『福島の歴史物語」

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2008.03.14
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 さて、これからどうしたものか。
 手がかりが全く失われていく中で、私は『白翁』、つまり文字づら面からだけ言えば白髪の老人という意味ででもあろうが、戒名の『自稱院白翁惟元居士』にも使われているこの号『白翁』が妙に気になっていた。そこで私はこの『白翁』という文字を、インターネットの検索にかけてみた。勿論当てがあった訳でもないし、こんな特殊な名がヒットするとも思えなかった。
 ところが「あった」のである。
 キーを叩いたその瞬間、なんとモニターには、笠原白翁という名の人物が実在していたという『福井市歴史人物』がヒットしたのである。
「うわっ、あった」
 私は思わず声を上げた。

  笠原白翁(良策)
   文化六(一八〇九)年、足羽郡深見村(いまの福井市深見町)
     に生まれた。
   文政七(一八二四)年、福井藩医学所済生館に入り、その後、
     江戸の磯野公道に師事して漢方医学を修め、福井城下で開
     業した。
   天保八(一八三七)年、蘭学医の大武了玄と出会い蘭方医学習
     得を志し、天保十一年、京都の蘭方医、日野鼎哉に入門し
     た。藩主から疱瘡について諮問された白翁は師鼎哉に疱瘡
     の予防法を相談した。シーボルトのもとで牛痘接種法を見
     学したことのある鼎哉は、その早期導入に努める旨を約す
     るとともに、長崎の唐通詞頴川四郎八に牛痘苗の入手を依
     頼した。
   弘化三(一八四六)年、白翁は福井藩主松平越前守春嶽(慶永)
     に対し、牛痘種により疱瘡予防が可能なこと、牛痘苗輸入
     が急務であることを説き、幕府の輸入許可を求める嘆願書
     を提出した。白翁の嘆願は当初は藩庁の理解を得られなか
     ったが、藩医の半井元沖、側用人の中根雪江の意見を取り
     入れた春嶽の建言により、嘉永二(一八四九)年幕府の牛
     痘苗輸入許可がおりたのである。
      この時期、長崎では肥前佐賀藩医の楢林宗建による種痘
     が成功し、長崎周辺に普及しつつあった。嘉永二(一八四
     九)年、白翁は長崎に赴き痘苗の入手を目指したが、途中
     で訪れた京都の日野鼎哉のもとに長崎から、種痘した子供
     から得たかさぶたが届いていた。白翁は鼎哉と協力し、苦
     心の末に種痘に成功し京都での普及を果たした後、同年十
     一月十八日(陰暦)に種痘を施した幼児を伴い福井に向か
     った。当時の種痘は、人から人へ種継ぎをしていく以外に
     確実な方法はなかったが、太陽暦では一月上旬に当たるこ
     の時期、国境の栃ノ木峠は深雪で覆われ、病の幼児を連れ
     ての峠越えはまさに決死行であった。
   十一月二十五日、福井城下で初の種痘が実施され、漢方医側の
     妨害があったものの次第に普及した。嘉永四(一八五九)
     年には公立の種痘所『除痘館』が城下に開設され、その後
     は急速な普及をみた。白翁の業績について、松平越前守春
     嶽の随筆『真雪草子』には「西洋医学の越前に弘(ひろま)
     りしは笠原良策を以て魁とす」とみえている。なお鼎哉の
     著書に、『白神除痘弁』『徴毒一掃論』などが残されている。

 ところで種痘の実施にこれほどまで力を入れていた笠原良策の号である白翁は、牛痘を意味する『白神痘(はくしんとう)』から採ったものであるという。
 ──なんと白翁という号は種痘に関係のある名であったのか!
 この発見には、本当に驚いた。







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最終更新日  2008.03.14 10:06:10
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