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菅原伝が社長になって、新たに日米用達社という会社が設立された。この会社はサンフランシスコ在住の愛国同盟員からなっていた。やはり鉄道建設労務者の請負業で、日本人労務者を供給することを目的としていた。
日米用達社は、富造と周太郎を窓口にして田中とその配下の労務者と接近した。この関係で、日米用達社は特別な郵便取扱い、送金、翻訳、手紙の代筆などのサービスを田中の労務者に提供することとなった。しかし日米用達社が田中の労務者にサービスを提供することになったため、逆に富造と周太郎は田中から独立する夢を果たすことが出来なくなってしまった。それにもし独立したとしても、田中の下請けにならざるを得なくなってしまったのである。
「富造、これは困ったことになったな」
弱音を吐く周太郎に、富造が言った。
「なあに兄貴、大丈夫さ。たしかに菅原には義理がある。だからそれを利用してもう少し働き、カネを貯めてここから出るさ。鉄道建設ばかりが仕事じゃない。新しい何かを見付けるさ」
一八九二(明治二十五)年、二人はユタ準州オグデン(彼らは親しみを込めて奥殿と書いた)に移った。オグデンを通る大陸横断鉄道を中心にして、南北に縦断する新たな鉄道の工事が始まったのである。アメリカに来て、すでに富造には四年の歳月が流れていた。
当時のユタ準州は、人口がわずか二十一万人であった。
現在のユタ州は、その東半分をロッキー山脈が占め、西半分は砂漠であるが大自然の懐に包まれ、ブライスキャニオン、キャニオンランズ、キャピタルリーフ、アーチィーズなどの国立公園やアリゾナ州にまたがるモニュメントバレー、恐竜のダイナソウ・ナショナル・モニュメントなどの観光スポットを抱えている。その人口の八七%はソルトレーク・シティーやオグデン、ローガン、プロボといった都市に集中し、ウインタースポーツの一大メッカでもある。二〇〇二年には冬季オリンピックが開かれた。人口は、約二三〇万人である。
このユタ準州オグデンの西約二十五キロメートルのグレート・ソルトレークに突き出た半島の先にあるプロモントリーポイントは、一八六九年に、サンフランシスコから東進したセントラルパシフィック鉄道とネブラスカ州オマハから西進したユニオンパシフィック鉄道の接続点であり、最初に完成を見た横断鉄道の記念碑的地点であった。この東西両方向から発進して来た機関車を中心にして記念の金の犬釘を打ち込まれた完成式典の集合写真には、東洋人らしい顔は一つも残されていない。この年、リオグランデ鉄道傘下のテンティック鉄道はユタ準州スプリングビルとテンティックの間を完成させた。
(プロモントリーポイントでの記念写真)
「過酷な労働の中で多くの犠牲者を出しながら、われわれは単なる使い捨ての労働力であったのだろうか?」
そう問う富造は、すでに辞める決意を固めていた。
「いいよ富造。お前のやりたいようにやれ。お陰で俺も、しばらくの学資金は貯まったと思う」
周太郎は自分を納得させるかのように軽く頷きながら、そう言った。
「ただ兄貴。俺は自分で決めたことだからそれでいい。田中忠七に対しても割り切れる。しかし残して行く日本人労務者の行く末については、気になっているんだ」
「うーん。それは仕方がないと言えば仕方がない。確かに辛いことだよな・・・。それにしても辞めてどうする」
「ソルトレーク・シティへ行こうと考えている。ユタの大学に入ろうと思う。その後どうするかは決めてないが、いずれ日本人移民のためになる仕事を、と思っている」
周太郎は黙って同意した。
ソルトレーク・シティはこの州最大の街であった。富造たちの今までの収入にそぐわないほどのつましい生活は、二人の懐に多くのカネを残していたのである。
富造と周太郎は田中に辞表を提出した。田中は重要な収入源でもある二人の慰留を必死に試みたが、二人の決心は変わらなかった。やはり田中の仕事のやり方が納得できなかったし、このままの状況の中で人種偏見の壁を取り除くことも出来ない、とも感じていた。あの自由民権と脱亜の志士の意識が、まだ心の隅で疼いていたのである。そして辞表を出す数日前、離職について田中と話し合っていたとき、二人が自分の思う通りに動かないと知って怒って言う田中の侮辱の言葉を、富造は唇を咬んで耐えていた。
「二人で一度に辞めるとは・・・、人様の世話にだけなって、身勝手なやつだ! この裏切者奴! ここを辞めてみろ。アメリカの厳しさが嫌というほど分かるさ。先ずはお手並みを拝見だな」
半月後、すべての私物を片手に持ち、事務所の裏口から見たユタ湖の向こうのロッキー山脈のテパノガス山やカスケート山にはすでに深い雪が降り積もり、夕暮れの白い山頂には、太陽の一瞬の輝きが取り残されていた。その輝きが、富造には自分自身の孤独と重なって見えていた。
──今頃は安達太良山にも雪が降っているだろうな。
そして日本では見ることのできないほどの長い夕暮れの自分の影に、富造は感傷的になっていた。とはいっても、残して行くことになる田中の配下の日本人労務者については、やはり気になっていた。みんなに済まない、思っていた。しかしそれについては、日米用達社としての立場もある菅原が協力してくれた。別の担当者を派遣してくれていたのである。
──義理を果たすなど立派なことを言いながら、また君に迷惑をかけてしまった。しかしこれは自分だけのための退職ではない。分かってくれ。今後必ず、日本人のためになることをやってみせる。
富造はそう思いながらも、自分の勝手を許してくれた菅原の善意に感謝していた。すでに周太郎は早めに辞め、ソルトレーク・シティへ先発していたが、富造は監督者としての責任感から、今日まで退職を一日延ばしに延ばしていたのである。
──いよいよこの宿舎ともお別れだ。いろいろ世話になったな。
そう思って見回した部屋はすっかり整理され、いままで使っていた事務用の机だけが、ポツネンと残されていた。それを見ながら、三春のことを思い出していた。
──あの頃は楽しかった。世の中には。こんなに辛い人種差別があるなどということは知りもしなかった。しかし考えてみると、われわれ士族は心の隅ででも百姓、町人を馬鹿にしていたのかも知れない。差別される側になって、はじめてそれを知った。