『福島の歴史物語」

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2018.01.04
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   郡山の製糸

 この地方において、古くから桑を植え、蚕を育てて絹糸を取り、絹を織って生計の足しにしていた農家は少なくありませんでした。このような郡山村に、はじめて会社組織の製糸会社が出来たのは、明治十三年(1880)に設立された正製(セイセイ)組であり、翌年の真製社でした。しかしこの頃の製糸会社はまだ機械を使用しておらず、一般農家が行っていたと同じ座繰製糸という方法をとっていました。安積疎水が開通し、沼上水力発電所が建設されると、その電力と豊富な疎水の水を利用して、郡山絹糸紡績会社が発足しました。その後も相次いで、片倉組や小口組が進出し、日東紡績などに発展していきました。明治期以後の郡山は、安積疎水を利用した農業のみならず、工業都市としての性格を持つようになっていったのです。

 絹の原料となる生糸は、蛾の一種であるカイコガの幼虫がサナギになるためにつむいだ繭を茹で、ごく細い絹糸を引き出して縒りあわせて作られるものですが、そのカイコの祖先は、東アジアに生息するクワコでした。これが中国大陸で家畜化されたというのが有力な説です。カイコは、野生に回帰する能力を完全に失った唯一の生物として知られ、餌がなくなっても逃げ出さないなど、人間による管理なしでは生育することができないのです。日本でも地方によっては「おカイコ様」といった半ば神聖視した呼び方が残っています。

 世界においての絹の歴史は古く、すでに紀元前三千年頃の中国ではじまっていました。神話伝説によれば紀元前2460年頃、中国を統治した黄帝の后が、お湯の中に繭を落としてしまい、それを箸で拾い上げようとしたときに箸に巻きついてきたのが絹糸の発見となったと言われています。当時、絹糸を作る技術は門外不出とされ、絹織物の重さと同じ重さの金と交換していたと言われますから、貴重なものとされていたことが分かります。一説には紀元前六千年頃ともされていますが、少なくとも紀元前206年から紀元前8年の前漢の時代には、蚕室での蚕の卵の保管方法が確立しており、細々と続けられていた養蚕は、西暦1000年以後になってから、農村部においての生産が盛んになったのです。

 一方、他の国々では絹の製法が分からなかったため、非常に古い時代から、絹は中国から陸路や海路で、インド、ペルシア方面に輸出されていました。これがシルクロード、つまり絹の道のはじまりでした。シルクロードの中国側起点は長安(西安市)、もしくは洛陽であり、欧州側はシリアのアンティオキアもしくはローマと見る説もありますが、日本がシルクロードの東端だったとする考え方もあります。紀元前千年頃の古代エジプト遺跡から、中国絹の断片が発見されています。古代ローマでも絹は上流階級の衣服として好まれ、ローマが紀元前一世紀にエジプトを占領すると、絹の貿易を求めて海路インドに進出、その一部は中国に達したのです。しかしローマでは、金の重さと同じだけの価値があるとされた絹に対する批判も強く、アウグストゥスが法令で絹製の衣類着用を禁止しました。マルクス・アウレリウス・アントニヌスは、絹製のローブが欲しいという后の懇願を拒絶して模範を示したのですが、それでも絹着用の流行は留まることはなかったといわれています。

 六世紀になると、絹の製法は東ローマ帝国に入りました。中世のヨーロッパでは1146年にシチリア王国が自国での生産をはじめ、また絹貿易により発展するヴェネツィアを見て、イタリア各地で絹生産がはじまりました。フランスでもイタリアの絹職人をリヨンに招き絹生産をはじめました。ちなみに宗教改革で母国を追われたプロテスタントの絹職人を受け入れたイギリスでは、何度も絹の国産化を計画したのですが蚕を育てる事に悉く失敗し、1619年になってようやく成功に漕ぎ着けました。しかし植民地であったアメリカが独立したため、他のヨーロッパ諸国よりも中国産の良質な生糸を求める意欲が強く、これが英清間の貿易不均衡、更にはアヘン戦争へと繋がっていく遠因となったとする説もあります。

 日本には、絹の製法は弥生時代に伝わり、佐賀県の吉野ヶ里遺跡からも、さまざまな織り方の絹織物や、日本茜や貝紫で染色されたものが見つかっています。このことから、すでに高い技術があったことが分かります。聖徳太子が制定したとされる十七条憲法に、「春から秋に至るまでは農桑の節なり」と記してあることから、すでに養蚕が広まっていたと考えられます。律令制では納税のための絹織物の生産が盛んになったのですが、品質は中国絹にはるかに及ばず、また戦乱のために生産そのものが衰退していきました。このため日本の上流階級は常に中国絹を珍重し、これが日中貿易の原動力となっていたのです。しかし中国では、明代になると日本との貿易が禁止されたため、倭寇などが中国沿岸を荒らしまわりました。

 養蚕関連についての日本での記述は、和銅五年(712)に編纂されたという古事記にさかのぼります。その古事記によりますと、蚕は女神の死体から生まれたことになっています。豊穣の女神である大気津比売(オウゲツヒメ)が、口や尻から食べ物をとりだすのを見た須左之男命は、自分に汚いものを食べさせようとしていると思い、怒って殺してしまいました。するとこの死んだ女神の体から、さまざまな穀物が生まれ、頭からは蚕が生まれたというのです。また日本書紀においては、イザナミノミコトが火の神カグツチを生んだために体を焼かれ、亡くなる直前に生んだ土の神ハニヤマヒメは、後にカグツチと結ばれてワクムスビが生まれるのですが、出産の際にワクムスビの頭の上に蚕と桑が生じ、臍の中に五穀が生まれたという話があります。

 三代実録には、仲哀天皇四年(195)に秦の始皇帝十一代の孫の功満王(こまおう)が渡来して日本に住みつき、珍しい宝物であるカイコの卵を奉納したとされ、また『古事記』の下巻に、蚕は韓人(百済からの帰化人)奴理能美(ヌリノミ)が飼育していたもので、「一度は這(は)う虫になり、一度は太鼓になり、一度は飛ぶ鳥になる奇しい虫、つまりカイコを、『民の竈』で知られる第16代仁徳天皇の皇后・磐之媛命(イワノヒメノミコト)に献上するという話が語られています。



日本の生糸が粗悪だったのは、繭から糸にするのを人の手で作っていたことにもありました。これを糸取りといいます。この糸取りでは、繭から取り出す5~6本の細い糸を、唾で湿らせ指でよじるようにして一本の糸にしたのです。これを「撚り」(より)といいます。この仕事は細かい手仕事ですから、男性より女性の方が向いていました。しかも唾液が豊富に出るのは若い女性ですから、この糸取りは農家の若い女性の仕事でした。しかし、人の手でやりますからどうしても不ぞろいになります。そのため、繭が吐き出す糸は1000メートル以上もあるのですが、糸取りの最中にどうしても切れてしまいます。そこで糸を継ぐのですが、そうすると糸が太くなってしまいます。絹糸はできるだけ細く太さも均一なのが上質なのです。そのため国産の生糸は、質が悪い粗悪品とされ。京都の西陣などでは、国内産より中国産の生糸を使っていたのです。

 初め幕府は、養蚕は春蚕(ハルゴ)だけを認めていました。江戸時代も中期になると秋蚕(アキゴ)も認めたのですが、それでも春と秋の年に二回だけでした。法制的には幕府の法律や政策は、天領にしか及びません。そのため実際は、どの藩も幕府の政策すべてを、そのまま自分の領地でも適用していました。ですから江戸時代の養蚕は、全国的に初めは春蚕だけ、中期になって秋蚕も行われるという状況でした。とくに二本松藩では、食料確保が最大の政策でしたから、安積郡域ではあまり行われませでした。しかし隣の田村郡域では、比較的盛んに行われていました。それが幕末から急に養蚕が盛んになり、明治になると、春、夏、秋、晩秋、晩々秋と年に5回もやる地域も出てきたのです。

 しかし長年の生糸産業衰退の影響で、日本国内産の蚕は専ら綿の生産にしか用いる事が出来ませんでした。鎖国が行われ始めた寛永年間から、品質の改良が計られました。また幕府は、蚕種確保のため、代表的な産地であった旧結城藩領を天領化し、次いで同じく天領で、より生産条件の良い陸奥国伊達郡に生産拠点を設けて蚕種の独占販売を試みたのです。これに対して仙台藩、尾張藩、加賀藩といった大藩や、上野国や信濃国の小藩などが幕府からの圧力にも拘らず、養蚕や絹織物産業に力を入れたため、徐々に地方にでも生糸や絹織物の産地が形成されたのです。この結果、貞享年間(1685)には、初めて江戸幕府による輸入規制が行われ、さらに八代将軍徳川吉宗は、貿易赤字是正のため、天領、諸藩を問わずに生糸の生産を奨励し、江戸時代中期には日本絹は中国絹と生産量はにおいて、遜色がなくなっていったのです。

 養蚕をするには、金と労力がかかります。養蚕に金がかかるのは、蚕種を買うためです。それと桑畑の手入れが大変でした。江戸時代の肥料は人糞が主ですが、それでも金肥といって、魚から作る肥料を撒きました。蚕は孵化すると脱皮しながら成長しますが、その時には夜も寝ないで桑の葉を与えなければなりません。段々蚕が成長してくると、家中が足の踏み場もないくらいになり、食事は立ったままするということになります。養蚕が忙しいのは蚕に餌を与える作業があるからです。家族だけでは無理なので人を雇うのですが、そのためには手間賃を払わなければなりません。そこで借金をするのですが、そのようなこともあって、三春町や船引町には、銀行の先駆けとなる金融機関としての金貸しが、多くいたのです。

 江戸時代においての福島県の養蚕は、一般に思われているほど盛んではなく、二本松市北部の旧東和町を除くと、さほど行われていませんでした。この地域で養蚕が行われていたのは、さらに北の川俣でした。その影響で、田村郡でも養蚕は行われていましたが、それでもタバコ栽培の方が盛んでした。安積郡では逢瀬村や三穂田村で細々と行われていたくらいで、ここ以外ではほとんど行われていなかったようです。その頃は、座繰りという器械で生糸にしたのですが、実はこれが発明されたのは明治になってからでした。生糸を染色して絹糸にし、これで織物に仕立てていたのです。

 明暦年間(1655年~58年)になると、川俣の生糸商人による京都への生糸販売が行われました。川俣には、近江や信濃などからも商人が蚕の卵、真綿、絹製品を求めて買付けに集まり、活況を呈していました。安政二年(1773)には、蚕の卵に「奥州本場」又は「奥州種」の商標と鑑札をつけることが幕府から許可され、福島の地位が確立されていったのです。これ以降幕末から昭和に至るまで、養蚕と蚕種製造業は大いに栄え、全国的に見ても有数の蚕の卵の産地になっていったのです。

 日本では、鎖国後も中国絹を必要としていたため、長崎には中国商船の来航が認められ、国内商人には糸割符(いとわっぷ)が導入されていました。糸割符とは、生糸輸入の方式で、江戸幕府が特定の商人集団(糸割符仲間)に独占的輸入権と国内商人への独占的卸売権を与えたもので、白糸割符とも言われました。鎖国は、外国文化の流入をきらって行われたといわれますがそうではなく、有力な輸出品がなかった日本は、貿易を制限しないと金銀が流出して経済が破綻してしまうからでした。そのため、管理貿易の必要性から鎖国をしたというのが実態です。

 一方で長野県は、山国でありながら良い蚕の卵が手に入らないので、江戸時代の終わり頃まではさほど盛んでありませんでした。長野県で養蚕が可能になったのは福島の蚕の卵が入手できるようになった幕末からです。風土が大いに関係するらしく、どういうわけか川俣伊達地方の蚕の卵は病気になりにくかったというのです。そこで、長野県の養蚕農家はこの福島産の蚕種を購入して養蚕をしていました。ちなみにこの蚕種の開発は当たれば大もうけができるというので、あちこちの資産家が挑戦しました。しかし、たいていは失敗で、江戸時代までは大金持ちだったのに先祖が蚕種事業に手を出して失敗し、今ではすっかり貧乏になってしまったという話はよく聞きます。真偽のほどはわかりませんが、地方の没落した旧家の子孫が没落の理由にあげるのが決まってこの蚕の卵事業でした。

 実は江戸時代の日本の養蚕業に大きく貢献したのは、福島の県北地方でした。どういうわけか、福島県では川俣地方だけは奈良時代から養蚕機織りが盛んだったのです。江戸時代には福島絹という名で有名でしたが、その福島絹もたぶん高級呉服の表地にはならず裏地に使われていたと考えられています。というのも、東日本の絹で京都の西陣に送られる絹布のほとんどは、裏地だったのです。

 この頃東アジアに来航したポルトガル人は、日中間での絹貿易を仲介し、巨利を得ていました。日 幕末の開港前の限られた国内市場において、一定の発展をしていた製糸業は,開港を契機として海外の市場と結合し,生糸輸出の増加を通じて生産力を増大させていきました。このため、開港後は絹が日本の重要な輸出品となっていったのです。幕末から養蚕が活況を呈するようになったのは輸出のためでした。日本が開国すると、アメリカやヨーロッパの商人が日本に来て、手当たりしだいに繭をかき集めるようになりました。外国が日本の繭を求めたのは、当時ヨーロッパでは蚕の伝染病が流行し、壊滅的被害を受けていたからでした。そして為替相場が今とちがい、極端に日本の通貨が安く設定されていましたから、外国人からすれば驚くくらい安い値段で日本の繭が買え、逆に日本の養蚕農家は驚くほどの高い値段で売れたのです。しかしこれで困ったのは、西陣をはじめ各地の機織業者でした。まったく生糸が調達できなくなったのです。そこで、機織り産地では、明治になると銘仙とよばれる高級服地を開発しました。川俣地方でも事情は同じで、この時がもっとも苦しい時代でした。

 養蚕業は蚕を飼うためクワ(桑)を栽培し繭を生産する業務であり、製糸業とは、繭から生糸へ加工する業務です。この養蚕業、製糸業は明治以降の日本が近代化を進める上での重要な基幹産業であり、殖産興業の立役者のひとつであり、昭和の初めに至るまで日本最大の輸出商品となったのです。そして製糸業は外貨獲得産業として,明治以降の富国強兵政策を支える貿易・産業構造の一環を構成することになったのです。ほぼ前後して、中国でも製糸業の近代化が欧米資本及び現地の官民で進められました。元々国内での需要と消費が多く、生産者も多かった日中両国での機械化による生産量の増大は、絹の国際価格の暴落を招き、ヨーロッパの絹生産に大打撃を与えたのです。なお、日本最初の近代的な製糸工場と言われる富岡製糸場の技術指導を行ったのは、フランス人技師であるポール・ブリュナーでした。



 明治二十四年(1891)、日本第二の大都会、大阪に大阪馬車鉄道が開通する9年も前、三春馬車鉄道が郡山 三春間に開通しました。田村地方の生糸などの製品や、それを扱う商人たちの利用が多く、郡山からは出来たばかりの鉄道で、東京や横浜へ出掛けて行ったのです。なお同時期、三春には国立第93銀行が設立され、その横浜支店を通じて、輸出などに関しての為替業務などが行われていました。ちなみに現在、仙台市に本店をもつ七十七銀行がありますが、これは仙台に置かれた第七十七国立銀行がその前身でした。そして驚いたことには、次のようなことを、会津若松市の友人に聞いたことです。それも今年、平成二十九年、幾つもの少人数による無尽が、今も続いているというのです。

 明治二十八年(1895)、輸出生糸の品位、正量などの検査を行う国の検査機関の生糸検査所が、横浜と神戸に設立されました。明治三十四年(1901)には閉鎖されましたが、昭和の初めには、輸出用生糸の大部分が、高品位となっていました。しかし第二次世界大戦で、日本は東アジア諸国との貿易が途絶えたため、欧米では絹の価格が高騰しました。このためナイロン、レーヨンなど人造繊維の使用が盛んになったのです。戦後、日本の絹生産は衰退し、現在は主に中国から輸入に頼っています。平成十年の統計によると、日本は世界第5位の生産高ですが、中国、インド、ブラジルの上位3ヶ国で全世界の生産の9割を占め、4位のウズベキスタンも日本を大きく引き離しています。平成二十二年現在では、市場に提供する絹糸を製造する製糸会社は、国内では2社のみとなってしまいました。

 郡山の絹の製糸業は、明治時代に入ると著しい発展を遂げました。安積疎水の開削と田村地方での養蚕が結びつき、郡山を中心に相次いで器械製糸工場が操業を開始したのです。明治三十二年には、日本銀行福島出張所が設置されましたが、これは養蚕や絹織物業の発展と関係があったと言われています。ちなみに、群馬県富岡市の旧官営富岡製糸場が、明治五年十月に開業したのですが、富岡製糸場は、世界遺産に登録され、そして安積疎水も、日本の遺産に登録されました。現在の郡山市桑野、つまり旧桑野村の名は、開拓事業の中心地であった開成地区全域が養蚕のため、桑が植えられていたことからの地名です。生糸は明治、大正と日本の主要な外貨獲得源であったのですが、昭和四年(1929)以降の世界恐慌で世界的に生糸価格が暴落したため、東北地方などを中心に農村の不況が深刻化しました。

 今でも郡山の山間地をまわると、年配者から昔は養蚕で儲かってよかったという話を聞きます。それは中山間地の農村には養蚕に代わる農業がなかったのと、養蚕は稲作とちがって借金でやるからでした。それでも養蚕を続けたのは、借金を返すためというより、養蚕をやめると今までの借金を精算しなくてはならなくなり、そうすると、返しきれないほどの借金が表面に出てしまうためでした。このあたりは、今の小さな会社の経営者が廃業したいけれど、借金があるから辞めるに辞められないというのとほぼ同じです。また養蚕というのは博打に似たところがあって、今年はダメでも来年は大当たりするかもしれないという期待があります。そこで戦後もしばらく続いていたというのが日本の養蚕の歴史でした。日本で養蚕がなくなるのは養蚕の経済性が失われたというより、昭和30年代の高度経済成長で、農村の人々にも新しい働き口ができたということの方が大きかったのかも知れません。




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最終更新日  2018.01.04 14:37:08
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