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(科学医学資料研究)
五、科学医学資料研究
私が『科学医学資料研究(中川五郎治がシベリアから将来したロシア語牛種痘書についての一考察)』という本のあることを知ったのは、やはりインターネットの検索でであった。なんとかしてこの本を手に入れようとして、発行元の野間科学医学研究資料館にメールで購入依頼をしたが、なんと残念ながら二ケ月前に解散してしまっていた。それでも野間科学医学研究資料館のホームページから、それらの本が国際日本文化研究センターに寄贈されたと知った私は、今度は国際日本文化研究センターに問い合わせをしてみた。そしてすでにその本が国際日本文化研究センターには無く、すべて東海大学や日本大学などに寄付されて保存されていることを知ったのである。
この事情を知って、私は学生時代に親しくしていた前田利光氏に頼った。彼は東海大学で教授を勤め、定年で退官後の今は、日本大学や中央大学で教鞭をとっていた。私はさっそく、その本が彼の関係していた東海大学か日本大学に保管されていないかどうかという調査依頼の手紙を書いた。
友人とはありがたいものである。前田氏は早速動いてくれた。しかしその本は、それらの大学に保管されていなかった。保管されていたのは、鶴見大学であった。彼はそれを、探し出してくれたのである。
間もなく前田氏から、『科学医学資料研究 三三〇号 (中川五郎治がシベリアから将来したロシア語牛痘種痘書についての一考察) 松木明知著(弘前大学医学部麻酔科学教室)』の全文コピーが郵送されてきた。これは、中川五郎治がシベリアから持ち帰った『ヲスペンネクニガ(種痘の本)』の研究書であった。
中川五郎治は種痘の本を二冊持ち帰ったようである。そのうちの一冊は、当時箱館に来ていた幕府の通詞・馬場佐十郎が書き写して江戸に持ち帰り、『遁花秘訣』として翻訳をはじめたが、それを世に出せぬうちに亡くなってしまったのである。私は残念ながら『遁花秘訣』の原本は読んでいない。その他の一冊は松木明知氏の調査にもかかわらず、どの本であったかは不明であるという。それでも松木明知氏は『ロシアの郡および郷の医者への薦め』を想定し、『科学医学資料研究』にその和訳と解説を載せている。
そのなかに、次の文言が記載されている。
ある人に牛の新しい膿をとって、うまく種痘を行えば、それ以
後は接種の時に、再び牛から接種材料の膿を取る必要がない。そ
の時は人痘接種でよい。最初に接種された人から、同じようにほ
かの人々に接種できる。(中略)時折、接種用に再び牛から接種
用の膿を取らなくてはならないこともある。接種材料が不足した
場合は、かって接種経験があっても、健康で単純な作りの牛の体
に接種を施し、そこから接種材料を取って、その牛自身に種痘す
ることも可能である。
家畜の牛たちは特に最初の出産が終わった頃、乳房や乳頭に牛
痘が見られる。その様子は円状で、(中略)この病気にかかると、
牛たちはいつものように元気がなくなり、食欲も減退する。乳に
害はないので飲用は可能だが、出る量が減り、水っぽくなる。こ
ういった牛の発疹は、一年中見られるわけではなく、普通は春や
秋、特に乏し
い飼料の時期から、豊富な飼料への移行期、あるいは別の時期、
飼料が湿っている時期などに見られる。この牛痘から接種用の膿
を取りたい場合は、この時期にするべきである。
これらの記述は、当然ロシアの牛についてであるが、日本の牛ではどうであったのであろうか? しかし五郎治が松前で、また天保十一(一八四〇)年には白鳥雄蔵や齋藤養達らが秋田で成功しているということから、日本の牛も罹患していたことは事実であると思える。そうすると北海道や秋田の牛は罹患して、郡山の牛は罹患しないとは考えにくいし、考えるべきではないと思われる。ようやく、突破口が見付かるかも知れないと思っていた。
天保四(一八三三)年、前述の『三葉目』にある年代から押すと、熊田文儀らはこの年に種痘を実施している。
──どうしても熊田文儀は、箱館で種痘が試みられた文政七年とこの天保四年の九年の間に種痘の法を学んでいる筈ということになる。以前に考えたように、文儀は箱館に渡って中川五郎治に習ったのであろうか? 多くの人が長崎に行って勉強をする時代であったのであるから、距離的に言っても、それも可能であったかも知れない。
しかし私は、まだ釈然としないものを感じていた。やはり北の海の向こうの箱館は、郡山からは遠過ぎる、そう思っていた。
ところで実証されてはいないが、『川内の五郎治』のホームページによると、五郎治は自分の生まれ故郷の川内村でも種痘を行ったと伝えられている。川内村は、青森県の下北半島にある。郡山からは直線距離でも、四百五十~四百六十キロメートルはあると思われる。考えてみればそれでも遠いが、箱館と違って海を渡る必要がない。もし五郎治が川内村で種痘を施した際その『かさぶた』を得ることができれば、ぎりぎりで、また中継ぎを途中に一人置けば確実に、生きたままの痘苗を郡山まで運べるのではあるまいかと考えた。これはまた嘉永二(一八四九)年に、笠原白翁が実際に行った方法である。そう考えてくればこの方法は、下守屋村に種痘を伝えることの選択肢の一つと思えた。
そしてもう一つ、もちろん文儀は中村善右衛門の協力を前提とした上の話であるが、牛から直接牛痘苗を取り出したと考える選択肢もあるのではないだろうか。
──なにか証拠が、あるはずだ。
その思いは、強かった。