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国道1号の鳥井戸橋交差点から鶴嶺八幡宮の松並木の参道を北上。鶴嶺八幡宮(つるみねはちまんぐう)源頼朝の先祖が戦勝を祈願、ゆかりの大イチョウや弁慶塚も。源義家が前九年の役に向かう際、父・源頼義が建立した懐嶋の八幡宮に頼義とともに戦勝祈願を行い、敵の安倍氏を破りました。後三年の役に向かう際も、懐嶋の八幡宮に戦勝祈願し、敵を制圧しました。義家は感謝の意を示すため、懐嶋から新たに浜之郷に分霊し、鶴嶺八幡宮を創建しました。1191年には、頼朝の命により大庭景能が社殿を修復し、再興しています。2月24日(木) 15:00参道脇に建つ石像群。記念碑東海道(国道一号線)より御社頭まで「八丁松並木」と古来より呼ばれ、四季を通じて色変えぬ松のみどり。浜降祭には先駆神社として先頭(露払い)に立ち他の神輿を導く名誉ある役目を果し、宮立ちには文化三年建立の「八幡さま」神輿の雄姿が提灯の灯に映し出され幽玄の世界が繰り広げられるのもこの参道である。「八幡さま」固有の基本形態をなす表参道、馬場道(流鏑馬)とも呼ばれる横参道、源平池の神域。これらの遺産を守り伝えられた先人への畏敬の念あれば、この遺産を更なる次の世代へと引き継ぐことが現世を生きる私たちの責務と思う。ここに平成の大事業として敬神尊祖の思い篤き有志の浄財をもって灯籠を建立する。 平成十四年七月吉日 鶴嶺八幡宮道祖神朝恵上人と参道 松並木八幡宮別当常光院住職 朝恵上人は、慶安2年(1649)三代将軍家光より、御料として七石の御朱印を拝領した記念に地頭山岡景信と相計り、まず社殿を再建し、更に八幡宮参道と社前の馬場に松の木を植えて、神域の保全整備をした先人である。その偉業を賛え後世に語りつぐために、こに上人の碑を祀る。 ながながと 参道に列並む 松のみどり 朝恵上人を 語りつぐべし 三郎 今もなほ 朝恵の松の 若みどり 十八世鴫立庵芳女女護ヶ石女性の守護神として、信仰されていた石神です。からだの悪いところ、願いごとのあるからだの部分に「祓え給え、清め給え」と三回心に念じながら石をなでて、からだの部分もなでる。左に、「女護ヶ石」、右に、「朝恵上人と参道 松並木」の句碑。手前に「授かり石」句碑には、「ながながと 参道に列並む 松のみどり 朝恵上人を 語りつぐべし 三郎」「今もなほ 朝恵の松の 若みどり 十八世鴫立庵芳女」7月の浜降祭にはこの参道を神輿をかついで海岸へ行く。鶴嶺八幡宮所在地:神奈川県茅ケ崎市浜之郷462境内には大イチョウが聳える。駐車場は境内の前に数台分ある。鶴嶺八幡宮のイチョウ境内の右側に鐘楼。神楽殿県指定天然記念物 昭和37年10月2日指定「鶴嶺八幡のイチョウ」 和名:イチョウ(イチョウ科)多数の側枝が叢成し、その数本がゆ着して成長し幹を形づくっていると言われ、ゆ着したと思われる部分が縦の線となって認められる珍しい巨木である。昭和59年12月には「かながわの名木100選」に選定されている。樹高:29メートル、胸高周囲:9.0メートル、樹齢:約1000年(伝承)イチョウは中国原産の落葉高木で、その仲間は古生代から中世代にかけて栄え、日本にも化石が産出する。1科1属1種の雌雄異株の裸子植物である。樹高45メートル、胸高周囲14メートル、樹齢約2000年に達するものもあると言われている。鶴嶺八幡宮の大イチョウ 昭和三十七年十月二日 神奈川県天然記念物指定 平成二十二年三月二十六日 茅ヶ崎市指定景観重要樹木第一号 (指定名称 鶴嶺八幡のイチョウ) 根廻り 八・五メートル 目通り 九メートル 樹 高 二十九メートルこのイチョウは実生かまたは移植の際に多くの側枝を叢生し、勢いよいものが四・五本くっついて成長を続け、現在の幹を形づくったものとみられている。きわめて珍しい大木である。なお、次のような伝承がある。この神社は平安時代後期、源頼義が平忠常の乱を平定の折に、このあたり懐島郷を通り風光明媚の小丘に源氏の守り神、石清水を勧請したに始まるといわれ、その後、前九年の役で父頼義を応援に奥州へ向う途中の義家(八幡太郎)がそこに詣で、戦勝を祈願して現在地に遷座したという。このイチョウはその時義家が手植えたものといわれている。昭和五十九年、「かながわの名木100選」に選ばれている。 茅ヶ崎市 茅ヶ崎市教育委員会 ちがさき丸ごとふるさと発見博物館 (平成二十三年三月) 手水舎の後方に大イチョウが聳える。鶴嶺八幡宮の拝殿。鶴嶺八幡宮御祭神 應神天皇・仁徳天皇・佐塚大神・菅原道真(鶴嶺天満宮合祀)鎮座地 神奈川県茅ケ崎市浜之郷462番地 (電話0467-82-6725)例祭日 九月一五日御由緒相模国茅ヶ崎の総社として往古より八幡信仰の本地として名高い。康平年間(1058~1065)源頼義が東征の際、石清水八幡宮にならい、本郡懐島郷矢畑村本社に一社を創立し、後に源家が現地に奉還したと云う。更に治承年間(1177~1181)に源頼朝が鎌倉由比郷に遷したが、その旧社は存続し本社八幡と称したものと伝えられている。源氏代々が篤く崇敬し、源頼朝は治承年間に懐島の地若干を寄進し、また建久年間(1190~1199)に肥後国有為の庄七百貫を寄せ、懐島権守平景能をして社殿の修復を命じた。弘安四年(1281)には蒙古軍退散を祈り、その後、永禄・元亀年間(1558~1573)に兵火に罹り堂宇・古記録等を焼失した。古くは、本社の別当に十二坊があったが各々村々に離散し廃坊となった。正保年間(1644~1648)別当常光院の住僧朝恵は山岡氏と相計り社殿を再建した。また参道を整備し松を植えた。慶安二年(1649)八月には徳川家光が本村の地七石の朱印地を寄進した。明治維新の神仏分離に際し、別当常光院が復飾して祠掌となる。明治六年村社に、昭和九年九月六日に郷社に列格。 相模川の舟渡し行けば大いなる原あり、砥上ケ原とぞ。 この原のあたりに見えたる神社あり、問えば八幡勧請の一とぞ。 「花の梢一木一木に神さびたり をる人や砥上ケ原の八幡山神のもるてふ花の盛りは。」 東国紀行(天文十三年・一五四四)室町時代より拝殿前から南方向の境内、参道を望む。社殿の左側に「淡嶋神社」「神輿殿」。淡嶋神社御祭神 淡嶋神 少彦名命例 祭 三月三日神 事 針供養 二月八日・十二月八日 人形供養 随時由緒沿革淡嶋神社は鶴嶺八幡宮の末社として鎮座し、御祭神淡嶋神は伊弉諾命・伊弉那美命の御子神であられ、淡嶋信仰として往古より女人の守護神として崇敬篤い。又、少彦名命は太古草創の時に際し大国主神と共に国土を経営し、民生を教導し、医薬禁厭の事を司り給う。寛政元年十一月浜之郷宮ノ前に造営ありたるものを安政六年三月官令により当所に遷座す。明治十年三月、大正元年十月、近くは、昭和五十一年七月それぞれ奉修再興の棟札がその沿革を伝えている。(社前にて)厄除・縁結・子授・安産・学問・芸術・裁縫の上達をはじめ病気・事故などの生命の安全・生活の平穏無事を祈願されたい。又、針供養・人形供養の社としても名高い。ガン封じの祈願石淡嶋神社の前に「がん封じ」の石。ガン封じの祈願石社前右手の石はガンを始め難病を癒す霊石と云われ、多くの人に信仰されている。石と体の悪い所を交互にさすり「祓え給え、清め給へ」と三回念じる。此の石の兄弟石が神明大神(市内 円蔵2282番地)に祀られており、両方の石をさする事により病を癒す力が増すと云われている。針 塚針供養 二月八日・十二月八日。神輿殿。鶴嶺八幡宮の社殿。本殿横に「座敷わらしの遊ぶ場所」。座敷わらしの遊ぶ場所座敷「わらこ」は人の心を癒す為に子供の姿で現れました。「あなたが本来の純粋な自分に立ち返って、人生をもっと楽しみ、幸せや豊かさを感じられるように私が案内します」と。限定朱印「ゆたかさ詣で」 1体 500円このご朱印を枕元に置いて寝るとおかっぱの女の子に出会ったという報告がございました。拝殿の左奥に、「鉾宮神社」。鉾宮神社(ほこのみやじんじゃ)◇ 御祭神 須佐之男命 古刀比羅命◇ 御利益 厄除・疫病退散 開運・縁結び右奥には赤の幟が立つ、「鶴嶺稲荷神社」。鳥居の扁額、「鶴嶺稲荷神社」。鶴嶺稲荷神社◇ 御祭神 宇迦之○○大神◇ 御利益 商売繁昌・家内安全・社運繁昌・金運向上社殿の右側に「御神木 槇」。御神木 槇 樹齢一千余年康平年間(1058~1065)源頼義公 戦勝祈願 前九年役ノタメ一樹ヲ手植セシモノト云ウ 平成十三年四月再建 鶴嶺八幡宮枯れたため風雨を避けるため屋根の下に保存されている。15:20懐嶋山龍前院の石柱が建つ。龍前院六地蔵所在地:神奈川県茅ケ崎市浜之郷425番地15:45住宅街の中にある「本社丘(ほんじゃがおか)」地元の人は「蛇塚、ぽんぽこ山」と言っているとのこと。サクラの木が十数本ある。小さな石祠が建てられている。本社丘(ほんじゃがおか)本社丘は矢畑の鎮守 本社宮 発祥の地である。天保年間に行われたと伝えられる本社宮遷座の後も、旧跡として崇敬され大切に保存されている。本社宮はその後、関東大震災による遷座を経て、この地の北方約450m(矢畑142番地)に鎮座している。矢畑の伝承によれば、平安時代中期 平忠常の乱を平定に向う途次、源頼義がこの地に源氏の氏神である石清水八幡宮を勧請して戦勝を祈願した。陸奥守となり前九年の役に向かう頼義は、長子義家と再度戦勝を祈願、平定後、当八幡宮を鎌倉由比郷に勧請し、鶴岡八幡宮を創建した。後に、頼朝が現在の雪ノ下に遷座。後三年の役平定後、義家は浜之郷に神域を設けて遷座、鶴嶺八幡宮を創建したと伝える。本社丘に残った社は矢畑の鎮守となり、「本社宮」として今に伝わる。なお、別に江戸時代後期の地誌『新編相模国風土記稿』の浜之郷村鶴嶺八幡宮の項に「社伝に長承二年筑紫宇佐鶏足寺の僧が八幡本地種字の正体を奉じ来て祀る」との創建に関する記載もある。 平成二十四年四月 本社宮 総代 小高い丘になっておりスイセン、サクラの木。 ー 続く ー
2022.02.28
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御霊神社、浄土宗西運寺から次に向ったのは、「鶴嶺八幡宮(つるみねはちまんぐう)」。2月24日(木) 14:30浄土宗西運寺から南湖踏切を渡り東海道本線の北側へ。住宅街の中に墓地が点在している。道路脇に道祖神も建つ。石碑には、明治四拾年八月弐拾九日「黒青 馬頭観世音」 亀井要助建之墓地の合間を抜けると地蔵と道祖神。住宅街を振り返る。国道1号の南湖入口交差点からの南湖通り沿いにある、高野山真言宗 金剛院(こんごういん)所在地:神奈川県茅ケ崎市南湖1丁目2-11江戸初期より南湖の閻魔寺として親しまれている古刹で、明治41(1908)年、茅ヶ崎町(茅ヶ崎村、鶴嶺村、松林村が合併)が結成された時、仮の町役場はこの寺に置かれた。正面に本堂、左奥に「長生殿」。本堂の扁額「法林山」。境内の右側に「太師堂」。本堂の手前に庭園があり芭蕉の句碑。芭蕉の句碑「父母の しきりにこひし 雛子の声」句は貞亮5年(1688)〔笈の小文〕の旅で、高野山を訪れたときのもの。本堂前左側に地蔵が立つ。四国八十八霊場の寺名が刻まれている。境内の左側に「長生殿」。長生殿の扁額「長生殿」。若松先生市内最古の茅ヶ崎小学校の前身「琢章学舎」が、金剛院内に開校されたのは、明治六年五月一日である。明治七年に二代目教師として、「若松幹男先生」が赴任せられた。小笠原東陽先生の筆による碑文には、正面に若松幹男墓と書かれ、右側面には施主名が連記されている。いずれも篤学者で、東陽先生の「耕余塾」の門下生である。左側面には碑文が紹介されている。即ち、若松幹男は豊後国直入郡竹田邨の人なり、嘗て吾と同じく鶯林先生の門に游ぶ、既に相武の間に客し終に本邨小学の師となる。年丗五なり、寔れ明治九年五月廿日なり。釈号は道範文隷義應信士と日ふ。子有り里彦と日ふ。尚幼し。 明治十三年五月 東陽居士、小笠原薫 記碑文だけでは在職中に平凡に死去したことになっているが、三年目の学期末試験に南湖の生徒十三名が落第したため、痛切に責任を感じ、翌々月の五月廿日、腹を十文字に載ってその責をとったのである。願わくは檀信徒各位、ご先祖墓参の折、香花灯明を墓前に賜わらんことを。 茅ヶ崎ロータリークラブ若松幹男墓北側から本堂を見る。国道1号の鳥井戸橋交差点から富士山を望む。交差点横の千の川に架かる石原橋上からの「左富士」。国道1号の鳥井戸橋交差点に建つ、鶴嶺八幡宮大鳥居。鶴嶺八幡宮へはここから北上し約1キロある。鶴嶺八幡宮への参道は松並木になっている。国道1号沿いに建つ大鳥居。参道脇に建つ石碑に、「弁慶塚」と刻まれている。弁慶塚は参道から東に入った場所にある。弁慶塚所在地:神奈川県茅ヶ崎市浜之郷843-1入口には案内板もなく解りずらい。以前の写真では木が聳えていたが、枯れたようで切断された幹だけが残っていた。弁慶塚の由来武蔵国稲毛(川崎市)の領主、稲毛三郎重成が亡妻の冥福を願い相模川に橋を架け、建久九年十二月二十八日その落成供養を行った。源頼朝は多数の家臣を引きつれてこの式に参列、盛大な落成式が行われた。頼朝はその帰途鶴嶺八幡宮附近にさしかかったとき、義経・行家ら一族の亡霊があらわれ、乗馬が棒立ちになり、頼朝は落馬して重傷を負い、翌正治元年一月死去した。後年里人たち相計り義経一族の霊を慰めるため、ここに弁慶塚を造ったと伝えている。 昭和五十七年十一月一日 茅ヶ崎ロータリークラブ 茅ヶ崎郷土会廻りは区画整理され住宅地になっている。石碑には「弁慶塚」と刻まれている。国道1号の鳥井戸橋交差点を望む。鶴嶺八幡宮への参道に戻り北上。歩道にも松が植えられており自転車での走行も危ない。鶴嶺通りの「鶴嶺八幡宮前交差点」。鶴嶺八幡宮入口。鶴嶺八幡宮の「太鼓橋」、「鳥居」。鳥居の前に、吽形の狛犬。鳥居の右側に、口を開けた阿形の狛犬。松並木の参道にウメの花が咲く。参道には石燈籠が並ぶ。いつの間にかウメの花も咲き満開に。参道の西側に空堀、「天照皇大神宮(あまてらすこうたいじんぐう)」「天照皇大神宮(あまてらすこうたいじんぐう)」御祭神 天照大神コロナの関係で空堀にしているのか。林の中に、「天照皇大神宮」。天照皇大神宮の反対側(東)に梅林。梅林の中に、「懐嶋弁財天(ふところじまべんざいてん)」御祭神 市杵島姫命天照皇大神宮と同じような新しい石祠。ウメの香りが漂う、枝の中にメジロがいたが。河津桜が咲き始めていた。ズームアップ ー 続く ー
2022.02.27
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茅ヶ崎市観光協会から、ゆかりの地MAPに記載されている、「御霊神社」を訪れることに。2月24日(木) 14:15スマホの案内で国道1号を西に向かい、南湖入口交差点を左折して「南湖通り」を南下するとJR東海道本線の「最乗寺踏切」。東京から、59K731M 茅ヶ崎市十間坂2-614:25南湖通りから右側(西方向)へ入りくねくねと住宅街を進む。茅ヶ崎の南側の住宅街は迷路のようになっている。御霊神社(ごりょうじんじゃ)所在地:神奈川県茅ヶ崎市南湖2丁目9-10鳥居の前に、神社の石柱と赤いポストが建つ。鳥居から社殿への参道脇に、「地神塔(じじんとう)」。鳥井戸御霊神社の地神塔(じじんとう)昔、村人が鳥井戸御霊神社の参道に、この地神塔を据えたものと思われる。地神塔とは、死者の供養や自分の極楽往生を願って建てられた石塔である。作成は室町時代末期に造られた供養塔と思われる。神仏習合の時代の時である。その時は西運寺が御霊神社の別当寺であった時代でありました。我々、後世の人々がすべての人が幸に暮らせる様に、この地神塔を管理して参ります。令和三年六月 鳥井戸御霊神社 総代 加藤秀美鳥居をくぐり進むと小さな社殿。御霊神社の由緒御祭神 鎌倉権五郎平景政御祭神 九郎半官 源義経御霊信仰とは、厄災の発生や非業の死を遂げた人の怨霊を鎮めて、人々の平穏と繁栄を実現しようとする信仰である。御霊神社の創建年代は不詳であるが、古くより御霊山西運寺の領有地に毘沙門堂があったが、その後幾多の変遷を経て現御霊神社になったものである。言い伝えによれば、治承年間(1177~1182年)にこの地方一帯を治めていた懐島権守平景能が此の毘沙門堂に鎌倉権五郎景政の霊を祀った。建久九年(1198)鎌倉幕府初代将軍源頼朝一行が、相模川の橋供養の帰路、非業の死を遂げた弟の源義経の亡霊が現れ、驚きの余り落馬しそれが原因で翌年死去したとされている。里人たちはその怨霊を鎮めるため、源義経の霊を此の毘沙門堂に合祀したとも伝えられている。後年永く信仰の場になっていた当神社も、明治初年の神仏分離に際し御霊山西運寺より独立し現在に至っている。現社屋は昭和四年再建したものである。社殿前には「御霊神社 神社総代 加藤秀美」さんの説明板が並ぶ。拝殿の扁額「御霊神社」。社殿の前に植樹された「西行桜」。西行桜「ねがはくは 花のもとにて 春死なむ そのきさらぎの 望月のころ 西行」・ 西行法師の辞世の歌として特に有名な歌です。・ 西行法師はこよなく桜を愛した歌人でありました。・ この御霊神社の桜の木を「西行桜」と命名致しました。・ 「西行桜」が参拝者の皆様をお守りいたします。令和三年 正月相州 南湖 鳥井戸御霊神社 神社総代 加藤秀美イチョウの木は上部を伐採されている。社殿の右前に孫生(ひこばえ=切り株から出た芽)の「御神木 イチョウ」。「御神木 イチョウ」・ 御霊神社の境内のイチョウの木は太平洋戦争(突入 S16年8月終戦S20年8月15日) 時、国より苗木が下賜され、境内に植えられたものです。・ 平成28年、幹樹が空洞化したため伐採いたしました。・ そして親木の側より孫生(ひこばえ=切り株から出た芽)が誕生し、元気に成長いた しております。・ このイチョウの木は子孫繁栄の証として、非常に縁起よい木と親しまれ、御霊神社 のパワースポットになっております。・ 孫生(ひこばえ)の成長は鎌倉の鶴岡八幡宮のヒコバエ・イチョウと同じ成長をとげ ております。・ このイチョウの木に触れるだけで、幸福が宿ります。・ ご参拝者の皆様が幸わせになりますように。 令和四年正月 神社総代 加藤秀美砥上が原(とがみがはら)・ 鎌倉時代 相模川から藤沢の曳地川の間は砥上が原と呼ばれる寂しい砂地の荒部で ありました。・ 当時はこのあたりは鹿も多く生息致しておりました。・ 西行法師が鎌倉へ旅する途中砥上が原で次の歌を詠んでいます。 「芝まとふ 葛のしげみに 妻こめて 砥上が原に 牝鹿鳴く里」 意味としては「薮を覆うクズの陰に牝鹿を隠し、淋しい砥上が原に牝鹿の求愛の 鳴き声が響いているよ。」の意味になろう。・ 鳥井戸御霊神社は砥上が原の中央に位置する所へ堂宇を建立され、毘沙門天立像が 祀られました。その当時は毘沙門堂と呼称され、鎌倉権五郎景政公が大庭景能によ ってこの社に祀られてから御霊神社と呼ばれるようになったとおもわれます。・ この歴史・由緒ある鳥井戸御霊神社が皆様方をお守しております。相州 南湖 鳥井戸御霊神社 神社総代 加藤秀美御霊神社の狛犬うずくまった姿勢の獅子に似た一対の像は、御霊神社の狛犬です。魔よけために神殿の前に置かれています。御霊神社を守護すると共に参拝者の皆様も御守りいたしております。皆様が平和に暮らせますように・・・。鳥井戸御霊神社 神社総代 加藤秀美口をあいている方が阿形。口をとじている方が吽形。大庭景義はなぜ自分の祖先の鎌倉権五郎景正を鳥井戸の御霊神社に祀ったのか?まず考えられることは、鎌倉時代には既に現在の社の場所に毘沙門天のお堂があり、近郊では広く知られていたと思われます。当時、毘沙門天は武人たちの信仰が篤かった。毘沙門天は武神として武士一般に信仰されており、このことは北条時政や和田義盛に、いずれも仏師・運慶が造立した毘沙門天があったことで明らかである。・ 北の国、越後の上杉謙信は自らを毘沙門天の生まれ変わりと信じ、「毘」を旗印とした。・ 和田義盛は、誇り高い鎌倉武士で源頼朝から御家人を統括する侍所の長官に任じられ、強い 権力を得た。北条時政が奈良の運慶に阿弥陀三尊像の彫刻を頼んだと聞くや、義盛も競うように依頼した。これが現在の浄楽寺(横須賀市) ※1 にある阿弥陀如来坐像、観音菩薩、勢至菩薩、不動明王、毘沙門天の立像で、いずれも力強い群像である。大庭景義は祖先の鎌倉権五郎景正をここに祀ったのは、毘沙門天のお堂だからと思われる。そして、西運寺が室町時代末期にこの毘沙門堂の北側に創建され、北側である理由は毘沙門天(多聞天) ※2 は北方を守る北方守護の神として信仰され、戦勝祈願や現生利益を求めて人気が高い守護神であったためである。西運寺の本尊ー阿弥陀如来を守護する役目であると思われる。※1 浄楽寺(横須賀市) 住宅街にある小さな寺だが、和田義盛が創立した寺であり、本尊の阿弥陀三尊像及び脇侍 仏毘沙門天、不動明王の両立像は運慶の作で、国の重要文化財に指定されている。※2 毘沙門天 四天王(持国天・広目天・増長天・多聞天)のうち北方を守る多聞天は特に独立して単独で 祀られることがあり、その場合は多聞天の梵名から「毘沙門天」という。御霊神社の左側にある「稲荷社」の「御霊稲荷」。御霊稲荷扁額は「御霊稲荷」。御霊神社の西側から社殿を望む。廻りには民家が迫る。御霊神社の北側に隣接する西運寺へ。浄土宗 西運寺(さいうんじ)所在地:神奈川県茅ヶ崎市南湖2丁目9-34本堂の前に手入れが行き届いた立派な松。本堂の扁額「西運寺」本堂前に「地蔵菩薩」。本堂の左側に観音堂。観音堂の扁額「観音堂」。観音堂の前に、絵馬が無料「ご自由にどうぞ」と。無料と言っても浄財は・・・、小銭がなく諦める。観音堂の左側に無縁仏の墓石が並ぶ。後方はJR東海道本線。 六地蔵が並ぶ。民家の間に山門。寺標の石碑には「御霊山浄土宗 西運寺」。山門の扁額「御霊山」。樹齢 百年以上の松。松の下の石碑には「南無阿弥陀仏 西運寺旅行会」。年輪を感じさせる幹。 ー 続く ー
2022.02.26
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今年のNHK大河ドラマは「鎌倉殿の13人」、このためタウンニュース等に関連する記事が多く記載されている。鎌倉時代を舞台に、主人公となるのは小栗旬演じる北条義時。合議制で集まった13人による権力のパワーゲームの中で、最も若かった義時が最高権力者になるまでを描くドラマである。初期の鎌倉幕府を支えた13人の御家人。13人とは、二代・源頼家時代にとられた政策「十三人の合議制」の構成員のこと。鎌倉幕府を開いた源頼朝に仕えた有力者のうち、頼家を支えるために選ばれた重臣たちです。● 大江 広元(おおえのひろもと) 1148~1225年 鎌倉幕府創設に貢献した文士御家人で、京都との交渉や鎌倉幕府の整備に活躍。鎌倉殿の 政治を補佐するとともに、和歌などの文化的な活動も支えました。● 中原 親能(なかはらのちかよし) 1143~1209年 京都の下級貴族の養子で幼少期を相模国で過ごしたため流人時代の頼朝と知り合い、京都 との人脈を活かして幕府の対朝廷交渉で大きな功績を果たしました。● 安達 盛長(あだちもりなが) 1135~1200年 頼朝の挙兵にあたり相模国(今の神奈川県)や下総国(今の千葉県)の武士たちを訪れて参加 を呼び掛け、幕府成立後も頼朝に目を掛けられていました。● 梶原 景時(かじわらかげとき) 1140?~1200年 頼朝の信頼が厚く、その側近として権勢を振るっていました。しかし頼朝の死後、御家人 らの弾劾により失脚、追放されて一族とともに滅ぼされてしまいます。● 比企 能員(ひきよしかず) ?~1203年 娘の若狭局が頼家の側室となって息子・一幡を産むと権勢を強めましたが、その後は北条 時政により殺害され、北条義時らに攻められた比企一族も滅亡しました。● 北条 時政(ほうじょうときまさ) 1138~1215年 北条政子・義時の父で鎌倉幕府の初代執権でしたが、政子・義時と対立して失脚、出家(牧 氏の変)し、退いた伊豆で10年を過ごした後、亡くなりました。● 和田 義盛(わだよしもり) 1147~1213年 頼朝が鎌倉を拠点に定めると初代侍所別当(長官)に。頼朝の死後、北条義時の挑発を受け て挙兵に追い込まれ敗死、和田一族も滅亡しました。● 三善 康信(みよしのやすのぶ) 1140~1221年 頼朝挙兵以前は京都でキャリアを積んでいました。鎌倉に下向してからはそのキャリアを 活かし、文書作成などの実務や寺社関係の職務に携わりました。● 三浦 義澄(みうらよしずみ) 1127~1200年 三浦郡を本拠とした三浦氏の一族で、石橋山の合戦で安房国に敗走した頼朝を助けました。 死後は息子の義村が北条氏に協力しながら、勢力を強めていきました。● 二階堂 行政(にかいどうゆきまさ) 生没年不詳 鎌倉幕府では公文所の設置や寺社の差配、幕府の財政などの業務に携わりました。政所が 設置されると、実務能力を発揮して活躍していたと考えられています。● 足立 遠元(あだちとおもと) 生没年不詳 武士として活躍する一方で京都との縁もあり、文筆に長けていました。文書の保管を行う 公文所では、中原親能や二階堂行政などと共に能力を発揮しました。● 八田 知家(はったともいえ) 1142~1218年 頼朝の挙兵では、兄・朝綱に先んじて頼朝のもとに馳せ参じ、重用されました。知家の嫡 男・知重は小田氏を名のり、鎌倉時代を通じて繁栄しました。● 北条 義時(ほうじょうよしとき) 1163~1224年 「十三人の合議制」構成員に選ばれ、初代執権時政を隠退させると、二代執権として姉の政 子と幕府の政治の実権を握ります。1219年、鎌倉幕府の初代から3代にわたる源氏将軍が 途絶えると、鎌倉幕府の実質的な支配者となりました。1221年に後鳥羽上皇より北条義時 追討の宣旨が全国に発布されましたが、幕府軍は朝廷を制圧。義時は幕府を勝利に導きま した。タウンニュースの2022年1月7日(金)、No.1796 では「源頼朝とゆかりの地」を紹介。MAPをもらうため、茅ヶ崎市観光協会へ電話「まだある」とのことで窓口へ行くことに。2月24日(木) 14:00天気が良いので退院後始めて愛車のリンちゃんで出かけた。茅ヶ崎中央公園公園内のウメが綺麗に咲いていた。メジロが動き回っていたが。紅梅も綺麗に咲いていた。公園前の茅ヶ崎中央通り(県道45号線)の北方向。茅ヶ崎市役所横の歩道橋には「祝 茅ヶ崎出身アーティスト 加山雄三さん」の垂れ幕。同歩道橋上からの、茅ヶ崎市民文化会館。茅ヶ崎市役所の東側には「東横INN」が建設中。西側には、茅ヶ崎市役所。南側には、国道1号の茅ヶ崎駅前交差点。国道1号に面した、東横INN湘南茅ヶ崎北口の一階にある「茅ヶ崎市観光協会」所在地:神奈川県茅ケ崎市茅ヶ崎1丁目2-53 東横INN湘南茅ヶ崎駅北口。茅ヶ崎駅の改札口近くにも出張所がある。かつてはこの辺りにも旧東海道の松並があった。東海道を200年以上見守ったクロマツ。この切り株は、高さ 20m、太さ 2.5m、樹齢は約200年(江戸時代後期から生息)で、茅ヶ崎地区に植樹されたクロマツの中で一番の巨木でした。平成21年3月に腐朽のため伐採させましたが、茅ヶ崎駅北口周辺特別景観まちづくり地区のランドマークであった証をモニュメントとして残し、その記憶を継承します。 平成24年3月 茅ヶ崎市頂いた「ゆかりの地 MAP」、「源頼朝と茅ヶ崎ゆかりの地」2022年の大河ドラマは「鎌倉殿の13人」。放送をきっかけに、鎌倉幕府初代将軍源頼朝などに関連する茅ヶ崎ゆかりの地を紹介します。頼朝の生きた時代に思いを馳せてみませんか。【頼朝と茅ヶ崎】鎌倉幕府は1192年(※諸説あり)、源頼朝が創設した武家政権。1180年、伊豆に流されていた頼朝は、反平家の旗をあげた。懐嶋(現茅ヶ崎市の円蔵、浜之郷、矢畑付近)の在地の武士・大庭景能は頼朝に味方した。一方、弟・大庭景親は相模(現神奈川県)の武士を率いて、頼朝と戦い、頼朝は石橋山で敗北した。頼朝が安房・武蔵を経て鎌倉に入ると、景能は頼朝の新邸や鶴岡八幡宮の造営など鎌倉幕府の基盤作りに奔走した。景能の懐嶋の館は1190年、頼朝が京へ上るときには、宿となった。頼朝の寵愛を受けた丹後局の兄・比企能員は、「鎌倉殿の13人」の一人として活躍した。稲毛重成が相模川に架けた橋の落成供養に参列した頼朝は、帰途で弟・義経らの亡霊に会い落馬した。それが原因か定かではないが、その後、頼朝は亡くなった。ゆかりの地 MAPA、鶴嶺八幡宮(つるみねはちまんぐう) 頼朝の祖先が戦勝を祈願。景能が社殿を再興。B、旧相模川橋脚 重成が架けた橋の遺構。義経らの亡霊伝説が残る。C、旧跡懐嶋山の碑(えな塚) 丹後局が頼朝の子を出産。D、御霊神社(ごりょうじんじゃ) 景能が祖先を祀り、義経の霊も祀った神社。E、神明大神宮(しんめいだいじんぐう) 景能が建立、京に向かう頼朝が宿泊。F、弁慶塚 義経の家来である弁慶の霊を供養した。① ~ ⑦ 周辺グルメも案内。既に訪れたところもあるが今後「ゆかりの地 MAP」を参考に再度訪れてアップしたい。 ー 続く ー
2022.02.25
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永年我が家の居間に座っていた人形を納めに、1月27日(木)寒川神社へ。タウンニュース 1月7日(金)に掲載。相模國一之宮寒川神社に昨年12月20日、迎春ねぶたの「風神雷神」が到着し、クレーンで神門に設置された。迎春ねぶたの設置は今年で22回目。青森ねぶた師の北村蓮明氏が制作したものでテーマには「神様と自然への畏怖の気持ちを忘れず、その力を借りて疫病を払う」との願いを込めた。神社の原案をもとに下絵を描いた後、角材で支柱を作り針金や糸で形を作る。その後耐水紙をはり、墨やロウ、染料などで彩色した。内部にはLED電球500個が取り付けられており、昼とは違った表情を見せる。2月23日(水)まで設置されている。寒川神社所在地:神奈川県高座郡寒川町宮山3916寒川神社神池橋・三之鳥居ここを右折して、無料駐車場へ、正月三が日は長い列になっているが。左側の奥にも広い駐車場がある。駐車場の奥に、「人形奉斎殿」。難しい手続きは無く供養料1,000円を預けるだけである。簡単なお祓いをしてくれる。人形奉斎殿から「寒川神社 南門」へ。いつもは参道に露天商が並んでいるのだがこの日はなく。南門を入ると、正面に「客殿」、右側に「社務所」。古いお札を納める。寒川神社 神門神門の前には大きな狛犬。手水舎前から正面に「社務所」、左に「客殿」。神門に掲げられた「風神雷神」。ねぶたの規格横幅:9.0m、高さ:2.7m、奥行:1.7m、LED電球約500球を使用。迎春ねぶたの設置は今年で22回目。青森ねぶた師の北村蓮明氏が制作したものであると。ねぶたは2月23日(水)まで設置されている。ズームアップ。風神雷神ー厄難消除- 蓮明作令和4年(皇紀2682年)迎春ねぶた「風神雷神~厄難消除~」ご挨拶寒川神社の正月の風物詩であります迎春ねぶたは、本年で22回目を迎えました。第1回目は平成13年より干支の巳年から始まり、第13回目の平成25年よりは、古事記や日本書紀などの「神話」を題材に製作しています。令和4年の迎春ねぶたは、自然を司る神様であります風神雷神を題材としました。コロナ禍における現状に加えて、国内外においては豪雨や猛暑などの異常気象が頻繁に起きています。風神は、風を司る神様であり、古来より農業神として農業との関わりが強く、また、菅原道真公の怨霊という災厄神という一面もあり、災厄の神を祀ることで厄を祓う意味があります。風神雷神は、厄を除くのに相応しい神様であり、疫病や自然の猛威に打ち勝つという強い思いを込めて製作しました。令和4年が寒川大明神の八方除の御神徳と共に、風神雷神のお力をいただきまして、ご参拝の皆様の厄難消除、疫病退散を衷心より祈念致します。 ※ 日没から午後10時まで点灯(三が日は常時点灯)、2月23日まで設置 ※ 「ねぶた絵馬」1体500円(1,000体限定)青森ねぶた師 北村 蓮明氏昭和23年生まれ:青森ねぶた大賞、知事賞等受賞。「新型コロナウイルス感染症を始めとして、日々、国内外の災害が起こっています。風神雷神を寒川神社様の神門に大きく、力強く掲げました。神様と自然への畏怖の気持ちを忘れずに、そのお力をお借りして、厄と疫病を打ち払います。令和4年がご参拝の皆様方にとりまして、心穏やかな年となりますようにお祈りしています」神門を入り正面に本殿。本殿前から神門。授与所各種お守り等をいただくことができる。四季桜(しきざくら)まだ若木の四季桜ズームアップ。タウンニュース 2月11日(金)に掲載(3枚)。今年はNHKの大河ドラマで「鎌倉殿の13人」を放映、このため由来の地を紹介。梶原景季がねぶたに 寒川神社で展示中寒川ゆかりの武将、梶原景時。その嫡男景季(かげすえ)の雄姿が、寒川神社の御本殿で光を放っている。刃を構える背には梅の枝が。ねぶた師の諏訪慎さんが制作し、2月下旬まで展示されている。景季は木曾義仲と源義経が宇治川(京都)で戦った時に先陣争いを繰り広げたり、生田の森(神戸)での平家との戦いでも奮戦、梅の枝を箙(えびら=矢を運ぶ道具)に挿して戦ったエピソードなどがある。のちに父景時とともに鎌倉から離れ、上洛を目指す途中で討たれた。鎌倉市笛田の佛行寺には、景季の片腕を埋めたと伝わる「源太塚」が残る。中村獅童さんが演じる梶原景時は2月6日放送の大河ドラマで初登場した。以下3枚の写真は、昨年5月8日(土)に訪れた写真です。「平塚から寒川へ―5、寒川浄水場から梶原景時館跡周辺へ」☚をクリック願います。一之宮小入口交差点を左折してすぐ南側に位置する「梶原景時館跡」所在地:神奈川県高座郡寒川町一之宮8丁目6-6駐車場がなく広場へ駐輪するが個人用で移動。梶原景時館跡梶原景時は治承4年(1180)8月、源頼朝挙兵の時、石橋山の合戦で洞窟に逃れた頼朝の一命を救いました。翌年正月、頼朝の信任厚い家臣となり、鎌倉幕府の土台を築くのに貢献しました。一宮を所領としており、この地に館を構えたとされています。図に示すとおり館の規模は広大だったとの説もあり、現在も当時の堀のなごりを留めていると伝えられています。天満宮の位置はその一角で、当時は物見の場所として一段と高く構築したとも伝えられています。景時は和歌もたしなみ文武両道で秀でた武将でした。頼朝の死後、多くの家臣からそねまれ、ついに正治元年(1199)11月、鎌倉を追放され、一族郎党を率いて一宮館に引き揚げました。その後、景時は再起を期し、上洛するため、翌正治2年正月20日午前2時頃ひそかに館を出発しました。一行は清見関(静岡市清水区)で北条方の軍の攻撃を受け、景時以下討死という悲劇的な最期を遂げました。館の留守居役の家臣も翌年尾張(愛知県)に移ったと伝えられ、また物見のあとの高地には里人が梶原氏の風雅をたたえ、天満宮を創設したともいわれています。 平成21年3月 寒川町教育委員会一宮館跡案内図寒川町梶原公顕彰会会報(梶原) 800年記念特集号の図をもとに作図。 END
2022.02.24
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神奈川県公安委員会から下記はがきを受領、免許証の有効期間満了日に75歳以上の方は、道路交通法により免許証更新の前に認知機能検査と高齢者講習を受ける必要があります。はがきには、「すぐに予約をしてください。」と。最寄りの「京急茅ヶ崎自動車学校」へ電話をして予約。混んでおり「1月20日(木)15:20」で予約。1月20日(木) 15:00京急茅ヶ崎自動車学校所在地:神奈川県茅ケ崎市本村3丁目8-54自宅から500メートルほどのところに位置する自動車学校。窓口は、コロナ対策でカーテンで仕切り。免許更新の高齢者が20人ほど待機。15:20時間になり講習会場へ移動。今回は「認知機能検査」を受検。認知機能検査について、● 認知機能検査の内容は、以下のとおりです。 内 容 ① 日付・時間を書く検査 ② 複数の絵を記憶し、思い出して書く検査。 ③ 指定された時刻の時計を描く検査。 時 間 30分● 手数料試験結果は、約1週間後に自宅へ連絡すると。総合点による判定76点以上 記憶力・判断力に心配ありません。 講習:2時間、料金:5,100円49点以上76点未満 記憶力・判断力が少し低くなっています。 講習:3時間、料金:7,950円49点未満 記憶力・判断力が低くなっています。 講習:3時間、料金:7,950円 「診断書提出命令書」の提出が必要になる。高齢者講習・臨時適性検査について1月末に「高齢者講習受講通知書」を受領。1、認知機能検査の結果 あなたの認知機能検査の結果は、 A:15、B:22、C:7 総合点:80 記憶力・判断力に心配ありません と判定されました。2、講習の予約 ・双方向型講義 ・運転適性検査 ・実車指導 時間:120分、手数料:5,100円3、高齢者講習の予約 2月26日(土) 8:30 京急茅ヶ崎自動車学校退院後で妻から「大丈夫」かと、適当な運動も必要であるので受験することに。 END
2022.02.23
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2月2日から16日まで緊急入院したが、この間の病院食をアップします。一日の摂取カロリーは1,500kcal、塩分は6グラム以下に。入院中の食事を今後のためにエクセルにまとめてみました。今回入院した、「順天堂大学医学部附属静岡病院」所在地:静岡県伊豆の国市長岡1129救命救急センター当センターは静岡県東部の第三次救急医療施設であり「救急医療の最後の砦」として重症患者様を24時間体制で受け入れている。入院ベッド数は全部で34床あり、全身の集中管理が必要な患者様の為の16床(4H・HCU)からなっています。当センターへは県東部地区より多数の緊急入院を必要とする患者様が搬送され、常に満床に近い状態です。このような病院に入院できラッキーであった!入院中に出てきた食事をスマホで撮影した。各日の朝食、昼食、夕食を整理。入院44時間後から食事が出たが、二日間の主食は50~80g、副菜も半量。四日目の朝からパン90g、ミルク200mlになり、主食も150gで通常の量に。塩分摂取量を一日6gに抑えているため、味が薄い。昼から魚料理もあり豪華であった。食欲があり出てきたものはすべて完食であった。カロリー制限しているため体重も74kgから70.4kgにダウン。右下のアイスクリームは食がない人用。帰宅後イオンで探すが販売していないと。入院中の時間は、旅友の指導でスマホでブログを作成、1,000円でカードを購入してテレビでオリンピック観覧。2月20日(日)退院後、我が家の庭のウメも見ると咲き始めていた。春はもうそこに来ているのだ。こちらは紅梅。2月21日(月)に病院から書類が届き退院後の初診は「3月14日(月)」に決定。我が家から病院まで、70 ~ 100キロあるが愛車で行くことに。 END
2022.02.22
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2月16日(水)に退院後このシリーズの後半をアップしました。連続投稿を継続するためのアップとなりキャプションが今一でしたがお許しの程よろしくお願いします。12月11日(土) 16:56陽が沈んだ稲村ヶ崎より伊豆半島方向。稲村が崎公園には多くの人が座り込み夕陽シーンを楽しむ。遠く左側に箱根の山並み、金時山、富士山と続く。江の島、右に金時山。17時になり、江の島シーキャンドルが点灯。右は国道134号のテールランプ。箱根の山並み。江の島シーキャンドルをズームアップ。17:01稲村が崎公園前交差点横の「稲村ヶ崎温泉」。17:07稲村が崎公園から国道134号を走り、七里ヶ浜海岸駐車場へ。Pacific DRIVE -IN所在地:神奈川県鎌倉市七里ガ浜東2丁目1-12いつも多くの観光客が食事、テークアウトして車中で食べる人も。七里ヶ浜海岸駐車場の西側から江の島をのぞむ。江の島シーキャンドルをズームアップ。江の島シーキャンドルが光る。七里ヶ浜海岸駐車場の西側、行合橋交差点から江の島、富士山を望む。行合橋辺りからの富士山もビューポイントである。17:11七里ヶ浜海岸駐車場を後にし、国道134号を走り帰路に。17:18江ノ電鎌倉高校前駅辺りの藤沢行き電車。17:24腰越、江ノ島駅間の電車通。17:27江ノ電江ノ島駅。スズメも衣裳替えをしていた。江ノ島駅前。17:32江ノ島駅前から、すばな通りを走り境川に架かる弁天橋上から。正面に小田急片瀬江ノ島駅。弁天橋上から境川の上流を望む。17:35小田急片瀬江ノ島駅。ライトアップされた小田急片瀬江ノ島駅。17:38小田急片瀬江ノ島駅から国道134号の、片瀬江ノ島駅入口交差点。片瀬江ノ島駅入口交差点から新江ノ島水族館までの道路脇のライトアップ。ブルー系のイルミネーション。花壇のイルミネーション。新江ノ島水族館前にはこの時間でも観光客が列。17:41新江ノ島水族館のツリー。17:43新江ノ島水族館から江の島シーキャンドルを望む。真っ暗なサイクリングロードを走り茅ヶ崎市内へ、時間も遅くなり夕食をとることに。18:35松林通りにある「へっちゃらや」所在地:神奈川県茅ヶ崎市菱沼3丁目1-37暖簾に広島風とあったので以前から訪れたいと思っていたお好み焼き店に入る。メニューも年期が入り、営業をはじめて十数年と。大きな鉄板があり、広島風お好み焼きをオーダー。これは海鮮風でいろんな具材がのる。焼いたお好み焼きにマヨネーズをかける店長。これもパフォーマンスで1メートル以上離れてお好み焼きに「プッチュ」。マヨネーズが飛んでいるのだが。広島風お好み焼き。ソバと豚バラ入りのお好み焼き。ビールのつまみで、バター牡蠣もオーダー。ビール二杯を飲み占めて、2,250円でした、美味しかった。19:30夕食後自宅へ到着。到着時のバッテリー残量は60%、走行可能距離は51kmであった。よって今日の走行距離は、94ー51=43km であった。歩行数は、9,900歩でした。 END
2022.02.21
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妙本寺の紅葉を楽しむ。12月11日(土) 15:38妙本寺祖師堂を見下ろす。見事な紅葉が広がる。石碑には、「萬葉集研究遺蹟」:篆書で書かれた文字。此地ハ比企谷(ひきがやつ)新釈迦堂 即將軍賴家ノ女(むすめ)ニテ將軍頼經ノ室ナル竹御所(たけのごしょ)夫人ノ廟(びょう)ノアリシ處ニテ 當堂ノ供僧ナル權律師(ごんのりっし)仙覺ガ萬葉集研究ノ偉業ヲ遂ゲシハ實ニ其僧坊ナリ 今夫人ノ墓標トシテ大石ヲ置ケルハ適(まさ)ニ堂ノ須彌檀(しゅみだん)ノ直下ニ當レリ堂ハ恐ラクハ南面シ 僧坊ハ疑ハクハ西面シタリケム 西方崖下ノ窟(いわや)ハ仙覺等代々ノ供僧ノ埋骨處ナラザルカ 悉(詳し)クハ 萬葉集新考 附録 萬葉集雑攷(考)ニ言ヘリ 昭和五年二月 宮中顧問官井上通泰撰 菅 虎雄書 鎌倉町青年團建碑二天門前のノーゼンカズラ。二天門。二天門の彫り物。15:42妙本寺を後にし石段を下りる。15:56天気が良く富士山が期待されたので光明寺裏へ、かながわの景勝50選「光明寺裏山の展望」。富士山がかすかに見えていた。稲村ヶ崎方向と富士山。浄土宗の大本山として名高い光明寺。裏山からは、天気が良ければ相模湾と材木座海岸、稲村ヶ崎、江の島、伊豆半島、そして雄大な富士を見渡す美しい景色を楽しむことができる。例年4月と9月には富士山頂に夕日が沈む「ダイヤモンド富士」を見ることができる。16:11光明寺の裏山の展望台から下り、国道134号を稲村ヶ崎へ。稲村ヶ崎の東側から伊豆半島。16:16鎌倉海浜公園稲村ヶ崎地区へ到着。電動アシスト自転車のバッテリー残量は、80%、走行可能距離は、67kmで余裕。今日の走行距離は、27km。今日の日の入りは伊豆半島へ。江の島と富士山の夕時を楽しむ。16:18日の入りもまじかに。南の空にはお月さんが。日の入のショーを追う。富士山、金時山の周りも色づく。16:2116:23サーファーもそろそろ陸へ。16:2316:24太陽が山にかかってからは数分のショーである。富士山廻り。16:25陽が沈む。西伊豆ではこれから日の入りに。伊豆の山々が茜色に染まる。16:32ダイヤモンド富士を見たいがいつも天気が悪く。16:39七里ヶ浜にはまだ観光客が砂浜に。若者がスマホで撮影。16:4416:44この時間帯は国道134号はいつも渋滞。16:4516:46この日12月11日はこの風景を見ているが、まさか2か月後に伊豆の国市からこの風景を見ているとは思いもよらず。旅先で心筋梗塞で入院するとは。16:48まだ多くの観光客が撮影に。公園内に咲くスイセン。また電動アシスト自転車で来たいものです。16:55陽が沈み30分が経ち廻りが暗くなったので、帰路につくことに。 ー 続く ー
2022.02.20
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2月2日(水)から16日(水)まで15日間緊急入院したため、このシリーズのアップが遅れましたことをお許しください。16日(水)の午前に退院し自宅に戻りましたので修正の上アップします。12月11日(土)14:45臨済宗建長寺派海蔵寺(かいぞうじ)所在地:神奈川県鎌倉市扇ガ谷4丁目18-8この手前左側にある広い駐車場(無料)に自転車を駐輪。海蔵寺(かいぞうじ)鎌倉時代、七堂伽藍を持つ規模の大きな寺があったと伝えられていますが、鎌倉幕府滅亡時に焼失し、その後、応永元年(1394)に鎌倉公方足利氏満の命で、上杉氏定が心昭空外を招いて再建され、扇ガ谷上杉氏の保護を受けて栄えました。この寺には多くの言い伝えがあります。空外は「那須の殺生石」の話が有名です。仏殿の薬師如来坐像は「啼薬師」「児護薬師」といわれ、胎内に仏面を収めており、啼薬師伝説があります。門前には、「千代能が いただく桶の 底脱けて 水たまらねば 月もやどらじ」と歌われたと伝えられる「底脱の井」や、鎌倉時代の遺跡である「十六の井」もあり、水の寺といわれています。 ● 宗 派:臨済宗建長寺派 ● 山号寺号:扇谷山海蔵寺 ● 建 立:応永元年(1394) ● 開 山:心昭空外(源翁禅師)山門9月に訪れた時は、山門前の階段沿いにはハギ生い茂っていた。ハギの木は綺麗に剪定されていた。海蔵寺には今年何度来たか、境内にはいつ来ても花が咲いており楽しませてくれる。モミジが見事に紅葉。鐘楼、書院。ネコがウメの古木に登る。何かを追いかけているのか。携帯で撮影する観光客。岩の上に植栽されたのかハゼの紅葉。山門から振り返る。早咲きのスイセンが咲く。本堂裏の書院。本堂前から山門を望む。ツツジも咲き終わった後整姿されているようだ。鮮やかな色の紅葉。海蔵寺シンボルの赤い傘。本堂、薬師堂(左側)。山門前の紅葉。14:58山門廻りの紅葉。15:02臨済宗建長寺派寿福寺所在地:神奈川県鎌倉市扇ガ谷1丁目17-7壽福金剛禅寺の外門。外門前で子供たちが遊ぶ。寿福寺(じゅふくじ)源頼朝が没した翌年、妻の北条政子が明菴栄西を開山に招いて建立した鎌倉五山第三位の寺です。鎌倉幕府三代将軍の源実朝も、再三参詣しました。栄西は日本に初めて臨済宗を伝えた禅僧で、『喫茶養生記』を著すなど、お茶を飲む習慣を日本に伝えたことでも知られています。裏山の「やぐら」(中世の横穴墳墓)には、源実朝、母・政子の墓といわれる五輪塔があります。墓地には俳人・高浜虚子や作家・大佛次郎などが眠っています。 ● 宗 派:臨済宗建長寺派 ● 山号寺号:亀谷山壽福金剛禅寺 ● 建 立:正治2年(1200) ● 開 山:明菴栄西源実朝(1192 ~ 1219)建久3年、源頼朝の次男として誕生12歳で鎌倉幕府第三代将軍となる。蹴鞠、管弦、和歌に秀でた文化人で金槐和歌集は有名である。寿福寺との関係は深く、開山栄西禅師が実朝に献上した喫茶養生記をはじめとする由縁の品々も、この寺に伝えられている。外門から山門への参道。逆光を浴びるモミジ。山門前から外門への参道。15:06紅葉には少し早かったようだ。15:12イタリア料理の「ラ・ルーチェ」所在地:神奈川県鎌倉市雪ノ下1丁目7-6店は、JR鎌倉駅から小町通りを歩き一番奥に位置しており鶴岡八幡宮の三の鳥居から近い。三の鳥居方向から入り、左前方のビルの一階にある。15:16鶴岡八幡宮の三の鳥居。日蓮宗 妙本寺へ向かう。15:24日蓮宗 妙本寺所在地:神奈川県鎌倉市大町1-15-1二天門前の紅葉が素晴らしいのだがまだ少し早かったようだ。右側の坂を上ると駐車場がある。妙本寺(みょうほんじ)この寺一帯の谷を比企谷といい、源頼朝の重臣・比企能員らの屋敷がありました。比企一族は二代将軍・頼家の後継者争いの際、北条氏を中心とした軍勢にこの地で滅ぼされました(比企の乱)。その後、乱から逃れていた末子能本が、日蓮聖人に帰依し、一族の屋敷跡であるこの地に法華堂を建てました。これが妙本寺の始まりといわれています。四月から八月にかけて、桜・カイドウ・シャガ・ノウゼンカズラなどが鮮やか花をつけ、静かな境内を彩ります。 ● 宗 派:日蓮宗 ● 山号寺号:長興山妙本寺 (ちょうこうざん) ● 建 立:文応1年 (1260) ● 開 山:日蓮聖人 ● 開 基:比企大学三郎能本写真は、祖師堂とノウゼンカズラ二天門前の紅葉が期待されたのだが。二天門天保11年(1840)に建立されたという堂々とした弁柄塗りの「二天門」。脇には大きなカエデがあり、紅葉の季節はとても美しいと妙本寺の境内には比企一族の墓地がある。前撮り撮影にカップルが一組。紅葉を見上げる。妙本寺は、今年放映されるNHKの大河ドラマ「鎌倉殿の13人」のメンバーである、比企能員に関係する寺である。鐘楼廻りの紅葉。鐘楼下から二天門、祖師堂。夏に楽しませてくれたノウゼンカズラ。祖師堂前の境内。祖師堂の前には、カイドウ、手前にはノウゼンカズラの古木。祖師堂の左奥へ。祖師堂。祖師堂左奥にある池に映える紅葉。祖師堂の左奥の一段高いところに「源媄子墓」がある。源媄子(みなもとのよしこ)墓参拝者がいるのであろう、花が飾られていた。15:37源媄子墓鎌倉幕府二代将軍源頼家公の息女で四代将軍源頼経公の夫人である。分暦元年(1234)九月二十七日三十二才で御逝去。尚當地は新釈迦堂の地である。 ー 続く ー
2022.02.19
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昨日16日(水)に退院、今日は15日間不在であったのでパソコンのメールを確認整理。また、今回の入院による生命保険会社からの書類を着ていたので確認申請準備。2月17日(木) 7:30これからは、目覚まし時計を7時半にして規則正しい生活に!今までは朝食後に2錠の薬を飲んでいたがこれからは「血液サラサラ」の薬が必須に!数も多くなり日付けをつけて整理する必要がある。2月17日(木) 朝食トーストにチーズがあるのでカロリーオーバーか?2月17日(木) 昼食シラス入りチャーハン。妻曰く「野菜を入れ塩分を少なくして料理した」と。夕食については、妻から撮影を拒否され非公開に。16日ぶりに風呂に入り、胸下までつかる。 END
2022.02.18
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今月2日に救急車で緊急入院以来、術後の経過も良好で13日(日)ようやく退院許可がでる。しかし、箱根辺りの気候が悪く積雪で通行止めになる可能性があり、事情を説明し16日(水)10時の退院となる。退院にあたり、リハビリの指導を受ける。 ☆ 有酸素運動を行う。 ☆ 1回の運動時間は30~60分程度で、週3~5回を目安にしましょう。 ☆ 運動の程度は「少し汗をかき、息があがらず、会話をしながら運動できる程度の運動」が できる。食事対応。 ☆ カロリーの摂りすぎは肥満の原因となります。1600Kcalを目安とし、摂りすぎに注意。 ☆ コレステロールの摂りすぎは動脈硬化を招きます。コレステロールを多く含む食品 (脂身の 多い肉や魚の内臓、卵) を摂りすぎないように。 ☆ 塩分の接取は、1日6g以下の減塩に。飲酒 ☆ 適度な飲酒は1日平均純アルコール20g程度 (ビール中瓶1本または日本酒1合) とされる。 ☆ 過度な飲酒は避け、週に2日程度の休肝日をもうける。2月15日(火) 20:00今回の入院の四人部屋。初めて同部屋の方たちと話が弾み会話。退院後、一ケ月後の外来で私が当病院へ来るので再会しようと連絡先を渡す。函南町の90歳、伊東市の78歳、富士市からの68歳の方たちと。2月16日(水) 6:47朝6時に検温、血圧測定等があり終了後、体に取り付けたセンサー等を取り外す。箱根方面の天気が気になり、日の出前の駒ケ岳を望む。同時間に伊豆の山並み。日の出を見ようとしたが既に相模湾は日が当たり明るい。7時過ぎに妻へ電話すると予定どうり自宅を出発したと。8:10最後の朝食が出る。温かいパンは90グラム。各人のメニュー日々のこのシートを妻へ送信しているので明日からどうなるか。同部屋の人が食欲がなく、担当医に相談して栄養たっぷりのこのアイスが出ている。市販のようなので撮影させていただき今後の参考に。食事後、 ① 薬局から30日分の薬を受け取る。 ② 入院費の請求書を受け取る。 ③ 自宅最寄りの病院の紹介状を受け取る。 次回の外来は一ケ月後に当病院へ来ることにし予約を入れるが後日はがきを貰うことに。10時に妻が8階の面談室へ上がってきて15日ぶりに再会、看護師に挨拶をし会計へ。10:35順天堂大学医学部附属静岡病院入口所在地:静岡県伊豆の国市長岡1129ワクチン接種会場の案内。工事中で玄関先が狭い状態になっている。11:20病院から国道1号を走り箱根峠を越え、箱根新道を下る。道路脇には雪があり、朝方には凍結しチエーンがないと通行禁止であったと。12:25早朝より長男の嫁の父親に迎えに来ていただき昼食をとりに「あさまる」へ。所在地:神奈川県茅ケ崎市柳島海岸18-31久しぶりに豪華な「シラス定食」を食べる。この時期シラスは禁魚になり、「生シラス」は「沖漬けシラス」に。今回の緊急入院はラッキーが続き一命を取り戻すことができた。① 旅友が二人おり適切なる対応を願い、救急車が来やすいところであった。② 近くに設備の整った順天堂大学があった。③ この時期たらいまわしもされずにスムーズに入院できた。④ 早期治療ができ、治療後も集中治療室は唯一の個室へ。治療スタッフの方々に感謝感謝です。それ以上に旅友に対しても。明日からは妻にも世話になります。これからは体調を考えながら心臓に適量の負荷を与えて生活。 END
2022.02.17
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今回は、病院食の食事をアップします。予定時間になると運んでくる、1,000万円の配送車。この大きさの半分のものもあった。2月4日(金) 12:30入院以来始めての昼食。各人の名前がかかれており確認。ご飯の量は、白米50グラム、副食も半分。お茶の量も、少なめだが。2月4日 18:00 夕食ご飯は、五穀米 80グラム、副食は半分のまま。塩分を1日6グラムに押さえているので薄味。2月5日(土) 7:30パン 45グラム、ミルク 100ml、野菜サラダ、ミカンと量が半量であった。12:30 昼食ご飯80グラム、副食全て半量。18:00 夕食少なめ目の五穀米 80グラム、副食 半量。2月6日(日) 8:00 朝食パン 90グラム、ミルク 200mlと量が倍になる。12:15 昼食主食のご飯が150グラムになる。 18:00 夕食 二人主食の五穀米は150グラム、副食も多くなる。既に酒を抜いてから10日目になる。日がたち、2月12日(土) 18:10 夕食主食の五穀米の量は、150グラム。副食は、豆腐ミートローフ、トマトマリネ、ポテトサラダ、フルーツと、品数が多い。卒業した会社の同僚にこの写真をメールすると「酒のつまみによいね」と返信がある。2月13日(日) 朝食パン 90グラム、カボチャのスープ煮、ブロッコリーのサラダと豪華なメニュー。コーヒーがないのが残念だが‼️カボチャのスープ煮は、美味しかった。今まででてきた料理は全て完食しました。だいぶ病院食にもなれる。体重も、74から71.6キロと順調にさがる。この際、70キロ位でキープしたいものです。退院後は入院中にでてきた献立表を整理して、日々の献立の参考にしたいものです。が、つくるのは連れ合いですから、どうなるか。 ― 続 ―
2022.02.16
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2月12日(土) 8:00病院棟の八階から箱根方面を望む。我が家へは、東名高速を利用して、約100キロ、所要時間1時間半、箱根越えで70キロ、2時間。箱根の山は雪がつもり白くなっている。退院許可が出ても、迎えの車が来れず待機状態に。入院延長が出きるのか?昨日主治医から経過良好で明日の検査で問題なければ退院も日or月曜日になると。レントゲン検査で車椅子に乗り配送係(笑)に押されて一階へ。ここにも人手が必要。将来AIロボットの出番があるのでは❗移動時でも腰にぶら下げ行動。左から、「脈拍」「呼吸」「SpO2」の数値。心電図も集中管理されている。体に電極を三ヶ所貼られ、心電図を管理。単3が二本だが心臓に関するので毎日交換する。一般的名称:テレメトリー式心電送信機。販売名:送信機ZS-530P南東方向の伊豆の山並み。伊豆大仁カントリークラブのフェアウェーには雪が積もっているのか? ― 続 ―
2022.02.15
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「紅葉の鎌倉へ」をアップしておりましたが、緊急入院のため、続編は「下書き」状態になっております。よって、本日より上記タイトルでアップさせて頂きます。写真がないのが残念ですが。2月2日(水)に伊豆の国市の江川邸から救急車で「順天堂大学病院静岡」へ搬送され「心筋梗塞」でカテーテル処置をして、一命を取り戻した。旅とも二人の適切なる初動に対して感謝の一念です。あれから、12日間のんびりと病院生活を楽しんでおります。順天堂大学 医学部附属静岡病院所在地:静岡県伊豆の国市長岡1129カタログより、ここで緊急カテーテル処置。この台の上で、まな板状態で。2月2日(水)の、15:30~17:30に意識のある中カテーテル処置、その後、集中治療室(タイミングよく個室が空いていた)へ。身動きができず、ベッドの上で横たわる、まな板の魚状態。テレビは目の前にあるがBS放送がない(無料)ので、番組が少なく。食事もなく点滴で時を待つ。2月4日(金) 11:00頃 手術後、40数時間を経て、一般療棟へ移動。昨年8月に完成したH棟からA棟八階、四人部屋の8A01の1-1ベッドへ。12時半過ぎに、昼食が届く。約三日ぶりの食事。量は、ご飯50グラム、副食も1/2。味は塩分少なめで薄かったが、予想していたので美味しかった。我が人生における入院生活は、大腸のポリープ除去で一泊二日を二度経験しているのみである。コロナの感染予防対策で家族とも会えず、荷物を受けとるのみ。面会はできず、入り口には「面会禁止のお知らせ」の看板。デイタイムコーナー しばらくは歩行も禁止、尿も尿瓶へ。我が部屋にも欲しい‼️。ドクターヘリ緊急患者を下田辺りから搬送される。ゴルフ、釣り人等々。同室の人は函南からドクターヘリで入院したと。 ー 続 ー
2022.02.14
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新型コロナの感染がおさまらないなか、2月2日(水)から会社の保養所を予約して、二泊三日の「鎌倉殿の13人」のゆかりの旅を計画。鎌倉殿の13人 伊豆の国 大河ドラマ館所在地:静岡県伊豆の国市四日町772開館時間:9時~17時(最終入館:16時30分まで)休館日:水曜日 ※ 2月およびGWは毎日。入場料:大人 400円駐車場:無料2月2日(水) 6:30 いつもの旅ともが我が家へ到着後、わが愛車ジュークにて途中先輩宅へ立ち寄り3人で熱海へ向かう。8:30途中、熱海桜の「糸川の桜」を約一時間散策。熱海梅園の横をのぼり、箱根ごえをして、函南町の高源寺、六蔓部寺他を散策。12:30函南の後は伊豆の国市の「北条氏ゆかりの地」へ。昼食時を過ぎるが散策を続ける。①国清寺とスダジイ②毘沙門堂③滝山不動堂、不動の滝④香山寺 ⑤山木館跡⑥江川邸(旧韮山代官所跡)③の滝山不動堂へ登った時、今から考えるとしんどかった。 ④の香山寺へ行った時暑く上着を脱ぎ、背中がゾクゾクした。 14:45⑤から⑥へ私の運転で移動。江川邸の見学をするために、受付へ行くが、館まわりが工事中で見学をやめ、愛車へ戻るとき気分が悪くなりフラフラと、トイレへ。用を終えるが愛車のそばで意識を失う。直ぐに意識は戻ったが、旅とも二人が直ちに救急車を手配してくれた、15:00救急車が到着、車内でいろいろ質問され意識の戻っていた私が回答し、約6キロのところにある「順天堂大学病院静岡」へ、旅ともは後ろから追いかけると。駿東伊豆消防本部の救急隊。15:30 ~ 17:30心筋梗塞とのことで、もうろうとするなかカテーテル手術。①血管三本のうち一本が詰まっていたのでリングを いれた。②今後は、「血液さらさら」の薬が必須。 ③家族が呼ばれ「入院は、二週間」と。ブログは旅ともから「継続は力なり」と、度々云われておりこの12日(土)まで約3年間連続投稿予約を完了しております。以上のことより、連続投稿が途絶えることとなりますが、今後ともよろしくお願いいたします。なお、本ブログはスマホで作成しておりますので、編集等において不備があると思いますが、ご理解のほどよろしくお願いいたします。入院先:順天堂大学 医学部附属静岡病院。 ー 続 ー
2022.02.13
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円覚寺の弁天堂へ登る。ここは向かい側下の東慶寺境内から見上げている堂である。12月11日(土) 13:43弁天堂の境内の隅に墓碑が立つ。こちらの墓碑は、 「天眞 喜屋宗蔵居士 ○○」 「蘭亭居士之墓」南西の方向に富士山が見える。南方向の眼下には東慶寺境内。2月には境内のウメの花が咲き始める。弁天堂の前に建つ国宝の、「洪鐘(梵鐘)」。13:47洪鐘弁天茶屋お抹茶はもちろんのこと、汁粉やコーヒーも愉しめ、北鎌倉を一望できる場所である。紅葉の最盛期はこれからか。弁天堂を後にし階段を下りる。弁天堂から下り、山門。13:52正面に総門、右は拝観受付、この時間帯観光客が少なかった。まだ見るべきところが多々あったが約1時間45分の散策で後にすることに。総門からの紅葉。総門の扁額、「瑞鹿山」。総門横の塀と紅葉。陽を浴びて映えるモミジ。総門前の石段。円覚寺総門前の紅葉もビューポイントである。14:00JR横須賀線、北鎌倉駅方向。14:04県道21号線(横浜鎌倉線)を鎌倉方面へ向かい、東慶寺入口へ戻る。この塀の後側に自転車を駐輪して円覚寺を散策した。14:09東慶寺から鎌倉側の数百メートルのところにある、「浄智寺」へ。鎌倉五山第四位の「浄智寺」所在地:神奈川県鎌倉市山ノ内1402県道21号線から百メートルに位置し、石段を上ると総門、両側に石燈籠。浄智寺(じょうちじ)鎌倉五山の第四位であり、豊かな緑におおわれた境内は、国の史跡に指定されています。総門の手前にある古い石橋のたもとには、鎌倉十井の一つである甘露ノ井があり、その先には、印象的な苔むした参道の階段と、上に鐘楼がある珍しい山門があります。仏殿には、室町時代に造られたという三世仏坐像(向かって左から阿弥陀・釈迦・弥勅)が安置されており、それぞれ過去・現在・未来を意味するといわれています。また、境内一角の洞窟には、鎌倉・江の島七福神の一つである布袋尊がまつられています。国指定重要文化財に指定されている地蔵菩薩像や「西来庵修造勧進状」などは、鎌倉国宝館に預けられています。 ● 宗 派:臨済宗円覚寺派 ● 山号寺号:金宝山浄智寺 ● 建 立:弘安4年 (1281) ● 開 山:兀庵普寧(ごったんふねい)、大休正念、南洲宏海 ● 開 基:北条宗政、北条師時 ● 史 跡 名 :国指定史跡浄智寺境内(昭和41年2月28日指定) 写真は石段と山門 総門の扁額、「寶所在近」寶所在近の意味は、「がんばって修業を積めば、意外と早く悟りに到達することができる」と。浄智寺の総門手前にある井戸は、鎌倉十井のひとつ甘露ノ井(かんろせい)。総門を入った広場では、いつもキッチンカーで珈琲販売をしている。以前はなかったが、最近できたのかレンタサイクル。また、ここの右側に駐車場(無料)、自販機、トイレがある。広場から苔むした参道の階段を登り、振り返る。参道の階段を登ると正面に「山門」。平成19年(2007)に再建された鐘楼門には「山居幽勝」の額が掲げられ、花頭窓のある上層には慶安2年(1649)の梵鐘が吊るされている。境内一角の洞窟には鎌倉・江の島七福神の一つである布袋尊がまつられている。ここからは拝観料が必要である。浄智寺の外から、鐘楼門。本堂 曇華殿(どんげでん)曇華殿と呼ばれる仏殿で、御本尊は室町時代に作られた木像三世仏坐像で県指定の重要文化財。本堂前では多くの観光客が紅葉を追う。本堂の扁額、「曇華殿」。本堂 曇華殿と紅葉。陽を浴びるモミジ。本堂前の紅葉。浄智寺の東側には、葛原岡神社へ至る葛原岡ハイキングコースがあり、いつも多くのハイカーが登る。イチョウの葉の絨毯が広がる。上を見上げるとイチョウの黄葉が広がる。坂を下り総門へ。14:28総門下に鎌倉十井の一つである甘露ノ井がある。甘露ノ井に映える紅葉。波が起こり揺れる水面。14:36浄智寺から県道21号線(横浜鎌倉線)へ戻り、横須賀線の踏切を渡り鎌倉方面へ進む。臨済宗建長寺派 長寿寺(ちょうじゅじ)所 在 地 :神奈川県鎌倉市山ノ内1520季節・曜日限定特別拝観日 春季:4月・5月・6月 金土日及び祝日 秋季:10月・11月 金土日及び祝日 12月1日から6日まで 拝観時間:午前10時 ~ 午後3時(雨天中止)左側の坂は、亀ヶ谷坂切通で山越えで「扇ガ谷地区」へ。亀ヶ谷坂切通を上り、閉鎖されている境内を覗き見る。4月9日(金)の特別拝観日に参拝し書院から境内を見た。14:39特別拝観日の秋季:10月・11月 金土日及び祝日 12月1日から6日まで。この日は12月11日で閉鎖中であった。 ー 続く ー
2022.02.12
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円覚寺の北側の最奥部へ入る。12月11日(土) 13:18左手奥にあったのが「続燈庵(ぞくとうあん)」の「山門」。ここも立入禁止になっていた。右側に、「續燈庵」の石碑。続燈庵の山門をズームアップ。続燈庵は、第三十世大喜法忻(だいきほうきん・仏満禅師)の塔所。本尊は観音菩薩。室町幕府の引付方頭人の今川範国が法忻のために創建し、のちに今川氏親によって再建された。本尊の観音菩薩は、もと東慶寺に伝えられた像である。黄梅院の山門下には多くの観光客。黄梅院(おうばいいん)北条時宗公の夫人、覚山尼が時宗公追善の為に建立した華厳塔の敷地に円覚寺第一五世夢窓国師の塔所として建てられ、国師の門弟方外宏遠(ほうがいこうえん)が文和三年(1354)に開創した。後の応安元年(1368)、室町幕府二代将軍足利義詮(よしあきら)の遺骨が分骨され足利家の菩提所としての性格を帯びている。山号は「伝衣山」。 本堂には、本尊「千手観音菩薩坐像」の他に「夢窓国師坐像」、室町期のものとされる銅像「千手観音菩薩立像」、木造「聖観世音菩薩立像」がまつられている。黄梅院の境内へ入る。黄梅院の「本堂」。当初は夢窓疎石の塔所として建てられたが、足利将軍家の手厚い保護を受け、以来足利氏の菩提寺としての性格が強くなったとのこと。本堂の扁額、「黄梅院」と書かれているのだろうが、「黄??」。本堂の奥に、観音堂(武山堂)。手前には四季折々にいろんな花が咲くようだが。観音堂(武山堂)。武藤山治の寄進した。観音堂の扁額、「聖観世音」。聖観世音像。黄梅院の山門から南方向を望む。山門前に紅葉が広がる。黄梅院の山門を振り返る、多くの観光客が次から次と。紅葉が映える。佛日庵の向かい側に、「白鹿洞(びゃくろくどう)」。白鹿洞(びゃくろくどう)円覚寺開堂の日、開山無学祖元禅師の説法を聴こうとして集まった多くの人々と共に、この洞穴より白鹿が群れをなし、禅師の説法を聴いたという。大衆は大いに驚異し、この奇瑞譚により山号を「瑞鹿山(ずいろくさん)」と定めた。これはお釈迦さまが初めて説法をおこなった鹿野苑(ろくやおん)の嘉例に擬したという。寺号は「円覚興聖禅寺』というが興聖の号は開山国師ゆかりの地、径山の「興聖萬寿禅寺」に由来している。 大本山 円覚寺 三宝会 参道を南方向に下る、左側に寺号標石「如意庵(にょいあん)」。階段を上り「山門」へ。山門前には、「これより先、檀信徒以外の方は 御遠慮下さい。」と。山門から中を望むと正面に「本堂」、奥に墓地。如意庵は、第三十六世無礙妙謙(むげみょうけん)の塔所。本尊は宝冠釈迦如来。開基は上杉憲顕で1370年(応安3年)の創建。伊豆の国市にある国清寺がその前身であるといわれている。国清寺は律宗寺院であったものを、憲顕が妙謙を開山に迎え禅宗の寺としたと考えられている。妙謙は、1369年(応安2年)に示寂。翌年、弟子たちによって庵が開かれた。開祖木像の頭部が残されている。山崎の昌清院は如意庵の末寺である。如意庵の向かい側奥に「舎利殿」の山門。妙香池廻りの紅葉。国宝 洪鐘(おおがね)洪鐘・弁財天へ向かう。唐門(勅使門)方丈の正門である唐門は天保十年(1839)の建立です。屋根の形が弓を横にしたような形をしていますが、これを「唐破風(からはふ)」といいます。松と鳥、獅子や象(または獏)、扉には龍・雲・波濤など、見事な彫り物が見られます。道案内「国宝洪鐘・弁天堂」仏殿の裏側。唐門(勅使門)を振り返る。国宝洪鐘(おおがね) 案内洪鐘弁天茶屋。蔵六庵裏の竹林。大弁財天への案内。13:36鳥居の手前に、「洪鐘道」の石碑が建つ。洪鐘(おおがね) 国宝一三〇一年「正安三年)に鋳造された国宝の洪鐘です。北條時宗公の子、貞時公が国家安泰を祈願して鐘の鋳造を鋳物師に命じましたが、鋳造がうまくゆかず、江ノ島の弁天さまに七日間参詣したところ、ある夜の夢の中で円覚寺の白鷺池の底を掘ってみよというお告げがあり、その通りにしてみると池の底より龍頭形の金銅の塊を発見、それを鋳造してこの洪鐘を造ったといわれています。この霊験に感激された貞時公は江ノ島の弁天さまを洪鐘の神体として「洪鐘大弁才功徳尊天」と名付けて弁天堂を建立しました。 大本山 円覚寺 三宝会石鳥居の後方に階段。140段の階段を上り、弁天堂へ。石碑は「弁天堂」の修築記念碑。 屋根葺替 北鎌倉 齋藤利助 石段修理 東 京 弁天講中 昭和三十一年四月途中にあったこの石碑の上部は破損していた。石段の上に「弁天堂」の姿が見えて来た。円覚寺 弁天堂執権北条貞時(時宗の子)が7日7夜江の島弁才天に参籠し天下泰平、万民和楽を祈り霊夢を感じて大鐘を鋳造(正安3年、1301年)し、当山に奉納した。あわせて弁天堂を建立し、弁才天を祀り当山の鎮守とした。以来霊験あらたかにして祈願すれば必ず感応を蒙むといわれて来た。又、この境地は眺望絶佳にして遠く富士山をも望むことが出来、多くの人々より称賛されてきた。因に当弁才天の祭礼は11月28日である。又、60年毎の己の年に大祭を行い、江の島弁才天と当山との間て盛大にとり行なわれる。 平成14年2月 大本山 円覚寺 弁天堂の扁額、「大弁財天」。内陣を望む、両側の壁面には絵が飾られている。両側に脇侍。右側の上には2枚の絵、「行列の絵」。左側の上にも2枚の絵。弁天堂の前に、「洪鐘(梵鐘)」。洪鐘(梵鐘)正安3年(1301年)に北条貞時が国家安泰を祈って鋳造、寄進した時の住持は西潤子曇、鎌倉第一の大鐘で国宝に指定されている。物部国光の作て、形が雄大てありながら細部にまて緻密な神経がゆきわたり技法も洗練されている。鎌倉時代後期を代表する梵鐘である。 平成13年10月 文 化 庁 大本山 円覚寺鐘楼も長い年月で劣化。13:42鎌倉で最大の梵鐘で、鎌倉三名鐘の一つで建長寺の梵鐘とともに国宝に指定されている。 ー 続く ー
2022.02.11
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円覚寺の奥(北方向)へ進む。12月11日(土) 12:48龍隠庵(りょういんあん)から下り参道へ。居士林(こじりん)禅を志す在家の人の坐禅道場である。もと牛込にあった柳生流の剣道の道場であったものを、昭和3年(1928)に柳生徹心居士により寄進され移築された。現在も学生坐禅、土日坐禅会など、初心者でも参加できる坐禅会が定期的に開かれている。居士林(濟蔭庵)(さいいんあん)明治の頃より円覚寺では、在家の人の坐禅(居士禅)が盛んになり、山岡鉄舟、鈴木大拙、夏目漱石などの居士が参禅しました。大正十一年にこの濟蔭庵に居士の坐禅道場として居士林が開設されましたが、大正十五年に消失、早大濟蔭団が中心になり復興運動を起こしました。幸いなことに柳生新陰流の剣道場を、柳生基夫氏(徹心居士)が寄付を決断され、昭和三年にこの濟蔭庵に移築して開単となり、以来八十年近く、学生や社会人が中心となって雲水と同じように修行する学生坐禅会、土日坐禅会を運営してきました。堂内には本尊の不動明王がまつられ、「頭燃を救うが如し」の扁額が掲げられ、心の安らぎを求めて坐禅に来る人を持ち受けています。 大本山 円覚寺 三宝会 居士林(濟蔭庵)の庭にはいろんな石碑が置かれていた。紅葉の下でコケも映える。立入禁止になっており庭には入れず。石灯籠も。居士林の裏は広いスペースになっていたが。入口に地蔵が立つ。道を挟んで居士林の向かい側に「法堂跡(はっとうあと)」がある。現在は法堂跡にはなにも建っていない。法堂跡(はっとうあと)法堂とは禅宗寺院で住持が説法をする重要な場である。円覚寺法堂は北条高時公の時代、北条貞時公十三回忌にあたる元享三年(1323)に建立。「直指堂」と命名された。円覚寺が創建されてから約四十年後のことであった。鎌倉時代未期には山門、法堂はもちろんのこと、方丈・華厳塔・佛日庵なども揃い寺の諸建物がことごとく整えられた。法堂落成から応安七年(1374)の大火で全山が焼亡するまでの約五十年間が寺勢の最も繁栄した時期だったのである。 大本山 円覚寺 三宝会参道の左手にあったのが「寿徳庵(じゅとくあん)」への石段。寺号標石「寿徳庵(じゅとくあん)」大本山円覚寺 百観音霊場 第五番札所 寿徳庵寿徳庵は、円覚寺第150世・叔悦禅懌(しゅくえつぜんえき)の塔所。墓地には中興の三浦道寸(義同)一族の墓がある。三浦道寸は永正十三年(1516)、北条早雲により滅ぼされた。これにより三浦一族は400年の歴史に終止符を打った。寿徳庵へは立入禁止になっており途中で引返すが、南方向に先程訪れた、「居士林」、中腹に、「龍隠庵」が建つ。同場所から、「仏殿」、「山門」の屋根。奥へ進むと左手に「やぐら」の中に石仏。方丈(ほうじょう)禅林の住持の居間をいう。維摩居士の居室が方一丈であったことに由る。今は主に檀信徒の法要、座禅会、研修会等の教化の場に用いられる。方丈の扁額、「方丈」。方 丈本来は住職が居住する所を方丈といいましたが、現在は本山行事の中心的な場所となっています。正面向かって右手の奥に「大書院」「小書院」が配置され、右手前の部分は褝宗寺院の台所である「典座(てんぞ)」になっております。今の方丈は震災後昭和四年に新築され、平成十年に改修工事が行われました。日常は檀信徒の法要、日曜説教、坐褝会、本山各種研修会、宝物風人、更には講師を招いての夏期講座やチャリティコンサートなどに使用されています。 大本山 円覚寺 三宝会方丈の前に無学祖元禅師により植えられたという樹齢700年以上の「柏槇」。幹の中心に樹木医による治療跡が見える。方丈へ上がり、「小書院」、「大書院」へ。壇上から境内を見下ろす。こ大書院に「釈迦牟尼坐像」。方丈の裏側へ廻り、裏庭の「庭園」へ。方丈の裏側の縁側に立ち裏庭を観賞。方丈背後の庭園には「心字池」が配されている。心という字をかたどっていることからこのように呼ばれ、禅宗様式の庭となっている。ライトアップもされているのか。方丈の境内にある、「百観音霊場」の入り口。百観音霊場百観音霊場の由来は、養老二年(718年)徳道上人が開設した西国三十三観音霊場と、鎌倉時代、 観音信仰に篤かった源頼朝が開いた坂東三十三観音霊場と、その後に出来た秩父三十四観音霊場の総称とされています。円覚寺方丈前の百観音は江戸時代、拙叟尊者が百体の石仏を岩窟に奉安したことが由緒となり、明治に至って今北洪川老師が整備されました。円覚寺の百観音を結願所として円覚寺派の寺院に百観音巡礼の札所が開設されました。昔は、霊場に写経を納め、その際に納経印をいただいていましたが、それが現在の御納経帳または御朱印帳に変わったものとされています。行く先々の霊場で観音さまの由来を知り、観音さまの御利益にあずかり、観音さまを念じながらお参りされると、心が清浄になり安心を得られることと思います。柏槇(ビャクシン)市指定天然記念物向いの大木は円覚寺開山、無学祖元禅師により植えられたとの言い伝えから、七百年以上の樹齢だと言われております。幹の中心に樹木医による治療跡が見ることができます。開山様との御縁で平成ニ十四年に京都、南禅寺に若木が移植されました。 大本山 円覚寺 三宝会百観音霊場の紅葉。百観音霊場と方丈。石碑・石仏の前には飛び石が置かれていて、中をぐるりと巡ることができる。いろんな石碑・石仏があり撮影も大変。方丈背後の庭園には「心字池」が配されている。妙香池(みょうこうち)今日の紅葉の撮影スポットになっていた。妙香池(みょうこうち)総門前の白鷺池と並び、円覚寺創定当初から知られた放生池である。建武ニ年(1335)頃の円覚寺境内絵図にすでに見られる。今回江戸時代初期の絵図に基づき、自然風の姿に戻し「虎頭岩」と呼ばれる岸の露出岩盤を景観の中心として復元した。夢窓疎石の作庭であると。 平成13年3月 文 化 庁 大本山 円覚寺立て看板の右下が、「虎頭岩」。後方の建物は、正伝庵(しょうでんあん)で、第二十四世明巌正因(みょうがんしょういん)の塔所。本尊は宝冠釈迦如来。貞和4年(1348)、万寿寺(廃寺)内に創建された寿塔を、文和3年(1354)円覚寺に移した。更に北側に進むと、「国宝 舎利殿」、「北條時宗公御廟所」の石柱。妙香池を振り返る。舎利殿の山門山門には、「臨済録提唱」、「本派専門道場」。「坐禅道場ニ付キ立入ヲ禁ジマス」。円覚寺舎利殿は、円覚寺の塔頭である正続院(しょうぞくいん)の奥にたたずんでおり、静かな雰囲気を漂わせている。円覚寺舎利殿をズームアップ。舎利殿 国宝円覚寺の舍利殿には「佛牙舍利(ぶつげしゃり)」と尊崇されるお釈迦様の歯牙をおまつりしております。その由来は将軍源実朝公が宋の時代、中国能仁寺から請来したものです。この舍利殿は鎌倉にあった太平寺(尼寺・庭寺)の佛殿(鎌倉時代未~室町初期に再建)を移築したもので、中国、南宋時代の建築様式に学んだ禅宗様建築の代表的な遺構です。関東大震災に倒壊しましたが、昭和四年に復元しました。内部正面に佛舍利をおまつりする宮殿が安置され、その前に鎌倉彫りの須弥壇があり、観音菩薩と地藏菩薩がまつられています。隣は円覚寺派の厳格なる修行道場となっており、円覚寺開山無学祖元禅師をおまつりした開山堂とともに円覚寺随一の幽邃の地となっています。正月の三が日、五月の連休日と十一月の宝物風入などの特別期間以外は修行の為、拝観を制限させて頂いております。 大本山 円覚寺 三宝会舎利殿は見れず戻り、「佛日庵」「北条時宗公廟所」「鎌倉観音霊場第三十三番札所」「鎌倉地蔵霊場第十四番札所」「圓覚寺百観音霊場第四番札所」佛日庵(ぶつにちあん) 拝観料 1名 100円 抹 茶 1名 500円佛日庵(ぶつにちあん)は鎌倉時代に元寇の危機から日本を救った8代執権「北条時宗」の廟所として建立されました。また9代執権北条貞時、14代執権北条高時も合葬されています。廟所には木造十一面観音坐像のほか、僧の姿をした時宗、貞時、高時の木造坐像(いづれも江戸時代作)もまつられています。開基廟の山門。山門には「佛日庵」の表札がかけられている。山門から「開基廟」を見る。開基廟の前には、抹茶を飲むための緋毛繊の縁台が置かれていた。開基廟の内部には木造の「北条貞時像」が確認できた。出家した後なので剃髪と。この木造の下には石の棺があるそうで、そこに時宗の遺骨が納められているのだと。元寇の来襲を食い止めた時宗、元寇の植民地計画から日本を護った英傑である。但し、この元の襲来こそが北条家滅亡を生んだのかもしれない。早世で円覚寺創建から僅か2年で亡くなったと。元寇来襲からは3年目であった。開基廟(かいきびょう)圓覚寺大檀那である北条時宗・貞時・高時をお祀りしてあります。廟所とは、石碑を建てその上にお木像を祀るお堂を建てたものが正式のお墓で、国に特に業績のあった人にのみ許されたものです。時宗公は、一二八四年四月四日に亡くなられています。つまりは、圓覚寺が建立されてから二年後のことです。時宗公が亡くなられた後に開基廟が建立されたようですが、現在の開基廟は江戸時代一八一一年に改築されたものとされています。新編相模風土記によれば、お堂の下に各遺骨を納めた石櫃があるとの伝えが記されています。また、幾度の困難な戦災をくぐり抜け、ずば抜けた才能で幕府をまとめあげていたことから、学問の神・開運の神と崇められていました。 時宗公像は、現在修復のため主張中です。 中央に安置されているのは、貞時公像です。 13:18佛日庵、開基廟廻りの紅葉。ズームアップ。 ー 続く ー
2022.02.10
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数十年ぶりに円覚寺に入り、紅葉した境内を楽しむ。12月11日(土) 12:20円覚寺境内配置図階段を上り山門へ。石段を登ると正面に、山門が建つ。楼上に十一面観音像、十二神将、十六羅漢をおまつりしてある。山門の扁額、「圓覺興聖禅寺」は、伏見上皇の勅筆と伝えられている。木組みは匠の技。山門(三門) 県重要文化財山門は三解脱門(空・無相・無願)を象徴するといわれ、諸々の煩悩を取り払う門とされます。山門を通って娑婆世界を断ち切り、清浄な気持ちで佛殿の本尊さまをお参りしなければならないとされます。現在の山門は一七八五年(天明五年)開山五百年遠諱の年に大用国師(誠拙周樗)によって再建され、「円覚興聖褝寺」の扁額は伏見上皇(北条貞時の時代)より賜りました。楼上に十一面観音像、十二神将、十六羅漢をおまつりしてあり、毎年六月十八日に楼上で観音懺法(観音さまに懺悔をする儀式)が行われます。また毎年八月には山門を取り巻いての盆踊りがにぎやかに行われています。 大本山 円覚寺 三宝会山門のバランスは重心が高いのでは。山門の柱の礎石。地震対策がどうなっているのか気になるが。仏殿は大正十二年の関東大地震で倒壊したようだが山門はどうであったのか。山門を抜けると正面に「仏殿」。山門を振り返る。仏殿の前に、ビャクシンが聳える。仏殿の扁額、「大光明寶殿」は、1378年(天授4年)、後光厳天皇より賜りました。ビャクシンが聳える。ビャクシン属は、ヒノキ科の針葉樹の1属。ネズミサシ属とも呼ばれる。 樹高は、ハイネズの様な低潅木からイブキの様な高木まで様々である。匍匐性の品種も見られる。樹皮は赤褐色で、縦方向に薄く長く剥がれる。葉は短く茎に密着し、互いによりあって葉の付いた枝は棒状の外見を持つ。時に針状の葉を持つ枝が見られ1本の木に混在する。 ビャクシン 治療番号第一二八六号 蘇生外科治療 日本樹木保護協会 特許番号 第一七八一二三四号仏 殿円覚寺の本尊さまをおまつりしてある建物で、関東大震災で倒壊しましたが、昭和三十九年に再建されました。本尊さまは冠を被っておられるので、宝冠釈迦如来とよばれます。華厳の盧遮那仏とも称されます。本尊さまは一ニ八ニ年(弘安五年)佛殿開堂の際に安座されましたが、一五六三年(永禄六年)の大火で焼失、お顔のみが救出されました.後に江戸時代、天甫昌円によって一六ニ五年(寛永ニ年)佛殿が再建される際に体部が補造されました。その時、本尊さまの両脇に梵天、帝釈天がまつられました。「大光明寶殿」の扁額は一三七八年、後光厳天皇より賜りました。開山毎歳忌、達磨忌、臨済忌、祝聖などの諷経や毎朝の暁天坐禅がここで行われています。 大本山 円覚寺 三宝会仏殿に入る。ご本尊は冠を被っておられるので、「宝冠釈迦如来(鎌倉市指定文化財)」と呼ばれ、華厳の盧遮那仏とも称されます。脇侍は、向かって左が「帝釈天」、右が「梵天」とされており、何れも鎌倉市の指定文化財となっている。ご本尊の「宝冠釈迦如来坐像」。天井の龍は「白龍図」。天井画の「白龍図」 前田青邨画伯 監修 守屋多々志画伯 作仏殿の左奥に鎮座する二体の坐像は、左が「達磨大師坐像」、右に「無学祖元禅師坐像」。左が「達磨大師坐像」、右が「無学祖元禅師坐像」。右 無学祖元(むがくそげん)禅師坐像左 達磨大師(だるまだいし)坐像 寄木造(樹種不明)黒漆塗り 作風から十四世紀前半、鎌倉時代末期作製。 大変に若々しい青年のような達磨さま。 目を大きく見開き、ロをつよく結んでいる。 先師から嗣いだ「禅の教え」を中国の地に 広めんとする崇高な意志が伝わってくる。 像高 五ニ・七cm」当山歴代住職の位牌 新しいのは「當山二百十七世慈雲進和尚」。仏殿前から山門を振り返る。仏殿の西側にある、茅葺屋根の「選佛場(せんぶつじょう)」。選佛場(せんぶつじょう)選佛場とは、佛さまを選び出すという意味で、修行僧の坐褝道場のことです。創建時代の坐禅道場は建武ニ年の境内絵図に山門と佛殿の間の左側に裳階(もこし)つきの大建築として描かれていますが、永祿六年十ニ月の大火で焼失してしまいました。元祿十ニ年(1699)、伊勢長島城主松平忠充が江戸の月桂寺、徳雲寺住職一睡磧秀の薦めにより円覚寺に大蔵経を寄付され、同じ位置に経典を収蔵する蔵殿と坐禅道場を兼ねた現在の選佛場が建立されました。その後坐褝道場は正続院に移り、現在の選佛場には、南北朝時代の薬師如来が中央に祭られています。年ニ回地元の薬師講衆が参詣し、ご祈祷が行われ、また平成十五年より円覚寺百観音霊場の一番として、大慈大悲観世音菩薩が安置されています。 大本山 円覚寺 三宝会大本山円覚寺 百観音霊場 第一番札所 円覚寺選佛場の扁額、「選佛場」。選佛場内部に入り、正面に南北朝時代の「薬師如来像」、左右に畳が敷かれている。修行僧はこの畳の上で坐褝。選佛場の前から、「仏殿」。仏殿は大光明宝殿ともいい、大正十二年の大地震で倒壊後、昭和三十九年三月再建。唐様禅宗様式の鉄筋コンクリート造りである。左隅に、「龍隠庵(りょういんあん)」の寺標。龍隠庵への途中のやぐらの中に「観音像」。愛らしい地蔵も。円覚寺塔頭の龍隠庵は、黄梅院や正続院などの他の円覚寺塔頭に比べると、歴史的ブランド力に劣る感は否めませんが、円覚寺境内の中でも屈指の魅惑のエリアであると。境内の西側斜面にある「龍隠庵」へ。東側の山門、松嶺院、選佛場を見下ろす。龍隠庵前の見事な紅葉が迎えてくれた。龍隠庵は、百二世大雅省音(たいがしょういん)の塔所。本尊は聖観音。百三十七世芳隠省菊によって開かれた。法珠院の宿寮(龍隠軒)であったが、1426年(応永33年)に塔頭に列せられる。のちに法珠院が衰退し、龍隠軒のみが残った。龍隠庵の境内からは円覚寺の伽藍を一望できる。正面奥から、山門、松嶺院。同場所から東方向に、選佛場、仏殿。同場所から北方向に、居士林、寿徳庵。龍隠庵の奥にある墓地。古い墓碑が立つ。陽を浴びて紅葉が映える。龍隠庵には、小さな本堂と、わら葺きの茶室「楽々庵」、白壁の蔵、客殿らしき建物がある。山の岩場にはやぐら。仏殿の屋根を見下ろす。逆光に映えるモミジ。境内の片隅にスイセンが咲いていた。12:46紅葉の最盛期はこれからなのか。 ー 続く ー
2022.02.09
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今日は数十年ぶりに円覚寺へ行くことにし北鎌倉へ。12月11日(土) 11:45時宗西台山 光照寺(こうしょうじ)所在地:神奈川県鎌倉市山ノ内827光照寺(こうしょうじ)時宗の開祖一遍上人が、念仏布教のために鎌倉に入ろうとしたのを執権北条時宗の警護の武士に阻まれ、野宿した地に建立されたといわれる寺です。山門の欄間には、キリスト教の十字を意味する「クルス紋」が掲げられ、隠れキリシタンを受け入れていた伝承も残されています。本堂の周辺には、たくさんのシャクナゲが植えられ別名「しゃくなげ寺」と呼ばれています。ほかにも、ハギ、ユキヤナギ、レンギョウなど、四季折々の花を楽しめます。 ● 宗 派:時宗(じしょう)遊行寺派 ● 山号寺号:西台山英月院光照寺 ● 開 山:一向俊聖上人(いっこうしゅんしょうしょうにん)写真は「境内のカンヒザクラ」。念は往生なり 一遍上人 語録 お念佛を称える一念々々に 極楽往生が約束される山門の「くるす門」この門はもとは東渓院のもので、明治に入り東渓院が廃寺となったときに光照寺に移された。山門は「くるす門」と言われ、九州豊後国 岡藩主中川家の紋「中川クルス」(十字架を変形させた紋)が掲げられている。四季折々の花を楽しめる寺で参拝は二度目。境内は狭く、モミジの紅葉。本堂の扁額、「英月院」。境内に万両の実。山門の手前右手にある、江戸時代より続く「こそだて地蔵尊」。光照寺から県道21号線(横浜鎌倉線)に戻り、「鎌倉小坂郵便局」。古都鎌倉だけに景観をあわせた設計になっている。建物に、「鎌倉小坂郵便局」。県道21号線(横浜鎌倉線)を進み、前方に鎌倉十橋の一橋である「十王堂橋(じゅうおうどうばし)」橋長は約3.6米ある。11:54JR横須賀線の北鎌倉駅。11:58曹洞宗 東慶寺(とうけいじ)所在地:神奈川県鎌倉市山ノ内1367東慶寺は花の寺です。2月のウメ、3月の花モクレン、4月のサクラ、6月の岩タバコ、岩がらみ、花ショウブ、アジサイなど多種の花が咲きます。東慶寺(とうけいじ)鎌倉幕府の第八代執権北条時宗の夫人・覚山志道尼が開創。夫から離縁状をもらわない限り、妻からは別れることができなかった時代に、駆け込めば離縁できる女人救済の寺として、開山以来六百年近く縁切りの寺法を引き継いできました。後醍醐天皇の皇女・用堂尼の入寺以後は、松岡御所と称され、寺格の高い尼寺として名を馳せるようになり、室町時代には鎌倉尼五山第二位に列せられていました。明治時代になると寺法に終わりを告げ、釈宗演禅師を中興開山とする臨済宗円覚寺派の禅寺となりました。境内にはウメやハナショウブ、アジサイなど様々な花が植えられ四季を通じて楽しめます。学者や作家の墓が多いことでも有名で、鈴木大拙、西田幾多郎、岩波茂雄、和辻哲郎、安倍能成、高見順、小林秀雄らの墓があります。 ● 宗 派:臨済宗円覚寺派 ● 山号寺号:松岡山東慶総持禅寺(しょうこうざんとうけいそうじぜんじ) ● 建 立:弘安8年(1285) ● 開 山:覚山志道尼(かくざんしどうに) ● 開 基:北条貞時写真は、「金仏と梅の花」。境内の紅葉、今年は何度訪れたか。山門から参道、両脇にはウメの古木。参道脇には、ウメ、アジサイが咲き四季折々楽しませてくれた。東慶寺 本堂本堂の「泰平殿」は1935(昭和10)年に建立。宝形造の屋根が美しい。関東大震災後、佐藤禅忠師が寄進。昭和10年(1935)に建立したものです。東慶寺の金仏山門から参道を進むと現れる小ぶりな仏さまで東慶寺のシンボルとなっている。金仏を背景に四季折々の花を撮影できるのが、東慶寺の特徴である。4月には本堂前の枝垂れ桜が咲き楽しませてくれた。本堂に祀られた本尊の釈迦如来坐像。鎌倉市指定文化財で、寄木造り、玉眼入りの木造釈迦如来坐像である。本堂の扁額、「波羅密」。本堂に座り境内を見下ろす。金仏前から向かい側の山の中腹に「円覚寺 弁天堂」。この後訪れることにしている。蔦の紅葉も映える。ウメの古木幹に苔が生える。12:11東慶寺の入り口近くに駐輪して、円覚寺へ。県道21号線とJR横須賀線の間に建つ、「大本山圓覺寺」の寺標。JR横須賀線が通過。JR横須賀線のホームから多くの観光客が降り立つ。臨済宗大本山 円覚寺(えんがくじ)所在地:神奈川県鎌倉市山ノ内409境内には、八代執権の北条時宗公の御廟所がある。また鎌倉五山の第二位である。総門右側の塀際にモミジの紅葉。円覚寺境内には紅葉の見所がたくさんあります。NO.1 山門周辺NO.2 居士林周辺NO.3 妙香池周辺総門横に、開門 午前8時閉門 5月 ~ 11月 午後4時30分 12月 ~ 2月 午後4時総門前の紅葉。12:15拝観時間: 8:00 ~ 16:30(12月 ~ 2月 16:00)拝 観 料 : 大人 500円(高校生以上)、小人 200円(小中学生)5月1日より当山文化財保護と伽藍維持のため拝観料を改訂しますとのことで300円からアップ。本日の写経会は「大方丈(だいほうじょう)」です。拝観志納金 値上がりし500円。志納金を納め数十年ぶりに訪れた。円覚寺案内当山は、臨済宗円覚寺派の大本山であり弘安五年(1282)の開創。開山は中国(宋)より渡来の佛光国師無学祖元。開基は鎌倉幕府の執権北条時宗公。国師は時宗公の熱心な招請に接し弘安二年来日。初め建長寺に住し、時宗公はじめ鎌倉の武将を教化し、多くの門弟を育てた。時宗公は弘安四年再度の蒙古の来襲を撃滅した後、翌五年正法を興隆し、師恩に報じ、また文永・弘安の両役に戦死した敵味方両軍の菩提を弔うため当山を建立した。国師の流派を世に佛光派と称し、弟子に佛国国師、孫弟子に夢窓国師が出て、室町時代には国師の法孫は天下に満ち、五山学僧の主流となった。江戸時代やや衰微していたが、江戸時代末期に中興誠拙禅師が出、明治に至って今北洪川、釈宗演の二大禅師が出世され再び関東禅界の中心となった。山 門天明年間、中興の誠拙禅師が再建。「円覚興聖禅寺」は、伏見上皇の勅額。佛 殿大光明宝殿ともいう。大正十二年の大地震で倒壊後、昭和三十九年三月再建。唐様禅宗様式の鉄筋コンクリート造り。本尊は宝冠釈迦如来。禅宗様式七堂伽藍の中心の建物である。方 丈(ほうじょう)禅林の住持の居間をいう。維摩居士の居室が方一丈であったことに由る。今は主に檀信徒の法要、座禅会、研修会等の教化の場に用いられる。 昭和四年竣工。平成十年改修国宝 舎利殿(しゃりでん)源実朝公が宋国より拝請した佛牙舎利を弘安八年(1285)北条貞時公が当寺に遷祀した。舎利殿は日本に残る唐様建造物の中、最も代表的な美しい建物である。開山堂舎利殿の背後にあり、開山佛光国師の木像を奉安す。木像及び須弥壇は重要文化財に指定されている。開基廟佛日庵境内にあり、開基北条時宗公並びに貞時公、高時公の尊像を安置す。北条家歴代の祠堂でもある。白鹿洞(びゃくろくどう)円覚寺落成慶讃の日 佛光国師の法話を聞くため この洞中から一群の白鹿が現われたという。この奇瑞により山号を瑞鹿山と号することになった。居士林禅を志す在家の人の坐禅道場。もと牛込にあった柳生流の剣道の道場であったものを昭和三年に柳生徹心居士により寄進され移築した。国宝洪鐘正安三年、北条貞時が二千五百人の善男善女 当山二百五十人の僧衆の合力により鋳造。当時その巨大なること関東第一。江の島の弁天の助力により鋳造が円成したとして、側の弁天堂にその尊像を祀る。 円覚寺 ー 続く ー
2022.02.08
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北鎌倉の円覚寺へ向けて、遊行寺横の遊行寺交差点から県道302号線(小袋谷藤沢線)を東へ進む。12月11日(土) 10:50県道302号線と県道312号線との立体交差、村岡消防出張所前交差点を右折。この近くにある、以前訪れた紅葉の名所「功徳山早雲禅寺天嶽院」へ。10:54県道312号線(田谷藤沢線)沿いにある、功徳山早雲禅寺天嶽院門前。前回は車で訪れ入り口を間違え時間を要したが今回はスムーズに。県道312号線(田谷藤沢線)の鎌倉・江の島方面。天嶽院の門柱に書かれている文字は、「雨花知佛境 流水識禅心」。パンフレットから「雨花佛境を知り 流水禅心を識る」と。 ー 北条早雲公開基の古刹 ー功徳山早雲禅寺天嶽院(テンガクイン)所在地:神奈川県藤沢市渡内(ワタウチ)1丁目1-1天嶽院境内案内図天嶽院の歴史は真言宗の古寺「不動院」から始まる。 源頼朝公が治承四年(1180年)伊豆に兵を挙げ鎌倉を目指す途中立ち寄り、不動明王様に大願成就の祈願をされたとの伝説がある。明応四年(1495年)、北条早雲公によって伽藍の一寺が創建され、「不動院」を改め曹洞宗の禅寺とし、虚堂玄白禅師を迎えて開山とした。天正四年(1576年)四世住職の代に伽藍は焼失するが、玉縄城主北条綱成・氏繁公父子によって伽藍が復興された。 更に紀伊大納言徳川光貞卿の信仰篤く、六世住職の代に七堂伽藍が完成された。この姿が「相中留恩記略」巻之十八に記載されている。なお天正十九年(1591年)十一月、家康公から三十石の朱印地を賜った事実がある。安政二年(1855年)二月二十六日、二十二世住職の代に再び火災にあい、大伽藍はことごとく焼失した。焼失を免れ現存する総門(山門)は江戸中期に水戸光圀公が建立したと伝えられる。昭和五十一年(1976年)春 伽藍復興に着手、二十年余を経て平成十年(1998年)七堂伽藍を室町時代の様式に統一して復興した。山門前の左右に広い駐車場があり、左側の駐車場に新しい大きな六地蔵が並ぶ。左から、いきいき地蔵・すくすく地蔵・にこにこ地蔵・ふくふく地蔵・らくらく地蔵・ほかほか地蔵。六地蔵の裏には、地蔵さんはマスクをつけていなかったが。藁葺屋根の「山門」とその前に「寺号標石」と「仁王像」が建つ。江戸末期の安政二年(1855)二月二十六日、再び火災に遭って七堂伽藍が灰燼に帰したが、水戸光圀の寄進と伝わるこの総門(現山門)だけが焼失を逃れたのだと。山門右側に、「不許葷酒入山門」。山門を入り参道を彩るモミジのトンネル。石畳、コケとのコラボが見事である。午後の方が逆光でまた色がさえると。石畳を進み山門を振り返る。山門をズームアップ。正面に、「中雀門」、右側に、「浄聖殿」、「道元禅師御道詠碑」石碑には「峰の色 渓のひびきも 皆ながら 吾が釋迦牟尼の 声と姿と」。浄聖殿の扁額、「浄聖殿」。中雀門の奥に「法堂」(パンフレットから)。中雀門の扁額、「湘中早雲禅寺」。中雀門の真ん中に「常香炉」が置かれていた。香炉に乗っている鞠(まり)を踏む唐獅子。中雀門前から参道を振り返る。中雀門の左手前に「庫裡」。庫裡の入口には、地蔵が建つ。赤い毛網の帽子を被るカップルの地蔵。一方には、「おそうじ小僧」、後方に歌碑。歌碑には「掃けば散り 払えばまたも塵積る 人の心も庭の落ち葉も」。右手前から、「不動殿」、「浄聖殿」、「中雀門」。不動殿の扁額、「不動殿」。不動殿の内陣。左から、愛染明王、不動明王、大黒尊天を安置している。石舟の上にある「不動尊」。鐘楼堂、左奥に六地蔵。こちらは小さな六地蔵が並ぶ。天嶽院前の県道312号線(田谷藤沢線)を望む。駐車場の南側に「聖観世音菩薩立像」が建つ。聖観世音菩薩立像の前に建つ「慈光遍照」。11:13聖観世音菩薩立像前から山門を見下ろす。植えられている桜の由来。鎌倉八幡宮若宮大路の段葛より移植された晋山記念の桜である。八幡桜の銘は吉田宮司による。 平成廿八年降誕会 天嶽院廿九卋正三謹誌11:16天嶽院から、県道312号線(田谷藤沢線)を鎌倉方向へ下り、この先を左方向の大船へ進む。11:19県道312号線(田谷藤沢線)の弥勒寺高架下交差点を左折して大船方面へ走る。東海道本線沿いに建つ、「湘南ヘルスイノベーションパーク」。通称「湘南アイパーク 」は、2018年4月、武田薬品工業(株)が湘南研究所を開放することにより設立された、企業発のサイエンスパーク。製薬企業のみならず、次世代医療、AI、ベンチャーキャピタル、行政など、幅広い業種や規模の産官学が結集し、エコシステムを形成することで、ヘルスイノベーションを加速する場となることを目指している。この広大な湘南アイパークの約半分の建屋を、タケダが研究所として利用し、残りがテナントとなっている。11:26日比谷花壇大船フラワーセンター所在地:神奈川県鎌倉市岡本1018同駐車場の歩道橋上から、県道302号線(小袋谷藤沢線)沿いのメタセコイア並木。同場所から、県道302号線の大船フラワーセンター前交差点。大船フラワーセンターの園内を望む。日比谷花壇大船フラワーセンター前の飾り付け。 頭上を湘南モノレールが走る。みちのりホールディングス傘下の湘南モノレール株式会社が運営し、昭和45年(1970) 3月7日に日本初のモノレールとして開業した。電車は榎島線と呼ばれる6.6kmの路線を走っている。11:38東海道本線の山崎跨線橋を越え、県道304号線(腰越大船線)の台二丁目交差点。 ー 続く ー
2022.02.07
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九州の旅を長くアップした関係で、昨年秋に訪れた北鎌倉の円覚寺から稲村ヶ崎への愛車のリンちゃんでのアップが遅れました。今回時季外れですがそのブログをアップさせていただきます。尚、この散策は昨年(2021年)15回目のリンちゃんとの鎌倉散策です。昨年末にアップしたダイジェスト版「紅葉の鎌倉へ」👈をクリック願います。12月11日(土) 10:00この日は天気が良く、10時前に我が家を出発、旧東海道(国道1号)を藤沢宿へ向けて走る。出発時のバッテリー残量は100%、走行可能距離は94kmで今日一日楽しめる。松並木が残る旧東海道を東へ進む。旧東海道(国道1号)の四ツ谷交差点に四ツ谷不動尊(大山道標)が建つ。交差点を右折して四ツ谷不動尊(大山道標)を振り返る。右奥の鳥居は大山道入口に立つ鳥居、30km先の大山阿夫利神社の一の鳥居で、昔大山まで七つの鳥居があった。県道44号線(旧東海道)を東へ進むと丘の上に稲荷神社所在地:神奈川県藤沢市羽鳥2丁目15-35鳥居前から旧東海道を振り返る。旅友との東海道53次弥次喜多道中時には参拝しなかったが小さな社殿が二社。境内は狭いが整備されているので、地元の有志が管理しているのであろうか。稲荷神社から下り、県道44号線(旧東海道)を東へ進む。県道44号線(旧東海道)と県道43号線が合流する羽鳥交差点、この先から県道43号線。ここを左折して県道43号線を北上すると大庭城があり、今年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に出てくる大庭景親に関係する。大庭城を築城したのは大庭景親の父にあたる大庭景宗と言われている。「大庭の舘」とも呼ばれ、景親らの軍事拠点として重要な役割を果たしたと想定される。石橋山の戦いで源頼朝に勝ったものの、一族のほとんどは筑前(現在の福岡県)に渡ってしまうが景親は最後まで抵抗し、平家方の景親は富士川の戦いで敗れ捕らえられ斬首される。その後兄の大庭景義の子である大庭景兼(小次郎景兼)が、和田合戦にまきこまれ大庭氏は滅亡したとされている。タウンニュース(2022年1月28日版)より、今年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」。今年のブログのネタ探しに愛車のリンちゃんで鎌倉を動き回る予定です。江戸末期、浮世絵師の歌川国芳が描いた武者絵「頼朝の伏木隠れ」石橋山の戦いに敗れた後、山中の伏木に隠れている頼朝を捜索していた梶原景時が見つけるが、「誰もいない」と告げやり過ごす場面。この作品では景時ではなく、大将格の大庭景親が大きく描かれている。七面地蔵尊所在地:神奈川県藤沢市城南4丁目9-32メルシャン工場の門前に残されている。今でも花が供えられている。羽鳥の道祖神「おしゃれ地蔵」北側に向って鎮座しているが、旧東海道を挟んだ向かい側には、藤沢七福神の一つ「養命寺」。女性の願い事なら何でも叶えてくれる地蔵だと。満願の際は白粉を塗ってお礼をするという風習があるとのことで、いつも化粧されている。県道43号線(旧東海道)を東に向い、藤沢宿へ入る。藤沢宿京見附跡(解説版)が建つ。所在地:神奈川県藤沢市藤沢4丁目1-3見附は土居ともいい、江戸方は清浄光寺(遊行寺)の東門付近、京方は台町にありました。見附から見附までが宿場の範囲で、その目印でもありました。藤沢宿の京見附は、古図などからは判然とはしませんが、この辺りであったとの伝えがあり、近くには「見附」という屋号を持つ家があります。案内板の浮世絵は、何故か三重県の東海道宿44番目「石薬師宿」。旧東海道の石薬師宿は旅友のKさんと令和2(2020)年1月20日(月)に歩いた。見附の図 歌川広重「東海道五十三次之内 石薬師(蔦屋版)藤沢市教育委員会蔵10:32清浄光寺(通称 遊行寺)所在地:神奈川県藤沢市西富1丁目8-1時宗開祖の一遍上人より数えて4代目の呑海上人開山の時宗総本山です。藤沢山無量光院清浄光寺が正式な寺名ですが、呑海上人が正中2年(1325)に廃寺を再建して遊行引退後の住まいとし、歴代の上人も遊行引退後に住むようになったので「遊行寺」と呼ばれるようになりました。現在の建物の大部分は関東大震災後に復興されたものですが、中雀門は唯一、江戸時代からのもので向唐門造りになっています。また、菊の御門と三葉葵が刻まれています。延文元年(1356)の銘を持つ梵鐘は県指定重要文化財です。境内中央の大イチョウは市指定天然記念物になっています。昭和26年(1951)の日本観光地百選に選ばれました。境内には多くの熟年者が座り込み水彩画を。境内案内図境内には見所が沢山あるが、今日の目的は北鎌倉であるので本堂前を横切ることに。大イチョウの奥に「中雀門」「御番方」が建つ。本堂前の境内は広い。樹齢約650 ~ 700年と推定される「大イチョウ」。この日は風はなかったが、海風が強いのか樹々は山に向って傾斜。このイチョウはオスの木で銀杏はつかない。大イチョウ 市指定天然記念物 昭和46年(1971)7月5日指定 樹高 約21m、幹回り 710cmひときわ大きなイチョウで、遊行寺境内のシンボルとなっています。境内最大の巨木は、市内で一番太い木でもあります。かつては高さが約31mありましたが、昭和57年(1982)8月の台風で地上6mの辺りで幹が折れてしまいました。今、樹木全体がずんぐりとした形に見えるのは、この時の折損のためです。折れた幹の中は空洞で炭が入っていたので、過去に火災に遭ったことがあるようです。雨で腐らないよう折れた部分にトタン板を張って防いだところ、樹勢が回復しました。平成4年(1992)の調査で686cmだった幹回りは、平成20年の計測では710cmと太くなっていました。境内の県道30号線沿いの遊行寺坂沿いに建つ、「藤沢敵御方供養塔」。藤沢敵御方供養塔 国指定史跡 大正十五年(1926)十月二十日指定 総高 一四九・五センチメートル 安山岩製この石塔は、上杉禅秀の乱で戦死した敵・御方(味方)を供養するため、応永二十五年(1418)に造立されたものです。基礎石の上に角柱型の石塔が立てられ、塔身に銘文が刻まれています。銘文は、磨滅していて読みとりにくいのですが、次のように解読・解釈されています。 南無阿弥陀仏 自應永廿三年十月六日兵乱至同 廿四年於在々所々敵御方為箭 刀水火落命人畜亡魂皆悉往生浄土 故也過此塔婆之前僧俗可有十念者也 応永廿五年十月六日 応永二十三年(1416)十月六日からの戦乱は同二十四年に至り、あちらこちらで敵方も御方も 箭(矢)・刀・水・火のために命を落としました。亡くなった人間や家畜(軍馬など)の魂が、 皆ことごとく極楽浄土へ往生しますように。この塔婆の前を通り過ぎる僧侶も俗人も十念( 十回の南無阿弥陀仏)をとなえて下さい。この戦乱は、足利持氏に対して禅秀が起こしたもので、関東を統治する鎌倉公方持氏と、その補佐役との争いだったため、鎌倉から関東各地に戦火が広がりました。結局、室町幕府が持氏に援軍を送り、翌年一月に禅宗らの敗北自害で落着しました。銘文末の日付は塔の造立日で、乱が起きてからちょうど三回忌にあたります。時の遊行寺住職は遊行十四代(藤沢八世)太空上人。文中にある「敵御方」は戦乱の勝者持氏にとっての敵味方をいうもので、この石塔は、持氏が発願主となって、太空上人を導師として造立したものと考えられています。敵と味方を一緒に供養した石塔の中では古い作例で、この他の類例としては、慶長四年(1599)高野山奥の院(和歌山県)に、豊臣秀吉の朝鮮出兵による両軍戦死者を供養して造立されたものなどが知られています。時宗では、怨(敵)・親(味方)両者を区別せず平等に祀った石塔の意味で、怨親平等碑とも呼んでいます。 平成二十年(2008)二月 藤沢市教育委員会石塔の途中で破損したものも。今年は、NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の放映で鎌倉は賑やかになるのでは。新型コロナウイルス騒動も早く治まってほしいものですが! ー 続く ー
2022.02.06
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角牟礼城の登城も終え今回の旅の全ての予定を完了し、熊本空港へ向かう。11月18日(木) 16:13旧森藩城下町から国道387号を走り熊本空港へ向かう。目的地の、ニッポンレンタカー熊本空港までの距離、到着予定は、77km、18:49と。カーナビは、2.4km先を左折し国道210号を案内。大分自動車道下を通り抜け、左手の山の上に像、「童話の里 くす」。ここ新長野交差点を左折、「別府・大分」方面へ国道210号(国道387号)を進む。16:22国道210号(国道387号)の恵良入口交差点。この先から玖珠郡九重町に。玖珠郡九重(ここのえ)町九重町は、大分県の西部に位置し、東は由布市、竹田市、北西は玖珠町、南西は熊本県阿蘇郡に接しており東西18.7km、南北23.4km、総面積271.37kmに及ぶ広大な面積を有しています。地形的には、町の中心部を筑後川の源流の玖珠川が東西に流れ、西側に田畑、山林等が開けている。また久住山、大船山、三俣山などの九州の屋根と呼ばれる九重山群の北麓に位置しており町の約半分が「阿蘇くじゅう国立公園」、「日田耶馬英彦山国定公園」に含まれています。耕地は、標高350mから1000mの間に階段状に散在しており、大部分は山林・原野に覆われ、気候は、寒暖の差が大きく、東北から九州までを内包した気候条件といえます。人口、8916人(令和3/12/31)。国道210号(国道387号)を南下、前方にくじゅう連山の一部?。国道387号(日田街道)を南下。国道387号を進み「宝泉寺大橋」を渡る。国道387号の道標、「阿蘇 49km、小国 19km」。国道387号脇に、「北里柴三郎記念館」の案内板があった。所在地:熊本県阿蘇郡小国町北里3199小国町出身である故北里柴三郎博士の生家や、博士から小国町に寄贈された北里文庫(図書館)を改修し、偉業をたたえているのが北里柴三郎記念館です。この施設は生前、博士が大正5年に建てた貴賓館、北里文庫があった敷地に、昭和62年、博士の学問を受け継ぐ北里研究所、北里学園が中心になって博士の生家の復元修復を行うとともに、北里文庫の建物を利用して博士に関する遺品などを陳列し、小国町に寄贈されたものです。その後、平成24年より北里研究所の寄付により北里柴三郎記念館の全体改修工事がはじまり、平成26年工事が完了しグランドオープンを迎えました。16:53国道387号の左側に、「道の駅 小国」所在地:熊本県阿蘇郡小国町宮原1760-3小国町は熊本県北東部にある町で、阿蘇郡に属する。 山形県西置賜郡小国町などと区別するために肥後小国とも称する。人口、6730人(令和4/1/1)。写真がぼけましたが、道の駅の先を右折。道の駅の先を右折すると直ぐに、国道387号と国道212号の交差点。道路脇に「迂回路の案内」。「特殊大型車両通行止」通行止めで一瞬焦ったが、特殊車両限定とのことで一安心。16:54交差点を直進して国道387号へ、ここを左折して国道212号へ。この後の移動は、北側のAポイントから南下、ミルクロードを走り、C のニッポンレンタカー熊本空港営業所へ。17:15ミルクロード入口であったか ?ミルクロードは、熊本県道339号線北外輪山大津線で、熊本県阿蘇市から菊池郡大津町に至る 一般県道である。通称「ミルクロード」と呼ばれている。阿蘇市をグルリと取り囲んだ北外輪山の天辺には『ミルクロード』と『阿蘇スカイライン』と呼ばれる県道が延びる。この外輪山道路沿いには、素晴らしいビューポイント備えた休憩所や展望台がいくつもあるうえに、道路のいたる所から広大なカルデラ平野部と阿蘇五岳を眺めることができるのだが飛行機へ乗るので先を急ぐ。17:20陽は既に沈んでいたが県道339号線(ミルクロード)からの夕焼け。ズームアップ路肩に車を止め撮影。日の入が撮影できず残念であったが。思いもよらない光景で満足。北外輪山のミルクロードだがこの辺りでは市街地は見えず車の量も少ない。17:24北外輪山の県道339号線(ミルクロード)を南下、前方の山からの噴煙を確認。阿蘇山からの噴煙を確認。17:28ミルクロードは空いており快適なドライブ。目的地への到着は、18:21で、残距離は25km。熊本空港、20:20発のため余裕があるようだ。17:31展望台がなく、阿蘇山の噴煙がよく見える所を探し路肩へ駐車して撮影。阿蘇山にはもう半世紀前の中学の修学旅行で訪れたが、その時は火口近くまで登山したが。阿蘇山は、日本の九州中央部、熊本県阿蘇地方に位置する火山。カルデラを伴う大型の複成火山であり、活火山である。 阿蘇火山は、カルデラと中央火口丘で構成され、高岳、中岳、根子岳、烏帽子岳、杵島岳が阿蘇五岳と呼ばれている。 最高点は高岳の標高1592m。同場所からミルクロード(県道339号線)の上には月がのぼる。満月に近い17:39ミルクロード(県道339号線)を下る、カーナビの目的地への到着は、18:16で、残距離は18km。18:25途中、ガソリンを満タンにしてニッポンレンタカー熊本空港営業所へ到着。到着後、車体のキズ等をチェック、今回の走行距離は、1,102kmであった。出発時のメーターは、4,242kmであったので新車であったようだ。スピード違反等もなく、車体のキズも無く無事返車できた。出発時に見た、店内の「注意書き」。事故 多発中熊本空港営業所を出発されたお客様の事故が増加しています。 ☆ 事故原因 TOP3 1位、駐車場での後退・・・・・コインパーキング・ホテル内駐車場など 2位、脇見運転・・・・・・・・カーナビ凝視・不慣れな道の走行 3位、スピード出し過ぎ・・・・過信した走行・車間距離● キズやヘコミの大小 相手の有無にかかわらず事故扱いです。 必ずその場より警察の届け出が必要です。 所定の手続きがとられていない場合は 、保険・補償の適用除外となります。また、お土産に困ったらコレに 1、辛子蓮根 再度あげ直してマヨネーズをかけて食べるとおいしいです。 おつまみにどうぞ ♡ 2、馬 刺 我が家ではおぼん、正月しか食べれません。馬刺を食べる時に特別デス。 特別な熊本の旅のお土産にいかがですか? 3、松ノ屋本店いきなり団子 ここは、ホントにおいしいです。3種類の味があります。ノーマル、よもぎ、 むらさきいも、全部オススメです!! 4、芦北デコポンンゼリー 私には高くて買えません・・・、でも食べたいんです。デコポンゼリー大好 きデス。お土産にぜひどうぞ ♪ 5、御飯の友 熊本人ならだれでも知ってるふりかけです。ごはん3杯いけます!! さすが ごはんの友 ニッポンレンタカー熊本空港営業所からマイクロバスで熊本空港へ送迎してもらう。ジェットスターカウンターでチェックイン。出発便は、GK616 20:20発。19:55までに搭乗ゲートへと。19:02まだ約1時間あり、朝食、昼食をとっていなかっので、レストランへ。熊本空港は工事中で仮設のレストランへ。テーブルには密を避け、アクリル板が。長崎ちゃんぽんを食したが美味しかった。また、ライスはサービスで空いたお腹にはこれも美味しかった。土産コーナーに、辛子れんこん、熊本名物 馬刺し。ニッポンレンタカーの案内を参考に、土産として「辛子れんこん」、「熊本名物 馬刺し」を購入。19:35出発ロビー仮設ターミナルのため成田の第3ターミナル並のスペック。21:47定刻に機内へ入る。帰る便も機内は満席状態。22:00定刻に熊本空港を離陸、成田空港第3ターミナルへ到着。到着後荷物を受け取った後、車を預けているUSAパーキングへ電話第2ターミナルへバス移動。待つこと数分でマイクロバスが到着。22:30USAパーキングを出発して帰路に、出発前に眠気覚ましで缶コーヒーを購入。おかげで眠気も来ず、空いている道路を順調に帰る。11月19日(金) 0時16途中旅友宅へ立ち寄り、我が家に到着した。今回の旅で、続日本100名城の熊本県、鹿児島県、宮崎県、大分県の10城を征服し累計42城となった。九州・沖縄地区にはまだ10城ありさていつ行くか!今回の四泊五日の九州の旅は精算すると土産込みで、78,000円と安かった!この旅のブログを長期間アップしましたが、お付き合い願いありがとうございました! END
2022.02.05
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山城の角牟礼(つのむれ)城の散策を続ける。11月18日(木) 15:38本丸跡から北側の豊前側を望む。遠く耶馬渓方向であろう。玖珠地方の山々・・・メーサ・ビュート玖珠の盆地は、平らなテーブル型の山々に囲まれています。こうした地形の大型のものを地形学上メーサ、小型のものをビュートといいます。玖珠地方では、万年山を中心として大岩扇山、小岩扇山、宝山、青野山、伐株山、角埋山、高波山などの山々が眺められます。これだけの地形を一つの町から望めることができるのは、日本広しといえどもここだけの異感でしょう。本丸の北側は高石垣になっている豊前側。急斜面で崩壊した状態になっている。本丸跡は角埋山頂上にあり、広い曲輪になっている。本丸のある角埋山はビュートと呼ばれる地形で、傾斜がゆるい南側以外は三方を切り立った崖が囲んでいる。本丸跡を後にし下ることに。発掘調査、修復工事のために仮設道路に。南側はゆるい傾斜になっているので足元を注意しながら下る。ところどころに石垣が現れる。南側の斜面にも崖と石垣。下を見ると櫓跡の石垣。二の丸西曲輪の石垣。二の丸西曲輪から大手門跡へ。二の丸西曲輪の石垣を振り返る。ゆるい傾斜になっているので歩きずらい。下は、大手門跡。旅友は既に前方の石垣の上に、角牟礼城跡最大の石垣がある。遊歩道脇に地蔵。岩場の下に「井戸曲輪跡(伝)」井戸曲輪跡(伝)に地蔵岩をくり抜いて造った井戸には今も水をたたえている。湧水があるのかパイプで遊水、コップが置かれていたが今でも飲めるのか。井戸曲輪跡(伝)から南側の玖珠町市街地を望む。下は、大手門跡。紅葉に囲まれた南側の斜面。モミジの紅葉を追う。未だ最盛期前の紅葉であろう。城郭の石垣と紅葉も絵になるが。15:55三の丸駐車場へ戻る。南の方向の山から煙が上がる(黄色の丸印内)。ズームアップ角牟礼城の散策を終え、今回の旅の目的地は全て達成。この後は、熊本空港近くのニッポンレンタカーへ向かうが、途中角牟礼城跡の下にある「旧森藩城下町」へ。「続日本100名城」スタンプラリー 角牟礼城案内図。16:05牟礼城跡から下り、旧森藩城下町の本町通りに入ると石像があり駐車して散策。所在地:大分県玖珠郡玖珠町森辺り金太郎像この像は、久留島候森藩に縁故のある瀬戸内村上水軍の本拠地、愛媛県宮窪町で産出される日本一の大島石を使用して彫られました。彫刻を、宮窪町の宮内宏先生に依頼して建立した平成五年の秋に、瀬戸内の能島村上水軍ふる里会と玖珠町の久留島三島水軍会が、四百年ぶりに再会した年でした。この縁で両町が、今後末長い交流が続くことを願っています。 平成六年 ひまわり会浦島太郎像この像は、村上水軍の本拠地瀬戸内海能島(宮窪町)水軍ふる里会の会長矢野久志氏に、平成七年三月に製作依頼し、ひまわり会が設置したものです。能島は村上水軍を先祖とする森藩久留島候ゆかりの地です。童話の久留島武彦先生は久留島候の子孫です。像は能島の大島石を使用し地元勝羅石材 矢野勝羅氏より寄贈を受けました。 平成七年三月 ひまわり会愛嬌のある「鬼」旧森藩城下町の本町通りの南側にある広場。広場にはトイレはあったが駐車場があったか?、道路脇に駐車。旧森藩城下町の本町通りの北方向。広場には、久留島武彦の像が立つ。後方に、大岩扇山(おおがんせんざん)。日本のアンデルセン 久留島武彦 1874~1960久留島先生が残した言葉「継続は力なり」、「身動かざれば心働かず」私はいつもこの、「継続は力なり」を旅友から言われているのだ!台座には、童話の父故久留島武彦先生は明治7年森藩の藩侯邸で出生。生涯を口演童話一筋に語り部として子供のいる処なら場所を問わず出かけ、全国の子供達へ夢と希望を与え続け、人々から日本のアンデルセンと慕われ童話の父と讃えられた人です。「継続は力なり」は座右の銘です 平成30年8月一寸法師像童話の里 一寸法師像昔一寸法師は、おわんの舟で一人荒波をこえ、京の都にのぼりました。京では、娘をうばおうとする悪い鬼をたいじし、鬼から得た打出のこづちの力で、背たけを伸ばし、りっぱな男子となりました。 平成八年一月 ひまわり会 九州電力玖珠営業所 製作協力 愛媛県宮窪町「水軍ふる里会」 補 助 平成七年度地域振興事業調整費鬼ケ城 童話の里この玖珠町を象徴する、「久留島武彦先生」、「大岩扇山」。 ー 続く ー
2022.02.04
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豊後森藩資料館で続日本100名城のスタンプ受領時に、管理人の方から角牟礼城跡への登城を推奨されたので三の丸まで車で行くことに。11月18日(木) 15:13説明された道順に従って進み、「国指定 史跡 角牟礼城跡 ⇒ 」。ここから狭い山道を約1.5キロほど登る。15:19三の丸にある、玖珠町文化財案内板。三の丸林道により一部が壊されているが、三方を石垣で囲まれた曲輪。石垣の角には櫓台の遺構が残る。平成24年(2012)度の石垣解体修復工事で、積直しの跡と石垣内部からコンニャク印判の椀が見つかった。角牟礼城跡角牟礼城跡は標高577メートルで、古くから石垣のある山城として知られている。天然の要害と呼ぶにふさわしく、三方を切り立った険しい岩壁で囲まれている。角牟礼城跡の名が史料に初めて登場するのは、文明七年(1475)の志賀親家文書である。その後、天文二年(1532)や翌三年には「角牟礼新掘之事」や「角牟礼勤番在城」と出てくるように、角牟礼城跡は古くから、豊前側からの侵入を防ぐ豊後の境目の城として、玖珠郡衆により守られていた城である。天正十四、十五年(1585、86)の島津氏と大友氏の豊薩戦では、唯一落城しなかった要害堅固の城として有名でもある。文禄二年(1593)豊臣秀吉が、文禄の役で失態をおかした大友義統(おおともよしむね)を徐国し、翌年に日田郡に宮木長次、玖珠郡に毛利高政を入部させた。慶長元年(1596)からは毛利高政が日田・玖珠郡二万石を支配したことが、秀吉の「朱印状」や「黒田家譜」からも知られる。今回発掘調査で発見された門跡や現存する石垣は、この時期に築かれたものと考えられている。従って、この城跡は文禄三年頃、豊後の要の城から、領国支配のために近世城郭へと生まれ変わる時期のものだとみられる。そして、慶長五年(1600)の関ヶ原の戦い後、毛利高政は佐伯城主に転封され、一時黒田孝高の預かり地となるが、代わって伊予より来島康親が入部する。しかし、来島は一万四千石の小大名であり城を持つことは許されず、現在の三島公園に陣地を築き、山城は「正保の絵図」(1644) に古城と書かれているように、そのまま放置され、長い歴史の幕を閉じることになる。平成五年から町教委により発掘調査が行われ、本丸に階段状の虎口(出入口)、大手門と搦手門に同じ規模の門跡、また二の丸には礎石建物が発見されている。二つの門には瓦が葺かれていたと考えられている。 玖珠町教育委員会 玖珠町文化財調査員会三の丸駐車場。駐車場としての整備はまだだが10台は駐車できるか。トイレは工事用のトイレがあったが。麓の末廣神社からの登山道があるが車で三の丸の駐車場へ。駐車場には、何か工事をしているのか工事用の車が数台駐車していた。末廣神社からは歩いて30分?角牟礼城跡の見どころ角牟礼城跡は近世初頭に石垣を持つ城郭に改修されましたが、その改修範囲は部分的で、中世的要素と近世的要素を同時に見ることができる山城となっています。角埋山はビュートと呼ばれる地形で、傾斜がゆるい南側以外は三方を切り立った崖が囲んでいます。中世段階では、この地形を利用して、南側から南西側に畝状群をまわし、山頂から南に向かって曲輪群をつくっています。近世初頭の改修では山頂の本丸北側に高石垣をつくり、三方の崖を天然の石垣として取り込みながら二の丸・三の丸の南側を石垣で固めています。三の丸から東方向に大岩扇山(おおがんせんざん)。三の丸の南側は石垣で固めている。南方向の玖珠市街地を望む。東方向に大岩扇山、その南側に小岩扇山、宝山と連なる。三の丸の駐車場から本丸へ登ることに。左側に道案内、つのむれ会、「本丸跡方面へ 約8分です」と。南側への斜面に「竪堀」の看板。竪堀(たてぼり)中世段階で、南側から南西側に畝状群をまわしているようだが、長い年月で埋もれているので当時の規模はわからない。南側の斜面には樹々が生え紅葉のビューポイントに。左下に道標、「二の丸、三の丸、末廣神社」。この辺りは「鳥獣保護区」にもなっているようで野鳥も飛び回っているのではないか。本丸への道に「角牟礼城跡」の幟が立つ。前方に大きな二の丸の石垣。石垣に説明板、「穴太積石垣」。難攻不落の角牟礼城略年表 (つのむれ会) 所在地 大分県玖珠郡玖珠町大字森(角埋山・標高五七六m)1122 保安三年 11月19日の「清原氏所領配分状」(大友文書)に「角牟礼鐘突堂」とあり、 これ以前に山岳宗教の堂宇がここにあったと思われる。1155 久寿二年 このころ源為朝が築城したと伝えられる。1278 弘安年間 このころ森三郎朝通が、ここに居城したという。~ 12871534 天文三年 大友義鑑は、古後中務小輔以下八名の玖珠郡衆あてに、新堀築造の感状 を出す。(菊池氏、大内氏に対する備えとして)1586 天正十四 12月、大友氏攻略の島津軍約六千人が玖珠郡に攻め入る。1587 天正十五 1月~3月、角牟礼城攻撃。籠城の森五郎左衛門をはじめ古後、太田氏等 約一千人、島津軍数度の猛攻に屈せず、これを撃退する。1593 文禄二年 豊臣秀吉は大友吉統を罰し、徐国。豊後国は秀吉の直轄地となる。森氏 等も城を棄てる。1594 文禄三年 毛利高政は、秀吉の命を受けて日田・玖珠郡に入部。以後六年の間に本 格的な築城を目指し、穴太積みの石垣や櫓門も造られたのではないかと いわれている。1600 慶長五年 9月、関ヶ原の戦いで西軍敗北。城は黒田如水により開城。1601 慶長六年 徳川家康、元伊予の水軍大将来島康親を森に封ずる。康親は館を角埋山 の麓(童話碑のところ)に構える。角牟礼城は廃城となる。(毛利高政は、 佐伯城へ移る。)1615 元和元年 幕府、一国一城令を公布。二代藩主久留嶋通春は、城の建物・石垣の一部 を破却。 藩政時代 その後森藩では、有事に備えて山一帯を管理し、通常は一般の入場を禁じ ていた。1993 平成五年 玖珠町教育委員会により、城跡の発掘調査が始まる。(櫓門跡などの礎石・ 瓦片・磁器などが出土。)二の丸南側と西側に外枡形の虎口があり、同規模の櫓門を思われる礎石が見つかった。特に南側虎口は全長100mの石垣があり、穴太積みと呼ばれる初期野面積みがよく残る。二の丸下の石垣を進む。本丸への道は発掘調査をしたためか車が走れる道幅になっている。右側は、畝状竪堀群。道路脇は養生用の砂袋が並べられている。ゴミ袋が積まれているのか、道標には、「三島公園、わらべの館」。ここから左方向へ登り、本丸へ。この先には、角牟礼城跡最大の石垣があるようだったが。道路脇に「大手門跡」の看板。大手門跡を振り返る。二の丸西曲輪の石垣。熊本地震により石垣が崩れ修復された。二の丸へと登る。坂を上り、二の丸西曲輪の石垣を見る。二の丸西曲輪二の丸西曲輪西門跡の南側にある曲輪。南端に礎石建物跡が見つかり、西側縁辺部に土塁が確認できる。曲輪周囲に石垣があるが崩落が進んでいる。南側虎口石垣の石よりも小さな石材が使われている。発掘調査で、二の丸西曲輪の南端に礎石建物跡が見つかった。二の丸西曲輪から見おろす。この辺りのモミジの紅葉はこれから。二の丸西曲輪の北側に「西門跡」大手門跡と同規模の櫓門と考えられる礎石と「かんぬき金具」が見つかる。周囲からは瓦片が見つかる。門から外に向かう通路の一部には石垣の石材と思われる石が散乱している。二の丸の南側の斜面は「切崖」。二の丸を進み「本丸跡・左折」作業道保護のため、本丸跡へは○○○を経由する遊歩道をお通りください。角に地蔵が無造作に置かれ、また工事用の砂袋が多数置かれていた。本丸への虎口平成五年から玖珠町教育委員会により発掘調査が行われ、本丸への傾斜に階段状の虎口(出入口)があったことがわかったと。本丸の南側にある虎口(出入口)階段ではなく、砂利道になっていたので登りずらかった。15:34角埋山の山頂に位置する本丸。本丸の北側にクレーン車。本丸跡角埋山頂上部に位置し、標高は577mで周囲には土塁を巡らせている。北側には石垣が築かれ、石垣上面の東隅に櫓建物が検出されている。南側からは階段状の虎口が検出されている。 玖珠町教育委員会角埋山(五七六米) 本丸跡(標高576m)。本丸跡の北側へ廻る。作業中の監督の方に聞くと、「本丸の北側の石垣が崩壊し修復中」と。急斜面での作業で二次災害に注意!急斜面になっている豊前側。 ー 続く ー
2022.02.03
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一目八景展望台から深耶馬渓公共駐車場へ。11月18日(木) 14:15県道28号線(森耶馬渓線)を北方向へ進む。一目八景展望台からの道路沿いには蕎麦屋や旅館、温泉施設などが建ち並ぶ。店先では、あゆ塩焼き 500円。土産物店があったが先を進む旅友を追う。九州の紅葉スポットとして筆頭にあがる大分県の耶馬溪だが、コロナの感染で皆さん外出を控えているのか道路の渋滞はない。紅葉には少々早かったのか。深耶馬渓には、温泉民宿もある。3つ星ホテル「えぼしや」所在地:大分県中津市耶馬渓町大字深耶馬3155-16温泉民宿「えぼしや」深耶馬溪の商店街の一画にあり、絶景とまろやかな泉質が自慢の展望温泉と、地元の味が満喫できる田舎料理が当館の自慢です。温泉は沸かしても薄めてもいない完全天然のお湯で、多くのお客さんよりお褒めを頂いていますと。料金は一泊二食 7,000 ~ 。えぼしやの名前の由来は「一目八景」のひとつ「烏帽子岩」が当館の守り神であることから。その、烏帽子岩を見上げる。他の店先では、「山芋 一本800円」。公共駐車場へ戻るが平日にもかかわらず満車状態。駐車場の廻りの紅葉を追う。今回の九州の旅の目的は「続日本100名城巡り」であったが、時期的に紅葉狩りもしたいと。ちょうど動線の中に「日本新三景の耶馬渓」があり、九州を代表する耶馬渓の一部を楽しめた。訪れた当時(11/18)はコロナ感染も落ち着いていたが。今年に入り新型オミクロン株の感染が広がり各地に「まん延防止等重点措置等」の要請。各人が感染予防を徹底して早く落ち着くことを祈願!!!九州の紅葉スポットとして筆頭にあがる大分県の耶馬溪は、本耶馬渓(本耶馬渓町)、裏耶馬溪・深耶馬溪(ともに耶馬溪町)、奥耶馬溪(山国町)にわかれているが、今回本耶馬渓を楽しめた。14:26公共駐車場から県道28号線(森耶馬渓線)。この後、今回最後に訪れる続日本100名城の「角牟礼城」へ向かう。カーナビは深耶馬渓から角牟礼城への距離数・所要時間は、10.4km・23分。県道28号線(森耶馬渓線)沿いには、温泉民宿が建ち並ぶ。愛知県香嵐渓の紅葉狩りは道路の渋滞がひどいがここではスムーズに。対向車も無く。14:42県道28号線(森耶馬渓線)を進み国道387号と合流、ここを右折。交差点角には、「ようこそ 童話の里 くす町」の看板。玖珠町は、大分県の中西部、大分市の西側約60kmの場所に位置しており、南部はわずかに熊本県と接している。町域は九州山地に含まれており、多数のメサが盆地を取り囲む特徴的な景観を呈している。人口は、1.411万人(2021/12/1)。14:46豊後森藩資料館の公共駐車場へ到着。角牟礼城跡遊歩道案内図久留島庭園周辺案内図三島公園昭和四九年に玖珠町都市公園として認可され、野外ステージ・遊具・休憩施設等を整備し、現在にいたっている。公園には、清水御門・栖鳳楼(せいぼうろう)・鞘堂(さやどう)づくりの御神殿・お城仕立ての末廣神社・久留島庭園・御長坂等の名所・旧跡が数多く点在している。又、童話碑・クロちゃんとしてこどもたちに親しまれている蒸気機関車や、一角には、図書室や郷土玩具を展示している清田コレクション等、こどもたちの憩いの広場としてのわらべの館もあり、こどもたちから、お年寄りまで楽しめる。角埋城跡とお城仕立ての末廣神社標高五七六メートルの角埋山は天然の要害で中世の山城として、天正年間の豊薩戦では、豊後不落城の一つであった。山頂には角牟礼城跡があり、戦国時代の武将「織田信長」が安土城を築城する際用いた石組の工法、いわゆる穴太積による石垣や縄張りが、今でも築城当時のまま残され、照葉樹の多い自然林があり、保健保安林になっている。源為朝を祀ったという巨大な木造の不動尊立像が安置されている角埋神社もあり、展望が素晴らしい。瀬戸内海の水軍であった久留島氏は、角埋山の麓に館を構えたが、幕府の掟で城を持たれぬ小大名であった。森藩では、角埋山は ”大切之御山” としていたが、第八代藩主 通嘉のときに、氏神である三島宮(末廣神社)の改築を思い立ち、境内をお城仕立てにつくりあげた。通嘉公の豪快さと雅趣を兼ね備えた気質のよく表われた普請は、一藩の主としてお城をもちたいという願いが込められていたに違いない。ー やばけい遊覧(中津市・玖珠町) ー耶馬渓とは、山国川が溶岩台地を深く浸食してつくりだした奇岩の渓谷で、中津・玖珠の二つの城下町に挟まれています。南北32km東西36kmの敷地に、断崖、岩窟、渓流が大パノラマをつくり、その深く神秘な地形は伝説と祈りの場所となりました。人々が時をかけ岩を削り想いを描き、一本の絵巻のようにまとめあげた「耶馬渓」の遊覧の旅に出かけましょう。 天下無二耶馬全景交通絵図(吉田初三郎・1926)山国川の下流、中津、青の洞門。廃線となっている、大分交通耶馬渓線(中津 ⇔ 山国)が描かれている。深耶馬、一目八景、大谷渓谷。阿蘇山、八代、遠く上海。この碑は、碑の台座には、建設委員の名が。公共駐車場の隅に聳えるイチョウ。駐車場の東方向にある、大岩扇山(おおがんせんざん)。伐株山などと並ぶ代表的なメーサの溶岩台地で、この山をみた田山花袋は「巖石の王国」と表現した。南側の頂上付近に見られる柱状節理の絶壁が美しく、南に小岩扇山、宝山とメーサの山が続く景観は、旧久留島氏庭園の眺望として随所に取り入れられています。また、標高691.1mの山で、1935年6月7日に国の天然記念物に指定されている。玖珠地方の山々・・・メーサ・ビュート玖珠の盆地は、平らなテーブル型の山々に囲まれています。こうした地形の大型のものを地形学上メーサ、小型のものをビュートといいます。玖珠地方では、万年山を中心として大岩扇山、小岩扇山、宝山、青野山、伐株山、角埋山、高波山などの山々が眺められます。これだけの地形を一つの町から望めることができるのは、日本広しといえどもここだけの異感でしょう。続日本100名城のスタンプをもらいに豊後森藩資料館へ。豊後森藩資料館・清田コレクション所在地:大分県玖珠郡玖珠町森868-2開館時間:9:00 ~ 17:00休 館 日 :月曜日続日本100名城のスタンプはここに置かれている。アルコール消毒をして館内へ入り2階へ。清田コレクションの展示スペースは無料だが、豊後森藩資料館は有料。豊後森藩資料館内は撮影禁止。角牟礼城跡/大分県玖珠郡玖珠町森大分県西部にある玖珠盆地の中央には、九州を横断する筑後川の源流である玖珠川が西流している。角牟礼城はその支流である森川西側の、標高577mの角埋山頂に立地する。中世から戦国時代の玖珠地方には、玖珠郡衆とよばれる屈強な在地領主によって、数多くの山城が築かれた。角牟礼城もそのような山城のひとつで、森氏の詰城であった。天正14年(1586)の豊薩戦では、玖珠群衆と共同で守備し、唯一落城しなかった要害堅固な山城として有名である。豊臣秀吉は、文禄2年(1593)の文禄の役で失態をおかした大友義統を除国し、豊後を諸将に分与する。このことにより、文禄3年毛利高政が玖珠郡に入部し、角牟礼城は土づくりの中世山城から石垣を使った近世城郭へと生まれ変わった。関ヶ原の戦い(慶長5年・1600)後、高政は、佐伯城主に転封する。代わって伊予より来島康親(二代から久留島)が入部するが、城持ち大名ではなく、山頂の角牟礼城はその機能を失い、長い歴史の幕を閉じた。デザインが石垣のスタンプを頂く。認定証 角牟礼城入り口に置かれていた、角牟礼城のジオラマ。管理人の方から角牟礼城について説明を受ける。また、三の丸まで車で登れるので是非行ってみてくださいと。日本の城郭考古学者の千田嘉博先生も石垣を見て絶賛したと。15:05豊後森藩資料館から出、グランドの西側に、旧久留島氏庭園。森の中は末廣神社。時間がなくスルーしたが、旧久留島氏庭園、末廣神社がある。久留島武彦記念館玖珠町出身の童話作家・口演童話家・教育者の久留島武彦に関する資料を展示している。「日本のアンデルセン」と呼ばれた久留島武彦は、明治・大正・昭和の三代にわたって、人が人として共に生きていく上で、必要な教えを楽しいお話にのせて子どもたちに語り聞かせた教育者です。また、日本にボーイスカウトを紹介し、日本ボーイスカウトの基盤作りに尽力、日本の近代児童文化の基盤を築き上げたパイオニアといえます。後方の山は、角牟礼城が築かれた角埋山。切り立った標高577メートルの岩山の要害。駐車場に聳えるイチョウの木を見上げる。15:08大岩扇山、南側(右)に小岩扇山。この後、管理人の方から勧められたので角牟礼城へ登ることに。 ー 続く ー
2022.02.02
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この後、続日本100名城の角牟礼城へ向かうが、途中、深耶馬渓があるので立ち寄ることに。11月18日(木) 13:36青の洞門から、国道500号を南下、深耶馬渓、角牟礼城へ向かう。この後南下、A 青の洞門、B 深耶馬渓、C 角牟礼城距離数、所要時間は、A ⇒ B 18.4km 40分 、B ⇒ C 10.4km 23分。国道500号の本耶馬渓ICから、自動車専用道路の中津日田道路へ入る。山移川に架かる橋。道路は空いておりスムーズにここまで走るがスピード違反には注意。 中津日田道路の耶馬渓山移ICを出る。13:41中津日田道路の耶馬渓山移ICを出、この先を右折して県道28号線を、深耶馬・玖珠方面へ。山移川に沿って渓谷を南下、紅葉が広がる。県道28号線の紅葉のトンネルを抜ける。中津市耶馬渓地域は、その大部分が「史蹟名勝天然記念物保存法」により、大正12年3月に『名勝耶馬渓』として指定を受けている。また、昭和25年7月には『耶馬日田英彦国定公園』にも指定されており、「一目八景」など垂直に切り立つ石柱群、清流の流れる一枚岩状の渓谷など、光と風と水が創造した景観が、まるで自然の名画のようです。春は ”若葉もみじ” 、秋は ”錦もみじ” と称されるほど、春夏秋冬さまざまな表情で訪れる人々を癒してくれます。耶馬渓山移ICから県道28号線(森耶馬渓線)を南下。13:55深耶馬渓観光案内所所在地:大分県中津市耶馬渓町大字深耶馬広い無料の駐車場があり観光案内所、土産物店、トイレがある。駐車場には、新型コロナも落ち着き多くの観光バス、家族等の車が駐車していた。九州の紅葉スポットとして筆頭にあがる大分県の耶馬溪は、本耶馬渓(本耶馬渓町)、裏耶馬溪・深耶馬溪(ともに耶馬溪町)、奥耶馬溪(山国町)にわかれている。この近辺の観光地。中津市、日田市、玖珠町、宇佐市の観光地。一目八景(ひとめはっけい)一目で八景を一望できることから名づけられた深耶馬溪の代表的な景勝地である。猿飛千壺峡(さるとびせんつぼきょう)深耶馬渓から少し離れているが、山国川の清流、河床一帯に広がる変朽安山岩(へんきゅうあんざんがん)、そして小さな石ころの三位一体で生まれた自然の造形物が、「猿飛千壺峡」です。深耶馬渓(しんやばけい)一目八景展望台まで 約500m 徒歩約5分公共駐車場から渓谷を見上げる。山の上に岩峰群が広がる。頂上をズームアップ。平成28(2016)年の地震被害で、鳶ノ巣山山腹の石柱岩が崩落したと。駐車場脇の紅葉。九州を代表するだけに駐車場には、広島、山口、福岡等の県内外のナンバープレートが多かった。駐車場脇のもみじの紅葉。この後、山移川に架かる橋を渡り対岸の遊歩道へ。山移川に沿って遊歩道を進む。遊歩道に案内板が立つ。仙人ヶ岩(せんにんけいわ)仙人が数人居るように見える。親切に目の視線の方向が示されている。遠くに、仙人ヶ岩。仙人ヶ岩をズームアップ。岩の上には松も生えているが、今にも崩れ落ちそうだ。烏帽子岩(えぼしいわ)神職の装束である烏帽子(帽子)に形が似ている岩。 贈、中津商工会議所。山肌に、烏帽子岩。ズームアップ、風化していずれは。見晴らし台への案内この散策道及び、群猿山見晴台へのルート整備は「深耶馬商店会」「大分大学田舎で輝き隊!」「中津耶馬渓観光協会」「中津市」が共同で行いました。足下には十分に気をつけて散策をお楽しみください。⇐ 一目八景展望台 この先、橋を渡って道路を右です岩場のトンネルを抜ける。岩が倒れて寄り添い木が生える自然の力。山移川沿いの遊歩道を進む。山移川に架かるもみじ橋の上から下流側、川岸には土産物店が建ち並ぶ。上を見れば、仙人ヶ岩。仙人ヶ岩をズームアップ。もみじ橋を渡り、県道28号線(森耶馬渓線)へ。多くの観光客が訪れていた。左側の鳶ノ巣山と右の群猿山の間に夫婦岩がある。県道28号線沿いにある、一目八景展望台には多くの観光客。ツアーの旗を持ったガイドさんの後ろから多くの高齢者団体、我々もそうだが。一目八景展望台の後方に、鳶ノ巣山の岩肌。土産物店の奥に、夫婦岩(ふうふいわ)左の鳶ノ巣山と右の群猿山の間に夫婦岩がある絶景ポイント。ズームアップ一目八景展望台の上は、皆さんマスクをつけ三密状態に。群猿山、鳶ノ巣山、嘯猿山、夫婦岩、雄鹿長尾の峰、烏帽子岩、仙人岩、海望嶺などの周囲の岩峰群が、一目で八景を一望できることから名づけられた深耶馬溪の代表的な景勝地である。北方向に見える、仙人ヶ岩。鳶巣山(とびのすやま)左の岩が、鳶の幼鳥が餌をもらおうとくちばしを天に向け、その岩の廻りの樹木が巣のように見えることから鳶巣山と呼ばれています。 事業実施 平成22年8月 ~ 平成22年10月こちらも修景前後の写真があるが具体的に何をやったのか?、岩場の樹木を伐採?夫婦岩(ふうふいわ)二つの岩が寄り添うように立つ姿から夫婦岩と呼ばれています。このたびの修景により、群猿山~夫婦岩~鳶巣山の大パノラマが広がりました。 事業実施 平成24年8月 ~ 平成24年11月修景前後の写真があるが具体的に何をやったのか?、岩場の樹木を伐採?一目八景展望台の上から、右側の群猿山と夫婦岩。南方向にあり逆光で撮影。一目八景展望台の上から北方向を見れば、仙人ヶ岩の岩肌。仙人ヶ岩をズームアップ。一目八景展望台の上から、県道28号線(森耶馬渓線)を見下ろす。耶馬渓名物「自家製椎茸のからし漬」、元祖 山芋ねり「つぶあん入り そばまんじゅう」。多くの観光客が列を14:14山移川には養殖の「巨大ニジマス」がいる。 ー 続く ー
2022.02.01
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