にある樹木を植えたり、造成工事で伐採した樹木を細かく砕いたチップを再利用したりするなど、環境に配慮して整備しました。また、途中の中央平公園には発掘調査で明らかになった一里塚などの地域の歴史を学べる場を整備しました。 整備にあたっては、工業団地の事業主体である宮城県土地開発公社を始め、工業団地の立地企業や教育機関から多大な協力を得て実施しました。 平成22年3月 大衡村上記の案内板の現在地辺りを拡大して示します。(一部画像を加工。凡例を移動しました。)そのやや先に、車道をそれて左に昔の街道がある。正確には、(上記の看板の説明のように)代替散策路というべきで、往古のルートそのものとは違うのかもしれない。(こんな感じで散策路に誘導されます。)(わかりやすく案内板を建てたのでしょう。旧奥州街道はここを入ること、跡ではない、と誰かが添え書きしていました。)(画像ではわかりにくいですが、かなり傾斜のある坂道。坂をこえるとすぐ、工業団地を周回する道路=看板では村道奥田工業団地西線と説明=に出ます。)(ここまでの探訪活動と次の動きを地図に示してみました。)村道に戻り、東に進み、衡下集会所に近い交差点から工業団地に伸びる道(村道奥田工業団地西線)を進む。登っていくと、ほどなく、さきほどの旧街道(散策路)の出口がある。街道は、この新しい道をクロスする形で山中を伸びていたのだろう。そして、右手(東側)は半導体の大工場になるのだろう。いずれにせよ、すでに造成されて街道筋は消えている。さらに北進すると、ときわ台団地。その道路をはさんだ東側(中央平公園)に、駐車場と碑が在る。奥州街道の歴史にふれる散策路の整備1 奥州街道の歴史 奥州街道は、江戸日本橋から津軽半島三厩(みんまや、現青森県東津軽郡外ヶ浜町)に至る幹線道路です。慶長6年(1601年)、天下の実権を握った徳川家康は、五街道を基線とする全国の交通網の整備を命じました。街道は、参勤交代による大名行列や、物資の輸送、旅行などに利用されていました。 大衡村における奥州街道は、仙台以北の規模の大きい宿駅の一つである吉岡宿(大和町)と三本木宿(大崎市)の間の3里20丁(約14km)を結び、現在の第二北部中核工業団地内を縦断していました。途中には、旅人の里程の目安となる一里塚もありました。2 散策路の整備 この辺りには、江戸時代の景観をとどめている奥州街道が残っていました。しかし、工業団地の造成により奥州街道は分断されることになりました。このため、街道の雰囲気を再現した代替ルートを整備して旅行者が徒歩で移動できるようにし、また、中央平公園には奥州街道の歴史を説明する説明版などを設置し、街道の歴史にふれあう学びの場としました。 整備にあたっては、行政機関のみならず、工業団地内の立地企業を始め、NPO法人や教育機関と連携を図りながら進めました。《参加団体等》◇行政機関等 宮城県、宮城県土地開発公社、大衡村◇立地企業 セントラル自動車株式会社◇教育機関等 宮城県黒川高等学校、みやぎ街道交流会(NPO法人)平成22年3月 大衡村案内板の地図の現在地辺りを拡大して下に示す。(一部画像を加工。凡例を移動しました。)随分以前に書いた記事(下記)のとおり、トヨタ工場の造成で旧街道を消してしまったこと、工場外周に代替の散策路をつくったこと、そしてそれぞれのルートが、看板の図でよくわかる。■関連する過去の記事 セントラル自動車が奥州街道を復活(09年2月13日)大衡一里塚(おおひらいちりづか)1 造られた時期 江戸時代初期(今から約400年前)につくられたとかんがえられています。2 場所 大和町吉岡にある一里塚から街道沿いに約3.9km北上したところ、また大衡村駒場に跡が残る一里塚から約3km南下したところにありました。奥州街道をはさんで、丘陵部に西塚、斜面部に東塚が造られました。3 大きさと形 西塚 ほぼ円形で、直径9.2~10.3m、高さ2.7m 東塚 南北に長いだ円形で、直径7.8~10.0m、高さ2.3m4 造り方〔おだずま注、略〕5 特徴 東塚と西塚の高低差は5mほどあり、東塚は海道から見下ろすような位置にありました。付近は痩せ尾根であったため、東塚は斜面に造られましたが、このような場所に造られた一里塚は全国的にも例がありません。また、階段状に土を盛ったり、石を少なくして粘土質の土を使うことで堅く崩れにくくするなど、塚を斜面に造るための工夫がなされていることも明らかとなりました。■宮城県公式サイト 奥州街道・一里塚 発掘調査現地説明会信号まで北進して、県道大衡落合線に出て右折(東へ)、パークゴルフ場を左に見て、トヨタの北側を弧を描く県道を東に進む。松の平二丁目の交差点に、もみじ広場。ここに案内板があり、階段の先に道が伸びている。(広場から見るとこんな感じです。)(案内板を大きく映します。)森田元平君墓(大義院元覚良道居士)について森田元平(1838-1879)は、仙台藩天文方を務めた藩士・儒学者で〔おだずま注、以下は要点のみ記す〕、文久3年(1863)志田郡伊賀村に移住し、明治6年斉田小学校(大崎市三本木)の仮教師となる。明治12年伊賀村で死去。享年42歳。黎明期の三本木・大衡地域の初等教育の礎を築き、有力者・政治家を輩出した森田の功績をたたえ、百名に及ぶ教え子が碑に名を連ねている。碑は、当初ここより南西に1kmの森田氏の所有地、通称森田沢(もったざわ)に建立されていたが、平成20年工業団地造成に関連し、妻と妹の墓とともに移設された。平成23年3月 大衡村(もう一つの看板です。)奥州街道跡 奥州街道は江戸を起点とした五街道の一つで、正式には奥州道中と言った。区間は江戸より白河迄で幕府道中奉行の支配下にあった。この本街道を北に延長し、仙台~盛岡を経て、青森県の北端三厩までの街道も一般に奥州街道と称され、幕府勘定奉行の管轄下にあった。奥州街道は奥州を縦貫する重要な幹線道路で、参勤交代の諸大名や商人荷・庶民の往還で賑わった。 ここ大衡村を通る奥州街道は、現在地付近を含めて、吉岡と三本木宿間の三里二十丁(14Km余)であった。 平成13年10月 大衡村(道に入ってみる。かなりの起伏と、左右にくねった道です。中央平公園にあった看板の旧街道と代替整備路の関係からすると、上の画像の階段と次の画像は代替整備路で、その次の写真あたりから旧街道になるようだ。)この旧街道は地図に落とすと、だいたいこんな感じになる。結構長く、数百メートルある。改めて、中央平公園の案内板のルートを、拡大して掲げる(下記。一部画像を加工。凡例を移動しました。)。照らし合わせると、もみじ広場近くの階段や急峻な坂は代替路だが、その先(上の二番目の写真や、次の探訪先)は旧街道のルートそのものになるのだと思う。こんどは、大衡落合線を大衡IC方面に向かい、信号を左折(北進)すると、県道大衡駒場線に入る。しばらく北上して、県道から左(西)に入る(中央平公園の看板では、村道楳田戸口線と説明)。配水場(大衡配水場)があり、その先に、ちょうどさっきの旧街道の出口がある。車道はロープで封鎖されているが、旧街道は人が入れる。(看板を大きく映します。)(旧街道に入ってみる。この写真は、村道楳田戸口線の出口方向を向いたものです。)県道大衡駒場線にもどり北進。次の交差点はショートカットが昔の街道筋で、鶴田川を渡って、石巻鹿島台色麻線に出る。(正確に言うと、旧街道ルートは県道大衡駒場線を横切って田園の中を通過し、鶴田川を渡る橋の手前で現在のショートカット道に合流し、石巻鹿島台色麻線に出るようだ。)駒場の郵便局をまがって、東北縦貫道をくぐる。すぐに折れて、高速道沿いに北進する。坂を上って降りていくと、三本木に入る。ここで一枚。昔の街道だろう。(ここまでの経路です。)■広報おおひら2018年12月号(No636)から。「大衡村の歴史 3」奥州街道 「奥州街道」は江戸日本橋から白河宿までの「奥州道中」の延長で、仙台、盛岡を経て青森に至る街道です。奥州を縦貫する重要な幹線道路で、参勤交代の諸大名や商人、庶民の往還で賑わいました。 「奥州街道」の仙台以北の大きな宿駅である吉岡宿を出ると、衡下地区石神沢に入り、善川を渡り松本へ北進します。善川は寛永18年(1641)の検地帳には悪川と記載があり、後に善川と改称したものと思われます。石神沢と善川の間には松並木がありましたが、明治年間に伐採された記録があり、昭和初期まではその巨根が所々に残っていました。 松本に入った街道は右に折れ、昌源寺の門前に出ます。ここから、昌源寺坂と言われる坂を登り切り、旧大衡村と旧奥田村の村境を進むと、まもなく直径5mの円形の一里塚がありました。子の地点は、文政期の大衡村絵図にも一里塚の印が記載されており、次の一里塚があった雲泉寺入口付近からちょうど3km付近です。 この一里塚から200mほど行くと、道の西側に馬頭観世音碑が4基ありました。これは吉岡宿の人々や馬の継立に従事した馬子達によって建てられたものと伝えられています。 旧大衡村と旧奥田村の境は、現在、第二北部中核工業団地となり一里塚跡はありませんが、この馬頭観世音碑は、ときわ台団地東側の中央平緑地公園内に移設されています。 松の平緑地公園以北から旧駒場村戸口までは、現在も街道の旧観を留めています。旧駒場村に入る手前には三角点があり、西に遠く船形連峰、中程に蓬莱山が眺められる見晴らしの良い場所になっています。この場所は、仙台藩主が休憩されたところと伝えられ、「奥松福城行記」(宮城県図書館蔵)に、「三本木迄山坂道なり、此間西の方、最上境に二つ嶽見ゆる。」と記されている地点と推測されます。 旧駒場村に入ると、村道楳田戸口線と県道石巻鹿島台大衡線とほぼ重なり、雲泉寺入口付近に一里塚がありました。その先の須岐神社には、江戸時代に「東の茶屋」「西の茶屋」があり、往来の人々の休憩処でした。その後、坂下から左に折れ、坂道を登り下りして三本木宿へ北進する道程となります。 大衡の奥州街道は、吉岡と三本木宿間の3里20丁(約14km)で、宿場としての賑わいのない通り抜けの道でした。 参考文献『大衡村誌』『おおひら歴史散歩』■大衡村の地域について 明治の町村制では、大衡村、大瓜村、駒場村、大森村、奥田村の5村の区域を以て、大衡村が発足した。現在の大字は、これら旧村の5つのほか、新しい町名である沖の平、桔梗平、中央平、ときわ台、ときわ台南、松の平。■他の方のブログ(大衡村の奥州街道の探訪記) 悠遊・楽感雑記帳から Hitoshさんの街道写真紀行奥州街道 KLB嵐山・みけねこさんの奥州街道を歩くその12・大衡村を北上するいずれも本当に素晴らしい内容。当ジャーナルは足元にも及びません。(雑感)今回の記事タイトルを「吉岡-奥田-駒場-三本木」としたが、吉岡(前回記事吉岡宿を訪ねて(大和町))はともかくとして、実際は奥田の工業団地周辺が中心だった。駒場の旧街道は車で流しただけだし、その先の三本木はちょっと入っただけ。時を改めて、駒場、三本木、古川と要所を歩いて探訪してみたい。そもそも宮城県内で、旧街道ルートが現国道4号(バイパスになる前を含めて)と大きく乖離しているのは、この吉岡-三本木のほか、高清水-築館、金成-有壁、有壁-一関、といったところだろうか。中でも奥田の一里塚前後の街道はすっかり山中に潜んでしまい、逆に往時の風情が最もよく残っていたかも知れないが、工業団地造成で消失を機に散策路復元や案内板などで、このように私たちに教えてくれる活動には敬服する。■関連する過去の記事(大衡村、大和町、奥州街道など) 吉岡宿を訪ねて(大和町)(2024年02月01日) 大衡村の良いところは...(2015年3月19日) 大衡村を元気づけようプロジェクトその2(2015年3月31日) 宮城・大和町の史跡 御所館と八谷館(2011年9月30日) セントラル自動車が奥州街道を復活(09年2月13日) 鶴巣PAのETCカレー(2011年1月23日) 北根と七北田街道(2011年10月24日) 近世までの東山道と中山古街道、七北田街道(2011年10月23日) 街道を行く 奥州街道の吉岡-三本木について(05年10月25日) 船形山神社の仏像と多賀城(07年8月30日) 宮床ダム殺人未遂事件を考える(09年8月23日)
2024.02.03
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吉岡を訪ねた。奥州街道の吉岡宿として知られ、また、名画「殿、利息でござる!」(2016年)の舞台だ。下の写真は、映画に出てくる9人の篤志家のうち、末裔が街に唯一残っている(吉岡宿本陣案内所での説明)という穀田屋さん。七ツ森の四季という酒を買ったら、御当主とお母さまでしょうか、短冊をいただいた。感謝の気持ちとともに、歴史をかみしめる。一粒の花の種は 地中に朽ちず 終に千林の梢に登ると 謂うが事も候へ穀田屋十三郎 ー国恩記より次の写真は、宿場の北の端の街道分岐点。奥州街道と出羽街道(仙台領奥州街道絵図(仙台市博物館蔵)では、中新田道と書かれている)が分かれるところだ。奥州街道は、一般に江戸(東京)から弘前藩三厩(青森県)までの総称で、国内最長の道でした。この街道は大道と呼ばれる幹線道路でした。県内での道筋は、ほぼ国道4号線と一致し、白石、岩沼、国分町(仙台市)、吉岡(大和町)、古川、高清水、築館、有壁、など25か所に宿駅が置かれていました。柱となっている石碑(比較的新しい)と案内図には、「出羽海道中山越え」と書かれている。吉岡宿本陣案内所に入ってみたら、くわしく説明をしていただいた。もと本陣のあった場所。向かいが浅野屋の大きな屋敷の跡。■9名の篤志家 穀田屋十三郎、菅原屋篤平治、千坂仲内、穀田屋十兵衛、遠藤幾右衛門、浅野屋甚内(周右衛門)、遠藤寿内、穀田屋善八、早坂屋新四郎■国恩記顕彰碑 9名の篤志家が吉岡宿を救った経緯が、龍泉院の住職を務めた栄洲瑞芝(えいしゅうずいし)により「國恩記」(こくおんき)として記録された。国恩記顕彰碑は九品寺境内にある。■龍泉院 曹洞宗の寺。寛永5年(1628)現在の鶴巣下草から当地に移った。当寺8世の住職を務めた栄洲瑞芝ほか、歴代住職の墓がある。■九品寺(くほんじ) 浄土宗の寺で、元和2年(1616)に、現在の鶴巣下草から移った。吉岡宿本陣案内所の方の説明だと、浅野家の末裔はいない(県外のどこかとか)が墓が九品寺にあるとのこと。■吉岡館跡 寛文2年(1662)、奥山家が吉岡領主となるのに伴い整備した居館の跡。宝暦7年(1757)奥山家に代わり但木家が領主となって当館に移った。■吉岡城跡 政宗公の三男宗清の居城の跡。元和2年(1616)に完成し、現在の鶴巣下草にあった居城から寺院等施設もともに移った。隅櫓が建てられていたとみられる櫓台が2か所残る。北の「ひだまりの丘」(大和町保健福祉総合センター)付近が一の丸、東側が二の丸と伝わる。■関連する過去の記事(大和町) 宮城・大和町の史跡 御所館と八谷館(2011年9月30日) セントラル自動車が奥州街道を復活(09年2月13日) 鶴巣PAのETCカレー(2011年1月23日) 北根と七北田街道(2011年10月24日) 近世までの東山道と中山古街道、七北田街道(2011年10月23日) 街道を行く 奥州街道の吉岡-三本木について(05年10月25日) 船形山神社の仏像と多賀城(07年8月30日) 宮床ダム殺人未遂事件を考える(09年8月23日)
2024.02.01
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