『福島の歴史物語」

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2020.02.15
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     第100歩兵大隊記念館にて 

 平成十九年三月、私は取材のため再びホノルルを訪れた。当日は時差の関係があったので、予定を入れずホテルでゆっくり過ごしていた。ベランダへ出て行った娘が、驚いたように声をかけてきた。

「お父さん、虹よ。虹!」

「ふーん」ベッドで横になったまま、私は気のない返事をした。

「しかも二重の虹よ!」私は、のそのそと起き出した。ダイヤモンドヘッドをバックに、それは鮮やかに出ていた。

「ほお、案外低い所に架かるんだな。まるで触れるかのようだ。歓迎の印かな。」

「そうよ、家の家族は日頃の行いがいいから。」

 私は軽口を言う妻と娘に、カメラのレンズを向けた。ベランダから目を下にやると、水泳やサーフィンを楽しんでいる人たちの姿が見えていた。

「日本人の観光客も多いし言葉も通じて・・・。老後はこんな所に住めるといいわね。」

 そう妻が言った。

「そうか、それならジョージさんにいい家を探してもらうか。」

辛酸をなめつくしたハワイの日系人のことを考慮すれば、観光に来る日本人はもう少し謙虚であるべきと思っていた私は、冗談で応じた。

 翌日の約束の時間に、私たちは、ホノルルのカモク・ストリートの第100 歩兵 大隊資料館を訪ねた。すでにホールには、十五人位の人が待っていてくれた。除隊兵たちばかりではなく、戦争でご主人を亡くされた婦人たちもいた。

あなた方のためにみんなで作ったのよ。食べなさい。」

 そう言ってくれる小さなホールのそこここで笑い声が起き、同窓会のような雰囲気であった。私たちは、丸い大きなテーブルを囲んだ。

R 僕は 野戦病院で治療を受けた後、北アフリカの病院にヘリコプターで運ばれ、一ヶ月程病院生活を送ったが、本格的治療を受けるために軍用船でアメリカ本土に帰された。約十一ヶ月の間病院生活を送ったが、それが辛かった。入院している間にもハワイから一緒に出征した友だちが敵の銃弾の下をかいくぐって戦っているのを考えると、本当に気がもめた。「早く直してみんなの所へ戻り一緒に戦いたい」と思いながら安全な病院のベッドに横たわっているのが何とも切なかった。そのようなとき、何気なく窓から外を見ていると、雀が数羽、忙しげに餌をついばんでいたそんなとき作った短歌が、これです。

    ふと見れば翼濡れいる雀の子恋い来たりしか一人居の窓

—— 戦争が終わって、ハワイに帰ったときの様子を教えてください。

W みんな別々に帰った。

—— えっ、別々って・・・バラバラで? 個人個人で?

W そう。

—— では第522野砲大隊は?

W それもバラバラ。

—— それではハワイに帰ったとき、凱旋帰国の歓迎式はなかった?

W なかった。第442連隊は、ワーって帰ってなかった。

—— それでは第100大隊はハワイから行くときそーっと行って、こんなに沢山手柄を立てて、帰っ たときもまたそーっと?

W そう、可哀想ね。

 このようにイタリアで、フランスで。ドイツで、そしてアジアで戦ったどの日系人部隊からも、自らの戦功を誇る言葉を話す者は誰一人としてなかった。それは日本人特有とされる『謙譲の美徳』からなされたとされる考えもあろうがそればかりではなく、日本人への人種差別、それに基づく強制収容などへの反発が、『アメリカ国のため』という一事に昇華したためであったのかも知れない。彼らがあの激烈な戦いを通じて体験したのは、多くの友人の戦死と戦傷の実態であった。矛を収めてはじめて知った第100歩兵大隊の死傷率314%という数字に愕然としたのは、おそらく彼等自身であったのではあるまいか。彼らがハワイに戻ったとき、何の凱旋帰国のセレモニーもなかったという。このことは何を意味するのであろうか? そしてここで言う314%という死傷率は、31・4%の間違いではない。最初に第100大隊が編成されたときの全隊員の三倍以上の死傷者が出た、という意味である。

 ある除隊兵が言った。

我々は原爆を落とした側だ。今でも日系アメリカ人としての気持ちを聞かれることがあるが、答えるのは本当に難しい。日本では女性までもが竹槍で特攻攻撃をすると噂されていた。それが恐怖であったとしても、自分たち日系人が日本の破壊に加わったという罪悪感から逃れられないでいる。」

—— あなたは何のために戦ったと思いますか? アメリカ? 家族? それとも日系人のため?

H 日系人だろうね。100大隊帰米が多かったから・・・。帰米二世は日本語も英語も半端だ。可 哀想だよ。それで(日本に)帰った人がいる。みんな死んでしもうた日本で、日本の戦争日本の 兵隊・・・。それで日本は何のために戦ったのですか?

—— ・・・。(戦後の日本を知っている私は、返事に窮していた)

G 橋本さんの質問は、ハワイの一世と二世は戦争の時から今までいつも考えています。一世と二世 は、日本がアメリカを攻撃することはほとんどしまい、出来ない、不可能なことと思っていまし た。何故そう思ったかは、小さい、資源のない、中国での戦争に疲れた国は、アメリカみたいな

大きい天然資源が余るほど多い国に勝つことは不可能と思っていました。山本五十六大将もアメ リカを見学して、同じ結論でした。二世は日本、祖先の国を愛していました。その代わりアメリ カは自分が生まれた国、食べさせてくれる国、そして教育してくれた国には、愛の上に恩と義理 がありました。日本人はこの概念をよく理解すると思います。でも一世も、養ってくれている国 アメリカ、そして子供が生まれた国アメリカを、傷つけることは絶対出来ないことでした。日本 人は一番これを理解する人々です。 しかし日本で生まれて教育を受けた一世は、日本が戦争に 負けると信じませんでした。信じたくない状態でした。日系人たちは、アメリカと日本が戦争を するのは本当に嫌なアイデアでしかないと思っていました。

 なおこのジョージ・スズキはハワイの医師である。彼は戦後長期間にわたって、祖父母の国・日本の広島原爆病院に関わって貢献し、平成十七年の秋の叙勲において『旭日双光章』を受けられた。

—— それから私はいま、日本に住んでいるウィスコンシン州ライスレーク市出身のジーナ シーファーに、第100大隊の歌を知っているか聞いてみましたが、分かりませんでした。

 バトルフィールドではあまり日本の歌を歌いませんでした。ハワイの日系兵隊は、ウクレレ、ギ ター、ハーモニカを戦争に持って行って、ハワイの歌を歌いました。

 ハワイが懐かしくなりましたから。流行っていたアメリカのフォークソングも、歌っていまし た。

—— 第100大隊の歌はいつ頃作られたものですか?

○ あれは戦争が終わってからかな・・・。

—— えっ、戦争が終わってから作られた? あれは戦争中に士気を鼓舞するために歌われたのとは違 いますか?

 いや、 歌わなかった。

—— じゃ、第442連隊の歌は?

あれもそうだと思いますよ。

—— へーえ、驚いたな・・・。そうだったのですか。

歌わなかったけど、ゴーフォーブロークという言葉はありました。(見せてもらった歌詞は、第 100大隊、第442連隊とも、よく似ていた)

ギャンブルのダイスゲームからゴーフォーブロークの言葉がとられた。

—— それにしても、詩も詩の流れも似ていますね。

メロディも同じだよ。

—— えっ、メロディもですか? ここでその歌を、みんなで歌ってみてくれませんか?

 誰かがウクレレを持ち出し、みんなで第100大隊の歌を歌ってくれた。

戦後は日本の歌がとても流行った。

『美空ひばり』が来たしね。

ボンダンスの太鼓の音はいいね、ノスタルジーを感じる。

D 橋本さん、これ(第100 歩兵 大隊資料館のバッチ)を記念に差し上げます。

おー・・・。(拍手が起きた)

—— あぁ、これにもリメンバー・パールハーバーと書いてありますね。ところでこの リメンバーとい う単語はアメリカの歴史に何度か出てきますね。例えば対スペイン戦争 の時の リメンバー・メイ ンとか戦争に関して使われたと思うの ですが?

R そうですね。 リメンバー・ザ・アラモとか・・・。リメンバーには、単に『記憶する』という意 味ばかりで はなく、復讐という意味が隠されています。

—— 復讐?・・・ですか。なるほどね。それでアメリカが日本に対してその単語を使った理由が分かったような気 がします。

R  メイン号 は当時のアメリカが建造した最大の戦艦で、海軍の象徴でした。一八九八年にハバナ港 に入港したこの船が爆発し、スペインに攻撃されたとして戦争になりました。 リメンバー・ザ・ アラモもそうです。西部劇のアラモの砦や デビー・クロケット で有名です。

—— すると リメンバー・パールハーバーも同じ流れに・・・?

R そうです。我々は日本に復讐をしたいという意志を、アメリカという国に知らせる必要がありま した。

S 僕は第46師団に入って、アメリカの命令でスパイの立場だったの。こんなに年が過ぎて、はじ めて言うの。僕は辛い立場でしたの。

サブロウ・ニシメは皆の前で立ち上がり、60年ぶりの朴訥な日本語でこう言った。

S  やっぱりこういう風な日本人の大和魂を思っている連中の間で、このような仕事やってきた。こ れは今60年以上過ぎているから言うが、友だち、誰も知らないよ。はじめて今、話してる。

一瞬、周囲の空気が固まったかに見えた。その微妙な雰囲気の中で、私はスパイの意を問えないでいた。 同じ部隊の彼らは当時知っていたのであろうかそれともはじめて知ったのであろうか。 しかし日本に戻ってから調べてみると、ニシメの言う 46 師団は第二次世界大戦時の欺瞞用の師団で、その実体はなかったと言う。彼は憲兵の役ででもあったのであろうか?

—— ツキヤマさん、 失礼ですが、 あなた がビルマにいたとき、東京ローズの放送を聞いたことがあり ましたか? それを聞いてどう感じましたか?

T 兵役についていた間、私は東京ローズの放送について何も知りませんでした。我々のラジオは厳 密に軍の公式の機能しか含まれていませんでしたから受信周波数がまったく違っていたのです。

—— すると一般兵士がラジオを携行していたとは考えられませんから、日本軍部の思惑はまったく外 れていたことになりますね。

T そうなります。

—— ところで ツキヤマさん は『ワン プカ プカ に敬礼を』という文を『 Japanese Eyes American Heart 』に 書いていますね。

   ギニーピッグ・バタリアンは挫けない

    祖国の愛と恩恵を

     深い感謝に包み込む。

      心からの敬礼を 

      ワン プカ プカ のこの旗に。

  このギニーピッグの意味が分からないのですが。

T ああそれについて我々は、『捨て石部隊』という意味で用いました。

  (注) Guinea Pig =テンジクネズミ。モルモットと思われているが
          全く別の実験用動物。

ワン プカ プカ=プカはハワイ語で穴。0を塹壕にかけた表
          現。

○ 日本は戦争に負けて勝った。

—— そうかも知れません。

しかし考えてみると、日本の教育程度は高いのに、なぜ戦争に踏み切ったのですか?

—— 当時の日本では、外国からの放送を聞くことや新聞を見ることを禁じられていました。外国から の短波放送を聞くと、逮捕されました。ですから政府や軍部からの情報しかありませんし、「勝 った勝った」と報道されましたから、そうだと思っていました。戦争中、私は国民学校(小学 校)三年生でしたが、先生に「この戦争は百年戦争だ、お前らが天皇陛下の御為に命を捨てる時 間の余裕は充分にある。しっかり勉強しろ!」と教育されていました。

なるほどね。

—— 国民に本当のことを知られて戦争に反対されるのを恐れた日本は、負けても勝ったと放送してい たから、国民は本当のことを知りませんでした。政府を批判する人は、すべてアカ(共産主義 者)と呼ばれて検挙拘束され、拷問を受けました。

あー、困ったもんだね。

—— それに兵隊たちも負けたことは「軍事機密だから家族にも言うな」と命令され、場合によっては、 隔離収容されていました。ですから国民の誰もが、本当のことを知りませんでした。

恥ずかしいが私の親も『日本が勝った組』だった。四〜五人寄って毛布をかぶって日本のレディ オ聞いて、「なんで勝っている日本が負けた?」と言っていた。

—— 一方的な情報とは、そういうものかも知れません。

僕がユニフォーム(軍服)着ていたのに親父が引っ張られて・・・、そういうこともあったんだ。

日本ってどう書くか? 日の元だ。日の元の国のお日様がなくなったらどうなるか? 親父さん のいない家庭はあり得ない。日本のない世界の存在はあり得ないって教えられた。

—— なるほどね。日本で私たちも、同じような教育を受けていました。「天皇は現人神である。神様 の統治する神の国だから負ける訳がない」(笑)と・・・。ひどい教育ですね。でも私たち子ど もは、そんなものだと素直に受け入れていました。(爆笑)

そうか。しかし我々も覚えさせられたな。神武、綏靖、安寧、懿徳・・・。

 私は彼らが延々と続ける天皇の諡号の記憶に、ハワイにおける戦前の教育を隙間見る思いであった。

—— ブラジルでは『勝ち組と負け組』が喧嘩をして、殺人事件まで起きたそうです。

それは知らなかったね。ハワイではそれはなかった、しかしホノルルのアレワの丘に『日本が勝 った組』が毎日のように集まって、日本の軍艦が自分たちを迎えに来るのを見ようとして待って いた。

—— そうですか。日本では八月十五日に天皇が「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」と放送したので 負けたと分かった人は多かったのですが、「耐え難きを耐え、忍び難きを忍」んで戦えと解釈し た人もいました。

僕は戦後の日本の町で「お前は日系人か?」と聞かれ「そうだ」と答えると、「敵として戦った あげく負けた国にやってきて、お前は楽しいのか」と責められた。何とも答えられなかった若き 日の自分が、今も情けないよ。

 彼は寂しそうにそう言って、肩をすくめた。

しかし我々は 祖国のために戦うことができたのを誇りに思う。

R 我々は見かけこそ日本人だが、れっきとしたアメリカ人だ。忠誠心を持ち、祖国を守るという義 務を果たしただけだ。 戦後しばらくしてから、二世という単語は、我々に誇りを与えてくれる単 語となった。すなわち、彼らが、我々がアメリカの地で生まれたアメリカ人であるというこ とを

認めてくれるようになったからです。

  (D ドロシーラ・タナカ。 G ジョージ・スズキ。
     H ヒデオ トウカイリン。
R ロバート・サトウ。
    S サブロウ・ニシメ。   T テッド・ツキヤマ。

   W ウォーレン イワイ。  

 なお○印は、資料館での会合の話であったので、発言者が特定できなかったことによる)

 私が第100大隊資料館を辞する際、彼らから「いつ、本が出来る?」と尋ねられた。返事に窮したが、彼らの年齢はすでに八〇歳を超えている。

「ハワイは虹のきれいな所です。本の題に虹を使うといいよ」そう言ってくれる人もいた。

 その後テッド・ツキヤマから、あのとき言い足りなかったからとして、彼の話が載った新聞、 Hawaii Pacific Press が送られてきました。抄訳します。

 『オアフ島のノースショアにあった機関銃陣地での話です。第298歩兵隊の兵士2人が守備についており、一人はハワイ人、もう一人は二世でした。日本軍の攻撃に備え、今か今かと待つこと何週間。依然として敵は現れません。そこで、ハワイ人の兵士はずっと頭を離れなかった疑問を二世兵士にぶつけます。

「おい、もしあいつらが来たら、おまえはどっちを撃つ?あいつらか?それとも、おれか?」

 それに対し、日系兵は全二世を代弁し、憤然として答えます。

「馬鹿か、お前は。おれもお前と同じアメリカ人だぞ!」

 この逸話で重要なのは、二世の答えではなく、ハワイ人兵士の質問の方です。なぜなら、これは、真珠湾攻撃後、日系人以外の多くの人々がたとえ口には出さずとも、ずっと抱き続けていた疑問だからです。

「おまえたちは、どっちの味方なんだ? 何に向かって、誰に向かって忠誠を誓うのか? おまえたちは信頼できるアメリカ人なのか?」

第二次世界大戦中の忠実で勇敢な働きと忠誠心の記録、それが「おまえはどちらを撃つのか?」という問いに対する二世兵士たちの明確で断固とした回答であり、これが今回の私の話のテーマでもあります。

 MIS(陸軍情報部)については、対日戦争時の諜報機関ということでずっと秘密にされ、公に語られることはありませんでした。私たちは海外に送られる際に、「君たちが何者で、どこへ行って何をするか、誰にも言ってはならない。」と命令されました。しかもなぜか、二世がMISで働いていたことは、戦後長い間秘密にされました。ジョセフ・ハリントンの『ヤンキー・サムライ』の出版によって、初めて日系二世のMISにおける活躍が明らかにされたのです。

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最終更新日  2020.02.15 10:56:57
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