仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2008.05.26
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カテゴリ: 東北
泰衡と言えば平泉を滅ぼした暗愚の君主とされてきた。義経を討ち、弟の忠衡を殺し、頼朝に命乞いをした、との評が定着していた。しかし戦後の藤原三代のミイラの学術調査で、事態は変わった。秀衡の棺に納められた首は、泰衡のものと判明したからだ。

長い間、その棺に納められたのは忠衡の首だと言い伝えられてきた。英邁な忠衡を慕っていた者達が鎌倉の目をはばかり秘かに秀衡の棺を開いて納めた、と。しかるにこの首には頼朝に晒されたときの太い釘の後が残っていて、泰衡のものと判明したもののだから、従来の泰衡評は大きく転換を迫られた。

秀衡の奥州王国は、豊かな金を背景に平氏の大和帝国に対抗する強大な力を持っていた。平家が壇ノ浦に滅び去り政権を手にしつつある頼朝も、この北の王国を恐れて鎌倉を離れることができなかった。秀衡は頼朝に疎んじられた義経を温かく迎え、鎌倉の引渡要求にも拒否してみせる器量があった。そして死に際して秀衡は、大胆な遺言を息子達に行った。

いずれ鎌倉との対決は避けられない。精強の鎌倉軍に対して奥州軍は後三年の役の後百年も戦の経験がない。秀衡の苦悩はそこだった。義経を大将に戦う、それしか奥州の独立を守る方法はない。だが、切り札は最後まで取っておくものだ。それまで外交手段で鎌倉と渡り合いたい。秀衡が死んだと知っても頼朝はすぐに攻めては来るまい。それを見越して、秀衡はある「秘策」を息子達に授けた。鎌倉対策で困難に直面した場合の「秘策」として。

果たして秀衡の死の半年後、冬が過ぎ若葉の繁る季節になると義経は秘かに北へ向かった。後白河法皇に反頼朝の結託を働きかけて鎌倉を挟撃する動きをしたと考えられる。鎌倉の探索の目をくらますため、一旦北に向かって京都潜入を試みたのではないか。

或いは大陸の騎馬軍団を調達する大作戦があったか。奥州の繁栄を支えた津軽の十三湊は秀衡の弟栄衡の支配にある。安東水軍は遠くインド洋やペルシャにまで活動を広げており、半島や大陸にも多くの拠点を持っていただろう。

平泉を抜け出した義経は津軽にたどり着いた。そこから義経が向かったのは、京都か、それとも大陸か。いずれにしても、秀衡の描いた極秘のシナリオに従った行動だったのだ。

吾妻鏡は、秀衡の心配をよそに兄弟は結束せず、忠衡は遺命に従い義経を盛り立てようとしたが、泰衡は義経さえ除けば頼朝も手を引くと考え、ついに泰衡が高館に義経を襲ったとされる。しかし、むろんこれは頼朝を欺く茶番であり、死期に際しても頼朝に負けじと強い意志を示した北の王者秀衡の授けた奇策だったのでないか。

義経の死の報を受けても頼朝は平泉を攻め、奥州に手にした。泰衡は敗走の際に命乞いの手紙を頼朝に届けたとされている。しかし、そんな泰衡だったならば、頼みの秀衡が死んでから1年半もの間義経が、風雲急の平泉に漫然と構えて暮らしたはずがない。



そして泰衡の任務は自ずと明白になる。大きな戦略をもって北行する義経が戻ってくるまでの、時間稼ぎなのだ。泰衡たちは、ひたすら待った。義経が海を越えて数万の騎馬軍団を率いて戻るのを。それまで頼朝には足を踏み入れさせてはいけない。義経を差し出せとの単純な要求に、わざわざ大襲撃を演じて最後は義経が火を放って自害した、とまで創作した。鎌倉には焼けただれたニセの義経の首を送った。1か月かけて送ったのも時間稼ぎだ。

弟の忠衡を合戦の末に討ったとされるのも、忠衡の不在を察知されないための、頼朝向けの演出だろう。忠衡は極秘の重大任務で平泉を抜け出したのだ。忠衡は、実は平泉王国が湯水のように使い、その繁栄の元となっていた金鉱の在りかを握っていたのでないか。当時の平泉の金の使い方は桁外れだ。清衡は7千余巻の一切経を中国から輸入するのに約4トンもの黄金を支払ったという。原石1トンから数グラムしか採れないと言われる金鉱石から、精錬機械などのない清衡の時代に、どうやってこれだけの金が取り出せたのか。学者の世界でも藤原氏の金の入手法は謎とされているが、精錬でも砂金でもなく、極めて大規模な金の堆積層(柴金鉱)を握っていたのではないか。そしてそれは、祖先の安倍氏から秘かに伝えられたものではないか。前九年で安倍氏が厨川に滅びる際に、貞任は清衡の母である自分の妹に伝えた。これを妻とした清原氏のもとで成長した清衡は、やがて京に金を贈り奥州での権益を認めさせることに成功する。そして、この柴金鉱はトップシークレットとしてごく内密に嫡男から嫡男へ相伝されてきた。

秀衡はみずからの死後、息子達の内紛を憂慮し、跡目は四男の泰衡に譲ると当時に、長男国衡には自分の正妻を嫁がせたとされるが、実は更に、柴金鉱の在りかを三男忠衡に相伝したと考えられないか。だからこそ忠衡は頼朝進攻間近とみて、泰衡と通謀の上で身を隠したのだ。名のある武将なら仮に味方同士の戦で死んでも、その首の所在ははっきりしているはずだが、それが明確でないこともこれを裏付けると言えよう。そして、忠衡の逃亡は、義経追討を名目にした頼朝の真の狙いが、源氏の父祖代々の夢である奥州黄金王国を制覇することにあったからこそなのだ。


最後の最後まで平泉は一致団結して、奥州の独立を守ろうとした。だからこそ泰衡も屈辱的な命乞いの手紙まで書いた。もし単純にこんな手紙を書く男なら、なぜ秀衡が後継者に選ぶものか。そして、平泉の人々はひそかに、誇り高く、泰衡の首を丁重に納棺したのではなかったか。


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中津文彦さんの文章を参考にして記した。中津さんは一関のご出身だ。
岩手県平泉町のサイト内(私の平泉紀行)に、 中津さんの文章 がある。

■参考 中津文彦『義経はどこへ消えた? 北行説の謎に迫る』1996年、PHP研究所
 4-569-55407-5

■関連する過去の記事(奥州藤原氏・平泉 関連)
聡明なる藤原第四代泰衡 (08年5月19日)
生きよ義経 泰衡と月山神社 (08年5月11日)
奥州藤原氏17万騎消滅の謎 (08年4月29日)
平泉の優位性を考える (07年11月5日)
発進!平泉を世界へ! (07年9月30日)
骨寺村荘園遺跡 (07年2月26日)
都市平泉の予想図 (07年1月28日)
平泉への道 (06年1月11日)
義経伝説と東北の歴史ロマン (05年12月8日)





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最終更新日  2008.05.26 00:09:45
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