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最近、小澤とウィーン・フィルとの録音が無いなか、唯一出たのがベンヤミン・シュミット(vn)/コルンゴルト:ヴァイオリン協奏曲ほかの2004年録音。実はまだ聴いたことないです。曲自体はなんだか甘い旋律と派手なオーケストレーションで、まるでハリウッド映画みたいだが、それもそのはず。 エーリヒ・ヴォルフガング・コルンゴルトは1897年オーストリア生まれ。早くから音楽の才能を発揮し天才少年ともモーツァルト以来の神童とも言われたが、歴史の波に飲まれてアメリカに亡命、ハリウッド映画の作曲に携わる。本人はグランド・オペラばりに凝りに凝って(ライトモチーフ手法とか)作曲したのだが、そういった面は全く理解されず、いつの日かクラシック界に復帰する夢も叶わぬまま亡くなった、ある意味不遇の作曲家。この協奏曲もいくつかの自作の映画音楽からの転用でできているのです。 と、そんなことはどうでもよくて、この近年唯一のVPO録音であるこの曲を、こともあろうにゲルギエフと再録音しようってんだから、いったい何を考えてるんだか、このウィーン・フィルめ! ヴァイオリンソロはニコライ・ツナイダー、ブラームスの協奏曲も録音するらしい(SONYレーベル)。 ドヴォルザークの交響曲もチョン・ミュンフンと、アルプス交響曲はティーレマンと録音しなおすし、まるで小澤との録音をパージしようとするかのごとき、この仕打ち。これが伝統とか格式とかを守ろうとするウィーンの抵抗勢力の実態なのだろうか。 ウィーンの底意地の悪さに辟易とするが、小澤はこんな所へ単身乗り込んで行ったのかと思うとぞっとする。そりゃ病気にもなるわなぁと、同情しきり。
2006年12月17日
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地下鉄の車中で外国人の赤ん坊を見かけた。母親(ドイツ人かな)に抱っこされて、珍しいのかきょろきょろしていた。ふたりの隣に坐っていたお婆さんをしばらくじっと見つめていたら、気づいたお婆さんはにっこりその赤ん坊に微笑みかけた。赤ん坊はうれしくてしょうがないという顔をする。もう一方は若いサラリーマンだった。赤ん坊はまたじっと見ていたが、若い男は不慣れなのかそっぽを向いてしまった。赤ん坊は母親を見る。母親は愛情いっぱいに見つめ返す。赤ん坊は安堵したように母親の胸に顔を埋め、そしてまたお婆さんを見つめる。そんなことをその赤ん坊は繰り返していた。赤ん坊から見れば、誰もが自分に向かって微笑んでくれている。そっぽを向いた若いサラリーマンにだって赤ん坊の頃は誰もが微笑んでくれていたはずだ。けれどもみんな年を追うごとにいろんな目にあって、そのことを忘れてしまったんじゃないか。でも思い出して欲しい。誰にでも世界は微笑みかけていたことを。そして、今でもあなたに向かって世界は微笑みかけていることを。モーツァルトの音楽には何かこういう微笑みが感じられる。モーツァルトの音楽に世界が微笑みかけ、聴いている全ての人たちに微笑み返す。200年以上経った現在でも。どんな所に住んでいようと、どんな人種であろうと。小澤さんの挑戦とはこういうことではないか、という気がしている。 小澤=水戸室内管のメンバーによるモーツァルトの協奏曲集「のだめカンタービレ」で黒木君がコンクールで吹いた(であろう)R.シュトラウスのオーボエ協奏曲も収録。
2006年12月07日
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「休養は神様から」小沢征爾さん力強くリハーサル公開 指揮者の小沢征爾さん(71)は5日、水戸市の水戸芸術館で、音楽顧問を務める水戸室内管弦楽団の定期演奏会のリハーサルを小学生に公開した。 小沢さんは今年1月から帯状疱疹(ほうしん)で一時入院するなどし、6月の同館での演奏会の指揮をキャンセル。この日は大きく体を動かしてモーツァルトの交響曲第41番「ジュピター」を指揮し、元気な姿を見せた。 招待されたのは水戸市内の小学5年の子どもたちで、身を乗り出して軽快な音色に聞き入っていた。5日からの2日間で計約2600人が招待されている。 小沢さんはリハーサル後、「この休養は神様からもらったものだと思っている。休養後、楽譜を読み始めたときには、音楽をやる喜びをこれまで以上に強く感じた」とのコメントを発表した。 (産経ZAKZAKより) フランス公演ではキャンセルしたのでどうしたのかと思いましたが、とりあえずお元気そうでなによりです。小沢さんのジュピター?いいじゃないですか。伝統に捕らわれない、あるがままのモーツァルト。聞きましょう。
2006年12月06日
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このところ教育問題が取りざたされています。いじめ自殺、履修不足、教育基本法などなど。現場の先生はほんとに大変だと思う。PT○はバカだし。校長は現場と教育委員会の板ばさみで現場を切り捨てているし。教師の質を云々する前に教育とは子供に関わる全ての人たちの問題という認識で取り組まなくてはならないのではないか。 小澤さんは昔から教育問題に熱心だ。おそらく海外で活躍することと子供たちの教育とである時期そうとう悩んでいたはずだから。そこでこの1週間ほど、小澤さんの対談集を読み返していました。1冊は数学者広中平祐氏との「やわらかな心をもつ」、もう1冊は故武満徹氏との「音楽」だ(どちらも新潮文庫)。 2冊並行して読んでいたらちょうど同じエピソードに当たり、ちょっと面白かったのでご紹介したい。 小澤さんが成城学園の中学の頃、夏目漱石の「坊ちゃん」を読めという宿題を出された。で、読むのが面倒臭いとちょうど映画化された「坊ちゃん」を新宿の映画館(帝都名画座)で上映されていたので何人かの友達と見に行った。当然ながら大筋は合ってるけどディテールは違うので、感想を言うと今井信雄という国語の先生にばれてしまった。 そのときのことをそれぞれの対談から抜粋する。 小澤=(前略)先生曰く「映画なんか、ばかでも出かけて行って暗いところに坐ってたら、向こうからくるじゃないか、向こうからこっちに押し寄せてくる。お前、何もしねえだろう。そんなことばかりやってたら、お前の人間てのは無くなっちゃう。本を読むってことは、まず、本を買ってくるか、誰かに借りてくるかしなきゃないかんと、まず、そういう努力が必要だ。それから字を知らなきゃいかん。まずその字を理解した上で、今度は文を理解してだな、そこで初めてその情景がお前の頭の中に浮かぶ」と。 広中=それから、想像力を働かすと。 小澤=それで想像力を働かすと。それを映画だと俳優さんと監督さんがね、もう決めたどっかの島かなんか行って、ポンと撮ったやつを、これが「坊ちゃん」だと言って見せる、それを見て、そうかと思って帰って来たら、それはお前がうんと損してるんだと。そういう先生だったわけよ。(後略) (「やわらかな心をもつ」より) (前略)文学で大事なのは、本をどっかへ買いに行くこと。本を見つけたら、本を読むための、字を読む知識を持たなければいけないこと。一人で坐って一行一行字を拾って、自分で字を理解して、それで何行か読み終わった時に何行か分の知識が頭に入る。それから主人公の顔も、作者が、このような顔だ、と書いても、読者の頭の中には違う顔が浮かぶはずだというわけ。同じ赤シャツでも、赤シャツの上にどんな顔が浮かぶか、鼻が低いか高いか、みんな違う。そういうことが文学では大事なんだと。そういう作者対個人の間に本が一冊しかない、その間に映画監督もなきゃ映画俳優の顔もない、それが大事だ、って教えてくれたの。(後略) (「音楽」より) それぞれの対談で披瀝するするぐらいだから、小澤さんにはよほど印象深かったのだろう。 広中対談と武満対談とではこのエピソードの扱いが異なる。広中対談では「本質」とは何かという問題のなかであり、武満対談では「受身の音楽は音楽じゃない」という文脈のなかだ。(「音楽」は編集された対談って感じで文章もうまくまとめてある。それに比べると「やわらかな~」は小沢さんの口調そのままだ) それにしてもこの時期(昭和25年ぐらいか)に学ぶということの本質を的確に教えていることが素晴らしい。そしてこれが後の小澤の音楽を支えている気がしてならない。
2006年12月03日
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