全7件 (7件中 1-7件目)
1
「あなたがたはわたしを殺したことで勝ったと思うな。 わたしは殺されることによってあなたがたに勝つ」こんな意味の言葉を教えてくれた人はだれだったか。日本のキリスト教迫害時代に生きた人たちはそんなふうに確信してみ元に旅立ったことだろう。キリストは十字架に はり付けられるために捕らえられた。無抵抗だったが、それは目的を遂げるためだった。死んで全人類の罪を解き放つためである。キリストはいつも無抵抗だったわけではない。論争を挑んできた人たちには、いつでも堂々と論陣を張られた。十字架を担がされてドロロサの道を登っていく時にも悲しみ嘆きながら付いてきた女性たちに、檄を飛ばされている。キリストの力強さに圧倒される。十字架にはり付けられ死に逝こうとする際にも断末魔で信仰を言い表した犯罪者に救いの宣告を与えている。キリストは最後の最後まで伝道者だった。
2012年10月31日
コメント(1)
この世界は神が造られて、始まりを持つ。聖書は世界の始まりから記している。世界の終わりを待ち望みながら、旧約聖書は終わっている。新約聖書は世界の終わりを告げている。「世界の終わりの始まり」がキリストの誕生であるという。「メリークリスマス」の挨拶は「いよいよ世の終わりが来ましたね、おめでとう」という意味も込められている。世の終わりは、人類の大団円となるはずだが問題は、全ての人に良い終わりが待っているとは限らないことだ。そこから、あらゆるメッセージが発信される。終末の裁きについて例えば聖書の最後「ヨハネの黙示録」などを引用して細部にわたって意味を探ることは正しいことなのか。警告は脅かしとはならないのか。世の人をかえって躓かせることにならないのか。ビックリして反省するようになる人がいったいいるのだろうか。今は預言者の時代ではないのだから警告の類は心に秘めて愛の世界を求めて短くなったこの世界に、謙遜を求め愛を証し出来るように生きたい。
2012年10月30日
コメント(0)
ボクが聴いたロダール師のメッセージ関東聖化大会最後のメッセージです。取り上げられた中心聖句は「兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」(ローマの信徒への手紙12章1節)神は無理強い、コントロールをなさらない。むしろ私たちに願われ、勧めをなさる。神の勧めは、私たちの体を神にささげること。私たち一人一人のたくさんの体を、一つの生きたささげものとしてささげる。一つの生きたささげものとは、私たちの体を一つのキリストの体としての教会として。体をささげる~手、足、頭、顔、行動、歩み~毎日のなま身の生活のすべてを神の意志に沿わせること。
2012年10月18日
コメント(1)
ほほえみを絶やさない人になりたいと思う。ほほえみは自然に出てくるものだろうか。気をつけていなければ出てこないものだろうか。良いことや優しいことを考えているとほほえみとなって表れるのだろうか。幸せでなければ、ほほえむ人になれないのだろうか。
2012年10月16日
コメント(6)
妻は1型糖尿病で、いつからか自分でインスリンを作れなくなりました。1日4回、インスリン輸液を自分で注射します。それでも血糖値管理は難しく、注意していなければなりません。そのため自分への義務として午前と夜に散歩に出ます。夜はボクも一緒に出ることが多いです。妻はすれ違う人にだれでも会釈します。声もかけます。運良く会話が始まると、「自分はクリスチャンなんです」と言います。もう一年半、そういう生活ですが、まだクリスチャンに出会ったことはないそうです。友だちや親戚がクリスチャンと言う人は、いたそうです。「あなた、うちに遊びに来てもいいわよ。でも宗教のお話はだめよ」と先日言われて、さっそく訪ねていきました。驚くことに、そこのご主人も糖尿病で、病気のために足指を無くしていたのです。ボクと散歩していた午前、杖をついていた男性に声をかけました。にこにこしながら、例によって、「わたしクリスチャンなんです」というと向こうはビックリしていました。妻の伝道精神は衰えず、一人の回心者を得たいと願い続けています。それに引き替えボクは、そう願ってはいるのですが「ボク、クリスチャンなんです」と初対面の人に言えない意気地なしです。
2012年10月13日
コメント(5)
ドイツで教会オルガニスト(カントル)をしている信徒さんが一時帰国し、関係者の計らいで、オルガンの前に座ってくださいました。いつもは年次総会などで讃美歌伴奏程度にしか奏でてくれなかったそのオルガン。輝かしい響き、射し込む光のような鋭利な響きを聴かせてくれた。合間にスピーチもありました。直接献身の道か、音楽の道か迷った日もあったと。
2012年10月04日
コメント(2)
上記の本を読んでいます。読み始めて、途中別の本に取りかかりまたこの本を手に取りました。あわてたのは、今月14日(日)から3日間「関東聖化大会」が開催され、講師にロダール先生がお立ちになるとわかったからです。第3部「罪の教理」まで、約三分の一を読みました。この本は『神の物語』という柔らかい題ですが「組織神学」の本です。「組織神学」? わぁ~いやだしかしこの本は今まで読んだことがない新鮮な視点で書かれています。神様の主権の中から、分け与えるようにして人に自由意志を与え、人が自由に決断するように求められたこと。それはどうしてか。そのことがわかりやすくていねいに書かれています。愛のナイーブさ。愛する神様、愛される私たち。愛する私たち、愛される神様。その愛の真実の交流を繰り返しながら、神様と私たちの歴史が作られていく・・・・そんなふうに、論じられているのです。どうです?早くロダール先生に会いたい!それにまでには、どうしても読んでおかなければ恰好がつかない!
2012年10月02日
コメント(2)
全7件 (7件中 1-7件目)
1


![]()