『福島の歴史物語」

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2007.09.16
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「北朝軍も苦しいので、今、白河軍が常陸か那須あたりまで出兵すれば、平氏はたちまち南朝方に参陣する」と説いたが、結城親朝はついに軍を動かさなかった。苦慮した北畠顕信の依頼文の中には、「五十騎でも百騎でも出してくれるように」とあった。それは北畠顕信の苦衷、そのものであった。

 それはそれとして、北畠顕信は多賀国府挟撃の壮大な準備をはじめた。親朝が動かぬ以上北奥の南朝方の力がどうしても必要であったのである。その戦略の一環として田村宗季が石巻を経由し、日和山城にある北畠顕信らとともに海路八戸に遠征することにしたのである。八戸に出て葛西・河村・南部氏ら北奥の南朝勢を糾合して南下し、その大軍を背景に結城親朝を協力させようとしたのである。八戸では、南部氏が南朝方の大きな旗を掲げていた。
 田村宗季らは北奥の南朝軍と合流すると岩手・斯波両郡の北朝軍を討払って南下をはじめた。
[当軍の意気盛んなり。日和山城の葛西軍と併せて多賀城を奪還する。早急に臨戦体制に入れ!]
北畠顕信から、勇躍、この伝令が飛んだ。ところがその返信は、あろうことか、
「葛西清貞様ご病死!」
であったのである。この葛西清貞の死にともない、日和山城はあっさりと中立を宣言してしまった。南朝方は、戦わずして重要拠点を失ってしまったことになる。その上またも結城親朝の態度が不鮮明なのである。このため挟撃の準備が出来ず、結局、中止されてしまった。
 この石臼のように動かぬ結城親朝に業を煮やした顕信は、北畠股肱の臣・多田宗貞を奥羽の新奉行として乗り込ませた。こんなに何度頼んでも全く動かない結城親朝を、信頼する訳にはいかなくなってしまったのである。多田宗貞を新奉行にという人事が、結城親朝の態度にどう反映するか。その意志の確認の手段でもあった。
 とは言え結城親朝としてみれば、建前上、南朝方である自分の検断職権を危うくしかねないということになるために、心中穏やかでない様子をして見せなければならなかった。北畠親房の下に強い抗議の書を送りつけたのである。
「自分の検断職を取り上げ、多田宗貞に与えるとはどういうことか!」
 これを真に受けた北畠親房はこの抗議に対し、
「多田入道は、自分勝手にものを言っている。もってのほかだ。」とか「石川や会津の武士を誘降するために、止むを得ない」とかの弁明にこれ努めていた。 

 これらの駆け引きの中、岩瀬庄で田村南朝軍と岩瀬・二階堂および安積・伊東氏の北朝軍との衝突があった。二階堂氏と伊東氏が北朝方として、守山の橋本正茂が南朝方として戦ったのである。
 この地元での小競り合いの間にも、北畠親房は結城親朝に田村宗季の子の則義の軍を率いて伊達宗顕と協力し、伊具・柴田(宮城県)の辺に打って出て多賀城の北朝軍を牽制させようとした。しかし結城親朝・伊達宗顕らは出兵をしなかった。宗季の留守を預かっていた則義もまた、[ただ今、伊東・二階堂の北朝軍と戦闘中なれば・・・]との書状を提出した。単独では、そちらまで手が回らなかったのである。
 やがて北から多賀城に迫る北奥南朝軍と多賀城防衛の北朝軍は、三迫(宮城県)に対陣した。しかし両軍とも決定的勝利を得るための兵力が不足していた。それを打開するため南朝軍は、またも白河の結城親朝に後詰めを依頼した。また一方の北朝軍も相馬の相馬親胤に軍勢催促状を発した。しかし白河も相馬も、それぞれに従軍の約束はしたが出兵はしなかった。兵力が不足とはいっても岩手・斯波を撃って意気あがる北奥南朝軍を前にして、北朝軍の敗色は濃厚となっていった。
 まさにこのような時、常陸戦線から、[小田城の小田治久様裏切り、北朝軍に下だる。北畠親房様は間一髪で小田城を脱出し、関城に移らる]という伝令が入った。そのためこのあおり食って、北奥方面の形勢も一転し、せっかく勝っていた三迫決戦は逆に北朝軍の勝利となってしまったのである。
 一方北畠親房が関城へ敗退したため、岩城・岩崎・伊賀・標葉・楢葉・相馬氏などの海道勢が北朝方に転じてしまった。そのため南奥南朝軍も多賀国府を攻めることが出来なくなってしまい、北畠顕信は宗季らを引き連れると逆に北奥に逃れざるを得なくなってしまった。北畠父子の苦心の戦略も、成功を目前にして功を奏することなく終わってしまったのである。
「あと一歩のところを!  残念!」
宗季らは悔しがった。








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最終更新日  2007.11.15 16:55:37
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