仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2009.09.08
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カテゴリ: 仙台
伊達政宗が自ら縄張りして築いた仙台城に入ったのは、慶長8年(1603年)の8月。

政宗公は早速家臣を集めて移徙(わたまし)の式(新築移転の儀式)を行った。祝宴の最中に、城壁を築いた泉州堺の在から来た石工達が即興にスズメ踊りを舞うなど、次々に面白い踊りが続いた。興に乗った公も大黒舞を踊り出した。

これを見ていた財政責任者の鈴木元信がさめざめと泣き出した。政宗公が、めでたい日なのにどうしたと元信を叱りつけると、元信は「殿に期待し、天下を握るまでの財政を立て、金山を開発し、金穀の貯蓄もなし、殿に金銭で心配をかけぬよう努めてきました。それなのに、こんな城一つで大黒舞を躍るとは、情けなくて」と言い放った。

片倉小十郎景綱と、「城ができたとて殿一人の力ではない。景綱はじめ家臣一同が身命を的に、これまで粉骨砕身働いてできた城です」と言うと、刀を抜いて床柱に切りつけた。明治6年仙台城が陸軍により解体されたとき、床柱に刃の跡がしっかり残っていたそうだ。

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慶長18年(1613年)は政宗公48歳。12月15日に公は、大手門脇の茂庭氏仙台屋敷に入り、公の五番目の子卯松丸(うしょうまる)の元服式を迎えた。卯松丸の母は正夫人愛姫。2歳の時から茂庭綱元が後見人であった。儀式の後、公と綱元は昔の合戦を語り合って夜を明かした。

翌日、公の機嫌を伺いに登城していた伊達成実が、茂庭邸でのことを尋ねると、公は、料理はどうも、と返事をした。どのような膳だったかと成実が聞くと、公は、大豆飯にイモノコ汁、それに生鰯の焼き物だったと答えた。あまりに粗末な膳に驚いた成実は、茂庭邸に寄り、失礼ではないかと綱元を叱りつけた。

話を聞いた綱元は、刀を持つとすぐ登城し、政宗公に云った。「殿、お忘れになってしまいましたな。おごりが出ましたな。そのようなお心掛けでは百万石の政治もできませんな」と激しい口調で詰め寄った。

「人取橋の合戦(天正13年、1585年)のとき、殿は一日も早く天下を泰平にして、大豆飯とイモノコ汁と生鰯を腹いっぱい食べたいと言いました。いまこそ泰平のとき、だから差し上げたのです。」



戦国時代の武士は、平時は一日玄米5合を、朝夕2回に分けて食べ、それに塩汁か糠味噌汁だった。大豆は、騎馬一頭に一日3升、駄馬に2升を食わせるので、大豆も大豆味噌も食べられなかった。戦地では消化しやすい白米1升が支給され、塩が十人に1合、雑草や木の実のアクの中和に欠かせない大豆味噌は十人に2合が支給された。

政宗公が食べたかった食事。大豆飯は、大豆を入れた白米の豆飯。里芋は戦国武士には珍重物で、その味噌汁がイモノコ汁。

そして、生鰯。米沢生まれの公は赤鰯(塩蔵鰯)か干物しか食べられなかった。天正11年(1583年)17歳の公は父輝宗に連れられて亘理元宗の居城亘理城を訪れたが、その時食べた生鰯の味が忘れられなかったのだろう。

■文献 逸見英夫、伊達泰宗『独眼竜政宗の素顔』宝文堂、1996年





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最終更新日  2009.09.08 01:07:48
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