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六.顕 彰 碑
私はあと一歩で、これらの事情が判明するような気がしていた。その焦燥感が、再度の妙見山登山を誘っていた。何とかしてあの熊田文儀の顕彰碑を見つけることができ、その文面が解読できれば、新たな証明につなげることができるかも知れぬ、と思ったからである。
前にも登ったことのある妙見山の山道ではあったが、以前よりも悪くなったように感じていた。私は慎重に、そして注意深く運転をしていた。鳥居の前の広場に車を置くと、「先は長いぞ」と自分に自重の声を掛けて登りはじめた。
前のときもそうであったが、誰にも会うことのない、そして木々を騒がす風の音だけの山道は淋しいものである。そしてようやく着いた飯豊和気神社への最後の石段の登り口で、熊田氏や吉川氏から聞いていた話を頼りに顕彰碑を探しはじめた。風倒木や藪などのために以前に探して分からなかったところで、私の胸の高さもあろうかという大きな石の碑を発見した。
──うーん。これのことか。
私は何故こんなに大きなものが、前に来たときには気が付かなかったのか、とは思ったが、このような薄暗い薮の中であったのだから仕方がないな、とも思っていた。私は藪をかき分けるようにして、その碑に近づいた。しかし残念ながら苔むしたその碑は大きく傾き、毀損していた。それでも表面の枯葉などを払いながら辛うじて見た碑の前面に『●月霊符』とあり、その下部左に少し小さな字で、『大河原正房(当時の八雲神社宮司)、熊田文儀』と二人の名が読みとることが出来た。
(霊符 ●は毀損のため判読不能)
もう一度碑をよく見てみた。月の上に八の字のような
──うーん、これは『六月霊符』とも『八月霊符』とも読めるが、この折れた部分には何が書いてあったのであろうか?
私はそれらの文字から、この碑は熊田文儀を顕彰した碑ではなく、病気平癒祈願の『霊符』、つまり『お守り』のための碑ではないかと思った。あの如宝寺の墓碑銘のような文字列が書かれた様子がなく、とても顕彰碑とは思えなかった。
──長い時が過ぎる間に、『霊符』と『顕彰碑』とを取り違えてしまったのかも知れない。
そう思った。
恐らくこの碑は、霊符という文字から『お守り』として建立されたものとの推定はついたが、ここからは、残念ながらそれ以上のことの発見には、つながらなかった。苦労をして見つけたにもかかわらず、顕彰碑でなかったことが残念でたまらなかった。
それからも毎日のように、図書館通いが続いていた。私が『福島県医師会史』という本があるのに気がついたのは、このような時であった。その『福島県医師会史 四四頁』には、次ぎの記述が載っていた。
会津における最初の牛痘接種は、各資料の間で年号の合わない
点があり、また嘉永元(一八四八)年あるいは三年とある種痘実
施は、当時(接種したと言われる)佐藤元萇がまだ江戸に勉学中
であることと、(もう一人の接種したと言われる)吉村二州は弘
化二年(一八四五)「西洋学修行のため長崎表へ遊学せるも宿志
通り難く江戸に移り」、この当時まだ モーニケ来朝前であるた
め牛痘接種法を彼から学んでおらず
、ことにモーニケが
初めて牛痘接種法に成功したのはそれから四年後の嘉永二年であ
って、嘉永三年頃は京都や江戸でも痘苗入手に苦心していた時代
であったから、これらの事実から見て、 会津での嘉永元年
または三年実施説は少し早いように思われる
。
注 大文字は筆者。
──この記述はおかしい。会津で行われたのはモーニケ成功後とほぼ断定している。
私は考えた。
──熊田文儀が天保四年に下守屋村で種痘に成功していれば、嘉永元年に種痘の方法が、文儀を通じて会津へ伝わって行ったと考えてもおかしくはない。そう考えれば、天保四年に熊田文儀が種痘に成功したということの傍証になるのではあるまいか? そして『北天の星』にも記載されているように、天保十一年に白鳥雄蔵がモーニケの実施以前に秋田藩各地で種痘を行っていたという事実は、天保四年に文儀が下守屋村でも行っていたという傍証になるのではあるまいか?
私には嘉永元(一八四八)年に会津藩で最初の種痘がこの年に行われたことを示唆している記述が、この傍証を補完しているように思えた。