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ハワイ最初の移民団・元年者(がんねんもの)
1810年、日本流に言うと文化七年のカメハメハ一世による建国から、1895年、明治二十八年まで八代にわたり続いたハワイ王国。そのハワイでは、1850年、嘉永三年から外国人による土地の私有が認められるようになりました。そのため白人の投資家たちの手によって、ハワイ各地にサトウキビ農場が設立され、一大産業へと急成長したのですが、その反面、白人たちが持ち込んだ病疫により、人口が激減してしまったのです。
この増加する農場に対し、ハワイ王国内のハワイ人のみでは労働力を確保することが難しくなり、天保の頃の1830年代より国外の労働力を輸入する方策が模索されはじめ、嘉永五年、1852年、三年間という契約で、中国より最初の契約労働者がハワイへ来島しました。以後も中国より多数の労働移民がやってきたのですが、中国人らは定着率が悪く、契約終了後、独自に別の商売を始めたりするなどしたことにより彼らに対する風当たりが強くなったことから、ハワイ政府は中国人移民の数を制限し、他の国から労働力を輸入するようになりました。そのためハワイでは、勤勉な日本人の移民を求める気運が高まっていました。万延元年、1860年、カメハメハ四世は、福沢諭吉や勝海舟が参加していた遣米使節団がハワイに立ち寄った際に、また慶応三年(1867)にはカメハメハ五世が、日本に移民要請の親書を寄せていたのですが、戊辰戦争に向かう混迷下にあった日本には、残念ながら、そんな余裕がありませんでした。
そこでハワイ王国政府は、アメリカ人貿易商で在日ハワイ国総領事を兼ねていたユージン・ヴァン・リードに江戸幕府と交渉させ、ようやく移民三〇〇人分のパスポートを発行させたのです。ところが、移民が出港する前に戊辰戦争が起き、新政府が発足してしまったため、出航目前のすべての計画が、立ち消えとされてしまったのです。ところがなんと、リードは日本政府の許可を得ぬまま、その153名の日本人をホノルルへ向けて出航させてしまったのです。この最初の日本人移民は明治元年(1868)にハワイに渡ったことから、元年者と呼ばれるようになりました。翌明治二年、日本政府は自国民を奪われたとして使節団をハワイに送り、抗議を行いました。その結果、契約と異なる過酷な労働に不満を持つ40人を即時帰国させ、残留者には待遇改善を約束させることで両国間の悶着は一応の決着をみることとなりました。
しかし、ふれこみとは違う砂糖キビ農園における過酷な労働は、元年者移民の中から三名もの自殺者を出しました。もちろんそれは酷暑と失望という、自然、精神状況もあったのですが、酷使と苦痛という人為的問題も絡んでいました。そのため元年者と呼ばれた153人の内少なくとも男性50人、女性6人は、契約と実際の状況が違うと年季を待たずに帰国しています。明治五年(1871)、日布修好通商条約が調印されました。しかし元年者の中には、リーダーとなった牧野富三郎、最年少13歳の石村市五郎、本当の意味での元年者ではありませんが、マウイ島で102歳の生涯を終えた石井千太郎、ハワイ人女性と結婚してワイピオ渓谷に住んで子孫を残した佐藤徳次郎、それから明治十九年、1886年に初の在ハワイ王国総領事となった安東太郎など、後の日系移民の語り草になった人たちがいたのです。
一方で、ハワイ王国のデイヴィッド・カラカウア王は、1874年、明治七年の二月に即位、ハワイ経済の振興のために自らアメリカに出向いて砂糖キビなど島の特産品の輸入自由化を進めるなど、積極的な外交策を展開した国王です。そのカラカウア王が、移民問題、及び外交関係の改善を目的としてサンフランシスコに立ち寄った後、アメリカには秘密にして太平洋を横断し、日本にやって来たのです。
明治十四年(1881)、初の外国元首の来日となった日本では赤坂離宮で王を歓待、明治天皇と会談した際に、王は幾つかの提案をしました。その一つが日本政府公認の移民の要請であり、さらには王の姪で五歳のカイウラニ王女と、十三歳であった山階宮定麿王、後の東伏見宮依仁親王(よりひとしんのう)との縁談であり、日本とハワイの連邦構想であり、日本・ハワイ間の海底ケーブルの敷設であり、さらに日本主導によるアジア連邦の実現を提案したのです。しかし明治天皇は「国力増強に努めている日本政府には、そこまでの余力はない」として断っています。
カラカウア王がこのような提案を行ったのは、ハワイ王国の存亡がかかっていたからです。その原因の一つは、欧米人が持ち込んだ病気によるハワイ原住民の急激な人口減少でした。加えて、ハワイをアメリカの属州にしようというアメリカの影が、刻々と忍び寄っていました。王は、なんとしてもハワイ王国を存続させなければとの思いの中で、移民により、すでにハワイの人口の四割を占めながら、基幹産業であるサトウキビ農業の働き手として白人にこき使われ、奴隷同然に搾取され続けていた日本人に注目していたのです。結果として、これらの提案のうち、移民政策以外は実現に至りませんでした。確かに当時の日本としては、急激な西洋化の波に揉まれている最中にあったため、海外にまで目を向ける余裕もなかったと思われますが、仮に結婚やハワイとの連邦結成が実現していたら、太平洋の地図が今とは違うものになっていたかも知れません。
明治十年、1885年、日布移民条約が結ばれ、ハワイへの移民が公式に許可されるようになりました。政府の斡旋した移民は官約移民と呼ばれ、明治二十五年、1894年に民間に委託されるまで、約二万九千人がハワイへ渡りました。この官約移民は、「三年間で四百万円稼げる」といったことを謳い文句に盛大に募集が行われたのですが、その実態は人身売買に近く、半ば奴隷に近かったようです。労働は過酷で、ハワイ語でルナと言われた現場監督の、鞭で殴るなどの酷使や虐待が行われ、一日十時間の労働で休みは週一日、給与は月額10ドルから諸経費を差し引かれた金額でした。これは労働者が契約を満了することを義務付けられたハワイの法律、通称・主人と召使法に縛られ、仕事を中途で辞めることが認められていなかったのです。
明治二十五年、1894年に官約移民が廃止され、以後は日本の民間会社を通した私約移民つまり斡旋によるものが行われるようになりました。これら移民事業を行う会社が30社以上設立され、特に広島海外渡航会社、森岡商会、熊本移民会社、東京移民会社、日本移民会社は五大移民会社と呼ばれました。このような明治三十一年、1896年、福島県三春町出身の勝沼富造は日本政府の要請を受け、ハワイ共和国移民官としてホノルルに赴任しました。そしてその直後、熊本移民会社の協力を受け、ハワイへの移民募集のため福島県に戻りました。富造は多くの移民を集めてハワイへ連れて行きよく面倒を見たため、『ハワイ移民の父』と賞賛されました。そして時が経ちます。大正十年、1921年三月二十六日、ホノルル市ワイキキ海岸の塩湯において、有志の主催による草分け同胞の親睦会が開催されました。この時の模様を勝沼富造は、元年者およびその子孫に会って、深い感動と様々な教訓を得たと、その著、『甘藷のしぼり滓』で述べています。
『三月二十六日ホノルル市ワイキキ塩湯の勇公(東京人)方に於いて、草分け同胞の親睦会を催しました。マウイ島キバフル耕地耕地の石井仙太郎翁(八九)カウアイ島リフエ耕地の佐久間米吉翁(八二)ホノルルの谷川(棚川)半蔵翁(八二)同棚田(吉田)勝三郎翁(七六)の四氏、及び其の子孫などに面会し、深き感銘と色々の教訓を得ました。再び、かかる会合に出会うことは、難しいことと考えています』
草分け同胞の親睦会を、1921年に催しましたが、結局その後、この会合は開かれないでいました。しかしその五年後に、元年者の偉業をたたえる『明治元年渡航者之碑』が、ホノルル市マキキ墓地内の小高い地に建立することになったのです。これらについて、『ハワイ日本人移民史』より転載します。
『元年者及びそれに続く第一回船同胞のハワイに渡来して以来、各島耕地及びホノルルの墓地には、年月を経ると共に、いつとなく誰訪う人もなき無縁塚が多くなってきた。せめて元年渡航者の記念碑を建立し、二世以下の子孫のため、後世に伝えたいとの希望が有志の間に起こっていた。
元年者の一人である吉田勝三郎翁が大正十四年、1925年十二月に死去し、その一周忌の前後から、右の記念碑の建立が実現のはこびとなり、そのための委員会が発足することになった。委員には、喜多鶴松、喜多捨松、本庄大二、三樹七之輔、黒田重三郎、 勝沼富造 、古川茂生、相賀安太郎の各氏が選ばれた。これらの諸氏は、昭和二年、1927年二月に日布時事社に集まって碑の建立についての打ち合せ会を開きその設立にとりかかった。
こうした有志の働きは各方面から多大の賛同を寄せられ、ついに元年者の遣業をたたえる「明治元年渡航者之碑」の完成をみたのである。
昭和二年(1927)五月八日午前十時、およそ六十名の参加者を得て、記念の除幕式を厳粛のうちにも盛大に行なわれた。
式の模様を相賀安太郎氏は、初めに司会者たる筆者(注、相賀安太郎)の挨拶と報告に続き、当日特に列席せる元年者中の生存者九十四歳の石井仙太郎翁(注、明治元年以前の渡航著で本当の元年者ではない)と、八十九歳の棚川半造翁両人の手にて除幕式を行い、出雲大社宮司宮王、三上両氏の祭式、一同の玉くし捧呈を終り、 勝沼富造ドクトル 、桑島総額事、原田博士の所感談後、石井、棚川両翁へ各コァ製ステッキを贈呈し、石井翁より感慨無量なる謝辞があり、式終って参列者一同碑前にて記念の撮影を為した。』
元年者の記念碑は約一トンもある自然石で、オアフ島ハレイワ大正学校内より掘り出されたものを譲り受けたという。碑面の文字『明治元年渡航者之碑』は総領事桑島主計の筆によるものでした。また碑の台石には日本語の碑文が銅版に刻まれており、碑銘のすぐ下には英語による碑文が同じく銅板に彫刻されてはめ込まれました。この元年者の碑は、明治元年(1827)から約60年後になって、建立されたのですが、この建立には、福島県出身の勝沼富造が深く関わっていたのです。
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