仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2010.10.16
XML
カテゴリ: 東北
和算家山口和の東北遊歴(上) (2010年10月16日)より続く)
■佐藤健一『日本人と数 和算を教え歩いた男』東洋書店、2000年 から

(4)盛岡から八戸、下北へ

山口は小山田と別れて、上田村、黒石野村、小鳥沢、川又村と続く。この先は山に囲まれた谷部を北上川が流れ奥州街道が通る。笹平村、越井戸村、狐沢村、渋民村から草下田村の清右衛門宅に泊まり4月19日から22日(この日文政に改元。1818年)まで数学を教え弟子とする。再び奥州街道に出て、芋田、川口、野口、沼宮内、御堂村、中山村、小栗村、一戸村と進む。一戸で本陣の家に泊まる。左右山に囲まれて何日も歩いたが、北上川も消え馬渕川と旅をする。末の松山として古歌にも詠まれた難所の浪打峠を下りると福岡である。

道は左右に分かれ、左は奥州街道、右は脇街道。いずれも八戸に至るが、山口は距離の短い脇街道(八戸街道)を選ぶ。仁左平村、折爪嶽の北麓を西に越え、晴山宿。さらに山を越えて大森村、市野沢村、泥障作(あおづくり)村で宿泊。翌日は八戸藩の中里保太夫を訪れる。中里は八戸藩で数学の達人と知られており、盛岡の小山田を介して会うことになった。

八戸滞在中に五戸村に数学に熱心な者が居ると聞き、八戸から馬渕川を渡り長苗代村、七崎村を通って五戸村の吉田源右衛門宅に行く。息子の幸吉が数学好きで、八戸藩宮川喜左衛門に学んでいた。翌日、山口は吉田幸吉を弟子にして出発の準備をしていると、山口来訪の知らせを聞いてか宮川がやって来て、百石村の伝右衛門に手紙を預かる。八戸北隣の百石村の伝右衛門に宮川の手紙を渡すと、伝右衛門は松坂村の又六への手紙を作って山口に依頼した。

百石村から相坂村で奥州街道に合流し三本木村へ、更に七戸村を抜けると中野、坪、尾山頭を通って野辺地に至る。この間の坪村から半里北の山中に宮があり、宮の下の土中に坪の碑があると土地の人が言う。多賀城にあるのは本当の「壺の碑」ではなく多賀城碑ということになる。坪の碑に言ってみると、板囲いをして保護している。

野辺地本町から、下北半島を陸奥湾沿いに北上する田名部街道に入り、有戸村、百目木、横浜村を経て田名部村に着く。田名部街道はさらに大畑、大間、佐井と続くのだが、山口は街道を外れて5月2日恐山を訪れる。大畑方面に降りて田名部に戻り、街道を逆行した。同じ街道だが南行は野辺地道と呼ぶ。横浜で森田屋五兵衛を探すが箱館に引っ越したと聞かされる。



(5)青森から羽州へ

青森からは奥州街道を古川、沖館と通ると、羽州街道が左から寄ってきて油川村でつながる。沖館からも石江を通り新城で羽州街道に行け、これが弘前方面には近道だ。羽州街道は新城から山道を戸門、白畑、大袋、鶴ヶ坂、山里、浪岡の各村を過ぎ、女鹿沢、増館、水木、榊を経て、藤崎宿手前の中島村で泊まる。この辺は川が多く水に恵まれ肥沃である。

翌5月9日藤崎宿に出て、町田、高尾、賀田(よしだ)、宮地の各村を通り、岩木山神社。ところで、中島村からは岩木川の西を通り岩木山の東から北に回り日本海側の鰺ヶ沢に出るのが楽で早い。しかし、津軽信仰の人たちの岩木山南麓迂回ルート(百沢街道)を山口は選んだ。百沢から常磐野に行き岳温泉に行き、さらに三里先の山中にも温泉があると聞き出かけている。また半里西に行くと枯木平に出て、二里歩くと松代村に着いた。まもなく芦萢(あいやち)村に下り、このまま行けば滝渕村、浜横沢などを通って鰺ヶ沢だが、山口は道をそれて左の山に登り、道なき山を、松代村から二里離れた深谷村にたどり着いた。深谷村からは赤石川に沿って、日本海側の赤石村で大間越街道に出た。

赤石村からは街道を南下し、牛島、柳田、島、関、金井ヶ沢を経て、千畳敷で有名な大戸瀬村に着く。追良瀬村、深浦、岩崎を越え、黒崎村三次郎宅に泊まり、この先の関所に備える。大間越の関所を越え、岩館村、目名潟村で五次右衛門宅に泊まる。風邪を引き高野野村三五郎宅で15日まで休養する。

沼田、須田、落合とつながり向能代村。米代川を渡り秋田一の港町能代に出る。能代大町の惣名主相澤金十郎を訪ねると、相澤と数学の問題の解法について話し合った。翌日、外岡村、豊岡村、羽州街道に合流し、森岳(もりおか)村の又助宅に泊まる。相澤の紹介で数学を教えたようだ。

一日市村を過ぎ、秋田まで行き迦町の幸八宅に泊まり改元を知るのだが、ここで五十ノ目村の小笠原小太郎に会い、羽州街道を戻って、一日市村から一里ほど東に街道を離れた五十ノ目村に案内される。五十ノ目村では、5月18日から7月1日まで長期滞在した。この間、数学を教えてあちこちの村を巡回した。6月15日の村の三王祭の見物している。

7月1日、五十ノ目村を出て、一日市、蛇川、大久保、久保田と歩き、寺内村に着く。ここには羽州街道沿いにある古四王(こしおう)神社に算額が掛かっている。久保田城下では庄三郎宅に泊まる。

(6)鳥海山から鶴岡、出羽三山

由里街道を南下するつもりでいたが久保田から船があると知り、船で川岸の関所に行く。その後海岸の由里街道を松ヶ崎、親川村、石脇村から本庄に渡り、海岸沿いに出戸村、平沢、三森を通り金浦村で泊まる。翌日も海岸を歩き、塩越村で象潟蚶満寺(芭蕉の頃は干満珠寺)に参詣する。文化元年の地震で倒壊し同9年に再建されたから、山口は新しい寺を見ている。地震で隆起した土地を開田する本庄藩の計画に、景色が損なわれると反対したのがこの寺である。夜には塩越村から一里東に入った小滝村に行き泊まる。

小滝口から鳥海山に参詣するが、村に戻るよう懇請されていたので戻って7月4日から21日朝まで滞在する。この間村で数学を教えて回った。

小滝村で弟子にした人々に見送られ、21日、水田風景と化した象潟に出た。羽州浜街道を南へ行き、三崎峠から吹浦村、日向川河口の村で泊まる。酒田では日和山に登る。赤川沿いの酒田街道を歩き、鶴岡城下へ。七日町後藤屋金八宅に泊まる。翌朝、番田村、井岡、柳田、岡山を通って、今の湯田川温泉の手前藤沢村を過ぎた辺りを左折し、山道を登った。山岳宗教の霊山金峯山である。



羽黒山を降りて、鶴岡近くの湯沢村に行く。江戸を出るとき預かった手紙を渡すため、吉田屋甚八宅に泊まる。翌日横山村まで戻り、江戸街道(清川街道)を歩き、藤崎村から清川村に着く。清川関所と4里先の寒河江の間は多くの旅行者は船に乗るが、山口は街道を歩いた。草薙村、吉口村、蔵岡村で泊。最上川を渡り、津谷村、鮭川、岩清水、川口村から右に折れて、下山崎村、西山村、新庄に入る。

新庄には数学者松永貞辰(1751-1795)が山口の訪れる20年ほど前まで住んでおり、弟子3千人を抱えていた。関流の第一人者で新庄藩の江戸詰めだった安島直円の弟子で、新庄に帰って松永塾を開いた。寛政7年に没した後は子の松永直英が引き継いでいた。山口は松永の門人達が奉納した新庄天満宮の算額を写し書いている。

新庄からは羽州街道を鳥越村、舟形宿、猿羽根峠を越え、新庄藩から幕府領の名木沢宿(尾花沢市)に出る。芦沢村から道を西の山際に向かって歩き、大石田村、大久保村、谷地村、西里村、日和田村、慈恩寺から寒河江川を渡り谷沢村で泊まる。翌日、左沢を通り大沼村。無数の浮島が沼の上を移動するという大沼の浮島を見物しようとして、街道からだいぶ脇に入るが、やって来たのだ。浮島稲荷神社を参詣する。

一度左沢に戻り、泊。翌日羽州街道を横切り、水晶山(東根市と天童市の境)に登った後、山元村、貫津村を通り、山寺立石寺を登る。泊の後、東を目指した。二口峠を越えるのは山伏峠越えとも呼ばれ、急な坂道であった。

和算家山口和の東北遊歴(下)





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2010.10.16 18:50:01コメント(0) | コメントを書く
[東北] カテゴリの最新記事


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

PR

×

コメント新着

おだずまジャーナル @ Re[1]:荒巻地区の新町名と宅地開発史(12/14) 荒巻昭和人さんへ コメントありがとうご…
荒巻昭和人@ Re:荒巻地区の新町名と宅地開発史(12/14) 団地名なつかしいですね。広告に使われて…

プロフィール

おだずまジャーナル

おだずまジャーナル

サイド自由欄

071001ずっぱり特派員証

画像をクリックして下さい (ずっぱり岩手にリンク!)。

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: