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ハワイ島オラアで生まれたイサム アベ氏の場合、彼は五歳のとき母親に連れられて福島に戻った。
「五歳のときというと、少なくともハワイの生活の少しは、覚えていましたね?」
「はい、そうですね。ですから、国民学校で教えられた『八紘一宇』や『鬼畜米英』などという言葉には、口には出しませんでしたが抵抗感がありました。
「そうですか。実は私もあなたと同じ世代でしたから、似たような教育を受けていました。『欲しがりません 勝つまでは』とか『進め一億 火の玉だ』とかね。しかし私の記憶では、それらは何か当たり前のことのように思っていましたね.いま考えてみると、日本という国にドップリと浸かっていたからでしょうか」
「さあ。そこのところは良く分かりませんが、私は、国民学校を卒業したのち日本の士官学校に入ろうとしましたが、祖父に『日本にいてもどうなるか分からない。早くハワイに帰った方がいい』と言われて結局ハワイに帰りました」
「お爺さんは、日本とアメリカが戦争になると予想していたのでしょうか?」
「それは分かりません。とにかく祖父にそう言われたとき、祖父は私を当てにしないのかと思い、本当に切なかった。しかし両親はハワイに住んでいるのですから、それを考えることは、とても辛いことだったのです」
「・・・」
「戦時中はね、自分たち帰米二世の立場からすれば、一世の親たちの考え方に腹が立ったものです。何せ突然退去命令ですから,うろたえるのは分かるが、何にも抵抗しないのです。ゴタゴタは困ると言ってね。仕方がない、としか言わないのです。頼りにならないと思いましたね。それに私が悔しいのは、敵は日本人だけじゃない。ドイツもイタリーもそうなに、何故、日本人だけに退去命令かってね。それでも私は、幸せな方だったと思います。ハワイで同じ帰米二世であったトシコと結婚できたのですから」
匿名を希望された男性の場合、彼はあまり語りたがらなかった。彼は1932年に生まれて日本の父方の実家に預けられている。福島では国民学校二年生か三年生に編入されたが間もなく親に連れられてハワイに帰ったという。ハワイでは小学校に入ると、毎朝教室の中で星条旗に向かい、忠誠を誓った。
「大和魂、大和魂とばかり言っていたよ。それしか知らないのだから。そして家族とは喧嘩ばかり」と言う。
「真珠湾攻撃の数時間後に家にやってきたアメリカ人は、『少し話があるから来い』と父を手招きしたのです。父が言われたとおり車に乗ると、いきなりピストルをつきつけられて、そのままどこかへ連れて行かれました。母は、気狂いのようになっていました」
それでも彼は、最後には100大隊に入隊、アメリカのために戦う道を選んだ。しかし彼はそこに至るまでの苦悩、激しい葛藤を語ってはくれなかった。
戦後になって帰って来た父は、スパイ容疑で逮捕され、『サンド・アイランド(ホノルル港内の無人島)へ連れて行かれたのち、本土の強制収容所に送られた』と言っていました。「結局は親不孝をした」と寂しそうに語っていた。
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