『福島の歴史物語」

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2007.09.15
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田村太平記

                   (田村氏の遠征図)



 常陸の小田城に逃れていた北畠親房は、滴石城(岩手県)に行きたいと考えていた。南部氏は南朝方として、強い実力を保持していた。多賀城奪還のため、それを利用したかったのである。
 常陸の小田城から滴石城までは遠い。この道案内と警護を白河の結城親朝に期待して依頼
の書簡を送ったが、返事はなかった。その後三度に渡って書簡が往復した。しかし結城親朝の返書は自分の部下への恩賞の推挙と要求だけであった。
「本領安堵は認めるが、新しい恩賞とは何事か!」と怒ってみたものの、今の北畠親房の立場は苦しかった。一人でも多くの味方を作ろうとする足元を見て結城親朝はつけ込むように恩賞を求めてくるのである。
 ところで常陸での戦いは南朝方の劣勢がさらに目立ってきた。そのために滴石城に援軍を求めることはどうしても必要なことであった。常陸での弱体化を北奥で盛り返そうと考えたからである。しかしそれには、まず陸奥・石巻の日和山城への道を確保しなければならなかった
 丁度この頃、結城親朝より黒栗毛の駿馬が一頭、小田城に届けられた。
「やはり結城は、南朝方か!」
小躍りした北畠親房は、早速礼状と一緒に戦況を書き綴った。だが肝心の白河よりの援兵は、一兵も来なかった。そこで北畠親房は石巻への道を求めて、海道筋に広橋経泰軍を向かわせた。そうしておいてまたも結城親朝に援軍依頼の手紙を出した。
「白河軍が那須か瓜連あたりまで出撃してくれまいか。これ以上の作戦はないし何とか忠誠の色をはっきりしてほしい・・・」
 だがこの願いにも援軍はなく、寡勢の広橋経泰軍はむなしく敗退した。
「広橋経泰軍の敗退は兵力不足のためであった。味方はいつも同じ軍勢で疲労が見えてきている。ここで白河の新手が加われば敵が退散するのは目に見えている。だから何とか出兵してくれまいか・・・」
 もはやこれは依頼ではなく懇願であった。しかしそれでも結城親朝は動かなかった。未だその旗幟を鮮明にするに至っていなかったのである。
 吉野から北畠顕信が常陸の関城に入城してきた。そこで北畠親房はまたも結城親朝に依頼の手紙を出した。
「自分と同様の人を下向させるので、宇津峰城まで送って欲しい」
 結局この頼みも、結城親朝は無視した。止むを得ず今度は、白河を飛び越えて田村宗季に依頼した。
[一将下向す。田村軍を勿来に出兵、護衛せよ]
 北畠顕信は常陸からの軍を従えると海路、磐城庄の勿来に入り、田村南朝軍の護衛を受けてようやく宇津峰城に入った。しかしここから石巻まではまだ遠い距離が連なっている。
 ところで、これほどまでにしてもやろうとした北畠父子の多賀城奪還の戦略とは、北畠顕信が雫石の南部氏の兵を石巻の日和山城に糾合して北から出撃し、北畠親房が小山・結城・田村・伊達氏ら北関東・南奥南朝勢を統轄して南から多賀城を挟撃するというものであった。この戦略に基づき、北畠顕信は宇津峰城を後にすると、陸路で田村庄の常葉、そして宇多庄の黒木を経由して太平洋に出、船で石巻に向かった。
 ようやく石巻の日和山城に入った北畠顕信は、日和山城の兵力だけで活動を開始した。石巻から多賀国府に進めば松島方面が第一線となる。まず背後を結城親朝に突かせようという作戦である。
 しかし、結城親朝は応じなかった。






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最終更新日  2007.12.19 13:42:59
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