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スペイン巡礼路は、スペイン北部のフランス国境から西のサンチャゴまでの800km。これはイスラムからの国土奪回を目指したそのスペイン巡礼路のなつかしい街々の名にちなむ歴史物語である。物語の主役は実在の英雄エル・シド。カスティーリア王国の中心ブルゴス近郊で生まれた。時は1043年、国土の半分以上をイスラム教徒に奪われていた時代だった。若くして王の長男サンチョ王子の親衛隊として活躍。しかし戦った相手は、キリスト教国アラゴン、父王の弟の国。応援を依頼したのは意外なことにイスラムのサラゴザ王であった。サンチョ自身も王となると、弟王の国、レオン、ガルシアを攻めて国を乗っ取る。敗退したレオンの王アルフォンソは、なんとイスラム王国トレドの宮廷に亡命。しかし、サンチョ王はなにものかによって毒殺される。国外追放された弟アルフォンソが権力に帰り咲き3国の王となる。このように、当時のスペインでは、寛容なイスラム国に支援された、キリスト教徒間の過酷な骨肉の争いがあった。そんな折、兄王サンチョに仕えた英雄エル・シドは、当然ながら戦った相手の弟王アルフォンソ6世の不興を買う。カスティーリア国を追放され、修道院に預けた妻とも娘とも別離。王の命令で、宿も食物も得られぬ悲惨な追放の旅が続く。たどりついた先はイスラム王国サラゴザ。イスラムの寛容な王に救われて傭兵隊長として頭角を現す。しかし力を得ると、再びキリスト教軍団を結成。イスラム王国のひとつバレンシア攻略に功績をあげる。アルフォンソ国王も、その果敢な力量を無視できず、怒りを解く。時代が変わり、エル・シドのふたりの娘はやがてナバラとアラゴンの王子に望まれてその妻となり、彼の孫が、それらの国の王位に着く時代となる。エル・シドも、奪回したバレンシアの領主となって武勲をほしいままにする。そんな折、アンダルシアのイスラム小国群は、キリスト教国の台頭に危機感を覚え、救援を依頼。依頼した相手が、ムーア人と呼ばれるモロッコのイスラム原理主義の過激集団。厳しい戒律を強いる狂信的な軍団がやってきて、様相は一変、スペイン側は苦戦を強いられる。しかし、その無寛容さが、かえってスペイン側の団結を強化。エル・シドの死後1212年の激しい決戦でキリスト軍が大勝利を収め、モロッコ軍は敗退。30万のムーア軍も帰り着いたのは1割にも満たなかったという。バルセロナの牛追い祭りでも、大きなムーア人の恐ろしい人形が町を練り歩いていた。 そして500年続いた華麗なアンダルシアのイスラム文化も終焉を告げる。皮肉なことに、そのあと、やってくるのは、キリスト教会が支配する「中世の暗黒時代」だった。科学は沈滞し、芸術はギリシャ時代の自由な人間賛歌の発露を喪失。芸術家のモチーフは史実に限定されたため、個性を失い発想を抑制される。母性国家の心情に合うからとスペインの教会が奨励したマリア信仰。そのマリア像とひとりの青年の十字架の像に、絵画も彫刻もモチーフが縛られた時代は、ルネッサンスとルターの宗教改革によって人々の心が解放されるまで長くつづいた。史実について,詳しく知りたい方は、小西章子さんの名著 「イスラム・スペイン千一夜」{中央公論社}をどうぞ。
2004/03/30
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誰でもその日に飛び入りで裸婦デッサンができる巴里の画学校を紹介します。初めて、足を踏み入れた異国を人は好きになるという。たしかに、白紙の脳に最初にインプットされた感動はなかなか消えないはず。最初にタイに行ったわが愛娘は、アジア一辺倒。どんなにヨーロッパの良さを語っても動じない。私が初めて降り立った異国は巴里の東駅。それ以来、ヨーロッパにしか眼が行かない。フランソワ・サガンやレマルクの小説が血や肉をもって近づいてきたような感動があった。遠い昔、自分が開発した自動機械装置がそのフランスの企業に売れた。その技術指導にパリ、マルセーユと何回か足を運んだ。そんな折に、巴里で一日、休日があった。外国の街で眼が覚めて、今日一日、自由な時間があるときのときめき。初めての歓びだった。まず、ルクサンブール公園でまどろむパリジェンヌを描いた。ルーブル美術館をおとづれると、館内で名画を模写している美しい少女がいた。今日、どこかで絵を描きたいと言ったら、地図を書いて教えてくれた。バルザック像のあるモンパルナスの一角にそれはあった。名は、グランシャミエール。毎日、誰でも裸婦デッサンができる絵画研究所。青い静脈が透けて見えるような美しい肌のパリジェンヌがモデルだった。一日中、パリの乙女を描くことが出来ると知った時の心のときめき。描くことを忘れるほど、美しいポーズにうっとりとなったりした。必死になって描いた。そのあと、何度も、訪仏の度に訪れた。ある時、若い建築家の水彩画に見とれていると、「一枚あげようか」と、彼が言う。「じゃあ、お礼にカフェでおごるよ」と、彼らの仲間数人と街角のカフェへ。連れの若い男女らもみな建築家の卵だった。フランスの若者たちと巴里のカフェに座っていると、自分もパリジャンになったような楽しい錯覚、パリの風景までが身近に感じられてきた。その夜、モンマルトルで、絵描きに混じってそばから、似顔絵を描いた。「おまえ、ここで飯食えるよ。」とおだてられた。そのときは、そんな気はなかったけど、今は、半分本気かな・・巴里かポルトガルのナザレかスペインのバルセロナあたりで、絵を描いて、一年ほどすごしてみたい気がしている。さて、今回は、裸婦の美しい後姿。とくにお尻の美しさにみとれて、それに狙いをさだめて描いてみた。最近、ようやく解ってきたこと。顔も描きたい、乳房も描きたい、脚も描きたいと、どこも精密に描くと焦点がさだまらず、印象がぼけてしまうこと。どこかに目標を絞って、描きたいものを整理して大半は脇役にすること。光と影の響きあいが描きたいのだけれど・・・・・どうかなあ。
2004/03/19
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池田万寿夫氏は、高校の時、はじめて裸婦素描をした時のときめきをテレビで語っていた。そして、必死になって描いた自慢のデッサンを、廊下に掲示した。しかし、翌朝、学校に行くと、彼のだけが撤去されていたとか。「描いてはならない」ところを克明に描いていたからと校長に言われたそう。池田万寿夫さんらしい逸話だった。日展などの画家は、ひとつのパターンができると、それを打破して次の境地へ変身する人は数少ない。画商の勧めもあってか、最初のそれを一生固執する人が多い。池田さんは、版画でビエンナーレ大賞、小説で芥川賞、映画監督、そして陶芸と心の赴くままに生きた人生だった。常に新しい事に挑戦する姿勢が大好きだった。私は、彼の作品の中では、土の塊りで表現した新しい陶芸の作品が一番好きだ。原宿の画廊で、その陶器の個展があった。会ってひとこと話したことがある。土の塊に金を塗ったような陶芸作品。とても不思議だった。たとえばエジプトのファラオと名づけられた土の塊り。貴族のような気品と桁外れの雄大さが感じられた。さて、私の初めての裸婦は倉敷の画学校の夏講座。逆光に映える四肢の起伏の美しさを必死になって描いた。20号の油絵を3日で仕上げた。今でも、その絵は処女作のように大事にしている。裸婦のクロッキーが最も疲れる作業。休みなしに、10分、5分、3分と次第に短い時間で裸婦の全体像を視野に捕らなければならない。終わったら、いつも、くたくたに疲れていた。不思議なことに、この練習をすると、風景も構図がはっきり見えてくる。視点を宙に置いて、裸婦の全身を見る練習は、風景の全体を視野に見れるようになって、構図のどこを変えた方が心地よいかが、自然に見えてくるようになるから。さて、今回は、コンテのみで、響きのある素描ができないか挑戦してみた。裸婦の肩に美しい光彩が見えて、それをなんとかして捕らえようと腐心したもの。どんなかなあ。
2004/03/18
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ひさしぶりに3時間、心を集中させて素描に取り組んだ。モデルは、帽子を斜めにかぶったかわいい娘さん。大きな瞳が印象的だったが、素描はそんな細部にとらわれてはいけない。20年近く習った、かっての絵の師匠、倉敷の三宅寛一郎先生によく言われた言葉がある。「響きのある絵を描きましょう!」「響き」とはなにか・・・・。響きのない絵について述べると・・・、たとえば、銀座の画廊でもよく売られているけど・・・・無機質の真っ赤な色で塗られた「空一面の夕焼けの絵」風呂屋の壁に似合いそうな「白砂青松、雪をいただく富士」あるいは、二科展などに多く見受けられる、描きなれててテクニックがうまくて、一見、とても綺麗に見えるけど、個々の細部の描写もうまいけど・・・・どこか、感動が伝わってこない絵。あるいは、画家が数枚キャンバスを並べて、同じ絵を何枚も描いたような、売るための絵。たいていは色が非自然的な無機質色だからすぐ分かる。そして、描いた人の心の温かみが伝わってこない。結構良く売れているそう。では、「響き」とは何だろうか。色と形が渾然一体となって「心地よい波動」が見る人の心に伝わってくるのようなもの。俳句で言えば、描写した言葉の裏に、余情のようなものが漂っているもの。この「響きのある絵」を描くことが、僕の絵の大きな課題。ところで、今回は、ひさしぶりなので、なかなかその「渾然一体となった響きのある色と形」が捉えられず悪戦苦闘。3時間で、3枚少し描き方を変えて描いてみた。そのうちの一枚、皆さんの波長にあいますか。
2004/03/15
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昨年1年間、登山ができない国に滞在していた。そこで、春近い3月は、自ら自然回帰運動月間と称して、連続6日間登山と雪原滑降を楽しんだ。まず3月5日は 箱根の金時山へ。 友人の箱根の山荘に泊まって金時公園より登山。 雪をいただく富士が遠くに見えた。 霜晴れの富士が近づく峠かな 富士はるか雪踏む箱根外輪山 山頂の金時娘は、もうおばあさんになっていた。 しかし皇太子と並んで撮った娘さんは、現皇太子妃に似て しかも美しくつつましい乙女だった。金時から東には、明神が岳へつづく草の道が連なっている。外輪山の一角、大好きな草原の尾根には、すがすがしい展望が広がっていた。 外輪山 うちふところの 春麗ら 山荘の温泉は白い硫黄泉、疲れた四肢を伸ばしてまどろんだ。 湯の底に 硫化物舞ふ 寒の夜 山荘の夕食は春浅い菜の花。湯につけると、驚くほど緑濃き色となった。 さみどりの菜の花漬けを愛ずる夕
2004/03/11
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アゼルバイジャンのバクーでは、英国パブに、ぶらりとよく出かけた。 石油掘削企業で世界を渡り歩く英国人は陽気でよく気があった。いろんな話を楽しんだ。 「どうしてイングランド人はスコットランド人を頑固なわけわからずやと言ってからかうんだ?」 「あれは、笑い話だけ。ほら僕らは、仲良いだろう。」 「どこの国に住みたい?」 「フランスだけは大嫌い。」 「なぜ?」 「英語を軽蔑して、知ってるのに英語を話さないから。」「あいつらも俺らを嫌いだけどね。」「フランス人が嫌いだから、例のものをフランス人の帽子と呼ぶの?」「その名は初耳、知らないよ。余談だけど、洗えば5回は使えるね」「俺は3回だな。」「えっ? 洗って再使用するの?」 ある時、「おいしい、とっておきの秘密のカクテル」と言うのを教えて、おごってくれた。 バーボンに甘いシロップを混ぜたやつ。 しかし・・・・まずかった! やはりイギリス人は、「ステーキをもっとも不味く食う国民」という説は本当なのだろう。団伊久磨氏の名言。 「料理の味を楽しまない国には、優れた作曲家は生まれない!」 たしかに英国には、クラシックの大作曲家がいない。 かわりに神様はクラシック以外の分野で埋め合わせした。オペラ座の怪人などの作曲家アンドリューロイドウエーバーや ビートルズを誕生させた。 英国人は立ち飲みしながら、ジョークを言いあう。 気はとてもいい男ばかりだった。そんな折のスナップ写真を撮ったら東洋風の女性がいた。「中国人?」「いや、タタール人。」「えっ。あの怖ろしいタタール人?」ロシアでは、子供が泣き止まないと「タタール人がひとさらいにくるぞ!」と言って泣き止ませたとか。いわゆる「泣く子も黙るタタール人!」だった。なんとなく、ここにもシルクロードの残影を感じた。 このパブのウエイトレスも美人そろい。プロ並みの玉突きを興じる豊満で百戦錬磨の美女軍と違って、まだ人生途上の素直な娘が多かった。「ここに来るハンサムな風来坊に恋しちゃだめだよ。仕事が終われば、いなくなるんだから。」「わかってるわ。」たしかに、アゼルの女性は、賢い。ソ連から独立後、いまだに続いている食うや食わずの13年を生き抜いてきた知恵をもっているよう。セキュリティの新妻は新婚1ケ月にして、すでにかかあ天下。うぶな東洋の子女とは違う。決して、男にだまされるようなこともなく、自信満々。長い自前の黒い睫、豊かな四肢を惜しげなく披露し、最大限に魅力を表現する大胆な服装を選んで、いつも、バクーの街の春秋を闊歩していた。この国の男性は幸せ。どこででも、映画女優なみの美形に出会えるから。この国の男性は不幸せ。いったん、捕獲しても、いつ飛んでいくかわからぬ翼をもった美しい鳥に心休まる時がないようだったから。そんなことを考えていたら、急にウォッカの酔いが回ってきた。
2004/03/03
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