仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2009.03.10
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カテゴリ: 仙台
市内の道路は次第に便利なようにつけらえられたが、最も大きな変化は、明治20年の鉄道開通の時であった。
元来、停車場は宮城野の北西端にできる予定であった。しかるにこれを、市の中心に近づけんとして今の場所に引き込んだ。仙台市内で最も代表的な長い通りは、城から榴岡に至る東西に通ずる道と、東照宮から宮町・東六番丁・清水小路を南下する道であった。この東に駅を定めれば良かったのに、宮町・清水小路線を切って、その中間に駅を置いたものだから、仙台の発展計画は、線路によって分断され、東への発展が遅れ、仙台は東と西に二分される結果となった。駅周辺の道路は大いに影響を受け、駅前や新伝馬町は大いに発展したが、大正年間、鉄道踏切が閉ざされると、明治以来繁昌した名掛町東部・二十人町などはさびれた。
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佐々久監修『仙台の散策 歴史と文学をたずねて』宝文堂、1974年

郷土史の大先達である佐々先生が、仙台駅をわざわざ西に引っ張ってきたのは、仙台の町を分断して発展を阻害した下策であったという趣旨のことを記しておられることは、以前にも記事にした。上に引用した文章が、佐々先生の筆かどうかはわからないが、このような見方をしておられたのだと推察する。

政宗が開き、以後累代にわたり市街地を伸ばし、維新で市中の武士が帰農し町がさびれても、なお、第二師団、第二高校などが設置され、近代として再興される仙台を考えたときに、明治半ばの東北本線による東西の分断がマイナスに映るのだろう。

仙台駅が市の中央に存在することを前提にしか発想できない私たちからすれば、仙台400年の大局を弁えた見方なのかもしれない。たしかに、宮城野(例えば現在の貨物駅)が停車場だったならば、榴岡から二十人町、名掛丁、大手町までが長大なメインストリートになって、仙台の従来からの幹線である南北の通りがクロスすることで、名古屋や札幌のように、十分な市街地の面的な広がりが実現できたのかも知れない。

都市構造の面でも、旧市街地は三方が山だから、都市の中心(交通の玄関口)をもっと東の宮城野の側に据えることが得策だった、とも言えそうでもある。

いずれにしても、現時点ではどうしようもない話ではあるが、西側停車場反対の立場にたって、発想してみた。


仙台駅の位置について(その4) (07年8月16日)
仙台駅の位置について・続々 (06年7月15日)
仙台駅のはなし・続 (06年7月11日)
仙台駅のはなし (06年7月10日)
宮城県内の東北本線のルートの話 (05年11月27日)





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最終更新日  2009.03.10 00:03:59
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