『福島の歴史物語」

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2016.11.11
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 ヒロシ ヨシダ氏は1924年の生れである。弟が幼くして亡くなったので一人っ子となった。二歳のとき両親に連れられて日本に渡った。間もなく両親はハワイに戻ったが、その頃の記憶はないと言う。
「叔父夫婦に育てられていましたが、幼い頃は本当の親だと思っていました。そう教えられていました」
「では当然、日本人だと思っていましたよね?」
「はい。そんなこと(人種とか国籍)は考えてもみませんでした。日本人であることが当然のことだと思っていましたから」
「学校はどうしました?」
「1936年に長岡国民学校を卒業した後、伊達農学校へ入りました。小さいときから叔父夫婦に育てられていましたから、日本での生活上の苦労は、何もありませんでした。しかし学校で強制される軍事教練は馬鹿らしかったですね。逃げ出したいようでした」
「他の生徒もそうでしたか?」
「そういう生徒は少なくなかったと思いますが、誰も口には出しませんでした。そんなことを言ったら、『非国民』と言われましたからね」
「では学校は中退したのですか?」
「いいえ。何とか卒業しました。私も軍事教練は嫌だなどと口にしたら叔父夫婦にも怒られたと思います」
「そうですね。そのような嫌な時代でした」
「私は中学校を卒業した後の1940年に、ハワイに帰りました」
「戦争一年前ですね。ハワイではどうなさいました?」。
「とにかく日本とハワイの教育には、大きな差がありました。例えば日本で私たちは、天皇は神であり国民は陛下の赤子(子ども)であると教えられましたが、それを言うとハワイで育った皆に笑われました。あれは屈辱でした。ようやくのことで日本との貿易会社に勤めたのですが、戦争がはじまったため日本からの輸入が止まり、会社が駄目になりました。私が日本との貿易会社に勤めていたので日本側のスパイと思われたのか、オアフ島の一部屋四十人も押し込まれたセナラ収容所に入れられ、後、ユタ州のトパーズ強制収容所に移されました。私がアメリカの忠誠申告にノーと記載すると、カルフォルニア州ツール レーク強制収容所に移されました。それでも親より先に死ぬのは一番の親不孝との教えを守り、苦しみに耐えました。
 戦争が終わると、多くの日本人が強制収容所から直接日本に帰って行きました。やはりアメリカに幻滅を感じた人も多かったのです。しかし理由が分かりませんが、私はテキサス州クリスタルシティ収容所に移されました。その間にメーンランド(本土)の強制収容所で会った日系人は、ハワイの日系人とは考え方が少し違っていました。メーンランドで育った日系人は、われわれとは違う人種のようにも思えたのです。ともかく英語を勉強しなければならないと思いました」
「いつハワイに帰れましたか?」。
「私はクリスタルシティ収容所で解放されました。しかしここからハワイは遠いのです。途中のサンフランシスコで知人の世話になり、1948年になってやっとハワイにたどり着きました。戦後が終わって三年も後のことでした。ハワイに戻ったとき、ベーカリーに勤めていた父母が迎えに来てくれました。あのときは生きていてよかったと、本当に思いました」
「そうでしょうね。強制収容所暮らし、しかも忠誠申告で『ノー』に記載したのですから、苦労は多かったと思いますよ」
「私はアメリカで生まれたからアメリカ人、しかし心は日本人です。だから私は、『ノー』に記載したのです。とにかく一生懸命だったよ。どこでも差別されるものだから頑張るしかなくてね」
「・・・」
「しかし私は、父の実家はともかく、日本の教育については恨みがありました。だから私は、戦争が終ってからも、日本を訪問する気がしなかったのです」
 私は彼の気持をおもんばかって、何も言えませんでした。ちょっとの間を置いて、彼が言いました。
「しかし歳のせいかな、(2011年の)福島県が大震災で受けた大津波や放射線の被害を受けた報道を見たとき、私もホノルル福島県人会と一緒に募金集めに随分奔走したものです」
「あぁ、そうだったんですか。それはありがとうございました。そのような皆さんの努力があったのですね。その義捐金をロイさんやジェームスさんが福島県知事に手渡したとき、私も傍にいました。皆さん、感謝しておりました」
「そうか、それはよかった」




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最終更新日  2016.11.11 08:32:26
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