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七月六日、仙台兵が三春より南下して行った。
ここにきて守山藩は、重臣を新政府軍の本営の置かれた棚倉に派遣し、恭順の意を表明した。守山藩とすれば、守山城からたかだか一~二里の南あたりの所が最前線となっていた。もはや猶予ならぬ事態であったのである。
──守山藩とすれば、この戦いの初期に、会津藩に攻められた同じ水戸藩係累の長沼藩を受け入れている。それを思えば充分に考えられる。われらと同じようにその時期を探っておったのであろう。よく今までわが藩にまで本心を隠してきたものと。身につまされる。
守山藩の意を知った三春藩も、帰順の行動を起こした。この帰順の使者には、河野広中が当てられた。ただいくら帰順を表明しても、新政府軍が守山領か三春領に進駐して来ないうちは、三春藩としては実効が見えないことになる。そのため同盟側に対しては、内密にせざるを得なかった。もしこの時点で帰順を公表すれば、藩の内外に充満している同盟軍に潰されることが充分に考えられた。それらを恐れたために、下級の郷士である河野広中兄弟らが派遣されたのである。
河野広中兄弟とその同行者は、三春を出るとすぐ山道に入った。むせるような草いきれの中を、今のところ味方である筈の同盟軍の目を逃れながら、無言で歩いていた。ともすれば体力の差から、列が長くなりがちであった。そうなって分散しないよう、若い広中は心を配っていた。それでも思いがけぬ所に同盟軍の兵を見つけると、目配せをして、音を立てぬようにして山中を迂回した。本来ならたった三里の道を、ほぼ一日かけて歩いていた。ようやく守山の陣屋に着いた彼らの顔は汗まみれになり、目ばかりを光らせて疲れきっていた。
守山軍の勢力下に入った広中らは、守山藩の協力を得ると釜子村(いまの東村)の長州や薩摩の最前線を経て棚倉の土佐藩の本営に達した。そこで彼らは、土佐藩の美正貫一郎の指揮する土佐断金隊に入隊させられ、「軍用地図」作成に協力させられた。
──戦いを避けられぬ場合は新政府側として立ち、それでも被害を少なくするよう努力せよ。
彼らは、その三春藩の命令に忠実であろうとしていた。
七月九日、五百人ほどの仙台兵が三春に入り、そのうちの七十人ほどが三春より東へ約三里の三春領の船引方面に、残りは守山方面へと出発して行った。嘉膳は苦慮していた。結果として、双方に顔を立てるようなことになってしまっていたからである。
──ここまでになったら綺麗ごとにはいかぬ。先ずなんとしても、どうあっても藩内に戦火を入れぬこと、そして領民の命を守ること、それが第一だ!
嘉膳はそう覚悟を決めた。山の上の城から見る町は、強烈な太陽の下で、静かにたたずんでいた。暑さと草いきれの熱気で、汗が吹き出ていた。
──あの多くの家々の中で、それぞれが不安の中に生計を立てておろう。
「守らねばならぬ」
嘉膳は呟いた。
江戸では徳川家が駿府七十万石に格下げされ、一大名となって駿河(静岡県)の宝台院に謹慎して行った。敬忠から手紙が届いた。
[安政五年、日米修好通商条約の調印をひかえていた幕府は、天皇に条約
の勅許を仰いだ。理由は、天皇から勅許を得ることで条約反対論を緩和で
きると考えたこと、そして勅許を口実にして時間を稼ぎ、ハリスから迫ら
れていた早期調印を引き延ばそうとした苦し紛れの策であったこと、にあ
った。もともと、幕府が条約を調印することに勅許は不必要であった。現
に日米、日英、日露、日蘭の諸条約は、勅許なしで立派に成立していた。
幕府を存続させるという立場からいえば、そのことは大失策であった。し
かし今となれば、新しい日本を造るためにはそれも良かったのか、とも思
う]
そしてその文面の最後には、
[ただ、幕臣である自分は、最後まで徳川家に尽くすことで武士道を全う
しようと思う。身辺の整理がつき次第、慶喜様を追って駿河に移住するつ
もりである]
という意志と、
[もはや戻ることもあるまいが、故郷が懐かしい。その三春に戦火が迫っ
ているようだが、何も出来ぬ自分が悔しい]
との気持ちが綴られていた。
──そうですか。先輩は慶喜様と行動を共になされますか。三春藩も日本も、私には先行きがまったく読めませぬ。このようなときに駿河に行かれるとは・・・、なにか私は取り残されるようで、淋しい限りでございます。戦いが済んで折がありましたら、また政紀と三人で明徳堂の裏山にご一緒しましょう。あの頃のことが懐かしく思い出されます。
そう思った途端、不覚にも嘉膳の瞼に涙が浮かんだ。
世上静謐天下太平を祈祷していた東部皇帝(大政天皇)は、大政元年七月十三日、白石城に移り、十万石以上の大名を集めて御令旨を賜った。事実上ここに、京都朝廷に対する新た
な朝廷が誕生することになった。ただし五万石の三春藩は、出席していない。この御令旨伝達の雰囲気は、旧幕閣着座の上で伝達されたという形のため、諸藩にとっては、「我々はすでに、自己の意志とは関係なく、新しい朝廷の動員体制に組み込まれてしまった」という切迫感でみなぎっていた。旧幕閣が事実上の指揮者だ、と宣言したようなものであったからである。
二本松藩よりその状況が伝えられ、その決定事項が命令された。三春藩としては、いまのところ上部機構、つまり新しい仙台の朝廷の命令を、受けるだけであった。しかしそうすること自体から、またも三春藩は同盟側から仙台の朝廷側として動かざるを得ない状況に追い込まれていった。叡感勅書の下付を明確にするなどということは、したくても出来ない相談となっていた。
一方、河野広中兄弟が棚倉より帰藩すると、今後の行動について藩首脳と談合した。この往復は、戦線をどう突破するかが大問題であった。兵のいない山林を、道から離れて歩かざるを得なかった。
七月十二日には、仙台兵が三春に宿泊した。動きはさらに、内密にせざるを得なくなった。その日の夕方、何があったか、三春の北町にて、船引村の作左衛門が下目明役の新野屋徳兵衛に頭を切りつけられ、重傷となって北町の祐蔵宅で治療を受けた。町の中にも、不安感が高まっていた。
七月十三日、泉藩と湯長谷藩に次いで平城が陥落し、笠間藩の神谷陣屋が回復された。三春にいた仙台兵は笠間藩領小野新町に出発し、入れ替わりに新たな仙台兵や二本松兵が三春に入って来た。
七月十四日、今度は米沢兵が三春に宿泊した。町内は騒然としていた。何が起こっても、おかしくない状況であった。
七月十五日、米沢と二本松の兵が、小野新町に出発して行った。平藩の陥落に伴い、奥羽越列藩同盟軍は田村東部の防衛に力を入れていた。
この間隙を縫い、河野広中兄弟が、三春藩重役の秋田主計や佐久間儀門、佐久間昌言、昌吾兄弟、舟田光暢、田村蔵之助、安積儀作らと共に、再び棚倉へ潜行していった。新政府軍は、藩の重役の派遣を要請していた。郷士たちだけでは、三春藩の意志として確認し得なかったのである。
七月十六日、河野広中・秋田主計ら帰順使は、棚倉城の板垣退助に接触した。しかし、新政府軍に帰順の嘆願をしていたこの日、仙台、会津、二本松の兵は、浅川郊外の城山を橋頭堡として確保した。浅川陣屋の奪還作戦である。三春藩に対しても、これへの応援命令が同盟側より下された。浅川の町にある陣屋は、土佐や彦根の兵が警備をしていた。この命令への対応に苦慮しながらも、三春藩は兵を浅川に南下させた。その浅川のすぐ南には、新政府側の主力のいる棚倉城があり、そこには三春藩からの帰順使たちが滞在していたのである。棚倉城へ派遣していた帰順使はまだ帰っていなかった。その間の、同盟側の命令なのであった。
──正しい選択とはどういうことか。
嘉膳は呻吟していた。右に決めても左にも決めても、問題が大きかった。浅川へ出兵しなければ、同盟側に叩き潰されるかも知れなかった。三春藩としても、微妙な立場に立たされていたのである。
同盟側も感づいていた。三春と守山両藩の挙動が怪しいということで、仙台藩の細谷十大夫に命じ、その部下に偵察させたのである。その上で、「三春と守山両藩の反盟の形跡、明らかなり」との報告が、同盟側に伝えられた。
そこで同盟軍は、三春および守山藩の討伐を決定した。
そのとき、「反盟の形跡明らかならざるに、徒に私闘をすべきではない」と言って慎重論をとなえたのは、仙台藩の将・氏家兵庫であった。彼は腹心の部下、塩森主税を三春に派遣したのである。
参考文献 2008.02.07
資料と解説 I~L 2008.02.06
資料と解説 H 小野新町の戦い 2008.02.05