仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2025.07.24
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カテゴリ: 仙台


仙台藩の罪と罰を考える(その1) (2025年07月21日)
仙台藩の罪と罰を考える(その2 殺人の罪) (2025年07月22日)
から続く

■吉田正志『仙台藩の罪と罰』慈学社出版、2013年 をもとにしています。

5 幕府の正当防衛

現在の正当防衛(刑法36条)
・1項 急迫不正の侵害に対して、自己又は他人の権利を防衛するため、やむを得ずにした行為は、罰しない。


石井良助『第三江戸時代漫筆 盗み・ばくち』の中の「正当防衛はあったか否かのこと」の項では、寛保2年(1742)『公事方御定書』下巻の2つの条文を挙げる。

71条「人殺しならびに疵附けなどお仕置きの事」の中に、「前々よりの例」と肩書きされた一項がある。
「一 相手より不法の儀を仕掛け、是非に及ばず、刃傷、人を殺し候もの  遠島」
これは、相手の不法の攻撃にやむなく刀を抜いて相手を殺した者は、通常の刑罰である下手人(死刑)より一段軽い遠島の刑に処するもの。

72条「相手理不尽の仕形にて下手人にならざるお仕置きの事」において、「享保20年極め(きめ)」と肩書されて、
「一 相手理不尽の仕形にて、やむ事を得ず切り殺し候においては」「相手方親類・名主など、殺され候もの平日不法ものにて、申し分これなく、下手人御免申し出、紛れなく候はゝ  中追放」
これは、相手の親類や名主が相手は普段不法者で切り殺されても仕方なく、切り殺したものを下手人(死刑)にしないでほしいと申し出た場合は、中追放という追放刑にするもの。

この2つを根拠に石井は、江戸幕府では、違法性阻却まではせず刑の減軽があっただけであり、客観主義の刑法観があったからとする。

もっとも、『公事方御定書』下巻には、正当防衛的なものとして、48条「密通お仕置きの事」の一条項(寛保3年極め)に、夫が妻の同意なく家宅侵入した男を殺したときは、夫妻とも構いなし、とするものがある。

石井は、このように『公事方御定書』下巻には正当防衛の思想はほとんどなかったが、実際の裁判例で次第に正当防衛を認める方向に進んだ、とする。次のような判例がある。

・安永1年(1772) 百姓が妻と娘を連れて山道を通ったところ、浪人体の者が理不尽に妻を殺したので、百姓が浪人の脇差を抜き取って浪人を殺した事件で、百姓を無罪とした


6 仙台藩の正当防衛

石井は、上記論文の最後に、仙台藩の元禄16年(1703)『評定所格式帳』には正当防衛といえる制度があると指摘する。

第11条「人殺しの類」第2項に、次の条文がある。
「一 人に慮外仕懸けられ候か、何ぞよんどころなき道理これあり、打ち果たし候は、お構いなし、相手死に損になり申し候、
 ただし、その時の様子により、死罪・流罪・追放などに仰せつけられ候儀もござ候、」
江戸幕府法に比べるとずっと進んだ考え方である と高く評価している。

たしかに、幕府が正当防衛的な法制を認めたのが安永1年(1772)で(おだずま注:上記判例のことか)、仙台藩の『評定所格式帳』はその70年前なので、石井の理解によれば仙台藩はたいへん先進的な正当防衛観を持っていたことになる。

では、上記条文がどんな経緯で生まれたのか。『評定所格式帳』はそれまでの藩の判例や幕府のお仕置きの模様を取り合わせて制定されたとされるが、上記の通り幕府にはそれまで正当防衛的な法制がなかったから、問題は仙台藩の判例である。そこで、仙台藩の正史である『治家記録』から拾ってみる。
(1)慶安1年(1648) 江戸上屋敷での事例。柳生新次郎が草子(本)を読んでいたところ曾根伝作が聞き飽きたと言ったことから喧嘩になり、新次郎が伝作を切り殺した。藩主に報告したところ、新次郎に道理はあるが、届もなく上屋敷で事件を起こしたのは不届きで、切腹を命じるところだが、そもそも伝作の行為が不届きなので、新次郎の身命は助けて国許にいるよう命じた。この事件は、伝作が先に切りかかったか不明なので、正当防衛の判例といえるか問題はあるが、喧嘩についてどちらに非があるか判断しているので、喧嘩両成敗的な処理ではないことに留意すべき。
(2)慶安4年(1651) 馬淵次男平六が荒井次男六太夫を斬殺。平六は切腹すると申告し、覚範寺に入るが、原因を問うと六太夫が平六の前髪を切った意趣だとの答えで、藩主の判断は、平六の行為はもっともなので変わらず奉公せよとのこと。この事件は、些細なことで相手を切り殺した乱暴にも見えるが、ともかく藩主は平六の行為をもっともだと判断したことが注目される。
(3)承応2年(1653) 男色が原因で斬殺した事件。詳しくはわからないが、穿鑿の結果、殺した側の行為はよろしいと判断され身命は助けられた。
(4)天和2年(1682) 石川万太郎の長屋に勅使河原伝八が男色をもちかけたが、承諾しない万太郎に伝八が抜刀して切り掛かり、万太郎が抵抗し、家来の助けも得て伝八を斬殺。疵は万太郎13か所、伝八7か所。審理の結果、万太郎の罪はないと判断された。
(5)貞享1年(1684) 右筆の金成七平が、同僚の宇角喜右衛門から悪口を言われたため、帰宅途上の喜右衛門を待ち受けて切り掛かり疵を負わせた。正当防衛とはいえないが、士に似合わない悪口を言って疵を負う事態を招いた喜右衛門がけしからないこととして斬罪に処せられ(兄に対しても城下十里外住居、また、仇討ちは逆心として一類まで斬罪に処すと通告)、他方、七平には不調法はないとされ奉公を続けるよう命じれらた。
(6)元禄7年(1649) 農民の事件。本吉郡馬籠村の九郎右衛門が婿入りした先で、権七夫婦から理不尽な仕懸けを受けたため、九郎右衛門が権七を突き殺した事件。判決は九郎右衛門は殺人の割にはごく軽い一村追放の刑。権七妻は、四郡追放という重い刑。つまり、農民の場合は全く罪を問われないのではないが相当減刑されているといえる。

以上が、『評定所格式帳』制定以前の判例。これらをもとに、『評定所格式帳』第11条「人殺しの類」第2項の条文を考えてみる。第一にいえるのは、(4)を例外として、どうも急迫不正の侵害はなく、悪口や男色など現在からみれば些細な原因で殺人が行われ、そして罰せられない。つまり、おそらく 武士の名誉や体面を傷つけられたことが原因ととらえた方が良い だろう。

第二に、一例だけの農民の場合は、急迫不正の侵害の有無は不明だが、理不尽な仕懸けに対抗した殺人は、軽くとも一応刑は科せられた。この対応は武士の事例とは明らかに異なる。

まとめて評価すると、『評定所格式帳』の上記条文は、石井が幕府法よりずっと進んだ考えと評価したが、 仙台藩には武士はやられたらやり返せの思想が強烈にあって、切り掛けられたときはもちろんだが、些細なことでも名誉や体面を傷つけられることが「慮外」や「よんどころなき道理」との言葉で表されている のであり、決して近代刑法の正当防衛ではなく、むしろ古い武士道の表れといわねばならない。

『評定所格式帳』制定以後の判例はどうか。『治家記録』のほか『仙台藩刑罰記』から探ってみる。
(7)宝永4年(1707) 宍戸善助が争論して岩淵吉之助を斬殺。審理の結果、やむを得ない事情(急迫不正の侵害への防衛かどうかわからない)があったため罪に問わないとされた。
(8)延享3年(1746) 小川利右衛門が貸し金に関する約束を変じたのを、小田嶋弥源太が士に似合わないことだと言ったところ、利右衛門が急に切り掛かってきたので対抗して弥源太が利右衛門を殺害した事件。利右衛門の行為は理不尽で、弥源太の行為は重科だがやむを得ないこと明白なので、宥免して蟄居とした。違約や武士らしくないなどの争いの根元はともかく、急に切り掛けられて対抗した点のみをみれば、正当防衛的な面があると思われる。
(9)寛延1年(1748) 荘子彦三郎の妻が家僕にAA【おだずま注、楽天ブログによりわいせつもしくは公序良俗に反する表現とされるので伏字にした。刑法177条の罪名。】されそうになり家僕を斬殺した事件。藩主が妻の節義に感じたとされるので、妻の罪は問われなかったと思われる。貞操を守って天晴という点などはともかく、急迫不正の侵害への正当防衛的行為と言えよう。
(10)宝暦9年(1759) 加美郡志津村の百姓の妻が伝九郎に脇差をのどに押し当てられAA【同上】されそうになったが、妻はその白刃を奪い取り逆に伝九郎に疵を負わせて身を守った事件。妻は傷害の罪を問われず、死を顧みず貞操を守ったとして金三両の褒美を授けられる。伝九郎は島奴。現在でも十分に正当防衛が成立すると思われる。
(11)宝暦13年(1763) 伊具郡木沼村の山伏千光院が飲酒しているところに大石宇治右衛門が来て、酔って無礼な振る舞いに及び、割木で千光院を打とうとしたり白刃を振り回したため、千光院が自分の刀で宇治右衛門を刺殺した事件。理不尽な宇治右衛門の攻撃にやむを得ずした行為として、千光院は構いなしとされた。

以上の11の判例から、武士の名誉な体面を汚されたことへの反撃を当然視する古い武士道思想の土台の上に、18世紀半ば頃になると、庶民についても理不尽な攻撃に反撃して、貞操なり身体なりを守る行為の罪を問わない事例がみられるようになるので、これを正当防衛的思想の発現とみれば、仙台藩は、石井の言うように70年も早くとは言えないにしても、 少なくとも20年から30年ほど幕府より早く正当防衛を認めたということができる だろう。

幕末期の仙台藩刑事法を示す『刑法局格例調』でも、「殺人の類」の一項として、
「一 無礼の挙動に及ばれ候か、何ぞよんどころなき筋これあり、人を手殺し候者は、構いなく差し置き候事、」
とあるので、18世紀半ばの状況が維持されたと思われる。もっとも、この条文は無礼討ちを認めたもので正当防衛そのものではないかもしれないが、無礼討ちは正当防衛のうち武士の特権と言えるので、広い意味で正当防衛の規定と考えてよいだろう。

このように、近代刑法の急迫不正の侵害に対する正当防衛と比べると、 名誉や体面や妻の貞操など封建倫理に対する侵害への反撃が認められたという側面が強い が、 その一環として一般的な急迫不正の侵害への正当防衛も容認した というのが仙台藩の態度だったと言えると思われる。
(ただし、武士については、正当防衛か否かにかかわらず、とにかく、やられたらやり返せ、というのが仙台藩が家臣に要求した態度であったことが指摘される。→次の項へ)

仙台藩の罪と罰を考える(その4 喧嘩両成敗) (2025年08月03日)に続く

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最終更新日  2025.08.19 22:26:32
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