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早朝の雨。きのう昼間は青空がのぞいていたが、暮れるほどに雲がひろがり、よるには全天が雲におおわれた。仲秋の名月。楽しみにしていたが見るを能わず。晴れた地方ではスーパームーンが見れたはずだ。 仲秋の月もしおるる事あらん 青穹(山田維史)
Sep 30, 2023
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朝のうちに新型コロナウィルス・XBB.1.5対応のワクチンを接種してきた。7回目の接種である。きょうは少しおとなしくしていよう。ハハハハ。暑い1日になりそうだ。 おっと、内祝い事を忘れるところだった。
Sep 29, 2023
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論考の完成をめざして古典文芸を調査中。書棚より取り出した藤原定家の全歌集(原文活字版)を読んでいるが、全4571首のおよそ半分まで読んだ。合わせて犬筑波集や連歌関係書、仏教書等を座右に置いて。
Sep 28, 2023
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秋の暮れ 遠き灯のまたたきそめし秋の暮れ 青穹(山田維史) 鴉きてひと声ひくく秋の暮れ 栗飯の炊けゆくけむり日も暮れぬ
Sep 27, 2023
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きのうは1日がかりで『古今和歌集』と『新古今和歌集』とに採録されている和歌、ぜんぶでおよそ3,000首を読み、きょうの午前中いっぱいを使って、先月このブログに掲載した論考『「江戸の松風」私論』を加筆訂正した。初稿は平安・鎌倉時代の貴族文化における「松風」について閑却したので、その件を江戸俳諧文芸との比較に必要と考え、わずかながら加筆した。(このブログの8月13日に加筆訂正稿) 小論ではあるが、「松」ではなく「松風」に注目したところに私の新味があろうかと思っている。今後も調査をつづけて、「松風」に対する感性の変遷史論を考えている。定稿は未完というところだ。
Sep 26, 2023
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The movie "The Killing of Kenneth Chamberlain" wasjust released yesterday, September 22nd, in Japan.Executive produced by Morgan Freeman and directed byDavid Midell, the film is based on a true story and recreates the actual elapsed time of the incident in therunning time. Kenneth Chamberlain, a 70-year-old black man andformer U.S. Marine Corps soldier who currently suffersfrom mental illness* and heart disease, tossed thependant onto the small table next to his bed whiledozing off in his sleep. The pendant collides with theemergency safety confirmation phone, causing the device to malfunction. It was 5:20am. The operatorasked the local police in charge to check on Mr.Chamberlain. Three police officers arrive at Mr.Chamberlain's apartment. ... The police officers, excited after a long exchangewith Mr. Chamberlain, finally smashed down thedoor and entered the room. They pushed Mr. Chamberlain, who was in a panic and did not understand what was going on, to thefloor and shot him dead with two shots. It was 7am. I don't explain the details of this movie. However, the scenario, cinematography, editing,music, and recording of this movie are trulyspectacular. The story (incident) unfolds in a smallspace in Mr.Chamberlain's apartment. The room isstubbornly closed with a steel door. Outside thatdoor, in front of the room at the top of the stairs.... It's just these two narrow spaces. The cameradid't move at all other than these two places. Youcould say it's a non-cinematic space, almost likea closed-door drama. Here, the movie progressesfor the same amount of time as the real event.Moreover, the threads of tension never break. I paid attention to the performance of the actorwho played the new police officer who is a formerjunior high school teacher. His understanding ofMr.Chamberlain, who suffers from a mental dis-order, and his thoughts on how to deal with thesituation stemming from his experience as ateacher are things that are happening in side ofhim, and in reality, all of his suggestions arebluntly rejected by his superiors, and the policeorganization He is ordered to behave like a new empolyee. ... A face that expresses human innerconflict. This is the physical expression of a manwho, as a rookie police officer, is unable to doanything as his hands and feet are constrainedby the orders of his superiors. His intellect andhuman emotions are nullified within the policefoece. ... This person probably embodies thecreative claims of this film. He's a great actorwho did that. Since the casts are modeled after personsinvolved in a real-life incident, so-called staractors do not appear in this film. When I say "a brilliant scenario" (by DavidMidell), I mean the sharp depiction of thecharactees, the sense of each word of thedialogue that is not wasted and never logical,the humanity of the characters...the level ofintelligence, it is packed full of psychologicalpathways for emotional expression, etc., andprovides a clear picture of each perspn'scharacter. What is interesting is that an organization'schain of command often reverses the "know-ledge" entrusted to manuals. In other words,the more faithful one is to one's duties, theless one's judgement of human naturebecomes flexible. "Knowledge" that isdocumented ina manual becomes nothingmore than a theoretical theory. When humanity is lost, orders from superiors andsubordinates become ruthless and cruel, andpeople fall into irredeemable mistakes. ... The scenario of this movie, and of coursethe visuals, perfectly depict these things. It isexploiting the problem of racial prejudice + α.【*Note】Mr. Chamberlain's mental disorder:Post-traumatic stress disorder, PTSD, fromthe war? In the movie, the term bipolardisorder is mentioned once by an emargencytelephone operator telling a police officer.Tadami Yamada
Sep 24, 2023
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昨夜の雨で涼しくなった。それでは、ということで、午前中、映画を観にでかけた。 昨日公開されたばかりの『キリング・オブ・ケネス・チェンバレン』。モーガン・フリーマン制作総指揮、デビッド・ミデル監督が実話に基づき、実際の事件経過時間を上映時間に再現している。 元米国海兵隊兵士で、現在、精神障害*と心臓病をかかえる70歳の黒人ケネス・チェンバレン氏は、睡眠中にうなされながらペンダントをベッドそばの小卓に放った。ペンダントが緊急安全確認電話にぶつかり、装置が誤作動する。午前5時20分であった。オペレーターは担当地区警察にチェンバレン氏の様子を確認するよう依頼。三人の警官がチェンバレン氏のアパートにやって来る。 ・・・長いやりとりでいきり勃った警察官は、ついにドアを叩き壊し、室内に踏み込んだ。何がなんだか解らずパニックになっているチェンバレン氏を床に押し倒し、二発の銃弾を浴びせて射殺した。午前7時だった。 この映画の細部を解説することはやめよう。 ただこの映画のシナリオ、撮影、編集、音楽、録音・・・じつに見事である。物語(事件)がくりひろげられるのは、チェンバレン氏のアパートの一室のわずかなスペース。その部屋はスチール・ドアで頑なに閉ざされている。そのドアの外、すなわち階段の上がり端の部屋の前。・・・この二箇所の狭い空間だけである。撮影カメラは、この二箇所以外にチラとも動かない。まるで密室劇のような非映画的空間と言ってよいだろう。ここで現実の事件と同じ時間、映画は進行する。しかも緊張の糸は切れるかことがない。 私は元中学校教師の新人警察官を演じた俳優の演技に注目した。精神障害をかかえるチェンバレン氏に対する理解と教師の経験からくる状況対処への思い、それらは彼の内面で起こっていることであり、現実は、彼の提案はすべて頭ごなしに上司に否定され、警察組織の新人としてふるまうことを命令される。・・・人間的な内的葛藤を表している顔。新人警官として上司の命令によって思いの手足を束縛されている男の何もできない身体表現。彼の知性と人間的な感情は、警察組織のなかで無効化される。・・・この人物にこの映画作品の創造的な主張が体現されているであろう。それを実現したすばらしい俳優だ。現実の事件に関わった人物をモデルにしているので、いわゆるスター俳優は出演していない。 私が「見事なシナリオ」(デビット・ミデル)と言うのは、登場人物のするどい描き分け、むだのない決して理屈っぽくないセリフの一言一言にその人物の人間性・・・知的程度や、感情表現の心理的経路等々がぎっしり詰まっていて、一人一人の人物像を明確にしている。そして興味深いことは、組織の命令系統は往往にしてマニュアルに託された「知」を反転する。つまり職務に忠実であればあるほど、臨機応変な人間性に対する判断を鈍らせる。マニュアル化された「知」は机上の空論同然になる。人間性が失われたとき、上意下達の命令は非情残酷なものとなり、救いようのない過ちにに堕ちて行く。・・・警察組織に限ったことではない。・・・この映画のシナリオは、そしてもちろん映像は、そのようなことをあますところなく描ききっている。人種偏見+αの問題をえぐり出しているのである。【*註】チェンバレン氏の精神障害 ; 戦争心的外傷後ストレス障害;PTSD か? 映画の中では双極性障害という言葉が一度字幕に出てきた。パンフレットは製作されなかったそうだ。画像はリーフレットの表裏。
Sep 23, 2023
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きょうの朝食の果物はシャインマスカットだった。その一房のなかにめずらしい形の一粒があった。たった一粒である。扁平で、まるで小さな青い平柿のようである。私はいままでこんな形のマスカットを見たことがない。どうしてこんなことが起きたのだろう。遺伝子の突然変異だろうか? 画像を掲載しておこう。
Sep 22, 2023
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少しづつながらも日々気温は下がっている。しかしながらまだ蒸し暑い残暑はつづいている。今日も雨が降りそうで降らない曖昧な空模様。天候に「曖昧」というのもヘンだが、ちょいと外出すると、空気に一粒二粒の雨がまじっていた。 秋の彼岸である。墓参に行こうと思いながらここ数年、コロナウィルス禍のせいにして、家のなかの仏壇に朝夕の仏飯を供奉しながら、それで済ましてきた。すると墓の管理を委託している会社から、樹木葬にしたらどうかと言ってきた。 NO! である。他人の葬祭儀礼に、口をはさまなくてよろしい。 それで気がついたことがある。我が家の墓地は、かつては亡母の実家の寺の墓地で、僧侶の伯父に葬祭供奉をお願いしてきた。しかし、30年ほど前に私が墓苑の一区画を購入し、伯父の寺から遺骨をこちらに移した。気が付いたことというのは、墓苑に購入した墓地は、永久的な個人財産ではないのか? ということである。つまり墓苑の一区画は、購入したとはいえ、事実関係は「借地」なのか。墓苑販売管理者の裁量下にあるのか、という疑問である。 法的には宗教的個人財産であろう。他の宗教的物品は相続税がかからないはずだが、墓地はどうなのか? また、管理委託会社はその個人財産に対していかなる権利があるのだろう。現在、報道メディアで「墓じまい」ということが、かなり頻繁に話題にされている。・・・これはいったい如何なる意味を潜めているのだろう。 YouTubeの旅番組などで、昔々の墓を訪ねる映像を目にする。歴史上の偉人の墓もあれば、誰ともわからなくなった墓もある。草深いなかに傾いている墓、すっかり倒れている墓、あるいは風化して文字が判読できなくなっている墓。さまざまである。すでに祀る子孫も絶えたのであろう、訪れる人もないまま朽ちてゆくのであろう。・・・しかし、私はその現状に、人間の存在したこと、消滅したことを見、自然のいわば摂理を感得する。そして何より、誰とも知らぬ人に「ああ、あなたは生きましたね。あなたが亡くなって何十年何百年経ったかわかりませんが、あなたが生きた証を私は見ましたよ」と、心の中で言うのである。 すこし話が飛ぶが、大航海時代のポルトガル出身のスペインの探検家フェルディナンド・マゼラン(1480-1521)は、マゼラン海峡の発見者としてなど多くの事績が知られている。しかし、実はマゼランは何一つ文献を残さなかった。なぜマゼランの事績が今日知られているかというと、大航海に同行したイタリア人のアントニオ・ピガフェッタ(1491-1531)が『マゼラン艦隊世界初周航記』を書いたことによる。 私が言いたいのは、歴史的偉大な業績であっても、死後には必ずしも生きた証にはならないかも知れない、ということだ。いわんや一般庶民においておや。 ただしかし、墓こそが、死んで、生きた証となる。墓苑開発業者の思惑とはまったく異なる墓の意味があり、それは「墓じまい」という現今の思潮・風潮とは相容れないのである。墓は、子孫が絶ち、継承者がいなくなっても、むしろ草むし、傾き、倒れ、崩壊するがままにすべきなのだ。一人の人間が、たしかに生きていた証として・・・。墓は、遺された生者の慰めではない。子孫が絶えた後までも、一人の人間がたしかに存在したことを無言で主張している物証なのである。風化した墓の前で、「あなたはたしかに生きて来ましたね」と、語りかけてごらんなさい。「墓」の意味がおわかりになるでしょう。そしてそのあなたの語りかけが、信仰とは何ら関係ないことに気づくでしょう。ただ人間存在への敬意である、と。
Sep 21, 2023
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糸瓜の影濃くありて子規忌かな 青穹(山田維史) 三苦世に三句遺して子規忌かな 三苦界三句遺して子規忌かな【註】仏教では人間に三苦あるとする。「老・病・死」である。仏教の究極の目的は、この三苦を断つことである。正岡子規は糸瓜を詠み込んだ三句を絶筆として、明治35年、36歳で亡くなった。
Sep 19, 2023
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ブログに昔聞いた話などを書いてきたが、私がかつて住まいしてきたところは、現在どうなっているだろうと思った。 google earth で空からのぞいてみた。 生まれた静岡県土肥近傍は、あまりにも幼すぎて記憶にない。生後6ヶ月ころのこと、祖母に抱かれた私が近くの山肌に咲くコブシの白い花を指差して「タカイ、タカイ」と初めて言葉らしきことを言った。祖母は、初孫が「高い、高い」と言ったと喜んだという。そう聞こえたのだろう。終戦がちかづいていた頃、清水港や焼津港をめざして飛来したB29爆撃機は、このころから低空飛行絨毯爆撃を始めた。防空壕に避難すると泣き出す生まれたばかりの赤ん坊の私を、銃弾が貫通しないことを願って厚い綿布団にぐるぐる包み、階段裏に押し込んで置き去りにするしかなかったという。そうして生き延び、戦争が終わって初孫を抱いた祖母に、希望の喜びがあったのだろう。 ついでなので亡母から聞いた土肥の家でのエピソード。まだ1歳になる前だ。・・・耳が聡い赤ん坊だったという。火箸がなくなったと母が探しているのを聞きつけ、這い這いして板の間に行った。母がついてゆくと、板の間のわずかな隙間をおしえた。のぞいてみると火箸が落ちていた。私が這いながら火箸をひきずって、その隙間に落として遊んだらしい。・・・また、こんなことも。私がいなくなってしまった。祖父母も一緒になって探したがみつからない。すると茶の間の茶箪笥の戸棚のなかから声がした。戸をあけてみると私がいた。這い這いして戸棚にもぐりこみ、中から戸をしめて寝てしまったらしかった。・・・その茶箪笥は私が中学生のころはまだあった。戸棚の中のスペースは、底面が30X50cm, 高さが30cm程度だった。 北海道の羽幌町についてはこの6月のブログにも思い出を書いた。グーグルで空から見ると・・・羽幌神社はさすがに昔のままの場所なのだろうが、そこからたどって羽幌町役場や羽幌高校・羽幌小学校は見えるが、自宅のあった場所はまるで見当がつかない。羽幌町役場は、はたして昭和24,5年のころの場所なのかどうか。昔のままならその近くに通りに面して伯父の家があり、私の一家が間借りをしていた。次いで伯父の家から引っ越して(たぶん弟が生まれるので)通りの向かいの家に移った。しばらくして当時の町営グランドそばの新築の借家に移った。・・・しかしグーグルでまったくたどれなかった。 長野県川上村梓山。2年間暮らした。この地で小学校に入学した。川上第二小学校は昔のままの場所。敷地もあまり変わってないようだ。しかし周辺は大いに変わっている。昔、運動場のはずれは田んぼだった。冬、氷が張るとスケートリンクになった。当時は少なくとも子供達のあいだではスキーは見かけなかった。手作りの竹スケートや、氷ソリで遊んだ。ソリの足に鉄線を取り付け、五寸釘を差し込んだ錐状のストックだった。 国道を梓山方面に向かう。道路左側にクズの花の茂みがあったあたりと思われる所を過ぎ、小学1年生の私が、医者になろうかなと思ったきっかけの、尊敬した院長先生の「木村医院」のあたりを左に見て、級友秋山君の家があったあたりで左にカーブし、ゆるやかな坂をのぼる。すると画像に本道のわきに細い筋が見えた。道かな? もし道だとすると、本道に沿った崖に穿たれた急坂道かもしれない。通学時の近道だった。台風の時に傘がオチョコになって、危うく崖下に転落しそうになったっけ。 本道は右にカーブする。坂の頂上の右手の小高い山の上に昔は桑畑があった。養蚕を営む農家が梓山にもあった。私もご近所の井出さんから蚕を数匹もらって、箱の中で飼い、繭になるのを観察した。学校帰りに道草をして桑の実をとって食べた。タカコさんや、タカネさん、ナナコさんと一緒に口の中を真っ黒にして笑った。 坂を下る。その下りきった右手奥、昔は墓地だった。どなたかが亡くなったとき、白布に覆われた棺を運ぶ葬列を私は見ていた。土葬だったが、墓穴に棺が縦におろされたと憶えている。・・・早春、その墓地には福寿草がたくさん咲いた。また向かいの道路わきにアザミが咲いていた。私はアザミに舞うウスバシロチョウを採集した。鱗翅が透明な蝶である。私が所持していた(現在も書棚にある)横山光夫監修『原色蝶類図鑑』に、「氷河時代の遺物」と記述されていた。私は樋口カエ子先生がおしえてくださった鱗粉転写法による標本をつくっていたので、そのウスバシロチョウを(透明だったので)オレンジ色の紙に転写した。大失敗だった。オレンジ色の翅の蝶になってしまった。しかし、私はその後、二度とウスバシロチョウに出合わなかった。・・・その鱗粉転写標本は、現在78歳の私の資料箱に保存してある。 2年生の2学期が始まる前、福島県に転校することになった。甲武信鉱山が閉山されることになり、父が八総鉱山に転勤になったのだ。樋口先生はお首にかけていた当時貴重だった2.5倍のルーペを私に贈ってくださった。そのルーペも大切に保存してある。過日、ひょんな所から母が保存していたらしい私の全成績表(通信簿)が出てきた。小学1年のときの家庭への通信欄に樋口先生は、私が最近植物に関心を示しているので家庭でも支援してやってほしい、とお書きになっていられた。私は初めて見た。 隠花植物か地衣蘚苔類をやったらどうだ、と勧めてくれたのは父だった。私は蘚苔類の標本をつくることにした。父が鉱山の坑道内に連れて行ってくれ、私が苔を採集するのを見守っていた。この標本は、私が知らないうちに樋口先生が子供科学賞に応募してくださり、私は賞をもらった。転校するとき、先生はこの標本を学校に寄付してほしいとおっしゃり、私はうなづいた。それから、私が描いた遠足の絵もほしいとおっしゃり、それも差し上げた。 川上第二小学校が戦後の新しい民主教育に積極的だったとつくづく回想するのは、卒業式・修了式に児童が歌ったのが、百田宗治作詞・草川信作曲『どこかで春が』だった。草川信が長野県上水内郡長野町(現・長野市)の出身だったこともあるかもしれない。 昔と比べられないほど川上村は大層変わった。我が家のあったあたりは、あれは何だろう? 工場だろうか。 昭和27年当時、高さ一間の板塀で囲われていた我が家の横は広場、真裏はバス発着所の車庫だった。木炭車である。私は親に叱られた記憶はほとんどないのだが、1年生のとき、原因はまったく憶えていないが、叱られて家出した。家出といってもバス車庫の隅にあったドラム缶の陰にうずくまっていたのだ。夜になった。たぶん腹がへってきたのだろう、そっと這い出して家の方を覗いた。すると、家の角の暗がりのなかに母がじっと立ってこちらを見ていたのだ。私は母の胸に飛び込んで行った。 家の向かいの本通りとタダオちゃんとパピちゃん兄妹の家への細道との分かれ目に、道祖神だったか馬頭観音だったか・・・小さな祠があり、一本の桑の巨木が立っていた。私たち一家が羽幌町から引っ越してきて間も無く、二百十日の強風が吹いた。翌朝、私は桑の木の葉が吹き飛ばされて丸裸になっているのを見た。自然の驚異を実感した、それが初めての光景だった。 さて、もう少し思い出をたどる。我が家からしばらく行くとその昔は旅館だったという旧家の山ニさんの長屋門を過ぎ、間も無く少し上り坂になった。左にケンゾーくんの家とキヨタダくんの家、右は土蔵。坂を左にカーブしながら降ると、白木屋旅館と、その向かいの、二階にガラス窓がたくさんならんでいた級友ヨゴロクくんの家。梓川に掛かった橋を渡ると左奥に公民館があった。今、グーグル画像に見えるあの建物は何だろう。公民館だろうか。 そして梓川の画像は、川の二箇所の堰を映し出していた。・・・驚いた。70年前のまま、と見えた。下流の堰がある河原にカワラナデシコが咲いていたことを思い出す。土手上は道になっていて、川と反対側の道沿いにノイバラが群生していた。土手下は里芋畑と田んぼだった。そこに水車小屋があったのだ。田んぼにはゼリー状の数珠つなぎになった蛙の卵がたくさん浮かんでいた。オタマジャクシに孵ると、大群だった。・・・下流の堰をさらに下ると流れが少し深くなった場所があり、夏、子供たちはそこで泳いだ。男の子達は黒いモッコフンドシだった。 あれはどのあたりだったのだろう。近所のお母さんたちと落葉松の林にナメタケ狩に行った。夕日が落葉松林に差し込む光景が目にうかんでくる。 私が数匹の蚕をもらった井出さんは、目の前の山に椎茸を栽培していた。私は赤ん坊の時から「シータちゃん」と呼ばれるほど椎茸が好きだった。しかし椎茸が栽培物であることをまったく知らなかった。或る日、山遊びしていると杭のように粗朶が並んでい、椎茸がたくさん生えていた。私はその発見が嬉しくなって、夢中で幾つか「採集」した。家に帰り、得意気に母に見せると、母はさすがに驚いて、椎茸は野生の茸ではないと言った。案の定、井出さんの小父さんが、カンカンになって叱りに来た。・・・。 先に述べた白木屋旅館そばの橋を渡らずに右折して、梓川にそって進んでゆくと、父の会社甲武信鉱山事務所があった。自宅から往復3里か4里はあったと思う。アッちゃんの家からもらった飼い犬カピは、夕方5時になると家を出て行った。この長い道のりを父を迎えに事務所までひとりで行くのである。カピという名前は、当時、日本放送局(NHK)が連続放送「家なき子」を放送してい、マルコ少年の愛犬がカピという名だったのだ。・・・一家が福島県の八総鉱山に移転することになり、私たちと同じ列車の貨物室の檻にカピは乗った。そして、東京八王子の駅で、駅員の不注意で檻の扉が開き、カピは脱走してしまった。知らされたのは南会津の荒海駅に着いたときだった。・・・カピはどこを彷徨っていたことだろう。・・・現在、私は八王子市と日野市との境界近くに住んでいる。70年前のカピを、私は無意識のうちにときどき探していることに気づくことがある。カピや、カピや、と心のなかで呼びながら・・・ さて、八総鉱山があった辺りに飛んでみた。級友田中くんにメールでおしえられていたが、我が家のあったあたりは昔の面影ををたどることもできないほど変わり果て、山は崩され、大きな釣り堀になっていた。 ただグーグルアース画像は、清瀬川(荒海川源流)の龍神祠と龍神滝を示していた。昭和29年頃、私は級友の木村くんと一緒に中学生にくっついて、龍神滝の滝壺で泳いだものだ。岩魚(イワナ)がいた。水野さんのお兄さんが、5寸釘を打ちならべてヤスを作るのが上手で、箱メガネも作って、滝壺に潜っていたのを思い出す。 しかしながら、八総鉱山小学校が開校した4年生以降、私は学校から帰宅後、友達と遊んだことがほとんどなかった。私はたったひとりで植物や蝶類、蛾類、あるいは水棲昆虫を探して山野をめぐっていた。まるで二重生活者のような、両親だけが実態を知る小学生になっていた。今元気な当時の級友は、おそらく私と遊んだ記憶がないだろう。 ・・・幼い頃から各地に移り住んだ。それゆえ私には心身に土着の風土性というものがない。そのことは私の絵にも表れていると自覚している。それで良かったのだと思う反面、心のどこかで風土性をさがしているのかもしれない。 高校生時代の私をよく知っている人は、私が風土、風土としょっちゅう口走っていたと言うかもしれない。私は、「日焼けした畳をアリクイのように舐め回している」と自己イメージしていた。たとえば夏休みなどの長期休暇中に両親家族のもとに帰る。そして一ヶ月ほどしてアパートの閉め切っていた部屋に帰り、重いスーツケースを置く。するとその瞬間、アリクイの感情になる。古畳を舐めまわしたいような感情にとらわれるのだった。 グーグルアースが会津若松市に飛ぶ。 中学生時代住んでいた若松商業高校近辺もまったく景観を変え、ただ近くの、藩校日新館の水練場(日本最初の学校プール)の名残の大池のほとりの邸宅は、昔ながらのように見えた。この邸宅が建築されるのを、中学1年生だった私は、自室の窓から見ていて、建築経過を物語風に原稿用紙に書いた。もしかすると資料箱にこの原稿が残っているかもしれない。 現在、大池は埋められ宅地になっていた。その大池が水練場の名残であることを、知る人はなかったかもしれない。日新館の遺構は天文台趾とこの大池だけだと、その跡地に住む中学生の私は思っていたのだが。 私が東京に去るまで住んでいたアパートは、すっかり取り壊されて空き地になっていた。そのアパートで高校3年間を暮らした。ときどき下級生が3,4人、私の詩の朗読や哲学めいた話を聞きに訪ねて来た。アパートを引き払うとき彼らが手伝いに来てくれた。 18年前、清水和彦先生を訪ねて42年ぶりに同市に行き、先生がわざわざ私のために新しい自転車を用意してくださったのにまたがり、男子校だった母校会津高校の他校だった女子高校の先輩Eさん(Eさんとも42年ぶりにお会いした)に同道をお願いして、一緒にそのアパートを訪ねた。人は住んでいなくて、窓や戸に板が打ち付けてあった。しかしアパートは42年前のようにそこにあった。私は却って驚いた。近くにいた婦人が、「間も無く取り壊すそうですよ」と言った。Eさんがカメラをわたしてくれたが、私はことわった。高校生のころのセンチメンタルから、私は脱していた。 「地球の夜更けは 淋しいよ そこから私が 見えますか」 吉田旺作詞、杉本眞人作曲『冬隣』の一節。愛する人が死に、その人を偲んでひとり焼酎のお湯割を飲んでいる・・・そういう歌である。 きょうはgoogle earth を使って、死んだ私が宇宙から、まだ地球上に生きている私を眺めたかのようだ。絵描きである私は、創作中の自分自身をどこか別の視点から冷酷に見ていることは、日常的なのだが。
Sep 17, 2023
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ひとつの怪異譚を記録した先日のブログの最後に、わたしの亡父亡母は迷信を信じなかったが、その信じない者の心理に、迷信らしきことがふと兆すことがあるかもしれない例となる話がある、と書いた。今日はその話を書こうと思う。 鉱山の災害といえば落盤事故をイメージするかもしれない。八総鉱山でも落盤事故がなかったわけではない。ただ幸いなことに落盤で人身に被害が及んだものは一件もない。八総鉱山の特徴である黒鉱交代鉱床(金、銀、銅、鉛、亜鉛の混合体)は、軟質で、落盤を起こしやすいのである。そのため落盤を予想した保安体制が普段から厳重に管理されていた。坑木は念入りに組まれ、絶えず岩盤の音響調査がおこなわれていた。 日本のすべての鉱山に適用される法律である鉱山保安法は、保安体制が社長に直結していなければならないと定めている。保安に関する企画や指令が、他の部署の都合に影響されないようにするためである。したがって八総鉱山においても、保安関係予算は潤沢だった。 しかし八総鉱山の歴史のなかで、3人の人命がうばわれた事故については、記録しておかなければなるまい。ただ一度起こった最大の事故である。 それは誰も考えたことがない場所で、考えたこともないような行為によって起こった。事故とは、えてしてそういうものかもしれない。 坑道のなか、鉱石を落として蓄える漏斗の途中が詰まり、鉱石が上部までいっぱいになったのである。現場にいた3人が漏斗の最下部の落とし口の扉をひらいて、そこから漏斗内部にもぐりこんだ。そして頭上の詰まっている鉱石を下からスコップでつついた。ありうべからざる行動だった。漏斗の内部は、岩盤を掘削した竪坑の周囲を板壁でかこっている。鉱石をつつく振動が板壁を振動させ増幅した。詰まっていた鉱石が一挙に落下して一瞬のうちに3人を飲み込んだ。 亡くなった3人の葬儀は、八総鉱山で営まれた・・・少なくとも私たち家族がいた期間におこなわれた、唯一の葬儀である。 その3人は、A氏ほか2名とだけ書くが、A氏はもと甲武信鉱山に従事していたが、私の父が八総鉱山に呼び寄せたのだった。御遺体は父が背負った。 採掘現場等における遺体の搬出は、いたるところに掘られた坑道内(蟻の巣穴のような状態である)で霊魂が迷わないように、鐘を鳴らし先導の言葉を言いながら搬出する。 戦場でたくさんの負傷者や戦死遺体を搬送した経験のある私の父は、豪胆さと繊細さをあわせもつ人で、先にも述べたように迷信などまったく受け付けなかった。その父が、A氏の御遺体を背負うと、御遺体はとつぜんものすごく重くなり、父の背中にしがみついてくるのを感じた。 ・・・このような話を私に聞かせる人ではなかったが、この時ばかりはちがった。そして、「初めて、霊を感じたよ」と、言ったのである。 A氏は生前、父が八総鉱山へ呼び寄せてくれたと、感謝していたという。しかし、父はあたらA氏を死なせてしまったという悔いが起こったのかもしれない。私は「霊」などという言葉を父から聞くとは思わなかった。迷信を信じない者の心理に、迷信らしきことがふと兆すことがあるかもしれないと、私が述べたのはそういうことである。
Sep 16, 2023
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猛暑つづきだった気候のせいであろうか、我が家の小庭の植物にかつて見たことがない事態がおこっている。 すでに書いたが、柿の木にヒラヘリアオイラガの幼虫が大発生して駆除。すっかり食い荒らされて、生った柿の実はわずか10個ばかりだ。そして今朝、鉢植えの草木に散水しながら、ふと見やると、地植えのフタリシズカの花が咲いているではないか。 五月ころに大きくそだって花を咲かせたフタリシズカだが、花が終わったあと、根元ですっかり切った。地表には何も見えない状態で、土が乾燥しない程度に水だけは撒いていた。ところが今月に入って新芽が出てきた。一つが二つになり、丈8cmほどになって十字に葉をひらき、今朝、二輪の花が咲いたのである。一年に二度芽を出し開花することは、これまでなかった。狂い咲きと言ってよいのかどうか。 どうもすべて気候のような気がする。【追記】東京23区が大雨だと報じられている。尋常な降りではなさそうで、品川ではマンホールから水が激しく噴き出している映像が放映されていた。 ところが我が日野市は、たしかに遠雷が聞こえ、稲妻が遠くの街に青光りしたが、雨は限定的地域で降ったようだが山の上の我が家近辺は降らなかった。私が気がつかなかったのか、蒸し暑さだけを感じていた。昼過ぎの気温は32℃まであがった。大雨はこまるが、一度ザーッと降れば涼しくなるだろうに。 酢橘(すだち)をたくさん頂戴した。さっそく秋刀魚を塩焼きにして酢橘でたべた。今年初の秋刀魚である。一匹200円くらい。安いのか高いのか、今年の相場を私は知らない。佐藤春夫の詩を思いだした。「秋刀魚 苦いか しょっぱいか」。少し苦いのが旬の秋刀魚の美味さである。ワタを取らずに焼くのがよい。
Sep 15, 2023
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明治神宮外苑地区の再開発という名目のもとに、美しい歴史的景観をたもってきた多数の樹木が伐採されようとしている。この計画には多数の批判があり、樹木伐採に反対の意見も多い。しかし再開発事業者(三井不動産、明治神宮、日本スポーツ振興センター、伊藤忠)は、聞く耳をもたない。新宿区はほとんど能天気に、そして東京都はいじましいくらいこそこそと、この再開発事業をバックアップしている。まさに虚仮の一念で計画実現に邁進しているのである。 神域を荒らすこの計画に明治神宮が参画しているのだから呆れる。近頃の神職どもは金に目がくらみ、神もへったくれも無いのであろう。いったいどんな顔をさらして参詣人に対しているのやら。神職の信心のいいかげんさは明らかだ。無信仰者の私が、そのように感じるのだ。 事業者も東京都も、ラグビー場をはじめとするスポーツ施設に都民の目を誘導しようとしているようだが、再開発計画の中心はむしろ商業モール建設にあると思われる。そしてその商業モール完成予想図は、私が知ったとき、存在するにも関わらずなぜかwebサイトのPRページには掲載していなかった。 以前、私はこのブログに書いたが、商業施設というものはしょっちゅう建て替えが必要なのだ。めまぐるしい時代の流行をとりいれていかなければ、集客率が激減するからだ。現代建築は、「築く」というより「設置」あるいは包装のような「貼り付け」であるから、20年ほど経てば老朽化する。壊さなければならない。時間が蓄積した建築美は望みようもないのである (後註)。つまり神宮外苑に計画されている商業地区は、今後、果てることない騒然とした建て替えスパン(短期間)地区になるということだ。事業者にとってそんなことは問題にもならないであろう。それこそ金の湧き出る地区ということだ。この事業者にとって、100年200年、1000年の命の樹木のつくりだす景観美・・・東京という大都会のまんなかに曳えいとして静謐を保つ空間など、どうでもよいのだろう。我が身より永い先の社会や街のことなど、どうでもよいのだろう。 再々南方熊楠を引き合いに出す。 熊楠の書簡中に、二通の「神社合祀反対書簡」がある。二通ともに松村任三に当てた手紙である。松村任三(まつむらじんぞう;1856-1928)は東京帝国大学理学部植物学教授で小石川植物園の初代園長。この二通の書簡はともに大変長文であるが、「諸神社および神社趾の乱潰(らんかい)日々挙行せられおり(県郡当局者はこれを神社整理と称うれども、実は風儀破壊、神社不整理を行なうものなり)、一刻も早く少々なりともさし当たり意見を陳述すべしと存じ・・・」と起筆している。 以下実名をあげて、町の勢力家(実は巨盗:熊楠の註)、警察、神官が村や山の人々をおだてまくり、偽の書類を作成し、那智山の乱伐を策謀した事件を述べる。さらに次々と例をあげ、神主が世話人と共謀して健壮の大樟を枯れ木と称して切り倒し、根まで掘り起こして売りさばき、鬱蒼と枝葉をのばしていた大樟の樹株の下から清水が湧いてそそいでいた神池をも壊滅してしまった。美しい景観ばかりか貴重な植物群を一顧だにせずに絶滅させている、と述べている。 この南方熊楠の書簡を読んでみることを私は多くの人に勧める。 南方熊楠が和歌山県田辺湾の神島(かしま)の保全につとめ、照葉樹林が覆う神島が今に残ったことは、周知であろう。古来、神が住む島とされてきたのだったが、この島の樹木も入札により伐採の手が入っていたのだった。南方熊楠の勧告を当時の村長が理解し、すでに伐採した木の値を差し引いた約7割の金額を村議会は落札業者に返却したのである。こうして神島は保全された。 私はこの書簡を読み、今まさに明治神宮外苑でしゅったいしている樹木伐採問題に相通じると思った。事業者や自治体行政を、さすがに「巨盗」とは言わないが、文化的・歴史的景観の破壊者の汚名は被らなければならないだろう。それほど大事に保って行かなければならない樹木群のはずだ。 今日の朝日新聞朝刊に、東京都が事業者に対し樹木保全の具体策を高木の伐採開始前に示すよう事業者にもとめたと報じた。今月にも始まる予定だった伐採は、計画より遅延することになろうが、法的強制力はない。・・・つまり樹木伐採は事業者の計画通りにおこなわれる。取り返しがつかない愚かなことだ。【後註】 南方熊楠の上記書簡中に次の記述がある。おもしろいので引いておく。 「(前文略)往年チガコ出板の ‘Monist’ 紙上に、開化の定義の一として、建築が後代に永く遺り、たといその国民亡ぶるも建築が伝わるべきものにあらざれば真の開化にあらずと言いし学者ありしは、至極珍ながら欧人の気質を発揮して面白し。(略)菊池幽芳氏が書きしごとく、欧州の寺院等は建築のみ広壮で樹林池泉の助くるないから、風致ということ一向なし、というも至当の言たり。」 『南方熊楠文集 1』東洋文庫352, 339p. ヨーロッパ文化と日本文化とそれぞれの論者の説はいずれも言い得て妙、比較文化論としておもしろい。両者の論説に沿って明治神宮外苑再開発のプランを見るに、そのいずれにも当てはまらない。建築の永続性もなければ、樹林池泉の風致を壊乱するばかりだ。
Sep 14, 2023
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作曲家の西村朗氏が亡くなった。享年69。 驚いた。私は新実徳英氏のご招待にあずかり長年の間、全音が主催する現代音楽シリーズ「四人組とその仲間たち」のコンサートを聴いてきた。四人組のお一人が西村朗氏だった。このコンサートは新曲を初演する趣旨だったので、私は西村朗氏の数多くの新曲を聴いてきたことになる。そしてまた、このコンサートで西村氏は司会役をつとめられていたので、その軽妙な話し振りにも親しんできた。直近のコンサートでもお元気な様子だっただけに、お亡くなりになったことに本当に驚いた。 西村朗氏を追悼し、ご冥福を祈ります。
Sep 12, 2023
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私は先日、南方熊楠の明治44年の論文に天正少年遣欧使節に関する記述があると、その部分を引き写して書いた。その本を書棚から取り出したついでに、昔読んだのを再び拾い読みしていると、「アッ!」と思い出させた論文があった。その論文に添ったひとつの例として、私自身がもう30年以上昔に採録した怪異譚である。怪異譚ではあるが、亡母から聞いた話で、登場人物の実名がはっきりしている。じつは、それゆえに、私はどんなかたちにせよ公表することをためらっていたのだ。 母方の家は寺院で代々の僧侶だったが、それだからというわけではないが、伝わる怪異譚は多い。しかもそれらは出所があいまいな伝聞ではなく、みな実名が明らかな実体験としての怪異譚である。私は、南方熊楠に倣ったわけではないが、30年ほど前にあらためて亡母から聞き取りした数々の怪異譚を原稿に書き起こした。いま、その原稿をさがしたのだが、引っ越しさわぎで紛失したのか、出てこない。 南方熊楠が、唐の860年ころに成立した段成式著『酉陽雑爼(ゆうようざっそ)』が怪異譚を載せているために多くの批判をあびていることに反論している。段成式は狭い地域の伝聞を採録しているのではなく、古今東西に同じような譚がないか類話の系統を調査している。その怪異譚は決して誇張して記述しているのではない。この方法こそ学問をするものの態度である、と言っている。 この方法論はまさに南方熊楠の態度でもある。熊楠の博学はたんなる知識の寄せ集めではなく、まさにひとつの珍しい事象を見聞きしたなら、その類例をもとめて膨大な資料を披瀝しているのである。 たとえば誰でも知っているグリム童話『シンデレラ』について、熊楠は古今東西の古文書を渉猟し、海外の学者にも類話の渉猟を依頼してきたが、16世紀より古い資料はみつかっていない。しかしながら13世紀に日本の無住著『沙石集』には欧州の諸話より一層詳細に同じような話が書かれていることを発見した。そこからその根を同じくする話の人類学的な真意が問われることになるのである。 さて、南方熊楠の論文『睡眠中に霊魂抜け出づとの迷信』に、『伊勢物語』『古今著聞集』『拾芥抄』その他外国の例を示し、「霊魂夢中、また心労はなはだしき時、また死亡前に身を離れて他行するを、他の眼に火の玉と見ゆると信ずる俗習ありしを知り得。」とあり、私はながらく公表をためらってきた怪異譚を思い出したのである。それはまさに死を前にした人が睡眠中に自身を離れ、遠く飛び、海を渡り、会いたい人の眼前に火の玉となって現れたのだった。 私は、実名を仮名に変えて、この短い物語を書いてみる。 昭和初頭、A夫妻は樺太に住んでいた。ある日、妻は裁縫中に歯が痛んだので、さしたる考えもなく持っていた針で歯を突いた。すると針が折れた。あっと驚いた瞬間にその折れた針先を飲み込んでしまったのである。針は消化器官に入り、しかし便にまじって出ることなく、血管にもぐりこんでしまった。(現在の医学は血管をめぐる針を取り出すことが可能かもしれないが)手術は不可能とされ、血流とともに体内をめぐり、そのまま死をむかえることとなった。 臨終が近いことを告げられた夫は、病床につききりで妻をみていた。妻は眠っていた。しばらくすると目をあけ、「Mさんに会いに行ってきました」と言った。夫は「よく眠っていたけど、夢を見ていたんだね」と言った。すると妻は「いいえ、夢ではありません。私、背中でスーッと滑って行きましたの。でも、Mさんは薄情だった。私がいくら呼んでも逃げて行くの・・・ほんとうに薄情なひと・・・」 ・・・そのMさんだが、北海道の江差近傍の土橋に住んでいた(私の亡母の姉である)。夕方遅くなって厚沢部町から帰って来た。道が二股に分かれていて、いずれ再び合流するのだが、ちょうど D の字になっていた。D の下の方が厚沢部町とするとMさんの家(すなわち亡母の実家である寺)は、Dのふくらみの上の方、合流点のやや手前だった。Mさんは二股の岐路を膨らみの方へ足早に歩いた。すると行く手に大きな火の玉が出現した。Mさんは「魂いいいー」と叫びながら、走り、一番近くの家に飛び込んだ。村の住人はみな顔見知りである。「寺のMさん、どうしたのです」「火の玉に追いかけられて・・・」 その家の主人がMさんを寺まで送り届けようと言い、一同が玄関の戸をあけると、庭のスモモの木の枝に火の玉がまるで座るように止まっていた。 Aさんの死が知らされた。のちに、妻の臨終に立ちあった夫Aさんの話とMさんの話とが、日時があまりにも一致するので、ひとつの出来事として、また不思議な話として、亡母も記憶したのだという。 30年ほど前、私はこの怪異譚が、「背中でスーッと滑って行った」というA妻の表現や、「庭のスモモの木の枝」という具体的な細部があるので記録しておこうと思ったのだった。スモモの木があった家の実名もわかっていた。 この話の肝心なところは、死を前にした人の睡眠中の夢として処理してしまえる事柄と、遠く離れて数人の人が同時に目撃した火の玉現象とが、Mさんをキー・ワードとして結びつけられたことである。両者の日時が同じということ以外は証明不可能である。臨終の人が語ったことと数人の人が同時に目撃したこととを結びつけたところに俗信がはたらいた余地があったと言えるけれども、はたして熊楠の言うごとく「俗習」や「迷信」とばかり言えるかどうか。そのような問いかけをせざるを得ない話が、ここに例示できると思う。 念のために言うが、私は無信心者であり迷信を寄せ付けない。他人の信心は何事も受け止めて聞くが、それは自他を厳しく分けて認識しているからであり、私自身の心は動かない。幻想に立脚する物亊・人事を遥拝しない。教団とか党派とか集団とか、軍隊はもとより、とにかく人間が群れで行動するのを見ると嫌悪感をもよおす。ロボット化した集団行動を美しいと思わない。迷信を受け付けない点では亡父も亡母もまた然り。亡父亡母については、迷信を信じない者の心理に迷信らしきことが不図兆すことがあるかもしれない例となる別な話がある。ここでは述べない。僧侶だった亡き伯父は、高徳の僧といわれていたが、この人の仏心は形式を説かなかった。・・・したがって上に述べた話は、あくまでもひとつの人類学的な記録である。
Sep 10, 2023
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昨夜来の雨できょうは涼しい。明け方は少し寒いくらいだった。そんな天候なので週末は家のなかでおとなしくしている。ハハハ。 読書にも飽きて、YouTubeに見つけた会津鉄道の旅を見た。「朝からウキウキ」氏のチャンネルが「前面展望 会津鉄道 会津若松駅〜会津高原尾瀬口駅」を放送していた。YouTube「朝からウキウキ」氏の会津鉄道の旅【参考追加】eENAGAさんの鬼怒川温泉ー会津若松 この路線は昔の国鉄時代、私が13歳で親元を離れて会津若松市立第三中学校に入学し、年に数回帰宅するときに乗車したのだった。いまから65年前のことだ。当時、父は南会津の八総鉱山に勤務していた。3年後に両親も弟たちも札幌に移転したけれども、私一人は会津若松市に残って会津高等学校を卒業した。 それはともかく、当時の会津線の列車は蒸汽機関車、いわゆるD51であった。帰宅時、私は西若松駅から乗車し、現在の会津高原尾瀬口駅、当時の終点滝ノ原駅まで行き、そこから会津バス八總鉱山行きに乗り換えた。片道およそ2時間半だった。 さて、私は「朝からウキウキ」氏の動画の電車(ディーゼル車かな? 蒸気機関車ではありません)に会津若松駅から乗車した。65年ぶり、いや62年ぶりということか。しかしたちまち、車窓の景色はなにひとつ私の記憶を蘇らせないことを知った。景色のみならず、駅名さへも新駅があり、昔からの駅名には「会津」という冠をかぶせている。あるいは「芦ノ牧」は「芦ノ牧温泉」に、「湯野上」は「湯野上温泉」に、という具合である。 さらに、地形が変わったとも考えられるが、どうも線路の位置が昔とはちがっているのではないか。いくつものトンネルをくぐったが、そのトンネルもそれぞれかなり長い。・・・私の記憶にそんな長いトンネルをいくつも通ったおぼえがないのだ。たしかに最初のトンネルの映像に突入したときは、あの少し酸っぱいような石炭の煤煙のにおいが鼻腔をかすめた。一瞬、胸騒ぎがするような臭いの記憶が蘇ったのである。 「塔のへつり」は、荒海小学校3年のときの遠足の目的地だった。写真も残っている。現在の「塔のへつり駅」は、昔は無かったはず。遠足のときは「弥五島駅」を使った。それから確か大川発電所と言ったように記憶するが、発電所を見学した。薄いグリーングレイに塗装された大きなタービンを初めて見たのもこの遠足のとき。影像がうかんでくる。この発電所は現在もあるのだろうか? 「(会津)下郷」駅には思い出がある。6年生の冬、担任の星孝男先生が私を下郷町旭田中学校に伴い、中学生と一緒に作曲をさせた。どんな曲を作ったかまるで憶えていないが、帰りに先生のご実家に伺った。昔からの家屋で、土間から囲炉裏のある居間へのいわゆる上がり框が非常に高く、私の臍あたりまであり、私は内心びっくりした。廊下に会津ミシラズ柿を焼酎に漬け込んだ大樽がいくつもならんでいた。初めて見る光景だった。・・・いまでも目に浮かんでくる。 旭田中学校は学校統合によって下郷中学校と名称変更したのかもしれない。検索エンジンで旭田中学校を探しても出てこない。下に旭田中学校時代の写真を掲載しておこう。確かに存在した証拠となるだろう。 「田島」駅は大変なかわりようで、普通列車や特急列車のターミナルらしい。小学生のころ一人で本を買いに来た本屋さんや、実験用の試験管などを買いに来た薬局(ヒグチ薬局といったかなー?)は、・・・もうないだろうな。 田島から次の中荒井までの間、田島を出発してすぐの進行左の国道沿いに岩山が見えてくる。形状は変わっているが現在もそれはあった。法面に崩落防止をほどこしてある。じつは昔、道路から引っ込んで少し斜めになった岩肌をうがって家があったのだ。間口の広い洞窟に建物が組み込まれていると言ったらよいだろうか。そのような構造の建築は山岳信仰の神社に見受けるが、この田島の建築は一般民家のようだった。私はずいぶん幼い頃から奇想の建築に興味があったので、列車で通るたびに田島の岩窟組み込み建築のこの民家を目で追っていた。・・・残念ながら今やその面影をさぐることもできないほどだった。ただ岩山があるばかりだ。 昔、「糸沢」駅といっていたところは現在の「会津山村道場駅」だろうか「七ケ岳登山口駅」だろうか。ここを出発して間も無く、車窓の右下方に一瞬のように墓地が見える。墓地はさすがに昔どおりの場所にちがいなかろう。もしそうだとしたら、八総鉱山の子供達で、まだ荒海小学校にスクールバス通学していたころの子供達は、夕方遅くの帰宅になり少し湿りがちの日、バスの運転手タモツさんは「青火見るか?」と言って、墓地の横をのろのろ運転で過ぎたことを思い出すだろう。子供たちはキャーキャー言いながら窓に額をおしつけて、見えただの見えないだのと騒いだものだ。当時、このあたりでは土葬だったのだ。棺を墓地に搬送する葬列を、荒海近辺では「じゃんぼ」と称した。シンバルのような楽器を鳴らしながら行くことに由来した俗称ではないだろうか。 この墓地を過ぎると羽塩陸橋である。この陸橋は昔のままだった。とはいえ周囲は大きく変わり、私はスクールバスを待ちきれずに荒海小学校から自宅まで4里(約16km)の道のりを歩いたことがしばしばだった。ずっと線路の上を歩き、この羽塩陸橋まで来ると、右下方の道路におりるのである。当時、線路から道路までのいわゆる法面は丈の低い草が茂ったいわば土手だったのだ。坂をズボンを草の汁でよごれるままに尻滑りしながら降りた。現在とはまるで様相がちがったのである。スクールバスは八総鉱山の会社のもので、空色をしていた。 この羽塩陸橋の下を列車の進行方向左へ道をとると、五十里ダム(五十里湖)を経由して鬼怒川に向かう。江戸時代の糸沢宿ー五十里宿ー藤原宿ー今市宿を通る会津西街道である。この街道は日光街道へとつづいた。 私が八総鉱山小学校5年生のときの修学旅行は日光へのバス旅行だった。五十里ダム、会津西街道の杉並木、東照宮、華厳の滝、いろは坂、中禅寺湖等々をめぐった。そのバス旅行も羽塩陸橋をくぐって行った。 現在、鬼怒川へは会津高原尾瀬口駅、昔の滝ノ原から野岩鉄道・東武鉄道に乗り換えて行くことができ、浅草まで、あるいは北千住手前の栗橋でJRに乗り換えて新宿へ出ることができる。野岩鉄道は亡父が八総鉱山を去るまでその敷設実現に向けて努力した。父が去って23年後の1986年に開業。式典の招待状が父にとどいた。・・・一家が札幌へ移転するとき、タクシーでこの羽塩陸橋をくぐり、今市から鬼怒川を経由する浅草行きの電車に乗ったのだった。 会津高原尾瀬口駅の構内、野岩線に連結するところに、昔は手動の転車台があった。滝ノ原駅が終点だったので、会津若松から来た列車はこの転車台にのせられ、方向転換し、再び会津若松に向かったのであった。・・・そんなことを思い出しながらYouTube動画の電車を降りた。 1957年(昭和32年)冬 下郷駅頭で星孝男先生。道路わきに雪かきした雪が積もっている。私が撮影した写真。この写真から現在の会津下郷駅を判断すると、駅前の地形がまったくちがっている。町のおおきな発展にともなって場所が変わったのかもしれない。 孝男先生はのちに会津若松市河東小学校の校長を勤められたと、20年前くらいに80歳半ばにおなりだった先生に電話でお聞きしたと覚えている。私が40数年ぶりに会津若松市に行ったことを話したときだった。 同上 下郷町立旭田中学校音楽室 中学生と一緒に作曲する私(左)12歳 楽器を使わないで絶対音感で作曲するという課題だった。同上 旭田中学校を作曲のため訪問して。孝男先生撮影旭田中学校には自動車クラブがあったようです。すごいですね。同中学校を卒業された人は懐かしいかもしれません。
Sep 8, 2023
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本日午前8時42分、日本初の月面着陸探査機を搭載したH2A-47号ロケットが、種子島宇宙センターから打ち上げられ、成功。現在、飛行中である。 この打ち上げロケットにはクリズム(XRISM)とスリム(SLIM)の2種の観測機が搭載されている。クリズムはX線分光撮像衛星である。月周回軌道上にあってX線分光撮像機によるブラックホールからの1000万度に達する熱線を観測し、宇宙の成り立ちのより精密な研究が期待されている。また小型月着陸実証機スリムは、自発的に着陸地点をピンポイントで見極めて月面に着陸し、主として今まで得られていなかった月の約90%を占める地表下のマントルの岩石の採集をめざしている。この岩石の成分分析によって、巨大衝突によってできたとされる月が、地球と同じ天体の破片であるか、あるいは他の天体との衝突によって分離したのであるかがわかると期待されている。 打ち上げ実況放送の間にクリズムとスリムと、それぞれのチームの専門の科学者が、プロジェクトの梗概を画像をまじえて一般視聴者にわかりやすく解説している。 このプロジェクトが JAXA公式YouTubeでライブ放送されている。 JAXA公式日本初月面着陸探査プロジェクト実況放送
Sep 7, 2023
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私はこのブログの5月14日の日記に、若桑みどり氏の大著『クアトロ・ラガッツィ 天正少年使節と世界帝国』をその朝に読み終えたと書いた。1582年、キリシタン大名3氏、大友義鎮・大村純忠・有馬晴信の名代として派遣された「天正遣欧使節」の4人の少年はローマへの長途の旅に着く。伊東マンショ(正使)、千々石ミゲル(副使)、中浦ジュリアン(副使)、原マルティノ(副使)の4人である。彼らはローマ教皇やスペイン国王フェリペ2世に謁見し、各地で盛大な歓迎を受けた。少年たちの見事な態度と知性は、ヨーロッパの貴顕の賛嘆やまなかったという。彼らは8年後の1590年に帰国した。・・・しかしながら日本の状況は一変していた。バテレン追放令が発布され、宣教師やキリシタン信徒の虐殺がはじまっていた。4人の少年たちはそれぞれ過酷な人生を歩むことになる・・・ 伊東マンショは信仰を守りつづけ、後年、司祭に叙階された。中浦ジュリアンも司祭に叙階されたが、長崎で逆さ穴吊りによって殉教した。もっとも語学に秀でていたといわれる原マルティノはマカオに追放された。そして千々石ミゲルは・・・どのような理由か不明ながら棄教した。 千々石ミゲルの生涯は、裏切り者の汚名を着せられ他の3人とはまったくことなる苦難の人生だったと思われる。棄教後の彼の人生については詳細は不明で、謎とされてきた。 さて、長い前置きになった。 じつは今日の朝日新聞夕刊に、その千々石ミゲルの遺骨発掘とそれにともなって少しばかり明らかになったことがらについて報じれれている。長崎県諫早市は千々石ミゲル終焉の地といわれ、墓石が確認されていた。新聞によると、現存される千々石ミゲルの子孫と有志が墓所調査プロジェクトを立ち上げ、あしかけ10年の歳月をかけて、暮石の下に墓穴があることを発見した。そして夫婦と思われる男女の遺骨を発見した。長持を転用したとみられる棺のなかの女性の遺骨の胸のあたりには、ガラス玉や板ガラス片の信仰具と推測される物が置かれてあった。男性の遺骨は横向きに足を曲げて横たわり、副葬品はなかった。 この男性遺骨が千々石ミゲルであり、二体が夫婦であり、妻がキリスト教信仰者であるなら夫もまた信仰者であったろう・・・ いまだ研究途上にあり、推測の域はでないと(私は)思うが、しかしながら千々石ミゲルの棄教の真意を問う、あるいは問わざるを得ない今回の遺骨発掘であることは間違いない。そして、私は日本におけるキリスト教布教史にまったく不案内であるが、あえて棄教の汚名をかぶって信仰を守り抜くという信仰のありかたの明らかな証拠となるなら、これまた新たな研究問題が出てきたと言うべきかもしれない。朝日新聞「千々石ミゲルは棄教したのか」・・・・・・・・・・・・・・・・・・【後記】 上の記事を書いた後、ベッドに就いてから思い出した。天正少年遣欧使節の動向の一端に触れている当時の記述を、意外にも南方熊楠が明治43年7月刊行の『東京人類学会雑誌』に発表した論文のなかに見出すのである。論文の主題は少年使節についてではない。いま、その論文から抜き書きしてみよう。 南方熊楠『本邦における動物崇拝』より「蜜蜂」の項。〔前文略〕「予が大英博物館にて閲せし ‘Breve Ragguaglio del’ Isola del Giapone ristampato in Firenze,’ 1585(天正十三年、九州の諸族がローマに派遣せる使節より聞くところを板行せるなり)に、日本に蜜蜂なければ蜜も蜜蝋もなし、その代りに一種の木あり、好季節をもってこれを傷つけ、出る汁を蒸留して蝋代りの品を採れども、蜜蝋ほど稠厚ならずとあるは、漆のことを言えるにや。」〔以下略〕 平凡社 東洋文庫352 『南方熊楠文集 1』165~166p. 文中の ‘Breve Ragguaglio del’ Isola del Giapone ristampato in Firenze,’ 1585 は、『1585年にフィレンツェで再版された日本島に関する短報』とでも訳せよう。ただしdel’ Isola とあるのは、原本の誤植か、あるいは熊楠の誤記か東洋文庫の校正ミスかは判断できないが、dell’ Isola が正しいかもしれない。 さて、私が注目するのは南方熊楠が大英博物館で閲覧した上記の本のイタリア語原本が、1585年にフィレンツェで刊行されているてんである。 若桑みどり氏の著書によれば、少年使節の一行は1584年11月14日にスペイン国王フェリペ2世に謁見している。そして翌年1585年3月1日にフィレンツェに到着した。ローマに入ったのは3月22日の夕方だった。つまり南方熊楠が閲覧した再刊本は、まさに少年たちがフィレンツェに到着した年に刊行されたことになる。さまざまな行事に少年たちは出席し、その様子は若桑氏が教皇庁の記録などから書いている。しかし私が興味深く思うのは、蜜蜂と蜜蝋の話題が、かの地の貴顕とのあいだにあったというエピソードである。この些細ともいえるエピソードに活き活きとした情景が浮かんで来はしまいか。さらに私が感心するのは、少年たちが話したこんな事柄が、遠国の「情報」として短報誌に記載した、そのフィレンツェの情報収集力である。実のところ産物情報は貿易等で重要なのだ。さすがにルネッサンスのまっただなかにあったフィレンツェである。 南方熊楠によるこの記述は、典拠原本も明記されているが、天正少年使節に関する歴史書には書かれていないような気がするのでここに書いておく。
Sep 6, 2023
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インドが初の太陽観測衛星の打ち上げに成功したという。インドは先月、「チャンドラヤーン3号」の月面着陸にも成功していた。CNN インド、初の太陽観測衛星打ち上げ 太陽観測衛星としては世界2番目。1番目はアメリカのNASAが打ち上げた「パーカー・ソーラー・プローブ」が2021年に太陽の上層大気コロナに到達し、現在までに多くの観測データを送り続けている。 すでに私はこのブログに何度か書いたが、私は「パーカー・ソーラー・プローブ」のキャンペーンに参加してい、NASAからこの衛星飛行のVIP搭乗券をプレゼントされていた。積載データに私の名前が記述されているという意味であるが、ともかく人類最初の太陽への(帰らぬ)旅に同行させてもらい、気持ちだけは地球に未練を残さずに太陽の周囲を回り続けている。 私は若い時に宇宙的な生殖のイメージを形態化した23連の陰陽定型詩を書いた。その一部に、 地上は紫たなびくたそがれの思い出 凝視の眼に粘質の闇ひび割れ 遠離一切顛倒夢想 卵を遊ぶ 五蘊はみな空なり 呵々大笑する卵 笑いは真っすぐに立ちのぼる 我らは毅然として宇宙の微塵である 地球の命数 残りわずかに五十億年 なんとあっけらかんの真相だ 光る馬が翔る 光る馬が翔る 少年をのせて 「パーカー・ソーラー・プローブ」からインドの太陽観測衛星が見える瞬間はあるだろうか。
Sep 4, 2023
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あすからは残暑も去ると報じおり 青穹(山田維史) 茜さす秋めく風や窓に凭る 茜さし風秋めいて凭る窓辺 戸をたたく耳まぼろしに漏れる月 戸をたたく耳まぼろしや月あかり 戸をたたく耳まぼろしや月の影 人恋うは老いのならいか秋ゆえか 限りある命のひまや秋の暮 蕪村
Sep 3, 2023
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あした9月3日は、報道によれば、関係団体が定める「秋の睡眠の日」なのだそうだ。関係団体とはどのような団体を指すのか曖昧だが、私はこんな日が定められているとは知らなかった。 知ったからといって私自身は、かつて睡眠に悩まされたことはない。「秋の睡眠の日」を先取りするかのように、昨日私は外出から帰宅して、ちょいと昼寝のつもりが、眠った眠った、ぐっすり長時間眠った。これとて前夜の眠りが不足していたわけではなかった。 年に一度の健康検診の際に、主治医が「良く眠れていますか?」と訊いてくださるが、ベッドの中で読書するのが常だが、読んでいるうちに眠ってしまうこともしばしばである。 私は何事もあまり悩まない。たまに寝付けないことがあっても、身体が眠りを欲求していないのだと思うような楽天家だ。私は20代後半から30代半ばまで仕事に追われて、36時間ぶっつづけに執筆し、当時私は座卓で仕事していたので、そのまま後ろにひっくりかえって數十分眠り、再び執筆をすという日々だった。36時間執筆をつづけていると身体が眠りだすのだ。もう少し頑張ろうと思っても、筆を握ったまま眠っているのである。せっかく描いた作品はでたらめの筆の動きや、ベチャリと絵の具の汚点をつけて顔を突っ伏し、もちろん初めから描き直しである。時間を惜しみながら却って無駄遣いすることもあったのだ。・・・若い時にそんな経験をしていたので、身体が眠りを欲するということが・・・どこでスイッチが切れるかがわかるのである。 もっとも、私は学生時代のアルバイト以外は誰にも雇用されずに、ただ自分ひとりの責任で仕事の人生を歩んできたので、大勢の人に語れることではない。大勢の人にとっては「秋の睡眠の日」を定めて、睡眠管理に目を向け、考えることは必要なのであろう。国会や地方議会等で義務も責任も放棄して居眠りしている議員もいるけれどネ。
Sep 2, 2023
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約束があって朝から外出。暑さのためもあり帰宅したらグッタリ。ちょっと昼寝をするつもりが、目覚めたら午後4時過ぎだった。しかしなんだかまだ寝足りないような感じがして、そのままベッドで本を読んでいた。 今日は関東大震災から100年目である。小池東京都知事は、根も葉もない流言飛語のあげくに虐殺された朝鮮人の慰霊祭に対して、あいかわらず追悼しようとはしない。この人の心性は深いところで病んでいるのかもしれない。もちろん歴代政府の病の闇の深さは底が知れない。
Sep 1, 2023
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