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妙見山と高籏山
郡山市三穂田の妙見山や多田野の高籏山に、不思議な話があった。実は私、今から約10年ほど以前、別件の取材で、三穂田町史探会長の吉川さんのお宅にお伺いしたことがあった。その時に吉川さんが声を潜めて、こんな話をしてくれたのである。
「実は妙見山は光るのです。」
「えっ? 光る? 山が光るのですか?」
「いや、実は私はまだ見たことはないのですが、昔からの話によると、狐火のような冷たい光が、妙見山のあちこちで燃えるのだそうです。」
「それは・・・、いわゆる狐の嫁入りですか?」
「いや、そうではないようですね。それにその光はあの山ばかりではなく、そう遠くない北東にある高籏山でも、霧の濃い夜に山全体が光るのだそうです。地元の人たちは御霊光と言って気味悪がっていますがね。」
「それは、今でも光るのですか?」
「いや、この頃は聞きませんがね。」
「しかし山全体が光るということは、狐火のような点々とした光の列ではないということですね?」
「いや、そういうのもあるそうですが、山全体が光ったり、後光のように、山の後ろが光ったりするのだそうです。」
それを聞いた私の背中は、思わずゾクッとしました。
「ところで高籏山が光ると言えば、あの山では昔、金が掘られていた山だと聞いていましたが?」
「そうです、その通りです。それで妙見山からも金が出るのではないかという噂が大分ありましたが、気味悪がって、誰も掘る人はいませんでした。それにむしろ私が不思議だと思っていたのは、花火のことです。」
「花火ですか・・・。」
「そうです。実は私たちの編集した『郷土乃歴史』にも書いておきましたが、寛永十三年 ( ) に、妙見山にあった飯豊和気神社の本殿や拝殿、それに神社の宝物などを焼失する火災があったと伝えられているのですが、その後神社を再建した時にお祝いの花火を上げたのですが、それから悪い病気が流行ったというのです。」
「え〜っ、そうですか。悪い病気といえば、妙見山にある神社に、昔、二本松藩の御典医だったという人の、何か記念碑みたいなものがあると聞いていましたが?」
「ええ、ありますよ。熊田文儀という人のものです。その人は天保の頃、守山からこの辺りにかけて疱瘡が流行ったときこれを治療して、多くの村人に感謝されました。それで飯豊和気神社の境内に、お礼の意味で記念碑が建てられたのです。」
「疱瘡が・・・、ですか?」
「ええ、天然痘のことですね。それもあってか熊田文儀は、山の下にある飯豊和気神社の遥拝所である八雲神社に、石灯篭を一基納めています。ただし花火と病気の因果関係が分からないのです。ひょっとして、御霊光と関係があるのかも知れません。」
「で、その後、熊田文儀は、どうなったのですか?」
「さあ〜、それは聞いていません。ただ聞くところによりますと、昔から妙見山や高籏山は光っていたそうです。何れにしても昔から、妙見山には飯豊和気神社が、高籏山には宇奈巳呂和気神社が祀られていたと聞いています。」
吉川氏は、いかにも不思議だというような顔をして教えてくれた。
私は早速、帰りがけに妙見山に登ってみた。ローギアで登る軽四輪のエンジン音は、悲鳴にも近い唸り声を立てていた。狭い山の道幅は狭く急になり、車が交差できる程度に小さく膨らんだ部分から、もう、しばらくの距離を走っていた。
︱︱ どうもこの道の具合では先が心配だ。次に広い所が見つかったら、そこに車を置いて歩いて登ってみよう。
そう胸の中で言いながら登っては来たのであるが、なかなか、その広い所が見つからず、またバックするには遠くなりすぎ、心ならずも前進していた。大雨が降った時にでも土砂が流れたのであろう、道が斜めに深くえぐられていた。そんな所を、すでに何回も通っていた。
︱︱ それにしても、小さい車で来てよかったな。
そう思った。
すると急に明るい所へ出た。道は相変わらず狭かったが、そこは両側が急峻な崖になっている尾根の道であった。そのために光が差し込んでいたのである。ようやく道幅の広い所に辿りついたのは、それからしばらくしてからであった。しかもそこは、広場のような行き止まりの場所であった。ハンドルの切り替えをしなくても充分に方向転換が可能なことを確認すると、私は車を降りた。その広場の先へ歩いて行くと、丸太で作られた、それでいて大分古くなった鳥居が見えてきた。
︱︱ これが飯豊和気神社の鳥居だな。
そう思って先を見ると、今までより急な坂であった。
︱︱ どっちにしても、これ以上車で登るのは無理だ。
そう思いながら私は鳥居をくぐった。しかしその先もまた、急な山道であった。息を切らしながら登る道は、意外に遠かった。つづら折れのその道は、今度かと思えばまた戻るかのように曲がり、今度は? と思えば、また曲がって登っていた。途中で息を荒げては休み、歌を歌って元気をつけて歩いた。
ようやく神社の建物が見えてきた。しかしその神社にたどりつくには、さらに十段くらいの石段を登らなければならなかった。
︱︱ これだけ高い山にこれほどの石段を作るとなれば、材料を運び上げるのだけでも大変だったろうな。
自分一人の身体を持ち上げるのにさえ容易ではなかった私は、昔の人々の信仰心の強さに驚きを感じていた。ここが目標の飯豊和気神社であった。私はようやくの思いで最後の石段を登ると、境内に足を踏み入れた。そして周囲を見回した。手水鉢らしきものが左側にあった。しかし聞いて来た『熊田文儀の顕彰碑』と思われるものは、なかった。
︱︱ あるはずだが ︰︰ 。
そう思って探してみたが、神社の左手奥に小さな祠が二つあるだけであった。手水鉢ある所まで戻ってよくよく見てみると、気のせいか手水鉢にしては掘りが浅く、荒く思えた。
︱︱ これは手水鉢ではなく顕彰碑を取り外した痕ではないのかな。『熊田文儀の顕彰碑』は、ここにあったということかな?
釈然としないままでそれだけを確認すると私は車に戻って山を下り、吉川さんに聞いていた麓の飯豊和気神社の遙拝所になっている八雲神社に行ってみた。宮司が丁寧に対応してくれた。その話によると、『熊田文儀の顕彰碑』は、あの石段の登り口の左側にある筈だということ、それから郡山市堂前の如宝寺にある『熊田文儀の墓』が参考になる、と教えてくれた。
私は後日、如宝寺に行ってみた。もう一度あの妙見山に登る気力が失われていたからでもあった。
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