『福島の歴史物語」

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2008.03.16
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 私は、関係する古文書の解釈に困ったときに、県の歴史学の重鎮である大内寛隆先生に問い合わせをしたときのことを思い出した。あのとき先生は、ご自宅のある福島市よりわざわざ郡山歴史資料館まで出掛けて来られ、館長らと一緒に、古文書をチェックされたが、その後先生から丁寧なご教示を頂いていた。

   前略
   撞けば響くようなご調査に驚いております。気付いたことを左
  記に列記します。
 安政三~慶応三年の綴りに中に、どうして天保のものが含まれているのでしょうか、気にかかります。
一、 三葉と別葉の古文書をもう一度、前後ご判断の上並べて内容をご検討下さい。
二、 文政八年の熊田文儀の施薬は、従来の方法なのでしょうか。
    (中略)
   北海道の松前藩は所替えになり、梁川(伊達郡梁川町)に陣屋
  を構えた時期があります。短期間で松前に戻りますが、幕末に再
  び梁川周辺に分領をもちます。梁川の中村佐平次家は蝦夷地に出
  店を持ち、手広く商いをしています。分家の中村善右衛門は、蚕
  当計などを考案した科学者です。これ以後は蚕室の温度の調節が
  できるようになり、繭の品質がよくなり生産が安定するようにな
  りました。
                                (後略)

 ──うーん、松前と梁川か…。
 折角このような大内先生から重要なご教示を受けながらも、そのときはそれ以上のことには、思いが至らなかった。それであるから私が『松前』とインターネットの検索に打ち込んだのは、単なる勘でしかなかった。
 『函館市史』がヒットした。

   幕末、開国を迫られていた幕府は、蝦夷地にしばしば来航する
  イギリスやロシア船に脅威を感じていた。もともと幕府は外国の
  漂着船に対して、穏便な扱いをしていた。しかし日本に通商を求
  めてきて断られたロシアがたびたび蝦夷地で略奪行為を繰り返し
  ていたため、住民の憤激を買っていた。文化三年には、ロシアは    
  唐太の久春古丹(クシュンコタン)に侵入し,翌年さらに択捉を
  襲って沙都会所などを焼き,ついで利尻島で幕府官船を焼き払う
  などしていた。幕府はただちに津軽・南部・秋田・庄内各藩に出
  兵を命じ、松前藩に対しては、ロシアによる襲撃からの防備を命
  じた。しかし、たかだか三万石に過ぎぬ松前藩が、蝦夷地の全部
  から、北蝦夷(樺太)、択捉島、国後島の全域を防備することは
  至難の業であった。せいぜい現地に住む漁民までも役人というこ
  とにして、格好を付けることくらいしかできなかった。
   そしてこの年、幕府は松前藩の防衛力不足を理由としてその領
  地全域を取り上げ、直轄地と変更した。そのため松前藩は、梁川
  への国替えを命じられた。

 ──なるほど、そういうことか。
 私はそこを読んでいて、『中川五郎治』と言う名に出会ったのである。日本で牛種痘を最初に行ったとされるこの人の名が出てきたのは、函館市史の中の文化四(一八〇七)年の文書である。
 中川五郎治は川内村(いまの青森県下北郡川内町)の小針屋佐助の子として生まれた。若い頃から蝦夷地に渡り、松前で商家に奉公をしていたが、寛政十一(一七九九)年、松前の豪商・栖原庄兵衛の世話により漁場の『稼ぎ方』として択捉島に渡った。(HP・はこだて人物誌 中川五郎治)
 いま次にインターネットからその事情を抜粋してみる。

   松前藩が梁川に国替えになる直前、五郎治は択捉島の番人とし
  て登用されていた。そこへ、ロシアの軍艦が侵入してきた。特に
  軍備の整っていたわけではない択捉島から、五郎治は幕府の役人、
  そして島の代表として、簡単に連行されてしまった。ここで彼の
  消息は切れてしまった。
   連行されていた五郎治はシベリア抑留中に種痘術を学び、ロシ
  ア語の種痘書を手に入れていた。
   国後島で日本に捕らえられていたロシア海軍ディアナ号艦長ゴ
  ローニンらと、高田屋嘉兵衛を仲立にして交換が図られ帰国した
  五郎治は、鎖国政策によって幕府に捕らえられてしまった。持ち
  帰った全ての物品を箱館奉行所に没収され、その身柄は江戸に送
  られて厳しい詮議を受けることになった。翌年の三月になって、
  ようやく釈放された。
   そして文政三(一八二〇)年、幕命で箱館に来ていた幕府の通
  詞馬場佐十郎は箱館奉行所で没収していた五郎治の種痘書を見、
  噂を聞いて驚き、この書を筆写して江戸に戻った。この本は『遁
  花秘訣』と題したわが国最初の種痘書となる筈であったが、佐十
  郎の急死により草稿のままで、ついに日の目を見ることがなかっ
  た。
   なお中国では、疱瘡を天花と記していたので、天花から逃れる
  という意味で『遁花秘訣』と題した。
   文政四(一八二一)年、ロシアの動きが沈静化したとの理由で、
  梁川松前藩は再び松前藩として元の蝦夷に戻った。その間、わず
  かに十四年であった。
   文政七(一八二四)年、中川五郎治は箱館大町の大津屋・田中
  正右衛門の娘イク(当時十一歳)や後に種痘を行う医師となる十
  三歳の白鳥雄蔵など、多くの北海道の住民に対して牛痘苗による
  種痘を試みて成功した。五郎治の実施した方法は、天然痘に罹っ
  た人から採った痘苗を大野村(いまの北海道亀田郡大野町)の牛
  に植えて罹患させ、その牛から採取した痘苗を男子は左腕に女子
  は右腕に、それぞれ一箇所ずつ植えたと言われるが異説もあって、
  詳細は不明である。

 ──なんと、こういう人が日本にいたのか。それに中川五郎治が文政七(一八二四)年に箱館で成功していたということは、天保四(一八三三)年の九年前になる。九年という期間があれば、文儀が種痘の技術を身に付けるのには短い過ぎない年数だ。
 この仮定に気をよくした私は、その後もインターネットで疱瘡を追っていた。種痘。函館市史。川内の五郎治。幕末における日本医学の転換。小此木天然。やがてそれは、『北天の星(吉村昭著)』に行き着いた。私は早速その本を入手した。吉村昭先生は実に丹念に調査され、中川五郎治について小説化をされていた。当時貴重であった痘苗について、吉村昭先生は『北天の星』で次のような話を書かれている。







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最終更新日  2008.03.16 11:20:25
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