全8件 (8件中 1-8件目)
1
私のようなぐーたらサラリーマンでも年度末は忙しい。 システム構築というのはたいてい年度の切れ目にあわせて入れ替えたり、新サービスを始めたりする。 年度末とかGW明けとか9月末とか年末年始なんかは、システム屋は猛烈に忙しくなる。もちろん、休日は無い。他人が休んでいるときに働くのがシステム屋さんですから。 今年は年度の切れ目で稼動するシステムではないけれど、会社の年度決算があるので、事務処理が多い。これも結構大変。事務処理を簡素化するため、社内システムもあるが、逆に煩雑になった気もするし。 年度の切れ目でスタートするシステムを抱えた連中はなおさら大変だろう。私も経験があるが、納品物を揃えるのと、システム動かすのとどっちが大事だと思ってるんだ!と会社に言いたくなる。(計画性がどうのとかって言われるのがオチなんだけれど) 一番つらいのは、年度の切れ目の退職者で、送るほうも忙しいから満足にお別れを言うこともできない。知らない間に辞めていて、後で知って驚くこともしばしば。そんな職場なんですよ、SE会社ってのは。
2006年03月29日
コメント(0)
さて、ここまで比較してみて、指揮者オザワの成長を思わずにはいられない。シカゴ響とはまだ珍しい東洋の若い指揮者がチャイコフスキーをどう演奏するのかという期待に応えて自分のありったけを出すべく挑戦している。曲の要素を誇張することでスコアの読みをアピールしているのは若きマゼールに似ているが、マゼールは時としてアイデア倒れになってしまうところを、小澤は持ち味の爽やかでしなやかな音楽性で明るいチャイコフスキー像を打ち出しているところが爽快だ。 やがてボストン響の音楽監督となり、満を持した再録音では自己アピールの時代を過ぎ、自分の考えた音楽を貫き通している。ここにはある種の余裕と自信が感じられた。 ベルリンやウィーン他での活躍で「世界のオザワ」と言われるようになり、一時はカラヤンの後継者とも言われた小澤は天下のベルリンフィルを相手に自分の持ち味に経験を加味して己の音楽を展開している。 今回の比較試聴で気付いた共通したスタンスは「楽譜に忠実であること」。 たとえソロであってもスラー(2音をつなぐ記号)やスタッカート(音を短く切る記号)などは忠実に再現しつつ、歌わせている。当たり前と思われるだろうが、結構いい加減な演奏も多い。もしそれを(演奏)伝統というなら悪しき伝統と言うべきだろう。小澤は日々楽譜と対峙しているので、こうしたミスは犯さない。西洋音楽の歴史が浅い日本人としてはこうする以外に方法がないのかもしれないけど。 チャイコフスキーもロシアの職業作曲家第1号として周囲の期待を一身に受けていた。日本からするとロシアも西洋の一部と思われるが、スペインや北欧と同じく、音楽的には「辺境」なのだ。チャイコフスキーはドイツ音楽の音楽構築を学習し、独自の音楽語法を追求していった。その過程でロシア民謡などを取り入れてはいるが、ロシア5人組のように民族主義を前面に押し出すのとは違う。彼は「音楽の普遍性」を目指し、第5番はそのひとつの回答なのかもしれない。 ドイツ音楽のようなかっちりした形式による普遍的な交響曲。が、彼が意識しなくても滲み出るロシア的な魂、ほの暗い叙情性。ロシア人指揮者はこの叙情性に寄りかかったロシア臭さが勝り、ドイツなどの西洋指揮者は形式に重きを置いても何かが物足りなく思える。ここに第3の眼を持った演奏家が登場する。 日本人はチャイコフスキーを構成よりも先に、北国的「情念」の音楽として聞いている。そしてチャイコフスキーと同様に西洋音楽の構造を明治以来、学習してきた。 「形式と叙情の拮抗」または「形式(=西洋音楽的語法)へのコンプレックス」をもつチャイコフスキーを「情念」という眼で捉え直すと、チャイコフスキーが悩みぬいたひとつの回答が見えてくる。 小澤もまた西洋音楽の中心から見れば「辺境の地」日本より「形式」を学習して欧州にやってきた。チャイコフスキーの持つコンプレックスと同じものを背負って。小澤は日本的な情念を持ち前の清潔なカンタービレに乗せてチャイコフスキーのコンプレックスを解放して見せ、我々に熱い感動をもたらせてくれる。 私はこれらの演奏に、大きなコンプレックスを背負いながらも常にチャレンジを続け、今のポジションを得た小澤というひとりの日本人の生き様を聞き胸を熱くしている。 ・・・と、ここでWBCで王ジャパンが決勝進出を決めました。2敗していた韓国に熱い戦いの末の大勝、ほんとうにおめでとうございます。
2006年03月19日
コメント(0)
![]()
シカゴ響(RCA) 録音年月:1968年8月9日 録音場所:オーケストラ・ホール、シカゴボストン響(DG) 録音年月:1977年2月 録音場所:シンフォニーホール、ボストンベルリン・フィル(DG) 録音年月:1989年4月25~26日 録音場所:フィルハーモニー、ベルリン-------------------------------------------------------------------- 小澤のチャイコフスキーは私にとっては刷り込みになっている。特に初めて聞いた5番が小澤=ボストン響のLPだった。悲愴は初めてではなかったが、パリ管のLPは何度も聞いた。 小澤はチャイコフスキーが好きで得意とし、また評価も高いらしい。録音キャリアの中で後期3大交響曲を3回録音している。3回というのは稀で、他に運命、オケコン(バルトーク)、シエラザード、DVDも含めれば春の祭典もそう。いずれも得意曲ばかりだ。 (マーラー復活も新日本フィル盤があるらしいが、限定盤なのでカウントしてない) 今回は3種の録音を聞き比べながら、小澤がチャイコフスキー演奏で目指したものを検証しよう。 ~第1回録音~ この演奏の特徴を物語る一例として、第1楽章練習番号Nの前、低音でターラターラという音形を強調しているところを挙げる。この音型はその後も強調している。全体に各要素(モチーフとか音型とか)の対比を強調しているのが特徴だ。ヴァイオリンとチェロがモチーフの掛け合いとか木管群が上下行の音階とか。チャイコフスキーの音楽で特に重要な「バス(低音)進行」もはっきり聞こえるようにしているが、オケが付いていけてないのか影に隠れてしまう。ダブルベースには努力賞を贈呈しよう。 あるいは第4楽章練習番号Vの前、木管による第2主題の裏でトランペットとホルンが上昇音形を吹いているが、この演奏では譜面のmf指定よりははっきりと吹かせている。これは後の録音では聞かれない強調だった。 この他にも曲の構造や仕掛けの面白さを強調した箇所が散見される演奏だが、逆に言うとちょっとイケイケで表情が硬く感じる。例えば表情記号(<>やsfなどのアクセントなど)は忠実だが、「スコアに書いてあるからこうしました」みたいな感じで表現としてのあるいは心からの共感にまでは至ってないようだ。第2楽章練習番号Iから3小節目、第2主題が全奏fffで歌われる直前のリテヌートはアンサンブルを心配したのか形だけのリテヌートで続く第2主題の輝かしい情熱的な歌があまり生きていない。のちの演奏では、リテヌートによるタメが効いて第2主題の歌が俄然盛り上がっている。 ひたすら楽譜だけを頼りに自分の音楽観を提示してみせた点は凄みさえ感じるほど新鮮だが、聞く者の共感(感動)にまでは至っていない面もある。気合充分な演奏だしカンタービレは清潔で好感がもてるだけに残念だ。 ~第2回録音~ まず最初のクラリネットソロからして、シカゴ響の直線的な歌とは違い、よりふくよかで柔らかな歌が聴かれる。たっぷりしたホールトーンの美しさと当時のボストン響の重量級だが美しい音、各人の力量の素晴らしさ。それに小澤の特徴である、しなやかなフレージング、決して汚くならない響きへの潔癖な志向がマッチした、爽やかで柔らかく暖かいチャイ5を生み出した。一言でいうなら「歌への志向」の演奏だ。 シカゴ響で問題だった表情の硬さが取れ、ひとつのフレーズあるいはひとつの表情記号も自分なりに消化した感じがする。メロディーの歌わせ方から言うと、例えば第1楽章練習番号Hの直前、第2主題をVnが歌い終わるところ、F#からAに音が上るところでポルタメントをしている。小澤は他の演奏でここでポルタメントを許していないだけに妙に目立つ。これはオケの自発性によるのか小澤の指示なのかは不明にしても、このメロディーがとても幸せなうれしくなるような演出だけに、特筆しておきたい。 さらに第2楽章練習番号HのPiu Mossoからの木管の第1主題の歌い方、そのテンポはまるで空を自由に飛びまわっているような爽快な気分にさせてくれる。こんなやり方は他の指揮者では絶対に聞かれない小澤独特な感覚だ。シカゴ響ではまだ鈍いテンポで、これもオケの腰の重さかと思われるが、手兵との録音はさすがに自分の音楽を徹底させることに成功したようだ。第2楽章といえば、曲の終わりにクラリネットソロが「お話はこれでおしまい」と締めくくるが、この味わい深さはシカゴ響にはなかったさりげないけど素晴らしい演奏だ。 反面、シカゴ響で聞かれた構造や曲の仕掛けの面白さはかなり後退した。要素の強調ははっきりせず、その分歌い込みに時間を費やした感じだ。チャイコフスキーで重要なバス進行もはっきりと聞こえないのは、マスタリングのせいだろうか(私は小澤名盤1200というシリーズで聞いた)。私はこの曲をこの演奏で聞いてきただけに、このCDから受ける印象はLPのときとはちょっと違うように感じる。いずれリマスタリングされたらまた聞いてみたい。 ~第3回録音~ さて、上記2回に比べて圧倒的に素晴らしいのはこの演奏だ。まずベルリンフィルのうまさに惚れ惚れする。ソロの巧みさ、アンサンブルの精巧さ、どんなにかっちりしたテンポの中でも自由に歌いこめる各人の力量の凄さ。 ここで小澤は上記2点の欠点を見事に克服し、小澤の志向するチャイコフスキー演奏ができているのではないかと思われる。ベタベタしないがよく歌うメロディー、曲の要素のさりげない強調、バス進行もちゃんと聞こえる。全てが自然でありながらきっちりと小澤の意思が感じられる演奏だ。 例えば、第1楽章練習番号BからDへ進むところ、第1主題を歌ってから最初のクライマックスへ進むところはブルックナーのようにじわじわと盛り上げていく。これは以前には聞かれなかった新しいやり方だ。このように各楽章の山となる部分への盛り上げ方も強い意志をもってまっしぐらに進んでいく。 と、こう書くとBPO盤で決まり!となるが、気に入らないところもある。まず、BPOはうるさい。個人の力量がすごいのは認めるが、楽器が絡み合うところなどは「我々も我も」とでしゃばってくる。まるで小学校の教室みたいだ(笑)。これじゃあ、先生(指揮者)も静かにさせるだけで授業(演奏)にならないだろう。 ボストン響は力量的には劣るかもしれないが、オケとして出るときは出て、引っ込むときは引っ込む、大人の演奏だ。これを大人しいという向きもあるかもしれないが、私には好ましく思えた。 ティンパニーも同様な傾向で、ボストン響より雑な叩き方が耳障りで、こいつチャイ5を馬鹿にしてるんじゃないの、と文句の一つも言いたくなる。ここはボストン響のE・ファース(サイトウキネンでも叩いている)の繊細な名人芸に軍配を上げたい。 さらに、ラストのジャジャジャジャンという終わり方。小澤はこれまでインテンポであっさり終わらせていた。が、このBPO盤だけ、ジャ・ジャ・ジャ・ジャン!と重く終わらせている。小澤の嗜好から言えば絶対ここは走り去るようにインテンポで終わるはずだ。BPOに押し切られたのだろうか。(続く)シカゴ響との演奏を含む小澤30代の名演集。持ってて損はないです。ボストン交響楽団との演奏。ゴールドCDだから音いいかも。ベルリンフィルとの演奏。カプリングは序曲1812年。
2006年03月18日
コメント(0)
普通のクラシック音楽愛好家の方はブラジルの国民的作曲家エイトル・ヴィラ=ロボス(1887-1959)のことをどれだけ知っているのだろうか。私はこの名前を聞くと、太い眉、大きなギラギラした眼、大きな鼻をした彼の顔とでかい葉巻を思い出す。強烈なインパクトのある顔つきだ。 創作数1000曲と言われる多作家で、ラジオドラマを聞きながらスコアを書いてしかも筋を全部覚えていたという逸話もある。ただしせっかく作った曲を他人に渡したきりで紛失してしまったものもあり(もったいない)、その全容はまだ掴めていないという。 作曲ジャンルも多彩で交響曲12、ピアノ協奏曲5、チェロ協奏曲3などの協奏曲(ハーモニカ協奏曲なんてのもある)、バレエを含む管弦楽曲、オペラ、ピアノ、バイオリン、チェロ、それにギター曲などの器楽曲、弦楽四重奏曲18を含む室内楽曲(神秘の6重奏曲なんのもある)、歌曲(これがまたかわいらしい)、合唱曲などなど・・・・ああ、お腹いっぱい! ハリウッド映画「緑の館」(ヘップバーン主演)の音楽も担当した。 彼は正規の音楽教育を受けず、ほとんど独学。10代の頃、ギター片手に親に逆らってリオの下町の音楽仲間とショーロの合奏に明け暮れていた。ショーロは「民衆的なセレナード」と説明されているけど、メキシコのマリアッチみたいなものか(間違ってたらごめんなさい)。ショーロは器楽合奏の形態だけど、時折ひとつの楽器がソロを取り、また次の楽器がソロをと即興的な面も持つ。ジャズセッションに近いのかも知れない。この体験が後に、重要な作品群である「ショーロス」全14曲(No.13,14はスコア紛失)につながっていく。 20代ではアマゾンの奥地へ探検して、そこの原住民(インディオたち)の歌を採取している。 後に音楽院で教育を受けるも「既に知っていることばかり」とすぐに中退。「私は対位法というものをバッハとリオの音楽家(ショーロ仲間)たちから学んだ」と言ってるように、他の作曲家のスコアと実地の経験から音楽の何たるかを体得していったのだろう。まあいずれにしてもすごい人だ。 彼の音楽の特徴は、それまでの音楽にはない独創性にある。正規の音楽教育を受けていないこともあり、自由な音の扱い、和声も新鮮、よって大変野生的、でもピュアで素朴、どこか人懐っこさもある(彼の人柄そのもの)。 ところで、クラシック・ギターを弾く人にとって、彼は「なじみ」の作曲家だ。12の練習曲、ブラジル民謡組曲、5つの前奏曲、ショーロス第1番、ギター協奏曲・・・どれもが素朴な味わい、美しさ、独創性を併せ持ち、豊かな世界を我々にもたらせてくれる。ギターのためにこんな素敵な曲を書いてくれた有難いお人なのである。 ことに練習曲はギタリストを目指す者なら必ず弾かなければならないピースで、前半6曲のメカニカルと後半6曲の音楽表現の難しさはショパンの練習曲に匹敵する。 弾くとわかるんだがこの人はギターを知ってるし、さらに「こんなことやっちゃうんだ!」と驚きもある。左手の運指を変えずにポジションひとつずつ落としていくだけで、不協和音もなんのその、ぶっとい音の流れを作る練習曲第1番などは楽譜を見ると難しそうだが、やってみると(教えてもらうと)とっても簡単だったりする。おそらく他の楽器もそうなのだろうと思われる(何しろほとんどの楽器が弾けたらしいから)。前奏曲第1番の野太い歌、洒脱なワルツの第5番などいい曲ばかり。 大抵のギタリストは録音してるし、どれもいい演奏であるが、ここは昔親しく居酒屋で飲んだ思い出に、福田進一さんのCDをお勧めしておく。福田さんのギターは深刻ぶらずに明るく楽しい(人柄が出てるなぁ)。もうすぐラテン曲集の新盤も出るそうなのでそちらも楽しみだ。ヴィラ=ロボス:ギター曲全集 福田進一(g)
2006年03月12日
コメント(2)
デパ地下の楽しみと言えば「つまみ食い」。菓子類から漬物まで試食させてもらう。一周すればお腹いっぱい・・・なんてことはないが、爪楊枝の先ほどの量でも数をこなせば結構満腹感は得られる、かも。 もっとも私はおいしいと思ったら、ちゃんと買いますよ。特に気になるのが地方の名産物販売コーナー。ひと頃沖縄物産展が流行ってよく行ってみたが、いまは普通に沖縄料理や菓子が手に入るようになった。特に「スッパイマン甘梅一番」は好きでよく買う。 クラシック音楽CDを聞くにも私はときどき「つまみ食い」を楽しんできた。今まで小澤のCDを中心に行ってきた、「音盤比較」がそれだ。 ある曲の好きな部分、たとえば第1楽章のこのオーボエとクラリネットの掛け合いがたまらねぇとか、展開部から再現部に入るところが最高にかっちょいい!とか、そういうこだわりの箇所をいろんな演奏で聞いて比較している。同じ曲なのに何でこうも違うのかといろいろ発見があって楽しい。 例えば、今まで何だか冴えない演奏家だなと思っていたら実は自分がこうして欲しいと思っていた通りに演奏してくれて一転ファンになったり、巷間評判の良い演奏家が自分のこだわり部分をさっさとすっ飛ばしててがっかりだったなど、など。時には自分が考え及ばなかったようなやり方でこだわり部分を処理してたりすると、こりゃもう天才じゃ、と興奮するやら感服するやら。もう、目から鱗状態、尊敬のまなざし。。。。 こういう、「つまみ食い」をするにはある程度その曲を聞き込んでいないとできないけれど、きっと皆さんにもひとつやふたつ、こだわりの曲のこだわりの部分があるはず。ぜひ一度クラシック版「つまみ食い」、お試しあれ。
2006年03月08日
コメント(0)
![]()
シベリウスの5番はよく聴く曲だ。マーラーみたいに長くないし、適度に迫力あるし、かといって2番みたいな愛国心丸出しでもなく、抽象と華やかさ、叙情性が同居していて心地よい。 さて、この曲の初稿版が録音されているが、これを聴くと現在我々が耳にしている形とはかなり様相が異なる。特に顕著なのは、第1楽章と第2楽章が分離している点だ。現行版は第1楽章で派生した「うねうね音形」が次の第2楽章を飲み込んでしまい、ひとつの楽章となっている。 もともとこの曲はシベリウス生誕50年を記念した演奏会の目玉で、指揮も作曲家自身が受け持った。結果は成功だったらしいが、作曲家は気に入らなかったと見え、2回の改訂の末、現行版が完成した。 現行版は鍛えに鍛えた日本刀のような厳しさ、夢幻な広がり、不思議な暖かさがある。彼の独創性を表していると言えよう。 好きな曲なので録音も多く持っている。一言メモ程度だがを書き留めておく。--------------------------------------------------------------------1.C.ディビス=ロンドン響 この人、正統派というイメージがあるが、この演奏を聴いて何も感じない。確かに、イギリスのシベリウス演奏の伝統を踏襲している。雄渾でしなやか、スケールも大きい。でも、何かが違う。 旧録音(ボストン響)は音が厚すぎてぼけた感じだった。 2.ラトル=バーミンガム市響 ラトルのデビューCD(フィルハーモニア管)では清冽で勢いのある演奏だった。バーミンガム市響の演奏は練りに練った演奏で、細かい表情を積み重ねてクライマックスを築く。 フィナーレのコーダ前でうねうねした箇所のこれからどうなるんだろうという不安感とその後の輝かしい大団円的幕切れでの開放感。うまい!3.マゼール=ピッツバーグ響 ウィーンフィルとの旧録音は未聴だが、これはこれでなかなかいいと思う。北欧のイメージからは程遠いが、ひとつの交響曲として聞けばこれほど立派な演奏はお目にかかれまい。 スケール大きく、ダイナミック。切れ味抜群のリズム。4.ベルグルント=ヘルシンキ・フィル この人は作為的なことは何もしてない。ラトルのような緻密な表現とは正反対な演奏だ。しかし手の内に入った表現、圧倒的雄渾さ。ラトルが手弱女ぶりなら、こちらは益荒男ぶりといったところか。5.ベルグルント=ヨーロッパ室内管 この新録音はオケの機能性において、上記演奏をはるかに凌いでいる。基本は変わらず、ただオケの優秀さで指揮者の意図がより明瞭になった感じがする。益荒男ぶりは健在だ。6.ユッカ=ペッカ・サラステ=フィンランド放送響 サンクトペテルブルグでのライブ録音のせいか、感興とノリがいい。現代的スマートさと自分達の音楽であるという自信がすばらしく繊細で輝かしい演奏になっている。ラストの開放感は北国の春を思わせる。我らの時代のシベリウス。大推薦!7.バーンスタイン=ウィーンフィル ウィーンフィルを自在に操って、己の音楽を演奏したレニーは20世紀の大指揮者であったことは否定できまい。この演奏はシベリウスとも北欧とも無縁なものになっている。だがスコアに書かれてある情報の全てを聞かせてくれる。例えば、第1楽章で弦楽の「うねうね音形」が大きな波を作り出し、ついには本来2楽章になるはずだったスケルツォを飲み込んでひとつの楽章にしてしまう様を見せて(聞かせて)くれたのはレニーだけ。 しかもこの「うねうね」がラストでは巨大な感動の波となって再び現れる。この解釈は凄い、凄すぎる!
2006年03月05日
コメント(4)
小澤は若い頃から毎年コンスタントに録音しているが、集中的に録音を量産していた時期もあることに最近録音年表を見ていて、気付いた。 1969年はシカゴのラヴィニア音楽祭出演に合わせたRCAとEMIでの量産期。77年はグラモフォンとの最初の量産期だ。81年はフィリップスとテラーク、83年はEMI、89年~93年はフィリップス、グラモフォンにSONYまで絡んだ怒涛の録音年だ。これらは録音契約にもよるのだろう。 それぞれの時期に名盤もあるが、特に注目したいのは77年のグラモフォン体制による量産期だ。この年、小澤は6枚のLPを録音しているが、どれも名盤揃いなのに驚く。(どれもボストン響。発売時期は異なる) 1.チャイコフスキー:交響曲第5番 2.ブラームス :交響曲第1番 3.武満徹 :カトレーン、鳥は星型の庭に降りる 4.R=コルサコフ :シェエラザード 5.マーラー :交響曲第1番「巨人」 6.レスピーギ :交響詩ローマ3部作 よくもまあこれだけの録音をどれも充実した演奏で成し得たものだと感心する。心身ともに充実させる「何か」があったのだろうか。年表を紐解くと、前年12月に母さくらさんと兄とともに35年ぶりに中国を訪れているぐらい。これが小澤の心に何かをもたらしたのか。 もっともどれも小澤の得意な曲ばかりなので、充実しているのも当たり前なのかも知れないが。 これらの録音についてはいずれまた書くつもり。今日は予告編ということで。
2006年03月03日
コメント(0)
![]()
サイモン・ラトル指揮ベルリン・フィル 録音年月:2002年9月7日~10日 録音場所:フィルハーモニー、ベルリン-------------------------------------------------------------------- サー・サイモン・ラトルといえば、今やクラシック界に君臨する若き帝王であり、将来の指揮界を背負って立つ(もう背負ってるけど)逸材である。 彼のことはある音楽雑誌に写真入りで紹介されていて、CDデビュー前から知っていた。カーリーヘヤーのスリムな若者がイギリスで旋風を巻き起こしているという内容だった。 しばらくして発売されたデビュー盤「惑星」「シベリウス/第5交響曲」で私は完全に魅了されてしまった。とても26歳の仕事とは思えない、思慮深さと緻密な演奏設計、決して若さだけで押し切ろうというものではなかったからだ。 1985年の初来日はTVで見た。メインはシベリウスの第2交響曲だったが、きびきびとした動きながら、歌うところでの思い切ったリタルダンドなどに彼の自己主張を聞いた気がした。 ラトルのライブ初体験は1987年手兵バーミンガム市響との来日で、メインはマーラーの「巨人」。ものすごく感動した。終演後、オケが舞台から去っても拍手は鳴り止まず、ひとりラトルが登場、譜面台のマーラーのスコアを頭の上に掲げて、マーラーを称えたパフォーマンスは演奏とともに今もって忘れられない。 さて、それから20年近く経って、ベルリン・フィル(BPO)という天下の名器を手中に収めたラトルだが、最近の演奏は90年代に比べてあまり面白くない。ここではBPOへの就任披露となった「マラ5」を、前回と同じ部分で聞き比べてみよう。1.冒頭トランペットソロはわりと明るい音色で進んでいく感じ。全奏直前はディミュニエンドでもクレッシェンドでもなく、ロングトーンに近い。 気持ちはクレッシェンドだけど、楽譜は小さくなっていくから間を取って・・・というわけでもないだろうが、中途半端な印象。 続くダダダダンも全て4分音符に聞こえる。ただし反復されるときは2分音符であることを強調している。2.大太鼓は聞こえない。省略したのか?それとも、彼が使用したマーラー手書きのスコアにそう指示されているのかは不明。3.コラール最後の小節はPesante(重々しく)なのだが、むしろ軽やかに次のコーダに突っ込む。音量調節どころではない忙しさ。 歌う部分でのテンポの落とし方、反復して主題が再現されるときのアクセントの変え方など、ラトルらしいマニアックな方法論は健在。しかし、奏者任せなのか指示が不徹底なのか、バーミンガム市響とのディスクと比べて細部の詰めが甘いと感じる。全体的にテンポの落差によって推進力を得て、そのなかにあって歌への耽美的な傾斜もあり、でも細部にこだわった強調もありであまりの情報過多に眩暈がしているうちに終わってしまったという印象が拭えない。 ラトルのこれまでの録音は人気に任せたやっつけ仕事ではない、仕事の丁寧さが魅力だった。彼一流のこだわりをもった手仕事感覚。鋭敏な耳と高速回転しているであろう頭脳、時折見せる狂気、それを十全に伝達できるコミュニケーション力。これらの要素が丁寧に織り込まれていた。だが、今回のマラ5に限っては「空振り」した感じがしてしかたがない。 楽譜に関して、ラトルは作曲者が1911年ニューヨーク・フィルでこの曲を振ったときに使用したスコアに基づいているとしているが、現行マーラー全集とどれだけ異なっているのかよくわからないので、2.については保留とする。 就任早々から自分流をかましているところはすごいと思うが、この時はオケもまだラトル流を充分飲み込めていなかったんではないかと思われる。 BPOも彼のこだわりを理解し、何年かして再録音して欲しいものだ。 なおDVDではこのような細部に気を遣うこともなく、ラトルのきびきびとした指揮ぶりと豊かな表情を見ながら、感動のステージを味わうことができる。国内盤はおまけがついた2枚組みDVDならこちら
2006年03月02日
コメント(2)
全8件 (8件中 1-8件目)
1
![]()

