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邪馬台国は何処?
西暦280年から297年の間に、魏の官僚の陳寿が書いた魏志倭人伝という文献があります。この魏志倭人伝は、中国の歴史書『三国志』の中の『魏書』、さらにその一部の『東夷伝』です。ここでちょっと、状況を整理してみましょう。
まず中国です。紀元前202年から西暦8年までは前漢、184までは後漢、そして220までは魏という国でした。三国志とは、当時覇を競っていた魏・蜀・呉の三國の歴史書です。そしてこれら中国の国々では、当時の日本を『東夷・ひがしのえびす』、つまり中国から見て東の方に住む野蛮人と見ていたのです。そして日本です。当時日本では倭と言っていました。なぜ倭と言ったのでしょう。それは日本列島の原住民が中国の原住民に国の名を問われ、ワ(我)と言ったからと考えられています。それを中国人は倭という文字で表したのではないかというのです。
この倭について中国の正史にはじめて書かれたのは、後漢時代の初頭の『漢書』であり、『論衡』でした。この『漢書』において倭は、朝鮮半島の南の海のかなたにあると書いてあり、『論衡』では、倭はいまの中国の上海の南付近にあるとしていました。さらに、倭の国は現在の韓国ソウルより東南の大海の中の山島に依って国を作っているとあり、昔は100余国あったとされていました。しかしその後に書かれた魏志倭人伝には、30余国であると記されています。この魏志倭人伝に書いてある倭についてのボリュームは、文字数約2000字、現在の400字詰め原稿用紙2枚半に過ぎません。しかもその内容は、倭の約30の国名の他は、倭に住む人たちの風俗習慣などで、地誌、つまり旅行記程度のものでした。ところが驚いたことに、この魏志倭人伝を書いたと言われる陳寿は、日本に来ていないのです。実際は日本に来たことのある人の話を聞き、それをまとめたとされていますから、大雑把過ぎるところがあっても仕方がないのかも知れません。
この邪馬台国がどこにあったかという問題は、魏志倭人伝に書かれている順序になぞることから始まります。ところが文面の通りになぞっていくと、なんと邪馬台国は、沖縄近辺の海の中になってしまうのです。このこともあって、邪馬台国は沖縄にあったという説もあるのです。しかしそれでも邪馬台国が沖縄ではなく陸上にあったとすれば、それを証明する何かがなければなりません。そのことを証明するのではないかというものに、『混一彊理歴代国都之図 ( ) 』という地図が残されています。この地図は、明の建文四年(1402)、朝鮮で作成されたもので、現存最古の世界地図とされています。
この『混一彊理歴代国都之図』の下段に記されている由来によりますと、朝鮮使として明に派遣された倭の官僚が、1399年に2種類の地図を中国から持ち帰ったとされていますが、この地図は、西を上方にして描かれています。現在この地図は、京都の龍谷大学に収蔵されています。ところがなんと、この地図には、日本列島が朝鮮半島から伸びる形で、南北に長く描かれているのです。もしこの地図に従えば、邪馬台国があったとされる沖縄近海も陸地であることになり、この地図の上では、問題の一つが解決することになります。つまりこの地図を正しいものとして南に進むと、畿内方面に至ることになるからです。これが、「邪馬台国畿内説」の論拠の一つとなっています。魏志倭人伝が、この誤った方向認識で記述されているからとして、魏志倭人伝に示されている方角の記述の「南」を、「東」に修正するべきとの論もあるのです。
この魏志倭人伝については、古事記や日本書紀にも出てきます。しかしこの記述は、魏志倭人伝が編纂されてから約400年以上経ってからということになります。この長いブランクが、魏志倭人伝の解釈の、特に地名については、大きな障害になったであろうことが想像されます。その後も、南北朝時代の北畠親房、江戸時代前期の松下見林、また江戸時代中期の新井白石らが「邪馬台国大和説」を主張していました。そして彼らは皆、女王・卑弥呼が、天皇の先祖である『神功皇后』と考えていたようです。
この邪馬台国がどこにあったのか? という疑問は、多くの説もあって、現在に至るも解決を見ていません。特に主張されているのが、邪馬台国畿内説と九州説です。邪馬台国畿内説は、奈良県桜井市の三輪山の北西麓一帯にある、弥生時代末期から古墳時代前期にかけての集落遺跡のひとつの纏向遺跡を邪馬台国の都に比定する説で、国の史跡に指定されています。また邪馬台国九州説では、福岡県糸島市を中心とした北部九州広域説など複数の説がありますが、特に、佐賀県神埼郡吉野ヶ里町と神埼市にまたがる吉野ヶ里遺跡が、昭和六十一年からの発掘調査によって発見されてからは、ここが邪馬台国の都に比定する説が唱えられています。ここも国の、特別史跡に指定されています。
そしてもうひとつは、邪馬台国が九州から畿内に移ったとする説です。この東遷説は、神武東征や天孫降臨などの神話に結びつけられています。ですから邪馬台国は、九州と畿内の二ヶ所にあったという説です。私は、この説をとりたいと思っています。理由として、稲作文化がこの時代に朝鮮から九州に渡来したとされています。そして私が神武天皇を卑弥呼と想像するのは、神武天皇による各地での戦いを、卑弥呼による稲作文化の伝播と考えていることからです。神話において、神武天皇が豊国(大分県)の宇佐で1年、阿岐国(広島県)で7年、吉備国(岡山県)に8年滞在したとあるのは、まさに卑弥呼による稲作技術の指導のための期間であったのではないかと思えるからです。このように神話は、想像だけで書かれたのではなく、邪馬台国が九州から畿内に移ったというような事実が神話になった、と考えているからです。しかも九州と畿内に同じ地名、『笠置山・田原・朝倉・三輪』などが残されているのです。
そしてこの頃私は、一つ気になっていることがあります。それは、これら卑弥呼、邪馬台国の名をはじめとして、これら多くの国々の文字を、当時の中国人はどう発音していたかということです。なぜなら文字のなかったとされる当時、中国人は日本人の発音を元にして文字にしたと考えられるからです。それを今、私たちは現代の日本語で読んでいるのではないかという疑問です。どなたか教えて頂けないでしょうか。
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