『福島の歴史物語」

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2008.03.17
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  黄色いかさぷたを剥がした。そして五郎治はその黄色いかさぷた
  を丼の底で作った貯臓器に入れ、蓋をして白布でしっかりと縛っ
  て粉炭の入った小箱の中に納めた。そのようにしてイクの所に運
  んだ五郎治は、かさぷたを小皿にとり唾液をたらし溶かし、小刀
  でイクの右腕内側に傷をつけ出血させ、その液をたらし塗りつけ
  白布を巻いた。それはやがて順調に発赤、水疱、膿が発症した。
   この種痘に成功した五郎治は、自宅に待合室と種痘室をつくり、
  「植え疱瘡屋」の看板をかけた。五郎治は亡くなるまでの二十四
  年間種痘業を専業とし、松前と箱館に住む子供に牛痘を植えつけ
  て命を救った。しかし一回成功すると二分以上の報酬を貰い、金
  儲けの手段にした。もし五郎治が寛容な心を持ち、無料で種痘を
  行ない、全国に痘苗を分け与えていたら、その後死なないで済ん
  だ日本全国の子供の数は、多数に及んだであろう。また五郎治は
  これを箱館の医師・白鳥雄蔵 や高木啓策にも伝授した。雄蔵は  
  町年寄の白鳥新十郎の次男で頼山陽に学び、のち医を業とした。

 その上でまた吉村昭先生は、『北天の星』の『覚書』に次のようにも書かれている。

    五郎治がどのようにして痘苗を得たか、当時の記録によると、
  人痘を牛に植えて牛痘苗を得たとされているが、藤野恒三郎氏等
  によってそれは学問的に不可能だいわれていることを私も知って
  いる。それならば、どのようにして五郎治が牛痘苗を得たかとい
  う疑問に突き当たる。
   かれが人痘を人間に植えたと考えられなくもないが、死の危険
  が多い人痘法を長年の間つづけられるはずもない。あれこれと考
  えた末、五郎治が牛から幸運にも牛痘苗を得たとした。むろん私
  の解釈ではあるが、これ以外に考えられないのである。

 吉村昭先生の頭をも悩ませたこの問題、これは実際にどういうことであったのであろうか。
 当時シーボルトをはじめ、内外人の医師たちが苦労をして輸入しようとした牛痘苗。しかし仮に吉村昭先生が言われるように、『幸運にも』であったにせよ、五郎治が松前で牛種痘に成功したという事実がある以上、その牛痘苗を国内で入手したこともまた事実である。シーボルトらは、日本の牛を調べなかったのであろうか? 日本では牛肉を食べたり牛乳を飲んだりする習慣がなかったため、牛のみの病気として見過ごしてしまったのであろうか?
 ところでこれらの事情の中で、文儀が牛痘苗を得るために海外に出掛けたり輸入した形跡は勿論ない。すると文儀もまた、例え偶然であれ国内で入手したと考えざるを得ない。しかも中川五郎治が松前で牛痘苗を得たと考えるのであれば、北海道以外の地でもそれを得る方法が皆無ではなかったということになるのではないだろうか?
 私はこれらのことを考えながら、モーニケの成功する以前の天保四年、熊田文儀が下守屋村で種痘に成功するためには、何らかの形でこの中川五郎治との接点があったのではないかと思いはじめた。教える人があってはじめて、熊田文儀が下守屋村で成功したということになるからであり、いまのところこれ以外の人物は考えられなかった。
 ──では、熊田文儀はいつ、そしてどこで、中川五郎治と接点を持ったのか? 一番都合のいい推測は、文儀が函館に習いに行けばいい。
 そうは思ったが、文儀が中川五郎治についての情報をどこから得たのかという問題と、得たとしても郡山から蝦夷の松前まで行くのは、いかにも遠過ぎるように思えた。しかし遠すぎるとは言っても勉学のためなら長崎までも行く時代であったから、松前の中川五郎治を無視する訳にはいかなかった。そこで接点として考えるのに次に都合が良い事態は、種痘を実施した中川五郎治が松前藩の一員として、大内先生が教示しておられた梁川に来ていたと考えることである。もしそうだとすれば、熊田文儀が中川五郎治に師事した可能性が高くなると思えたからである。
 梁川藩と二本松藩は、隣の藩の関係にあった。このような近くにあった両藩の間に、種々密接な交流が発生していたことは十分に想像していいことである。そう考えて、今度は梁川町の図書室に行ってみた。しかし残念ながら、中川五郎治が梁川に来たようなことに関しての資料は、まったくなかったのである。
 ──それなら中川五郎治と熊田文儀の接点として、大内先生の手紙にあった梁川商人の中村佐平次や科学者である善右衛門が関係していたと考えればどうなるか。
 私はその仮説を基に、もう一度梁川町に行ってみた。そして中村家は、蝦夷の松前藩とは相当手広く営業をしていたことが確認できた。
 ──そうすれば善右衛門も、松前に行ったことがあると想像できる。蝦夷の松前藩に何かがある。
 当時幕府は、ロシアによる蝦夷地侵略があったこと、また藩主・松前志摩守道広の反幕的行動の噂があったことを考慮し、その上で松前藩だけでの蝦夷地防衛は無理であるという結論を持った。そこで幕府は道広に対して江戸出府を命じ、江戸浅草三味線堀の松前藩邸に滞留を申し渡した。道広は幕府に抗議し、江戸藩邸内の土蔵に黙居して夜になっても灯を点けず、反抗的態度を崩さなかったため、その子・志摩守章広に家督が移された。そして藩主は、江戸に住んでいたのである。
 それらを踏まえて調べた結果の推測は、おおよそ次のようなものであった。

  1 中村家が箱館の大津屋・田中正右衛門と取引上の関係があっ
    たという可能性は、充分に考えられる。当時の商業形態とし
    ては、藩許を得た商人の数が限定されていたと考えても良い。
    それは松前藩三万石の規模から言って、なおさら少なかっ
    たと考えられる。そこへ梁川の松前藩から箱館に出店を持っ
    ている中村佐平次が商用で行くのであるから、取引関係にあ
    ったということは、むしろ当然ではあるまいか。
  2 田中正右衛門の娘イクは、中川五郎治の種痘を受けている。
    中村佐平次が科学者であり蚕業研究家である善右衛門を同道
    した箱館でこの施術の実況を見聞していた。
  3 この梁川の松前藩が不慣れな新しい任地で、しかも藩主の留
    守を守っていた家臣たちにとって、中村佐平次たちが松前や
    箱館で見聞した話を聞くことは、楽しいことであったのでは
    なかろうか。そしてその中には、中川五郎治の話題も出てい
    た。五郎治が箱館で種痘を実施する前からではあったが、種
    痘についての話を随分周囲に話していたらしいことは、『北
    天の星』に詳しく記述されている。それらの状況から梁川で
    広まった種痘の話を、二本松のお匙医師であった二代目の信
    庵惟泰が聞きつけ、中村善右衛門と接触を持ったと考えたら
    どうであろうか。
  4 そこで様子を知った二代目の信庵惟泰は、分家である郡山村
    の初代熊田文儀および果道(二代目文儀)親子にその話を伝
    えた。そのため無意識のうちに熊田家への連携プレーがなさ
    れ、郡山への種痘伝播のための一つの力となったのではない
    か。
  5 そう考えてくると、二代文儀が二代信庵惟泰に感謝して如宝
    寺の墓地に祈念の碑を建立したという意味が、理解できる。
    しかもこの碑を建てた翌年、二代文儀が死亡している。まる
    で二代文儀は、自分の死を予見したような建立であった。

 私は結論として、二本松に住んでいた二代目の信庵惟泰が梁川に住んでいた科学者の中村善右衛門と接触があった、と推定してみた。
 さて問題は、これの証明である。







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最終更新日  2008.03.17 09:07:55
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